c#でのラムダ式は記号化の入り口!
記号化は好きになれない。行き着く先は、ニュートンとライプニッツの往復書簡のよう。聞いた話で確認した訳ではないが。
要は内向きの超ショナイ言葉になり、排除の言葉になり得る。
ある「頭のいい?」グループとその他を分けるものに成り下がる。そこが嫌いな部分だ!差別を内包しやすい。
私はasmからスキルが始まった。古い話だが某IBMのMVSのコードを見た時あまりに稚拙なコードに驚いた。しかし、それでOSの価値が下がった訳ではなく、設計やコンセプトの良さ、高さに世界の誰もが脱帽だった。コードではない事を学んだ。
近年linuxなどでいかに短いコードで表現するかがブームであり、トリッキーなコードがもてはやされたりする。本来はコンパイラーが処理すべき課題を代わって人間が行う事で良いのか?
コードを理解するのに考え方ではなく特定のコード化技術を要求するのは方向が違うと思う。
asmからCOBOLを知ったとき「ドキュメント」として分かりやすさに感動だった。更に、平易なコードで表現すればある程度の知識が有れば誰でも理解可能に新しさを感じた。
javaではオブジェクトの集まりで設計する事が新鮮であり驚きでもあった。オブジェクトは世界の写像である!世界の感じ方が論点となり得る。
手段が目的化してはいないだろうか?
記号化は好きになれない。行き着く先は、ニュートンとライプニッツの往復書簡のよう。聞いた話で確認した訳ではないが。
要は内向きの超ショナイ言葉になり、排除の言葉になり得る。
ある「頭のいい?」グループとその他を分けるものに成り下がる。そこが嫌いな部分だ!差別を内包しやすい。
私はasmからスキルが始まった。古い話だが某IBMのMVSのコードを見た時あまりに稚拙なコードに驚いた。しかし、それでOSの価値が下がった訳ではなく、設計やコンセプトの良さ、高さに世界の誰もが脱帽だった。コードではない事を学んだ。
近年linuxなどでいかに短いコードで表現するかがブームであり、トリッキーなコードがもてはやされたりする。本来はコンパイラーが処理すべき課題を代わって人間が行う事で良いのか?
コードを理解するのに考え方ではなく特定のコード化技術を要求するのは方向が違うと思う。
asmからCOBOLを知ったとき「ドキュメント」として分かりやすさに感動だった。更に、平易なコードで表現すればある程度の知識が有れば誰でも理解可能に新しさを感じた。
javaではオブジェクトの集まりで設計する事が新鮮であり驚きでもあった。オブジェクトは世界の写像である!世界の感じ方が論点となり得る。
手段が目的化してはいないだろうか?