<<車窓から 快晴の富士山>>
<<車窓から 広島の手前あたりで海老茶色をした輝く屋根瓦の家が一町村ぐらいの規 模であるのを、通るたびに見ていて美しいなぁと思っています。・・・>>
故郷へ
昨年この時期に義兄が亡くなって、一周忌に再び下関に向かいました。
姉たちは従兄弟同志の結婚でしたので、法事の席も殆ど親戚同志で故人の話も尽きることが無く、ハンサムでお酒が好きでいつもニコニコと誰よりも一番最後まで飲んでいましたねぇ~等々と。
夕方からの法要でしたので、それまでを兄と海岸縁を散策して船の往来や潮の流れの速さに目を止めたり、数々の歴史の舞台を目の当たりにすることが出来ました。
最近では「龍馬伝」の舞台であり、武蔵と小次郎の「巌流島」も見えています。さらに遡れば源平最後の対決「壇之浦の合戦」の大舞台が拡がっていました。
<<灯台の後方に 巌流島>>
<<海峡の街 漁業の街>>
<<海峡ゆめタワ~>>
古くは 赤間関、馬関と呼ばれ その後「下関」となりました。「関」と対岸の門司の「門」を合わせて名づけられた「関門海峡」。アジア大陸に近く太平洋に抜ける数少ない海路であり、本州と九州をつなぐ陸路結節点になります。
赤間神宮
下関の地に降り立った時から赤間神宮を再訪したい思いが湧いてきていました。ずっと以前
に訪れて赤と、赤と白のコントラストの美しい神宮を思い出していたのです。
『たけき者も遂には滅びぬ』源平合戦最後の対決『壇ノ浦』。 時は寿永4年(1185)3月24日 両軍約4000艇ともいわれた軍船は、関門海峡に集結したのです。
白幡靡かせるは源義經率いる源氏勢、対するは平の宗盛・知盛率いる船の舳先には、赤い旗が翻っていました。
天下分け目の大海戦は、矢合わせを合図に火蓋が切って落とされました。東に流れる潮に乗り、まず優勢に立ったのは平家の船団。しかし身方の寝返りと潮流の反転が重なり、
義経の奇策に混乱した平家軍は次第に追い詰められて、遂に二位の尼は安徳天皇を抱いて海峡に身を投じ平家一門は滅亡したのです。
「海の中にも都はある」と言う二位の尼の願いを写して竜宮造りの華やかな処に安徳天皇は祀られたのでした。
<<内陣の一部>>
美しい赤間神宮はこんなだった!と 感慨を覚えその奥の石段上の本殿で思いを込めて拝礼することが出来ました。この日はお日柄も良かったのでしょう・・・ 何組かの結婚式があり幸せのおすそ分けを頂きました。
<<紅葉の競演の見事さ>>
<<十三重の塔も紅葉に映えて>>
<<平家一門の墓>>
高浜虚子の歌 『七盛の 墓包み降る 椎の露』
心ゆくまで赤間神宮を撮り尽くして、新幹線を乗り継ぎながら帰京の途につきました。 神戸、大阪と疾走する列車は早、夕暮れを迎えていました。そして京都につく頃は暗闇の中でした。
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