《内容》
長崎の出島を舞台に、シーボルトに仕えた若き庭師の奮闘物語。土と草花を通して、日本の素晴らしさを実感できる人情時代小説 (紹介文より)
―――生まれたときから身の回りにある物を、人は当たり前のこととしか受け止められない。失って初めて気づく物の、何と多いことか
―――他者への支配力を増すために人は知識を手に入れたがる。であれば、それを惜しみなく与えた先生は相手に対してもっと大きな力を持つことになるとやなかろうか
―――その風景を目にしているだけで途方もなく倖せで泣きたくなった
《内容》
長崎の出島を舞台に、シーボルトに仕えた若き庭師の奮闘物語。土と草花を通して、日本の素晴らしさを実感できる人情時代小説 (紹介文より)
―――生まれたときから身の回りにある物を、人は当たり前のこととしか受け止められない。失って初めて気づく物の、何と多いことか
―――他者への支配力を増すために人は知識を手に入れたがる。であれば、それを惜しみなく与えた先生は相手に対してもっと大きな力を持つことになるとやなかろうか
―――その風景を目にしているだけで途方もなく倖せで泣きたくなった
重要文化的景観の範囲は、長崎市西出津町、東出津町の全域及び新牧野町の一部の面積約456.1ヘクタールです。この範囲には、「単位景観」という8つの景観のまとまりがあり、石積集落の特徴をよく表しています。 (パンフレットより)
重要文化的景観
長崎市外海の石積集落景観
外海地域は角力灘(すもうなだ)に面した西彼杵半島の中心部に位置しており、標高400m内外の起伏のある山地の間を流れる出津川によって作られた谷地形が発達しています。
海岸付近は急傾斜の断崖が多く、平地はごくわずかであるため、集落は1か所にまとまっておらず、河川流域部のわずかな平地や、北西の季節風を避け、水脈に沿って造られた斜面地などに点在しています。
幕末に作られた絵図には、住居や畑地、墓地などを一つの単位として点在する集落の姿が描かれており、現在もなお、こうした集落構造が継承されていることも外海の特徴です。
ド・ロ神父記念館
ド・ロ神父記念館は、昭和43年11月に開館しました。
深い人類愛の精神と素晴らしいフロンティア精神をもって、外海地方の産業・社会福祉・土木・建築・医療・移住開拓・教育文化などに奉仕したフランス人宣教師マルコ・マリ・ド・ロ神父の遺品を一堂に収めて、偉業・道徳を顕彰することを目的として記念館を設置しました。記念館は明治18年(1885)にド・ロ神父が鰯網工場として用いるために自ら設計・施行した建物で、翌年からは保育所として使用されました。昭和42年2月に長崎県の史跡に指定され、平成15年12月に旧出津救助院の一部として、国の重要文化財に指定されました。建物は、木骨煉瓦造、平屋建で、上屋にキングポストトラス(三角形をつくって構造を構成するトラスのうち、中央に真束と呼ばれる支柱の立っている形式)を架けた明治時代の洋風建造物として特異な建物で、平成14年3月に創建時を偲ばせる明治中頃から昭和初期の姿に修復されました。
ド・ロ神父は1840年にフランス・ノルマンディー地方のヴォスロール村に生まれました。バイユの神学校を卒業後、パリ外国宣教会に入会、1868年(慶応4年)宣教師としてだけではなく石版印刷の技術を伝えるために28歳で来日しました。74歳で亡くなるまでの46年間を日本で過ごし、そのうち33年間を神と外海の人々に仕えようと意を尽くし、貧しく厳しい生活を強いられている人々の魂と肉体を救うため、社会福祉や産業開発などに力を尽くしました。
ド・ロ神父は、建築技術にも造詣が深く、明治8年完成の旧羅典神学校(国指定重要文化財)をはじめ、教会や各種施設の建築を手掛けています。ド・ロ神父の建築は、風土に密着した洋風建築で、堅牢で実用的なところに特色があります。
旧羅典神学校、出津協会、大野協会、旧出津救助院は世界遺産候補「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の構成資産に選ばれています。
旧出津救助院
国の重要文化財に指定されている旧出津救助院は、ド・ロ神父が村人の窮状を救うために資材を投じて設立した授産・福祉施設で、後に修道会に発展します。明治16年(1883)に授産場が竣工、その東側にマカロニ工場を配し、道路に面する一部は、神父の独自の工法で築かれた「ド・ロ堀」があります。続いて、鰯網工場(現ド・ロ神父記念館)が明治18年に竣工しました。授産場は、木造及び石造二階建寄棟造りで一階をマカロニ・ソーメン製造・染色・搾油作業場、二回を機織工場や修道女の生活の場、礼拝堂として用いられ、使用された機械器具はド・ロ神父がヨーロッパ諸国から購入したものでした。この3棟の建物は、明治初期の授産、福祉施設という他に例をみない貴重な遺構です。また、我が国近代における西欧建築技術受容の一端を知るうえで重要で、歴史的価値が高く、顕著な地方的特色を有する文化財です。
出津教会は明治15年(1882)、ド・ロ神父の設計・施行により建てられた教会で、住民の心のよりどころとなっています。創建時から2回の増築を経て現在の形になりました。ド・ロ神父はこの教会を建てる時にも、台風の被害を避けるために屋根を低くしたり、視線を祭壇に向けさせるために平天井にするなど独自の工夫を凝らしています。
外海歴史民俗資料館
外海のキリシタン
1549年、フランシスコ・ザビエルが、鹿児島に渡りキリスト教の布教を始めてから、西彼杵(にしそのぎ)半島は長崎県平戸に次いで、早くからキリスト教が栄えたところである。当時村人たちのくらしは貧しく、交通も不便で恵まれない環境の中にありながらも、自然の幽玄な美しさがあり、そこに住む村人たちの精神活動は極めて旺盛であったと伝えられる。
なかんずくここ外海(そとめ)は、宣教時代、迫害時代、そして明治六年(1873)キリシタン禁止高札撤去までの約250年間、長い険しい苦難の歴史に彩られている。
藩主大村純忠が、1562年、トーレス神父に内海の横瀬浦を開港して翌年に授洗(この時、日本初のキリシタン大名となる)した。純忠に続いて家臣たちもキリスト教に改宗した。間もなく後藤貴明のクーデターで横瀬浦が焼打ちされ、宣教師たちの普及活動も挫折した。
二年後、宣教師たちは福田港を根拠地として、長崎外海地方にキリスト教を広めていった。
1592年、外海では神浦(こうのうら)の教会が中心となり、城主神浦正信、その子息正房もキリスト教になった。その頃は大村領全域がキリスト教化していた。
1614年、徳川家康の迫害によって多くの宣教師は投獄、火刑、斬首、熱湯責め、穴吊りなどの激しい拷問を受けて殺された。
1630年には外海の池島、出津、黒崎、永田のキリシタンが捕らえられ、火刑や斬首の刑を受けた。幕府は1636年から西彼杵半島の海岸に小番所を設けて、外国船の取り締まりとキリシタンの動きを監視した。
キリシタンは潜伏し、あるいは殉教する中で、絵踏みや間引きによる幼児殺しまで強要された。そのため多くのキリシタンは財産を捨て、信仰と自由の安住の地を求めて、五島、平戸へと逃散した。
西彼杵半島を布教した最後の宣教師は、金鍔次兵衛(きんつば じひょうえ。修道名:パードレ・トマス・デ・サン・アウグスチン)といわれる。
その後宣教師は日本にいなくなった。キリシタンたちは指導者を失い、ひそかにコンチリサン(キリシタン用語で、痛悔の祈り)を唱え、バスチャン暦を大切に守り、バスチャンの予言を信じながら、肉体と精神的非道な拷問に耐えてひたすら信仰を守り続けた。1868年、太政官のキリシタン禁令が公布され再び弾圧が始まった。肥前佐賀藩に属する外海のキリシタンは、高島炭鉱、深堀の堤防工事など強制労働にかり出されたり、算木責め、吊り責め、たたき責めなどのむごたらしい拷問にかけられた。
1871年、岩倉具視一行のヨーロッパ使節団に向けられた諸外国の人道上の問責と道理の説得に反省し、1873年やっと日本にキリスト教禁止の高札がおろされたのである。
外海はキリシタンの母郷といわれ、迫害に耐えたキリシタンの子孫たちが、宣教師の到来を待ちうけて、自由に明るい信仰の灯火を灯し続けて今日に至っている。
ここに展示するキリシタン資料は、外海キリシタンたちの永い苦難の時代の貴重な遺品である。
外海から長崎に向かう途中で入った回転すしやさんで食べた美味しかった貝・・・なんだったかなぁ・・・
《内容》
トンネルを抜けたら、ガードレールの切れ目をすぐ左折。雑草の生える荒地を進むと、小さな岬の先端に、ふいに喫茶店が現れる。そこには、とびきりおいしいコーヒーとお客さんの人生にそっと寄り添うような音楽を選曲してくれるおばあさんがいた。彼女は一人で喫茶店を切り盛りしながら、ときおり窓から海を眺め、何かを待ち続けていた。その喫茶店に引き寄せられるように集まる人々―妻をなくしたばかりの夫と幼い娘、卒業後の進路に悩む男子大学生、やむにやまれぬ事情で喫茶店へ盗みに入った泥棒など―心に傷を抱えた彼らの人生は、その喫茶店とおばあさんとの出逢いで、変化し始める。心がやわらかさを取り戻す、感涙の長編小説。 (紹介文より)
―――生暖かいしずくが、私の左右の頬をつるつると伝い落ちて、くたびれたシーツに吸い込まれていたが、放っておいた。ただ、唇をぎゅっと閉じて、ややもすれば喉の奥から漏れそうになる声を押し殺すことに心を砕いていた。
―――いろいろあって、自分の未来に夢も希望もないんあったら、他人の未来を祈ればいいじゃない。
「お茶の淹れ方教室」の講師をしてきました。
田無小学校の《食育の授業》です。生徒は皆好奇心旺盛で楽しく授業ができました。
自分たちでお茶を淹れて飲むのは初めてだけど、美味しそうに飲む子や渋いけど
美味しいなどといいながらも、とても楽しそうでした。家に帰ったら家族の人にぜったい
淹れて飲ませてあげたいと言ってました。「だけど、家に急須が無いんだよね」だって
授業の最後のお礼の言葉には、とても感動させられました。
今回が初めての講師経験だったので、当日まではうまくやれるのか心配だったのですが、
ほんとに引き受けてよかったと思いました。
松浦史料博物館は、昭和30年(1955)10月西海国立公園の指定と前後し、松浦家39代 陞(すすむ)氏により資料等を寄贈され設立されました。建物は鶴ヶ峰邸と称して明治26年(1893)に建てられた当主の私邸であったものです(県指定有形文化財)。
博物館敷地周辺は、鎌倉時代の平戸松浦氏の本拠地です。またオランダ・イギリス貿易時代は藩主の邸宅が置かれており、ウィリアム・アダムズをはじめ各国の要人が出入りした歴史ある場所です。 (パンフレットより)
天保2年(1831年)丹波篠山城主青山家の息女イサ姫が、平戸藩主松浦(まつら)家に輿入れの際の婚礼道具のひとつ。
在長崎日蘭貿易絵巻 (長崎県指定文化財) 平戸オランダ商館は、1641年に 長崎出島に移転した。出島のオランダ商館の様子を描いている。
平戸の海外交流関係年表
1498年 ヴァスコ・ダ・ガマ、インドに達する
1534年 イエズス会、設立
1542年 中国人海商・王直、この頃平戸に本拠を置く
1543年 ポルトガル人、種子島漂着、鉄砲の伝来
1549年 フランシスコ・ザビエル、鹿児島に来る
1550年 ポルトガル船、初めて平戸に入港、ザビエル平戸に来る
1557年 王直、明で捕まる
1558年 1568年まで、倭寇、明沿岸、東南アジア各地に猛威を振るう
1561年 平戸港で宮ノ前事件発生、ポルトガル人多数殺害される
1565年 ポルトガル船、福田港(大村領)入港、平戸の兵船、福田港を襲撃する
1587年 豊臣秀吉、伴天連追放令を発令
1600年 リーフデ号、豊後に漂着。イギリス、東インド会社設立
1602年 連合オランダ東インド会社(V・O・C)設立
1605年 リーフデ号船員を平戸より帰還させる
1609年 オランダ船、平戸入港、商館を設置する
1613年 イギリス船、平戸入港、商館を設置する
1616年 オランダ・イギリス貿易を平戸と長崎に限定される
1619年 平戸のオランダ・イギリス同盟設立
1620年 リーフデ号生存者ウィリアム・アダムズ(日本名 三浦按針)平戸で没
1623年 イギリス商館、閉鎖
1624年 鄭成功(ていせいこう)、平戸に生まれる
1635年 唐船貿易を長崎のみに限定される
1636年 長崎出島完成、ポルトガル人収容
1637年 島原の乱起こる
1639年 ポルトガル人、日本追放。オランダ人及びイギリス人との混血子女とその母親をバタヴィア(インドネシアの首都ジャカルタのオランダ植民地時代の名称)に追放
1640年 平戸オランダ商館の破壊を幕府に命じられる
1641年 平戸オランダ商館の長崎出島への移転を命じられる
1648年 鄭成功、江戸幕府に明朝回復の援助を求める
1662年 鄭成功、台湾のオランダ軍排除、同年没
1715年 近松門左衛門「国姓爺合戦(こくせんやかっせん)」著す
1782年 平戸オランダ商館時代のオランダ船錨、海中より引き揚げられる
生月鯨太左衛門(1827.4.16~1850.7.3)
肥前国松浦郡(現在の長崎県平戸市生月町)出身の江戸時代の力士。身長227cm、体重169kg。(ちなみに横綱白鵬関は192cm・158kg。映画スター・ウォーズのチューバッカは約230cm)
またまた坂を・・・・・今度は下りまして
平戸港に
このあたりからずーーーっと歌う声が聞こえてくるのです。
佐世保に着く少し前に左へ曲がって行ってしまいましたが、すごい声量でした。
海上自衛隊佐世保史料館 愛称 セイルタワー
海上自衛隊及び大日本帝国海軍に関する史料館です。内容は充実しています。無料で見学ができます。
《内容》
わずかな土地に5千人がひしめく炭坑の島、軍艦島。少女の事故死を疑う若き警察官・荒巻の“許されざる捜査”は、しきたりや掟に支配された島に波紋を広げていく。(紹介文より)
歴史とロマンの島 平戸
長崎県の北西に位置する平戸市は400年ほど前、日本で最初の西洋貿易港としてイギリスやオランダとの交流が始まった場所です
オランダ街道ここに始まる
日本初の和蘭商館開設の地・平戸、その後200年をこえて和蘭商館が置かれた長崎・出島。オランダにとってゆかりの深い二つの地点を結ぶ道路を、蘭日交流400周年を記念してオランダ街道と命名されたことは、両国の歴史に新しいページを書き加えるものである。
この趣旨に心から賛同すると共に、蘭日両国の交流がさらに発展するよう記念して、この記念碑を建立する。
2000年4月21日
オランダ王国 ウィレム・アレクサンダー皇太子殿下
平戸に古くから伝わる豊年祈願の踊りの「平戸ジャンガラ」が、市内9地区で行われます。華やかに飾った簑笠を頭にかぶった踊り手と、腰に小太鼓を結びつけた囃子手の組が、笛や鉦、太鼓の音が響き渡る中を軽やかに踊り歩きます。国の重要無形民俗文化財に指定されています。 (紹介文より)
平戸に着いて、まさか「平戸じゃんがら」が見れるとは思っていなかったので、なんだか嬉しくなりました。
平戸オランダ商館
平戸オランダ商館は、1609年に江戸幕府から貿易を許可された東インド会社が、平戸城主松浦隆信公の導きによって平戸に設置した、東アジアにおける貿易拠点です。オランダ商館長日記などの記述によると、当初は土蔵の付属した住宅1軒を借りて始まり、その後、貿易が拡大するに従い、1612、1616、 1618、1623、1637、1639年に順次施設の拡大整備が行なわれました。特に、タイオワン事件(台湾での中国貿易をめぐるオランダ商館との紛争事件)によって1628年から5年間交易が途絶えた後の1637年と1639年に建設された倉庫は規模が大きく、充実した貿易の象徴でした。
しかし、1640年11月9日、将軍徳川家光の命を受けた大目付井上政重により、1639年建造の倉庫にキリスト生誕にちなむ西暦の年号が示されているとして、当時の禁教令の下、全ての建物の破壊が命じられました。
1641年5月には、商館は長崎出島へ移転。これによって、33年間の平戸オランダ商館の歴史に幕が下ろされました。以降、跡地は平戸の町人地となり、「御船手屋敷」(船を操る人たちの屋敷)が建ち並びました。 江戸時代の絵図をみると、井戸に「阿蘭陀川」、塀に「阿蘭陀塀」と書き込まれており、商館の遺構のいくつかは、江戸時代を通じてオランダの名を付して呼ばれていました。
1922年、跡地は「平戸和蘭商館跡」として国史跡の指定を受け、1987年からは本格的な発掘調査が開始されました。その結果、文献史料等から断片的にしか知ることのできなかった商館が、歴史的な事実として確かめられつつあります。
平戸の歴史と文化を考える上でも重要な史跡をよりわかりやすく見てもらおうと、現在、商館施設として充実した1640年頃のオランダ商館の建物復元、環境整備を進めています。この時代は、江戸時代初期の国際貿易、キリスト教の布教・禁教など、わが国の対外政策の歴史を考える上でも重要な時期にあたります。海の町・平戸の歴史を体験できる場として、また、平戸瀬戸をのぞむ景勝地の憩いの場として、「よみがえる平戸オランダ商館」にご期待ください。 (サイトより引用)
オランダ商館から見える平戸城
寺院と教会の見える風景
寺院に重なるように天主堂の尖塔が望まれる場所。港から見上げると光明寺。その下が瑞雲時。
異国情緒がたっぷり。
長崎県は坂が多いってほんとです。
まして暑いと・・・
坂を上って行くのがけっこう大変です。10歳若ければ違うのかなぁ
《内容》
45歳、総務課長の藤巻大介の出向先は「あすなろ大学応援団」。団員ゼロで廃部寸前の「団」を救うため、大介は特注の襟高学ランに袖を通す決意をする。妻と娘は呆れるが、オヤジ団長・大介は団員集めに奔走し…。 (紹介文より)