兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

Rewrite(その2)

2011-09-24 04:10:57 | アニメ・コミック・ゲーム

 以前、ギャルゲの『Rewrite』とヒーロー物の『ゴーカイジャー』を並列させて語ったことがあります。
 そこで


 ギャルゲーはヒーロー物を超えて「正義」になるのではないか。
 そして「正義」を語るギャルゲーだけが、「女災」に対抗しうる最終兵器になり得るのではないか。


 などと思わせぶりなことを書いたまま、永らく放置しておりました。
 今更感が強いですが、一応今回、それを消化しておこうかと。
 以下の論考は『Rewrite』『ゴーカイジャー ゴセイジャー スーパー戦隊199ヒーロー大決戦』の続編にあたるので、未読の方は事前に前者の方だけでも読んでいただければ幸いです。
 それともう一つ、本稿では『Rewrite』や『リトルバスターズ!』についてのネタバレがなされますので、知りたくない方はお読みにならないで下さい。


 さて、上にも挙げた戦隊シリーズが代表するヒーロー活劇。
 オタク文化の主流は、70年代から80年代にかけてはこれらヒーロー作品でした。
 70年代は比較的単純な正義と悪の戦いの構図を描いていたヒーロー物ですが、80年代辺りから迷走を始めます。
 その代表が『ガンダム』と言えるのですが、『ガンダム』に先んじてマニアを生んだSFアニメ『宇宙戦艦ヤマト』がやたらと「愛」を語り、アニメファンたちから揶揄されたことは有名です。特撮はアニメよりも(当時は)若手スタッフが少なく、保守的であったのですが、特撮界の『ガンダム』とも言える『宇宙刑事』の企画書には「テーマは愛」と明言されていました。
「大きな物語」が失われつつあった80年代、アニメや特撮のヒーローたちにとっては「愛」こそが「正義」だったのです。それは国や組織、共同体に与しない、パーソナルな「正義」のあり方でした。それはまた「女性的正義のあり方」とも言え、これが90年代に至って『セーラームーン』という少女ヒーロー物の隆盛につながった、とも言えるでしょう。
 いわゆる「正義」を「世界レベルの正義」(大局的な見地からの正義)であるとひとまず捉えるならば、「愛」は「個人レベルの正義」であると、取り敢えず考えられるかと思います。「三人称の正義/一人称の正義」と言ってもいいかも知れません。
(もう一つ言えばここで言われる「愛」は基本的に男女の「愛」であり、恋愛資本主義の本格化し始めた80年代の空気が影響を与えていたとも、この頃のオタクが非常に若かったことの影響とも言えるでしょう)
 そうした「愛という名の正義」は、言い換えれば近代民主主義的「個人の人権の尊重」と表現することもできますが、そもそも「個」というものの利益が他の「個」の利益とぶつかりあう性質を持つ以上、そこには「下の者ほど上になる」という負のレイシズム、逆順のソートがなされたヒエラルキーが構築されることがある種必然なのだ、ということは拙著にも書いた通りです。
 事実、「敵」との「和解」、「共生」をオチとする傾向にある近年のヒーロー物は、その共生を阻む「ラスボス」をやっつけるというある種矛盾した展開に陥りがちです。「共生」という「正義」は「共生できない悪」を実はどうしても生んでしまうのですね(ちょっと先走った指摘かも知れませんが、これは「博愛」や「平等」を歌うカルトが結局は自分たちを排斥する「外敵」を妄想しがちなのと極めて近いかも知れません)。
 そんなこんなでヒーローたちが正義を見失って迷走を始め、『ゴーカイジャー――』でも書いたように、現行の戦隊はとうとう正義をかなぐり捨ててしまったわけです。


 一方「萌えブーム」と言われるように、80年代に萌芽が生まれ、ゼロ年代に花開いたのは美少女作品です。中でも「ギャルゲ」は長らくその中枢的な役割を果たしてきました。
 ここで詳しくない方のために、「ギャルゲ」について解説を交えながらまとめてみましょう。
 ごく大雑把に表現するならば、「ギャルゲ」とはプレイヤーが主人公視点で美少女キャラとかかわり、仲よくなり、恋愛関係を構築するまでが主眼となるゲームです。
 美少女キャラは三人なり五人なり複数名登場するのが普通であり、プレイヤーは時折登場する選択肢を選び、気に入った女の子と仲よくして「攻略」することがゲームの目的となります。例えば画面に


 さて、今日はどうしよう?
 1.A子と遊ぶ
 2.B子と遊ぶ


 などといった選択肢が現れ、2.を選ぶとB子と仲よくなれる可能性が高いわけですね。
 こうしたギャルゲのシステムは、「特定の女の子と仲よくなることで、そのキャラの抱えていた秘密が明らかになり、それを知ることでより親密になる」或いは「キャラの抱えていた問題が明らかになり、問題解決を図るうちに二人は恋仲に……」といったストーリーを展開させる必然を、最初から構造的にはらんでいるわけです。
 わかりやすく言えば「ツンデレ」がそうですね。登場した時はやたらと威張っていてムカつく女が、選択肢によってフラグを立てることで、「実はこれこれの過去があり、そのために素直になれない性格になったのだ」といったエピソードが語られる。或いはまた、共に何らかの事件を経験することで彼女が主人公に心を開くようになり、「ツン」から「デレ」に変わる。多くのツンデレキャラはそうした劇的な展開でファンたちの心を掴み、支持されてきたわけです。
 実のところブンガクにおいても、こうした精神分析的な人間観の援用はずっとなされてきたようです。日本の文学というのはSFを除き、専ら個人のパーソナルな「近代的自我」みたいなものにスポットを当てることを主眼としてきたようで、「このキャラは過去にこれこれのことがあってこういう性格になりますた」という物語構造の「元ネタ」として、精神分析が積極的に「パクられ」ていたようなのです(「ようです」が続きますが、この辺りは聞きかじりの知識なので……)。
 そうしたブンガク的な方法論、或いは「彼女の今の性格は過去のこれこれの体験が原因であり……」といった精神分析的な人間観を、ギャルゲというのは更にシステマティックに、ラディカルにブラッシュアップしたもの、と言えるかも知れません。


 さて、それとはまたちょっと別にギャルゲは、一時期ポストモダン関係の人々に何だか勘違いな解釈を施されてきました。冷戦終結後、バトルがはやらなくなって「萌え」一辺倒になったオタク文化というのは、「大きな物語は終わった」と考える彼らにとってよいメシの種だったのですね。そこではシンジ君が戦わなかったことが評価され、セカイ系が評価され、そしてルート分岐によってラストの変わるギャルゲが「ポストモダンを実証する物」であると計算違いをされ、大いにもてはやされました(そうした方々が『ディケイド』だけ持ち上げて『ゴーカイジャー』を誉めないのは、不思議と言えば不思議ですが……)。
 要はゲームにはマルチエンディングが用意されている、これは答えが、正義が一つではないということ。即ち、大きな物語が失われ、絶対的価値観というもののない現代にこそ生まれ得た新しい表現だ、という考え方なわけです。
 しかし、ところが、大変残念なことに。
 ギャルゲは、彼らの語りとは相反する方向へと進化していきました。
 ギャルゲというのは上に書いたように、複数の女の子と仲よくするゲームです。
 女の子が五人登場するゲームであれば、最低五回プレイしなければ全員分のエンディングに到達できません。つまり、繰り返し繰り返し同じゲームをプレイする必要があるのです。昨今のギャルゲは、こうしたシステムそのものを「設定」に折り込む趣向が顕著になっています。『リトルバスターズ!』ではこの繰り返しの世界が主人公をトレーニングするための仮想空間であったというオチがつきますし、同じkeyの最新作『Rewrite』においては地球の歴史のいくつもの可能性をシミュレートしたパラレルワールドであるとのオチがつきました。
 そのため、こうしたゲームでは全ての美少女キャラを攻略した後に、俗に「トゥルーエンド」と呼ばれる最終ルートが立ち現れ、「全ての謎を解き明かす解答編」とでもいったストーリーが語られたりします。
 また、そこまで奇をてらわないまでも作品世界に潜む「謎」の伏線をA子ルート、B子ルート、C子ルートでそれぞれ断片的に配しておき、「トゥルーエンド」においてその謎解きがなされる、といったパターンも多く見られます。
 つまり、ここでは(個々の美少女キャラもさることながら)作品世界そのものがはらんだ秘密にスポットが当てられ、プレイヤーがゲームをプレイする目的は、最終的にそれを解き明かすことに置かれるようになっていくわけです*1。
 更に言うとそうした謎解きのための便宜として、最近では「まずA子ルートを最後までプレイして、そこで語られる伏線を知ってからでないとB子ルートに進めない」といった縛りを制作者側がゲームに施すことも多く、こうなると「選択肢」がありながらも、プレイヤーは実質的には制作者の決めたほぼ一本線のルートを(小説を読むのと変わりなく)進んでいるのも同然になります。
 友人に聞いた話ですが、アメリカ製のアクションゲームは自由度が高いのに反し、日本製のアクションゲームはやはりストーリーを縛りたがる傾向があるようで、これは国柄なのかも知れません。


*1東浩紀師匠は自分の属する宗教のプロパガンダのため、『エヴァ』のファンは作品の物語設定を一切気にかけていないのだと、事実と180°異なるトンデモない発言をなさいました。しかし「美少女キャラを攻略する」ことが目的であるはずのギャルゲーですら、ファンたちの目は、その作品世界の設定にまで届いているというのが現実なのです。まあ、彼らは教科書に書かれたお題目を並べ立てるだけの簡単な仕事をなさっている方たちなので、そうした現実には決して目を向けようとはしないのですが。
 ところで……師匠って「鍵っ子」なんでしたっけ?


 つまり、ギャルゲは「美少女キャラの個にスポットライトを当てる」といった、言わばポストモダン構造(笑)を内包していながら、近年では「作品世界の世界観への目配り」がだんだんと目立つようになり、ついには「世界」そのものを描くことこそが目的になりつつある、ということですね。
 いや、別にぼくは「そうしたポストモダニストの勘違いを正したから『Rewrite』は素晴らしい」と諸手を挙げて賞賛したいわけではありません。
 実を言うと『Rewrite』にはいろいろと微妙な点もあります。
 本作はあまりにも作品世界の描写に注力し過ぎ、個々の美少女キャラクターとの「萌え」的な恋愛描写がなされたとは言い難い面があります。
 keyのゲームはファンに「泣きゲー」と呼ばれ、感動的な展開に定評があるのですが、本作にはそれがなかったことがファンの辛口の評につながりました。が、そもそも「泣きゲー」云々以前に、「世界」の描写にここまで注力してしまうこと自体が、ギャルゲーとしては本末転倒ではあるわけですね(ファンからの評価のさんざんなルチアルートですが、このルートで一番恋愛描写がなされているのは大変に皮肉です)。
 ただしこの種のゲームは大作であり、漫画や小説やファンディスクといった二次商品で番外編のストーリーが描かれることはお約束になっています。本作で不足した「萌え」分をそうした二次商品で補わせることが最初から織り込み済みとするならば、それはもうお見事としか、言いようがありません。
 もう一つは、(これはぼくの偏った見方かも知れませんが)何と言ってもガイア/ガーディアンの描写が、納得のし難いものであった点です。
 本作に登場する美少女キャラたちは、それぞれ数名はガイアに数名はガーディアンに所属しています。恐らく制作者としてはそうすることでそれぞれの勢力のスタンスを描き、(まさにポストモダニストが大喜びしそうな)複数の視点、多面的な視点をプレイヤーに提供しようとしたのでしょう。
 アニメは『ガンダム』以降、単純な正義と悪のバトルではなくなりました。「ジオンも悪いが連邦も正義とは言い難い」といった相対主義的世界観こそがリアルであり、大人っぽくて格好いい物とされてきました。もっとも、『スーパーロボット大戦』などに見られる「スーパー系/リアル系」といった作品世界の解釈が広まるにつれ、そうした世界観の描き方そのものすらもが近年、相対化(「リアル系も格好いいが、スーパー系も格好いいよなあ」)されてきたとも言えますが。
 それと同様な相対主義的世界観を描くのに、繰り返すように美少女キャラごとにルートが分岐するギャルゲは極めて適した構造を持っていると言えます。
 しかし、ところが、大変残念なことに。
 本作はそうした「価値相対主義」に失敗しているように思われるのです。
 詳しくは前のエントリを見ていただければわかりますが、要するにガイアという勢力はどこをどうひっくり返してみてもカルト的な悪の組織と言うしかなく、いかに体裁を取り繕ってもこのお話は「がーでぃあんのせいぎちょうじんたちが、がいあのわるものどもをやっつけるぞ!」というものにしか、最初からなり得ないのです(ガイアを普通の環境団体にして、人類の殲滅を一部の急進派の仕業にする、という手もあったと思うのですが)。事実、ちはやというキャラクターはガイア所属でありながら組織の中枢から外れた存在ですし、静流ルートではあっさりとガイアを離脱してしまいます。
 また一方、「トゥルーエンド」と言える「TERRA編」において、主人公の瑚太朗は二重スパイとしてガイアとガーディアンの間を入ったり来たりします。それによって両勢力のスタンスを説明しようとしたのでしょうが、ここで描かれるガーディアンの裏面といったものは、どうにも取ってつけたようなものでした。即ち、単純な正義の組織ではないよ、と言いたいがために無理して悪者的な描写を付け加えたように、ぼくには見えたのです*2。
 唐沢なをきの『まんが極道』で、新人漫画家が頭でっかちなハードSF漫画を描いてくるのにうんざりした編集者が「悪い宇宙人が攻めてくる話とかでいいんじゃない?」と面倒そうに言うシーンが出てきますが、何だかそれを思い出してしまいました(今読み返したのですが、それらしいのが見当たりませんでした。う~ん、何巻だったんだ……?)。
 結局、「AもBも一理あるねえ」といった物わかりのいい相対主義は、
人間関係を構築する上では重宝しますが、一つの作品を作ろうとする時には役に立たない。人は結局、何かをなす時には何らかの価値観を信じ、判断せざるを得ない、ということです。いずれの選択肢を選ぶか判断しなければ、ギャルゲもプレイできません。
 本作は価値相対主義的な「マルチエンディング」に失敗しました。
 しかしそれも当たり前のことです。「個別のマルチエンド」の後に「トゥルーエンド」という名の「結論」が控えていることこそが、ギャルゲの構造の特徴なのですから*3。
 
正義は、ひとつなのですから
 宇宙でも、そしてこの地球でも正義は一つであると宣言することが、ギャルゲというメディアが構造上最初から持っている宿命だったのです。
 つまりヒーローたちが捨てた「正義」を今、萌え美少女たちが再び再構築し、セカイを「Rewrite」しようとしていると、そういうわけなのです。
 Rewriteしなければ、ぼくたちはいつまでもフェミニズム的レイシズムから脱却できません。それは女災の永続を、意味します。
 ギャルゲは書き換えることが出来るのでしょうか。
 ぼくたちの、その運命を。


*2ファンからの評価のさんざんなルチアルートですが、このルートではガーディアンに所属する少女ルチアが、実は「環境汚染された未来の地球に適応するために、ガーディアンによって生み出された改造人間」であったとの設定が語られます。即ち、このルチアルートでこそガーディアンという男性原理的西洋文明的組織の暗黒面がラディカルに描かれているのです。「メインではないライターの書いたできの悪い番外編」と評されるこのルートでこそメインルートで不足していた「世界観描写」の補完がなされているのは大変に皮肉です。
 ちなみにルチアを改造したという強硬派のトップの名前はブレンダ司祭(!)。
 その改造の誓約書だか何だかに当時三歳であったルチアに署名(!)させたという設定です。
 これはもちろん、フェミニズムの狂気の生体実験で犠牲になった乳児の名前から採られたネーミングです。それは、ジャミラの名前が非道な拷問を受けたアルジェリアの運動家の少女の名前から採られたのと、同様に。
 ウソですが。
*3ただ、ぼくはガーディアンこそ正義であるかのように繰り返していますが、本作の「結論」として描かれるのはガイアとガーディアンの技術の融合、言わば両者のスタンスの統合、というバランス感覚を持ったものです。ガーディアンの描写のまずさには疑問が残りますが、その意味で作品としての「結論」はちゃんと出している、ということですね。


☆補遺☆

 東師匠、まんまと『ゴーカイジャー』にハマったようです(爆笑)。

 わたしゃ予言者なのでしょうか。

 東浩紀さんがゴーカイジャーに興味を持たれたようです。


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中国嫁日記

2011-09-01 23:56:06 | アニメ・コミック・ゲーム

これも、相当反吐が出る漫画。キモくても行き遅れのオバさんでも、オタクのようなモテない世界に住む小金を持った男性となら結婚できると、一部の同類女たちに夢を与えているらしい。まさに人身売買。

 

たとえば、「オタク夫日記」みたいな漫画がリア充女性向けに売られていて、その中でオタク男性が「オタク夫」と呼ばれて非常に子どもっぽくステレオタイプに描かれ、その特別版にはカントクくん&ロンパースのかわいい携帯ストラップまでつけて売られていたとしたら、オタク男性はどう感じるだろうか?

 

そしてそこでの設定が、リア充界ではリア充男性にまったくもてない女が、相手がオタクの男だから結婚できたというものだったら、どう感じるだろうか?

 

 あああぁぁぁ~~~っっっ!!!
 あったわ、そういう漫画
 野火ノビタセンセイ、今どんな気持ち? ねえどんな気持ち?

(文章とリンク先とは関係ありません)
 まあ、それはともかく……。


 実は上の文章、本作に対するフェミニストたちのツイートをちょちょっと入れ替えて作ってみたものなのですが、ぶっちゃけぼく自身、本作を読んでみて多少なりとも近い感想を抱いたのも事実です。
 何しろ本作の元になったブログは更新したら四万人を超える閲覧者がやって来るという人気サイト。むろん、ファンの男女比率、オタ/非オタ比率など知りようもないのですが、恐らく女性票がかなり入っているのでしょう。
 そんな本作においては、(まるでそれこそ『オタリーマン』のように!)主人公の井上氏が「オタクとしてはどういう人なのか」は一切語られず、なされているのは、「オタクなので、こんなに野暮でマジメで可愛いね」といった印象を与える描写ばかりです。読んでいると、女にとって「小金を持ったオタク」というのはつけいる隙のある「可愛いおぢさん」なんだなあ、という感想を抱かないでもありません。
 更に言うと「三次女に心を許すとは! 裏切ったな! 庵野同様、オタの心を裏切ったな!!」と言ってやりたい気も、僅かばかりしないではありません。
 本田透駆けつけろ! 裏切り者でござるぞ! 裏切り者でござるぞ!

 ていうかそもそも、幸福なヤツ、売れてるヤツはみんな敵です。
 いや実はそんなわけで、本レビューも「兵頭新児がフェミニストと共闘する」小説仕立てにしよう、なんて思ったりもしたのですが、面倒なのでやめちゃいました。


 ――さて、順序が前後しましたが、本作と、本作にまつわる事件の経緯を簡単にご説明します。
 著者は井上純一さんというオタク界で有名なゲームデザイナー。彼は四十になって二十代の中国人女性と見合い結婚。そうした国際結婚のあれこれをブログで漫画として発表したところ、これが日中で評判になり、書籍化されるほどの大人気に……とここまではめでたい限りなのですが、それがフェミニストたちの目に留まり、ツイッターで言いがかり大会が始まった、というわけなのです。
 ホンのいくつか、印象的なツイートを挙げると、


『中国嫁日記』の月さんは、細眼の吊眼というオリエンタリズムに満ちた顔として描かれる。日本での中国人の類型よろしく「~ネ」「~ヨ」「~デショ」と喋る。さらに手足を短く幼女のように描き、日本の男が庇護してやらなければならない未熟の中国女性という印象を与えている。

 

読み返してみたら作品にも頻発してました…「嫁」っていう言葉は、ずいぶん昔から批判されている割に、なかなか無くならないもんですね。自称する女性も結構いらっしゃるようですし。

 

これも、相当反吐が出るサイト。妻のキャラクターグッズまで作ってる。キモくてもオタクでもオッサンでも、中国内陸部のような貧しいところに住む若い女性となら結婚できると、一部の同類男たちに夢を与えているらしい。まさに人身売買。

 

 といったところでしょうか。
 詳しくは
 
http://togetter.com/li/166146
 http://togetter.com/li/164686
 などをごらんになってみてください。


 さて、ぼくは冒頭で敢えてフェミニストへの共感めいたことを書きました(正確には、共感はできないものの本書に対する嫌悪感は共有できなくはない、ということですが)。
 本書を見て僅かばかり(基本的には楽しく読んだし、本当に「僅か」ですが)イラッと来たのは事実ですし、ブログなり書籍なりの形で世に発表した以上、著者たちがいろいろ言われてしまうのは当たり前のことでもあります。
 そして本書に文句をつけたフェミニストたちも本書を発禁にせよ、といった方向の文句のつけ方をしたわけではありませんから(ぼくが見てないところで言っていたらすみません)、オタク側も彼女らに対し、「お前は石原だ」的なリアクションばかりするのもどうかと思います(この種の「表現の自由」という正義の刃を持ち出せば敵を倒せる式の主張には落とし穴がある、ということは幾度も書いていますね)。本件については専ら、フェミニストたちの主張の間違いについてのみ、批判をすべきです。
 そしてまた元の発言者(本作を女性差別だと言い立てた張本人たち)はせいぜい二、三人でしょうか、そう多くの人々ではありません。この人たちは『ろりともだち』の件しかり、今までも同種の発言をしては呆れられていた御仁たちですから、上のトゥギャッターを見ていると、総攻撃に晒されているのを見ていて、少しばかり同情心が起きないでもありません。
 彼女らの中にはオタクへのあまりにも苛烈な罵詈雑言を繰り返す人物もおり、腐女子など女性からも彼女らをいさめる声が起こったことは心強くもあり、嬉しくもありました。
 が、そうした人々はどうしても「彼女らはフェミニストの中でも例外種だ」的な発言をしがちであり、しかしそれについてはやはり、ちょっとどうかと思わざるを得ませんでした。
 上に引用したツイートにもあるように、フェミニストにとっては「嫁」という存在、そもそも「結婚」という制度自体が絶対に許せないものなわけです(トゥギャッターではオタクからの「オタクにとって『嫁』というのは思い入れのある単語であり、悪気でそう呼んでいるわけではないのだ」といったコメントもありましたが、それは「メイドさん」と同じであり、フェミニストにとってはオタク=女性差別主義者というロジックを補強する材料にしかならないでしょう)。
 元々、「男と女の間には常に女側に不利な力の不均衡があり、あらゆるセックスはレイプである」というのがフェミニズムの思想なのですから、彼女らはお利口なフェミニストたちが口をつぐんでこらえていた本音を漏らしてしまった、「王様は裸だ」と言った正直少年に他なりません(これも幾度も書いていることなので繰り返しません。詳しくは『女ぎらい』辺りを読んで下さい)。
 そもそも今回のフェミニストたちの主張(つまり「これこれは女性のステレオタイプだからケシカラン云々」)って、実は以前はよく言われていたことです。少女漫画の男女の身長差にすら、フェミニストは文句をつけていました(現実世界でも男性の背が高いのは事実だと思うのですが、それを絵に持ち込むのは女性差別だというのがフェミニストの論法です)。ハウスの「ワタシ作る人、ボク食べる人」といったCMを「性差別」と称して放送禁止に追いやった「行動する女たちの会」といった強硬的なフェミニスト団体がかつては存在し、支持を失って消えていったこともまた、何度も書いてきたことです。
 そう考えればそうしたフェミニズムが衰退したことと本件は、無関係ではありません。いい加減毒電波が強すぎて総合誌にお呼びがかからなくなっていたフェミニストたちが(男社会の産物である)文明の利器を得て、新たな
電波発信基地を得たと、実はその程度のことにしか過ぎなかったわけです。


 昨今、ツイッターがバカ発見器と言われつつあります。
 この発見器が、フェミニズムという思想の危険性、過剰性をいぶり出すツールになるのではないか……といった可能性を、ぼくは最近感じています。
 しかし敵も、
「オタク」が弱者と知るからこそ、こうして標的にしているわけです。
『ろりともだち』同様、ぼくたちも必ずしも無謬な被害者を装うには弱い面がある。ただひたすら「女性の権利」という正義に「表現の自由」という正義を投擲兵器としてぶつけているだけではジリ貧ではないか。
 その辺のことに気をつけて、楽しく「告発」を続けましょう、と。


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