鹿児島遠征3日目は朝から素晴らしい晴れになりました。
今日は仲間と知覧特攻平和会館と武家屋敷に行きます。
「知覧特攻平和会館」
10時半、到着です。
会館の中は撮影禁止になっています。
「特攻」とは特別攻撃の意味で戦闘機に爆弾を装着して敵の艦隊に体当たりをするという「必死」の攻撃のことです。
若い兵士はこの知覧飛行場から沖縄を目指し飛び立ちました。
再び帰ることはありません。
パイロットは必ず「死ぬ」という必死条件の作戦でした。
飛び立つ前夜、家族に向けて遺書を書きます。
母に向けて書いたものが多いように思いました。
読みました。
胸が締め付けられました。
途中で涙で読めなくなりました。
隣でも、その隣でもすすり泣く声が聞こえてきます。
お母さんが小学校の子どもさんに声を詰まらせながら説明をしていました。
改めて戦争の愚かさ、むなしさ、平和の大切さを感じました。
鹿児島にきたら一度は来て欲しい場所です。
「富屋食堂」
知覧特攻平和会館のすぐ近くに「富屋旅館」の前身となる「富屋食堂」があります。
昭和17年、富屋食堂は帝国陸軍の指定食堂になります。
その富屋食堂を切り盛りしていたトメさんは家財をなげうって若い隊員をもてなします。
いつしか特攻隊員はトメさんを「おかあさん」と慕うようになります。
しかしトメさんにとってそれは悲しい別れの始まりだったのです。
「知覧武家屋敷郡」
その食堂のすぐ近くに知覧武家屋敷郡があります。
驚くのは道路にゴミどころか枯葉がまったく落ちていないことです。
庭木も綺麗です。
もっと驚くのは庭園の維持費は個人持ちだということです。
さらに驚いたのがネコが留守番をしていたことです(笑)
熟睡しているようで、起きません。
青葉はそっと撫でていました。
青葉が何やら見つめています。
可愛いお地蔵さんを見つけたようです。
お願いを一つしました。
昨日、鹿児島戦で会ったトリサポさんと知覧平和会館でもここ武家屋敷でも会いました。
試合後、屋台村で知らないトリサポさん同志で盛り上がったと楽しく話をされていました。
聞くだけで嬉しくなってきました。
お好み焼きを食べました。
失礼な言い方ですが、観光地だけにあまり期待をしませんでした。
でも、本当に美味しかったです。
厚み、柔らかさ、味の深さに驚きました。
このあたりから青葉ママの体調が悪くなってきました。
朝からあった喉の痛みが増してきたようです。
そういえば声がかすれてきました。
咳もひどくなってきました。
でも、最後の家族旅行だからどうしても行きたいようです。
しばらく休憩して池田湖・開聞岳に向う事に決めました。
開聞岳に向う途中です。
はるか向こうに見えます。
「池田湖」
午後3時、池田湖に到着です。
1961年頃より池田湖には巨大水棲生物が存在していると噂され、ネス湖の未確認生物ネッシーになぞらえて「イッシー」と呼ばれています。
未だにその正体は謎のままです。
「開聞岳」
午後3時半、開聞岳に到着です。
開聞岳と菜の花・・この風景が見たくてここまで来ました。
しかしお店の人に聞くと菜の花はすでに終わったようです。
残念でした。 (画像はwebより)
ご一緒した仲間のご夫婦です。
この後ホテルに帰る私たちと宮崎に行くご夫婦と途中で別れました。
たいへん、お世話になりました。
ありがとうございました。
ホテルが近づくにつれて青葉ママの様子が悪くなっていきます。
声は出なくなり、熱も出てきて、お腹も痛くなってきたようです。
急いで病院を探し電話をすると6時までに来てくださいとの返事。
3連休で道路は渋滞です。
なんとか10分前に病院に到着しました。
しかし待てども、待てども車に帰ってきません。
病院に着いてから約2時間。
青葉ママと病院の先生となにやらバトルがあったようです。
バトルといっても青葉ママは人と争う事が大嫌いな人間なので、言い争いや怒ることはまずありません。
以下は青葉ママと先生。
先生がくれた薬は「整腸剤(おなかのくすり)」だけ。
声も出ないほど痛いノドは診察もしないし、薬もくれない。
「喉のクスリもください」と先生に言う青葉ママ。
「大丈夫だから」とクスリをくれない先生。
「明日、もう一日鹿児島観光があるのでクスリをください」
「いや、たいしたことないから」
このやりとりを3回ほど繰り返したあげく「じゃあ(クスリを)出すけどあんたのような患者は初めてだ」と怒られる青葉ママ。
あげく、他の人(男性の名前)のカルテに青葉ママの病名?処方箋?を書いた先生。
言葉の行き違いと思いますが・・・疲れました。
鹿児島は好きな場所ですが、遠征は何かトラブルがあります。
明日は最終日です。
何もないことを祈ります。
鹿児島遠征(その4) 平川動物園から帰宅・・に続きます
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今日は仲間と知覧特攻平和会館と武家屋敷に行きます。
「知覧特攻平和会館」
10時半、到着です。
会館の中は撮影禁止になっています。
「特攻」とは特別攻撃の意味で戦闘機に爆弾を装着して敵の艦隊に体当たりをするという「必死」の攻撃のことです。
若い兵士はこの知覧飛行場から沖縄を目指し飛び立ちました。
再び帰ることはありません。
パイロットは必ず「死ぬ」という必死条件の作戦でした。
飛び立つ前夜、家族に向けて遺書を書きます。
母に向けて書いたものが多いように思いました。
読みました。
胸が締め付けられました。
途中で涙で読めなくなりました。
隣でも、その隣でもすすり泣く声が聞こえてきます。
お母さんが小学校の子どもさんに声を詰まらせながら説明をしていました。
改めて戦争の愚かさ、むなしさ、平和の大切さを感じました。
鹿児島にきたら一度は来て欲しい場所です。
「富屋食堂」
知覧特攻平和会館のすぐ近くに「富屋旅館」の前身となる「富屋食堂」があります。
昭和17年、富屋食堂は帝国陸軍の指定食堂になります。
その富屋食堂を切り盛りしていたトメさんは家財をなげうって若い隊員をもてなします。
いつしか特攻隊員はトメさんを「おかあさん」と慕うようになります。
しかしトメさんにとってそれは悲しい別れの始まりだったのです。
「知覧武家屋敷郡」
その食堂のすぐ近くに知覧武家屋敷郡があります。
驚くのは道路にゴミどころか枯葉がまったく落ちていないことです。
庭木も綺麗です。
もっと驚くのは庭園の維持費は個人持ちだということです。
さらに驚いたのがネコが留守番をしていたことです(笑)
熟睡しているようで、起きません。
青葉はそっと撫でていました。
青葉が何やら見つめています。
可愛いお地蔵さんを見つけたようです。
お願いを一つしました。
昨日、鹿児島戦で会ったトリサポさんと知覧平和会館でもここ武家屋敷でも会いました。
試合後、屋台村で知らないトリサポさん同志で盛り上がったと楽しく話をされていました。
聞くだけで嬉しくなってきました。
お好み焼きを食べました。
失礼な言い方ですが、観光地だけにあまり期待をしませんでした。
でも、本当に美味しかったです。
厚み、柔らかさ、味の深さに驚きました。
このあたりから青葉ママの体調が悪くなってきました。
朝からあった喉の痛みが増してきたようです。
そういえば声がかすれてきました。
咳もひどくなってきました。
でも、最後の家族旅行だからどうしても行きたいようです。
しばらく休憩して池田湖・開聞岳に向う事に決めました。
開聞岳に向う途中です。
はるか向こうに見えます。
「池田湖」
午後3時、池田湖に到着です。
1961年頃より池田湖には巨大水棲生物が存在していると噂され、ネス湖の未確認生物ネッシーになぞらえて「イッシー」と呼ばれています。
未だにその正体は謎のままです。
「開聞岳」
午後3時半、開聞岳に到着です。
開聞岳と菜の花・・この風景が見たくてここまで来ました。
しかしお店の人に聞くと菜の花はすでに終わったようです。
残念でした。 (画像はwebより)
ご一緒した仲間のご夫婦です。
この後ホテルに帰る私たちと宮崎に行くご夫婦と途中で別れました。
たいへん、お世話になりました。
ありがとうございました。
ホテルが近づくにつれて青葉ママの様子が悪くなっていきます。
声は出なくなり、熱も出てきて、お腹も痛くなってきたようです。
急いで病院を探し電話をすると6時までに来てくださいとの返事。
3連休で道路は渋滞です。
なんとか10分前に病院に到着しました。
しかし待てども、待てども車に帰ってきません。
病院に着いてから約2時間。
青葉ママと病院の先生となにやらバトルがあったようです。
バトルといっても青葉ママは人と争う事が大嫌いな人間なので、言い争いや怒ることはまずありません。
以下は青葉ママと先生。
先生がくれた薬は「整腸剤(おなかのくすり)」だけ。
声も出ないほど痛いノドは診察もしないし、薬もくれない。
「喉のクスリもください」と先生に言う青葉ママ。
「大丈夫だから」とクスリをくれない先生。
「明日、もう一日鹿児島観光があるのでクスリをください」
「いや、たいしたことないから」
このやりとりを3回ほど繰り返したあげく「じゃあ(クスリを)出すけどあんたのような患者は初めてだ」と怒られる青葉ママ。
あげく、他の人(男性の名前)のカルテに青葉ママの病名?処方箋?を書いた先生。
言葉の行き違いと思いますが・・・疲れました。
鹿児島は好きな場所ですが、遠征は何かトラブルがあります。
明日は最終日です。
何もないことを祈ります。
鹿児島遠征(その4) 平川動物園から帰宅・・に続きます
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