花水木の独り言

庭の大きなハナミズキの、白い蝶のような花びらや、真紅の葉に気持ちを託して・・徒然なるままにキーを打ちました。

新緑の鎌倉山を行く

2010-04-17 | 鎌倉の四季
 【ハナダイコン】

   

鎌倉幕府創生の宿老である梶原景時の祖先伝来の名字の地を訪ねて、梶原氏の面影を偲び新緑の鎌倉山の散策を楽しんで参りました。

鎌倉市の西方にある鎌倉山は大船駅からモノレールで2ツ目の湘南町屋駅に降りると「洲崎古戦場跡」の碑があります。洲崎とは現在の寺分・梶原・山崎・上町屋地域の古称で元弘三年(1333年)鎌倉幕府滅亡の際、新田義貞軍と北条軍の激戦の古戦場として語り継がれている所です。

【泣塔】

洲崎合戦で戦死者を慰めるために建てられたと言う供養塔があり、あたり一帯は「陣出」と呼ばれ戦いの陣がしかれていたと言われています。
囲いのある丘には宝篋印塔と、やぐらの中に数基の五輪塔があって古くから泣塔と呼ばれています。

             

 【弥勒院等覚寺】
     

境内には五輪塔、宝篋印塔などの石塔群が並んでいますが、これも洲崎合戦に於ける供養塔と言われ、梶原景時に因んだ土地とも言われています。

 【梶原父子の墓】

             

梶原の地名は鎌倉時代の武将梶原景時・影季の先祖である鎌倉権太夫影通がこの地に住み姓を名乗ったと言われています。然し頼朝の死後鎌倉を追われ、京都に向かう途中駿河の清見関で一族は滅亡します(1200年)。ここ鎌倉に墓とは考え難い事ですが、霊を慰めるための供養塔であったろうと思われます。  
 
 【笛田山仏行寺】

本堂裏山々頂に「源太塚」と呼ばれる円墳状の塚があり、父と共に駿河で討ち死にした梶原源太影季の片腕が埋められていると言います。その死を悲しんだ妻の信夫(しのぶ)はこのあたりで自害します。その後この山からは夫を慕う悲しみの声が夜毎聞こえてくるため、村人はその霊を慰めるために仏行寺を建てたと伝わっています。

     

 【夫婦池公園】

     

江戸時代になって灌漑用水として現在の下池が造られ、その後中央堤が造られて上下一対の池が造られ夫婦池と呼ばれています。この中央堤を渡ったその奥に風致公園があって、段差がありパーゴラのある椅子でお弁当を頂きました。

大きな鯉が何匹も泳いでいて、「あっ カワセミ!」の声でカメラを構えたのですが、望遠レンズでない悲しさ・・でも初めて捕らえたカワセミ。
                     

万葉集にも出てくるほど「鎌倉山」と言う呼び名は古くから使われていますが、その頃は特定の山と言うよりも鎌倉にある山々の総称としたものだったようです・・・現在では笛田の南から腰越・津の北にかけての丘陵地帯を指しています。
そして日本で初めての丘陵式住宅地として造成され昭和3年に分譲が開始されました。
通りを覆うほどの桜の大木が見事でしたし、トップのハナダイコンがいたるところで春を告げていました。何本もの路が鎌倉山を迷うほどに縫っていますが、終着地は江ノ電の極楽寺駅でした。