11月、綺麗になった日光東照宮へ学生時代の友達と・・・一泊旅行
お昼は『水無湧水庵』で新そばを食べました
そばもですが天ぷらも美味しかった
11月、綺麗になった日光東照宮へ学生時代の友達と・・・一泊旅行
お昼は『水無湧水庵』で新そばを食べました
そばもですが天ぷらも美味しかった
去年の11月です
大山公園は、東北本線西那須野駅の東南約500メートルに位置し、東側には大山厳公爵の墓所、西側には戦没者の慰霊塔があります。東西に伸びる参道はモミジ並木となっており、紅葉の時期には園内が真っ赤に染まります。 (紹介文より)
所在地 栃木県那須塩原市下永田2丁目3番地
『スキー部』としては初めてのスキーをしない旅行
9月2日(日)栃木県に行きました
このときは雨がやんでた・・・・・・
八溝山地のふところ深く、清らかな渓流に沿う境地に、臨済宗妙心寺派の名刹、雲巌寺があります。筑前の聖福寺、越前の永平寺、紀州の興国寺と並んで、禅宗の日本四大道場と呼ばれ、山門の正面にある朱塗りの反り橋を渡って石段を登ると、正面に釈迦堂、獅子王殿が一直線に並ぶ代表的な伽藍配置となっています。俳聖松尾芭蕉は、この地で「木啄も 庵は破らず 夏木立」の句を残しています。 (大田原市観光協会より)
松尾芭蕉は、元禄二年四月五日(1689年)に雲巌寺にある仏頂和尚の山居の跡を見ようと人々をいざない山道をにぎやかにうち興じ、遠近の景を賞でながら山門をくぐった。
『奥の細道』に「かの跡はいづくのほどにやと後の山によぢのぼれば、石上(せきしゃう)の小庵(せうあん)岩窟にむすびかけたり、妙禅師(めうぜんじ)の死関、法雲法師の石室をみるがごとし。
木啄(きつつき)も庵(いほ)はやぶらず夏木立(なつこだち)
と、とりあへぬ一句を柱に残侍(のこしはべり)し」とある。
仏頂和尚は、常陸国鹿島根本寺の住職で、鹿島神宮との寺領争いを提訴のために江戸深川の臨川庵に滞在していた。芭蕉はこの時に仏頂和尚との交渉を持ったという。また参禅の師ともいう。和尚の山居の歌に「たて横の五尺にたらぬ草の庵(いほ)むすぶもくやしあめなかりせば」があり、芭蕉が山居の跡をみようとしたいわれの歌でもある。
芭蕉は樹下石上の小庵をなつかしみつつ、さすがの木啄も、この高徳な仏頂和尚の庵だけは破らぬという冷産の句を柱に残して惜別した。 芭蕉の里 くろばね (案内板より)
ちょうど雨があがってよかった!!
ほんと、雨男だと思う。 天気が良ければさぞかし紅葉も綺麗に撮れると思うけど・・・・
源三窟の由来
この洞窟に隠れ住んでいた源有綱は源平最後の合戦壇ノ浦の戦い(1185年)で、源義経とともに戦った義経腹心の家来であったため、 壇ノ浦の戦いの後、源頼朝軍に義経一族として追われ、大和国(奈良県)方面より塩原へ逃げこんできたと伝えられています。塩原地内をさまよっていたところを地元の城主であった塩原八郎家忠に捕えられましたが義経一族とわかり、 命だけは助けられこの洞窟内で落人の生活に入りました。再起を計ろうとしましたが、洞窟内に流れる滝水で米をとぎ、そのとぎ汁が洞窟の外へ流れ出たことにより 頼朝軍に発見され、無念の最期を遂げたと伝えられています。なお、源三窟という名前の由来は、有綱の祖父源三位頼政の源三位をとり、開業時(明治43年) は源三位穴という名前でしたが、その後源三窟と変わっています。 (史跡鍾乳洞 源三窟 参照)
栃木県那須塩原市にあります。
入館料は600円です。
塩原八幡宮。
・・神秘的です。
逆杉 国指定天然記念物
約1500年以前より湧水等の恵まれた環境の中で今日なお樹勢盛んな杜の巨木杉、
当境内に多くの根株のみを留めている当初よりも杉の中で逆杉二本は御神前の東西に並ぶ、
連理の御神木として古くより夫婦杉と称せられ相生の杉の御神徳高い杉として敬われている
梢に近く高い幹に垂れた太い枝が多いところから逆杉と呼ばれるようになる。
いい天気でよかった~
【旧塩原御用邸】
塩原温泉は雄大な自然と湯量豊富な良質の温泉とに恵まれた温泉郷で、古来より多くの人々に愛されてまいりました。その塩原にはかつて皇族の別荘として「塩原御用邸」がおかれていました。皇族と塩原のかかわりは古く、その始まりは明治三十五年にさかのぼることができます。時の皇太子殿下のちの大正天皇には、塩原温泉に避暑のため行啓(ぎょうけい)になられ、翌三十六年にも前年に引き続き行啓になられました。皇太子殿下には、塩原滞在中その自然、気候、温泉等を大変お好みになられ、そのため福渡の地に別荘を所有していた那須野が原開拓の祖・栃木県令三島通庸(みちつね)の嫡男・三島弥太郎が、その別荘地献上を宮内省に願い出、明治三十七年に「塩原御用邸」が構えられました。
皇太子殿下には天皇となられてからも塩原の地を愛され、また貞明皇后をはじめ御幼少の昭和天皇、秩父宮殿下、高松宮殿下、ご結婚前の香淳皇后をはじめ、多くの皇族方に塩原御用邸はご利用されてまいりました。
特に澄宮としょうされた三笠宮崇仁親王殿下には、六歳の夏より十年間にわたり毎年夏の御利用があり、そのため塩原御用邸は「澄宮御殿」とも称されていました。戦前から戦時中には御幼少の今上陛下、常陸宮殿下がご利用になられ、戦局が悪化すると昭和天皇の皇女であられた孝宮、順宮、清宮の三内親王殿下が終戦の後までの一年余りを疎開先として御利用なられました。
戦後、御用邸は香淳皇后より「視力障害者の保護のため使用するよう」との思し召しをたまわり厚生省へ移管され、昭和二十二年には全国御巡幸中の昭和天皇、香淳皇后の行幸啓をたまわりました。昭和二十三年には国立塩原光明寮が開設され、同三十九年には、国立塩原視力障害センターと改名し、視力障害者の方たちの社会復帰施設となりました。
旧塩原御用邸の御座所は塩原の人たちから敬愛を込めて「天皇の間」と呼ばれ、昭和五十六年この地に移築公開され、「天皇の間記念公園」としてかつての皇室の別荘地としての往時を今に偲ばせています。
【建物の概要】
塩原御用邸の中心部に位置した「御座所」は、木造平屋建て間口八間奥行七間、面積は二百五十一・六平方メートル、屋根は銅版平葺きです。建物の構造は田の字型の平面で、周囲を入側で囲みその外側に板縁を東南西の三方にめぐらせています。内部は長畳敷き、壁は皇室独自の美濃和紙を使った袋張、照明器具は洋風のものが使われ、御寝所の四方の柱には蚊帳を掛けるための釣り金具がつけられています。御厠は漆塗りの畳敷きで、健康状態のチェックのため外部に向かって引き出し式の車がついています。敷居には樫木が埋め込まれ、窓の木製レールには水抜きがされて、大変精密な施工がなされています。昭和五十六年には、栃木県有形文化財の指定を受けています。 (パンフレットより)
建物を見学するより、こちらが気になって・・・・。
前山八方ヶ原散歩道
栃木県宇都宮市にある大谷石建築のカトリック教会
大谷石建築としては最大級(現存)のロマネスクリヴァイヴァル建築
1988年に国の登録有形文化財に登録された
旧日光田母沢御用邸は、皇太子嘉仁親王(大正天皇)のご静養のため、明治32年(1899)に造営されました。その後、大正天皇のご即位に伴い、大正7年から9年にかけて大規模な増改築が行われ、現在の姿になりました。また、この建物のうち主要な三階建ての部分は、旧赤坂離宮から移築されました。移築されたのは明治6年から明治22年まで赤坂仮皇居として、明治天皇のご宸居にあてられていた部分です。昭和19年には、皇太子明仁親王(今上陛下)も疎開のため約一年間にわたり滞在されております。
この建物は明治・大正期に造営された御用邸の中でも最大規模を誇る木造建築で、建築面積約4500㎡(1360坪)部屋数は106室あります。
建築様式としても、数奇屋風書院、宮廷風、和洋折衷様式と様々な意匠を見ることができます。江戸期、明治期、大正期と三時代に渡る建物が調和して御用邸の機能を果たしており、歴史的、文化的に極めて貴重な建築として位置づけられています。 栃木県では、平成10年度から修復整備を行い、広く県民が歴史・文化を体験できる記念公園として一般公開いたしました。 (説明文より)
1896(明治29)年 夏、皇太子嘉仁親王(のちの大正天皇)は日光山内にあった妹の昌子内親王の御用邸(日光御用邸)に約2か月半滞在した。その結果、この時期の日光の風土が健康に適していることが確かめられ、嘉仁親王のための御用邸を新設することが決定したのである。
敷地には、地元出身の実業家小林年保が所有していた名庭『日光田母澤園』を中核にあてれこととなった。日光二荒山神社の神橋から上流へ約1キロメートル、大谷川に南面し、園内を田母沢川が流れる閑静で風光明媚な土地であった。測量や設計を済ませ、明治32年1月に起工。延べ4万人の工人を動員し、半年後の6月30日日光田母沢御用邸は完成した。
床は欅の柾目寄木張りとなっています。90年以上過ぎた現在でも全く狂いがなく『匠の技』が生きています。
主屋には、赤坂離宮より移築した三階家があてられた。また、すでに日光田母澤園内にあった小林家別邸を女官部屋等とし、そのほか附属室や台所廻り部分は新たに建てることになった。この時点での御用邸の建築規模は約862坪である。
今回見ることができなかった 、三階御展望室の特別公開予定期間は
平成24年12月15日~平成25年1月31日
建物の中はすごく涼しくて外にいるよりは一枚多く着たほうがいいくらいでした。
御用邸きんつばをお土産に買いました。