花水木の独り言

庭の大きなハナミズキの、白い蝶のような花びらや、真紅の葉に気持ちを託して・・徒然なるままにキーを打ちました。

鎌倉 材木座界隈を歩く

2010-10-14 | 鎌倉の四季

             【材木座海岸  ボードセーリング教室?】

古都鎌倉史蹟めぐりに参加しました。
大町から材木座に向かう大師道をたどり、上行寺~来迎寺~長勝寺~和賀江嶋から500余年の歴史ある十夜法要厳修中の光明寺を訪れました。

 ✿上行寺✿
  
  宗派:日蓮宗
  創建:正和2年(1313)

山門の裏側に、左甚五郎作と伝わる竜の彫り物があります。 
         
  
本堂は公開されていないのですが、右側の建物は全ての病 特に癌に効用があるとされる瘡守稲荷堂と鬼子母神を祀る薬師堂があります。火焔奉じの美しい絵がたくさん飾られていました。
         

 ✿来迎寺✿

 宗派:時宗
 創建:建久5年(1194)

来迎寺は源頼朝が旗揚げの際 犠牲となった三浦大助義明の菩提を弔うために建てられました。本尊の阿弥陀三尊像は運慶作と伝えられ、義明の五輪塔墓や三浦一族百余基の五輪塔があります。
         
          

 ✿長勝寺✿ 

 宗派:日蓮宗
 創建:弘長3年(1263)

長勝寺は1ヶ月前にも拝観していますので、広大な仏閣は割愛しますが石段を幾重にも登り墓地を縫って最上階の広い墓地へ到達です。                              
         
反対側には車道が通り材木座の住宅が下方に向かって延びていて尚も行くと海岸に到着でした。

 ✿和賀江嶋✿

現存する日本最古の築港遺跡として国の史跡に指定されています。材木座は遠浅の海で、波風は荒く難破・破損する船が多く港湾整備の必要がありました。貞永元年(1232)時の執権北条泰時はこれを約1ヶ月で完成させます。江戸時代までは港として利用されましたが、震災や風化によって石積が崩れ今では干潮時のみ見られる状態です。
       
 
            【トップ写真の子供達 今日はここまで お疲れ様】

 ✿内籐家墓地✿

内藤家は江戸時代、陸奥国常盤平 のちに六代藩主・内籐正樹のとき日向延岡藩主に封じられた譜代大名です。
常盤平二代藩主・内籐忠興の時に 江戸霊巌寺から光明寺に歴代の墓を移し、ここを菩提寺としてきました。その際 当麻曼荼羅絵巻(現国宝)などの絵画や彫刻など多数の宝物を光明寺に寄進し、光明寺の繁栄に寄与しました。

58基もの墓碑を備え、高さ3mを越える大宝篋印塔が並ぶ壮大な内藤家墓地は、その興隆を物語ると共に、江戸期に於ける大名墓地の変遷を知る貴重なものです。


       
       【ホトトギスの花咲お墓】

 ✿光明寺✿

 宗派:浄土宗(大本山)
 創建:寛元元年(1243)

鎌倉幕府 第四代執権北条経時が然阿良忠(ねんな りょうちゅう)を迎えて開いた浄土宗の大本山です。
明応四年(1495)後土御門天皇の勅願所となり、「関東総本山」の称号を賜り「お十夜法要」を勅許されて以来、現在も盛大に念仏法要が営まれています。
江戸時代になると徳川家康が寺領を寄進し、関東十八檀林(浄土宗の学問所)の第一に定めました。各地から多くの学僧たちが集まり学問と修行の中心としても栄えました。

鎌倉最大の山門は県の重要文化財 楼上には釈迦三尊や、四天王、十六羅漢が祀られています。
【内籐家の墓地から光明寺の山門をズームで引き寄せました】

 ✿お十夜法要✿
 
この時期 応仁の乱から戦国時代にかけて天下は乱れに乱れ、飢餓・疫病が相次ぎ庶民は地獄の業火に焼かれる苦難の様相に喘いでいました。後土御門天皇はこの乱世を嘆かれ、救いを仏の教えに求めて一日も早い安穏の暮らしと、安泰を望まれて十夜法要を許可されました。(現在は10月12日~15日の4日間)

○お十夜の旗印
 
○法要a

○お稚児さん
        
○法要b
 

○散華
        
お十夜の行列に「散華/散花」といって山門の上から花形を蒔き、舞い落ちる花を拾う事で 供養になると言われています。