花水木の独り言

庭の大きなハナミズキの、白い蝶のような花びらや、真紅の葉に気持ちを託して・・徒然なるままにキーを打ちました。

古代カルタゴとローマ展

2009-10-18 | 美術館
                    【古代カルタゴとローマ展 入場券】

カルタゴとは紀元前 あの古代ローマ帝国と、地中海の覇権を争って3度までも戦い、第二次ポエニ戦争では名将ハンニバルが勇名をはせることになりましたが、その戦いを読み進む時もどうかローマに必勝をと念じたものです。そして第三次ポエニ戦争でカルタゴは完膚なきまでの敗北を喫するのです。それがBC146年でした。 

【ハンニバルが着用したとされる鎧 現存する唯一の遺物です】
        

その100年後にローマはユリウス・カエサルの時代となりカルタゴの再興に取り掛かるのです。やがてローマ帝国の穀倉地として発展し、周辺地域に殖民都市を次々と築いて行きました。現在各地に残る遺跡がローマ帝国往亊の隆盛を今に伝えています。

チュニジアは共和国で首都はチュニスですが、その北東12kmの地に考古遺跡としてカルタゴがあります。
チュニジアにはカルタゴも含めて8つの世界遺産があり、南北に長い国土の地中海寄りの4分の1くらいの所に分散しています。
古代ローマの遺跡に加え、フランス統治時代を経て、イスラム教の深い信仰とあいまって文化・気風が醸されていると言っても過言ではないでしょう。

【ドゥーズ サハラ砂漠の入り口】
        

【ドウッガ のローマ遺跡】
             
 
【ローマンモザイク 世界一と言われるローマが残した鮮烈な色彩の一枚】
        

入場券の薔薇に囲まれた女神の繊細なモザイクにも御留意を。

【エル・ジェム 円形競技場】


 
  東京駅 大丸美術館にて10/25まで開催
 
   写真はパンフレットより引用         
 
         








海のエジプト展

2009-08-13 | 美術館
                        【海のエジプト展 入場券】             

エジプト・ナイル川河口の地中海に古代エジプトの遺跡発見!のニュースは、私にはそんなに古い話ではありません。2千年もの間誰も本気で発掘しようとしなかったのでしょうか?・・・私は疑問符に包まれました。その何十年も前から古代エジプトに焦がれてアブシンベルからナイル川の西方も東方も、飛行機で バスで 大河をファルーカや乗船でカイロまで遺跡を辿った事もありました。でもアレクサンドリアには行っていないのです。

【古代アレクサンドリア】
      

今回日本で海底遺跡が公開されました。謎解きのチャンスです。
古代エジプトには3000年の歴史がありますが、プトレマイオス朝に絞ることに致しましょう。
当時エジプトをペルシャの過酷な支配から開放したのが、ギリシャ系マケドニアのアレクサンドロス大王だったのです。紀元前331年の事でした。
大王の死後将軍であったプトレマイオスが王朝を開いたのです。代々王はプトレマイオス○世。女王はクレオパトラ○世です。他の名前も少しくはありましたが・・クレオパトラ7世は紀元前69年に生まれたエジプト王朝最後の女王でした。紀元前30年に自害して王朝は滅びるのです。

海底遺跡は海に近い地域が地震や地盤沈下で徐々に沈みました。アレクサンドリアは8世紀頃には水没したと考えられます。湾岸部の水深数メートルにあり空中からも見えていて、以前から遺跡の事は知られていましたが、発掘は潜水技術が駆使できるようになった’92年頃から始められて、終わるのは数百年は掛かるだろうといわれています。

【マッピング: 発掘現場を区切り発見した遺跡の位置を書き留める】
                

アレクサンドリアと共に、カノープス、ヘラクレイオンの都市も埋没したのでした。展示場はその都市別に開示されています。

『カノープス』 は聖なる癒しの都として。
地中海を繫ぐ要所でありセラピス大神殿に沢山の巡礼者が訪れていました。「王妃の像」はギリシャ神話の愛の女神アフロディテの化身とされ衣服の襞が体に張り付いた立像でとても優美でした。

【ウエディングリングを発掘】男女が手をとり合って神が祝福しているのでしょうか・・結婚指輪を左手に嵌める習慣もエジプトが起源です。
                               
 
『ヘラクレイオン』 は神々とファラオが出会う都として。
ギリシャ神話の英雄ヘラクレスを祀った巨大な神殿が建てられていました。この神殿の入り口に「豊穣神ハビの巨像」があり、耕地を豊かにするナイルの氾濫をあらわす理想化された穏やかな表情の像は5mを越す巨大さでした。

【ハビ神 王 王妃】三巨像の建ち並ぶところには、離れなければ全体像が見渡せないほど長大で迫力が感じられました。当時ではこの迫力、畏敬の念は如何ばかりだった事でしょう。絵ハガキの寄り添った映像からはどれ程に伝える事が出来たでしょうか。
          

《アレクサンドリア》 はクレオパトラが愛した都として。
プトレオマイオス朝の王都として、大図書館や古代の「世界七不思議」で有名なファロスの灯台があり、クレオパトラ7世はアンティロドス島の小宮殿にしばしば居住したと言われています。
父のプトレマイオス12世は端正な顔立ちのスフィンクス像で。ローマの将軍カエサルを父に持つカエサリオンは、鼻の潰れた頭部だけが発見されていて数奇な運命を物語っているようです。そしてクレオパトラ7世は横顔が刻まれた小さな貨幣のみですが、今後の発掘が想像を掻き立てられることでしょう。
父・娘・子 3代が一堂に会して圧巻でした。

【プトレマイオス12世のスフインクス像】
 

【カエサリオンの頭部】
           
 
【クレオパトラ7世のコイン】
           

エジプトの民をペルシャの支配から開放したアレキサンドロスも又外部からの支配者でした。
ギリシャ系のプトレマイオス朝が滅んだ後は、ローマ及びビザンツに依る支配を経験し紀元後7世紀には、エジプトの地はアラブ人の侵攻を受けてイスラム化していったのです。


     パンフレットや朝日新聞の写真を引用 

横浜 『アトリエ・ポルト展』

2009-05-30 | 美術館
                              【作者と作品】

風薫る5月今年も「アトリエ・ポルト展」が開かれました。
登山仲間で長らく油彩をされている方ですが、人気の「横浜市民ギャラリー」を使用できておめでとうございます。
複数の展覧会が壁や間仕切りがありながらエレベーターや階段を使いながらも一堂に開催されていることに意義があり壮観でした。

作者小林氏の作品は、色使いや筆使いが多彩で華やぎがあるところが、私の何よりも魅了される処です。お人柄も大らかで絵に反映されているのだと思います。

今回も『魔女』が登場でした。
小林氏曰く『この魔女は何方にも幸せを分けてくれる優しい魔女ん婆です。見てくださった人達が幸せになれるように、幸せな人はより幸せになれるように そんな願いを込めて描きました』

【魔女ん婆a 30号】
     

   【魔女ん婆b 30号】
            
          
          
    

阿修羅 展

2009-05-03 | 美術館
                         【国宝阿修羅展 入場券】

興福寺は平城京遷都にともなって、和銅3年(710)藤原氏の氏寺として建立されました。光明皇后は天平6年(734)母橘三千代の供養のため西金堂を建てます。お堂の本尊をを取り囲んだのが、阿修羅など八部衆像と十大弟子像でした。

【八部衆立像】


凛々しい甲冑に身を包んだ八部衆の中、阿修羅のみ薄衣を纏い合掌し、正面を凝視する真摯な表情で三面六臂の異形相が、拝観する者に様々な思いを抱かせて日毎の押し寄せる波となって現れているのでしょう。

【阿修羅立像】
          

左頬からでは面長で一層の憂いを感じます。奈良時代にこのファッションとは なんと素晴らしい! 首飾り・腕飾り・薄絹にドレープの程よさ、金色の縁飾り・華奢な姿態etc・・・
これだけでは物足りなくて、文学者の表現を拝借してみましょう。

★賢く、而して情熱烈しき王よ。その最も美しき顔には、然し悩みと悲哀を浮かべて居ります。(中略)その眉間は美しく而も邪な企みを隠し、その眼は美しく、而も深い詭計を潜ませ、その唇は柔軟に、而も陰鬱なる欲望を湛えております。(木下杢太郎 医学者 詩人 評論家 「故国」)

★なんというういういしい、しかも切ない目ざしだろう。こういう目ざしをして、
なにをみつめよとわれわれに示しているのだろう。それが何かわれわれ人間の奥ふかくあるもので、その一心な目ざしに自分を集中させていると、自分のうちにおのずから故しれぬ郷愁のようなものが生まれてくる(後略) (堀辰雄 「大和路・信濃路」)

★うなじ清き少女ときたり仰ぐなり阿修羅の像の若きまなざし(岡野弘彦 歌人)

十大弟子立像はその内の六体が残るのみとなっています。いずれも遠山袈裟と裙をまとう剃髪僧形の像で、八部衆と同じく細身の体に頭部を小さく表す長身型のお姿です。
天平9年 疫病が猛威をふるい、光明皇后を支えた四人の異母兄弟がそろって死亡します。聖武天皇との間に生まれた阿倍内親王(のちの孝謙)を立太子させた頃から、光明皇后は興福寺への積極的な関与をやめ、天皇家を中心とする国家体制のいっそうの護持をはかるため、国分寺や東大寺の造営を推進し始めたのです。

地図を眺めると興福寺の東北に隣接して東大寺が聳えている事が解かります。
東大寺は何度か拝観していますが、興福寺はいまだ・・猿沢の池より仰ぎ見てスケッチをしたことがあり、南圓堂を描きながら阿修羅の話をしたことが思い出されます。充分な時間が無く漸く晩年になって しかも50何年ぶりかの東京で初対面が叶いました。
ガラスの障壁もなく前後左右遅々と進まないのも幸いで、隈なく拝顔出来て幸せの極みでした。

【興福寺】


   《青丹よし 奈良の都は咲く花の 薫うがごとく今盛りなり》



絹谷幸二 展

2009-02-05 | 美術館
                 【入場券 「情熱の色・歓喜のまなざし」】

現代洋画壇の重鎮 絹谷幸二展を横浜高島屋から入場券を戴き、待ちわびて初日に伺ってまいりました。
1998年の長野冬季オリンピックのポスターには驚嘆しましたが、この入場券を見るにつけても代表作の一つに数えられているのでしょうか。

1966年東京芸大油絵科卒。1968年大学院壁画科卒。1970年イタリア留学アフレスコ古典画法 などを研究。1993年東京芸大教授 現在に至る。

「踊り」や「祭り」「賛歌」「大自然」「仏」「愛」等と生命力に溢れた色彩豊かな大作ばかりで圧倒され尽くし、一日経ってもあの赤色の筆使いが頭を掠め尽している状態でいます。

芸大々学院で壁画を、イタリア留学でアフレスコ古典画を学ばれた事が、あぁここにと思い至るところが随所にあり、また言葉を差し挟んであるところが、今まで余り目にしない描写方法だと思ったことでした。
以前 東京芸術劇場のエントラスホールの天井画は絹谷氏の壁画とも知らずに見ていて、今も印象に残っています。

生地が奈良と聞いて、沢山描かれていることに納得しています。
「天空の華」は素晴らしい! 吉野の千本桜の上空に大仏が浮かんでいます。

【炎炎・東大寺修二会】


          【銀嶺の女神】
           

世田谷美術館

2009-01-27 | 美術館
                             【美術館の中庭】

『十二の旅:感性と経験のイギリス美術』と題した美術展の案内を目にした時、何が展開されようとしているのか見当がつきませんでした。副題に「木との対話の日々」とあり、自身山に分け入る時など大木に身を寄せてみる事があるので、見当違いな事を思っていました。

 ☆「旅」は、古来より私たちに計り知れない体験をもたらしてきました。ヨーロッパの西北に位置し、日本と同様小さな島国であるイギリスの文化にとっても「旅」は欠くことのできない要素です。本展は、19世紀以降の12人のイギリスの作家を取りあげ、「旅」が彼等にもたらしたものを考察しようとする試みです。その旅とは、単に地理的な移動のみに留まらず、はるか古代への時間の旅、また自己の記憶をさかのぼる旅でもあり、時として政治的に強制された旅であったりもします。

この12人は、時代も作風も異なりながら、日本と浅からぬかかわりをもち、また日本でよく知られた作家たちでもあります。彼等にとって、「旅」とは、そして日本とはどのような存在であったのか。また私たち日本人は、彼等によるイギリス文化をどのように受け止めるのか。本展では、日本とイギリス両国の交流を「旅」をキーワードに読み解いていきます。

そこには、普段なにげなく目にする風景への驚くべき視覚の転換が潜んでいるのではないでしょうか。なお本展は、日英修好通商条約締結150年を記念して行われるUK-Japan 2008参加企画です。

 ☆以上は主催者からの開催概要です☆

出品作家
J. M. W. ターナー(1775-1851)
ジョン・コンスタブル(1776-1873)
チャールズ・ワーグマン(1832-891)
バーナード・リーチ(1887-1979)
ヘンリー・ムーア(1898-1986)
ベン・ニコルソン(1894-1982)
デイヴィッド・ホックニー(1937-)
ボイル・ファミリー(マーク・ボイル 1934-2005、ジョーン・ボイル 1931-、セバスチャン・ボイル1962-、ジョージア・ボイル 1963-)
アンソニー・グリーン(1939- )
デイヴィッド・ナッシュ(1945- )
モナ・ハトゥム(1952- )
アンディ・ゴールズワージー(1956-)

以上12名。良く聞く名前の人よりも知らない人の方が多いのですが、特に4名に限って私の知りえた事と思いを綴ってみることに致しましょう。

【J.M.W.ターナー】
ロンドンに生まれロンドンに没します。イギリスの美術史上最も偉大な画家とされ、風景画家としてヨーロッパを旅して油彩や水彩を描き、今日水彩画家の用いるテクニックでターナーが用いなかったテクニックはないと言われるほど、水彩画の技術の発展に寄与しました。
又イギリスに留学した夏目漱石を魅了した話は有名です。
          《セント・マイケル山 コーンウォール》
          
 
【バーナード・リーチ】
香港に生まれ、イギリスのセント・アイヴスに没します。幼い頃に滞在した日本に再び。今度はラフカディオ・ハーンの日本に憧れての旅でした。そこで柳宗悦、富本健吉ら「白樺」の人々との出会い、陶芸との出会いをもたらします。彼の理想「東と西の結婚」こそ、今日に至る日英両国の文化交流に豊かな実りをもたらすものとなりました。
          《蛸絵大皿》
          
          《陶板画》
           

【チャールズ・ワーグマン】
ロンドンで生まれ横浜で没します。「イラストレイテッド・ロンドン・ニューズ」の特派員として来日しました。維新の混乱期 生麦事件等を伝える一方で、イギリス人の目に映る不可思議な日本の日常を描きとめて行きます。本来画家ではなかったのですが、その油彩技術は高橋由一ら洋画黎明期の画家たちを魅了しました。
小品ながら日本女性の油彩画を展示場で数点拝見しましたが 細密で実に美しい作品でした。日本人と結婚し男児をもうけます。外人墓地に葬られました。
          《富士遠望図》
          

【デイヴィッド・ナッシュ】
イギリスのサリーに生まれ現在に至っています。ナッシュの旅は自然の奥深くに入り込み、素材に出会い対話を重ねながら造形してゆく現地主義。その場と自分との関係の深まりから生まれると作者は語っています。1982年の初来日以来、日光をはじめ各地に分け入って制作し、出会った素材との対話を綴ったドローイングはナッシュの旅の絵日記です 沢山展示されています。
          《歩く椅子》
          
        
☆『デイヴィッド・ナッシュ 木との対話の日々』
       講師:塩田純一(東京都庭園美術館副館長)

講堂での講演を拝聴しました。

① 「ミズナラとの20日間」 1982年 奥日光光徳

ビデオを駆使してミズナラの倒木からイメージが出来、作品を生み出す過程を説明。そして作品の誕生。
○キャップト・アーチ ○フイッシュ ○リバー・トンネル ○クラッキング・ボックス ○トゥワリング・ボックス ○ウオール・ラダー ○フロア・ラダー 
○スノー・ストーブ(かまくら様のもので中で火を燃やす事で解けてゆく様を観察する) ○筧(栃木美術館の屋外展示場へ 芽が出るとそれは木の蘇りと認識) 

②「樹のいのち 樹のかたち」1984年 奥日光光徳

○リング・オーブン(樺のリングを焼く) ○スタンディング・カット(山を見下ろす木精) ○黒い丸石、ラフな台座の上のラフなオブジェクト ○ムーン・ピラミッド ○ステップ・アサイド ○羊の親子 ○ダケカンバのテーブルと椅子 ○竹のストーブ(奥日光には竹がなくて今市に移動してストーブをつくる)

③ウェールズにおける制作

ナッシュはウェールズに住んでいる。石材が採れていたが今は採り尽くして廃墟になってしまった。そこで教会を修造して300点位の作品を収納している。

○ブライナイ・フェスティニオグのアトリエ 
○トネリコのドーム(生きている木を作品とする・・トネリコを20本位 円形に植えて1m位に成長した所で曲げて繁らす事でドーム型にする20年位かける)
○木の丸石(ゴツゴツの球形の丸太→流す→変形→苔が生える→一抱えもある木の球を何年もかけて 長時間撮影で追い続けて海に没するまでの執念を見る・・丘に留まり、浅瀬につかまり・・見失いつつも1978~2003の間に)

世田谷美術館は南西に砧公園が広がり何時も大勢の人々が集っています。西洋風の建物は落ち着いて、中庭には大きく枝を広げた大樹と、程よい数のブロンズ像が配されて 何時も満ち足りた気持ちになって帰っています。

【中庭を眺める】

 

ジョン・エヴァレット・ミレイ展

2008-09-04 | 美術館
                  
                  【オフィーリアよ永遠に。TICKET】


サーの称号を持つ ジョン・エヴァレット・ミレイ展が始りました。10年前にテート・ギャラリー展が東京都美術館で開催されて、ミレイは《オフィーリア》只一点のみ展示されました。その忘れ難い強烈な印象を胸に本日 Bunkamura ザ・ミュージアムに行って来ました。
ミレイ(1829-1896年)は19世紀イギリスにおいて「ラファエル前派兄弟団」を創設し、この時代最も重要な画家であり、ロイヤル・アカデミーの会長に選ばれたばかりでなく、永世貴族の称号をも得たのです。

ハムレットの悲劇のヒロインを描いたミレイの代表作《オフィーリア》が、ロンドン留学中の夏目漱石に感銘を与え、後年「草枕」のなかで語られる事になるのです。
     

ビデオ解説コーナーがあって・・・オフィーリアの溺れ死ぬ様子を描く為にその川をホッグズミル川と決め何ヶ月も掛けて描きました。その後同胞の画家ロセッティの妻シダルをモデルにしてバスタブに浮かべ、スケッチをして絵を完成させました。
上記の絵は小さいので解かりずらいのですが、植物(花言葉)が散りばめられていてそれぞれに意味が込められています。オフィーリアの人格や運命を象徴しているのです。植物学的な正確さに固執する事で場面の現実性を高めようとしています。 

スミレ(右手:誠実、貞師、純潔、若い死) ケシ(右手:死) ヒナギク(右手:無邪気) ナデシコ(腹部:悲しみ) パンジー(腹部:物思い、かなわぬ愛) バラ(服の裾:愛) キンポウゲ(手前水中:子供らしさ) ノバラ(岸辺:喜びと苦悩) ミソハギ(右手上:純真な愛情、愛の悲しみ) 柳(ノバラの左:愛の悲しみ) 

テート美術館をはじめ、英国内外の主要コレクションからの唯美的作品、子供を主題にした作品、肖像画、風景画など、新たな技法を探求しながら幅広いジャンルの作品を手掛け、当時のヨーロッパで大人気画家の地位を獲得しました。
家庭にあっては、人妻と恋に落ちて結婚をするのです。そして8人の子供をなして
その絵を幾つも見ることが出来ます。

【ジョン・エヴァレット・ミレイ】
     

【「初めての説教」:長女】
          

【「姉妹」:長女 次女 三女】
         

妻の「エフィー・ミレイ」、二人の息子「ローリーの少年時代」、次男「ジョージ・グレイ・ミレイ」等は写真が入手できませんでした。
絵はがきやパンフレットから引用した絵を少し貼ってみましょう。

【「両親の家のキリスト」(大工の仕事場)】


【「マリアナ」】


【「ハートは切り札」】


横浜 『アトリエ・ポルト展』

2008-05-05 | 美術館


昨年に続いて今年もこの季節 登山仲間のK・Mさんの油彩展を拝見致しました。
随分長く描き続けていらっしゃいますが、先生のご不幸があって新しく「アトリエ・ポルト」としては、年月は浅いけれど少数精鋭のグループであるとお見受けしています。

関内の「ギャラリー採光」は、解かりやすく落ち着いた場所で多くの方で賑わっていました。

彼女の旅先は多方面に渡っていると思いますが、被写体の多くは中近東に向けて異彩を放っていると思われます。アラブはあの色遣い、力強いタッチに合っているのだと思われますし、何時も何時も心惹かれてしまいます。
出品作は次の二点です。

【パキスタン 巡礼者】


【イエメン】

(作者のお話から:家畜の餌の干草を頭に 夕日の中の母と子)

美しい絵に身近なお花を添えさせて戴きましょう。
     【胡蝶蘭】
     
 
               【マーガレット】
               

   
    【苧環】
     

       【小手毬】
        

               【ヤマホロシ】
               

     【サフィニア】
      


宮廷のみやび

2008-02-04 | 美術館
                    【東京国立博物館 平成館 入場券】

宮廷貴族による王朝文化から生み出された作品を通して、『みやび』の世界を堪能してまいりました。

副題は『近衛家1000年の名宝』です。

近衛家は藤原鎌足以来の藤原北家の嫡流宗家の家柄であります。
平安中期に藤原道長に依ってその全盛を見ますが、5代下る忠通の頃 公家による政治も衰えをみせ實権は武士の手に及び、何代かに渡って分家するに至りました。『近衛家』『九条家』『鷹司家』『二条家』『一条家』。この五家に限って摂政関白の職を継承する事となりました。これを五摂家と称します。

近衛家は以来その家系は絶えることなく、近衛家と称してより30代、鎌足より数えれば1300年の歴史を経て今日に至っています。

鎌倉時代以降は実権は伴はなかったとはいえ、常に朝廷の儀式を中心とした政治の場に関与していました。これら儀式典礼に関する記録をしたため伝承する事で摂関家としての権威と面目を保って行く事が出来たのです。この間に蓄積された記録・文書は膨大で20万点にも及びます。この大量の古文書や古美術工芸品を一括保存管理しているのが、京の洛西宇田野にある『陽明文庫』です。

陽明文庫はこうした文化財を後世に保存継承するために、昭和13年(1938)29代当主近衛文麿に依って設立されました。

今回の展覧会は文庫創立70年を記念して企画されたものです。


★陽明文庫長の名和修氏の講演や NHKの新日曜美術館を拝聴したものを参考にblogを書きました。
出品目録を見ますと214点の膨大さ。私の注目度の幾つかを写真を交えて述べてみたいとおもいます。

【藤原鎌足像】


【藤原道長像】


【国宝 「御堂関白記」】

自筆にかかる日記14巻をはじめとして、幕末の近衛忠煕に至る20人の歴代が関白日記を残しています。これらを紐解けば我が国の歴史の流れを目のあたりにすることが出来るでしょう。

非常に多くの『書』が展示されています。
文化の発達は文字に依って発展しました。文字は中国からもたらされましたが、日本独自の文字『仮名』が生まれました。
これにより朝廷文化が生まれ『源氏物語』や『万葉集』などでの流麗な文字からあまたの日本独自の文学や和歌の世界が広がって行きました。

とりわけ『家煕の世界』としてスペースを広く使って紹介されている方が有ります。「万能の天才」と言うべきでしょう! 
【近衛家煕像 21代(~1736)】


【春日権現霊験記絵巻 詞書:近衛家煕筆 絵:渡辺始興筆】       



平家都落ちの細密画を描かせて、書を家煕が書いたコラボレーションの巻物の一部です。

【花木真写1 植物の精密画(正確に描いて正に植物図鑑です)】


【花木真写2】


【花木真写3】


【十数枚の真写を貼交(はりまぜ)た金屏風の中の一枚】


人形が多くありました。指人形 賀茂人形 芥子人形 御所人形 内裏雛 有職雛等々。

拝観している時 英会話が聞こえてきたのでそれとなく振り返ると、外人に流暢に説明をしている方に目が行きました。近衛家の方たちには似通ったお顔立ちが有って「もしや・・」と思いましたが、帰り際監視の方に聞いてみると「今日お見えになると聞いています」と。
御当主忠輝様だったのでしょう。自家のものであってそうでないこの名宝は、美術館でご覧になることになるのですね。

★『みやび』とは華やかさと伝統にもとずいた品の良さ・・・とは「名和修」氏の言葉。 





 
   




「 文豪 夏目漱石 」 特別展へ

2007-11-06 | 美術館
      【 夏目漱石肖像 1912年(大正元) 神奈川近代文学館蔵 】

東北大学創立100周年記念 朝日新聞入社100年 江戸東京博物館開館15周年記念 と非常に区切り良く『特別展』は今年を於いて他に無いと言う年の巡り合わせでもありました。
なぜ東北大学(?)・・漱石のコレクションは、太平洋戦争の最中漱石の弟子であり、当時旧東北帝国大学付属図書館 館長であった小宮豊隆の尽力で、新宿にあった漱石最期の住居「漱石山房」から移動させて奇跡的に残った蔵書3000冊を中心に、その後も拡充されていったものです。

漱石展の膨大な資料をを拝見していて「語学」「文学」「英文学」「美術」「哲学」「書画」「漢詩」「俳句」「謡い」「宗教論」・・・興味を持ちさえすれば全て我が物にされた多才振りは驚嘆です。

生い立ちとしては不幸であったかもしれません。 1867年 江戸・牛込馬場下に名主の子として生を受け、多くの兄・姉の末弟故に里子に出されました。
学校も幾つも転校したようですし、私が痛々しく思う事は病を経験して進級試験を受けられず、此処で発奮して以後主席を通したとありますが、生涯幾つもの病に冒され大吐血にも見舞われて50歳の若さで一生を終えねばならなかったことは、如何ばかり無念だったことでしょう。しかしこの一生で日本語の基礎を作り、日本語のあり方に大きく影響を与えました。

1900年英語研究のため文部省から英国への留学を命じられました。 9月8日横浜港を出て10月8日にはロンドンに着いています。其の前にマルセーユからは陸路でパリに一週間滞在し3回もパリ博に行っています。エッフェル塔のエレベーターでの驚き、日本と西洋の違い、日本の将来、孤独の悩み等を滞英日記に書き記しています。
ロンドンでは転々と下宿先を変えていました。居心地の問題でしょうか。
シェイクスピア作品の講読。 展覧会のカタログ(バーンジョーンズ・ワッツ・ホルマンハント・レイトン・Eミレー)五人の世紀末画家を取り上げています。 演劇のパンフレット。 美術月刊誌。 ナショナルギャラリーの展示カタログ(バーンジョーンズ・ロセッテイ・ワッツ・コンスタブル)の風景画集など。
夥しい本を購入。

1903年(35年)発狂の噂で急遽帰国命令が降りました。

帰国後は東京帝国大学で教鞭をとることになりました。ここで神経衰弱を病みます。
高浜虚子の進言で気分転換のため「創作」を始めました。落語の手法でユーモアを取り入れ『我輩は猫である』を執筆。高く評価され『坊ちゃん』『草枕』『二百十日』『野分』と続々発表 作家として歩みはじめました。
『文学評論』を日本文と英文と交互に書きました。

          

明治40年朝日新聞社より専属作家として招聘の話が舞い込みます。
ほぼ漱石の望む条件が整えられ40歳にして新聞社と言う新しい分野に踏み込みました。小説を書く他にも同時代の文学や美術に批評を加える評論家として、紙上で大いに活躍し 明治という時代を精確に捉えた「文芸批評」を展開しました。

【漱石八態 岡本一平画 朝日新聞社初期時代】
          

早稲田南町 「漱石山房」に転居。
木曜の午後3時 面会日とした「木曜会」は、人間性と学識に惹かれた門下生が集まりました。芥川龍之介もいました。
一人一人と対話し的確な助言をして門下生の才能を開花させると共に、心の交流を深めました。
その日以外は大部分を執筆に費やし、他の時間は子供たちと散歩に出かけ大好物のアイスクリームを食べて、趣味の謡の稽古をし、漢詩や書画の制作に没頭し 様々なことに興味を持ち充実した日を過ごしました。

明治44年博士号授与→博士号辞退
『只の夏目なにがしかで暮らしたい したがって私は学位を頂きたくないのであります』         

パルマーイタリア美術、もう一つの都 展

2007-07-21 | 美術館

国立西洋美術館で、16世紀から17世紀にかけてイタリア北中部の都市 パルマに花開いた美術の展覧会が開催されています。

西ローマ帝国が5世紀 東ローマ帝国が15世紀に滅亡しますが、多民族の侵入などによる混乱が落ち着くと共にローマの人々は美術の芽を育て上げていました。
パルマに於いても独自の文化がファルネーゼ家の庇護のもと16世紀後半から17世紀バロック期までを視野に入れながら、パルマの芸術文化を数多くの絵画を展示しながら、「優美」なバロック絵画に影響を与えたところを観ることになります。

パルマとは聞き慣れない都市かもしれません。しかしパルメザンチーズや生ハムがありますし、音楽ではヴェルディやトスカーニィニが生まれています。
芸術全般にわたって他の多くの芸術家達を魅了し続けたパルマなのです。

イエスの誕生から1500余年キリスト教は、揺るぎないものになっていました。
描かれる絵もまず聖画。聖母子像・聖母像・幼子イエスと言ったように・・・
それに加えて、ファルネーゼ家の肖像画が数多くあったことでした。

パルマ・ビアチェンツァ公国の君主ファルネーゼ家は、一方ではローマ教皇庁内でも大きな権力を握り、16世紀末にはローマ、パルマ両地で巨大な花を咲かせることになりました。初期バロックを牽引した画家たちが続々と集ったのです。

では私が手に出来た少しの絵をお楽しみいただきましょう。

【コレッジョ(幼児キリストを礼拝する聖母)】
     

【コレッジョ(階段の聖母)】
     

【コレッジョ(聖母子とマグダラのマリア、聖ルチア)】
     

ファルネーゼ家に拘わる絵

【ジローラモ・ベドリ・マッツォーラ(アレッサンドロ・ファルネーゼを抱擁するパルマ)】
     

【クリストーフォロ・カッセリ(トゥールーズの聖ルイ)】
     

アレクサンドリアのカタリナは知に優れた女性でした。キリスト教徒を迫害していた皇帝は、釘を打った四つの車輪でカタリナを八つ裂きにしようとしますが、彼女は信仰により守られ、皇后をはじめとする人々をもキリスト教徒へ改宗させます。皇帝の怒りに触れ彼女は斬首されます。伝説によると、キリストの花嫁となることを望んだカタリナが洗礼を受けると、幼児キリストが現れ彼女に婚約指輪をはめたと言われます。彼女を主題とする作品には、殉教具の刀、車輪、シュロ、キリストとの結婚を示す指輪などが描かれます。

【パルミジャニーノ(聖カタリナの神秘の結婚)】
     

運慶作 大威徳明王坐像

2007-05-24 | 美術館
                         【神奈川県立 金沢文庫】

2ヶ月位前だったでしょうか 私の住む街がニュースになって釘付けになってしまいました。

鎌倉幕府執権 北条実時は金沢の地に菩提寺として称名寺を創建し、学問をこよなく愛して膨大な書籍を残しました。
学問寺として栄え 歴代の権力者からも保護されたため、数多くの寺宝や書物が受け継がれて金沢文庫として現在に至っています。

金沢文庫に保管されている「大威徳明王坐像(だいいとくみょうおうざぞう)」が運慶の作品であることが判明して一大ニュースになったのです。

平成18年度金沢文庫文化財修理事業において、同像を解体修理したところ像内納入文書が発見されました。
そこには 1216年源氏大弐殿(鎌倉幕府将軍頼家及び実朝の養育係)が運慶に発注したことが明記されていました。

運慶は日本の彫刻史で最高峰の仏師として知られていますが、現存する作品は5件(十数体)でいずれも国宝・重要文化財に指定されています。

【発見された像と発注を明記した古文書】


実像は像高21・1センチ。当初は六手六足で水牛に乗る姿でしたが、手足の殆どと水牛座は失われています。運慶晩年の穏やかで端正な作風を著していると言はれています。

【拡大胸像】
 

比較的観覧者の少ない美術館ですが、そして平日でしたが大勢の人・人でした。
久しぶりでしたのでトンネルを抜けて称名寺も訪ねてみました。
太鼓橋の朱が緑に映えて良い風景です。菖蒲は終わりに近く、可憐な草花を撮ってみました。

【ハナニガナ】【ムラサキカタバミ】【ニワゼキショウ】
     
               
     

【阿字ヶ池の風景】
               

横浜 『アトリエ・ポルト展』

2007-05-03 | 美術館

穏やかな春の一日 登山仲間で油絵をされてる方の油彩展を拝見させていただきました。
関内駅前の教育文化センター「横浜市民ギャラリー」は、人気が高くラッキーだったそうですが素晴らしいところでした。

作者K・Mさんに付きっ切りで説明を受けて、心豊かな楽しい一時を過ごすことが出来ました。
皆20号を越える力作ばかりでしたが、海外での風景やお城も多く 国内も景勝地や神社仏閣の描写の中、ひときわ私の目を惹いたものをご紹介いたしましょう。

尚 彼女より次のメッセージを頂きました。
『魔女は何方にも幸せを分けてくれる優しい魔女ん婆です。見て下さった人達が幸せになれるように、幸せな人はより幸せになれるように そんな願いを込めて描きました』

     【幸せ運ぶ魔女ん婆1】
     
  
     【花園の魔女ん婆2】
     

この小さな画面では迫力も色彩も到底拝見した時の感動を伝えることは出来ませんが、ご想像ください。

常日頃 彼女がどんなに私たちを楽しませてくださっているかを、ご紹介いたしましょう。
パソコン画の達人でもあるのです。
先頃 イエメンを旅された時のもの(登山の会の掲示板から)

     【イエメンの小父さん】
     

これは私が頂いた年賀状です。一人ひとりに写真から解き起こして描いて頂いたものです。お会いした時には皆の感動の声に満ち溢れたのでした。
     
     【西吾妻山々頂の私】
     
     
     



      




「レオナルド・ダ・ヴィンチー天才の実像」展

2007-04-14 | 美術館
昨年の秋頃より「イタリアの春2007」の中心催事として、目にしていましたが遂にその時がやってきました。
絵画は「受胎告知」のみと聞いていましたので・・・しかし開催が近かずくにつれて、その天才ぶり・万能ぶりが展示されている事を知るに至りましたが、この目で拝してその膨大さに圧倒され続けたのでした。

展示は平成館では足りず本館にまで及んでいました。このような事は始めての経験でした。

Ⅰ レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯
Ⅱ 【受胎告知】-思索の原点
Ⅲ レオナルドの書斎
Ⅳ 「かたち」のとらえ方
Ⅴ 万物の「運動」
Ⅵ 絵画への結実

レオナルドは生涯を通じて思考と探求の結果、あらゆる学術の中で絵画が最上位に有ると考えました。それゆえ、絵画は自然界のあらゆるかたちを完全に模倣できるだけでなく、実存しないかたちをも生み出すことも可能だとしたのでした。

レオナルド・ダ・ヴィンチの現存する絵画は世界に十数点とされていますが、二十代の始めに描かれた「受胎告知」は実質的なデビュー作になりますが、後に探求し続ける様々な主題の起点を見出すことの出来る作品なのです。

【受胎告知】
     


私が世界で一番好きな《絵》それが《レオナルド・ダ・ヴィンチの受胎告知》でした。聖母マリアの神々しい顔に魅了されていたのです。「ウフィツィ」に行って見たい!!
そして遂に1996年イタリア紀行は実現しました。
外国の美術館を見たのも初めてでした。なんと言う華麗さでしょう。
《受胎告知》のある部屋にはボッティチェリのプリマベーラがあったことは憶えているのですが、その外十数点の絵画の中で目的の絵の前を動けなかった事を思い出しました。
ところが見終わって、ミュージアムショップで一枚の絵ハガキを見たことで180度転向してしまったのです。フィリッポ・リッピの「聖母」。あれから10年経ちますがいまだ変わりなく・・・

【聖母マリア (受胎告知)】
     
     
【聖母 (聖母子像と二人の天使:フィリッポ・リッピ】
     

余談を入れてしまいました・・・

【少年キリスト像 : ローマ ガラン・コレクション】
     

特別展示【少年キリスト像】 伝レオナルド・ダ・ヴィンチ 
広い展示室の中に小さなテラコッタ像が一体置かれていました。

天才の頭脳には到底付いてゆけるはずも無く、クエッションマークと渦巻きの重苦しい頭脳を此処に来てスッキリとさせてもらうことが出来ました。

『あくまでも【伝】ですが、ローマ・ガラン(彫刻家)がアスコリ・ビチェーノ修道院から購入した胸像です。
ダビンチが幼いキリスト像を造ったと書き残しており、解剖学的に正確な描写、繊細な頭髪、薄い衣服、微かな眉毛、憂いを帯びた表情 こうした要素は「受胎告知」の天使や「最後の晩餐」のキリストと共通している。
最後の晩餐の制作年代をもとに1495年頃の作品と考えられる。』 と付記されていました。

シアタールームでの解説を聞き、ミュージアム・ショップでゆっくりして、本館の「受胎告知」の列に並び 立ち止まらないで拝して、これで全てが終了となりました。


国立新美術館 

2007-03-23 | 美術館

新しく出来たばかりの「国立新美術館」は大いに興味がありました。あのうねった建物も見たいし、パリでもポンピドーは素通りしましたので作品への楽しみもありました。
正門を入ると少し斜向かいから眺める形になりますが、薄緑色の正体は近付くにつれて解ってきました。このガラス張りの壁面は素人目にも建築の難解さが伝わってきます。
          

多くの人々が途切れる事無く入場してきます。エントランスは3階までの吹き抜けになっていて一階はオープンカフェ。2~3階は空中に突き出した円形のカフェとレストラン。地階1階にもミュージアムショップがあります。

【エントランスへの入場口】
     

【オープンカフェ】
     

【空中レストラン】
     
     
それではいよいよ展示室へ。
「1900年からの40年 フランスの絵画を形造ったのは外国の芸術家たちでした」とメッセージに掲げられていました。
その後も2005年までの200点の作品が出品されていたのでした。
20世紀の芸術家の作品は難解なものが多く、素通りしてしまったものも多く有りましたが、ファッションや映画・彫刻や家具などもあり、映画は興味深く長く見続けてしまいました。

芸術家にとってパリは憧れの地。渡仏したフジタは独特の乳白色で裸婦を描き高い評価を得ます。パリに集い才能を開花させた「異邦人芸術家たち」の中 私の知ってる数少ない画家、好きな絵画を転載してみることに致しましょう。

【レオナール・フジタ(藤田嗣治 日本):『画家の肖像』】
     

【ワシリー・カンディンスキー(ロシア):『相互和音』】
     

【パブロ・ピカソ(スペイン):『トルコ帽の裸婦』】
     

【アメデオ・モディリアーニ(イタリア):『テディの肖像』】
     

【マルク・シャガール(ロシア):『エッフェル塔の新郎新婦』】