【いたち川】
「いたち川」は「出で立ち川」が変わったものだと言われています。
鎌倉街道宿として交通上・軍事上の要衝の地であったことから、安全を祈る儀式に由来し古くからの慣例が有ったようです。
鎌倉駅北口から環状4号線で光明寺までバスを利用。本日の行程は殆どが鎌倉と背中合わせの横浜の地であったようです。「いたち川」も長い歴史を経るうちに、「出で立ち」は「鼬」に変化して行ったのでしょう。此の川を付かず離れず歩きましたが橋の欄干や標識はもう「鼬」「鼬」でした。
海にたどり着くまでには、3度も名前が変わっているのです。「いたち川」→「柏尾川」→「境川」と。
【光明寺】
○宗派 浄土真宗
○本尊 阿弥陀如来
縁起は古く開創は聖徳太子の寵臣秦河勝。時経て元弘3年(1333)、新田義貞の鎌倉攻めで北条氏の寺だとして焼き討ちに遭い全焼。戦国時代には小田原北条氏綱の浄土真宗弾圧で苦しめられます。そして江戸時代になり鎌倉北条氏ゆかりの寺として、三代将軍家光からご朱印地13石を安堵されました。
【證菩提寺】
○宗派 古儀真言宗
○開基 源頼朝
治承4年(1180)伊豆で挙兵した頼朝(三百騎)は、平家方の大庭景親、俣野景久(三千騎)軍と石橋山で合戦敗走します。この時三浦義明の弟で岡崎義実の嫡男で25歳の若武者 左奈田与一義忠が頼朝をかばって戦死するのです。後に幕府の安泰を得た頼朝は、与一の忠義に報いるため鎌倉の鬼門である山内庄本郷に寺を建立し追善供養と幕府鎮護を祈願しました。
広大な境内に七堂伽藍の大寺でしたが、頼朝・政子の死後荒廃しました。
《現在 屋根には源氏の紋が》 《境内の高台からは富士山の遠望》
三代執権北条泰時の娘が嘉禎2年(1236)「本郷新阿弥陀堂」を建立したと伝えられています。この阿弥陀三尊像は、藤原時代最末期の仏像彫刻として貴重であり、現在「国の重要文化財」として宝蔵庫に祀られていて拝観させていただきました。
《新阿弥陀堂の阿弥陀三尊像》 ( web より拝借)
【本郷ふじやま公園】
昔から「ふじやま」と呼ばれ、山頂には富士講の記念碑があり富士信仰の山であったようです。
なだらかな起伏があり、江戸時代末期の古民家が移築復元されています。
小高い所でお弁当を頂きましたが、晴れやかで「ふるさとの山の景観」と、唄われているように、懐かしい思いに駆られながら一時が過ぎて行きました。
【長慶寺】
○宗派 浄土真宗
○本尊 阿弥陀如来像
鎌倉時代 八幡宮の一切経校合で鎌倉に来た「親鸞」に、時の住持超世が帰依して浄土真宗に改宗したと伝わっています。
親鸞は七体の聖徳太子像を刻み、弟子たちと超世に一体ずつを与えました。
後に石山本願寺と織田信長の合戦の折、時の住持はこの太子像を背負い戦ったと言います。その後寺は小田原北条氏に破壊されてこの地に移ることになりました。
時経て家康が訪れ水を所望「うまい水」が縁で、本堂再建の資金を寄進します。三代将軍家光は寺領13石の朱印状を与え代々保護しました。
《庭園の仏像彫刻》
大いたち橋→小いたち橋を通りJR本郷台駅で解散でした。