みな様、早いものでもう12月26日です。クリスマスまで後僅か364日。
クリスマスツリーやクリスマスプレゼントの準備は整っていますでしょうか。
――わかりにくいので書いておきますが、以上は歌丸師匠が毎年やるry
さて、前回に引き続き、今年の女災10大ニュースのランキングを発表して参ります。
前回はどちらかと言えば私事の愚痴メイン、といった感じでしたが、今回は比較的、「女災業界」(むろんそんなものはないのですが)全般を見渡して感じた大きな変化について、多少まとめて起きたいと考えております。
というわけで第5位、4位は同時に発表してしまいましょう。
【第4位】『中国嫁日記』が人身売買であると、フェミニストに噛みつかれる
【第5位】「ろりともだち」を絶賛した東浩紀師匠、フェミニストに噛みつかれる
もうさんざん語ってきましたし、ずっと当ブログをご覧いただいていた方からすると、もう飽き飽きのトピックスかも知れませんね(「ろりともだち」「同(その2)」「同(その3)」、『中国嫁日記』、『同(その2)』)。
フェミニストたちは、見ていけば見ていくほど奇怪としか表現し得ない主張を繰り返しています。
「オカマは(本人は女性としての自意識を持っているのだから)女湯に入る権利があるのだ」という者。
「女性の性的尊厳は男性の生命に優先されるべきだ」と言う者。
ホモが小学生の少年と性交渉を持つことを肯定的に紹介した本を、絶賛する者。
実にびっくりな、面白い人たちに出会えました。
『中国嫁日記(その2)』においてぼくは、そうしたフェミニストたちに対して「確かに、ツイッター上で話題になるフェミニストたちはお決まりのメンバーであり、彼女らがフェミニストの中でも少数者である、ということは言えるのかも知れません。」と書きましたが(そしてそれは別に間違ってはいないのですが)彼女らのような過激なフェミニストはトゥギャッターの餌食になっている数名の有名人だけであり、本当に例外的な人物なのだ、ということでは決してありません。
今までは表に出てくる機会のなかった、少数派とは言えそれなりにフェミニズムの中で一つの勢力になっている人々が、ツイッターの「バカ発見器」としての機能によって真の姿をあぶり出されてしまったというわけです。恐らく「商業フェミニスト」であれば世間の受けを考えて隠している本音を、彼女らはついつい漏らしてしまった、というのが実情なのではないでしょうか。今ここで「ツイッターでつい、言った」という駄洒落を思いついたので特に記しておきます。
ネットというのは、自分の好みのコミュニティに自分の好きにコミットすることが可能な世界です。結構なことですが、一歩間違えると似た者同士が狭い世界で頷きあっているという自らの置かれた状況に気づかなくなるという罠があります。2ちゃんねるの、例えば『ドラえもん』スレに入り浸っていると、世間と自分たちドラえもんマニアの温度差がわからなくなってくる、といったように(一般人は「オシシ仮面」とか知ってるの? 知らないの?)。
いや、オタクはむしろその辺りに妙に自覚的なのですが、その他のマイノリティたちにとっては(仲間に出会えるという多大な恩恵の反面)自分たちが日常生活では隠している感覚が社会性、市民権を得たという錯誤を抱くというデメリットを持っています。ニコ動にアップした自分たちの姿を賞賛しているのは実は自分たちだけだと気づけないままになってしまう、ということですね。
恐らく、これを押し留める方法はありません。
みなさん「みんな違って、みんないい」と物わかりのいいことを言って、他人様には口を出してはいけないというルールを遵守なさっていますから。2ちゃんねるなどの「ファンスレ/アンチスレ」の妙にお行儀のいい共存ぶりなどはその一例と言えるでしょう。
が、ここで何故フェミニストに限ってはその特異性があぶり出されてしまったのでしょうか。
その答えは次項で。
【第3位】進歩派たち、謎のフェミニスト擁護
これも結構繰り返していることです。
ネット上でフェミニストの特異性が露わになるにつれ、「いや、彼女らは似非フェミ/ウヨフェミ/ラディカルフェミニストだ、本物のフェミニストではない」といった「擁護」を行う人々が目立ち始めました。
そうした主張の出どころは左派の、反児ポ運動の論理的支柱になっている人々だと想像できます。彼らはフェミニストたちと極めて親和的である反面、フェミニストのアンチポルノ運動に深い憎悪を抱いており、その両面性が彼らをしてそうした矛盾に満ちた言動に走らせているわけですね。
例えば、上野千鶴子師匠。
彼女は表向き「表現の自由」を尊重するような主張をしているが(或いは、心底その価値観を信じているが)、同時に売買春を否定する主張もまた、繰り返しているのです。しかし売買春を否定するならAVも否定せざるを得ない。それは殺人を否定するのであれば、「映画撮影のために殺人を行う」ことを否定せざるを得ないのと同じです。
彼ら彼女らがこの矛盾について説明したことは、ぼくの知る限り一度もありません。恐らく深層心理下では薄々気づき、そのため思考を停止してしまっているのではないかと想像できます。
閉鎖的な共同体にいる限り、そうした矛盾は「何となく」スルーしたままでいられる。が、なまじ児ポ法反対運動という形で「オタク」という大勢力を取り込もうとしたため、彼ら彼女らのカルト性が表に出てきてしまった。そういう構図なのではないでしょうか。
オウム事件当時、上祐がテレビ関係者に「麻原彰晃の空中浮遊能力について信じているのか」と問われ、気まずげな顔になって口を閉ざしてしまったという一幕がありました。恐らく彼は空中浮遊について信じているわけでも信じていないわけでもなく、「何か、考えないようにしておこう」というスタンスでいたのでしょう。
フェミニズムがいかに矛盾を露呈してもダンマリを決め込み続ける進歩派たちの内心もまた、これに近いものなのではないでしょうか。
【第2位】女性専用車両反対運動盛り上がる
この一年くらいでしょうか、ことにツイッター上では賛否共に、本当に盛り上がってきたと思います。
ぼくもツイッター上でしか知らないのですが、彼らはオフにおいて、
1.街頭演説
2.実際に女性専用車両へと乗り込む運動
の二種の運動を行っているようです。
1.については、女性専用車両に限らず、「男性差別」をテーマにして演説を行っている人たちもいるようです。
2.については、実際に乗り込むことにより事実上の廃止に追い込もう、というのが狙いのようです。
とは言っても、ぼくをフォローなさっている方はおわかりかも知れませんが、この「盛り上がり」について、ぼくはどうにも評価しにくいのです。或いはぼくの中にある市民運動アレルギーが原因かも知れませんが、それにしても、と思います。
ツイッター上には運動家たちがリツイートしたとおぼしき、運動に対する反応が並んでいます。
反対意見を述べる人たちの「リクツ」は、要は「女性専用車両ができたのは痴漢のせい、即ち男のせいだ、自業自得だ」というもの。これは、それこそ「男は男として生まれた瞬間、悪者なのだ」というフェミニズムを援用しない限り正当化し得ない、全くの詭弁です。
しかしそれよりも問題なのは、フェミニストでも何でもない一般の人々によるものと想像できる、リクツではなく「感覚」的なリアクションです。
即ち、「何だありゃ」「みすぼらしい男どもばかり」といった反応。
ツイッター上ですらわざわざそう呟かれてしまうのだから、恐らく演説や運動を見る者の大多数は、そのような印象を抱いていることでしょう。
現代の日本人の中で、思想としての「フェミニズム」を信奉している人々の割合は恐らく、1%も満たないことでしょう。しかし残りの99%はやはり、「女性はいたわらねば」と素朴に信じている人、或いは疑問を感じつつも「女性には逆らわない方がいい」と考えている人たちであることが想像できます。少なくとも、フェミニズムそのものには賛同できなくとも、「男性差別」と言われてしまうと拒絶反応を示すのが大多数であると、考えざるを得ません。
彼らの強攻策はそうした潜在的な層の疑問を、引っ込ませてしまう効果こそあれ、目覚めさせる効果は極めて薄いと言わざるを得ない。
それはやはり、今時市民運動など「みっともない」という意識が働くからです。
フェミニズムもまた、そうした「みっともない」という目で見られ、廃れていった思想なのですから。
しかし運動家たちと話してみても、どうにもそうした意識が薄い*。
「私の主張は正しい、だから受け容れられるはずだ」「大衆は我々の運動に賞賛の拍手を送っているはずだ」といった素朴な信心に、彼らは支配されているようです。
そうした、言ってみれば彼らの楽観主義、ナルシシズムがぼくにはどうにも理解しがたい。
*「では反原発デモはどうなんだ」と言いたい人もいるかも知れませんが、あれは東電というわかりやすい悪者がいたからこそなし得たことです。そうした仮想敵のないパフォーマンスをやってみせても、フェミニストがそうであったように、世間はパフォーマーの姿しか見てはくれないのですね。
例えば、『ちび黒サンボ』。
今では普通に出版されていることと思いますが、市民団体がこれを「黒人差別だ」として、回収騒動を起こしたことがあります。『ウルトラセブン』の第十二話しかり、こうした市民運動は70年代から80年代にかけて盛り上がりを見せ、やがて支持されていないことが判明し、力を失っていきました。
これら市民運動が批判される時に決まってなされるのは、「彼らは本物の黒人ではない」といった、いわゆる「ホンモノの弱者、マイノリティ」と言われる人々と「分離」しようという試みです。『ちび黒サンボ』の排斥運動については好ましく思わないものの、ぼくたちは「ホンモノの黒人」に逆らう勇気は持てず、「運動家が黒人ではない」ことに胸を撫で下ろしつつ、彼らをバッシングする。
極めて倒錯した構図ですが、ぼくたちはこうした迂回路を通じて、どうにかこうにか市民運動に対する嫌悪感を表明してきました。
が、今回「我こそは弱者だ」と名乗っているのは「男性」です。世間は安心して、何の心配もなく市民運動を叩けます。
近い例に、例えばテレビなどでタレントが声優などをバカにした時、オタクがそのタレントのブログを炎上させ、謝罪騒動などを起こすことが度々ありますよね。
が、世間にとっては、これもまたオタクを叩く絶好の機会となってしまうわけです。
同じことをフェミニストが、ホモが、何らかの病者などの団体が行った時、ぼくたちはその行動に嫌悪を感じつつ、どうも拳を振り上げにくい。しかし「弱者」マークのついていないオタクであれば、安心して叩くことができる(まあ、逆に言えばこうした事件は既にありふれすぎていて、わざわざ叩こうという人も少ないかも知れませんが)。
それと同じことが、「男性差別運動」にも起こることは必然なのです。
例えば、女性専用車両に乗り込んだ「運動家」が痴漢したと訴えられ、逮捕でもされたら。
それが冤罪でも、圧倒的にこちら側が不利です。
そうなったら、世間はここぞとばかりに、攻撃の刃を「弱者」マークのついていない者たちに向けてくるのです。
はっきり言えば彼らの運動は「さあどうぞ叩いてくれ」と言わんばかり、赤ずきんちゃんが狼の寝るベッドに全裸でダイブしているようなものです。
ぼくたち男性は「弱者」です。
しかし、「弱者」マークはついていない。
この両者の違いを、もう一度よく考えてみる必要があるのでは、ないでしょうか。
最後にちょっとだけ、彼らの(やり方ではなく)言い分に対するぼくの感想を記しておきます。
彼らの言い分は「女性専用車両には法的根拠がない(或いは憲法違反だ)から男性が乗っても構わない」といったもののようです。むしろ誰かがこれを指摘してから、水を得た魚のように運動が活発化した印象さえあります。
しかし企業サービスが法的に根拠のない約束事を顧客に課すことくらい当たり前です(当店では○○はご遠慮いただいております)。それに法的根拠がないだの憲法だの基本的人権だのを理由に文句をつけることは無意味だ、といった反論がなされており、ぼくもそれに賛成します。
ただし、鉄道は公共性の強さ、代替物のなさなどからレストランや小売店とは違う、といった論法で女性専用車両の不当性を(実力行使ではなく対話で)訴えること自体はおかしなことではないと思います。ただ、法律だ憲法だを大上段にドヤ顔で一本調子に振りかざすやり方には賛成できませんし、一般人には賛同されるよりは退かれる可能性が大変に高いわけです。
また、普通に考えればこの問題の落としどころは、銭湯のように男性車両と女性車両を分けてしまうことでしょう。しかしそれを誰も言わない(賛成派からも反対派からも出て来ないのが不思議です)。いえ、進言されても「それは許せぬ」と一蹴してしまう。
そうした硬直性、運動自体が自己目的化してしまっている「運動ヲタ」的なムード。それこそが一番、一般人をして退かせる要因になっているということを、一度考えてみた方がいいのではないでしょうか。
エコロジーブームからこっち、昨今の「運動」はとにもかくにもまず実行、「わたしにもできること」があるはずだという前提から出発して、それが何を引き起こすか考えずに軽率にやらかしてしまう、やらかして達成感に浸る辺りに本質があるように思います。
ただ、こうした傾向の一因は、ぼくたち男性が自分たちのための思想を、言葉を深めてこなかったことにある、とは言えそうではあります。だからあんまり深みのない、わかりやすいだけの言葉に、限定版を見つけた萌えヲタのごとくに飛びついてしまう。
少し前、何とか言葉を紡ごうとしてぼくたちの何とか社会みたいなことを言った人がいた気がするのですが、どうも上のようなタイプの人々は、そもそもご本をお読みにならないような感じがするところが、大変に残念です。
【第1位】DV冤罪に対する反対運動の声が上がる
ほい、堂々の第一位はこれです。
目下、最も目立って、深刻で、また「アツい」女災の話題は間違いなくこれでしょう。
――などと言いつつ、すみません、不勉強で詳しいことは知らないのですけれども。
要は妻と悪徳カウンセラーが結託して夫をDV冤罪に陥れ、夫婦を離婚させようとしている、或いはそうした濡れ衣を着せられ、親権を剥奪されて実の子に会うことすらできなくなった男性が大勢いる、そうした男性たちが今、悪徳弁護士やカウンセラーなどに対して声を上げ始めているのです(むろん女性の被害者もいるわけですが、圧倒的多数は男性です)。
これは昨今、ハーグ条約への加盟に絡んで語られることが多くなっています。ハーグ条約とは国際結婚が破綻し、一方の親が自国に子どもを勝手に連れ帰った場合に元の国に戻すことなどを定めた法律(日本は未加盟ですが、本年加盟方針を打ち出しました)なのですが、米国のキャンベル国務次官補がDVから逃れてアメリカから帰国する日本人の元妻らがいるが、「実際に暴力があった事例はほとんど見つからない。相当な誤認だ」と語ったというのです。
これはセクハラ、ストーカー、痴漢といった他の性犯罪冤罪と全く同じ構造を持つと共に、悪徳カウンセラーが妻を唆しているという現実があるそうで、だとするとかつてアメリカでフェミニストが引き起こし、何万という家庭を破壊した、幼児虐待冤罪といよいよそっくりです。
またこれは、ぼくたちが「女性の訴えは証拠がなくても信じよう」という宗教的情熱を燃やし続けてきたことに対するしっぺ返しでもあります。こうした優位性、言ってよければ権力を握ってしまえば、そこには必ず腐敗が生ずる。今の女性たちの腐敗ぶりを、ぼくたちは真摯に見つめる必要がありそうです。
ただ、この問題については可能性を感じつつ、二つほど不安要素もあるように思います。
第一にこれは「子供のため」といった大義名分があるために主張に説得力を持った、という側面があることは否定できません。フェミニズムの嘘が暴かれればそんな経緯はどうでもいい、と言うこともできますが、ぼくたちが本当に目を向けるべきなのは「男=加害者/女=被害者」という、それこそフェミニズム以前からずっとぼくたちの心に根を下ろしている「偏見」なのです。
第二に、こうした運動をしている人々の中には(フェミニズムを批判する人も多い一方)やはり児ポ運動と全く同じに「いや、悪いことをしているのは似非フェミニストだ」といった主張をする者がやはり、存在することです。彼らは自らの子供を奪われながらも、それでもフェミニズムを守ろうとし続けています。
痴漢冤罪がそうであるように、この問題も物事の本質を突くより、司法を悪者にする方が容易である上に世間の理解を取りつけやすいことは言うまでもなく、「司法を司る男こそが加害者であった」というオチがつきそうな気がします。
ぼくたちが本当に目を向けるべきなのは「男=強者/女=弱者」という、それこそフェミニズム以前からずっとぼくたちの心に根を下ろしている「偏見」にあるというのに。
そんなこんなで、「女災」そのものに人々が目を向けるのはまだ当分先になるかも知れない、という気も残念ながら、どうしてもしてしまうのです。
ちなみに……この「DV冤罪」についてはあのオタクの味方、ローゼン閣下くらいオタクの味方でいらっしゃる上野千鶴子師匠がケッサクなリアクションをしていらっしゃいます。
そのリアクションとは……来年に続く。