花水木の独り言

庭の大きなハナミズキの、白い蝶のような花びらや、真紅の葉に気持ちを託して・・徒然なるままにキーを打ちました。

梅原龍三郎 展へ

2007-02-07 | 美術館

横浜高島屋から梅原龍三郎展の入場券が送られて来ましたので、華やかな色遣いと豪快なタッチの絵を思い浮かべ乍「高峰秀子」が見られるかも・・・と期待して出かけて見ました。

初期から晩年までの80点は97年の生涯においては、少ない数かもしれませんが大小に拘わらず圧倒され続けて、滅多に椅子など座らないのですが二度も休んだほどでした。

1888年京都に生まれた龍三郎は絵を志して浅井忠の教えを受けた後、1908年フランスに渡り ルクサンブール美術館で見たルノワールの絵に驚嘆して「これこそ私の求めたものだ」と思い定めて教えを乞うたのです。
「デッサンは練習すれば上手くなるが色の使い方は天性のもの あなたは見込みがある」と言われたという。

20歳からの5年間を学んで帰国します。描きためた100点を超す作品を展示し、その翌年二科会を創立し日本の近代洋画を代表する画家として・・春陽会、国画会を中心として活躍することになったのです。

★ 戦前 戦中に鹿児島や伊豆に旅して描いています。

【紅良像:長女アカラ1932年】
     

【桜島:高島屋史料館蔵1935年】
     

【富士山図:三津浜からの富士山・・入場券の絵1945年】


★ 戦後には何度も渡欧して文化交流に貢献しています。
  又中国にも毎年数ヶ月滞在して多くの絵を描きました。

【カンヌ港:1920年】
     

【満歴蹲に薔薇:1943年】
     
     
薔薇は梅原龍三郎にとって、生涯のモチーフであり恩師の象徴でもありました。

高峰秀子像は出展されていませんでしたが、世田谷美術館に寄贈されたそうですから何時か出会える時も在るでしょう。

大エルミタージュ美術館展

2006-11-10 | 美術館
 
この美術展には『大』が付いています。
都立美術館での展示は何時もこれくらいの規模だと思うのですが・・本国の規模の大きさからでしょうか。

サンクトペテルブルグの地名は変革がある度に替わっています。
20世紀に入ってからでも ペトログラードからレニングラードへ。そしてソビエト連邦崩壊後現在の名前に戻りました。
世界遺産として数々の建造物や彫像・円柱と 運河が巡り広場を配置して統一のとれた景観美を生み出しています。その中でひときわ荘厳な姿をネヴァ川に映して建つ王宮こそが、エルミタージュ美術館なのです。

【エカテリーナ2世】
     

18世紀のヨーロッパでは、フランスのブルボン王朝 オーストリアのハプスブルグ王朝が、華麗な宮廷文化を花咲かせていました。
ロシアのエカテリーナ2世(1729~1796 在位1762~1796)は、即位2年後ロシアを世界に冠たる国にしようと、ベルリンの画商から絵画コレクション225点を購入しました。

その年宮殿に隣接して私的な美術ギャラリーを建てます。これがエルミタージュ美術館発祥の建物になりました。
エカテリーナ2世はその後も膨大な数のヨーロッパ絵画の収集を続けました。

エルミタージュとはフランス語で「隠者の庵」であり、もはや隠しきれない膨大さながら、100年を掛けて完成したのです。全部回ると28キロにも及ぶと言う。
元宮殿の1000室の内400室が公開されていて、およそ300万点の美術品と1万6000点余りの絵画があり、そのうちの80点が今回展示されています。

会場はフロアー毎にテーマが決められていて、その中で私の好きな印象派の絵画を数点ずつ挙げて見ることに致しましょう。

1 家庭の情景 (lbf)

【アルテミス: マリー・ローランサン】
     

2 人と自然の共生  (1f)

【野原の少女: ルートヴィヒ・クナウス】
     

【花瓶の花: アンリ・ファンタン=ラトゥール】
     

【農夫の妻(全身像): パブロ・ピカソ】
     

3 都市の肖像  (2f)

【リュクサンブール公園: アンリ・マティス】
     

【リュクサンブール公園、ショパン記念碑: アンリ・ルソー】
     

【モンマルトルのキュスティン: モーリス・ユトリロ】


大英博物館 ミイラと古代エジプト展

2006-10-08 | 美術館
                       【ネスペルエンネブウの木棺】

ミイラ即ち古代エジプト。美しい彩色の木棺に何重にも覆われ黄金のマスクの下からミイラが・・数千年の古へと思いを馳せる機会が再び訪れました。

しかも医療用CTスキャンで頭から足先まで1ミリ間隔で断層撮影した画像を、コンピュウター技術で3次元(3D)処理し、ミイラの体の隅々のバーチャルな立体映像を見ることが出来ると言うのですから。
見逃せないチャンス到来と早々に行ってきました。 

幅14メートルの大型スクリーンの映像を3D眼鏡(持ち帰る)で見ると、手で触れる近さに映し出されて驚きの一撃を受けました。
性別や年齢、健康状態や死因すらも表れることも。
包帯に納められた数々の護符、傷跡などから分かるミイラの作り方など、内部に隠された秘密がひとつひとつ明らかになって行きます。

【体の内部を旅する『バーチャルツアー』も出来るようになりました】
 

死者が復活するためには遺体をミイラとして保存して遺す事がどうしても必要でした。様々な形をした護符や副葬品を用意し、遺体と共に埋葬する事で、死者の再生・復活をより確実なものにしようとしました。

例えば【供養碑】もその一つです。
     

シアターに続く展示室では、ネスペルエンネブウの納められた棺や、護符など映像で紹介された品々を実際に展示。あわせて美しい彩色の木製人形棺や、装飾品、ミイラマスクなど大英博物館のエジプトコレクションから厳選された130点が展示されています。

私が古代エジプトに夢中だった頃「王家の谷」のツタンカーメンを訪ねて胸打ち震わせてより、早20年の歳月が過ぎ去りました。
今回【 ロゼッタストーン】の複製品も展示されていました。ナポレオンの戦利品だと思いますが、イギリスにある理由を私は知りません。写真では大きさが分からないので見てみたい思いがありましたが、'98年その思いが叶ったのです。
     

カミーユ・クローデル 展

2006-08-03 | 美術館

只今 広大な府中の森公園の一廓にある美術館で開催されています。
「世紀末パリに生きた天才女性彫刻家」 として。

【カミーユ・クローデル】


私が彼女を知るキッカケは、1996年 Bunkamura ザ・ミュージアムに於ける
Camille CLAUDEL展で「運命に接吻された女」「ロダンとの愛と葛藤に命を刻んだ女性彫刻家」と紹介されて心惹かれたためでした。
同名の映画も上映され 分厚い本(弟ポールの孫に依る出版)も読んで、わたしの胸に畳まれたのです。

今回62点の ブロンズ・大理石・絵・手紙・写真が展示され、私は2時間も掛けて見ていた事に気付きました。
又もや深い思いを寄せてしまったのでした。
彫刻を見ながら 彼女の心の動きを追ってみることに致しましょう。

【オーギュスト・ロダンの胸像(1888~89):卒業制作】
17歳で私立の美術学校であるアカデミー・コラロッシュに通い、オーギュスト・ロダンのアトリエで働きながら学んでゆきました。多くの人々の中でしたが二人は師弟だけに止まりませんでした。彼女はモデル・愛人・有能な助手となり、二人の作品には共通した要素が多く見られました。


【幼い女城主 霊感を受けた少女 凝視(1893年):自刻像でしょうか】
          

【ワルツ(1895年):楽しい時代】
          

【分別盛り(1898年):ロダンとの決別】
ロダンにはローズと言う内妻と息子がいました。ローズが病に倒れ「ローズかカミーユか」の選択にロダンは決断が出来ませんでした。彼女はロダンの元を去るのです。
この彫刻はローズを老婆にし カミーユの哀願からロダンを引き離しています。
彼女は30歳。すっかり疲れきっていました。


【炉端の夢(1899年):一人で生きてゆく】
ロダンの影響を脱しようと独自の作風を模索し室内彫刻へと向おうとしました。
          

【心からの信頼(1905年):見果てぬ夢 彼女の理想の愛の形】
心に残る虚しさともどかしい愛は、作品への執念となって彼女の魂までも焼き尽くさんばかり。幸福を男女関係や人間関係の中よりも創造のなかに追及しようとするあまり、認められたいと言う欲求は増し、次第に精神のバランスを失ってゆきます。
常に支援してくれた父が亡くなった直後、カミーユは弟ポールの指示により強制的に精神病院に入院。死ぬまでの30年間 退院する事はありませんでした。
・・・チケットの中の男女の彫像 等身大の全身像は圧巻です・・・

【ロダン作 『フランス』(1904年):ロダンのカミーユを見つめる目】
ロダンにとっては永遠に若く生き続けるカミーユのイメージがありました。



ロダン作の6人の群像『カレーの市民』は、その1体はカミーユの制作であり、その貢献への返礼の献辞が展示されています。
『Jean d'Aire(un bourgeois de Calais)』 

ポタニカル・アートのルネサンス

2006-06-13 | 美術館

息子からボタニカル・アート展の入場券が送られて来ましたので、細密画を描くのが大好きな夫と 今植物の世界に遊ぶのが楽しく、撮れるだけ撮ってしまう私は早速出かけてみました。

『写真や印刷技術の発達で一時衰退していたボタニカル・アートは、近年自然環境保護運動や園芸ブームに伴い再び関心を集めるようになりました。焦点が一箇所に絞られ、異なる時期の成長過程を表すには複数の映像が必要な写真と異なり、植物学者が種(シュ)を特定する際に決め手となる植物の特徴を強調することが出来、草花が成長する過程や断面図・解剖図を同時に一枚の画面の中に表すことのできる植物画は学術的にも再評価されています。この展覧会では個人としては世界最大規模を誇るシャーリー・シャーウッド博士のコレクションから、今もなを優れた技術で作品を描き続けている現代の植物画家による作品121点を御紹介いたします』
(挨拶の言葉から)

世界の地域を区切って展示されていました。121点は膨大ですが、馴染み深い数点を貼ってみることに致しましょう。

★石川美枝子「ブルネイの団栗」
       

★バーバラ・オーゼラリー「木蓮:マグノリア・スーランジアナ」
       

★パンドラ・セラーズ「睡蓮:ニンファエア・カペンシス」
       

★マリー・グリアソン「ひまわり」
       

★内城葉子「シクラメン・ペルシクム」
       

★クリスタバル・キング「ギムノカリキウム・フレイスケリアヌム」
       

『ポンペイの輝き』 展へ

2006-06-04 | 美術館

古代ローマと聞くだけで 血が騒ぐのを憶えますが、Bunkamura ザ・ミュージアムで開催されている展覧会に行って来ました。


『古代ローマが「人類史上最も幸福な時代」と讃えられる絶頂期に差しかかった頃、突然の大災害が南イタリアを襲いました。西暦79年8月24日午後1時、ヴェスヴィオ山から巨大な火柱が噴き上がったのです。噴火は翌朝まで続き、ポンペイなどふもとの町々が埋没しました。夏のまぶしい太陽は灰雲に遮られ、住人たちは闇の中、持てる限りの財産を手に脱出。噴出物に厚く覆われた都市は復興する事なく、漸く18世紀に発掘が始まりました。「ポンペイの輝き」展パンフより)』

【フォルムを望む風景:前方の山がヴェスヴィオ山】

       

8m~23mもの噴石の埋没から2000年の時を経て、蘇る古代の壁画や宝飾品・彫刻や生活用品等々から、精巧な技術を持ち 豊かな生活の営みを想像する事が出来ました。

【壁画アポロ:一説では皇帝ネロの宿泊所で 詩や音楽を好むネロに結び付けてい る と言う説】

       

【銀製のコップ:イシス信仰の彫刻。 既にガラス製品もあった】

       

【金庫:鉄・青銅・銅・銀を使用。上部の装飾を順次解除することに依ってのみ、 開くことが出来た。】

       

【居酒屋の壁画:キスしている図】

       

【ヴェスビィオ山:1944年最後の噴火。米軍機から撮影された】
       

10年前ミラノから南下して最後にポンペイの廃墟を巡りましたが、3キロ四方の一部のみで、今回のような金銀財宝は一切目にすることはありませんでした。
博物館ないしは世界各国を回っていると言うわけでしょうから。
       
【ポンペイの廃墟に立った】

       



       
          

国立西洋美術館

2006-05-14 | 美術館

只今 「Rodin Carriere」展が開催されています。
近代彫刻の父と称されるオーギュスト・ロダンと画家ウジェーヌ・カリエールの、二人の直接の交流を軸に 共通する感覚や思想を探ろうと企画されました。

この国立西洋美術館にはロダンの作品が多く収蔵されていますが、カリエールは昨秋の「プーシキン美術館展」で『母の接吻』に心奪われて初めて名前を知るに至った画家でした。だから多くの絵を観ることが出来るのではないかと言う期待もあったのです。

【館内から新緑の中 ロダンの地獄門を見て地下の展示室に降りて行きました】


展覧会は大きく分けて5つのセクションで構成されています。
 1 ロダン像とカリエール像
 カリエールによるロダンの肖像。ロダンの監督したカリエールのデスマスク。

 2 ロダンとカリエールの直接の交流。
 両者が互いに所有し有っていた作品。「ロダン展」へのカリエールの貢献。
 「ウジェーヌ・カリエール記念像」のロダンの取り組み。

 3 ロダンとカリエールをめぐる人々の肖像
 二人は共に優れた肖像彫刻家・肖像画家としても知られていますが、ここでは
 同じ人物を紹介しています。

 4 ロダンとカリエールにおける象徴主義
 二人の作品を象徴主義という観点から見ていきます。
 白い大理石の表面に二人の顔が浮かび上がり、カリエールの絵画との結びつきが 最も明確に示された作品です。
 【最後の幻影】
 
 テーマとしての「接吻」と結びついた量塊の表現、人物像と背景との境界の問題 などを示します。
 【母の接吻】
 
カリエールには6人の子供がいました。母と子の情愛を示す画像が数点もあり魅入られ続けたのですが、プーシキン美術展の『母の接吻』とは違っていました。どれ程多くの母子を描き遺したのでしょうか!

5 ロダンとカリエールを結ぶ糸
 違った視点で二人の作品をつなぐ関連性を見ます。
 両者の素描や習作といった即興的な表現をを比較します。


県立 金沢文庫

2005-11-23 | 美術館

天皇 皇后両陛下が横浜M・M 地区の「海ずくり大会」に出席された後、金沢文庫にお立ち寄りに成られたと聞き、銀杏も見頃になっているかも知れないと出掛かけてみました。
《仁王門》




鎌倉時代の北条一族である金沢氏の菩提寺(称名寺)がトンネルを隔てて有りますが、こちらは広い庭園に阿字ヶ池があり、日本最古の銀杏や桜が枝を大きく伸ばして風情があります。

赤門から参道を少々歩いて仁王門 そこから境内の縁を回るようにしてトンネルを通って文庫へと、両陛下はお歩きになったのかしら(?)往復では大分おありになった事でしょう。
《阿字ヶ池にかかる銀杏》


  

金沢文庫では只今「茶と金沢貞顕」として往時の名品が紹介されています。
貞顕は六波羅探題として赴任し、京の文化を鎌倉にもたらし金沢文庫の充実に寄与したことでも知られています。

日本のお茶は栄西(鎌倉寿福寺の開山 栄西禅師)が中国から持ち帰った事から始まりました。
茶薬と言われて 二日酔いで苦しむ実朝に勧めたと吾妻鏡にあり、これが喫茶の始まりになりました。

中国からの舶来品である唐物が紹介されています。
日本にも茶碗・香炉・花生(瓶)など茶器の文化が生まれました。

称名寺には茶園があり人を雇って作業した記録が残っています。しかし大茶会が開かれる時は、此処の茶園では足りず方々から取り寄せなければならず、貞顕からの「お願い」の書状がいくつも展示されています。
《国宝 金沢貞顕像を模して》

プーシキン美術館展 

2005-11-17 | 美術館

ロシア人実業家のシチューキン(1854~1936)とモロゾフ(1871~1921)の、二人の収集による数多くの近代絵画は、革命・戦争を越えてモスクワ《プーシキン美術館》 とサンクトペテルブルク《エルミタージュ美術館》に分割して収蔵されました。

今回 東京都立美術館に於いてプーシキン美術館からのマティス、ルノアール、モネ、ゴッホ、ピカソ等の名画が一堂に開催されましたので、期待を胸に行ってきました。

出品作品75点の中から特筆したい3点を掲載いたします。

          

           《アンリ・マティス 金魚》 


          

           《ルノアール 黒い服の娘たち》 


          

           《ポール・ゴーギャン 彼女の名はブァイルマティと
                                 いった》

この他にカリエールの「母の接吻」が心打ち震わせましたが、掲示できず残念です。      

正倉院展の季節

2005-11-08 | 美術館

一年で一番気候の安定した季節に いかにも日本らしい国宝展『正倉院展』が開かれています。

私は今年も出掛ける事は出来ませんでしたがNHKの「新日曜美術館」でその素晴らしさを拝見いたしました。

今回のテーマは囲碁。碁盤を木画紫檀棊局(もくがしたんのききょく)と言い、碁石を入れる引き出しがありますが、開くと相手の引き出しも同時に開くようになっています。

そして碁石はなんと白黒ではなく 紅色と青色に彫りが施されています。
其の名も難しく・・・
 



   《紺牙撥鏤棊子(こんげばちるのきし)》 と 《紅牙撥鏤棊子(こうげばちるのきし)》

現代の碁石より一回り小さく、象牙に紅・青を塗り彫刻を施し彩色されたものです。

聖武天皇と光明皇后が手にして遊ばれた事もあったことでしょう。
千有余年を経て今尚この瑞々しさを保ち続ける伝統の技に、畏敬の念を抱くと共にわが国の文化を誇らしく思う一時でした。

ギュスタブ・モロー展

2005-09-10 | 美術館

ギュスタブ・モローは私にとって不可思議な印象があり、その謎解きもしてみたく展覧会に行ってきました。
初期から晩年に至までの油彩、水彩、素描など279作品が私を包んでくれました。
象徴派の巨匠と言われ「ギリシャ神話」や「聖書の物語」を題材にした、私の最も好きな印象派とは対極をなす 神秘的な瞑想の世界が繰り広げられていました。
特に代表作と言われるものの中から3点を表示いたしましょう。

《一角獣》
上記のチケットを飾っています。
「一角獣は気性激しく人に慣れる事はなく、純潔な乙女の膝元で安らぎ、角は触れたもの全てを浄化する力を持つ」 独自の耽美世界を構築した珠玉の作品。





 《エウロペの誘拐》
「ユピテル(ゼウス)は人面半獣に姿を変えて美しいエウロペを誘拐し3人の息子が生まれました」 愛と憎しみの相克、卓越した想像力で宝石のような絵画を創作。






 《出現》
「ユダヤの支配者ヘロデ王は誕生日の宴席で、後妻ヘロデアの娘サロメの踊りを所望し、望みのものを取らすと言う。サロメの望んだものはヨハネの生首であった。
中空にヨハネの首が出現したのだ」 これはモローの独創性の表れで、文学・音楽に多大な影響を与えた。


 モローは生前から住宅兼アトリエを美術館として公開しようと考えていました。
 経済的に恵まれ、両親の愛を一身に受けて自己確立し 名声を博し長寿を全うし たのです。
 没後 作品と邸宅をフランス国家に遺贈し、初代館長には教え子であった ルオ ーが就任しました。
 沢山の事を知り得て、そしてギュスタブ・モローに近付けて良い一日でした。

遣唐使 「井 真成」の墓誌

2005-08-06 | 美術館

始めてのニュースに接した時「何と言う清々しさだろう」と思いました。
現在の日中関係を思う時、文化の粋を惜しみなく注ぎ 又優秀だと認められれば
唐にとどまって高官にまで栄進させる懐の深さがありました。

井真成は帰国直前に死亡しますが「墓誌」が出土して誰であろうかと・・・難破船
では何も残らず、そのような留学生も数知れなかったはずです。

計らずも千数百年を経て当時の歴史が再現されたわけです。真実は一つ 歴史を
書き換えるとよく言いますが、以前のものが偽りであったことになることも。

真成の墓誌は 縦40・3cm 横39・2cm で黒曜石に楷書で書かれていました。

「尚衣奉御を追贈された井公の墓誌の文 序と并せる
 公は姓は井 通称は真成。国は日本といい、才は生まれながらに優れていた。
それで命を受けて遠国へ派遣され、中国に馬を走らせて訪れた。中国の礼儀教養
を身につけ、中国の風俗に同化した。正装して朝廷に立ったなら、並ぶものは
なかったに違いない。だから誰が予想しただろう、よく勉学し、まだそれを成し
遂げないのに、思いもかけず突然死ぬとは。開源二十二年(734)正月❑日に官舎
で亡くなった。年齢は三十六だった。皇帝(玄宗)はこれを痛み、しきたりに
則って栄誉を称え、詔勅によって尚衣奉御の官職を贈り、葬儀は官でとり行わせ
た。其の年二月四日に万年縣の滻河の東の原に葬った。礼に基ずいてである。
ああ、夜明けに柩をのせた素木の車を引いてゆき、葬列は赤いのぼりを立てて
哀悼の意を表した。真成は、遠い国にいることをなげきながら、夕暮れに倒れ、
人気のない郊外におもむいて、墓で悲しんでいる。
 その言葉にいうには、「死ぬ事は天の常道だが、哀しいのは遠方である事だ。
身体はもう異国に埋められたが、魂は故郷に帰ることを願っている」と。

(原文・読み下し・現代語訳はすべて、展覧会ゲストキュレーターの東野治之・
奈良大学教授による) 


  写真:入場券

ベルリンの至宝展

2005-04-13 | 美術館

今年は「日本におけるドイツ年」に当たり、世界遺産の博物館島の
えりすぐりの逸品約160点が東京国立博物館で開催されています。

朝日新聞のホームページ・アスパラクラブから休館日を利用した
特別内覧会に招待されました。時間を区切っての入場で混乱も無く
ゆったり心行くまで鑑賞することが出来て感銘の一日でした。

旧東ベルリンのシュプレー川中洲に、プロイセン王室の美術コレクション
を一般公開するために1830年に建立され、100年の歳月を掛けて
古代から近代までの美術作品が5つの建造物に所蔵された、島全体が
博物館と言う比類ない殿堂の誕生でした。

私の印象的な数点とすれば ティイ王妃頭部の写実性・何度見ても
感動的なライオンの装飾煉瓦壁(砕けたレンガ片をジクゾウパズルの
ように組み合わせた)・美しい彩色のパシグのミイラマスク・ラファエロ
のコロンナの聖母・ボッテチェリのビーナス。

続 「The Gate」

2005-03-19 | 美術館

世間の評価も変わり計画却下から20年を経て公園局から許可されたのである。
7500本のゲート・携わる人への日給@6㌦25㌣の総額22億円にのぼる費用を、
「この構想」を描いたドローイングの販売で調達出来たのである。

2週間の演出にニューヨークの人々のみならず世界が喝采したのだった。


(TV画面の撮影で不鮮明をお許しください)

「The Gate] (NHK 新日曜美術館から)

2005-03-19 | 美術館

セントラルパークに無数のサフラン色の布がはためく様を見て釘付けになってしまった。
クリスト&ジャンヌクロードの共同制作の構想は26年を経て実現するに至ったのである。

この公園は800mX4kmあり、遊歩道は37kmに及ぶ。ニューヨーク州の不許可の理由は
「大きすぎるから」・・・

この間にも二人は建造物や海岸の岩場や水面・樹木など様々な物を布で包み
大地や渓谷に布を張り巡らせたりと、精力的に活動を続けていた。
日本でも公園に沢山のアンブレラを配した写真の記憶がかすかにある。 (続く)