兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

お知らせ

2016-02-20 20:34:09 | お知らせ
 ネットマガジン『ASREAD』様でちょっと書かせていただきました。
京都地下鉄の萌えキャラにクレームをつけたのはフェミ…じゃなくて"まなざし村"!?」。
 例の「まなざし村」という(無意味な)概念を捏造している人たちへの批判、なのですが、それに留まらず彼らの振る舞いの行き着く先までをも占っています。
 ここしばらく書き続けてきたことと被る点も多いですが、その集大成と言えるものになっているので、 どうぞご一読を!

女ぎらい――ニッポンのミソジニー

2016-02-12 19:29:01 | 上野千鶴子


 今日は2016年2月12日です。
 先週から我々兵頭新児のことで世間をお騒がせしました。
 そして、沢山の方々に、たくさんのご心配とご迷惑をかけました。
 この度は、ぼくたちのことでお騒がせしてしまったことを申し訳なく思っております。
 今回の件で、オタクがどれだけフェミニスト様の温情と慈悲に支えていただいているかということをあらためて強く感じました。本当に申し訳ありませんでした。
 今回、上野様に謝る機会を電鋸雛菊君が作ってくれて今、ぼくらはここに立てています。
 最後に、ここから自分たちは何があっても二次元だけを見て、ただ二次元だけを見て、リアルなセックスは元より実写ポルノは全て諦め、マスターベーションに邁進したいと思いますので、皆さんよろしくお願いいたします。


 ――はい、謝罪も終わりましたので平常通り、レビューを始めたいと思います
『女ぎらい――ニッポンのミソジニー』は、上野千鶴子師匠の比較的近年の著作です。
 比較的近年でありながら、そしてまた「ミソジニー」というナウい片仮名言葉を掲げながら、内容は旧態依然とした千年一日の、古拙で偏狭で低劣なフェミニズムが語られるだけの本なのですが。
 なのですが先日、togetterにおいていわゆる「表現の自由」を標榜するリベラル君たちが、よりにもよって本書を根拠に「上野千鶴子はオタクの味方だ」論をぶち上げておいでだった*1ので、久し振りに本書を読み返す機会を持ったのです。
 本書については出版当時にも、詳しく触れました*2。
 しかし今回は、先のような事情から専ら上野師匠の「ポルノ観」を推し量る目的で、本書をレビューしてみましょう。

 さて、リベラル君たちは本書の80pを根拠に「上野師匠はポルノを否定してはいない」と断言しました。

想像力は取り締まれない――それが多数派のフェミニストが暴力的なポルノの法的な取り締まりを求めることに、わたしが同調できない理由である。

日本でもポルノ規制をめぐって、一部のフェミニストとコミックライターや作家とのあいだに「表現の自由」論争が起きたが、わたし自身は、フェミニストのなかでも「表現の自由」を擁護する少数派に属する。


 との箇所ですね(師匠が少数派ということはフェミニストの多数は敵ということになる気もしますが……)。
 師匠は近年、この種の発言を繰り返す傾向にあり、「うぐいすリボン」という「表現の自由クラスタ」の総本山とも言える組織の集まりでも、近しいことを言っていました*3。

 ――なるほどなるほど、確かにそれは彼ら「リベラル君」たちの方が正しいのではないか。

 さて、どうでしょうか。
 ぼくは幾度も主張してきました。
 上野千鶴子師匠はポルノを全否定している、と。
 そしてその根拠として、ぼくもまたやはり、本書を挙げてきました。
 何しろ本書の57pで師匠ははっきりと

売買春とはこの接近の過程(引用者註・男女のおつきあい)を、金銭を媒介に一挙に短縮する(つまりスキルのない者でも性交渉を持てる)という強姦の一種にほかならない。


 とおっしゃっているのですから。
 言うまでもないことですが、ポルノは「売買春記録物」です。
 つまり、上野千鶴子師匠はあらゆるポルノは強姦だと断言なさっているのです
 何しろ別の記事ではもっとすさまじく、

たとえば、売春業が「強姦の商品化」だとすれば、キャバクラは「セクハラの商品化」である。

やはり、風俗は完全になくすべきだという結論以外にない。


 とまでおっしゃっているのですから*4。
 しかし、一体全体どうしたことか、先の引用を目の前に突きつけられても、表現の自由を人命よりも尊いと考えるリベラル君たちは、上野師匠は味方だと頑迷に主張し続けました。電鋸雛菊という御仁などは特にすさまじく、こちらを「ノロマ。愚図。印象論者。デマ野郎。ゴミ論者」などとただひたすら口汚く罵り続けました。そのヒステリックさ、幼児退行ぶり、自らに逆らう者への憎悪、過剰な攻撃性は、見ていて心配になるほどです。
 客観的事実を提示されてもそれを受け容れることが決してできず、自分たちのついた嘘を押し通そうとその嘘を指摘した者に殴りかかり、「『ヤツはデマを流しているのだ』とのデマ」をあちこちに垂れ流すというのはフェミニストやその信奉者の共通の、もう、本当に、唖然とする、呆れ返る、これまでに何十回となく繰り返されてきた振る舞いです。
 果たして、彼らの狂信性は一体、何に端を発するものなのでしょうか?

*1 次の「火のないところにフェミが放火する案件」京都市営地下鉄戦(http://togetter.com/li/926415)
*2「女ぎらい――ニッポンのミソジニー(http://blog.goo.ne.jp/hyodoshinji/e/dc90697177363f41f96dc39e97bc0afb)」
「女ぎらい――ニッポンのミソジニー(その2)(http://blog.goo.ne.jp/hyodoshinji/e/95f2f4056c4af4fa29d1bab7fea658bc)」
また、上野師匠のオタク文化に対するスタンスについての、当時のぼくの見解は「チェリーボーイの味方・上野千鶴子の“恋愛講座”(http://blog.goo.ne.jp/hyodoshinji/e/96a9d5b36e737a4e69b17831efbdefc9)」
*3 堺市立図書館BL小説廃棄要求事件を振り返る(http://www.jfsribbon.org/2012/10/bl.html)
*4「上野千鶴子氏 売春は強姦商品化でキャバはセクハラ商品化(http://www.excite.co.jp/News/society_g/20130609/Postseven_191042.html)」


 ぼくに先の箇所を突きつけられた時の、リベラル君たちの反応は以下のようなものでした。

 1.エロ漫画、エロアニメなど現実の女性の関わらない表現であれば、「売買春記録物」とならない。師匠がポルノを「全」否定している、というのは兵頭のデマだ。
 2.実写などでも「写真集」などは「売買春記録物」ではないものもあり得る。


 なるほど、先の『女ぎらい』出版当時のブログでもぼくは


仮にですが、上野センセイのお考えが、「あらゆるポルノを女性差別として否定する、しかし非実在少女をモデルとしたエロ漫画、エロゲーだけは認める」というものであれば、筋が通っているとは思います。


 と注釈を入れはしました。
 しかし、では、「上野師匠はポルノを“全”否定はしていないのだな」とお感じになるでしょうか?
 少なくとも、映像を記録する技術が開発されて以降は、「売買春記録物」、即ちセックスをしている場面の記録が、ポルノのメインと言えるはずです。そこにいくつかの抜け穴があるから“全”否定などしていないのだ、と言われて、納得できるでしょうか。
「写真集」で「売買春記録物」でないものもあるというのもまた、おかしなリクツです。師匠は「風俗」を全否定しているのですから、「風俗」の中に「本番」のないものもあるからいいのだといった抜け道を認めていないのは自明です。そんな師匠が「性交に至らない写真ならばOK」といった抜け道をお認めになるとは、とても思えません(しかし彼らは、上野師匠の言を無理やりにねじ曲げて、「彼女はぼくたちの味方なのだからこれこれのようにお考えに違いない」とただひたすら根拠のない妄想を繰り広げ続けるのです)。
 そもそも、では、一億歩譲って、師匠が彼らの言う通り「本番のない実写ポルノ」、「アニメなど二次元のポルノ」だけは認めておいでだとして、しかし「性交している実写ポルノはNG」だとする師匠を、彼らは首肯するのでしょうか。児童ポルノの単純所持が禁じられようとした時は、あれだけ「実写の禁止を容認すれば、今度はイラストなどの禁止もなされることは明白だ」と何でもかんでも反対していた人たちが、フェミニストの言うことになるととたんに寛容になるのは、不思議としか言いようがありません。
 彼らは「たっ君ママ」です。
 彼らはたっ君を溺愛するママであり、一方、近所のムカつく宮本のガキ*5を憎悪しています。彼らはたっ君がテストで10点取ったことを、宮本のガキの7点に比べ大変な好成績だとして、先生に合格点をつけることを強要します。ですが実のところ、クラスのみんなはもっと努力して平均点は80点を超えていたのです。
 だってそうですよね、一般の女性はポルノにそこまでの拒否感を示しはしない。ましてやオタク界には、自らものすごいエロ漫画を描いてくれる女子が大勢いる。つまり秀才揃いの「オタク学校」にはテストで100点を取る女子が大勢いるにもかかわらず、彼らはたっ君と宮本のガキにしか目が行かず、周囲の現実がどうしても呑み込めないのです。


*5 彼らの「仮想敵」として決まって彼らの口から出て来るのが宮本潤子師匠です。正直この人がどれだけの影響力を持つのか、ぼくにはわからないのですが、彼らの村には上野師匠と宮本師匠以外の女子が一人もいないということが、大変よく理解できますね。


 本書を読めば読むほど、上野師匠が(あくまで、法的規制に賛同していないだけで)徹底的なポルノ否定派であることが伺い知れます。
 何しろ、本書を開くとまず一番最初のページ(7p)で、

ミソジニーの男には、女好きが多い。「女ぎらい」なのに「女好き」とはふしぎに聞こえるかもしれない。それならミソジニーにはもっとわかりやすい訳語がある。「女性蔑視」である。女を性欲の道具としか見なさないから、どんな女にもハダカやミニスカなどという「女という記号」だけで反応できる。おどろくべき「パブロフの犬」ぶりだが、このメカニズムが男に備わっていなければ、セックス産業は成り立たない。


 などと書いているのですから、ぼくたちが女体に性的興味を覚える以上、ぼくたちは「ミソジニスト」の誹りを免れないのです。
 いえ、そればかりではありません。254pでは、男性が女性を「守りたい」と考えることすらもが女性を蔑視した、許されざる差別的な考えだと主張なさっているのだから驚きます。そんなの、男性に守られたがる女性が悪いんじゃないでしょうか(これについては先に挙げたぼくのレビューの一番最初のものを参照)。
 9pでは、吉行淳之介『驟雨』がやり玉に挙がり、


おどろくほど通俗的なポルノの定石どおりに展開する。
(13p)


 それはつまり、男が女を快楽に導くことで支配するという幻想であり、


あまりこの種の幻想がまき散らかされているために、ほんとうに信じこむ人たちがいるのじゃないかと心配になる。吉行はそういう性幻想をまき散らかした戦犯のひとりである。
(14p)


 と全否定を続けます。
 こういう人がエロを認めていると、どう考えれば思い至れるのでしょう。はっきり言うと、この『女ぎらい』は壮大な「ポルノ否定」の(いえ、「男性否定」であり「女性否定」の)書であり、彼女がポルノに寛容というのはオタク界のトップがオタクの味方であるというのと同じくらい、ムチャクチャなのです(比喩になっていないことをお詫びいたします)。
 先の80pの発言は「児童性虐待者のミソジニー」という、小児愛者を批判した章のものなのですが、この後師匠は


それならいっそのこと、かれらが性関係から撤退し、性行為をマスターベーションに限定し、自己完結した性的欲望のファンタジーのもとにとどまってくれているほうが、ずっとよい。ヴァーチャルなシンボルで充足できる「二次元萌え」のオタクや、草食系男子のほうが、「やらせろ」と迫る野蛮な肉食系男子よりましだ。
(中略)
たとえ二次元平面のエロゲーや美少女アニメが、誘惑者としての女がすすんで男の欲望に従うあいもかわらぬ男につごうのよい男権主義的な性幻想を再生産している、としても。
(86p)


 と言い出します。つまり、彼女は「ポルノを全否定」した上で、「オタクは二次元にしか興味がない」との仮定の上で、ようやく、ぼくたちのことを「まし」であると言ってくれているだけなのです。
 次のページでは実写ポルノについて、

トラウマ的なポルノを演じることでもたらされる影響を無視することはできない。


 と、「仮想のストーリー」をも悪だと難じています。
(繰り返すように本章自体が小児性愛者についての章であり、全体的にはチャイルドポルノが批判されているのですが、上の文章はその直後に「とりわけ子どもの場合には」とあるように、ポルノ全体を批判する文脈で書かれたものであることを、お断りしておきます)
 先の吉行淳之介批判もそうですが、上野師匠はラディカルフェミニストの一人であり、ラディカルフェミニズムは根本の部分で「我々の性意識は他者によって教え込まれたもの(なのであるから、それを覆さねばならない)」という考え方をしており、ポルノを絶対に許すはずがないのです。
 以前ツイッター上で、青識亜論師匠(「表現の自由」派の中の有力な人物)と話していて、面白いことを言われました。

バトラーなどは、ポルノの自由を認めた上で、ポルノを構成する表徴を転倒させ、反差別の力にしてしまおうという豪快なロジックを使いましたが、上野女史もこうした流れを汲むのではないかと勝手に思っています。


 要するに、フェミニスト様にポルノを差し出し、ご自由に査定、改訂していただこうというわけです。一体何で、そんな人権保護法案みたいなメンドくさいことをしなきゃいけないんでしょう。
(ちなみに先のバトラーのロジックは、フェミニストの口からよく聞くものです。上野師匠の弟子である千田有紀師匠もまるきり同じことを言っていて、その意味で彼の「上野女史もこうした流れを汲むのではないか」との想像は、恐らく当たっていると思われます)

 ここまでで、大体のことはわかったかと思います。
 彼らリベラル君たちの言い分は、彼らの運動を「ただひたすらに自民党と戦うことを目的としたもの」と規定した時、極めて論理的なものとして立ち現れます
 フェミニストたちがいかにポルノを否定していても構わない。彼女らが実際にあちこちにクレームをつけ、「表現の自由」を阻害しようと、いっこうに構わない。ただ自分たちはフェミニストとデートをして、そして自民党が悪だと言いたいだけだ。
 どうやら、彼らの言を演繹していくと、そのようなものになってしまうようです。
 事実、彼らは悪名高い「行動する女たちの会」を「法規制には反対の立場だ」というだけの理由で称揚しています*6。
 彼ら「表現の自由」クラスタは「国家大嫌い芸人」であり「フェミニスト大好き芸人」ではありますが、大変残念なことに「エロ大好き芸人」でもましてや「アニメ大好き芸人」でもなかったのです。

 漫画もアニメも消え果ててもいい。ただボクはフェミニストとデートをして、現政権の批判だけを続けたい。
 そうお思いの方はどうぞこれからも、足繁く彼らのライブに通い続けてください。

*6 フェミニスト団体「行動する女たちの会」の悪質さと、オタク界のトップが彼女らを称揚する様は「『ポルノウォッチング』ウォッチング(http://ch.nicovideo.jp/hyodoshinji/blomaga/ar855897)」を参照。

ズッコケ熟年三人組

2016-02-06 18:07:44 | 男性学


 当ブログ、去年の初めはずっと『ズッコケ』のレビューが続いておりました。みなさん、うんざりなさっていたかと思います。
 さて、そんなみなさんに嬉しいお知らせ。
 今回ご紹介する『ズッコケ熟年三人組』で本シリーズ、めでたく完結です。
 著者はこれ以降も続けることを仄めかしていた時期もあり、ぼくも以前、『熟年』がシリーズ化するようなことを書いてしまいましたが、あとがきなどを見るにどうやらこれで完全にファイナルのようです。
 以前も書いたようにこの『中年』シリーズは連続ものとしての性質が強く、一冊ごとのレビューはしにくいのですが……まあ、軽くやっておきましょう。
 タイトルが味気ないので、冒頭で各巻に『ズッコケ』風のタイトル案を着けています。
 またオチなども平気でネタバレしますので、その辺はご了承ください。
 ちなみに奇しくも去年の今日、『ズッコケ』最初のレビューをここに掲載したんですよね……。

『ズッコケ中年三人組age46』
●タイトル案『ズッコケ浮気調査団』



 今回は「宅和先生危篤」との煽りで、発売前から騒がれた話でした。
 宅和先生は三人組の六年生の時の担任。実際にはそこまで出番の多いキャラクターではないのですが、やはり三人組の恩師として、存在感を放っていたキャラでした。
 その先生が意識不明という報が入って……そのまま意識を回復させることなくあっさり死んでしまいます。
『生徒会長』で悪役としての存在感を見せつけた津久田も自殺しているとの説明がなされ、またモーちゃんの母親の認知症の話題も絡め、今回のテーマは「死」や「老い」のようです。
 それにしても、重要キャラを富野アニメのごとく死なせて無常観を演出する那須節。もうちょっと楽しい話を書いても罰は当たらんと思うのですが……しかし驚くべきは、むしろ本作のメインはそこにはなく、宅和先生の若い頃の不倫疑惑にある点です。
 葬儀後、尋ねてくる老婦人。彼女は宅和先生の教師仲間だったが、元恋人でもあるという。若い日に既に妻子ある宅和先生に処女を捧げ、その後、別人と結婚。しかし更に数年後、一度だけ再会し、関係を持ったこともあるというのです。彼女の目的は、宅和先生の骨を分けてもらうことだというが……。

 弱り切った宅和先生の娘さんに頼まれ、三人組は婦人の裏を調べ、会いに行こうとするのですが、そこで婦人の息子が意外なことを告げます。実は彼女は大学時代の恋人にもコンタクトを取り、「あなたとの性関係を自分史に書きたい」と申し出ているというのです。
 ここで読んでいる側はモーちゃんの母親の認知症のエピソードを想起し、「ははーん」となります。『結婚相談所』をご記憶でしょうか。モーちゃんの母親はDV疑惑、DV冤罪疑惑のある人物です。
 更に、婦人の日記には様々な男性との性遍歴が出て来るのだから、もうお察しです*。彼女が「宅和先生からの結婚祝いにもらった」と称する童話集があるのですが、奥付を見ると出版年は彼女の息子の誕生した年。別にデキ婚じゃなかったのですから、それでは時間軸があわないわけです。
 案の定、彼女は認知症を患っていました。
 もう、盛りだくさんでおなか一杯です。
 ただ、「騒動の最中、たまたま婦人が怪我をしてしまい、外を出歩けなくなったのでもう騒ぎを起こすことはなくなった」ってクロージングはちょっとご都合主義過ぎるとは思いますが。 

『ズッコケ中年三人組age47』
●タイトル案『花のズッコケ大選挙』


 ハチベエ市議選に出るの巻。
 反市長派がどうの、陽子を駆り出して婦人部を作り、女性に媚びを売って女性票を取りつけるのと、そんな話ばかりがなされます。
 いえ、『ズッコケ』シリーズでの名作『花のズッコケ生徒会長』でも考えれば同じようなことをやっており、要は政治ってそういうものなのでしょうが、政策で勝負しろよ、おまいら、とも言いたくなります。

 例えば、ミステリ系って人気があるけど、ぼくにはそれが何とも不思議です。
 日本人は情緒の国民でロジカルなモノは好まないと、ぼくには思えるからです。
 前に『スーパーダンガンロンパ2』で罪木が泣き出すことで、裁判の流れが変わるというシーンを採り挙げたことがあります。情緒に引っ張られて論理を蔑ろにする様はリアルですが、恐らくこれはミステリでは例外的な展開かと思われます。
 例えばですが、「野球漫画」が「この世でもっとも価値があるのは野球だ」との価値観に貫かれたパラレルワールドでの物語であるように、ミステリというのは「人間誰しもが論理的に行動する」という架空のパラレルワールドを舞台にしたヒロイックファンタジーであるわけです。上の『ダンガンロンパ』の展開は言わば『ウルトラマン』で「怪獣を訴訟を起こしてやっつける」展開でも始めちゃったような、禁じ手なわけですね。
 で、翻って思うのは政治って、それの真逆で「情緒を操作する」ゲームだよなあと。
 そう考えると日本で政治モノが必ずしも受けず(アメリカ映画にあるような演説で終わる話って、日本じゃあんまりありませんよね)、ミステリが人気なのも不思議な気がします。

『ズッコケ中年三人組age48』
●タイトル案『ズッコケ痴漢大疑獄』


 ハチベエが痴漢冤罪に巻き込まれるという、まさに「女災小説」なのですが……。
 が、相手の女子高生は急に主張を翻して「自分の勘違い」と認める。
 しかしそれは対立議員の罠であった。新聞記者を待機させ、「新聞ダネになるところだったがゲラ段階で差し押さえたよ」と恩を売り……。
 お話としては三人組が久々にタッグを組み、僅かな情報から女子高生に接して敵対議員の子分であるチンピラを尾行して……とまさに小学生時代のようなわくわく感のあるモノに。しかし痴漢冤罪というのはいかにも政争の小道具として使われた感が強く、女子高生たちもすぐに反省するので、「女災小説」としてはそこまでの深みはありません。
 そもそもハチベエの息子がやたらと高校生仲間に顔が利き、何でも解決してしまうので、話としてはあんまり緊張感はありませんでしたし。

『ズッコケ中年三人組age49』
●タイトル案『ズッコケ王朝調査隊』


 今度はロマノフ王朝の子孫と称する人物が登場してきます。
 となると『財宝調査隊』を彷彿とさせる謎解き劇が期待されますが、キホン、この辺りの数作はハチベエ市議の駅ビル構想が柱となっており、融資がどうのこうのといった話が中心。『心霊学入門』の恒川浩介も再登場しますが、まあ、可愛いショタっ子も時が経てばオッサンになるという無常さ以上は感じさせません。

『ズッコケ熟年三人組』
●タイトル案『脅威のズッコケ大水害』



 最終作ですが、先にも書いた通り、駅ビルの件が話の中心。
 ハチベエのオヤジが駅前ビルができるのを機に、八百屋を復活させないかと提言。しかしハチベエはそんなに商売に情熱を注いでる風もなく(『大震災』でちょっとそんな感じがあったくらい)、お話の柱足り得ないのでは……と思っていると水害のエピソードでムードが一変。ハカセの教え子、モーちゃんの同僚の奥さんが亡くなるなどの無常観を見せつけます。
 八百屋の話はハチベエの中で葛藤の描かれないまま、ラストで唐突に再開の決意がちらっと語られるのみ。やはり、ハカセが専ら「内面」を引き受けていた本シリーズの弊害が、ここへ来て顔を出したように思います。
 オチはクラス会で「俺たちも熟年か」といった会話をさせつつ、「ズッコケ熟年三人組」とのフレーズが出るかと期待させつつ、そこを外して、言わせないまま。
 そしてハカセが歌を歌おうとする、歌に入る直前でさっと終わります。
 この外しっぷり、アンチクライマックスぶりはなかなか那須センセらしいと思います。
 何しろ四十年近く続いたシリーズのラストが「ハカセはちゃんと歌を歌えるかなあ」なのだから、「何じゃそりゃ」とも、「でも取り敢えずの心配事はいつだって、そういうレベルのことだよなあ」とも思えます。

 ――さて、以上で『ズッコケ』の五〇冊に加え、『中年』一〇冊を加えた六〇冊フルコンプです。少年時代のシリーズは五〇冊を確か三ヶ月足らずで読破したのを中年は半年以上かけたのだから(『熟年』が出たのは今月三日ですが、前作を読み終えたのはそのちょっと前でした)やはり中年は今一……という感じではありました。
 そもそも、ぼくが本作を『中年』シリーズまで追いかけようと思い至ったのは某ブログで

那須正幹には自身の女性蔑視・女性嫌悪を露骨に作中に表してしまうという悪い癖があります。

中年シリーズで著者のミソジニーを主に受けていたのは、いうまでもなく荒井陽子です。前巻(引用者註『age46』)での「拾ってくれてありがとう」というセリフや、今回(引用者註『age47』)の子供を産ませてほしいと土下座までしてしまう姿勢、ハカセに対する陽子の卑屈な態度をみると、著者がこの結婚を陽子に対する懲罰として設定していることがわかります。自立した女性として生きていた彼女は、その懲罰としてハカセごときと結婚されられてしまったのです。


 などと書かれていたからです。
 なるほど、那須センセの女性に対する視線は極めて辛辣です。
 同ブログは


ここからわかるのは、著者がバブル世代の女性にこの程度の貧困なイメージしか持っていないということです。


 と続けていますが、那須センセの辛辣さはむしろ、若い頃の離婚体験に根差していると思われ、貧困なイメージで相手を憎悪、蔑視しているのはむしろこのブロガーでしょう。
 そもそも『ズッコケ』はそのタイトルに反してシビアで極めてシニカルな作風であり、『中年』シリーズはいよいよその特徴が顕著になっており、別段女性に対してだけ辛辣なわけではありません。
 むしろ、女性が子供を作りたがる心性を否定するこのブロガーの方が、ぼくにはミソジニストとやらに思えるのですが。
 ともあれ、この件でぼくが感じたのは、「女性への批判めいた表現は、もはやフィクションですら許されなくなりつつある」ということです。
 例えば、『ドラえもん』でジャイ子との結婚が「のび太への懲罰」とされていることにフェミニストは怒り狂いました。が、それは『ドラえもん』が従来の児童漫画の中では「少し、お兄さん向き」のものだったからに過ぎないのです(事実、有名なこの一話は『小学四年生』に掲載されたもので、低学年向けには違った一話が描かれていました)。『ズッコケ』も同様で小学六年生という「お兄さん」が主役のシリーズ。だからこそ少年時代のシリーズでは女子キャラの「他者性」が透徹されていたのです。那須センセも自作についてインタビューで「男の子に読んで欲しい」旨を語っていました。
 しかしそうした「自然な、異性への視点」すらも許されない、とする気風がだんだんと強まりつつあります。最終作あとがきで、リベラルのセンセは「これからの日本の平和と民主主義に暗雲が立ちこめつつある」ことを危惧していますが、ぼくにはまた別方向から黒雲が湧いてきているんじゃないかとの気がして、ならないのです。