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マイ・ストーリー⑤

2019-12-21 13:06:00 | お話
マイ・ストーリー⑤女王陛下

ホワイトハウスのあちこちを歩きまわりながらよく考えたものだ。

新しい我が家がちょっと度が過ぎるくらい、この上もなく広くて壮大だ。

だがそんな4月のこと、私はイギリスを訪問し、女王陛下にお目にかかることになる。

それはバラクと私が選挙後初めて2人で臨んだ海外訪問だった。

バラクはG20サミット出席のため、私たちは大統領専用機でロンドンに向かった。

世界の経済大国の首脳が一堂に会するサミットは、当時まさに重大な局面を迎えていた。

アメリカで発生した経済危機の甚大な影響が世界中に波及し、

世界の金融市場を混乱に陥れていたからだ。

同時に、このサミットはバラクが大統領として臨む最初の国際舞台でもあった。

就任後の数ヶ月間ほぼ常にそうだったように、彼に求められる主な仕事は混乱した状況を整理することだ。

今回でいえば、各国首脳の不満を和らげることである。

世界のリーダーたちは、アメリカ政府が無謀な銀行を規制する重要な機会を逸したことで現在のこの惨状が引き起こされたのだ、と非難の目を向けていた。

私が数日間海外に出る間、サーシャとマリアは母に託すことにした。

娘たちが学校で日々順調に過ごせていることに徐々に安心していった部分もある。

ただ、「早起きすること」や「野菜を残さないこと」といった我が家の厳しいルールを、母がすぐさま大目に見てしまうことは確実だった。

母は孫2人の「おばあちゃん」であることを満喫していた。

特に、自由で軽やかなそのライフスタイルに合わせて、私の決めた厳格なルールを取り払ってしまおうとしていた。

私は兄が子供だった頃よりも、母は目に見えて自由に生きていた。

今回のG20サミットはイギリスのゴードン・ブラウン首相が議長だった。

日程にはロンドン市内の会議場での丸一日に渡経済介護と並んで、

各国首脳が公式行事でロンドンを訪れた際の慣例の行事も含まれていた。

全員が女王陛下から挨拶を賜るためにバッキンガム宮殿に招待されたのだ。

アメリカとイギリス両国の親密な関係に加えて、

おそらくは私たち夫婦の初訪英だったこともあってだろう、

バラクと私は他の首脳より少し早めに宮殿に招待されていた。

全体のレセプションに先立って、女王陛下にじきじきに謁見(えっけん)するためだ。

いうまでもなく、私はそれまで王族の方にお会いした経験などなかった。

女王陛下に挨拶するときは膝を曲げてお辞儀をするか、

あるいは手をとって握手をしてもいいという話は聞いている。

それに、呼びかけるときは、「陛下(Your Majesty)」とお呼びすること。

夫であるエディンバラ公フィリップ王配(おうはい)には対しては

「殿下(Your Royal Highness)」。

それ以外のことは何の見当もつかないまま、
私たちを乗せた車列は宮殿に向かっていった。

沿道のフェンス沿いに詰めかけた人波を通り過ぎ、衛兵とラッパ手の前を通って、

バッキンガム宮殿の背の高い鉄製の門をくぐる。

その先の中庭では、王室内務主事が建物の外まで出て私たち夫婦を出迎えてくれた。

このとき実感したのだが、バッキンガム宮殿は、とにかく広大だということだ。

言葉で話とてもいい表せない広大さといっていい。

775室もの部屋を持ち、面積はホワイトハウスのおよそ15倍におよぶ。

バラクと私はありがたいことに、その後何年かに何度か招待客としてこの場所を訪れる機会を得た。

何度目かの訪問では、豪華な寝室を備えた宮殿内のスイートルームに宿泊し、

そろいの制服を身に着けた宮廷侍従やや女官の人たちに世話をしてもらった。

舞踏会広間での公式晩餐会では金のナイフやフォークで食事をした。

宮殿内の見学ツアーでは、ガイドに、「こちらはブルー・ドローウイング・ルームです」

と指し示された先を見たら、

私たちのブルールームの5倍はあろうかという広大なホールが広がっていたりもした。

私と母と娘たちとで、女王陛下付きの主任案内係に連れられて宮殿内のローズガーデンを見学したこともある。

約4000平方メートルもの広大な敷地には、何千本もの花々が完璧に美しく咲き乱れていた。

それを目の当たりにすると、私たちが誇らしく所有する大統領執務室外のささやかな薔薇の茂も、ほんの少しだけ色あせてしまうのだった。

バッキンガム宮殿は息をのむほど素晴らしく、そして同時にまったく理解の追いつかない場所だった。

初の訪問となったこの日、私たち夫婦は女王陛下の私用の居室に招かれた。

案内された先の居間では、女王陛下とフィリップ殿下が立って私たちを出迎えてくださった。

女王エリザベス2世は当時82歳。

微笑を浮かべた小柄で優美な方だった。

白髪を額から外巻きにカールさせた風格あるヘアスタイル。

淡いピンクのワンピースに真珠のアクセサリー。

黒のハンドバックをしとやかに片腕にかけている。

私たちは握手を交わし、写真撮影に臨んだ。

女王陛下は私たち夫婦に時差ぼけの具合を丁寧に尋ね、それから座るように勧めてくださった。

その後どんな言葉を交わしたかは、はっきり覚えていない。

たしか経済のことやイギリス国内の情勢、それにバラックが行っている数多くの会談の話だったと思う。


公式に設けられた会合の席には、常にある種のぎこちなさがつきまとうものだ。

けれど、私の経験からいえば、それは自分自身が意識して乗り越えるしかない。

女王陛下と同席している今もそうだ。

自分の頭で考えて行動しなくては。

その場の壮麗さや、今まさに万民の憧れの的である方と対面しているという痺れるような感覚に圧倒されていてはダメだ。

私は女王陛下の顔を過去に何度も見てきた。

歴史の本で、テレビで、硬貨の表面で。

だが今、目の前には本物の陛下がいる。

私を見つめて、熱心に質問してくださる。

変化は温かくて、とてもお優しかった。

私は自分も同じようにしようと努めた。

女王は生ける象徴であり、そのことに熟達されてもいる。

けれど同時に、私たちと同じ人間なのだ。

私はすぐに女王陛下のことが好きになった。

その日の午後、バラクと私は宮殿で開かれたレセプションに出席し、

G20の首脳陣やその配偶者たちとカナッペをつまみながら会場を歩き回っていた。

私はドイツのアンゲラ・メルケル首相やフランスのニコラ・サルコジ大統領とおしゃべりをし、

サウジアラビア国王や、アルゼンチンの大統領、日本の首相とも会った。

誰がどこの国の首脳で、その人の配偶者はどんな人かを覚えるのに必死だった。

何かまずいこと言ってしまわないようにとにかく口を慎む。

でも全体としては、場の雰囲気はとても格式高く、それでいて友好的だった。

一国の元首であっても、自分の子供の話に興じたりイギリスの気候をネタにジョークを言ったりできるのだと思い出させてくれる。

そんなひとときだった。

パーティーも終わりに近づいたころ、ふと横を向いた拍子に、私のちょうど肘のあたりに女王陛下の顔が見えた。

人でにぎわう会場の中、私たちはふいに二人っきりになったのだ。

陛下は純白の手袋をはめていた。

数時間前に初めてお会いしたときと変わらず、しゃきっとした様子だ。

陛下は私ににっこりとほほえみかけた。

「あなた、背が高いのね」

首をかしげながら、そう言われた。

「はい」私はちょっと笑いながら答えた。

「ヒールを履いているので、いつもより数センチ高めですけど…ええ、背は高いんです」

陛下は私の履いているジミーチュウの黒いハイヒールに視線を落とした。

そうして、首を振った。

「そういった靴は足がつらいでしょう?」

そう言いながら、少しうんざりした目で自分の足元の黒いパンプスを見やる。

私は、実は足が痛くてと打ち明けた。

すると陛下も自分もそうなのだと打ち明けてくれる。

私たちは顔を見合わせて、

「いったいいつまで世界のリーダーのみなさんと、こうして立っていなきゃならないのかしら?」

という表情を交わし合った。

そうして、陛下はとてもチャーミングな声で笑ったのだ。

私はそのとき、目の前にいる女性がときにダイヤモンドの王冠を戴く方だということも、

自分が大統領専用機でロンドンまでやってきたことも、すっかり忘れ去っていた。

私たちは疲れ切って、きつい靴に苦しんでいる、ただの2人の女性だった。

だから、初対面の人と心が通じあったと感じたときにいつも本能的にそうしているように、

自分の感情をそのまま表に出したのだ。

私は愛情をこめて、女王の背中に片方に手を回した。

このときは知る由もなかった。

自分がとんでもなく無礼とされる行為を働いてしまったということを。

私はイギリス女王の体に手を触れてしまったのだ。

すぐにあとになって、それがご法度とされる行為だと知った。

このレセプションでの1幕はカメラに収められ、

その後何日も世界中のメディアで繰り返し報じられることになる。

「儀礼違反!」

「ミシェル・オバマ、無礼にも女王にハグ!」

といった見出しとともに。

それは選挙戦の間に世間に広まった、

「彼女はがさつでファーストレディにふさわしい品位さに欠ける」

という決めつけの一端を再び呼び起こすものだった。

それに、自分のせいでバラクのせっかくの外交努力が霞んでしまうのではないかと不安でもあった。

だが、私は批判に心乱されないように努めた。

確かにファッキンガム宮殿での私の行為は不適切だったかもしれない。

けれど、少なくともそれは人間らしい行動だった。

それに、あえていうならば、きっと女王陛下も気にしていなかったと思う。

なぜなら私の手を触れたとき、陛下は私を引き寄せて、

手袋をはめた手をそっと腰に回してくれたからだ。


(つづく)

(「マイ・ストーリー」(集英社)ミッシェル・オバマ著 長尾莉紗 柴田さとみ訳)

マイ・ストーリー④

2019-12-20 12:28:00 | お話
マイ・ストーリー④

その日、ヴァレリーは私との面談に20分を予定していたのだが、

結局一時間半に及んだ。

やせ型で肌の色の薄いアフリカ系アメリカ人の彼女は、

オーダーメイドのスーツを美しく着こなし、とても落ち着いた雰囲気で穏やかな話し方をする人だった。

茶色の瞳でこちらをじっと見つめる彼女は、市の機能について驚くほどよく理解していた。

自分の仕事を楽しんでいる反面、官僚的な市政のストレスを言い繕おうとはしなかった。

彼女といるとすぐにリラックスできた。

数年後にヴァレリーから聞いたところによると、この日私は通常の面接プロセスに逆らって彼女を驚かせたのだという。

というのも、私は自分自身について参考になるであろう基本的情報を提供したが、

同時にヴァレリーことも質問攻めにし、

彼女が仕事について感じていることをすべてを、

市長がどれほど部下の意見を聞こうとするかに至るまでを知りたがったからだ。

彼女が仕事に対する私の適性を見ていたのと同様に、

私もその仕事が自分に適しているかを見極めようとしていたのだ。

今振り返るとそのときの私は、自分と経歴が似ていて自分よりも数年先のキャリアを歩む女性と話す貴重な機会を最大限利用しようとしていただけだ。

ヴァレリーは冷静かつ大胆で、しかも賢く、それまであまり出会ったことないタイプだった。

彼女からは学べることは多く、そばにさせてもらうべき人物だとすぐにわかった。

私が部屋を出る前にヴァレリーは私に面接に合格したことを告げ、私の準備が整い次第デイリー市長のアシスタントとして一緒に働こうと言ってくれた。

これでも法務に就かなくていい。

年収は現在シドリー&オースティン法律事務所で稼いでいる額の、およそ半分の6万ドル。

ゆっくり時間を取って、本当にこの転職をする覚悟はできているかどうかよく考えて、とヴァレリーは言った。

思い切ったキャリアチェンジについて考えるのも実行するのも、私自身だ。

私はそれまで市役所に敬意を払ったことがなかった。

サウス・サイドで育った黒人として、政治をほとんど信用していなかった。

政治は伝統的に私たち黒人の敵で、

私たちを孤立させ、教育と雇用の機会を奪い、
低い収入で働かせる手段として使われてきたからだ。

祖父母はジム・クロウ法の恐怖と住宅差別による屈辱を経験したため、

ほぼあらゆる権力に対して不信感を抱いていた
(覚えているかもしれないが、すでに述べたとおり祖父の「サウス・サイド」は歯科医でさえ自分を陥れようとしていると思っていた)。

人生のほとんどを市職員として働いた父が民主党の選挙区幹事になったのは、仕事での昇進を少しでも考慮してもらうためだった。

父は選挙区幹事の仕事を通して人と交流できることは楽しんでいたが、

市役所の縁故主義にはいつもうんざりしていた。

それなのに気がつけば私は市役所で働こうとしていた。

収入の減少には怯んだものの、理屈抜きに興味を惹かれたのだ。

心の奥では、それまでの人生計画とは全く違う未来に向かってみなさいと静かに道が示されていた。

飛び込む覚悟はほぼできていたが、1つだけ問題があった。

これはもう、私だけに関わることではない。

数日後にヴァレリーが確認のために電話をしてきたときに、私はまだ迷っていると伝えた。

それから、おそらく奇妙な最後の質問した。

「お願いがあるのですが」と私は言った。

「婚約者を紹介してもよろしいでしょうか?」


ここで時間を遡り、父を亡くした悲しみのもやの中で途方に暮れていた、

あの長くて暑苦しい夏が来る前に戻ろう。

バラクは父の葬儀の前後にシカゴでできるだけ私と一緒にいてくれたが、

その後ハーバードで残りの学期を終えた。

そして5月中旬に卒業すると、荷物をまとめてはバナナ色のダットサンを売り払い、ユークリッド通り7436番地の私の実家に、そして私の腕の中に戻ってきた。

私は彼を愛した。

彼から愛されているとも感じてた。

2年近くの遠距離恋愛を乗り越え、ようやく短距離恋愛を再開できる。

また一緒に週末をダラダラとベッドで過ごしたり、

新聞を読んだり、ブランチを食べに行ったりして、思ったことすべてを話した。

月曜の夜に一緒にディナーができた。

火曜日にも、水曜、木曜にもできた。

一緒に食材を買いに行ったり、テレビの前で洗濯物をたたんだりもできた。

父を亡くした悲しみから私が泣き出してしまう夜には、

そばにいるバラクが抱きしめて頭のてっぺんにキスをしてくれた。

ロースクールを無事に終えたバラクは、

曖昧な学問の世界から早く抜け出して、
もっとリアルで興味をそそられる仕事の世界に入りたがっていた。

また、人種とアイデンティティーに関するノンフィクション本のアイデアをニューヨークの出版社に見事に売り込んでもいた。

それはもう彼のように本を崇拝する人にとっては大きな夢だった。

彼は前払金をもらい、原稿完成までにおよそ1年を与えられた。

相変わらずバラクにはたくさんの選択肢があった。

ロースクールの教授が紹介状で彼を褒めちぎり、『ロー・レビュー』の編集長への選手が『ニューヨーク・タイムズ』紙の記事になった影響で、

チャンスが洪水のように押し寄せていた。

シカゴ大学は無報酬の特別研究員になれば1年間小さな部屋を提供すると持ちかけた。

1年間はそこで本を執筆し、その後はそこのロースクールで非常勤講師として教鞭を取るというオファーだった。


また、彼をフルタイムで迎え入れたいと望むシドリー&オースティン法律事務所は、7月に控える司法試験までのおよそ2カ月間、彼のために席を用意した。

一方、バラクはデイビス・マイナー・バーンヒル&ガーランド法律事務所に入ることも検討していた。

市民権問題や住宅販売の公正化などを取り扱う小規模な公益法弁護士事務所で、

在籍する弁護士たちにはかつてハロルド・ワシントンと緊密に提供した経歴があり、

それがバラクにとって大きな魅力になっていた。

チャンスはいくらでもやってくると信じ、いずれチャンスも尽きるのではないかと心配することに無駄な時間やエネルギーを費やしたりしない人は、

生来の自信将に支えられている。

バラクは与えられた機会すべてに全力で真面目に取り組んだ。

だが、私の周りの人が、ときには私自身もそうしてしまうが、

先んじて成功の階段を上ろうとしたり、

他の人の進み具合と自分と比べたりはしなかった。

時々バラクは人生という巨大で激しいレースを忘れているようにも見え、

見栄えのいい車や郊外の庭付きの家、

あるいはシカゴ都心部の高級マンションなど、

30歳過ぎの弁護士が追い求めるはずのものはまったく眼中にないように思えることがあった。

以前からそんな彼の性格はわかっていたが、

一緒に暮らし、私自身も人生はじめての大きな岐路に立つ状況で、

その価値観はいっそう貴重に思えた。

一言で言えば、バラクは他人の人が諦めるときでも信じ続ける人だった。

彼には、自分のやり方に従っていれば何事もうまくいくというシンプルでポジティブな信念があった。

このときの私は、どんな客観的な基準から見ても成功しているとみなされる現在のキャリアから抜け出す方法について、

たくさんの人と慎重で真面目な話し合いをしていた。

まだ返済すべきローンがあり、まだ家も買えてないと話すと、

相手の顔に危機感や懸念が浮かぶのを何度も目にした。

父はいつも目標をあえて控えめに設定してあらゆるリスクを避け、

そうすることで家庭の安定を保っていた。

そのことがどうしても頭に浮かんだ。

幸せについてくよくよ考えるのはお金を稼いでからよ、という母のアドバイスも常に頭にあった。

また、不安感を強めたのは、物質的などんな望みよりもはるかに深く大きな願いだった。

私はそう遠くない未来に子どもがほしいと思っていたのだ。

突然まったく新しい業界で1から働きだしてしまったら、子どもなど持てるだろうか?

そんなとき、シカゴに戻ってきたバラックのおかげで心を落ち着かせることができた。

私の不安を受け止め、抱いている負債を列挙する私の話に耳を傾け、

自分もいつか子供が持てたら嬉しいと言ってくれた。

2人ともありきたりな心地よい弁護士人生にどとまりたくないのだから、

これからどうなるか正確に予想する術すべなどないと彼は認めていた。

それでも彼が伝えようとしていたのは、私たちは貧困からはほど遠く、

未来はきっと明るく、

おそらくあまりにも輝かしくて簡単には計画できないのだと言うことだった。

とにかくやってみろと、不安をかき消して自分が幸せになれると思う道に進んでみろと言ってくれるのはバラクだけだった。

未知の世界に飛び込んでも大丈夫、そこで死ぬわけではないのだから、、

私がこの発言をしたときに、父方のロビンソン家および母方シールズ家のほぼ全員、ダンディや「サウス・サイド」の代までみんなが唖然とした。

大丈夫、とバラクは言った。

君ならできるよ。一緒に乗り越えよう。


(「マイ・ストーリー」(集英社)ミッシェル・オバマ著 長尾莉紗 柴田さとみ訳)

マイ・ストーリー③

2019-12-19 16:33:00 | お話
マイ・ストーリー③

診療予約を取ったのは私だったが、最終的に父を病院に連れて行ったのは母だった。

救急車で。

もはや両足はぶよぶよに腫れ上がり、ついに父も針の上を歩いているようだと認めた。

病院に行こうとしたときにはもう、父はまったく立ち上がれなかった。

その日私は職場にいたが、母があとからそのときの様子を教えてくれた。

たくましい救急隊に運び出されながら、父は彼にさえ冗談を言っていたという。

父はシカゴ大学の附属病院に直接搬送された。

それからのつらい数日間は、採血と脈拍の計測、手をつけることのない食事の配膳、医師の回診が繰り返された。

その間も父の体はどんどん膨れ上がっていた。

顔はパンパンで、首も太くなり声も弱々しくなっていった。

正式に診断を下されたの下された病名は、クッシング症候群(副腎皮質ホルモンの分泌過多で起こる代謝疾患)で、

持病の多発性硬化症と関係があるかもしれないし、ないかもしれないとのことだった。

いずれにせよ、救急処置を施せる段階はとっくに過ぎて、父の内分泌系はもうめちゃくちゃになっていた。

CTスキャン画像を見ると、喉の異物が巨大化しすぎてほぼ窒息状態にあることが分かった。

「どうして気づかなかったんでしょう」

父は心底困惑しているふうに医師に言った。

まるで、こんな状態になるまでいっさのの症状を感じなかったかのように。

実際には、数年とは言わずとも、数ヶ月、数週間と痛みに気づかないふりをし続けてきただけだ。

母、兄、ジャニス、私は入れ替わりで父に付き添った。

その間も医師は父に大量の投薬を続け、

父の体に取り付けられる管と機械が増えていった。

私たちはなんとか専門的な説明を理解しようと務めたが、

ほとんど意味がわからなかった。

父の枕を直し、大学バスケや外の気候についてたわいのない話をした。

もう父に話す体力は残っていないけれど、聞こえていることがわかっていたから。

うちは計画好きの一家だったが、いまやすべてが計画外だった。

ゆっくりと、父は私たちのもとを離れて見えない海の底へと沈みつづけていた。

昔の思い出を話をすると、父の目に少しだけ光が戻るのが見えた。

夏になると、ビュイックの巨大な後部座席に笑い転げる私を乗せて、

よくドライブインシアターに出かけたのを覚えている?

ボクシングのグローブをくれたことや、デュークス・ハッピー・ホリデー・リゾートのプールで遊んだことは?

ロビーのオペレッタ・ワークショップのためによく小道具を作ってたよね。

ダンディの家でディナーしたことは覚えている?

大晦日にママがエビのフライを作ってくれた事は?


ある晩見舞いに行くと、病室には父1人で、母は家に帰り、看護師は廊下のナースステーションに集まっていた。

部屋は静かだった。

その街階全体が静かだった。

3月の第1周で、冬に積もった雪が解けたばかりの町はもう二度と乾くことがないと思えるほど湿っていた。

父が入院してから10日ほど経っていた。

父はまだ55歳だったが、黄色い目をして重い腕を持ち上げられないその姿は、まるで老人のようだった。

目は覚ましていたが話すことができず、

それが体調のせいなのか、気持ちの問題だったのかは今もわからない。

私はベッド脇の椅子に座り、苦しそうに呼吸をする父を見た。

父の手に触れると、なだめるように握ってくれた。

私たちは黙ったまま見つめ合った。

話すべきことはなく、すべてすべて話してしまったようにも思えた。

残っているのは真実だけ。

終わりが近い。

父はもう回復しない。

この先の私の人生に父はいない。

父の安定感、父の安らぎ、父が毎日与えてくれる楽しみは、もうなくなってしまう。

涙が頬を伝うを感じた。

父は私をじっと見つめたまま、私の手を持ち上げてその甲に何度も何度も、何度もキスした。

ほら、泣かないで、と父なりに伝えたのだ。

父からも悲しみと切迫感を感じたが、同時にもっと深くて穏やかなメッセージが感じ取れた。

キスを通して父は、心の底から私を愛していて、こんなに成長したことを誇りに思うと伝えてくれた。

確かにもっと早く病院に来るべきだったね、どうか許してくれ、と言っていた。

そして、さよならを言った。

その夜は父が眠りにつくまでそばにいて、

凍りつく闇の暗闇の中、病院を出て母のいる家に帰ると、もう電気は消されていた。

家には私と母と、この先家族に訪れる未来だけが存在していた。

なぜなら、太陽が昇るころにはもう父はいないだろう。

私たちにすべてを与えてくれた父、フレイザー・ロビンソン三世は、その深夜に心臓発作を起こして永眠した。


ー・ー・ー・ー


誰かが死んだ後は生きるのがつらい。

何をしても痛みを伴う。

廊下を歩いても、冷蔵庫を開けても、靴下を履いたり、歯を磨いたりするだけでも。

何を食べても味がしない。

色彩も単調になる。

音楽を聴いても、記憶がよみがえってもつらい。

普段なら美しいと思えるもの、夕暮れの紫の空や子供でいっぱいの遊び場を見ても、喪失感が深まるだけ。

この悲しみはとても孤独だ。

父が死んだ次の日、私は母と兄と一緒にサウス・サイドの葬儀場に行き、

棺を選んで葬儀の段取りを決めた。

葬儀場関係者が「ご手配」と呼ぶものだ。

そこでのことはあまり覚えていないけど、私たちはただ呆然とし、それぞれの悲しみの中に閉じこもっていた。

しかしそんな時だと言うのに、遺体を納める棺の購入という忌まわしい手続きについて、

兄と私は大人になってからはじめての兄妹喧嘩をした。

喧嘩の理由はこうだ。

私はその場にある最も豪華で最も高価なもの、取っ手やクッションがたくさんついた棺を買いたかった。

理論的な証拠があったわけではない。

他にできることが何もなかったので、せめてそのぐらいはしたかったのだ。

現実主義になるよう育てられた私にとって、数日後の葬儀で親切な参列者から山ほど贈られるありきたりなお悔やみの言葉など重要ではなかった。

父はここよりも素敵な場所に行ったのだとか、

今ごろは天使に囲まれて座っているなどと言われても、心が安らぐわけでもない。

だからこそ、せめて父を豪華な棺桶に入れてあげたいと思った。

それに対して兄は、父ならもっとシンプルな棺を、控えめで実用的で無駄でもないものを好むだろうと言った。

そのほうが父の性格に合っている。

それ以外は派手に派手すぎるというわけだ。

初めては静かな口論だったが、たちまち大喧嘩になった。

葬儀担当者は気を遣って聞こえないふりをし、

母は悲しみの霧の中から無表情な目でその様子を見ていた。

私たちは論点とは関係のないことまで怒鳴り合った。

結局どちらも棺へのこだわりなどそれほどなかったのだ。

最終的にはお互いに妥協して、豪華すぎず質素すぎない棺を選び、

二度とこの件については蒸し返さなかった。

私たちは不条理で不適切な言い合いをしたが、

誰かの死の直後は、世界のすべてが不条理で不適切に感じるものだ。

その後、母とともに実家に戻った。

3人で1階のキッチンテーブルを囲んで座ったが、

誰もが憔悴していて空気は重く、1つ空いた椅子があるのを見ると悲しみが再び押し寄せてきた。

私たちは泣き出した。

長い時間そこに座ったまま泣きじゃくり、

やがて疲れて涙も枯れ果てた頃、

その日ほとんど話していなかった母がついに口を開いた。

「なんて ざまなの」

と、悲しげに言った。

それでも、その言い方にはわずかに軽い調子が含まれていた。

家族そろってばかばかしいほど情けない状態にあることを指摘したのだ。

もはや誰が誰だかわからないくらい目を腫らし、

鼻水を垂らして、自宅のキッチンで傷ついた心と奇妙な無力感を抱えている。

私たちは誰だっけ?

わかっているでしょはは?

パパが教えてくれたでしょ?

母はそっけない一言で、私たちを心から呼び戻したのだ。

母にしかできないことだ。

母が私を見て、私が兄を見ると、

とたんになんだかおかしくなってきた。

いつもなら、最初の笑い声は、今空いている席から聞こえてくるはずだった。

それでも私たちはクスクスと笑い出し、

ついには思いっきり大笑いをした。

奇妙な光景に思えるだろうが、

泣いているときよりずっと気分がよかった。

きっと父もこっちの方が好きだろうと思ったので、笑うことにした。


(「マイ・ストーリー」(集英社)ミッシェル・オバマ著 長尾莉紗 柴田さとみ訳)

母の教育②(マイ・ストーリー②)

2019-12-18 19:25:00 | お話
母の教育②(マイ・ストーリー②)

学校での出来事についてはすべて母に話した。

休みに私たち友達同士の話から情報を得る母に、

私は午後に帰宅するなりカバンを床に放ってお菓子のもとへ急ぎながら続きを知らせた。

そういえば、私と兄が学校にいる間に母が何をしていたのかをはっきりとは知らない。

子どもは自己中心な生き物なので、1度も訊かなかった。

仕事をせず昔ながらの専業主婦でいることに対して母がどう思っていたのかわからない。

わかっていたのは、家に帰ればいつも冷蔵庫には私の分だけではなく友達の分まで食べ物があったことくらいだ。

クラスで遠足に行くとなれば、母はほぼいつも付き添い係に立候補し、

おしゃれなワンピースを着て濃い色の口紅を塗り、

コミュニティ・カレッジや動物園までバスに乗って一緒に向かった。

家族での生活には予算の制約があったが、それについて話し合うことはあまりなかった。

母はいつもうまくやりくりしていた。

ネイルと髪染めは自分でやり(いちど思いがけず緑の髪になっていた)、

新しい服を手に入れるのは誕生日プレゼントに父からもらうときだけだった。

その後も金持ちになる事はなかったが、母は何をするにも器用だった。

私が幼い頃には、古い靴下から魔法のようにマペットそっくりの指人形を作り上げた。

かぎ針編みのドイリーからはテーブルクロスを作った。

服もたくさん作ってくれたが、中学生になると私からもうやめてと言った。

前ポケットにグロリア・ヴァンダービルトの白鳥の形をしたロゴマークがついたジーンズを穿くことがステータスのすべてだと感じるようになったからだ。


また、母はしょっちゅう居間の模様替えをしていた。

ソファーの布カバーを替え、壁にかけた額入りの写真や絵もよく取り替えていた。

あったかくなると儀式のように春の大掃除に取り掛かった。

家具に掃除機をかけ、カーテンを洗濯し、

さらに二重窓はすべて取り外してクリーナーでガラスを磨いて、窓枠を拭いてから、

狭くて混み合った私たちの住まいに春の風を入れるために網戸をつけて再びはめ込んだ。

それから、特にロビーとテリーが年老いてあまり動けなくなってからは1階もきれいに掃除した。

私は今でも松の匂いのする液体クリーナーの香りをかぐたびに清々しい気分になるが、それは母のおかげだ。


クリスマスシーズンの母はとりわけクリエイティブだった。

ある年には、赤レンガ柄が印刷された段ボールを箱型の金属製ヒーターにかぶせることを思いつき、

段ボールを片足からホッチキスでつなぎ合わせて天井まで届く煙突や炉だなと炉床付きの暖炉をつくった。

一家の美術担当である父には極薄のライスペーパーにオレンジ色の炎を描かせ、

その後ろで電球を点けるとなかなか本物の火らしくなった。

大晦日には決まって特別な籠入りのオードブルを買ったものだが、

そこにはブロックチーズ、缶入りの牡蠣の燻製、様々な種類のサラミなどが入っていた。

その日は父の妹のフランチェスカを招いてボードゲームをした。

夕食にはピザを注文し、母が用意してくれるソーセージパンやエビのフライ、リッツクラッカーの上にチーズクリームを塗って焼いたカナッペなどもつまみながら優雅な夜を過ごした。

年明けが近づくと小さなグラスでシャンパンを飲んだ。

今になって考えると、母の教育精神は素晴らしく、私にはほとんど真似できないものだ。

禅の精神のように物事に動じず、バランス感覚が優れていた。

友達の中には、母親が子供に構いすぎて我が子の喜びも悲しみも自分のことのように思ってしまうケースもあれば、

両親とも自分の問題に手一杯で、あまり構ってもらえない子供もたくさんいた。

その点、うちの母はいつも落ち着いていた。

急性に判断を下すこともなければ、子供にあれこれ干渉することもなかった。

私たち子供の心の状態を観察し、

いずれ訪れる様々な苦痛や成功について慈愛あふれる教えを説いた。

私たち子供にとってうまくいかないことがあっても、少ししか同情しなかった。

私たちが何か大きなことを成し遂げれば、自分も嬉しいのだとわからせる範囲で褒め、

決して褒められること自体が目的にならないように節度を保った。

母がアドバイスをくれるとき、それは現実的で実利的なことが多かった。

「担任の先生を好きにならなくてもかまわないけどね」

と、家に帰って不満を吐き出す私にある日の母は言った。

「誰にでも自分なりの考えがあるはずで、それはあなたにも必要なものよ。

そのことに目を向けて、他は気にしないようにしなさい」

母は兄と私にいつでも愛情注いでくれたが、過剰に世話を焼くことはなかった。

目的は私たちを外の世界に送り出すことだった。

「私は赤ちゃんを育てているんじゃないの。

大人を成長させているの」

と母はよく言っていた。

母も父もルールというよりガイドラインを与えてくれた。

だからこそ、ティーンエイジャーのときも門限はなかった。

その代わり、

「家には何時に帰ってくるべきだと思う?」

と訊き、私たち子供は自分で定めたその時間を守るものと信頼してくれた。

兄によると、8年生のある日、好きな女の子から含みのある誘いを受けたという。

それは彼女の家に来ないかというものだったが、両親がいないから2人きりになれると強調してきたらしい。

兄には行くべきかどうか一人でさんざん悩んだ。

そのチャンスにはそそられたが、父と母ならこんなこそこそとした背徳的な行為を許さないだろうとわかっていた。

そこで兄は母に半分だけ事実を伝えることにした。

女の子と会う予定だけれど、場所は公園だと話した。

しかし結局、嘘をついた罪悪感、そもそもそんな嘘を考え出した罪悪感にすら耐えられなくなり、

兄はついに家で2人きりでのデートだと母に打ち明けた。

カンカンに怒った母に行くのを禁じられると予想し、

おそらくそれを期待しての告白だった。

でも母は止めなかった。

当然だ。

母はそんなやり方をする人ではなかった。

母は兄の話に耳を傾けたが、現場の迷いから解放してやることはしなかった。

軽い調子で肩をすくめて、再び自分一人で悩ませることにした。

「一番いいと思うやり方で、どうにかしなさい」

とだけ言って、皿洗いだったが山積みの洗濯物をたたむ作業だったかに戻った。

これもまた、わが子を外の世界に送り出すための小さな一押しだった。

きっと心の底では兄が正しい選択をするとわかっていたのだろう。

今考えると、母の行動の裏にはすべて、

自分が子供たちを大人に育てあげたいのだという口には出さない自信があった。

私たちは自分で自分の決定を下した。

私たちの人生は私たちのもので、母のものではなく、

この先もずっと変わらないのだから。


(「マイ・ストーリー」(集英社)ミッシェル・オバマ著 長尾莉紗 柴田さとみ訳)

母の教育①(マイ・ストーリー①)

2019-12-17 23:22:00 | お話
母の教育①(マイ・ストーリー①)


学校の昼休みは毎日1時間だった。

母は働いておらず家もずっとすぐ近くだったため、

たいてい私は4、5人の女友達を連れてずっとおしゃべりをしながら家に戻り、

みんなでキッチンの床に座り込んでジャックス(コマとボールを使う子供のおもちゃ)で遊んだり、

お昼の連続ドラマ『オール・マイ・チルドレン』を観たりしながら、母が出してくれるサンドイッチを食べた。

私はその後の人生でも、こうして女友達と元気で仲のいいグループを作って行動し、

女同士で知恵を分かち合う関係に癒しを求めつづけることになる。

このときのランチ仲間たちとは、午前中に学校であったこと、先生に対する不満、

意味がないと思えるような宿題などについて延々と話し合った。

そうやって委員会のようにグループの総意をまとめた。

みんなジャクソン・ファイブに憧れ、オズモンドは微妙だと思っていた。

ウォーターゲート事件が起こっても、まだ私たちはよくわからなかった。

ワシントンDCでおじさんたちがマイクに向かって何かしゃべっている、というくらいの理解だった。

私たちにとってのワシントンは、白い建物と白人であふれる遠い街だった。


一方、母は喜んで私たちにランチを出してくれた。

そのおかげで母も私たちの世界を知ることができたからだ。

私が友達と一緒にランチを食べながら噂話をする間、

母はよく近くで静かに何かしら家事をしていたが、

話の内容を全部聞いていることを特に隠そうとはしなかった。

そもそも、80平方メートルほどの空間で顔を突き合わせて暮らす私たち家族4人の間に、プライバシーなどないも同然だ。

それで困るのも、ほんのたまにだった。

たとえばにわかに女の子に興味を持ちはじめた兄は、電話がかかってくるとトイレにこもって話すようになった。

そんなとき、螺旋状にカールした電話コードは、キッチンの壁にかけられた本体から廊下を渡ってトイレへと限界まで引き伸ばされていた。


シカゴにある学校のうち、ブリン・マーは、よい学校とそうではない学校の中間といったところだった。

1970年代もサウス・ショア地域における人種と経済力による棲み分けは続き、

ブリン・マーの児童と生徒には黒人と貧しい子の割合が、年々増えていった。

一時期は強制的に偏りを解消するためにバスで遠くの学校に子供たちを通わせる取り組みが、市全体で行われていたが、

ブリン・マーに子供を通わせる親たちは、

そんなことより学校自体の改善に資金を充てるべきだとしてバス通学制度の導入反対を押し通した。

子どもの私としては、学校が老朽化しようが白人の子がほとんどいなくなろうが、どうでもかった。

ブリン・マーは幼稚園から8年生までを教える一貫校だったため、

上の学年になるころには、すべての電気のスイッチ、すべての黒板、廊下にあるすべてのひび割れの場所を知っていた。

先生も生徒もほとんどが顔見知りだった。

私にとってブリン・マーはもはや家のようなものだった。

もうすぐ7年生になる頃、アフリカ系アメリカ人に人気の週刊新聞『シカゴ・ディフェンダー』に、

ブリン・マーはかつて市で有数の優れた公立学校だったが、

数年で「ゲットー精神」が支配する「荒廃したスラム」になり下がった、という辛辣な意見記事が載った。

校長のラビィッゾ先生はすぐに編集部宛に反論の手紙を送り、

生徒たちやその親とともに作り上げている彼の学校環境に問題はないとし、

記事は「ひどいデタラメで、挫折感と危機感のみを煽ろうと意図しているようだ」とした。

ラビィッゾ先生はふくよかな体型の明るい人で、てっぺんが禿げた頭の両脇にはくるくるの毛が膨らんでいて、

たいていは校舎の正面入り口近くの校長室にいた。

手紙の内容を見れば、立ち向かうべきものが何かを彼がはっきり理解していたとわかる。

挫折感はやがて現実的な影響を生む。

その感情によって脆くなった心は自信を失い、

さらにそれを徐々に恐怖が蝕んでいく。

校長が手紙に書いた「挫折感」はすでに私たちの地域に充満しており、

高い収入を得られない親や、今の生活からずっと抜け出せないのではないかと考え始める子供たち、

豊かな隣人が郊外に引っ越したり子供をカトリックの学校に転校させたりするのを横目で見るだけの一家がみんな抱えるものだった。

サウス・ショアにはいつも不動産業者が獲物を探してうろつき、

手遅れになる前に家を売って

「まだ可能なうちにここを脱出する」手助けをしますよとささやきかけた。

避けられない挫折はすぐそこまで来ているどころか、あなたはすでに半分足を踏み入れている。

今すぐ逃げなければ、ここで街の荒廃にのみ込まれるしかないのだというわけだ。

彼らはみなが恐れる言葉、「ゲットー」を使い、それを火についたマッチのように落としていった。

だが、母はそんな言葉を全く信じていなかった。

そんな時はすでに10年以上サウス・ショアに住んでいて、結局その後も40年近く住み続けることになる母は脅しになど揺らがず、

同時に、非現実的な理想論にも免疫があった。

母はぶれることのないリアリストで、
自分ができる範囲で物事をこなしていた。

母はまたブリン・マーのPTA会員としてかなり積極的に活動していた。

教室に設備を導入するための資金集めに尽力し、

先生たちを呼んで夕食会を開き、成績のいい生徒のための多学年クラス設置を求め働きかけた。

特別クラスの設置はもともとラヴィッゾ先生のアイディアだった。

かつてラヴィッゾ先生は教育学の博士号を取得するために夜間学校に通い、

そこで年齢よりも能力に基づいて子供を教育するあたら新たなやり方を学んだ。

つまり、賢い子供たちを集めれば速いペースで学習させられるというわけだ。

その教育は議論を呼び、あらゆる「洗ギフテッド教育」が本質的にはそうであるように、

民主的でないと批判を受けた。

それでもこの傾向は全国に広まり、

私もブリン・マーでの最後の3年間はその恩恵を受けた。

20人ほどの様々な学年の生徒と一緒に、他とは独立した教室で学び、休み時間や給食の時間、

音楽や体育の授業も独自のカリキュラムで動いた。

特別な学習機会も与えられ、毎週コミュニティ・カレッジに行っては作文の上級クラスに参加したり、生物学実験室でラットを解剖したりした。

普段の授業では自立型の課題をたくさんこなし、

それぞれ目標を決めて、自分にとって最適なペースで取り組んだ。

教育熱心な担当もあてがわれた。

一人目のマルティネス先生も二人目のベネット先生も、優しくユーモアのあるアフリカ系アメリカ人の男性で、

生徒が伝えようとしていることに真剣に耳を傾けてくれた。

学校は自分たちの教育に力を入れてくれていることは明らかで、

そのおかげでみんなもっと頑張ろうという気持ちになり、自信もついたのだろう。

自立型の学習環境は私の競争心に火を点けた。

授業を必死に聞き、割り算の筆算から初級代数学、

1段落だけの作文から、研究レポートの提出に至るまで、

クラス内で自分がどの位置にいるのか密かにチェックした。

私にとってそれはゲームのようなものだった。

そしてどんなゲームでもほとんどの子供がそうであるように、

勝つことが何よりも嬉しかった。


(「マイ・ストーリー」(集英社)ミッシェル・オバマ(オバマ元大統領の妻)著 長尾莉紗 柴田さとみ訳)