花水木の独り言

庭の大きなハナミズキの、白い蝶のような花びらや、真紅の葉に気持ちを託して・・徒然なるままにキーを打ちました。

日蓮聖人法難の聖跡を歩く

2010-09-10 | 鎌倉の四季
    【日蓮の肖像画】
    
     

     作者:藤原親安
     出所:日蓮宗

 1250年代の日本は諸国に飢餓・災害が頻発していました。1253年(建長5)安房の国より鎌倉に入った日蓮は小町大路に立ち民衆に向かって法華経を説きました。
1260年(文応元)7月には、前執権北条時頼に「立正安国論」を提示し、翌月松葉ヵ谷の草庵が襲われますが窮地を脱しました。
しかし布教には多くの苦難が待ち受けていました。1261年(弘長元)には伊豆へ、1271年(文永8)には龍ノ口での処刑は免れますが、佐度に配流されました。1274年(文永11)救免され鎌倉に帰った後、甲斐国身延山に入りました。
今回『古都鎌倉史蹟めぐり』NPO法人 鎌倉ガイド協会に、鎌倉周辺での日蓮の布教活動の足跡をご案内していただきました。
猛暑が台風に変貌し濡れ鼠になった一日でもありました。

【猿畠山 法性寺】
       

 1260年(文応元)松葉ヶ谷の草庵を焼き討ちされた日連が、この山の洞穴に身を隠した所三匹の白猿が現れて食物を供したと言います。これを山王権現の導きと考えた日蓮は、弟子の日朗に寺の建立を命じますが、これを果たせず日朗は没しました。
日朗の弟子朗慶がその志を継ぎ堂宇を建立します。境内の左側に日蓮が難を逃れ籠居した洞穴、右側の堂内には日朗の墓があります。
寺裏の墓地と地續きには大切岸があり、素晴らしい眺望があると聞きましたが豪雨のため断念せざるを得ませんでした。何時の日か・・・

 【石井山 長勝寺】

 開山:日蓮聖人
 開基:石井長勝

1263年(弘長3)伊豆流罪を許され鎌倉に戻った日蓮に、この地の領主石井長勝が庵を建てて寄進しました。はじめ本勝寺と称しますが、四世日静が京都に移し廃寺になっていました。南北朝時代になってこの地に復興し 寺号を開基である石井長勝の名にちなんで現在の寺名になりました。
境内には、高村光雲作の日蓮聖人像が高く聳え四天王が周りを囲んだ立派な光景です。
祖師堂は室町時代初期の建築ですが、鎌倉時代特有の五間堂の様式が用いられています。





 【 妙法華経山 安国論寺】

 開山:日蓮上人
 創建:1253年(建長5)

安房国より鎌倉に入った日蓮は約20年間をこの地で過ごし、その聖域となりました。山門に入ると左側には、増上寺から移されたと言う石灯籠が並んでいます。
参道の正面には祖師堂(本堂)があります。
          

本堂の向かいには「御法窟」があり、この御岩屋で『立正安国論』が書かれました。前執権北条時頼に建白されます。そのために大難は四度、小難は数々と言われた緒法難の内、最初 松葉ヶ谷焼打の法難にあっています。今も裏山に一時避難された南面窟が残っています。
    

 【妙厳山 本覚寺】

鎌倉時代幕府の裏鬼門に当たるため、守護神として夷堂がおかれました。1274年流罪を許され佐渡から鎌倉に戻った日蓮はこの夷堂に身を置いて布教を続けましたが、やがて身延山に庵を結びます。
1436年天台宗系の夷堂は、日出により日蓮宗に改め本覚寺としました。