花水木の独り言

庭の大きなハナミズキの、白い蝶のような花びらや、真紅の葉に気持ちを託して・・徒然なるままにキーを打ちました。

鎌倉 紅葉と史跡散策

2005-12-07 | 鎌倉の四季

今年の月別カレンダーも最後となり そこはかとない寂しさも感じられる一日を、
我が家とは背中合わせの鎌倉に出かけて参りました。

今回は鎌倉東部の 永福寺跡(ようふくじあと)・獅子舞・瑞泉寺・鎌倉宮と巡りました。

《永福寺跡》
平家滅亡後、頼朝に追われた義経は平泉の藤原秀衝に庇護されますが、秀衝の死後泰衡に謀殺されそのしるしは鎌倉に届けられました。文治5年 頼朝は自ら其の泰衡討伐のため奥州に遠征します。平泉に滞在した頼朝が目にしたものは、藤原文化の素晴らしさでした。
清衡の建てた「中尊寺」や基衝の「毛越寺」の華麗さに、凱旋した頼朝は自らの命令で死んでいった 源義経・木曽義仲・藤原泰衡の怨霊供養のため、中尊寺の二階大堂を模して、二階堂を中心とした寺院「永福寺」の建立を命じました。

永福寺は頼朝が建立した三大寺《 鶴岡八幡宮寺・勝長寿院(父 義朝)》の一つです。
「二階堂は他の堂宇に超絶し感嘆尽しきれない程に立派な寺で、甍は輝き楼台の装飾も素晴らしく、建築・彫刻の神が手がけた様で、仰ぎ見ると思わず懺悔したい気持ちになる。地形も申し分なく林や池に至るまで心に残るようだ」 と13世紀に書かれた『海道記』や『東関紀行』にあります。

然し1405年の火災で焼失し今に至っているのです。
広大な跡地はススキの穂が銀色に靡き背後の山は晩秋の色を濃くしていました。

 

《紅葉の隠れ谷 獅子舞》
二階堂地区前方の五林山を経て太平山を越え、横浜市に抜ける切通し風の 谷道があり山上の岩が獅子のうずくまった形に似ている所から、この名前は来ていると言はれています。
道中紅葉が散り敷いていましたが、其の舞い落ちる中を行くのは歌舞伎装束の獅子の舞っている様を想像して楽しく風情がありました。



《瑞泉寺》
夢窓国師が開山。南北朝期 関東を支配する鎌倉公方の足利基氏が国師に深く帰依し、死亡すると遺命によりこの寺に葬られ、以後鎌倉公方家の菩提所になりました。庭園は広く前庭には四季の花々が絶えず 多くの人が訪れています。
本堂裏には池がありモミジが屋根を覆うばかりに拡がっていました。



《鎌倉宮》
明治2年(1869)護良親王の御霊を祭祀するため、明治天皇の勅命により創建されました。

元弘3年(1333)鎌倉幕府滅亡の後、建武ノ新政で征夷大将軍となった親王は、足利尊氏と対立し 尊氏打倒の兵を招集したため、尊氏をはばかった父後醍醐天皇が親王を謀反人として逮捕させ、鎌倉へ護送 幽閉されました。ここで諸説ありますが 本殿裏に↓土牢(間口・深さ共に4m 広さ8畳) があり9ヶ月幽閉された後殺害されました。享年28歳でした。・・・と言う説が有力です。

色々な所に金色の菊の御紋が見られます。