細沼園のお茶飲み話

お茶の時間のひとときに、思いつくまま書きました。

上田蚕種協業組合事務棟

2013-11-12 21:51:12 | 散歩・旅  長野県

国登録有形文化財(平成9年)

  

この建物は大正6年(1917)に田蚕種株式会社の事務棟として建てられた建物です。木造2階建て、寄棟、桟瓦葺、外壁は下見板張りを基調として軒下廻りを白漆喰で仕上げ、腰壁は板張りの調子を変える事で単調さを解消しています。2階正面開口部上部には三角破風を設え、玄関庇はむくりを付け意匠を施した方立てを採用するなど正面性を強調しています。現在も建築当初からほとんど手が加えられていなく近代製糸業の遺構として貴重な存在なことから平成9年に国登録有形文化財に指定されています。  

 

いい天気で良かった


諏訪を散歩   伏見屋邸から

2013-07-04 14:37:58 | 散歩・旅  長野県

   

   伏見屋邸は、中村家が明治時代に商いを営んだ家で、屋号を「伏見屋」といったことから伏見屋邸と呼ぶこととしました。 歴史的風致維持向上計画に基づき、歴史的風致形成建造物に指定したこの建物について、平成21年度に史実調査を行い、復元修理の設計を行いました。そして、平成22年度に復元修理工事を実施し、商いを営んでいた当時の面影を取り戻しました。 建物は、屋内に通り庭を設けた江戸時代の民家の形式を残し、上見世・下見世の商い空間を有した特徴があります。建築は、旧所有者が屋根を修理した際に出てきた棟札(滅失)と、代々の家人の言い伝えから元治元年(1864)の建築と推定されますが、近年まで生活していたことで各所が改変されていました。幸いに基本的な構造と、当時に使われていた建具類がかなり遺されていたことから、復元の手懸かりが多く残っていました。 中村家は系図によると、武田氏の流れを汲み武田信玄の諏訪統治とともに諏訪に移り住んだといわれます。そして、江戸時代は代々名主・年寄役をつとめていた家柄でこの地域でも旧家です。 伏見屋中村家は、幕末に中村尉右衛門の代に分家した中村平助が、明治6年下諏訪で最初の器械製糸を創業しました。 その子鎌治郎は生糸商をはじめ、呉服・太物・洋物・荒物・飲料・煙草・畳表などを扱う商売、質屋も営み屋号を「伏見屋」中村商店としました。明治10年ころのことです。その後岡谷にも支店を出すこともありましたが、商いは鎌治郎の代で終わりました。     (伏見屋邸の由来 より)

   

 欄干 立川富種 作

立川和四郎富昌の次男、専四郎富種。啄斉と号し、豊川稲荷奥の院本殿、拝殿を建築しました。父や兄富重と共同で他の建築にも従事しましたが、どちらかといえば彫刻専門でした。(紹介文より)

    

   

   

五間廊

      

   名水『水眼』の清流

  

 


諏訪を散歩   諏訪大社から

2013-07-03 15:32:17 | 散歩・旅  長野県

諏訪大社  下社秋宮

    

   

   

 

本陣  岩波家

高雅な京風の雰囲気が漂う中山道随一の名園

年代   江戸時代

 中山道と甲州街道が合流する、下諏訪宿の本陣を務めた岩波家。かつては大名たちの宿泊所として栄え、約2650平方メートルもの広大な敷地内には、京風の武家屋敷や茶屋、土蔵などが今も残り、当時の面影を偲ばせている。中でも、銘石を巧みに配した築庭式石庭園は、諏訪大社秋宮の自然林を借景としており、中山道随一の名園とも言われている。

   

    

  

和宮様の行列と準備

皇室と将軍とのご婚儀とあって
○江戸からのお迎え 15,000人
 京都からのお供  10,000人
 人馬合わせて   40,000人以上の大部隊
○下諏訪宿で用意する人足 10,000人
○人足小屋 友之町馬場へ9棟、八幡山へ4棟、青塚へ5棟
○馬小屋 馬場3棟、八幡山へ2棟、青塚3棟(長さ30間、幅2間4尺)
○道幅2間2尺以上、路面1尺掘り下げつめ土をして砂利を敷いた。所々に盛砂もした。側溝も作り縁には芝を植えた。道沿いの藪は7~8間から30間伐りはらった。

  鶺鴒(セキレイ)です。

 現代剣道の元となった一刀流(北辰一刀流)の攻め方に「鶺鴒セキレイの尾の如く」という教えがあります。初めて鶺鴒の尾の動きを見ました。

   

春宮

   

万治の石仏

高さ2mほどの半球状の自然石に頭が載ったユニークな石仏です。言い伝えによると、諏訪・高島藩主が諏訪大社下社春宮に大鳥居を奉納するため工事を依頼し、石工がこの地にあった巨石にノミを入れたところ、そこから血が流れ出しました。石工は驚いて石に阿弥陀如来をまつったと伝えられています。胴には万治3年(1660年)と刻まれており「万治の石仏」と名付けられました。画家の岡本太郎さんや作家の新田次郎さんが絶賛。最近はメディアにも取り上げられ、訪れる人がひっきりなしです。   (紹介文より)
 
まだまだ歩きました。 

松本城からレンタサイクルで・・・・・(その2)

2013-06-25 16:32:37 | 散歩・旅  長野県

旧松本高等学校本館及び講堂

国重要文化財

 

 自由な校風、斬新なデザインの木造洋風校舎

校章にこめられた「九高」への思い
  旧制松本高等学校は大正8年(1919)に、旧制松本中学校東校舎を仮校舎として開校し、翌年に校舎が現在の地に開校して移りました。開校にあたっては、それまで国立の高等学校の8校が第一から第八までの、いわゆるナンバースクールであったので、八高に次ぐ九高として開校したいとの地元の強い願いがありました。しかし、国の方針により地名が冠された松本高等学校という校名となりました。旧制松本高等学校の校章には、9本の放射状の線があしらわれており、ここにも当時の人々のナンバースクールへの強い思いがうかがえます。

大正時代の洋風建築の代表例
  本館・講堂の建設工事は、本館が大正9年(1920)、講堂が大正11年(1922)に竣工しました。本館・講堂は、明治時代中期における旧ナンバースクール高等学校建設の後を受けて、大正時代前期に高等学校が飛躍的に増設された時期の建築様式の代表例です。これは西洋建築様式を簡略化して木造建築に応用したもので、日本の公共建築に多く用いられました。大正時代前期の木造洋風建築例としては規模も大きく、保存も良好です。学校教育史及び学校建築史の上でも、大正時代前期の旧制高等学校の状況を良好に伝えています。

キャンパスから市民の学びの場へ
  戦後の学制改革で旧制松本高等学校は信州大学となり、昭和48年(1973)3月まで使用されました。昭和52年(1977)には松本市がこの校舎を購入しましたが、当初は南校舎部分を解体する予定でした。しかし市民団体からこの校舎が貴重な財産であり、社会教育面での活用をはかってほしいとの要望がありました。これをうけて松本市は校舎を公民館・図書館・博物館(旧制松本高等学校記念館)を含んだ「あがたの森文化会館」として保存・活用することとしました。平成5年(1993)には校舎に隣接して新たに旧制高等学校記念館が開館しました。旧制松本高等学校をはじめ全国の旧制高等学校に関連した資料が展示されており、当時の自由な校風をうかがうことができます。
  現在では、あがたの森文化会館として生まれ変わった校舎は市民の生涯学習活動の拠点となっています。かつてのキャンパスは、「あがたの森」の通称で親しまれ、市民の憩いの場となっています。    (松本市文化財ホームページより)

    

深志神社

  

 

松本はかり資料館

竹内度量衡店は、度量衡専門店として約80年、中南地方の需要を一手に引き受け圏内随一の営業実績を上げました。

昭和61年に営業をやめたのを機に、資料と建物を松本市が譲り受け、はかり資料館として平成元年(1989年)に開館しました。   (紹介文より)

  

   

 

  立石 清重

 旧三松屋蔵座敷を手がけた、立石清重(文政十二年~明治二十七年、1829~1894)です。清重は、松本市北深志(現松本市城東)の地で、擬洋風建築の棟梁として活躍した人物です、代々、松本の大工棟梁を務めていた立石家の生まれで、人々の信望が厚く、とても腕のいい棟梁であったといわれています。
 清重は、旧開智学校や長野県中学校松本支校(旧松本中学校)を始めとする県内の学校や、松本裁判所、長野県県会議事堂といった数々の大建築を手がけています。当時、先進的であった擬洋風建築の手法を学びに、東京の開成学校や東京医学校(ともに東京大学の前身)を見に行くなど、進取の気性に富んだ人物でした。また、自らが手がけた建物に関しての詳しい記録を残したほか、全国各地で見聞した建物のスケッチを残すなど、研究熱心な面も垣間見ることができます。こうした工事記録やスケッチは、現在では当時の建築を知る貴重な資料群となっています。
 清重の建物は現存しているものが少なく、その中でも個人所有の建物はさらに珍しいものといえます。ギヤマンやトタンといったまだ高級であった部材を使うなど、細部にまでこだわりを持って作られたこの建物は、清重の意匠を存分に味わうことができます。  (紹介文より)

 

松本市時計博物館

懐中時計から柱時計まで、和洋の古時計を集めた博物館です。

昭和49年(1974年)、本田親蔵氏は生涯かけて収集した貴重な和洋の古時計コレクションを、人々に永く親しんでいただきたいと願い、松本市に寄贈しました。(紹介文より)

   

蓄音機でSPレコードのミニコンサートを聴きました。

 

このあと・・・・

とってもいい天気だったのが・・・大雨やっぱり雨男なんですかね

 


松本城からレンタサイクルで・・・・・

2013-06-24 15:41:47 | 散歩・旅  長野県

松本市には無料レンタサイクルがあるというので、松本城を見学してから借りることにしました。

 

国宝 松本城

 

江戸時代中期の松本城の様子
 
本丸と二の丸からなるこの中枢部である。
本丸には、面積約2730平方メートルの本丸御殿(政庁)と五重の天守閣がそびえていた。
二の丸には、東から面積約2330平方メートルの二の丸御殿(藩庁)、面積約700平方メートルの古山地御殿(城主私邸)、藩の籾蔵、幕府の八千俵蔵(備蓄米2000石貯蔵)、焔硝蔵が並び、また、外敵に備えて五棟の隅櫓がおかれていた。
なお、現在二の丸御殿跡は平面復元されている。

   

  

松本城と城下町

松本城はもと深志城と呼ばれ、中世には小笠原氏の一支城であった。そのころすでに今の二の丸東側には市町が形成されていたが、西方一帯は沼地であった。本格的な近世城づくりが始まったのは1580年代で、城郭と城下町一体の都市計画を推進したのは豊臣大名としてこの地に入った石川氏である。天守を建てたのは二代康長の時で1593~94年と推定される。
三重の水堀と塁を巡らして郭の縄張りを行い、本丸と二の丸を内郭とし三の丸を外郭とした。この広さはおよそ39万平方メートルで、内郭には天守、御殿、蔵など城主と藩の施設を置き外郭は城主の親衛隊だある上級家臣の屋敷地とした。総延長3.5キロの塁上には透き間なくなく土塀をかけ、全面は完全囲繞(いにょう)の水堀で、厳重な城門を構える虎口(枡形と馬出し)だけが城内への通路である。
城外は南から北へ通る善光寺街道に沿って城下町を割り、その東側に寺社を配置した。城下の町筋は格子状のものより鍵の手がT字形交差が多い。居住区分は厳格で士と町人の混住はまったくなく、士屋敷地は木戸の内と外に分けて中級と軽輩の居住地とし、町人地は親町3町、枝町10町、24小路にランク付けして、身分と職業によって住まわせた。

 

レンタサイクルを借りまして旧開智学校へ向かいます。

旧開智学校

国の重要文化財

日本で最も古い小学校のひとつです。

 

 

    

      

 ふしぎなドア
このドアは、開けても「向こう」がないドアです。
新築当初は、ここから教室棟へと続く廊下が右方向へ長くのびていました。当時はきっと、かけ算九九をそろって暗誦する子どもの声や、先生のこわーいカミナリがおちる音などが、この廊下に響いていたことでしょう。事務室で働く人たちも、活気あふれる教室の音をドア越しに聞きながら、色々な仕事をこなしていたことでしょう。    

 

ここで地元の人オススメのお蕎麦屋さんへ向かいました。

  

オススメだけあって、とても美味しかったです。

このあと旧制松本高校へ向かいました。