兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

ちくま評論選―高校生のための現代思想エッセンス

2012-03-28 23:48:19 | アニメ・コミック・ゲーム

 さて、前回ご紹介しました『紅一点論』、出版されて十年以上経つこのフェミニストによる粗雑な著作は、しかし高校の教科書(正確には副読本ですか)として採用されてしまったがため、現代に蘇ってしまいました。
 この副読本を入手したので、ちょっとご紹介することにしましょう。
 ここに引用されているのは『紅一点論』でもクライマックス部分。男親がどうのこうの、
アニメにはフェミニストが登場しないから許せぬの、クインビー症候群だのバタフライ症候群だの、斎藤師匠の痛い主張が十全に堪能できる部分です。

 またここでは、女児向けアニメがロリコンアニメの俗称で大人の男に愛好されている」という数少ないオタクへの言及がなされている部分も引用されています。このテキストを授業で使用したことでクラスのオタク少年がいじめられることになりはしないかと、ついつい心配になってしまいます(しかし女児向けアニメを「ロリコンアニメ」なんて言ったりしないよなあ?)。
 この副読本には『紅一点論』の主旨を図式化したものがあり、それがネットに流れたため、ネットでは「あの図が悪い、あれは『紅一点論』を誤読して作られた図だ」といった類の擁護意見も囁かれましたが、少なくともぼくが見る限りこの図は『紅一点論』の主旨を極めて的確にまとめています。
「図には具体的なアニメのタイトルがなく、それで『紅一点論』の意図を伝え切れていないのでは」といった意見もどこかで読んだように記憶しますが、そもそも斎藤師匠の論自体が極めて大雑把でいい加減なものなのですから、その擁護も当たっていないでしょう。


20120328_23









■クリックすると拡大するよ


 ちなみにご覧の通り、図は「〈アニメの国の30年〉」「〈90年代のアニメの国〉」といった妙な分類がされており、わざわざ図式化した割にはちょっとわかりにくいものになっています。
 例えばですが、

 70年代:マジンガーZ:極めて単純な勧善懲悪の時代
 80年代:ガンダム:勧善懲悪への懐疑の時代
 90年代:エヴァンゲリオン:「戦い」という価値そのものの揺らぎの時代

 とでもしてしまえば大雑把ながらわかりやすいし、これは恐らくこの三十年間の時代の経緯、アニメの歩みの分析として、ごく一般的なものではないかと思います。
 しかし斎藤師匠の本では70年代~80年代の分析が極めて粗雑で曖昧なため、図にもそのようにまとめることができなかった。これは恐らく斎藤師匠の仕事の粗さが原因ではあるのですが、しかしそればかりではないような気がします。
 というのは上の簡単な表に準えて、女児向きのアニメの歩みを考えてみると、


 70年代:魔法使いサリー:子供社会の全肯定の時代
 80年代:ミンキーモモ/クリィミーマミ:キャリアウーマンの時代/恋愛至上主義の時代
 90年代:セーラームーン:女性性全肯定の時代

 といったことになるように、ぼくには思えるからなのです。
(ぶっちゃけ『サリー』ちゃんとかはぼくもほとんど知らないのでアレですが……)。
 斎藤師匠にとって女児向けアニメは
ひたすら男に媚びる女を量産する悪しき存在なのですが、考えると「魔法少女」が恋愛にうつつを抜かすようになるのは明らかに80年代の『マミ』以降です。それ以前にも『マコちゃん』は『人魚姫』モチーフで恋愛要素が出て来ましたが、その一方では社会派ストーリーが展開された異色作だし(事実、その次の『チャッピー』では従来の路線に戻る*)『メグちゃん』も意識的に主人公が大人びて描かれてはいたけれど、他は概ね恋愛沙汰は描かれなかったはずです。
 東映という会社製作の「魔女っ子」シリーズがいったん途絶えた後、異色な魔女っ子である『ミンキーモモ』が放映され、しかしその続編は作られず、ぴえろという別会社が製作した『マミ』がその後釜となった(事実、当時のファンは「真似だ」と騒いでいました)というのが80年代魔女っ子の流れでした。
 しかし『モモ』と『マミ』には明確な違いがあります。
『モモ』は魔界のプリンセスであり、「地球人に夢を取り戻させる」という明確な使命を帯び、毎回様々なキャリアウーマンへと変身し、事件を解決していくというお話で恋愛要素は希薄でしたが、『マミ』のドラマの中心はアイドル歌手としての生活、そして男の子との恋愛でした。
 結果的に『マミ』の路線はシリーズ化され、毎回ヒロインにはボーイフレンドが振り当てられるようになります。即ち、『モモ』『マミ』は
80年代の少女たちに与えられた二種類の『ガンダム』であり、しかし少なくともシリーズ化したのは『マミ』の方であった。
 90年代の『セーラームーン』は戦いはすれど、それは斎藤師匠も言う通り、セックスのメタファであり、ヒロインの頭を占めているのは専ら恋愛。また、当初のセーラームーンには様々なキャリアウーマンに変身できるアイテム「変装ペン」が与えられていましたが、これはほとんど使用されずじまいでした(90年代には『モモ』もリメイクされていますが、これもキャリアウーマンへの変身は番組中盤からなされないことが多くなってしまいました)。
 むろん、「キャリアウーマンへの変身」は現実のものとなったがため、アニメでは描かれなくなったとの解釈も可能ですが、それは同時に斎藤師匠が切望する「キャリアウーマンの嘆き」をアニメに取り入れることなど、少なくとも視聴者の少女たちは望んでいなかったのだ、ということでもあります。それより、女の子たちはやはり「恋愛」を望んでいたわけです。
 しかし、斎藤師匠の目的は「恋愛至上主義」、「地球ナショナリズム」といった両者の価値観を敢えていっしょに論じることで、「その両者共が実は悪しき男性支配社会の価値観なのだ」と強弁するところにありました。斎藤師匠、いやフェミニストにとっては男児アニメも女児アニメも「
悪の秘密結社・男」が作り上げた悪しきものでなくてはなりませんでした。
 そのためには80年代、『ガンダム』によって男の子たちが正義への懐疑に目覚めた頃、女の子たちが『マミ』によって恋愛へと目覚めたのだ、というデータは「
不都合な真実」だったのです。
 いえ、これはあくまでも推定であり、単に斎藤師匠の分析が簡単な時代区分をしないほどに粗雑なものであっただけ、という可能性も大いにあるのですが。


*すみません! ブログをアップした後日、気づいたのですが、『マコちゃん』の後番組は『さるとびエッちゃん』、その次が『チャッピー』でした! 『エッちゃん』は『エッちゃん』で異色作とは言え、ヒロインの年齢層は従来通りの小学生に戻っているので、論旨自体に間違いはないのですが。


 さて、ぼくは前回斎藤師匠の仕事について、オタク文化に詳しくなかったため、「オタクのツッコミにあってフェミニストの嘘がバレてしまった」と書きました。
 事実、前回リンクしたニュースサイト(というか、ニュー速の書き込み)を見れば、師匠の百倍くらい鋭いツッコミが、オタクたちによってなされています。
 では、ブログ界隈では?
 さぞかし『紅一点論』に反論するレビューが並んでいるんだろうな……とちょっと見てみたのですが、残念ながらさにあらず。
「非常におもしろく、刺激的な本」、「誰も知らなかったヒロインの姿を鮮やかに看破する」、「あのころ『紅一点論』や『妊娠小説』があったら、わたしもだいぶ楽だったのに」と絶賛の嵐。ムツカシイご本をいっぱい読んでいらっしゃる頭のよさそうな方々が、一体どうしたことかどういうわけか、女性のご本となると極めて粗雑で安易なものでも絶賛する、というのはリアル系ロボット物の主人公が戦争に巻き込まれてロボットに偶然乗り込んじゃう導入部並に見飽きた光景です。
 批判的なサイトは

「不完全ブックレビュウ(http://blue.ribbon.to/~hotapyon/sa-so/sa-minako-saitou.html)」、
「ゴリラ団極東支部/「紅一点論」の奇妙な論理(
http://www.geocities.jp/virginfleet/colum_old.html)」

 などでしょうか。
 前者は本書の研究の杜撰さに鋭く切り込みつつも、根底に流れるフェミニズム的価値観には一定の「理解」を示そうとしています。
 そう、本書についてはオタク側からも「確かにアニメについての分析には荒さが残るが、そこに家父長制の罠を見て取ろうとした視点は正しい」的な擁護がなされているはずです(藤本由香里師匠辺り、そういうことを言ってるでしょう、知らんけど)。
 しかし、残念ですが、それは違うのです。
 後者のサイトは研究の杜撰さに極めて細かく突っ込む*と同時に、フェミニズムのイデオロギーに対してはフラットに接している(つまり殊更肯定も否定もしない)ように思います。ですが、しかし、この子細な分析のおかげで、ぼくも上に書いた師匠の詐術に気づいたわけです。
 師匠は魔法少女たちの変身について


それが常に看護婦さんやスチュワーデスであり、アイドル歌手に収斂されていったのは、大人の怠慢以外のなにものでもなかろう。


 などと言っていますが、後者のサイトでは「ミンキーモモなどは毎回いろんな職業に変身していたではないか」とのツッコミがなされていました。ぼくもそれを見て「そういえば」と気づき、それを今回、指摘したわけです。
 アニメという膨大な
データベースから恣意的に自分好みのデータを抜き出したら、何でも言えてしまう。しかしそれに対するオタク的なツッコミは、そうした「恣意性」の背後に潜む論者の願望を、暴き立てる機能をも持っているのですね。


*このサイトでは斎藤師匠が男児向けアニメのヒーローを「親方日の丸が多い」、女児向けアニメのヒロインを「お姫さまが多い」と称しているのも過ちであるとしっかり指摘されています。ここでも師匠がいかなる願望を持ってアニメを見ていたかがバレてしまっているわけです。
 また、アスカについての考証にも瑕疵があることを指摘して、


 斎藤氏はそれが気に食わないのか (というか、どうもその設定自体知らないようです)、上掲文後半のようにネルフに対して文句をタラタラと述べ、あげくにアスカの註釈欄でも不満をぶちまけています。いやもう、作品の設定に文句つけても仕方ないじゃないですかと思うんですけど、斎藤氏には受け入れがたいんでしょうね。


 などとも指摘、「親方日の丸」論のウソを暴いた部分では


 となると斎藤氏は、事実を知っていながら自らの論に反するからと意図的に記述を無視したのか、資料として挙げていながら中身を読んでいないのか、それとも文字が読めないのか。いずれにしても、著述家としては問題だろう。


 と切り捨てるなど、とにかくツッコミの切れ味は抜群です。


 前回、ぼくはフェミニズムという名の「悪の女王」による独裁国家は伝説の戦士プリキュアによって倒されるのだ、と予言しました。
 しかしぼくのそうした「予言」は本になる予定がないのですが、藤本由香里師匠のような、オタクの中でフェミニズム寄りの人々はきっと既に自著の中で以下のようなことを言っていると思います。
 即ち、

「プリキュアたちは恋愛を至上としない。また、パンチラをしない。更に、肉弾戦で敵と戦う。これ即ち、少女たちの男性化の現れである。女性たちは男性の遙か及ばない地平にまで到達しているのだ」。
 フェミニストのドヤ顔が浮かんできます(肉弾戦の下りは斎藤師匠にとっては不快でしょうが)。
 確かに、プリキュアに恋愛要素は希薄ですし、お色気要素も慎重に抑えられています。また、セーラー戦士たちが何のかんの言って祈祷と遠距離攻撃(
ビームを撃ってただけ)だったのに対して、こっちが手に汗握ってしまうほどの肉弾戦を展開します。
 実はぼくにとっても、この肉弾戦という要素が受け容れられたことは意外でした。が、他の要素(日常性、ファンタジー性、「正義」よりは身近な人々の「愛」や「夢」などを守る、といったことを動因とした戦い)は斎藤師匠が指摘した、かつての女児向けアニメを踏襲していることがわかります。
 恋愛とお色気がないことは単純に視聴者層を児童に絞り込んでいる、ということでしょう。言わば、70年代への回帰ですね(それが悪いと言っているわけではありません)。
 つまり、『プリキュア』は「女性美」「女性性」を決して否定するものではなく、それを称揚するものであり、だからこそ素晴らしい作品であり、また女児たちの圧倒的支持を受けているということなのです。
 OLのグチみたいなことが読みたければ、『働きマン』でも読んでいればよろしい。



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『紅一点論』――国語の教科書に「アニメのヒロイン像」

2012-03-26 23:54:57 | アニメ・コミック・ゲーム

 四、五日前、オタク系のニュースサイトで国語の教科書の内容が話題になりました。
 詳しいことは、「国語の教科書に「アニメのヒロイン像」 ”アニメに出てくる女性キャラは男性の理想像を描いただけで女性に勇気づけるものが存在しない。このままだとアニメ文化は滅びる” って書いてあるw(
http://yaraon.blog109.fc2.com/blog-entry-8197.html)」を参照してみてください。
 要はフェミニストの電波文書が国語の教科書に載っていたという、(冷静に考えれば恐ろしいことではあるけれども)今時は珍しくもない話題です。内容はと言えば、要するに「アニメなどの大衆文化に描かれた女性像はステロタイプ(類型的)でケシカラン」という、フェミニストのお決まりの言いがかり。
 今回はこの教科書に引用された『紅一点論』についてご紹介いたしましょう。


 本書を読んでいて、ぼくは上野千鶴子師匠の出世作『セクシィ・ギャルの大研究』について、誰だったかが「女子大生の卒論レベル」と評していたことを思い出しました。うろ覚えで正確さには欠けますが、要するに「当時のフェミニズムで流行っていた“性の政治学”みたいなロジックを、当時の“ナウい”文化であった広告の世界に当てはめて一丁上がりの、お手軽な論考」といったような批判であったかと思います。
 本書も全く同様のことが言えるでしょう。つまり、「今のフェミニズムで流行っている“ジェンダー論”みたいなロジックを、今の“ナウい”文化であるアニメの世界に当てはめて一丁上がりの、お手軽な論考」ということです。
 何しろ本書が出たのは『エヴァ』ブームの熱も醒めやらぬ1998年。アニメをサブカル的文脈で語ることが大流行していた頃でした。
 ただ、著者の斎藤美奈子師匠はいわゆるオタクではないと思います。フェミニストの中でもオタクは大勢いるのですから、そういう人たちが書けば(思想書としてはいずれにしてもどうしようもないでしょうが)突っ込まれることも少なかったでしょうに、詳しくもない人が安易に手を出したのが運の尽き、オタクのツッコミにあってフェミニストの嘘がバレてしまった、とそういうわけです。その意味でオタク文化はまさに「バカ発見器」と言えるかも知れませんね。
 しかし考えると十年ほど前、ぼくは『仮面ライダーアギト』が教科書に載っているとの話をネットで見た記憶があります。アギトに変身する津上翔一は家事が得意であり、「男も家事をする時代」的なプロパガンダに利用されていたわけです(ただし、何かのガセである可能性もゼロではないので、話半分に聞いておいてください)。
 事実、戦隊などでもここ二十年くらい、モモレンジャー的女性隊員が家事をするシーンは描かれてないんじゃないでしょうか。いや、ぼくも全部見ているわけではないので、これも絶対ではありませんが。一方、男性ヒーローの家事シーンはものすごく目に着きます。男の子がそんな日常シーンを喜ぶはずもないのですが、まあ今の特撮のメインターゲットは主婦なので、彼女らが喜ぶシーンが第一に優先される傾向にあるわけです。
 そうした、既に「勝ち組」として世間に絶大な影響力を持ちながら(粗雑な著書が教科書に載るほど、です)しかしいまだ自分たちは「被害者」だとのアイデンティティを頑迷に持ち続けるフェミニストの図々しさというのは、一体何なのでしょうか。
 そもそも「紅一点」も何も、本書が出た十四年前から戦隊シリーズの男女比は3:2になっていますし、『セーラームーン』や『プリキュア』といったスーパーヒロイン物の男女比率は5:0、10:0といった圧倒的な女性優位。これは女性たちに「
レズソーシャル」という悪しき心理があるからなのですが、それを学会で発表すると追放されるので、仕方なく黙り込むしかありません。
 そしてまた、想起せずにおれないのが『男女論』です。本書の五年前に出たこの本で、既に山崎浩一さんは時代が女性多数、男性一人の「黒一点」になりつつあることを指摘していたのです(これは当時流行したトレンディドラマについての話なのですが)。
 本書は出版された当時から、圧倒的に古い、と言わねばどうしようもない代物だったわけです。
 ただし、上の戦隊やセーラー戦士たちの男女比率については本書にも言及があります。自分の仮説と現実とに致命的な齟齬が生じようと看板は下ろさない。その強い勇気がフェミニズムを今の地位に押し上げたことに、議論の余地はありません。
 以下、多少詳しく本書を見ていきましょう。


 本書では男児向けアニメに対して、大昔のPTAが書いた本のような硬直した批評が並んでいます。
 ヒーロー物の価値観を「地球ナショナリズム」「人類エゴイズム」と腐し、それに相反するオタク的な評価(例えば、「ノンマルトの使者」を見よ、といった)を採り上げつつも「そんなのは大人の言い訳だ」と一蹴。防衛軍が「親方日の丸」な組織だからケシカランだの、防衛軍の構成メンバーが日本人ばかりと言った指摘も、あまりに古すぎます。
 また彼女にかかっては防衛軍はセクハラ天国であり、女性隊員は被セクハラ要員である、となってしまいます。まあアニメのシャワーシーンやパンチラをセクハラだと感じる女性がいても不思議ではないけれども、90年代にそんなのはもう、ほとんどなくなってたよなあ……。
 ヒロインが美人であることにも涙目の筆致で、「採用差別が堂々とまかり通っている」「履歴書にはスリーサイズなども書かせているにちがいない。」などと大暴れ。『ウルトラマンティガ』の防衛組織GUTSの隊長が女であると言及している辺りは、彼女にしてみれば結構頑張った方でしょうが、「クラブのママみたい」と毒づくのは忘れません。
 笑ってしまったのは悪の組織の解説。「××団、ダーク××、ブラック××、デス××などと名乗る悪の秘密結社」っていつのセンスだよ!?
 悪の組織では比較的女の地位が高いことを指摘するのはまあ、面白いといえば面白いのですが、へドリアン女王はトップと見せかけて実はナンバーツーだってアンタ、何を見ての勘違いだ?(『サンバルカン』を見てそう思ったんでしょうか?)
 とにもかくにも、筆者の見識はあまりにも時代遅れです。おそらく子供の頃の記憶に多くを頼っているのでしょう、本書で漠然と「アニメ」と称される時、そこでは70年代のアニメのステロタイプなイメージが垂れ流されます。
『ヤマト』の森雪など当然、「母性」を強要された許されざる女性像です。


しかしまあ、この程度の単純な女性観が、当時の単細胞なアニメファンのレベルにはぴったりだったのであろう。


 いや……『ヤマト』って女性ファンがいっぱいいたんですけどね……。
『ガンダム』でセイラがガンダムで出撃、苦汁を舐める描写は女を小バカにしていて許せん、ミライは「軍国の母」で許せん、とにかく『ガンダム』ヒロインズは「『男の目を通してみた女』以上の存在ではない」から許せないものであるようです。
 さすがに90年代を代表する『エヴァ』は粗末に扱えなかったのか、ある程度の「評価」をしています。自己犠牲的母性を演じさせられる綾波については、クローンである設定がそうした女性的性役割を「批評」しているのだと解釈し、アスカに至ってはその活躍ぶりが結構お気に入りのご様子(テレビシリーズ後期の挫折はむろん、「男社会で不当に虐げられた女性」のメタファなのです)。


 上にも書いたように著者はオタクじゃないのでしょうが、学者というのは研究に対象に対して「オタク」になることが求められる職業であり、彼女の研究の粗雑さは、本書の説得力を大きく損なうものだと言われても、仕方がありません。
 何しろ、驚いたことに彼女は「ここでは『美少女戦士セーラームーン』と、続編の『セーラームーンR』の二つを中心にみていこう。」と言い放ち、『S』やそれ以降を無視しているのですから。「男装の麗人」にこだわる著者がセーラーウラヌスのチェックを怠るとは
まさに大失点でしょう。
 また彼女は『ガッチャマン』の白鳥ジュンを「本格的に戦った紅の戦士のおそらく第一号」と言っています。『ガッチャマン』は1972年10月放映開始ですが、それ以前にも「紅の戦士」(戦うヒロインを指す著者の造語)は大勢いました。
『ウルトラマンA』は1972年4月。Aは男性隊員と女性隊員の合体変身で誕生するヒーローでした(著者は「戦う女」であるフジ・アキコ隊員を輩出した『ウルトラマン』を異常に称揚しているのですが、『A』の方は知らなかったんでしょうか?)。
『トリプルファイター』は1972年7月。これは男女の隊員がそれぞれ変身、更に合体することでトリプルファイターになる作品です。オレンジファイターに変身する早瀬ユリは変身前もアクションをこなし、ドラマ的にも結構頑張っていました。
『仮面ライダー』に山本リンダが出るのが71年7月。まあ、さすがに彼女をスーパーヒロインとするのは無理がありますが、何しろ戦闘員は倒してましたし。『謎の円盤UFO』(日本では1970年放映)にも女性ばかりの戦闘機部隊・エンジェル隊というのが登場しました。フィクションの世界では女性戦士の活躍は、昔から多くあったわけです。


 とはいえ、翻って、実のところ女児向けアニメについての指摘には、頷かされる部分も結構ありました。
 女児向けアニメは科学革命以前の魔法の世界、正義のチームは友だち同士の仲良しグループ、学校生活や家庭生活のたっぷり描かれる「私生活」の世界だという指摘は別段間違っていません。
 セーラームーンの戦いはセックスのメタファという『アニメの醒めない魔法』の指摘の引用もまた、しかりです(そんなこと言ったらヒーローの鉄砲や剣もペニスのメタファでしょうけれど)。
 女の子の変身は「シンデレラ」と同じメイクアップ、というのもまさに現行の『プリキュア』シリーズにまで通用する指摘です。
 アニメのヒロインは「恋愛ボケの色ボケ」であり「小中学生にして、このありさまでは、まったく将来が思いやられる。」まあ、俺もそう思いますw
(確かに、『プリキュア』に慣れた後で『セラムン』を見返してみると、あいつら延々「彼氏が欲しい彼氏が欲しい」言っててちょっと呆れるのは事実です。それも時代かなあ)。
『クリィミーマミ』を筆頭とするスタジオぴえろ制作の魔女っ子がアイドル歌手なのにも、著者は「男の子の国のヒーローが地球を守るために戦っているのをしり目に、アイドル歌手だ?」と怒りをぶつけます(『ペルシャ』もアイドル歌手だと、バッチリ誤解して解説しています)。それって、「男の方が苦労してる、大変だ」ってことだと思うのですが。


 本書も後半になると、宮崎アニメが俎上に載せられます。
 宮崎アニメは近代/反近代、文明/自然といった対立構造を持ち、またそれがそのまま男性性/女性性へとスライドしているわかりやすさもあって、比較的肯定的な評が書かれます。ただ、「男性=文明/女性=自然といった図式は何事ぞ」といったフェミニズムお決まりの文句のつけ方はしていますが。
『コナン』のラナは待ってるだけのヒロインでダメ。
 モンスリーは「本来の女性性を抑圧した」ヒロイン(事実、ラストでは結婚する)として描かれているからケシカラン。
 ナウシカやクシャナについては結構高い評価が与えられるのですが、その一方で今度は彼女らの振る舞いを「男性の性役割をトレースしただけだ」と否定し出します。
『もののけ姫』は「女が戦う者、男はいさめる者」であり、女を低く見ていて許せぬ、とばっさりです。70年代にはその図式が逆だった、といったことは彼女の頭にはおそらく、ないのでしょう。
 ただし、宮崎アニメの根底に流れる「近代(男性性)が救えなかった世界は、反近代(女性性)によって救われるのではないか、という
」感覚に対して「勘違い」と切って捨てている部分は卓見ではあると思います。それはまず誰よりもフェミニストが口走り、また小銭を稼ぐために利用していた思想だろうと言いたくはなりますが。


 彼女はアニメのヒロインを「クインビー症候群/バタフライ症候群」という言葉でまとめます。前者は海外のフェミニストの造語で「男に媚びることで男社会に取り入る、女性解放の足を引っ張る女」。後者は彼女の造語で「伝統的な女性の性役割を全うする女」。男児向けのアニメのヒロインが前者、女児向けアニメのヒロインが後者だというわけです。
 ぼくは上で、女児向けアニメのヒロインを腐す部分に頷かされた、と書きました。
「戦う女」として当時は結構フェミニズム的な評価がなされていたはずの『セーラームーン』に対してすらそれほどの評価を与えていない点については、なかなか痛快ではありました(この辺については後述)。
 しかしナウシカやクシャナ評の辺りで、みなさんにもお感じになったのではないでしょうか。今までヒロインたちの女性性をあそこまで苛烈に否定していたのに、男性的なヒロインが登場するや、それもまた否定では、じゃあどうしろっての? と。
 本書終盤で彼女は


 大人には、子どもたちに多様な職業、多様な大人の像を示してやる義務がある。女の子向けのアニメは、夢の職業に変身するというテーマを、一時期、せっせと追いかけていた。それが常に看護婦さんやスチュワーデスであり、アイドル歌手に収斂されていったのは、大人の怠慢以外のなにものでもなかろう。『キューティーハニー』の七色変化は、小学生の女の子の人気投票の結果を反映させた職業イメージだったというが、小学生にマーケティングしてどうするのだ。多様な職業のイメージを与えもしないで「女の子はみな看護婦さんがスチュワーデスになりたがっている」と判断するのがはたして大人の仕事だろうか?


 などと言い出します。
 いやはや、学者センセイはノンキで羨ましいことです*。ぼくが編集者さんに「売れないだろうけど、敢えて俺のポリシーに適うヒロインを書かせてくれ」なんて言った日には編集者は切れて文庫本一冊を書き上げたところでいきなり原稿をボツにして「原稿料は払わん」とわめいたり、乗り気になっていた企画を急に「どうしようもないってことですよ」と放り出したり、数ヶ月前には問題視していなかったメールの文面について蒸し返して「あの文章は傲慢だ」と泣き叫んだりと、いろんな異常行動に出ることでしょう


*すみません、素で間違えていました。斎藤師匠、学者センセイではなく作家センセイでした。それで商業主義を全く理解せずこんなことを言うのだから、よっぽどエラいセンセイなのでしょう。羨ましいことです。ぼくも一度でも編集者の前でこんなことを口走ってみたいと思います。

 

アニメの国には、女性の権利や解放に心を砕くヒロインがまったくといっていいほどいなかった。

(中略)

女だからという理由で不当な扱いを受け、くやし涙にくれる少女を、アニメの国は積極的に描いてきただろうか。組織の差別的な待遇に抗議するような女性隊員は? 上司や同僚や視聴者のセクハラに断固たる態度を取った紅の戦士は?


 あの~~、アニメでマスターベーションがしたいなら、同人誌でそういうのを描いてはいかがでしょう? 「紅の戦士」とやらが蛸壷くらい男性隊員をいじめるやつ。売れないでしょうが、国策で税金じゃぶじゃぶ投入してくれると思いますよ、クールジャパンの百倍くらい。それに文句を言うのは俺以外、誰もいないと思いますよ。
 繰り返すように彼女が全否定する『ヤマト』を見て感動した女性ファンは大勢いますし、『セーラームーン』に至っては「フェミニズムの視点の入ったアニメ」といった(勘違いな)評が当時、多く聞かれました。
 しかし彼女にとっては、その全てが許せないものなのです。
 この辺りを見ていて、ぼくは北原みのり師匠を思い出しました。彼女もまた「女性の性の解放のために女性のためのエロを作る」と自称しつつ、実のところ自分のお眼鏡に適う表現以外は認めない、極めて硬直した人物でした。
 そもそも、女性的な女性も男性的な女性も認めない、男性性も悪、女性性も悪で、自縄自縛に陥っているのがフェミニストなのですから、どんなヒロインに対しても文句が出るのは、当たり前のことです。
 彼女は魔法少女たちのコスプレについて


セーラー服、スチュワーデス、看護婦、パッツパツの水着状レオタード……といった服装(と大人の女の肉体)に幻想を抱いているのは、本当に小さい女の子たちだろうか。むしろ大きい男の子ではないのか。


 などと言います*。
 考えると、『セラムン』が出て来た時、セーラー服をモチーフにしたパッツパツの水着状レオタードというそのコスチュームを見て、ぼくの知人たちが「オタク受けを狙ったあざとい作品で云々」と言っていたことを思い出します。つまりこうしたものを女児が喜ぶということを、当時の彼らは理解できなかったのです。
 しかしまさに『セラムン』がきっかけで萌え業界に女性クリエイターが多数流入したことが象徴するように、そうしたコンセンサスはもはや、古いものなのではないでしょうか。今の『プリキュア』人気を見てもわかるように、女児はあのセーラー戦士たちのコスチュームを支持したのです。
 何故か。
「女の子は、色っぽい女の子が大好き」だからです。
 今時、それがわからないのは斎藤師匠のようなフェミニスト、中でもかなり古い勢力だけなのではないでしょうか。
 斎藤師匠は「魔法少女は父親から見た理想の娘」とも言います。


戦ったあげく、宝物=バージニティは守られるのだ。この結末にいちばんホッとし、快哉を叫ぶのはだれか。男親である。


 などとわめくに至っては笑うしかありません。バージニティ云々というのは、戦いがセックスのメタファという仮説が前提されているのですが、ここへ来ていきなり父親が「女児向けアニメ」を熱心に見ているという設定(妄想)が立ち現れてきます。
(まあ、ただ、作り手が男性の場合、娘に対する「父親」的心情でこうした作品を作っているということは、ある程度は言えるかも知れせんが)
 彼女が何故こんな奇妙な妄想に取り憑かれているか、おわかりになるでしょうか?
 かつて、レディースコミックが大流行した時、フェミニストたちは大いに困りました。
 ポルノとは男性支配社会の作り上げた「レイプ」のためのテキスト、女性差別そのものであるはずなのに、女性たちがポルノと変わらない性的表現を楽しんでいること、そしてそうした漫画の中では「結婚=女の幸福」といった価値観が揺らがずにいることが、彼女たちにとっては絶対に許せないことだったのです。
 結果、『レディース・コミックの女性学』という本が書かれ、レディースコミックが上のような内容を持っているのは、「男社会の陰謀」と説明されました。
何か、編集長が男なので女性作家に命令してそうしたものを描かせているのに決まっているのだそうです。
 本書の構造も、笑ってしまうくらいそれと同じです。女児向けアニメで貫かれている価値観(恋愛至上主義、女性美の称揚)がどうしても許せないものである以上、それは「男が女に押しつけているのだ」という裏事情がなければ、どうしてもならない。そこで急遽、まさに「行き当たりばったりでいきなり最終回に登場したラスボス」のごとく、ここでは「男親」という名の悪者が、立ち現れてくる必要があったのです。
 要するに斎藤師匠のスタンスはわかばっちさんのような、ポルノ規制派に近いと考えればわかりやすいでしょう。いや、これはあくまで比喩で、ポルノそのものに対する斎藤師匠のスタンスがいかなるものかは存じ上げませんが。
 ぼくは以前にも、わかばっちさんのようなポルノ規制派を肯定するようなことを書いてきました。いずれにせよフェミニストたちの意見には同意できませんが、論理的整合性を無視してポルノを容認しているかのようなフリをする(オタクの味方のフリをする)フェミニストたちに比べれば、「正々堂々と」戦いを挑んできているだけ、まだしも誠実だと考えるからです。
 斎藤師匠に対するぼくの感想もまた、それに近いものです。
『セラムン』が出て来た時、当時のフェミニスト、進歩派たちは単にセーラー戦士たちが男児向けヒーロー物をトレースして、悪者と戦って見せただけで快哉を叫んでいました。
 とは言え、セーラー戦士たちは女性らしい「癒し」の力で戦う戦士であり、斎藤師匠も指摘するそのミニスカート、「メイクアップ」など、女性性を全く捨てていない存在でもありました。こうした作品を手放しで喜ぶフェミニストたちに、ぼくは当時、大いに不信感を感じました。女性性をあそこまで押し出し、女性としてのナルシシズムをあそこまであどけなく享受している『セーラームーン』を持ち上げつつフェミニズムを語るような人々に比べれば、まだしもそれを否定してみせる斎藤師匠の方がその誠実性には信頼が置ける、と感じるわけです。


*本書には「オタク」という言葉も、オタクへの言及もかなり少なく、「萌え」という言葉すら(確か)一度も出てきません。オタクを敵に回したら面倒だという思惑もあったのでしょうが、この時期の著書としてはいささか異色です。


「悪の女王」は今まで専ら、男児向けヒーローアニメばかりを攻撃対象に選んでいました。それは「戦争は悪だ、平和は尊い」といった世間のコンセンサスとも相性がよく、男児向けヒーローはかなり骨抜きにされてしまいました。
 しかし「悪の女王」の真の憎悪の対象はヒーローたちではなく、実はミニスカからまぶしい四肢を剥き出して戦うあの女児向けヒロインたちでした。
「悪の女王」は時代遅れのロジックで行政の中枢にまで浸食し、女児たちの感性を否定するために「教育」までをも支配下に置きました。
 それはまるで、『フレッシュプリキュア!』で二十年ぶりくらいに描かれた、「コンピュータの支配する、人の美しさや楽しさ、喜びや優しさを求める心を暴力で否定する、悪の帝国」のように。
 しかしぼくたちにはまだ希望が残っています。
 華麗なコスチュームをひらめかせながら格好よく、可愛く戦う伝説の戦士プリキュア――女児の圧倒的支持を得ているそんな彼女らの姿そのものが、「悪の女王」に対する最大の武器となるはずです。
 ――つまり、「悪の女王」の独裁国家は「萌え」に敗れ去ることになるのです。


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『東京新聞』3月21日朝刊「さいたさいたセシウムがさいた」

2012-03-21 22:49:26 | 時評

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■小さいと思うのでクリックしてみてください。


 今月十日、埼玉県教職員組合主催の国際女性デー関連の集会が企画されていたのですが、直前になって集会が中止された、という事件がありました。その案内チラシに詩人アーサー・ビナードさんの講演のタイトル「さいたさいたセシウムがさいた」というものが書かれており、あまりに不謹慎だと抗議が殺到したというのです(詳しくはhttp://www.j-cast.com/2012/03/07124705.html?p=allなど)。
 本件について、実は二、三日前の『東京新聞』の投書欄にも擁護する意見が載っていたのですが、本日、二面を取って大きく扱われていました。もちろん、ビナードさんにもインタビューして、全面擁護の形です。


 ビナードさんはこの講演タイトルを戦前の小学校の国語教科書にある「サイタ サイタ サクラ ガ サイタ」のもじりであり、その言葉に続く「ススメ ススメ ヘイタイススメ」などといった軍国教育的なイメージを想定しての使用であったと弁解しています。
 その後、彼は
日本人がこの歌をあまり知っておらず、自分の使用意図を勘違いしたのだ、と続けていますが(また「さいた」は「咲いた」と同時に「裂いた」とのダブルミーニングでもあった、などとも言っていますが)、そもそも常識的に「不謹慎」だと考えなかったその心理が理解に苦しみます。この人が仮に「日本文化に疎いガイジンさん」だったとしても(来日して二十年経ってるみたいですが)、それをチラシにするまでに誰も止めなかったことで既に充分に非常識でしょう。
 彼はそれに続け、「文学に携わる者は『みなまで言うな』が原則。読む人に、何だろうと思わせなければならない」とも言い、更に以前も講演会などに「平和利用 なーんちゃって!」などと題していたこともある、むろんそれは原発の平和利用などあり得ないのだとのアイロニーであり、今回のキャッチコピーもそれと同様のアイロニーであった、との主張をします。
 むろん、悪意はなかったのだろうとは思いますが、そうした物言いが既に何というか、鼻につきますw バブルの頃によくありましたよね、何か勘違いした芸術家気取りの作った、「
深遠な意図が込められた」CMとか。宣伝なんだから簡潔に伝えろよ、バカじゃねーのってやつ。
「皮肉云々以前に不謹慎だ」といった常識論はひとまず、置きましょう。
 
 ぼくはそれよりも、何となくここに、左派――というか、「市民運動」みたいなものの抱えた困難さを感じてしまい、それをちょっと指摘してみたいと思うのです。
 彼の「さいたさいた」も「なーんちゃって」も、申し訳ないけれどもセンスゼロの代物です。「なーんちゃて」はもう、激烈に痛いですよね。ぼくは実は、この種の「時代遅れのおふざけ」というのが、ある種、今の左派の抱えた問題を象徴していると思うのです。
「体制」へのカウンターパンチとして繰り出したその「不良ぶりっ子」が
仮面ライダーフォーゼくらい時代錯誤で、ハタから見ていて痛い感じ。
 それを見て「何か、市民運動ってダッセー」と感じる一般的なリアクションは、意外に直感的に本質を突いているのではないか。
 左派というのは「カウンター」として出てきたものであり、ある種の反社会性、逸脱性を最初から内包したものです。だから世間ではあまり迎え入れられないような異端者の受け皿としての機能を果たしてもいるのですが、とは言え、そういう異端者ってぶっちゃけ世間的にはワルモノであることが多いというのもまた、身も蓋もない事実ではあります。
しかし更に言うなら「体制」がいついかなる場合も正義とは限らない以上、左派のそうした機能をぼくもまた、否定するものではありません。
 が、今回の事件を見て、ぼくは感じたのです。彼らの持つ「ぼくたちは弱者、被害者」と言った時代遅れの自意識が、そうした自分たちの「反社会性」を内省する機会を手放させてしまっているのではないか。だから、自分たちが不謹慎なことをやって叩かれるという場面への想像力を、彼らは喪失してしまっていたのではないか。
 もう一つ、本当のことか作為があるのかわかりませんが、記事ではこのチラシに対する抗議の半分以上が日教組批判、つまり政治的な意図の批判であったとし(そもそも主催は全日本教職員組合であり、日教組とは別らしいのですが)論調は
「表現の自由」を大切にせよとの方向へとリードされていきます。
 これにサザンの「TSUNAMI」自粛問題などを絡めてくるのだから、もう大変です。311後に、まさにそれそのものをテーマにする講演に「セシウムさいた」などとタイトルする行為といっしょにされちゃ、桑田もたまったものじゃないでしょう。
 とは言え、集会の中止は右翼団体の脅迫を受けてのものだったということです。
 こうなると彼らは立派な被害者です。「教職員の団体が軽薄なチラシで被災者を傷つけた」という物語から、「清らかな市民運動をしているワタシたちが右翼にいぢめられた」という物語への華麗なるキャリアアップです。いえ、こういうのをキャリアアップとは言いませんけれども。


 そして、ちょっと連想したのは例のわかばっちさんの事件です(疲れたので、詳しく説明しません。ご存じない方は「わかばっち LO」で検索してみてください)。
 ネット上での集団ヒステリーはもう、「やめろ」と言っても収まりようのないものですが、いかにわかばっちさんの主張には賛成できなくとも、彼女の住所など個人情報を調べ上げてアップなどしている時点で「オタクが悪い」と言われても反論ができなくなってしまいます。そもそも彼女は(むろん、以前より敵対行動があったのだから彼女にムカつくのは当然ですが)少なくとも本件に関してはAmazonにメールしただけで、文句を言うべきなのはそんなメールくらいで過剰反応するAmazonの方でしょう。
 これら一連の事件の時に、オタクのオピニオンリーダー的な人々が妙にのんびり構えていたのもどうかと思いました(リツイートされたのを眺めた程度なのですが、「みんなそろそろ止めた方がいいよ」といった感じの、何だか危機感のないつぶやきが多いように感じました)。
 さて、何だかもう疲れたし時間もないし、この辺で終わりにしたいので、適当な結論を書いておきます。
 この世は「スーパー弱者大戦」のバトルフィールドです。
 そこには「フェミニズム」といった「スーパー系」な弱者、「被災者」といった「リアル系」な弱者が群雄割拠していますが、「リアル系」の弱者は知っているわけです、「絶対的な正義」がないように、「絶対的な弱者」などといったラクな存在など、この世に居ない、ということを。
 今回の騒動はそうした「スーパー系」の弱者が「リアル系」の人々を侵犯してしまい、しかし自らの行為を省みることなく「スーパー系」の必殺技の乱発を続けている――とまあ、そんなふうにまとめてしまえるのでは、ないでしょうか。


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神聖モテモテ王国

2012-03-20 02:00:10 | アニメ・コミック・ゲーム

 

 もう十年以上前でしょうか、伊集院光のラジオで「ダメにんげんだもの」というコーナーがありました。『にんげんだもの』のパロディであることは言うまでもありませんが、ダメ人間である伊集院リスナーたちが自らの体験言動などを告白し、(共感的に)笑っていこう、そうした主旨のコーナーだったかと思います。
 ここで読まれたネタで、「ナンパに繰り出したはいいが女の子を引っかけること適わなかったモテない三人組、しょげ返る一同だがその一人はどういうわけか妙にハイテンションで『もし俺が女だったらお前らにバンバンやらせてやるよ!』と言っている」みたいなのがありました。
「あるあるネタ」というにはいささかスットンキョウで、ぼくには違和が残ったのですが、伊集院さんは妙にお気に入りのネタのようで、「泣けるんだよなー、これ」と感想を漏らしていたのを覚えています。
 さて、とは言え、それに近しい読後感を残す漫画がここにあります。


 

『神聖モテモテ王国』。
 他愛ないギャグ漫画とも思え、しかしその背景には深遠な謎が隠されているようにも思え、結局、未完のまま終わってしまったのでその真相は作者が再び筆を執らない限りは永遠の謎、となってしまった作品です。張り巡らされた伏線はあまりに曖昧で、その「謎」部分についてはあまりファンサイトなどでも定見めいたものは見られないように思います(何か面白い考察をしているサイトなどがあればお教えください)。
 ごく簡単に概要を(ウィキペディアからの引用で)説明するならば、


 

謎の宇宙人ファーザーとその息子とされるオンナスキーが「ナオン」(女性)にモテるために四苦八苦するギャグ漫画。


 

 ということになるでしょうか。この二人が毎回毎回ナオンをナンパしようとしては失敗する、というのがお話のパターンです。
 ファーザーは宇宙人を自称してはいるもののその正体は一切不明、オンナスキーは常識的な普通の少年なのですが記憶喪失によってその過去は謎に包まれ、何故か(まだ十五歳であるにもかかわらず)ファーザーとアパートの一室で二人暮らしを続けています。二人は働くでもなく(オンナスキーは学生なのに学校にもあまり行かず)ただ日々を成功もしないナンパに費やし続けます。そして近年の作品のお約束として、そうした「謎」を解く鍵だと思われる伏線めいた描写だけは折に触れ、意味ありげに繰り返されるわけです。
 要するに本作は、「下宿もの」の一ヴァリアントなのですね。
 青春時代の仮宿としての下宿住まい。そこにおける、おかしな同居人たちとの非日常的な毎日。
 例えば、『
マカロニほうれん荘』。この作品こそ、サブカルとオタク文化が未分化だった70年代の若者文化を活写した作品です。が、そうした非日常的な生活は当然、青春期にのみ許されたものであり、その時期の終わりを悟ったきんどーちゃんとトシちゃんは最終回、そうじに別れを告げることもなく旅立っていきます。
 しかし80年代に至り、明確な「青春期の終わり」は失われます。『
陽あたり良好! 』は主人公たちの三角関係に明確なケリをつけることなく終了し(それは丁度、ライバルとの勝負を放棄した『タッチ』同様に)、『めぞん一刻』で五代君と響子さんは仮宿であるはずの一刻館に居着いてしまいます。
 これらの作品が連載されていた頃、評論家の大塚英志さんはこの種の下宿を民俗学で言う「ネヤド」に準え、大人になるイニシエーションのための装置と位置づけて盛んに論考し、現代にイニシエーションが失われつつあることを、危機感溢れる筆致で指摘していました(『めぞん』のオチにブチ切れていたのが印象的です)。
 子供向けアニメなどでも、例えばですが「他の星から来たキャラクターが地球の少年と別れを告げ、故郷の星に帰る……かと思いきや、また舞い戻ってきて共に暮らすことに」といった「外し」たオチで「別れ」を忌避するようになったのも、丁度この頃です。
 そして本作は90年代の終わりに描かれました。
 ぼくたちがもう、「就職」→「結婚」といったルートを喪失してしてしまったことは、この時期には既にわかりきっていました(何しろ時期的には『エヴァ』の直後です)。
 この頃の「評論」からは上に挙げた大塚さん的な、「卒業や別れを忌避せずに描け」といったよく言えば「良識派」、悪く言えば「保守的」な言説がめっきり聞かれなくなっていたように思います。「就職」→「結婚」という決まり切ったコースを辿ることがそもそも困難になってしまったからでもありますし、「結婚することが幸福」などと言った者は「女性差別だから」との理由で死刑になるようになってしまったからでもあります。
 つまり本作の根底にはそうした「ルート」を、ぼくたちが「男としての幸福」を喪失してしまった後の、ゼロ年代的とでも言うか、keyのゲームなどにも顕著な空虚さが常にあるわけです。


 

 さて、少々話が前後してしまいましたが、本作における主人公たちの目的は「ナンパ」です。それは、上にも挙げたラブコメ漫画の目的がヒロインとの恋愛の成就であるのと同じように。しかしどういうわけか、ファーザーはそれを「神聖モテモテ王国」と呼ばれる国家の「建国」に準えています。つまりファーザーにとってナンパとは、彼を中心としたハーレムのような王国を建設するための手段らしいのです。が、オンナスキーは彼とは裏腹に、「建国なんかどうでもいい、ただモテたいだけだ」と繰り返しており、実は最初からこの二人は根本的なところで噛みあっていません(そもそもファーザーは言っていることの九割方は理解不能な、電波キャラなのですが)。
 そんなファーザーの立案する作戦を元にしたナンパですから、最初からうまく行くわけがないのです。
 ナンパは大体「作家がモテる」「Jリーガーがモテる」「ミュージシャンがモテる」とモテそうな人物像にコスプレしてはナオンの前で自己アピールし、呆れられてふられる(というより、より正確には、相手には意図が全く伝わらず気味悪がられる)、というのがパターンです。
 自分たちがモテないのはあまりに物欲しげだったからではないかと考えたファーザーは硬派に扮し(二巻「硬派になれば軟派じゃない」)わざわざナオンの前で「ガッハッハ、ナオンなどどうでもいいぜー押忍。まさにどうしてももてたくねーにゃ――――」と叫びつつ、「さあわしはこういう者じゃぜ?」と、すかさずナオンに名刺を手渡します
すべてはモテるためである』の著者、二村ヒトシさんは本作にいたく感動し、「一読、負けました」とまで述べています。要するに本作で描破されている男性側の自意識の過剰さ、過剰な自意識が生じさせる男女のディスコミュニケーション、それこそがモテない原因である、と二村さんは言いたいのでしょう。


 

 さて、そんなわけで本作のテーマは、男女のディスコミュニケーションだということがひとまず、言えるかとは思います。
 凡庸な著者ならばこの辺りで「男子諸君、女の子の話に耳を傾け、女の子と一対一のつきあいをすればキミにも彼女ができるヨ」とでも薄っぺらにまとめてしまうところかも、知れませんね。
 しかし恐らくそれだけでは、本作のホンの表面の部分をなぞったに過ぎません。
 ここではもう少し、本作の根底に秘められた真のテーマについて、考えていきたいと思います。
 オンナスキーは親戚の援助を受けて生活しています。それはオンナスキーのいとこである知佳さんという女性が時々彼の様子を見に現れ、また彼の口から「ぼくはずっとあの一家に厄介になっていたらしい」と語られることで説明されます。が、知佳さんたちは何故そんな少年を自分たちの家に招くでもなく、アパート住まいをさせておくのかについては、語られません。
 ファーザーはある時、いきなり空から落下してきてオンナスキーと出会った存在であり、オンナスキーは彼をまるでネコの子をママに隠れて飼うかのように自分の部屋に住まわせています(事実、彼は度々ファーザーを「飼っている」と表現しています)。知佳さんが家にやってくると、ファーザーとの同居がバレてはまずいとアタフタします。
 こうしてみると二人の結びつきは本当に、危ういバランスの上に乗っかった不確かなものなのですね。
 一方、では二人の間にはそこまで純粋で利他的な友情が成立しているのかとなると、それは疑問です。僅かばかりオンナスキーがナオンに気に入られただけで、ファーザーは彼を攻撃したり、一方的に離縁(というより
オンナスキーの殺害)を考えたりもします。
 そもそもファーザーは男というものを大変に憎んでいます。むろん、その心情の何割かは「モテるヤツは許せぬ」という嫉妬心で占められていることでしょうが、彼の発言を見ていくと(三巻「独裁者の孤独」)、


 

 わからんのか、男などという醜いバチ当たりなよく分からん動く物体は、地球の美観をそこねる。
 男反対!!
 男は悪しき種なのである、憎むべき突然変異体である。
 今こそ男を根絶して優良種たるわがナオンが…


 

 といささか穏やかでなく、


 

 有史以来あらゆる重要な舞台に登場し、人類の歴史に干渉してきた謎の組織…男。
 米国歴代大統領の全てが男だったとも言われている。


 

 と言うに至っては(四巻「デビル教団乗っ取り計画」)、彼が明らかに陰謀論に取り憑かれていることがわかります。そう、それはまさに男を一枚岩の悪者であると盲信する、フェミニストたちのように
 オンナスキーも彼を評し、


 

 地球上の全ての男が結託して組織だった活動をしているという妄想はどうにかならないのか?


 

 と発言しています(六巻「デビルと男と巨大ロボ」)。
 また一方、ファーザーは男としての業を深く抱えている存在として、描かれています。
 彼は建国を目論んでいるだけあって、政治用語、軍事用語を多用します。つまり彼はナオンとの駆け引きそのものを政治、軍事行動に準え、そしてまた、全てを「勝ち/負け」、「敵/味方」の基準で判断してしまうわけです*。
 オンナスキーは、「過去」というものを持たない、天涯孤独の人間であり、それ故強く「他者」とのつながりを希求する存在です。
 しかしその彼の前に現れたのが、ある種、歪んだ男性性の体現者とも言うべきファーザー(ファーザーの顔は「星一徹」をモデルにしているとの説を、ネット上で見たことがあります)。それが、本作の悲喜劇の発端となっているのです。
 三巻「ファーザーとオンナスキー」では二人の一時的な別れが描かれます。ファーザーを追い出すことを決意したオンナスキーは、今までファーザーを置いていた理由を


 

 ただ…もててみたかったんだ。
 …でも一人じゃナオンに声もかけられないし……一緒にナンパする友達も…
 …というか友達自体いなかったし……
 ただ一緒に飯食ってくれる生き物がいるだけでも、いいかなって感じで……

 

  と告白します。
 本作について精緻な分析を行っているサイト、M2(
http://www17.atpages.jp/pasodobure/m2.html)ではこの両者の同居について


 

オンナスキーがファーザーをいかに好きかということよりは、オンナスキーの抱える心の傷あるいは心の虚ろさが、いかに大きなものであるか(あったか)ということを示しているといえるだろう。
(中略)
ファーザーのもてたさぶりは異常だが、それに付いていき、ファーザーの発案する突拍子もないナンパ作戦に荷担するオンナスキーも、異常なもてたさを抱えているのである。このもてたさはオンナスキーの抱える精神的な飢餓感から来るもの、といえないだろうか。


 

 と鋭く切り込んでいます。
 つまり、ファーザーとオンナスキーの関係は一口に「友情」といってしまえるほどに単純ではないのです。


 

*彼は「ナンパ」のことを「ナオン狩り」と表現し、またそうした時においても、例えば逃げるナオンを追ううちに目的が「駆けっこ」にすり替わり、ナオンを追い抜いてしまい(或いはまたナオンが逃げたのを自分の「勝ち」と認識し)勝利宣言をしてしまうなど、そうした傾向は顕著です。


 

 物語も後半になると、新キャラとしてキャプテン・トーマスという怪人が出現します。
 登場は遅いのですが、その存在は物語のかなり初期から匂わされ、お話の謎に深く関わっている人物であると想像されます。
 彼は劇中では「白人」とされているのですが、ファーザーの同族と見てまず間違いありません。というのも左右非対称な顔、関節があるのかも判然としないぐにゃぐにゃの四肢といったいびつに歪んだキャラクターデザインは彼とファーザーのみに与えられているものですし、行動もまた、完全に非常識です(後述する大王といったキャラクターも充分非常識なのですが、完全に天然なのは彼とファーザーだけと言っていいでしょう)。
 何よりトーマスは、ファーザー以上に「悪しき男性性」の体現者なのです。
 彼もまたナオンに積極的な興味を持つのですが、下着ドロに及んだり、ナオンに下半身を触らせようとするなど、その行動はかなり下品。また彼にはヘビトカゲという子分がいます。ヘビトカゲは見るからにダサい田舎者、そしてまたトーマスの出任せを信じ、彼を善人だと信じるちょっと足りない、純朴な人物として描かれます。しかしトーマスはそんな彼を内心では嫌い(抱きつかれると全力で拒否する)、あろうことか「トーマス団」の会費と称して彼から金をせしめてもいます。
 オンナスキーはそうしたトーマスの下品さ、悪辣さに嫌悪感を隠さず、ヘビトカゲに同情もします。タチの悪さではファーザーも大差ないのですが、一応のルサンチマンや妄想体系という「事情」が裏に隠されていると思われる彼に比べて、トーマスは他者を搾取することをためらわない性格であり、見ていて不快感を催させる人物造形になっていることは確かです。
 事実、トーマスとヘビトカゲの関係を見たファーザーは「ナオンにもてない同士は、未知の力でひかれ合うという。/お幸せに暮らすがいいぜー。」と評し、オンナスキーが「こいつら、そんなホンワカした関係じゃなさそうだぞ。」と述べるシーンがあります(五巻「トーマス団」)。
 要は「トーマス×ヘビトカゲ」の関係性は「ファーザー×オンナスキー」の関係性から更に救いをなくしたものということなのですね。


 

 さて、こんなことを書いているとフェミニストがドヤ顔でやってきそうです。
「即ち、本作は男同士のホモソーシャルなニセ者の人間関係を鋭く笑い飛ばした作品なのだ」との叫びが、聞こえてくるかのようですね。
 しかし果たして、その評は正しいのでしょうか。
 確かにファーザーは頼もしい師でもなければ誠実な友人でもないでしょう。
 けれども、とは言え、上に挙げた別れの時のオンナスキーの言葉は、やはり胸を打ちます。
 もっともこの後、二人はしばらくの別離の期間を経て、元の鞘に収まります。
 この時、知佳さんは


 

 いっちゃんさ……事故当時と比べると色んな事、話すようになったなって思ってたの。
 それって私じゃなくて、ファーザーさん達のおかげなのかもしれないって……
 いっちゃんにとって、あの人達が必要なのかもしれないって……


 

 と、二人のケンカを仲裁し、同居を認める発言をしてるのです(四巻「迷走の果て)。
 オンナスキーがファーザーを好きか嫌いかといえばやはり、「仕方ない」「こんなヤツでも」「いないよりマシ」といった数々の留保はつくでしょうが、やはりそれでも「好き」であったでしょう。一時的に別離している期間も連載は続き、バカなドタバタが繰り広げられるのですが、ところどころで一人食事する、一人背中を丸めてテレビを眺めるオンナスキーの姿が描写され、それはやはり寂しそうに映ります。
 またファーザーは上に書いたように身勝手な存在ではありますが、それでもオンナスキーに対して多少なりとも、情愛を感じてもいたでしょう。上の別れの話において、オンナスキーに「鍵を置いて出ていけ」と言われたファーザーはバン、と叩きつけるように鍵を起き、部屋を出て行ってしまいます。ファーザーというキャラクターの本意を察することはほぼ不可能ですが、それでもその時のファーザーには自分を拒絶したオンナスキーへの怒りの感情があったはずです。
 そうした、「社会の弱者」のギリギリの状況下での僅かばかりの交感に、ぼくたちは心を乱されずにはおれません。
 何となれば、ある意味で男性にとって「友情」とは許より、こうしたものではないかと思われるからです。


 

 ファーザーがオンナスキーを攻撃したように、「ナンパ」が目的のこのコンビは、仮にどちらか一方がナオンにモテたら破局を迎えてしまう性質のものです。仮に二人が同時にナオンとよろしくやることに成功したとしても、その後に待っているのが結婚なり何なりであるとするならば、それはそれで発展的解消をする運命にあります。
 つまり、「結婚」→「家庭」というルートを前提とするならば、男の友情というのはそもそも、初めからそういうものだったわけです。家庭を持ってしまえば男同士というのは、利害を異にする仇同士になる可能性を、最初からはらんでしまいます。
 しかし、うまくしたことに――という形容はヘンですが、この二人は絶望的なまでにモテない。モテないが故に、ギリギリのところでバランスを保った同盟関係を、二人は存続させているということが言えるわけです。
 今までもぼくは「ホモソーシャル」という言葉の幼稚な欺瞞性について、くどくど繰り返し述べてきました。この「ホモソーシャル」という、それこそ政治的な(勝ち負け至上主義的な)用語には最初から、「男たちは男同士でごちそうを独占しているのだ」との、まさにファーザー並の幼稚な妄想が前提されています。
 しかしここまで『モテモテ王国』を読んできて見えてきたのは、「ホモソーシャル」な男同士のつながりとは、何も与えられていない男たちの、与えられていないが故にその間だけ危ういバランスの上に成立する関係性である、それは本当に餓死寸前の人間が冷蔵庫の中を探し回って見つけた、タクアンの尻尾のひとカケラのような、本当に微かな関係性である、ということなのです。
 それは必ずしも常に誠意あるものとは限らず、うたかたのように脆いものでもありますが、それでもそれがぼくたちの胸を打つのは、それでも彼らが何らかの形での情愛を、疑似家族的なものを指向しているからでしょう。
 以前も繰り返し採り上げた「ろりともだち」の赤井と山崎君の関係もこれに近いでしょうし、『じゃりン子チエ』のレイモンド飛田とその秘書の関係なども思い出されます(はるき悦巳作品で言えばダメ男たちのダラダラした日常を描く『日の出食堂の青春』が本作のテイストに近いかも知れません)。
 ぼくはここしばらく、「フェミニストと弱者男性」の関係について言及してきました(「ダメおやじ」、「ダメおやじ(その2)」)。
 しかしこうして見ると世間の男性たちが生きる指針を失い、経済的にも社会制度的にも弱者へと転落しつつある昨今にこの「ホモソーシャル」といった言葉が人口に膾炙し始めたことが、極めて示唆的に思えます。
 それはフェミニストたちが「男性が弱者である」という現実を決して認めまいとしていることの顕れとも考えられますが――もう一つ、更に恐ろしい可能性をも、考えてみないわけにはいかないからです。
 男性たちが必死の思いで見つけ出してきたタクアンの尻尾。フェミニストたちは、それをも手中に収めんと狙っている、のではないでしょうか……?


 

☆補遺☆
 物語にはトーマスよりも早い段階で、二人のサブキャラクターが登場しています。
 アンゴルモア大王とブタッキーです。
 前者は悪の秘密組織・デビル教団を名乗り、使徒と呼ばれる子分たちを率い、オンナスキーのアパートに引っ越してきた人物です。が、彼はそうしたごっこ遊びを(恐らく)自覚的に楽しんでいるだけであり、ファーザーに比べれば遙かに常識人と言えます。また彼はホモ疑惑が沸き上がるほどに女性に関心を示さず、恐らく思春期以前の少年のような無邪気な男性性を象徴した人物だと思われます(彼はまた明らかにトーマスと同じ「謎の組織」に仕える人物でもあり、物語上の登場頻度はトーマスよりも遙かに多いのですが、ぼくの私見では恐らくトーマス出現までの「つなぎ」のキャラであり、物語上の重要度はかなり低いのではないか……と思われます)。
 後者は見るからにダサいデブオタ然とした人物なのですが、どういうわけかいつもナオンに囲まれ、しかもそのナオンに平然と辛く当たっている、言わば超リア充。しかし(ナオンには冷たいくせに)絡んでくるファーザーたちには存外丁寧に対応し、ファーザーとオンナスキーのつるみを見て「あの人たち、なんだか楽しそうでいいよな」と羨ましげな様子を見せます。ぶっちゃけ全く謎の存在なのですが、案外、「結婚後の男が独身男性を羨む」といった、そんなスタンスの存在のような気もします。


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