兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

2011年女災10大ニュース(その2)

2011-12-26 00:20:27 | 女性専用車両

 みな様、早いものでもう12月26日です。クリスマスまで後僅か364日。
 クリスマスツリーやクリスマスプレゼントの準備は整っていますでしょうか。
 ――わかりにくいので書いておきますが、以上は歌丸師匠が毎年やるry


 さて、前回に引き続き、今年の女災10大ニュースのランキングを発表して参ります。
 前回はどちらかと言えば私事の愚痴メイン、といった感じでしたが、今回は比較的、「女災業界」(むろんそんなものはないのですが)全般を見渡して感じた大きな変化について、多少まとめて起きたいと考えております。
 というわけで第5位、4位は同時に発表してしまいましょう。


 【第4位】『中国嫁日記』が人身売買であると、フェミニストに噛みつかれる
 【第5位】「ろりともだち」を絶賛した東浩紀師匠、フェミニストに噛みつかれる

 もうさんざん語ってきましたし、ずっと当ブログをご覧いただいていた方からすると、もう飽き飽きのトピックスかも知れませんね(「ろりともだち」「同(その2)」「同(その3)」、『中国嫁日記』、『同(その2)』)。
 フェミニストたちは、見ていけば見ていくほど奇怪としか表現し得ない主張を繰り返しています。
「オカマは(本人は女性としての自意識を持っているのだから)女湯に入る権利があるのだ」という者。
「女性の性的尊厳は男性の生命に優先されるべきだ」と言う者。
 ホモが小学生の少年と性交渉を持つことを肯定的に紹介した本を、絶賛する者。
 実にびっくりな、面白い人たちに出会えました。
『中国嫁日記(その2)』においてぼくは、そうしたフェミニストたちに対して「確かに、ツイッター上で話題になるフェミニストたちはお決まりのメンバーであり、彼女らがフェミニストの中でも少数者である、ということは言えるのかも知れません。」と書きましたが(そしてそれは別に間違ってはいないのですが)彼女らのような過激なフェミニストはトゥギャッターの餌食になっている数名の有名人だけであり、本当に例外的な人物なのだ、ということでは決してありません。
 今までは表に出てくる機会のなかった、少数派とは言えそれなりにフェミニズムの中で一つの勢力になっている人々が、ツイッターの「バカ発見器」としての機能によって真の姿をあぶり出されてしまったというわけです。恐らく「商業フェミニスト」であれば世間の受けを考えて隠している本音を、彼女らはついつい漏らしてしまった、というのが実情なのではないでしょうか。今ここで「ツイッターでつい、言った」という駄洒落を思いついたので特に記しておきます
 ネットというのは、自分の好みのコミュニティに自分の好きにコミットすることが可能な世界です。結構なことですが、一歩間違えると似た者同士が狭い世界で頷きあっているという自らの置かれた状況に気づかなくなるという罠があります。2ちゃんねるの、例えば『ドラえもん』スレに入り浸っていると、世間と自分たちドラえもんマニアの温度差がわからなくなってくる、といったように(一般人は「オシシ仮面」とか知ってるの? 知らないの?)。
 いや、オタクはむしろその辺りに妙に自覚的なのですが、その他のマイノリティたちにとっては(仲間に出会えるという多大な恩恵の反面)自分たちが日常生活では隠している感覚が社会性、市民権を得たという錯誤を抱くというデメリットを持っています。ニコ動にアップした自分たちの姿を賞賛しているのは実は自分たちだけだと気づけないままになってしまう、ということですね。
 恐らく、これを押し留める方法はありません。
 みなさん「みんな違って、みんないい」と物わかりのいいことを言って、他人様には口を出してはいけないというルールを遵守なさっていますから。2ちゃんねるなどの「ファンスレ/アンチスレ」の妙にお行儀のいい共存ぶりなどはその一例と言えるでしょう。
 が、ここで何故フェミニストに限ってはその特異性があぶり出されてしまったのでしょうか。
 その答えは次項で。


 【第3位】進歩派たち、謎のフェミニスト擁護

 これも結構繰り返していることです。
 ネット上でフェミニストの特異性が露わになるにつれ、「いや、彼女らは似非フェミ/ウヨフェミ/ラディカルフェミニストだ、本物のフェミニストではない」といった「擁護」を行う人々が目立ち始めました。
 そうした主張の出どころは左派の、反児ポ運動の論理的支柱になっている人々だと想像できます。彼らはフェミニストたちと極めて親和的である反面、フェミニストのアンチポルノ運動に深い憎悪を抱いており、その両面性が彼らをしてそうした矛盾に満ちた言動に走らせているわけですね。
 例えば、上野千鶴子師匠。
 彼女は表向き「表現の自由」を尊重するような主張をしているが(或いは、心底その価値観を信じているが)、同時に売買春を否定する主張もまた、繰り返しているのです。しかし売買春を否定するならAVも否定せざるを得ない。それは殺人を否定するのであれば、「映画撮影のために殺人を行う」ことを否定せざるを得ないのと同じです。
 彼ら彼女らがこの矛盾について説明したことは、ぼくの知る限り一度もありません。恐らく深層心理下では薄々気づき、そのため思考を停止してしまっているのではないかと想像できます。
 閉鎖的な共同体にいる限り、そうした矛盾は「何となく」スルーしたままでいられる。が、なまじ児ポ法反対運動という形で「オタク」という大勢力を取り込もうとしたため、彼ら彼女らのカルト性が表に出てきてしまった。そういう構図なのではないでしょうか。
 オウム事件当時、上祐がテレビ関係者に「麻原彰晃の空中浮遊能力について信じているのか」と問われ、気まずげな顔になって口を閉ざしてしまったという一幕がありました。恐らく彼は空中浮遊について信じているわけでも信じていないわけでもなく、「何か、考えないようにしておこう」というスタンスでいたのでしょう。
 フェミニズムがいかに矛盾を露呈してもダンマリを決め込み続ける進歩派たちの内心もまた、これに近いものなのではないでしょうか。


 【第2位】女性専用車両反対運動盛り上がる
 この一年くらいでしょうか、ことにツイッター上では賛否共に、本当に盛り上がってきたと思います。
 ぼくもツイッター上でしか知らないのですが、彼らはオフにおいて、
 1.街頭演説
 2.実際に女性専用車両へと乗り込む運動
 の二種の運動を行っているようです。
 1.については、女性専用車両に限らず、「男性差別」をテーマにして演説を行っている人たちもいるようです。
 2.については、実際に乗り込むことにより事実上の廃止に追い込もう、というのが狙いのようです。
 とは言っても、ぼくをフォローなさっている方はおわかりかも知れませんが、この「盛り上がり」について、ぼくはどうにも評価しにくいのです。或いはぼくの中にある市民運動アレルギーが原因かも知れませんが、それにしても、と思います。
 ツイッター上には運動家たちがリツイートしたとおぼしき、運動に対する反応が並んでいます。
 反対意見を述べる人たちの「リクツ」は、要は「女性専用車両ができたのは痴漢のせい、即ち男のせいだ、自業自得だ」というもの。これは、それこそ「男は男として生まれた瞬間、悪者なのだ」というフェミニズムを援用しない限り正当化し得ない、全くの詭弁です。
 しかしそれよりも問題なのは、フェミニストでも何でもない一般の人々によるものと想像できる、リクツではなく「感覚」的なリアクションです。
 即ち、「何だありゃ」「みすぼらしい男どもばかり」といった反応。
 ツイッター上ですらわざわざそう呟かれてしまうのだから、恐らく演説や運動を見る者の大多数は、そのような印象を抱いていることでしょう。
 現代の日本人の中で、思想としての「フェミニズム」を信奉している人々の割合は恐らく、1%も満たないことでしょう。しかし残りの99%はやはり、「女性はいたわらねば」と素朴に信じている人、或いは疑問を感じつつも「女性には逆らわない方がいい」と考えている人たちであることが想像できます。少なくとも、フェミニズムそのものには賛同できなくとも、「男性差別」と言われてしまうと拒絶反応を示すのが大多数であると、考えざるを得ません。
 彼らの強攻策はそうした潜在的な層の疑問を、引っ込ませてしまう効果こそあれ、目覚めさせる効果は極めて薄いと言わざるを得ない。
 それはやはり、今時市民運動など「みっともない」という意識が働くからです。
 フェミニズムもまた、そうした「みっともない」という目で見られ、廃れていった思想なのですから。
 しかし運動家たちと話してみても、どうにもそうした意識が薄い*。

「私の主張は正しい、だから受け容れられるはずだ」「大衆は我々の運動に賞賛の拍手を送っているはずだ」といった素朴な信心に、彼らは支配されているようです。
 そうした、言ってみれば彼らの楽観主義、ナルシシズムがぼくにはどうにも理解しがたい。


*「では反原発デモはどうなんだ」と言いたい人もいるかも知れませんが、あれは東電というわかりやすい悪者がいたからこそなし得たことです。そうした仮想敵のないパフォーマンスをやってみせても、フェミニストがそうであったように、世間はパフォーマーの姿しか見てはくれないのですね。


 例えば、『ちび黒サンボ』。
 今では普通に出版されていることと思いますが、市民団体がこれを「黒人差別だ」として、回収騒動を起こしたことがあります。『ウルトラセブン』の第十二話しかり、こうした市民運動は70年代から80年代にかけて盛り上がりを見せ、やがて支持されていないことが判明し、力を失っていきました。
 これら市民運動が批判される時に決まってなされるのは、「彼らは本物の黒人ではない」といった、いわゆる「ホンモノの弱者、マイノリティ」と言われる人々と「分離」しようという試みです。『ちび黒サンボ』の排斥運動については好ましく思わないものの、ぼくたちは「ホンモノの黒人」に逆らう勇気は持てず、「運動家が黒人ではない」ことに胸を撫で下ろしつつ、彼らをバッシングする。
 極めて倒錯した構図ですが、ぼくたちはこうした迂回路を通じて、どうにかこうにか市民運動に対する嫌悪感を表明してきました。
 が、今回「我こそは弱者だ」と名乗っているのは「男性」です。世間は安心して、何の心配もなく市民運動を叩けます。
 近い例に、例えばテレビなどでタレントが声優などをバカにした時、オタクがそのタレントのブログを炎上させ、謝罪騒動などを起こすことが度々ありますよね。
 が、世間にとっては、これもまたオタクを叩く絶好の機会となってしまうわけです。
 同じことをフェミニストが、ホモが、何らかの病者などの団体が行った時、ぼくたちはその行動に嫌悪を感じつつ、どうも拳を振り上げにくい。しかし
「弱者」マークのついていないオタクであれば、安心して叩くことができる(まあ、逆に言えばこうした事件は既にありふれすぎていて、わざわざ叩こうという人も少ないかも知れませんが)。
 それと同じことが、「男性差別運動」にも起こることは必然なのです。
 例えば、女性専用車両に乗り込んだ「運動家」が痴漢したと訴えられ、逮捕でもされたら。
 それが冤罪でも、圧倒的にこちら側が不利です。
 そうなったら、世間はここぞとばかりに、攻撃の刃を「弱者」マークのついていない者たちに向けてくるのです。
 はっきり言えば彼らの運動は「さあどうぞ叩いてくれ」と言わんばかり、赤ずきんちゃんが狼の寝るベッドに全裸でダイブしているようなものです。
 ぼくたち男性は「弱者」です。
 しかし、「弱者」マークはついていない。
 この両者の違いを、もう一度よく考えてみる必要があるのでは、ないでしょうか。


 最後にちょっとだけ、彼らの(やり方ではなく)言い分に対するぼくの感想を記しておきます。
 彼らの言い分は「女性専用車両には法的根拠がない(或いは憲法違反だ)から男性が乗っても構わない」といったもののようです。むしろ誰かがこれを指摘してから、水を得た魚のように運動が活発化した印象さえあります。
 しかし企業サービスが法的に根拠のない約束事を顧客に課すことくらい当たり前です(当店では○○はご遠慮いただいております)。それに法的根拠がないだの憲法だの基本的人権だのを理由に文句をつけることは無意味だ、といった反論がなされており、ぼくもそれに賛成します。
 ただし、鉄道は公共性の強さ、代替物のなさなどからレストランや小売店とは違う、といった論法で女性専用車両の不当性を(実力行使ではなく対話で)訴えること自体はおかしなことではないと思います。ただ、法律だ憲法だを大上段にドヤ顔で一本調子に振りかざすやり方には賛成できませんし、一般人には賛同されるよりは退かれる可能性が大変に高いわけです。
 また、普通に考えればこの問題の落としどころは、銭湯のように男性車両と女性車両を分けてしまうことでしょう。しかしそれを誰も言わない(賛成派からも反対派からも出て来ないのが不思議です)。いえ、進言されても「それは許せぬ」と一蹴してしまう。
 そうした硬直性、運動自体が自己目的化してしまっている「運動ヲタ」的なムード。それこそが一番、一般人をして退かせる要因になっているということを、一度考えてみた方がいいのではないでしょうか。
 エコロジーブームからこっち、昨今の「運動」はとにもかくにもまず実行、「わたしにもできること」があるはずだという前提から出発して、それが何を引き起こすか考えずに軽率にやらかしてしまう、やらかして達成感に浸る辺りに本質があるように思います。
 ただ、こうした傾向の一因は、ぼくたち男性が自分たちのための思想を、言葉を深めてこなかったことにある、とは言えそうではあります。だからあんまり深みのない、わかりやすいだけの言葉に、限定版を見つけた萌えヲタのごとくに飛びついてしまう。
 少し前、何とか言葉を紡ごうとしてぼくたちの何とか社会みたいなことを言った人がいた気がするのですが、どうも上のようなタイプの人々は、そもそもご本をお読みにならないような感じがするところが、大変に残念です。


 【第1位】DV冤罪に対する反対運動の声が上がる
 ほい、堂々の第一位はこれです。
 目下、最も目立って、深刻で、また「アツい」女災の話題は間違いなくこれでしょう。
 ――などと言いつつ、すみません、不勉強で詳しいことは知らないのですけれども。
 要は妻と悪徳カウンセラーが結託して夫をDV冤罪に陥れ、夫婦を離婚させようとしている、或いはそうした濡れ衣を着せられ、親権を剥奪されて実の子に会うことすらできなくなった男性が大勢いる、そうした男性たちが今、悪徳弁護士やカウンセラーなどに対して声を上げ始めているのです(むろん女性の被害者もいるわけですが、圧倒的多数は男性です)。
 これは昨今、ハーグ条約への加盟に絡んで語られることが多くなっています。ハーグ条約とは国際結婚が破綻し、一方の親が自国に子どもを勝手に連れ帰った場合に元の国に戻すことなどを定めた法律(日本は未加盟ですが、本年加盟方針を打ち出しました)なのですが、米国のキャンベル国務次官補がDVから逃れてアメリカから帰国する日本人の元妻らがいるが、「実際に暴力があった事例はほとんど見つからない。相当な誤認だ」と語ったというのです。
 これはセクハラ、ストーカー、痴漢といった他の性犯罪冤罪と全く同じ構造を持つと共に、悪徳カウンセラーが妻を唆しているという現実があるそうで、だとするとかつてアメリカでフェミニストが引き起こし、何万という家庭を破壊した、幼児虐待冤罪といよいよそっくりです。
 またこれは、ぼくたちが「女性の訴えは証拠がなくても信じよう」という宗教的情熱を燃やし続けてきたことに対するしっぺ返しでもあります。こうした優位性、言ってよければ権力を握ってしまえば、そこには必ず腐敗が生ずる。今の女性たちの腐敗ぶりを、ぼくたちは真摯に見つめる必要がありそうです。
 ただ、この問題については可能性を感じつつ、二つほど不安要素もあるように思います。
 第一にこれは「子供のため」といった大義名分があるために主張に説得力を持った、という側面があることは否定できません。フェミニズムの嘘が暴かれればそんな経緯はどうでもいい、と言うこともできますが、ぼくたちが本当に目を向けるべきなのは「男=加害者/女=被害者」という、それこそフェミニズム以前からずっとぼくたちの心に根を下ろしている「偏見」なのです。
 第二に、こうした運動をしている人々の中には(フェミニズムを批判する人も多い一方)やはり児ポ運動と全く同じに「いや、悪いことをしているのは似非フェミニストだ」といった主張をする者がやはり、存在することです。彼らは
自らの子供を奪われながらも、それでもフェミニズムを守ろうとし続けています。
 痴漢冤罪がそうであるように、この問題も物事の本質を突くより、司法を悪者にする方が容易である上に世間の理解を取りつけやすいことは言うまでもなく、「司法を司る男こそが加害者であった」というオチがつきそうな気がします。
 ぼくたちが本当に目を向けるべきなのは「男=強者/女=弱者」という、それこそフェミニズム以前からずっとぼくたちの心に根を下ろしている「偏見」にあるというのに。
 そんなこんなで、「女災」そのものに人々が目を向けるのはまだ当分先になるかも知れない、という気も残念ながら、どうしてもしてしまうのです。

 ちなみに……この「DV冤罪」についてはあのオタクの味方、ローゼン閣下くらいオタクの味方でいらっしゃる上野千鶴子師匠がケッサクなリアクションをしていらっしゃいます。

 そのリアクションとは……来年に続く。


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2011年・女災10大ニュース

2011-12-18 22:19:40 | 上野千鶴子

 新年、明けましておめでとうございます。
 いよいよ2011年の始まりです。
 これよりの二週間がみな様にとってよい年でありますように、お祈り申し上げます。
 ――わかりにくいので書いておきますが、以上は
歌丸師匠が毎年やる新年恒例のボケのパロディであります。

 さて、というわけで今回は今年の「女災10大ニュース」でも発表しようかと思います。
 といっても具体的に新聞などで騒がれた大きな事件などは一切、扱われません(笑)。
 あくまでぼくの視点から、ぼくの感覚に基づいて選んだニュースなので、トピックスとしては抽象的なものばかりになりますが、そこはご容赦ください。
 それでは早速、10位から発表して参りましょう。


 【第10位】『女災社会』電子出版
 えぇ~と、
ぼくの気づかぬうちに、拙著『ぼくたちの女災社会』の電子版が出版されておりました。出版予定があったこと自体は以前より聞かされていたので、出版(配信?)にあわせてここやツイッターでも告知して、何か連動企画でも考えようとか、自腹でネット広告でも打とうとかいろいろ考えていたのですが……まあ仕方ありません。紀伊國屋書店BookWebで購入できますので、環境が許す方はご覧になってみて下さい


 【第9位】有村悠師匠、なか見検索で拙著をご高閲
 有村悠師匠、ぼくはよく存じ上げないのですが、ネットでは結構な有名人のようです。
 彼については「ろりともだち(その2)」でも軽く触れました。
 師匠はブログ
ぼくの著作を読みもせず、しかもぼくのみならずAmazonで好意的なレビューを書いた人々まで(呆れたことにレビューを自身のブログに引用して)口汚く罵るというナイスな挙動に出た御仁です。あまりにも目にあまり、「せめて読んでから貶してはどうか」と進言したのですが、師匠のお答えは「残念ながらこの本にそんな必要は認められない。」というもので、その思考停止ぶりに感銘を受けてのランキングとなりました。
 が、実は師匠、これ以降も「ザ・インタビューズ」へようこそ!(「ソーシャルインタビューサービス」というものらしいです。よくわからん)において拙著を引きあいになさっていました*。
 そこで拙著は「なか見検索で読む限り、相当残念な本です。」とのお言葉を頂戴することになりました。なか見検索とはAmazonの試し読みのサービスで、最初の6pはそこで無料で読めるようになっているのす。
 たったの6pで原稿を書いてしまう勇気には敬服しますが、読もうが読むまいが頭は停止したままなのですから、師匠には兵頭バージンを貫いて欲しかったところです。


*「「男性差別」という言説が僕は嫌いなのですが、有村さんの見解が聞きたいです。」という、まあ最初から出来レースみたいなやり取りですね。案の定、師匠の発言は「長い歴史を通じて、女性はマイノリティとして扱われてきました。」といった幼稚なもの。革命戦士の「思考停止力」の本領発揮、といったところです。


 【第8位】女災ラノベ出版中止
 実は企画があったのでありますよ。
 ぼくがお世話になっていたヲタ系出版社がありました。この数年はここのおかげで食えていたと言っても過言ではなかったのですが、会社の方針が小説の出版を縮小、ノンフィクション系に力を入れたいというものに変わり、ぼくも「萌える○○」的な企画書を作って提出しておりました。
 なかなかうまくいかず、苦し紛れに担当編集者Kさんに『女災』を見せて「こうしたものの萌え版はどうか」とプレゼンしたところ意外や感触がよく、先方から「ライトノベル化しよう」といったアイデアが出されたのです。
『女災』の内容に対しても、Kさんは「
最初は兵頭さんが僻みっぽいのかなと思ってましたけれど、お話をお聞きしておっしゃる通りだとわかりましたよ」などとおっしゃっていました。まあ、この種の発言がなされる場合、基本的には本音は前半部分にあるものなのですが、仮にそうだとしても(本音ではぼくの意見に同意してはいなかったとしても)商業的にある程度、企画について興味を持ってもらえたものと確信しました。
 むろん、こうした企画というものは(特に不況の昨今にあっては)そうそうトントン拍子に行くものではありません。出版にまで漕ぎ着けられる企画書なんて何十も出して一つや二つといったところかも知れません。とは言え、Kさん自身のモチベーションは取りつけたと思っていたのです。
 ところが。
 プロットをまとめ、出版社を再訪したところ、寝惚けたような顔で「ピンと来ない」「リクツは判るが」と繰り返すばかりの、気の抜けたような対応になってしまったのです。前回に形成されたはずのコンセンサスは全て、Kさんの脳からすっぽりと抜け落ちているかのようでした。
「仮に女性専用車両を受け容れても、ぼくたちは両手を挙げて電車に乗らなければならないわけですよ」
「両手を挙げて電車に乗ればいいじゃないですか(事実、彼はそうして乗っているらしい)」
「仮にそうしていてもなお、痴漢に間違われかねない現状を生きているんです」
「いや、リクツはわかるがピンと来ないですね」
 要領を得ないことを言い続け、ついには
「(この企画は)どうしようもないってことですよ
 と言い放ったKさんに、ぼくはすごすごと出版社を後にすることになりました。
 正直、Kさんの真意はわかりません。
 彼が自らの信念に照らしてぼくの主張がどうしても許せないと感じたのであれば、最初からそう言えばいいのだし、信念を曲げてでも企画を検討したのであれば、それを通すべきでしょう。売り上げなど別な理由から企画を取りやめたいのであれば、それをそのまま言えばいいだけのことです。
 更に言えば、そこまでやる気がなくなったのであれば、ぼくをわざわざ呼びつけなくともメールでその旨を伝えればいい話です。この業界、不誠実で非常識な編集者というのは残念なことに数多いのですが、しかしある程度の間、仕事をさせてもらっていたおつきあいのある編集者さんが(いかに不要になった作家相手と言えど)そうした言動を取る理由が、ぼくにはさっぱりわかりません。
 そんな相手に対してわざわざ時間を費やしてプロットを作成し、「別案ですがキャラクターたちにこのような設定を加えては……」などとドヤ顔でプレゼンしたぼくの方こそいい面の皮です。
 しかも、無理してつけた流行のラノベ風のポップな仮タイトル――
『ぼくの妹が女災に怒りすぎて恐い』
 あぁ……萌えです。萌え萌えです。恥ずかしくて死んでしまいたいです(笑)。
 が、この時のKさんの発言で極めて印象的なものがありました。
『女災』を読んでの感想なのですが、
「兵頭さんはモテたいのかな、と思った」
 とおっしゃったのです。
 あまりにスットンキョウな発言で意図がわからず、ぼくも間の抜けた返答しかできなかったのですが、事後、一ヶ月ほどした時にふと彼の発言の真意に思い当たりました。
 元々、Kさんの口からは東浩紀とか上にも名の挙がった有村悠(笑)といった名前が出ていたのですが、恐らく彼はそうした人々のイデオロギーに影響を受けつつも、フェミニズム関連の知識は持っていなかったのでしょう。ぼくとの会議の後、何かの加減でそれについての意見をグル様だか誰だか影響力のある人物に問い、「
兵頭は悪しき非モテ論壇の一味だ」といったお告げを賜った。
 想像ですが、当たらずといえども遠からずの状況があったのではないでしょうか。
 むろん、このことだけをもってフェミニズムと親和的な進歩派が「まるで北朝鮮のような思想統制を行っている」とか「その底辺には一切の思考力を持たず指導者様の命を実行に移す革命戦士が大勢いる」とか「その組織は『命令に従わない者は、殺す。』とか『平和を愛する者は、殺す。』などといった鉄の掟で縛られている」とか断言したいわけではありません。とは言え、本件を出版やマスコミ業界におけるフェミニズムの影響力の一例として考えることは、できるのではないでしょうか。


 【第7位】みのり師匠プチブーム
 はい、みのり師匠ブームです。
 てか、これはどちらかと言えばぼくの中の「マイブーム」といった方が正しいかも知れませんね。フジテレビデモに絡んで一時期、結構ネットでは騒がれたのですが、すぐに沈静化してしまったようです。
 みのり師匠の「面白さ」についてはかなりしつこく採り上げたので、ここでは繰り返しません(「秋だ一番北原みのり祭!!」、
アンアンのセックスできれいになれた?」、ぼくと彼女の有意義な会話――北原みのりさんとの往復ツゥイート)。
 が、最近、上野千鶴子師匠がまたどこかの雑誌で彼女と対談していました。みのり師匠というのはフェミニストの中ではかなり若い部類に入り、また以降、それほどぱっとした人材が出てきたとは言いづらい。つまり彼女はある意味「
最後のフェミニスト」的な位置にいるとは言えるでしょう。


 レディースコミックやBLの流行後、フェミニズムは説得力を失いました。が、みのり師匠はある種「エロを語る女」という内田春菊的スタンスでメディアに登場しては、フェミニズムを混ぜ込んでプレゼンするという、ある意味で露骨に矛盾した戦略を採ってきました。その矛盾を、彼女は破天荒であんまりお利口さんとは思えないその「キャラ」でカバーしているというのがぼくの印象です。上野師匠がそんなみのり師匠をいまだ登用せざるを得ない辺りがフェミニストの人材不足を、もう「フェミニズム」に明日がないことを雄弁に物語っていると言ってもいいかも知れません。
 更に言うなら昨今、奇矯なフェミニストたちがツイッター上で目立ち始めているのも、ぼくには何だか同様の現象に見えてしまいます(これについては次回に詳しく)。
 師匠の近著、『
アンアンのセックスできれいになれた?』はメディアに「フェミニズムはデキる女のたしなみだ!」と煽られ真に受けたはいいものの、世でフェミニズムが廃れ、後戻りできなくなった女性の怨み節です。しかしこの伝で行くと、後十年もすれば有村師匠辺りの「フェミニズムはデキるサヨクのたしなみだ!」と煽られ真に受けたはいいものの、世でフェミニズムが廃れ、後戻りできなくなったサヨクの怨み節がステキなご本になるかも知れません。

『フェミニストの走狗でナオンにモテた?』

 みんなで買いましょう。


 【第6位】震災に便乗したフェミニストたちのデマ
 今年の漢字は「絆」ということに決まったそうです。
 誰がどこで決めて、決まったら具体的にどうなるのかはよく知りませんが、まあ無難なセレクトであると思います。
 東日本大震災は疲弊しきっていた日本社会にダメ押しの大打撃を与えました。日本は終焉を迎えこれから
日本2.0が始まるのかと思われましたが、意外や意外、日本人はただただおとなしく永遠の日常をいつもと変わりなく生き続けました。
 ガイジンからはキモがられましたが、とは言え暴徒がスラムで大暴れ――といった『北斗の拳』的展開よりはよっぽどいいことは論を待ちません。草食系世代万歳です。もしこの災害が全共闘世代の若い頃に起きていたらどんな恐ろしいことになっていたか……と想像すると戦慄を禁じ得ません。何しろあの世代はレイプを含む凶悪犯罪を
今の四倍から七倍という恐るべき頻度でガンガン起こしていましたから。
 では震災時、力が必要とされる局面で、今のだらしない草食系の男どもは使えなかったのかと言えばさにあらず。男たちは生命を懸け、献身的に被災地での救援救助、復旧活動に尽力しました。一方、『東京新聞』では安全地帯で特に何もしていない女性様たちが「復興の鍵を握るのは女性。母性を持つので生命を大事にできる」などとおっしゃっていました。
 ナニ!? 女性様を「産む性」と位置づけるのはジェンダーに縛られたネトウヨの行為であるぞ!! 不敬罪だ!! フェミニスト様に八つ裂きにされるがよい!!
 ――え?
 あ、はい……。
 失礼しました。上の発言は上野千鶴子大先生によるものでありました。
 黒人が「ニガー」というのがおkであるのと同様、女性様が御自らを「産む性」と規定するのはおkであります。
 ……いつまで経っても本題に入りませんが、要は震災時のデマです。
 男たちが復興に生命を懸けている中、フェミニストはまたぞろ、「被災地でレイプ事件が起きる」などとわめいていました(「物語の海、揺れる島」、
エンタのフェミ様!)。
 恐らく、今回の被災地で「レイプが多発した」とのデマが大規模に垂れ流されることはなかったと思いますが、問題は阪神大震災時にレイプが多発したのだとのデマを訂正することもなく蒸し返したことです。
 しかしこうしたフェミニストの悪質さについていかに糾弾しようとも、世間は「でもレイプ事件は起こり得るじゃないか。だから警告としての意味がある」と繰り返すばかりなのです。なるほど、「大量破壊兵器がない」と証明できない以上、「大量破壊兵器を持っているのだ」と断定されても文句は言えないですよね!!
 ちなみに荻上チキ師匠は新書で『検証 東日本大震災の流言・デマ』というのを出されましたが、「朝鮮人がレイプしに来た」といったデマについてはかなり多くのページを割いているにもかかわらず、フェミニストの件にはダンマリを決め込んでいらっしゃいました。

 でも、考えると情報の隠蔽ってデマと本質がいっしょだよね。


 ――と、気づけばここまででかなりのページを費やしてしまいました。
 5位以降については次回。
 今年中に間にあうのかな……。


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中国嫁日記(その2)

2011-12-13 01:11:41 | アニメ・コミック・ゲーム

 何故今更……という感じですが。
『中国嫁日記』は今年の夏に話題になったブログ発信の本です。四十オタクである著者が二十代の中国人女性と見合い結婚。そうした国際結婚のあれこれを漫画として発表したところ書籍化されてベストセラーになったのですが、好事魔多し。それがフェミニストたちの目に留まり、ツイッターで「女性差別」「人身売買」と噛みつかれてしまった、という経緯です。
 この話題については既に以前も触れました(「中国嫁日記」)。
 その時の論旨を大雑把にまとめると、『中国嫁日記』は何と言うこともない微笑ましい身辺雑記漫画であり、それも想像するに多くの女性読者に支持されていたであろう作品である。フェミニストがそれを叩くことで、逆にフェミニズムの持つ反社会性が露わになったのではないか……といったようなことでした。
 ツイッターは「バカ発見器」と呼ばれるように、フェミニズムの奇矯さを露呈するツールになるのではないか。しかしその一方、「彼女らはフェミニストの中でも例外種だ、本来のフェミニズムはこんな偏ったものではない」といった論調でフェミニストを擁護するのに必死な人々の姿も、ツイッター上では目立ち始めている、といった指摘もしたかと思います。
 確かに、ツイッター上で話題になるフェミニストたちはお決まりのメンバーであり、彼女らがフェミニストの中でも少数者である、ということは言えるのかも知れません。しかしそれは、メディアで活動している
「商業フェミニスト」は社会の反発を招かぬように巧妙に立ち回っているということでもあります。
 ネット上の
「野良フェミニスト」と「商業フェミニスト」との「本音」に差異があるかとなると、それは疑問です。


 さて、今回わざわざこの話題を蒸し返すのは、とあるブロガーさんの書いた記事が頭に引っかかっているからです。
 ご本人に益する形での紹介でなく心苦しいのですが、紙屋研究所「リアル『電車男』として 井上純一『中国嫁日記』」がそれです。
 実はこのブログの主である紙屋高雪さんもまた、ツイッターでの本書の叩かれ方について、ぼく同様トゥゲッター「「中国嫁日記」の差別性が自覚できない奴は差別主義者!…(゜Д゜)ハァ?」を引用、言及しています。
 が。
 彼の言い分はこうです。


「差別性」あるいは「抑圧」というなら、「女は若くて巨乳で痩せ形で(顔が)カワイイほうがいい」という価値観がここに潜んでいることは間違いないわけで、その価値観にのっかって本書を楽しんでいるのはまぎれもなくこのぼく自身である。


 もちろん虚構だから免罪されるものではなく、結局「女は若くてカワイイほうがいい」という価値観の強化や補強に加担しているではないかという非難は甘んじて受けなければいけないだろう。


 …(゜Д゜)ハァ?

 このように言う以上、紙屋さんの考えは『中国嫁――』に噛みついた「野良フェミニスト」たちと同じです(ただし「中国」という国籍にこだわって見せたフェミニストと違い、彼は専ら「男女関係」のみに焦点を当てている、という差はあります)。
 なるほど、では紙屋さんは彼女らに唱和し、「本書は女性差別の書である」と糾弾しているのだな……と思いつつ読んでいくと、別にそうした主張はなく、


ただそれは本書のみが特別にかかえている問題ではない。


 という指摘を最後に、エントリはやや唐突に終わっています。
 つまり紙屋さんの結論は、『中国嫁日記』は差別的である、しかしまた我々も同様に差別的である、ということです。
 要は「
我々は赤信号をみんなで渡りました」と言っているのです。
 が、それがだからどうなのか、これからどうするべきなのか、彼のスタンスが全く見えてきません。
「赤信号を渡ったみんなは断罪されるべきである」なのか「世界同時革命みたいなのでそれもよし」なのか、大きく分けて論理的にそのいずれかの答えに回収せざるを得ないと思うのですが。
 正直、ちょっと物足りない感があったのですが、他のブロガーさんの批判を受け、紙屋さんはコメントに反論を付記しています。


要するにそれらの人々のぼくへ批判は、「井上は月への愛があって、ものすごくかわいいと思っている、ってことを紙屋は全然理解できないんだろう」ということなんでしょうが、ぼくは「井上の月への愛がにじみでている」とかいう類のことはその通りだろうと思うんです。


 

実はぼくの念頭にあったのは、女性の夫婦エッセイコミックとの比較です。たとえば『ダーリンは外国人』とか、けらえいこの『セキララ』シリーズみたいな、女性の夫婦エッセイにくらべると、格段に性的な要素が多く、女性への対等感がないんです。


 

んで、そうした「問題」をぼくが「糾弾」しているのかというと、エントリに書いてあるとおり、全然そんなことはありません。「紙屋はPC(政治的な正しさ)が成立してないと認めないのか」とかいう批判にいたっては、真逆です。実際ぼく自身が『中国嫁日記』を楽しんでいるんですから。この程度のPC上の「ゆがみ」っていうのは、別にこの作品に限らず世の中にあふれていますよね、っていうことです。


 エントリで書いたことといっしょやん!!
 要はこうした「態度保留」こそが紙屋さんの徹底したスタンスである、とも言えます。


 このウヤムヤ感って、何か覚えがあるよな……と考えていて、思い至りました。
「あぁ、進歩派をもって任じているタイプの人々の、フェミニズムに対する典型的なリアクションじゃん」
 ――と。
 ここで思い出さないわけにいかないのは、砂さんという漫画家さんの描いた『フェミニズムセックスマシーン』でしょうか(こういうタイトルをつけちゃうセンスが、もうね……)。
 これは「萌え絵」に進化するには数万年は要しそうな、ゴア描写と呼んでも過言ではないようなタッチで描かれたヒロインが、皆さん大好きなアンドレア・ドゥオーキンの「夫婦間のセックスは全てレイプだ」
という電波論文をそらんじながらセックスをやりまくるという、まあ、あまりアドバイスしたくないような内容の「エロ漫画」であります。
「何故こんな漫画を描いたのか」とのインタビューに、著者は「フェミニズムの視点の入ったエロ漫画を描きたかった」とエビス顔。
 普通の夫婦のセックスですらレイプなら、ポルノなんて絶対駄目に決まってんじゃん、どうなってるんだ、といった誰の頭にも浮かぶであろう問いかけに、彼が答えてくれることは一切、ありません*1。
 他にも「表現の自由」を掲げてエロを守ろうとしている人々が、一方ではエロメディアに対する「評論」をしていて、しかしその内容はただフェミニズムのロジックを並べ立てただけ、などといった場面にも、度々お目にかかります(要は砂さんの漫画を文章にしてみせただけですね)。
 彼らの脳内でフェミニズム的な価値観とエロとがどう共存しているのか。
 説明のあった試しはないのですが、想像するに、「いずれも捨てられない大人の都合があるので、何も考えないことにしている」のだと思います。


*1まあ、漫画だからいいというリクツは通りますが。或いは将来的には「リアルセックスは全て禁じ、全人類がエロ漫画で励む」というのが彼らの理想像なのかも知れません。そうなったらそうなったで、ぼくたちの大勝利なのですけれども。


 さて、そろそろゴールが見えてきたのではないでしょうか。
 オタクを自称して、オタクのためにエロ漫画を守ると称して活動をしている人々の、かなり多くが上に書いたような進歩派であり、フェミニストと極めて親しくしている人々である、ということについては幾度も述べてきました。
 彼らがツイッター上の「野良フェミニスト」たちに対して、必死になって「あの悪者どもはエセフェミ/ウヨフェミ/ラディカルフェミニストだ、本物のフェミニストではない」と言い立てていること、しかしその信憑性は限りなくゼロに近い、ということも何度も説明しました。
 その意味で「野良フェミニスト」たちの方がその主張に一貫性があるだけ、賛成は決してできなくとも、その知的誠実性には信頼が置ける、とすらぼくは思います。こうした進歩派や事大主義の「商業フェミニスト」たちから感じるのは、ただひたすらに不誠実さだからです。
 むろん、彼らの「表現の自由」に対しての情熱は本物でしょう。状況を鑑みると、ぼくらが彼らと共同戦線を張らざるを得ない状況にあることも、間違いのないことかも知れません。
 しかしそれであればなおのこと、果たしてぼくたちは彼らとどこまで「共闘」できるのかといった見極めは、重要なのではないだろうか、と思うのです。


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