兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

『夏への扉』は「処女厨小説」である

2016-07-03 10:52:48 | レビュー


 さて、前回の続きです。
 前回同様、『夏への扉』のネタバレ全開で行きますので、ご了承ください。
 それと最後の方で『ゲームウォーズ』という小説のネタバレもあります。それについても御了承いただきたいと存じます。

 1957年にロバート・A・ハインラインによって書かれたSFの古典的名作『夏への扉』。本作はベルに裏切られてリッキーと結婚するまでの、ダンの女性遍歴の物語であるとも言えましょう。
 本作のヒロインであるリッキーは、11歳の美少女。まさに「萌えキャラ」として描かれており、そのために本書は度々「ロリ小説」と形容されます。
 冒頭でベルとマイルズに騙されたダンは、残された財産をリッキーに託そうと考え「女に騙された直後にまた女を信頼するのは人がいいかも知れないが、彼女はまだ男を惑わす身体的特徴を持っていない。彼女が女なのは顔だけだ」と独白します。これは要するに、ダンがリッキーに性的な欲望を抱いていないからこそであり、その意味で本作は「ロリ小説」などであるはずがないのですが、しかし逆に言えばそうした少女の聖性をこそ、ダンは担保にしているわけです。
 また、これは特に意図的なものではなく構成上そうなっただけなのでしょうが、リッキーは前半では直接の登場がなく、最後の最後、未来へ帰る前のダンが声をかけるのが「初絡み」。そこがまた、リッキーを「ダンの脳内の理想の少女像」のように思わせることに一役、買っています。
 一方、悪役であるマイルズとベルを見ていると、ベルの比重が、妙に高いことに気づかされます。
 ダンの婚約者として猫を被っていた頃から、リッキー(そしてピート)はベルを嫌い続け、ダンを裏切った後のベルはむしろマイルズを顎で使うように主導権を握り、どこで手に入れたのか自白剤をダンに打ち込むという芸当までみせます。
 案の定、後に彼女はかなりタチの悪い女性犯罪者であると判明。
 ところが、未来世界ではベルがダンに接近してきます。会ってみるとベルは安アパートで老醜をさらしています。60歳の女優が少女役を演じられるほどにアンチエイジングが発達しているこの時代で、しかし彼女は醜く老いさらばえて、にもかかわらず自覚はなく露出の高い服装をしている。ダンは「かつてはよく切れたおつむも、もうぼけている。残されたものは、自惚れと過度の自信だけだ。」と容赦なく形容。
 ベルは過去の悪行を「あなたのためにやったのだ、あなたはあの時病気だったのだから」と自分に都合のいい具合に思い込み、都合の悪いことは全てマイルズやダンのせいにして泣きわめきます。豊幸剤(合法ドラッグのようなもの?)を飲んで泣く彼女を、ダンは「泣くのを楽しんでいるのかも知れない」と分析します。
(裏腹に、マイルズはあっさり死んだとだけ語られ、それっきりです)

 さて、となると、果たして本作はロリ小説か。
 真性のペドファイルならばこう思うことでしょう。
 つるぺた幼女のリッキータンをわざわざ二十歳にまで老化するのを待つなんて正気の沙汰じゃない!!
 また私見ですが、ペドファイルというのは自分の精神年齢にあわせて性的パートナーを選ぶ、一種の幼児性が本質であるように思います。
 一方、「萌えキャラ」という時、通常、その年齢は中高生辺りのロー~ハイティーン。これは(仮にキャラをリアルに置き換えた場合)真性のペドファイルとは言えませんが、いわゆる(俗語としての)ロリコンの範疇には入るでしょう。
 しかし、「大人の悪女」であるベルを婚約者にしておきながら裏切られ、「まっさらな処女性こそが尊い」という価値観に至るという本作の構造を鑑みた時、女性がこれを「ロリコン“的”」と捉えることにはある程度の普遍性があるのかなあ、という気がします。
 例えば『あしながおじさん』、『プリンセスメーカー』と、少女を自分好みの淑女に育てるといったモチーフは、ある程度の普遍性がありますよね。本作は大人になるまでの十年間、丸きり放置なのですからまた違うはずですが、むしろ上にあるように「十年間ダンを想い続けた」こと自体が、リッキーの処女性を担保しているわけです。
 それはロリではないけれども、しかしある種の人々からすると、それこそが何より許せない。
 これらを鑑みるに、本作を正しく形容するには「ロリ小説」ではなく、「処女厨小説」、とでも評するのが正しいように思います。
 ――などと書くと、本書のファンからお叱りを受けるかも知れません。
 というのも「処女厨」という言葉に、ポジティブなニュアンスが込められていると考える人は少ないからです。
 なるほど、「処女厨」といった時、例えばスキャンダルの報じられた声優に嫌がらせをするなど、ネガティブなイメージを持った人物像がイメージされることが多い。
 しかし同時に「好きな相手が処女であってほしい」と望むこと自体は男性側の願望としてある種普遍的であり、また一夫一婦制に代表される「性のパートナーは固定されていることが望ましい」とするぼくたちの価値観とも親和性がある。
「女性にばかり処女性が求められることがサベツ的で許せぬ」と主張したい人は、まず女性側の「童貞で許されるのは小学生までよね」な、自分より強者である男性を望むセクシュアリティにこそ苦言を呈するべきでしょう。
 つまり、『夏への扉』の女性観はいささか男性寄りではあるが、それ自体は普遍的であり、そこまで歪んだものとは思えない。
 しかし女性側にはそれを不快に思う者もいる。
 そして、その不快さの本質を鑑みるならば、その理由は本書を「ロリ小説だから」と称するよりは「処女厨小説だから」と形容した方が近いのだけれども、女性の主観ではそれらを選り分けることが難しく、結果、「ロリ小説」との評が確立しているのであろう。またここで「処女厨」という言葉を出さざるを得なかったように、男性のセクシュアリティを価値中立的に形容する言葉がない辺りに、ある種の男性の立場のなさが現れてもいる。
 更に言うならば、そうした「男の心情を語る言葉の貧困さ」それこそが、「オタ充」に至るまでのぼくたちの困難さを象徴してもいる。
 とまあ、そんなことが、ひとまずは言えるように思います。

 もっとも、今まで「女性観」と書いてきましたが、それはむしろ「恋愛観」とでも称した方がよかったかも知れません。本作の女性そのものについての描写は、確かにやや辛辣です。
 ちょっと、補足していきましょう。
 本作にはもう一人、重要な女性キャラが登場します。タイムマシンで70年の世界に舞い戻ったダンを助けるサットン夫妻、その妻であるジェニーです。
 彼女は女性の善性の象徴として描かれる好人物である一方、女性の単純さを象徴する人物でもあります。ダンのタイムトラベルについて、旦那のジョンは当初は半信半疑で、証拠を出されるに従って信じざるを得なくなるのですが、ジェニーは「そんなことには興味を持たない人間」として描かれます。ジョンはジェニーを「彼女は君(ダン)が何者でどこから来たか、なんてことは気にしていない。ただ君が好きなんだ」と評し、彼女に事情を打ち明ける必要はないと判断します。「女を男の領域から排除しようとするホモソーシャリティ」と評したい方もいらっしゃるでしょうが、ぼくにはジョンがジェニーを理解しているという、ぐっと来る場面に見えます。
 また、リッキーは成人して美しい娘として姿を現しますが、やはりダンの(人工冬眠ではなく、タイムマシンを使った)タイムトラベルについては理解を示しません。ダンが説明しようと「モルモットをタイムトラベルさせる」例え話をして、「モルモットが同一個体であることを示すため尻尾をちょん切る」と言ったのに対し、リッキーは「モルモットに尻尾はない」と突っ込みます。
 そしてダンは「彼女は、尻尾のないことがなにかの証明になったと考えているようだった。」と評します。
 ここ、ぼくは読んでいて舌を巻きました。
 おわかりでしょうか。即ち彼女は論理を解せず、モルモットの件で間違いを正したことが問題の本質に対して意味を持っていると取り違える、やはり「単純な」人物として描かれているのです。
 こうした道理の通らない、そのくせ自信満々の反論というのは、本当に、全く持って非常にしばしば、フェミニストから、うんざりするほどに頂戴してしまうものです。
 むろん、リッキーはダンと敵対的ではない、善良な人物です。しかし「タイムマシン」など彼女にとっては意味のない異物であり、それを排除しようとして、このような一面を覗かせてしまったのです。
 それを見事に描写しているハインラインの辛辣さに、ぼくはちょっとたじろいでしまいました。
 未来の世界でのダンの同僚は「女は機械と同じだ、その動きを予測することは不可能だ」との持論を展開しますし(ここ、いきなり数行ほどだけ描かれ、話の流れとは何も関係ない箇所です)、そもそも冒頭で描かれる、ダンの女性観自体がシビアです。
 彼は「おそうじガール」を初めとして主婦向けの家電ロボットばかりを開発しています。それについて「第二の奴隷解放宣言」だと称する一方、彼は「女性は(スイッチ式の家など欲しがらない、何故ならば)自らのコントロール下における家電を欲しがっているのだ、メイドが世から姿を消しても、彼女らはそれを欲するのだ」云々と語ります。
 正直この辺りの記述は曖昧で意味の取りにくい部分も多いのですが、どうもダンは「女性は、目下の女性については冷酷で支配的である」といったことを指摘しているようなのです。ここ、目下のフェミニストが自分たちを働きやすくするためには第三世界の女性をメイドとして雇い、搾取することを厭わない様子を思わせますね。
 しかし一方、ちらっと出てきた夫婦の担当官は、「旦那が規則にうるさいのに、嫁は『男は何故規則が好きなのだ』と融通を利かせてくれる」キャラとして描かれており、上のサットン夫婦がそうであったように、「男の論理性に女の情緒性が備わることで、人は完全性を発揮する」とでもいったような男女観を、本作は持っているように思われます。
 むろん、何しろ六十年前の作品ということもありますが、いずれにせよ本作の女性観は極めて古典的な女性ジェンダーに忠実であると言えます。
 正直、ぼくの感覚から言っても「古いな」と感じはするのですが、しかし現代の、「男と女を違うものであるとすること自体がまかりならん」といった偏狭な正義がハインラインに比べて正しいとはぼくには思われません(すみません、ここで『スターシップトルーパー』について語るべきなんでしょうが、映画、小説とも未見なんでよくわかりません)。
 翻って日本のオタク文化を鑑みれば、その黎明期に「ファリックガール」が流行したことが象徴するように、ある種の「ジェンダーフリー性」を獲得してはいます。しかしそれは例えば、「男の子が理想的自己像として構築したファリックガールを、女の子がパクってそこからファルス性を取り除いた時、初めて評価される(そう、『セーラームーン』のことですね)」ことが象徴するように、いくつものいくつものトリックが仕込まれたものでした。
 その果てに待っていたのが「萌え」、即ち「女性というものは二次元の世界にしかいないのだという悟り」であったことは、皮肉としか言いようがありません。
 アメリカで近年ヒットしたSF小説に『ゲームウォーズ』というものがあります。ヴァーチャル世界でオタク少年が大活躍、といったお話であり、そこには『ウルトラマン』や『ガンダム』など日本のオタクカルチャーへの熱いオマージュが溢れ、また、主人公の少年が最後は金持ちになり、恋人をも手に入れるという、本作と同じサクセスストーリーが展開されました。しかし、終始ヴァーチャル世界で活躍しながら、最後は「リアルな女性」を恋人にし、「二次元より三次元の方がいい」で終わってしまう辺りに、日本のぼくたちは「ズコー」となってしまいます。
 そう、ハインラインが古典的女性ジェンダーを肯定しているのと同様、「オタクでありながら、こと女性については三次元での幸福」を追求するのがアメリカ流。そこにはある種、揺らがぬジェンダー観があり、男も男性ジェンダーに則って生きるのが望ましい、との信頼感があります*1。
 翻って、「女性についてのオタ充を追求した結果、二次元のファリックガール*2を選ぶ」のが日本流。
 別にどちらが正しいというわけでもないのでしょうが、DQN的であるが故に、リアル女性とうまくやってしまえるのがアメリカ流、オタク的であるが故に、リアル女性とはすれ違い続けるのが日本流。いずれにせよオタ充への道は遠く険しいのだ、と申さねばなりません。

*1 もっとも、『ゲームウォーズ』では主人公のネット上での親友が実は「黒人女性でレズビアン」であった、とのオチがつきますが(何というPCの乗っけ盛りでしょう!)、しかしその「親友」が「彼女」にならない辺りがまた、アメリカ流でもあるわけです。
*2 「レーザーブレードを手に怪物を倒す」という意味あいでの「ファリックガール」のブームは三十年近く前のものではありますが、ぼくたちは二次元美少女に、基本的にはハインラインが描くような女性的女性ではなく「ぼくたちと同じメンタリティの主」を求めることが多いように思います。


 最後にオマケです。
 大人版(新訳版)と児童版(『未来への旅』)との違いをちょっと、表にしてみましょう。



 子供向けと言うことでしょうが、全体的にジェンダー観がソフト化していることがわかります。
「アラジン社」というのは未来の世界で「おそうじガール社」とシェアを二分するロボットカンパニーの大手であり、実は70年代に戻ったダンが設立していたものであった、とのオチがつくのですが、大人版ではダンがさっさと「会社の名前はアラジンにしてくれ」と段取りで進言するのに対し、児童版ではジェニーが提案、そこでダンは初めて「あっ、あの会社もぼくが作ったものだったのか」となります。やはりこの辺りは児童版の方が読んでいてわくわくします。
 また、最後のリッキーがタイムトラベルを止める下りなど、なかなかいい翻案ではないでしょうか。いずれも「女性が、女性らしさ自体は保ちつつ、しかしもう一歩こちらに足を踏み入れてくれている」存在として描かれているという、言ってみれば「萌えキャラ」的解釈が、ここでは施されているわけです。
 一方、2000年の描写については「散歩という概念そのものが失われている」「精神改造病院というものがある」といった風に描かれ、一方では「人々が野球の観戦を楽しんでいるのを見たダンが、やはり変わらない部分もあると勇気づけられる」といったいかにも日本人的な描写が入る、という感じで、妙にオリジナル要素が強い(それにしても、現実の新世紀での野球人気の不振ぶりを、SF作家はどう見ることでしょう!)。原作が書かれた57年と児童版の68年の間に「未来観」にも変化があったからでしょうが、ここは原作の未来への信頼感に対し、いささか余計な手が加えられている感じです。

夏への扉

2016-07-01 06:08:29 | レビュー


 どうも、気づくとお知らせ以外の更新が随分と滞っておりました。
 最低月一回は更新しようと思っていたのですが……。
 で、今回はいささか長いものなので二部構成。
 二、三日中に後半をupしようと思っていますので、そちらも読んでいただけると幸いです。

 さて、「リア充」と言った時、みなさん、どんなイメージを思い浮かべるのでしょうか。
 ぼくの中のイメージは以下のような感じです。




 上の画像、おわかりでしょうか。
 ネット上でもネタとしてよく扱われているのですが、要するに「パワーストーン」的な商品の広告に使われた画像です。何とかいう秘境でだけ採取できる秘石をお守りにすると、こういう幸運が舞い込むのだそうです。
 あやかりたいものですね。
 何というか、あまりにもインパクトの強いこの写真に、初めて見た時、感銘を受けました。下世話な欲望を表に出すことに何ら屈託のない、DQN様の強い心に。
 残念ですが、「リア充」というのはそんなに品のいいものではないのです。
 例えば(場合によっては「オタクのために」と銘打ってなされる)モテ講座などで語られるのは、「とにかく女に片端から声をかけろ」「えり好みはするな」といった種類のことです。我らが上野千鶴子師匠がそれを推奨なさっていたことも、幾度も指摘していますよね。
 でもそれって、「恋愛は諦めろ」と言っているのといっしょ。
 要するに、リア充様たちはあれが「楽しい」と思えるほどに感覚の鈍磨した人たちであり、ぼくたちとはしょせん、生きる世界が違うってことです。
 まあ、この辺は本田透の本をレビューした時に語っていると思うので、多言しません(あ、レビューしたことねーや)。
「リア充爆発しろ!」とは言うものの、ぼくたちオタクとリア充の望む幸福は、異なります。ぼくたちは「リア充」の幸福ではなく、ぼくたちの幸福を追い求めねば、即ち「オタ充」を目指さねばならない。
 さて、ではその「オタ充」とは具体的には?
 はい、その答えを提示してみせたのが本作、『夏への扉』です。
 SFの大家、ロバート・A・ハインラインによる超有名な小説なので、説明は最低限に、しかしネタバレは全開で行かせていただきますので、お含み置きください。
 本作の主人公、ダンはエンジニアで、メイドロボットを発明して会社を持っています(ただし、メイドとは言っても形はルンバみたいなもので、要は自動的に判断し、動作してくれる掃除機です。原文では「Hired Girl」、旧訳では「文化女中機」、新訳では「おそうじガール」と呼称されます)。
 が、その気質は根っからの技術屋。劇中何度も経営陣と衝突します。これって喩えれば、編集者や営業とぶつかる漫画家のようなものですよね。利潤を生むことよりは、自分の製品が納得の行く形になるまで粘ることを望む、典型的なオタク気質です。ダンは親友であった共同経営者マイルズともそれでもめて、更には彼から裏切られ、会社を乗っ取られてしまいます。
 しかしそれよりも重要なのは秘書であり、婚約者であったベルの裏切り。ベルはダンを信頼させておいて裏でマイルズ側について、マイルズに有利な契約書を作り、ダンを騙してサインさせていたのです。
 発明したメイドロボの権利も、会社も、そして親友も婚約者も全てを失ったダンは、更にふたりによって「人工冬眠」で三十年後の未来へ送り込まれてしまいます。
 本作、書かれたのは1957年ですが、物語のスタート地点は1970年。つまりダンが目覚めた未来は2000年の世界でした。そこでどう見ても自分が作ったメイドロボの後継機としか思えぬ家電群を見て、複雑な感情に駆られます。自分の作った機械がここまで社会に認められ、浸透している嬉しさ。しかしそれが自分の作であると公に認めてもらえない悲しさ。事実、彼は大きくなった自分の会社へと「就職」するのですが、技術畑では三十年のタイムラグのある、使えない時代遅れの人間として扱われます。
 人のいい技術屋が、金儲けだけはうまい詐欺師に全ての手柄を持って行かれてしまう悲しさ。そう、それは丁度オタク界でも起こっていることです。
 俺は天才だ。しかしその俺の才は、誰にもわかってもらえない。
 行間から伝わるのは、ハインラインのそんな叫びでしょう。

 さて、ここで終わっていれば本作はただの鬱小説、単なるオタク業界に対する予言小説にすぎません。
 しかし本作はあくまで、エンターテイメント。
 ここからダンの巻き返しが始まります。
 ダンは未来世界で普及している家電を、ずっと自分の発明にそっくりであるといぶかしみ続けます。メイドロボの後継機があるのは当たり前だけれども、「どう考えても自分が作ったとしか思えないけれども、自分の中には着想しかなく、設計図すら書いていなかった」機械が何故か、目の前で現実化している。「ぼくと同じことを考えた技術者がいるのか」と思い続けながら、ある時それらの発明者が、公の記録で自分自身であるとされていることに気づきます。それも、マイルズたちに奪われたメイドロボ含め。或いは、同姓同名の別人が作ったのか?
 また同時に、ダンにはもう一つの気がかりがありました。
 それは70年代の世界に残してきた11歳の少女のこと。マイルズの義理の娘、リッキーです。彼女はダンに非常に懐いていたのですが、自分が未来に来てしまい、マイルズがベルと結婚した後ではベルにいじめられていたのではないか……と気に病んでいたのです。
 ――で、ここら辺りでやや唐突に、ダンは仕事仲間からタイムマシンの噂を聞きつけます。マッドサイエンティストの発明した不完全なタイムマシンで、一か八かの賭をしてまで、ダンは70年の世界に舞い戻ります。
 理解に苦しむのが、過去に戻る理由が見ている限り、「リッキーが結婚していたと知った」ことであるように読めてしまうこと。
 上にあるように「作った覚えのない機械の発明者が何故か自分になっていた」こそが物語上の謎であり、その辻褄あわせをすることが過去に戻る理由に違いはないのですが、例えば「その発明者のダンはひょっとすると同姓同名の別人では」或いは「人工冬眠に入る前に、実際には機械を作っていた記憶を失ってしまったのでは」といった疑問は一度頭に浮かぶも、追求されない。
 まあ、ダンが「そうか、ぼくが一度過去に戻って、やり残した仕事をやらねばならないんだ」と叫び、過去への旅行支度を始めればいいのでしょうが、そうするとネタバレになり、それもできなかったのでしょう*1。
 どうもこの「過去へのタイムスリップ」の下りは荒さが目立ちます。一か八かの賭である点についての描写は粗雑ですし(最初は時間の跳躍距離が調整できないようなことを言っていたのが、いざ博士に会うと「二時間以上の誤差は生じない」と言われる)、博士をそそのかしてタイムマシンのスイッチを押させる描写も何だかダチョウの「押すなよ!」みたいな感じです。
 まあ、それはいいでしょう。
 その後は過去に戻ったダンが、着想だけあった新型メカの設計図を書き上げ、またマイルズの家に潜入、車庫に置かれていた家電の試作機を奪い取り、そしてまたそれらを売る会社を立ち上げます。つまり「未来で知った、自分のなすべき宿題」をここで終えるわけですね。
 ちょっとこの辺りが段取り通り、という感じがするのですが、それは『ドラえもん』とか『バック・トゥ・ザ・フューチャー』を見慣れたが故のゼイタクなのかも知れません。
 更には離ればなれになっていた愛猫ピートとも再会(ここは意外にあっさりした描写)、そしてリッキーの下へ駆けつけ、彼女がベルやマイルズから逃れ、祖母の家で暮らせるよう手配、「結婚の約束」をして、再び人工冬眠に就きます。
 ラストは2001年の世界で目覚め、そしてリッキーが約束通り、二十歳に成人した上で睡眠に就き、同じ時に目覚めたのを迎え、結婚。
 ちなみに会社も友人が大きくしておいてくれたので、今度の彼は大金持ちとして未来世界に目覚めることに成功したのです。
 一度は全てを奪われたダンが、復讐を果たし、全てを手に入れるハッピーエンド。
 また、そこには技術の革新が全てをよき方向に持っていくのだとの、大戦後の時代の楽観主義があります。

*1 実は本作、(旧版の訳者である福島正美の翻案による)児童向けのものも出ています(『談社SF世界の科学名作13 未来への旅』、1968)。そこではダンが過去へ行く理由があくまで「ロボット制作者の謎を解くため」と明言されており、わかりやすい。過去でのダンは他人から「辻褄あわせをしたじゃないか」と指摘され、「そうだったのか」とようやっとことの次第に気づく、という流れで、その方がいい気がしました(もっとも、そのせいでダンは「何となく」ロボットを作ってしまい、他人にそれを指摘されて初めて自分のしたことに気づく、というトンチキにされてしまっているのですが)。大人向けのものでは恐らく、「リッキーが結婚した」ことを知った時点でダンは全てに気づき、行動してはいるものの、それをぼかすことで読者に徐々に謎を明かす、「疑似叙述トリック」みたいなスタイルになっているように思われます。
 ちなみに博士にタイムマシンのスイッチを押させる下り、「大人向けではさすがにもうちょっとちゃんとした描写があるんだろう」と思っていたら、ほとんどそのままでびっくりしました。


 しかし、あちこちのブログを見てみると、本作についての批判的なレビューが存外に目につきます。
 まず本作について、決まったようになされる二つの評があります。
 曰く、「本作は猫小説である」。
 曰く、「本作はロリ小説である」。
 そう、本作ではダンの愛猫、ピートが活躍します。「猫小説と言われるほどではない」との評もあり、確かに中盤では全く出番がないのですが、猫を愛でる孤独なオタク気質を、彼のピートとの友情はよく表現しています。
 では、「ロリ小説」についてはどうでしょう。
 彼は11歳の少女に愛され、そしてまた彼女の成人を待って結婚します。
「結婚した時点で二十歳でなのだからロリコンではない」といった反論もあり、その意味で彼を精神医学上のペドファイルである、と呼ぶことはできないでしょう。
 しかしここに引っかかる読者も多いようで、どす黒い憎悪を本作にぶつけている御仁もいらっしゃいました*2。


仲のいい少女がずっと思っていてくれて、未来で結ばれる、というロリコンの白昼夢のような展開だ。

ヒロインがなぜ主人公になついているのか、なぜずっと主人公を思っていてくれてるのか(何十年も!)、その説明がなされればいい。
だが、驚くことにそこら辺の理由が一切説明されない。

これをご都合主義と呼ばずしてなんと呼ぶ。私は読み終わって背筋が凍った。
こんな展開を「感動のラブストーリー」だと思っているやつもいるようで、SFファンはどうりでモテないはずだと合点がいった。


 何でこの一作でSFファン全体を狂ったようにバッシングせねばならないのかよくわかりませんが、しかし、大変によくわかります。
 そのぼくの「わかりっぷり」をみなさんにお伝えするためにも、次回はもうちょっとだけ本作について詳しく見ていきましょう。

*2 ■『夏への扉』はとんでもない愚作なので褒めないでください(http://anond.hatelabo.jp/20130512143540
 しかし「駄作なので読まないでください」ならわかりますが、「褒めないでください」ってのは何だかおかしいですね。

まんが家総進撃

2016-04-15 19:52:46 | レビュー



 さて、タイトルを変えてみましたが、引き続き『まんが極道』です。『まんが家総進撃』はその続編……というよりは改題されただけの同作品です。
 今回も(のっけからショッキングな)ネタバレ全開です。実際に漫画を読んでみたい方は、そこのところをお含み置きいただきますよう。

 さて、『極道』の第1巻には「センス オブ ワンダーくん」という作品があります。「俺のことをわかってくれるSF好きの女性を彼女にしたいが、そんな女、いるはずがない!」と嘆くSFマニアの新人漫画家、ゾル山浩が主役になっています。
 彼は担当のつくプロ作家ではあるものの、今時SF漫画など流行らず、描きたいものが描けずにいます。彼の友人たちも「ダース・ベイダー」だの「アヤナミ」だの軟弱なことを言うのみで、彼を理解しようとはしません(既に『スター・ウォーズ』自体が三十五年前、『エヴァ』ですら二十年前ですが、堅物のハードSFマニアにとってはこれらすら「真のSF」とは呼べぬまがい物のようです)。
 しかしそんなゾル山の下に彼の大ファンである美少女がやってきて、全てを理解してくれるように……恋愛や結婚に頑なな態度を取っていた彼の心も解れ、またとうとう担当に自作を理解させて連載を勝ち取り、彼女とも結婚――あぁ、夢じゃないか! あ、夢か!
 本当の本当に、主人公が夢から醒めるところで本作は終わります。
 漫画家のダークサイドを描く本作とは言え、この冷酷な突き放しっぷりは異彩を放っています。
 本作、オタク男子にとっては非常に身につまされる話です。「SF好きの女などほとんどいない」と嘆くゾル山の姿はぼくたちの姿そのままです。しかしそれって、「男女のジェンダー差がある」という男女観が前提されてはいないでしょうか。それって現代社会では絶対に許されぬ、仮にMSのAIが表明したりしたらそのAIの破壊が義務づけられているような、危険思想なのではないでしょうか。

 以前、オタク界の正義の味方たちは「『ガンダム』に女性ファンは少なかった」と言った(という彼らの脳内現実を根拠に)兵頭新児に嫌がらせとデマコギーによる風評被害拡散の限りを尽くしました。ISISにも負けぬ正義っぷりと申さねばなりません(実は少し前、またツイッターで蒸し返していた連中がおり、感心させられました)。
 この「ガンダム事変」の本質は「男女のジェンダー差はない、ジェンダー差はないとすることが正義である」とのイデオロギーに「乗っかる」ことでオタクとしてのアイデンティティを守りたい人たちの正義の振る舞い、というものでした。言わば、永遠に夢から醒めずにいるゾル山です。
 しかし、それならば、当然、彼らにとって「夢から醒めて」終わる上の作品は許せぬものであるはず。
 ……ところが、一体全体どうしたことか、どういうわけか彼ら正義の味方たちが唐沢なをきさんを叩いているのは見たことがありません。
 彼らの「正義の刃」は発言力のない弱者にだけ向けられることはもう、皆さんにもおわかりのことかと思います。
(むろん、漫画であるとか文学であるとかは、「正義の味方」の目をくらます役割を往々にして果たすものではありますが。また、フェミニズムが男性文学者を縦横無尽にバッシングしているのに比べると、オタク左派は比較的自分たちの「弾」として使える漫画作品などについては都合の悪い点について口をつぐむ傾向にある、とは言えますが)。

 さて、というわけでひとまず今回、本作に絡めてワタクシの申し上げたかったことは、「ホモソーシャル」という概念の不毛さであります。
 なをさんは少なくともそうした論者に比べれば遙かに鋭く男女の現実を見据えており、そしてまた、本シリーズでは以降もそうした価値観を前提としたエピソードが描かれていくことになるのです。
 例えば3巻の「サークル」。
 時代設定は「十年と少し前」とされ、世を挙げた『オバンデスヨン』(言うまでもなく『エヴァンゲリオン』の読み替えですね)ブームの渦中にある「創作系」オタクサークルの姿が描かれます。
 一口に説明しにくいのですが、この「創作系」というのは何かのパロディではなく、あくまで元ネタのないオリジナルの漫画で勝負する人々を指し、ある意味では「意識高い系」ではありますが、方や美少女系の二次創作同人誌と比較するといささか地味な存在でもあります。同人界を舞台にしたギャルゲー、『こみっくパーティー』でも「創作系」である長谷部彩は「実力はあるが、描くものにはいささか華が欠けている」と設定されていました。ましてや『エヴァ』ブーム(これはオタク界では同時に『エヴァ』同人誌ブームでもありました)の頃は余計にそうだったでしょう。
 さて、本作のヒロイン、蓑竹ヨブコはそんなサークルの紅一点として地味に真面目にやっていた、地味で真面目な女性だったのですが……何かの間違いでギャルっぽい女の子、小路町鱮がサークルに入ってきて、イベントでは『オバンデスヨン』のヒロインのコスプレをして同人誌は完売。サークルの男性たちの心は彼女に掴まれてしまいます。
 そして――鱮自身もまた男性たちと関係を持ち、将来性のありそうな男を査定していたのです(メンバーをルックス、セックスの相性、男性器、将来性で査定したノートを作っている!)。
 最終的には鱮の行状がバレ、サークルはクラッシュしてお終い。
 そう、この頃、「サークルクラッシャー」、略して「サークラ」ということが盛んに言われておりました*1。要するに「ホモソーシャル()」なオタクサークルに女性が入ってくると、生態系が崩れてサークルがクラッシュしてしまう、ということですね。男性を破壊することが絶対の正義であると信ずる瀬川深が、こうしたサークラを絶賛していたことも懐かしいトピックスです。そこでは「ホモソーシャル」が女性を不当に利益から遠ざける許されぬ悪なのか、それとも「女性の性的魅力によってクラッシュすることが大前提の、彼ら彼女らの優越感、破壊衝動を満足させるためのデク人形」なのかが曖昧模糊としたまま議論が進んでいきました。
 が、ここではまず、「男女は全く別な生き物であり、関わることで様々な緊張が発生し、それには悪い面もあるよね」という自明な真理が、まずなをさんの中で前提されているということを、ぼくたちは確認しておきましょう。そうした真理を否定するフェミニズムという邪教に入信した者が、なをさんの漫画を読んでも、その意味はさっぱり理解できないのである、ということも。

*1 この「サークラ」という概念はその意味で「ホモソーシャリティ()」そのものが「ない」ことの証明でもあります。が、次第にこの言葉は(この言葉の前提概念であるところの)「オタサー姫」という概念へとすり替わって語られるようになっていきました。言うまでもなく「オタサー姫」は「オタクサークルの紅一点で姫のように振る舞っている者」のことであり、本来は「オタクというリア充に比べて劣った業界で威張っている二軍落ちの女性」といったネガティビティをも内包していたはずが、昨今では純粋に女性のハーレム願望を叶えるためだけの言葉として機能しているようです。オタサー姫を描いた『私がモテてどーすんだ』の略称は『わたモテ』であり、喪女を描いた本家を「乗っ取って」しまった辺り、大変に象徴的と言わねばなりません。

 そうしたことに対してさっぱり考えの及ばない、「ジェンダーフリー」とやらに理解ありげな上の正義の味方たちは、丁度、上の漫画のサークルの男性たち同様、「オタサーの姫」を持ち上げるチンポ騎士に他ならないということも、こうして見るとわかって来るのではないでしょうか。
『総進撃』の3巻「新担当」には、そのことが描かれています。
 痛い非モテ漫画家である佐藤ゲルピンに若くて可愛い女性の担当がついた、というお話ですが、「痛い非モテ」というと、例えば前回にご紹介した「女総屑くん」や、『極道』6巻「アシの条件」に出て来るアシスタントの話が思い出されます。後者のアシはオタク的コミュ障として描かれ、新しく入った可愛い女子のアシスタントを「こういうのに限って非処女だ、非処女がウチの漫画を描くのは許せぬ」と難じ、彼女のポーチから盗み出した口紅をちんちんに塗り出すという描写があります。
 これらはいわゆる「童貞こじらせたミソジニー」的描写なのですが、その一方でこの佐藤は若い女性の担当がついたことで浮かれ、(身だしなみに気を遣うなどすると共に)その担当者に「ぼくの作品の本質は男性優位社会を批判することにあり云々」などとぶち始めるのです。
 一方、佐藤はその振る舞いが「痛い」ことを自覚し、後悔する常識も持ちあわせており、その意味で見ていて可哀想なのですが、結局は調子に乗って、漫画の主人公とその恋人に自分と担当の名前をつけるという暴挙に出てしまい、最終的には「ぼくのことをわかってくれなかった」担当に切れて刃傷沙汰を起こし……揉みあった挙げ句、自分のおちんちんを切り落としてしまう、というオチ。これ、敬愛するフェミニストたちに裏切られ、「まなざし村」と名づけて攻撃し始めている人たちと同様です。
 先の「男性優位社会云々」という演説では「(クソオタどもと違って)女性を理解した漫画を描きたい、ついてはあなたの意見を聞かせてほしい」と言っており、なをさんは「ミソジニスト」とやらと「女性の理解者」とやらは両者全くいっしょなんじゃないの、とでも言いたいのでは、と勘繰りたくなってきます。
 そして……本話はちんちんを切った佐藤の連載にジェンダーフリーな魅力が加わり、「奇跡の大ヒット」となった、(そして今度は男の担当に色目を使い出す)というオチで終わっています。

 そう、なをさんの「自らの業」に対する視線は極めて冷静です。当たり前ですが彼の中にも「女性に媚びたい/女性は疎ましい」という感情はあり、そこを見つめているからこそ、こんな漫画が描けるのでしょうから。
 しかし彼の視線は同時に、女性に対しても冷徹です。前回の夢脳ララァは「オタサーの姫」になれない女性でしたが、4巻「漫画家の妻」はオタサーの姫を真正面から捉えた話です。
 ここで描かれるのは人気漫画家の妻、閂タイコ。
 旦那が取材を受けていると、それに乗じてインタビューでも写真撮影でも必ず割り込んできて「でね! でね! 私はね!」と一方的に捲し立てる。漫画に何ら関係のない、地獄のようにつまらない単なる日常の出来事を開陳するだけのダラダラしゃべりが、大きな大きな吹き出しに詰め込まれた長い長いネームによって表現されるのがまた、見事です*2。
 旦那が甘々なのをいいことに、アシスタントの前でも女王様のように振る舞い、コラムニストだの漫画評論家だのの肩書きの名刺を作り、ばらまき始めます。その名刺に描かれている似顔絵が、なをさんの妻であるよし子さんであるのがまた、すごい自虐ギャグなのですが、信頼感あればこそであり、またきついお話なので予防線を張っての処置でもあったのでしょう(『仮面ライダー』のプロデューサーさんは、お話の中で怪人に殺される人物などの名前が取引先のエラい人と被らないよう、率先して自分の名前を使っていたと言います)。
 キリなしに逆上せ上がり続けるタイコですが、クライマックスでは大物少女漫画家、迷中マリ(パーティに幸子フルなものすごいスタイルで出現する)に「亭主の威を借りる糞女房」と的確に罵られ、また同時に旦那の漫画の人気がなくなり、あっと言う間に落ちぶれるところでおしまい。
 富野由悠季監督が何かの雑誌で漫画家志望の少年に相談を受けた時、「『まんが極道』を読みなさい。あれば全部実話です」と答えたといいます。そう、本シリーズは漫画的ディフォルメはあるし、当然固有名詞などは変えてはいるものの、恐らくどれもこれも実話が元だろうと想像できる、リアルな話ばかりです。
 タイコは本当に実在します。
 タイコのような人物は、本当によくいるのです。
 ただし、本作においてはアシスタントたちが内心ではタイコを疎ましく思っており、また、最後は旦那とも離婚したとナレーションが入って終わるのですが、実在するタイコは「本当に、周囲に溺愛されている」ことが多いように思います。
 何か重篤な勘違いによるカルト的カリスマ性を獲得したオタサー姫というのは、この業界には本当に多い。こういう人々は正常な人間性を持っていれば間違ってもしないような低俗で下劣で卑怯で完全に狂った振る舞いを平然と行い、周囲もまたそれを、格好のいい行為であると信じきって賞賛し続ける、というのが特徴です。ISISにも負けぬ正義っぷりと申さねばなりません。
 こういうのは、(単純に大物作家の妻という人もいるのでしょうが)出版社、出版業界そのものを「亭主」にしているとでも形容した方がいいように思います。内田春菊に端を発する「性を描く」ことを売りに出て来た(内容のないつまらぬ)女流作家って、そういう感じですよね。こういう人たちは亭主が落ちぶれることがないため、余計にしぶとく、タチが悪いんですな。

 *2 もう一つ言うと、彼女は「夫の受け売りでよく理解しないまま、他の漫画家に対する批評」を並べ立てては酒の席で「タイコさんの毒舌にはまいっちゃうなぁ」と言われています。この業界、とにかく女性、特に「男前」と称して下品な振る舞いをする女性に弱い人々が多く、舌を巻くほどリアルな描写です。

 ――さて、ちょっと遠回りになりましたが、再び「蓑竹ヨブコ」についてです。
 前回、彼女について、「夢脳ララァ」と対になっていると申し上げました。
 彼女の名はまさに「夢脳」の対極の「身の丈」。
 先に挙げたエピソードで、ヨブコは「オタサーの姫」にオタサーを追われました。
 その後*3、中堅漫画家の亀島洞洞のアシを務める話があり、この亀島は女性アシスタントを愛人としてハーレムを形成していたキャラクターなのですが、そこからも(ハーレムに加わらないまま)ドロップアウトし、6巻「ステキな人だから」では再び主演を務めます。
 彼女は上のエピソードを見ても「マジメだが生硬」、「技術はそこそこだがプロとしては今一歩及ばず」といった描かれ方をされてきたのですが、ここへ来てそれなりの作画力を得て(事実、絵が下手に描かれていたのが、このエピソードでは上達しています)、連載を持つも打ち切り、というのが話の発端になります。
 プロとして一皮むけるには……と悩んでいるところをバーで知りあった男と関係を持ち、そうした経験が作品にもいい意味で反映され、編集者にも評価されるように。
 で、まあ、本作のカラーを知ってる方なら何となく想像がつくと思うのですが、その男がタチの悪い人物で、騙されて企画物AVに出る羽目に。しかしそうした男性経験を肥やしにして、彼女自身も一皮むけたことを暗示して話は終わります。
 一方、ラストの一コマで「男性関係を肥やしにできないタイプの女」としてララァが(同じ男に引っかかっているシーンが)登場するのも示唆的です。
 つまりある種の熱血根性物として、ノブコはいい女、格好いい女として描かれているわけですね。
 何故、ヨブコは格好いいのか。
 それは「男みたいだから」格好いいのではなく「女である自分から逃げてない」から格好いいのです。
 もっと言えば、ヨブコをララァやタイコと対比させていくと、各々が「女から逃げていない女」と「女に逃げた女」という好対照であるとわかります。
 リベラル君には「男みたいだから格好いい女」であると捉えられているフェミが、どこまでも「女に逃げた女」であるということはもはや、語るまでもないでしょう。
 だから、彼女らは格好悪い。
 ヨブコは男に頼ることなく、女から逃げることもなく向きあい続け、一人で泥にまみれ、そして格好いい女になったのです。

*3 実は上に挙げた「サークル」の次のお話もまた、「駄目サークル」というヨブコの主演話で、ここでは一転して(エロ)同人誌サークルとして活動はしているものの、およそ非生産的なオタ話ばかりしているサークルが舞台になっていました。そのサークルに関わってしまい、切れるヨブコ、というお話なのですが、このエピソード自体は特にサークルクラッシュが描かれることもなく、終わってしまいます*4。

*4 このお話のラストでは、ヨブコが「マジメにやれ」と切れたことにサークルの中のインテリ君が逆切れして刃物を振り回し、死人が出るところで終わっています。その時点で話がバッサリと終了し、以降が描かれていないために「サークルクラッシュが描かれない」と解釈しましたが、考えればこの展開は前作「サークル」と全く同一なので、本作においても「サークルはクラッシュして終わった」と解釈すべきかも知れません。ここでは専らこの女性慣れしていないインテリ君が悪いのですが、善悪はおくとして、女性が加わることで男性の共同体には緊張が生まれるよな(だからやっぱ「ホモソーシャル」なんて概念はバカげてるよな)、という当たり前のことこそが、ここでは描破されていると考えるべきかも知れません。

ズッコケ中年三人組

2015-10-16 14:47:42 | レビュー


 さて、当ブログ、今年の初めはずっと『ズッコケ』のレビューが続いておりました。みなさん、うんざりなさっていたかと思います。
 が!
 本来、ぼくが『ズッコケ』レビューを志したのも『中年』シリーズに対する興味が発端でした。となると当然、『中年』シリーズもレビューしないわけにはいきません。
 今回は五冊を見ていくことにしましょう。

 というわけで以降、『ズッコケ』シリーズと表記する時は本来の小学生時代のものを、『中年』と表記する時は中年シリーズを指すことにします。
 最初にお断りしておくと、『ズッコケ』シリーズは毎回完結が原則。が、この『中年』シリーズはリアルタイムにキャラクターたちが歳を取っていき、またハカセと陽子の恋愛などは連続ストーリー的に進行していくので、巻毎の区切りが希薄です。そのため、細かい部分で展開の誤認があるかも知れません。何せタイトルが『age41』とか『age42』とか味気ないものなので、個々の区別が曖昧になってしまいがちなのです(そうした不満もあり、冒頭で各巻に『ズッコケ』風のタイトル案を着けてみました)。
 またオチなども平気でネタバレします。特にミステリの『age43』、くらみ谷のその後が描かれる『age45』などはショッキングなので、ご了承ください。

『ズッコケ中年三人組』
●タイトル案『ズッコケ逆襲の怪盗X』

 出版自体が「事件」として、結構騒がれた作品です。
「ハチベエが圭子と結婚するも不倫」「モーちゃんがリストラ」「ハカセが冴えない高校教師」と、こうして並べると本作の内容はいかにもショッキングです。既に『未来報告』で近しいネタをやっており、またその時は三人にそれなりに納得できる未来が用意されていたため、打って変わって「鬱展開」である本作は、衝撃的だったかも知れません。
 例えば『ズッコケ』シリーズにおいて、ハチベエの家は八百屋を営んでいます。確かシリーズ初期では「スーパーも最近ではあまり安売りをしないため、個人商店もそれなりに顧客を掴んでいた」といった説明がなされ、『未来報告』では駅ビルに出店して繁盛していたのですが、『中年』シリーズではスーパーに勝てず、コンビニに商売替えをしています(しかもその時のゴタゴタで両親とはミゾができたというシビアさ)。モーちゃんも『未来報告』では外人さんと結婚した言わば勝ち組だったのが、リストラの憂き目に遭い、ハカセも『未来報告』のように研究職に就くこと叶わず、高校教師としてうだつの上がらぬ毎日を送っています。
 しかししょぼくれた三人の描写はいざ読んでみるとそんなにショッキングでも、違和を感じるモノでもありません。ホテルでスナックの女と浮気しようとして嫁にバレるバチベエ、というのはそれだけ聞かされると生々しいですが、読んでみると「他の女子のスカートめくりをしたハチベエに、ヤキモチ混じりの怒りをぶつける圭子」といった感じと変わりなく、むしろ「いかにも」との印象を強くします。
 さて、そんなしょぼくれた人生を歩んでいた三人組ですが、怪盗Xの復活と共に、また少年時代のような活躍をすることになります。言わば怪盗Xが少年時代の象徴として登場する、『劇画・オバQ』のオバQ役を担うことになるわけです。
 ただし、この怪盗Xとの戦いは『劇画・オバQ』の無情さとは異なり、『最後の戦い』でやり残した怪盗Xのエピソードの伏線回収という感じで、むしろ前半の陰鬱さを払拭する比較的爽快な展開になってはいます。

『ズッコケ中年三人組age41』
●タイトル案『ズッコケ占いマル秘作戦』

 本作は言わば「真智子リターンズ」。『マル秘大作戦』のヒロイン、真智子が女占い師となっての数十年ぶりのミドリ市への帰還。生来のウソつき女(なのでしょう)である彼女が「ウソ」を生業とする女占い師となり、またしても三人組を手玉に取り、また立ち去っていくというお話です。
 小学生の時は、「ウソと知りつつ真智子を助ける」という展開でしたが、今度は真智子の勝ち逃げという印象。むしろ占いのトリックをハカセが暴きつつもかばう、とかの方がよかった気がします。そうした明朗さは中年には似合わないとは思うものの。
 考えるとこの頃、『オーラの泉』みたいなのが流行っていたでしょうか。そうした時事ネタをやってみたかったとも、ウソつき女の末路を描きたかったとも思える話で、『ズッコケ』では三人組の温情を受けた真智子のリターンマッチというのが、本作の本質だったのかも知れません。ネットで誰かが「真智子にとっては三人組など小物で、ふらっと立ち寄って小学生時代の想い出に浸ってみたかっただけなのだろう」と言っていたのが印象的でした。

『ズッコケ中年三人組age42』
●タイトル案『ズッコケ親子相談所』

 モーちゃんの娘のいじめ問題、ハチベエの息子の素行不良がテーマ。モーちゃんの娘の問題を解決するのがハカセの先輩の女教師、という形で三者の事情がクロスオーバーして描かれます。
 が、一つにハチベエの息子の描かれ方が『金八先生』的な80年代風のDQNでどうなんだ、というのが一点。ただしこれはぼくが無知なだけで地方のDQNなど、今もむしろこんな感じなのかも知れませんが。
 第二点として、モーちゃんの娘のエピソードでは「ゆず」(という、実在のフォークデュオ)が話に絡んできてやたらページが割かれるのですが、あんまり功を奏しているとは思えません。

『ズッコケ中年三人組age43』
●タイトル案『開廷!ズッコケ大裁判』

 ハチベエが裁判員に選ばれるというお話。
 ハカセは(多少の疑問符をつけつつも)裁判員制度に全面賛成で、それがリベラルである著者の意見でもあるのかと思い、読み進めると……最後の最後、つまり裁判での判決が出た後、被告がそれを覆す告白をします。
 う~ん……まず、裁判員制度については、極めて非常識でムチャな制度であり、「どうかなあ」という印象を拭えません。その意味で判決をひっくり返す展開は裁判員制度への懐疑を提示しているとも(そういう感想が結構散見されました)、単にどんでん返しの妙を狙っただけとも取れますが、どうにも判断しにくい。
 何かもやもやするなあ、という印象が、専ら残った話でした。

『ズッコケ中年三人組age44』
●タイトル案『ズッコケUMA探索隊』

 イントロで『宇宙戦艦ヤマト』だの『ガンダム』だのが知人の息子のホビーとして話題に出て、それに続いてハチベエが久し振りに釣りを始め、ハカセとモーちゃんもそれぞれ写真と自由律の俳句に目覚める、言わば「ホビー物」とでも言うべき一作。
 しかしハカセが撮影したハチベエの釣り風景に、偶然ツチノコが映り込み……。
 結論を言うと実際にツチノコは捕獲され、しかし特に話が広がらないまま終わるという、『中年』シリーズの困難さを体現したような話になってしまいました。
 それより、本話の要点はハカセと陽子の関係がいよいよクライマックスを迎えようとしている点にあるでしょうか。
 基本的には一話完結である本シリーズ、ずっと陽子がハカセを射止めようとしているという展開が縦軸として用意され、両者のつかず離れずの関係が描かれます。陽子の心情としては、「子供の頃から、ハカセに興味を持っていた。しかしそれは異性に対するものではなく、珍獣に対する感情に近い」、さらに「年齢から来る焦り」、そして「アプローチしてもなびかないことに対する美人としてのプライド」などが絡みあい、ハカセ攻略に積極的になるとされ、まあ、「ひょっとして俺でも」と思わせる設定ではあります。
 その上、ツチノコ探しにハチベエ、モーちゃんが興味を失い、ハカセの車では山道は厳しいので陽子の車を借りねば、というそこまで状況のお膳立てをされて、ハカセはようやっと陽子を誘います。陽子もツチノコ探しなんかにつきあうんだから偉いというか、よっぽど男に飢えているのか。
 ただ、それでも本作では両者の関係は決定的にはならず、決着は次回に持ち越されるのですが――。

『ズッコケ中年三人組age45』
●タイトル案『ズッコケ山賊余話』

 さて、異色作『ズッコケ山賊修行中』についてはエントリ一つを費やして語ったことがあります。本作はその後日談として、非常に注目度、評価の高いモノでした。
 土ぐも一族に拉致された時、三人組を助け、自らは谷に残った堀口青年。その兄から弟の探索に協力してくれと懇願され、再び事件にかかわる三人組。しかし土ぐも一族は(一同がかかわった僅か数年後に!)トップである土ぐも様の急死により、崩壊していたのです。血統を巡っての後継者問題に加え、地元の村の「一族が財宝を隠しているのでは」との欲が絡んで、事態は一族の大虐殺にまで発展。
 お話は、ハチベエたちが山奥で白骨死体を発見したことから急展開、更には『家出大旅行』の津田経子が登場、堀口氏自身は騒動から逃げ延び、大阪でホームレスに身をやつしていることが明らかに。
 繰り返す通り、那須センセには女性不信のケがあり、美少女トリオなどリアルな世界の女性は性格が悪く描かれ、一転して非日常的なバックボーンを背負う女性は美化される傾向にあります。土ぐも様も『ズッコケ』では霊力を持った美少女として描かれていたのですが、その土ぐも様の後継者問題について、とあるブログでは以下のような指摘がされていました。
 これは当時の日本国で起こっていた問題のメタファであ(り、反体制を掲げる彼らも体制同様の脆弱性を抱えてい)ると共に、「陽子とハカセの恋愛」といった地上的な性愛との対比の妙となっている。しかし同時に処女のまま死んだ土ぐも様のために一族が崩壊したと言うことは、その天上的女性観の否定でもある、云々。
 なるほど、本話ではハカセの三十代における失恋体験(相手の女性が旅先で男遊びをしてしまう)、モーちゃんの妻の浮気などが描かれ、全体的に女性への不信感が漂っていますが、しかし土ぐも様が「処女のまま死んだ」というのはむしろ強烈な天上的女性への憧憬が感じられます。ま、女は虹に限るってことですな。

夏休み男性学祭り(最終回:『見えない男性差別 ~生きづらさの理由~』)

2015-09-19 01:56:32 | レビュー


 何だかすっかり涼しくなって来ましたね。
 ローソンとセブンイレブンがおでんの安売りの予告なんかしてましたが、毎年こんな早くから売り始めるモノでしたっけ? それとも冷夏だから特別?
 さて、そんなわけでこの夏を通して行われた「男性学祭り」も今回が最終回。
 そもそも「男性学」「マスキュリニズム」復活のきっかけになったのはこの御仁の活動がきっかけではないか……とぼくが睨んでいる、久米泰介師匠。その『日経ビジネスONLINE』での連載を、祭ってみましょう。
 なお、この連載の前フリとも言える記事についてのぼくの所見は、「「女は「ガラスの天井」、男は「ガラスの地下室」男性の「生きにくさ」は性差別ゆえかもしれない」を読む」を参照してください。
 また、それぞれの記事に「第○回」と付しましたが、これは元の連載にはなく、こちらが便宜上につけたものであることをお断りしておきます。

第一回 タイタニックから逃げられない男たち 「男性は強者である」という神話

 まずはこの表題、そして


 男性差別を可視化するには、まず「男性=強者、女性=弱者・マイノリティ」という構図が「神話」であるということを解明しなくてはならない。


 といった箇所が象徴するように、スタート地点ではぼくと久米師匠は全くの同意見、師匠のおっしゃることに100%賛成です。
 しかし記事後半、「フェミニズムもマスキュリズムもゴールは同じ」という節タイトルを見るに、脳裏にふと不安が過ぎり……そして大変に悲しいことなのですが、その予感は的中することになってしまいます
 師匠は「欧米の軍隊においても女性は守られている」というご自分の訳書には書かれていた*1事実を伏せ、

 例えば兵役が男性だけに強制されていることを、マスキュリズムは「男性の命を犠牲にする男性差別だ」と批判するし、フェミニズムは「女性が指導的地位に就けないから兵役が男性だけなのは女性差別だ」と言ったとしても(後者は男性への差別を見て見ぬふりをする言い分のようにも取れるが)、いずれにせよゴールは一緒で、兵役を男女平等にするということだろう。


 と書きます。上野千鶴子師匠が兵役について問われた時、答えをはぐらかしたことなど、彼はご存じないのでしょうか。

*1 男性権力の神話 《男性差別》の可視化と撤廃のための学問

第二回 男性のレイプ被害者「ゼロ」の日本 口に出せず、ケアも受けられない

 ここでも師匠は

男性差別撤廃のゴールは、政治家の男女比、管理職の男女比、自殺者における男女の割合、片親家庭の父母の割合、離婚後に親権を取る父母の割合、これらがすべて等しく5:5になることだろう。


 と飛ばしまくります。
 ぼくはそんなことは目指すべきではないし、「ジェンダーフリー」の失敗を見るに、目指してもムダだと考えるのですが(しかし「自殺の男女比も平等にせよ」などとぎょっとすることを平然と口にする蛮勇ぶりは、ちょっとステキです)。
 彼のスタンスは徹底的なジェンダーフリーであり、

 もし男性差別を感じたり、その当事者になったりしても、「復古主義者たち」にはならないでほしい。フェミニズムを批判すると復古主義者に吸収されたり、同調してしまったりする人が結構いる。しかしそれでは男性差別はなくならないし、解決しない。時計の針を元に戻すことなど不可能だし、性差別の根本的な解決にはまるでならない。


 と腐します。
 しかしぼくには、彼らのような特殊な偏向を持った人々が口にしたがる「復古主義者」というのがどこにいるのか、全く見えてきません
 恐らくですが、久米師匠には兵頭新児が「復古主義者」に見えていることでしょう。
 しかしぼくは殊更にかつての日本が素晴らしかったとのヴィジョンに取り憑かれているわけではなく、彼らの脳内では「あったこと」になっているジェンダーフリーの無効性を鑑み、ひとまずそのイデオロギーには退場していただく他ない、との考えを持っているだけなのです(或いは、彼らにとっては「さすがに共産主義はないだろう」というスタンスの人も復古主義者に見えているのかも知れません)。

 さて、この回は表題が示す通り、少年の性被害の多さについて嘆く箇所がメインです。その志自体は賞賛するにやぶさかではありません。ですが、しかし、それならば、フェミニストたちが少年への性被害を必死になって隠蔽し続けていることに対して、少しは憤ってほしいのですが……。

第三回 「女も戦場へ」は何をもたらすか 兵役という男性差別

 女性が戦場に行くべきかという問いについて、実のところぼくは理念としては賛成です。
 恐らく軍隊においても男性がやることが望ましい力仕事以外の作業はいくらもあるでしょうし、今時、女性の生命ばかりを優先して守ることはない。
(その意味で、やはりぼくは「復古主義者」ではないはずなのですが、師匠はそう言っても納得しないだろうなあ……
 南北戦争で起こったエピソードを、師匠は挙げています。

 南部の男性たちの徴兵反対運動は、南部の女性たちの「戦争に行かない男とは私たちは結婚しない」キャンペーンにより、強力なダメージを受けた。その後、南部の徴兵反対運動は挫けてしまう。


「女性は平和的な生物だ」などという神話を打ち砕くこの指摘は、非常に重要です。またそうした南北戦争で戦った男たちを、フェミニストが後年「男たちの暴力」と糾弾したこと、そのダブルスタンダードの卑劣さをも、師匠は指摘します。
 ノルウェーの徴兵制の男女平等化に諸手を挙げて賛成する師匠。
 その勇気は賞賛に値するとも、アカデミズムというバックボーンがあるだけで、ここまでの「危険思想」の表明が許されるのかとため息が漏れたりもします。だってぼくが言ったらきっとこれ、袋叩きですよね。
 もっとも、欧米のフェミニストが軍隊に進出しようとしている様を採り挙げ、無批判で賞賛するのはどうかと思いますが(実態は先にも挙げた通りであると、師匠も知っているハズですから)。

第四回 「恋愛をリードできない男は逸脱者」という男性差別 性役割の不平等が生む「デートレイプ」と「草食男子」

 今回、久米師匠は真っ先に「デートレイプ」の問題を持ってきます。
 それはまるで、『女災社会』の一章が性犯罪冤罪について、に割かれていたのと同様に。
 以降も「「加害者」は必ず「男性」」という節タイトルが象徴するように、久米師匠の筆致は男性の「加害者扱いされることの被害者性」をラディカルに論じていきます。もっともそこまでラディカルに「真実に気づいて」しまった人であれば、フェミニズムが完全なる妄論だと気づくはずなのですが。ちなみに「妄論」という言葉は今、ぼくが作りました

 実は今回、正直なところ表題を見た時点できな臭いものを感じとってしまいました。
 結局、ここへ来て久米師匠、ジェンダーフリー論者の言説はその「無効性」を露呈せざるを得なくなるわけです。
 要は、「ジェンフリ論者」は「モテない」からです。
 いえ、「女災」論を学んでもぼくたちは「モテ」るようにはなりません。しかし「ジェンフリ」をフォーマットとする「マスキュリニズム」は(商売の都合上)あり得ない未来のヴィジョンを提示し「こうすればモテるよ、何となればもうすぐジェンダーフリー社会が到来するのだから」とのウソを垂れ流す「来る来る詐欺」に、どうしてもなってしまうベクトルを持っているのです。
 その結果何が生まれるのか。
 泣きながら「女性のみなさん、ぼくたち草食系男子です、つきあってください!」と哀願する森岡師匠*2、そして「女性のみなさん、『スラダン』の木暮君のファンになってください!」とストーカーのようにつきまとう田中師匠*3が生まれてくるだけです。

 結局、そこに気づけなかった師匠は以下のように結論します。

 だから恋愛における性役割でも、そのコストやリスクについて男女が等しく引き受け、恋愛において男女のどちらも、アプローチをかけたり受け身でいたりすることが共に許される社会にすべきだろう。


 それは「反原発」同様に、理念としては大変に結構なのですが、どのようにすればそのような夢の社会が来るのかが、全く見えてきません(また、いつも指摘する通りにこうした男女ジェンダーが消失した社会では「萌え」も「BL」も消え果てていることでしょう)。
 久米師匠はスタートラインでは「女災」理論に辿り着いた。しかしどこをどう間違ったか、結局は「ジェンダーフリー」を持ち出してお茶を濁さざるを得なかった、「復古主義者」なのです。

*2 最後の恋は草食系男子が持ってくる
*3 男がつらいよ


最終回 母系社会がはらむ、語られない男性差別 日本が抱える社会の不思議な二重構造

 要は「日本は母系社会なのでそもそも男尊女卑ではない」との主張なのですが、正直、ぼくにとってはあまり興味の持てる話ではありませんでした。父系社会であるらしい欧米も当然、男尊女卑社会などではないのですから。
 とは言え、これについては以前も一読し、当ブログのコメント欄で好意的に評しました。
 というのも師匠が

要するにフェミニストには、男女平等を目指す者と、女性優位をどこまでも求める者の2タイプがいるのだ。後者に対しては学問上で徹底した批判が必要だろう。


 と断言しているからです。

 そろそろ結論をまとめることにします。
 上の師匠の発言、大変に賛成できる、頼もしいモノです。
 しかし同時に思うのです。少なくともこの師匠の言に添った文脈で言うのであれば、この世に「男女平等」を目指すフェミニストなど、どこにもいないのではないか、と。
 フェミニズムとは「男性が根源的絶対的徹底的に女性を搾取し、利を得ているのだ」という世界観を前提とするガクモンです。ぼくはこれを全く認めませんが、いささかなりともフェミニズムを認めるのであれば、フェミニズムが「女性優位をどこまでも求める」ことは当たり前であり、正当であるとしか言いようがないのです。
 ぼくが最近よく言う、「ツイフェミ」を、「ラディフェミ」を批判する「表現の自由」クラスタも同じような過ちを犯しているように思います。
 彼らはグルに頭にはめられた緊箍児(孫悟空の頭のアレね)のせいか、フェミニズムは正しいのだ、ツイフェミは、ラディフェミは悪だが、真の、正しい、善なるフェミニストがどこかにいるのだと言い続けます(が、そのフェミニストの具体例が挙がったことは一度もありません)。
 しかし彼らの(それ自体は大変に正当で鋭い)フェミ批判自体、そもそもフェミニズムを理解していれば出てくるはずのないモノ。
 フェミニズムを適切に批判し、フェミニズムを盲目的に擁護し、フェミニズムを全く知らない。
 それが、彼らの摩訶不思議な実態です。
 ぼくはついつい彼らを攻撃してしまいますが、彼らは「悪の洗脳を抜け出そうと葛藤を続けているライダーマン」なのかも知れない、もう少し優しく接してやるべきなのかも知れない、とも思います*4。
 久米師匠にも全く同じことが言えましょう。
 本連載がきっかけで始まった「男性学祭り」ですが、伊藤公雄師匠、田中俊之師匠などといった「男性学」を称する人々の筆致からは、いずれもフェミニズムへの無制限無批判無限大の忠誠心、男性への無条件無軌道無反省の憎悪が溢れていました。
 それに比べ、久米師匠の筆致からは男性への愛情を、フェミニズムへの懐疑を、何より「女災」理論に一歩近づく先進性を感じ取ることができました。
「後、もう一歩」と感じると共に、ジェンダーフリーへの無思慮無勘定無定見の信仰心は危うくも感じます。
 最終回での頼もしい宣言のごとく、久米師匠はこれからフェミニズムに対して知見を深め、堂々と批判をしていくのか、それとも大人の事情で、それはしないのか。
 ぼくたちは温かい目で、それを見守っていくべきかも知れません。

*4 『仮面ジェンダーV3』第44話「ツイフェミ対弱者男性」参照。