花水木の独り言

庭の大きなハナミズキの、白い蝶のような花びらや、真紅の葉に気持ちを託して・・徒然なるままにキーを打ちました。

阿仏尼 (十六夜日記の作者) の鎌倉

2012-05-14 | 鎌倉の四季

          

          

  阿仏尼は,後高倉院の皇女安嘉門院に仕え四条と名乗った女房です。一時恋に破れその後,藤原為家に出合いその晩年の妻で・・歌道家の女主人となり,為相 為守らを生みました。為家は藤原定家の子で,宮廷歌壇随一の歌人で,大納言にまで上った人物でした。

この 俊成・定家・為家と続く家を御子左家(ミコヒダリケ)と言い,宮廷の和歌を司る歌道家として高い地位を占めていました。為家には先妻との間に,すでに成人して歌道家を継いでいた嫡男為氏ら数人の子女がいて,その没後為相との間に激しい相続争いが起こりました。

阿仏尼は,為相に代わって相続の地を獲得するための訴訟を起こし,為氏と戦う決心をします。弘安2年(1279)10月16日,阿仏尼は鎌倉に下向しました。

【たずねきて 我が越えかかる 箱根路に 山のかひある しるべをぞとう】  (十六夜日記)

  阿仏邸旧跡・月影ケ谷  十六夜日記によれば,鎌倉での住まいについて,「東に住むところは月影の谷とぞいうなる。浦近き山もとにて 風いと荒し。山寺の傍らなれば,のどかにすごくて,波の音松風絶えず」と記しています。

 鎌倉の郊外の極楽寺から少し離れたところは,静かなさびれた感じがしたのでしょう。

          

【枕なる 山うちこえて 聞こゆなり 遠き野寺の あかつきの鐘】   (荏柄宮 百首)

 問注所跡(裁判所) 鎌倉幕府の行政上の機関で,訴訟裁判を司ったところ。大蔵幕府の傍に設けられ,訴訟の審理,記録などの権限を持ち 鎌倉中のものは政所が,諸国のものは問注所が担当しました。

裁判は結局為相の勝訴に終わるも,阿仏尼下向から34年後と長い年月を要しました。

【 ふるさとの 人に見せばや 黒髪に 年も重なる 霜のしろさを 】  ( 鹿嶋社百首・霜 )

          

  常栄寺 この寺の裏山はかって源頼朝が,由比ガ浜の鶴の放生会を見学するために,桟敷を設けた所と言われています。後に尼はここに住み, 文永8年(1271) 捕らわれの身となった日蓮が,馬で龍の口の刑場に引かれてゆく時,ぼた餅を捧げたと言われ,このことから日蓮を助ける奇跡が起き「首つなぎのぼた餅」と語りつがれるようになりました。

【しのびねは ひきのやつなる ほととぎす くもいにたかく いつかなのらん】 (十六夜日記 )

          

   「常光明寺」 源頼朝の発願で文覚上人が建てた堂宇が前身だと伝う。元は浄土宗。元弘3年(1333)後醍醐天皇の皇子成良親王の祈願所となり,勧学院を建て学問の道場として基礎を築きました。 為相は阿仏尼没後鎌倉に来て常光明寺の旧境内の藤ケ谷に住み,和歌の指導者として活躍しました。嘉暦2年(1328)に鎌倉で没しここ常光明寺に葬られました。墓所は山頂近くにあります。

【 目に見えぬ 仏は神と あらわれて 人たすくなり 我をもらすな 】 (鹿嶋社の百首・述懐)

 阿仏尼の墓 やぐらの中に 「阿仏」と刻まれた多層塔があります。子息為相の墓を見守るかのように造立されています。

           

【 いつの日か 都の空を それとみて 渡りかえらん 瀬田の長橋】  (新賀茂社の百首・橋)

 阿仏尼は勝訴を祈って神社・仏閣に非常に多くの歌を奉納しました。又十六夜日記から後世に多くのことが伝わって非常に貴重です。

 

✿NPO法人 鎌倉ガイド協会の 「古都鎌倉史跡めぐり」に参加いたしました。もう何十年と続いているのだと思いますが,背中合わせに住んでいるのだからと気の向くままに・・・しかし昨年は時間的に難しく,今年こそはと思っているところです。

鎌倉史跡めぐりでは歩くごとに,広大で山も谷も湖も,海や島,そして横須賀や三崎まで。又西には藤沢から小田原・箱根と,範疇に入りますし,横浜もたびたび探訪させてもらっています。

                              http://www.kcn-net.org/guide/