拙著『ぼくたちの女災社会』に、いくつかの極めてヒステリックな反応があったことは、既に書いたとおりです。
それらの反応はみな、どういうわけか「ぼくが書いてもいないこと」に対して難詰する内容であったということも、既に書きました(あの後また一件、似た例を見つけてしまいましたw)。
とは言え女性、ことにフェミニストが拙著に過剰反応を示すこと(そしてまともな「反論」はなしえないこと)は想定の範囲内であり、それ自体は驚くに値しません。
が、少し意外だったのはいわゆるフェミニストではないだろうと思われる男性の中に、拙著に対してヒステリックな反応を示してしまう人たちが存外にいたことです。彼らもきっと、普段は知的で教養に溢れる人たちなのだろうと思うのですが、こと女性の話になるといつもの平静さを失い、「女性は偉大だ、女性は男性よりエラいのだ」とナオン教々徒としての本性を剥き出しにしてしまうのです。
普段は非常に頭のいい人が、性についての話題になると途端にうろたえてしまうのはよくあることであり、それはもう、仕方がないことなのでしょう。
しかし、とは言え、それにしても、上のようなナオン教々徒がぼくの予想を遙かに超えて世にはびこっているのだとしたら、暗鬱たる気分にならざるを得ません。
……いえ。
そんなことは最初からわかりきったことであり、単純にぼくの読みが甘すぎたということなのでしょう。
でなければ、今回ご紹介するような本がベストセラーになるはずがないのですから。
さて、ようやく本書についてです。ぼくもあれだけ騒がれているのだから何か目新しいことが書いてあるのかな、と思って読んでみたのですが、本書の内容は要するに
男性は、生命の基本仕様である女性を作りかえて出来上がったものである。だから、ところどころに急場しのぎの、不細工な仕上がり具合になっているところがあると。
という、いい加減聞き飽きた今更な一文に集約されます。
上の一文は「即ち女から派生し、進化したのが男である」と言い換えても、その本質は同じです。しかしそのようなニュアンスでもって男女差を表現しては、大変に怒られてしまいます。だから福岡ハカセはそこに「寓意」を込めて、男性を「できそこない」「不細工」と貶めることに躍起になるのです。
アリマキという昆虫は普段はメスだけの単性生殖を行い、年に一度、冬の来る前にのみオスを産み、有性生殖を行うそうです。
ハカセは何をそんなにと思うほどアリマキに感情移入し、ひたすらにメスを称揚してみせます。
母は自分にそっくりの美しい娘を産み、やがてその娘は成長すると女の子を産む。生命は上から下へまっすぐに伸びる縦糸のごとく、女性だけによって紡がれていた。それぞれの縦糸を担う女性は自分たちの姿かたちに尊厳と誇りを持っていた。
アリマキにここまでの萌えを託した文章を、ぼくはいまだかつて読んだことがありません。
周知の通り、自然科学とは目の前にある客観的事実に主観的な「寓意」を恣意的に見て取り、更に政治的な色彩をまとわせる学問であります。自然科学の一部門である生物学が動物さんを擬人化し、そこに「寓意」を読み取るのは当たり前のことなのです。イソップが自然科学の開祖とされているのはそのためです。
さて、ならばどうしてここまでも美しい「百合萌え」の世界に、男などという美しくもないできそこないの存在が生まれてきてしまったのでしょうか。
アリマキのような弱い生き物は数で勝負する必要がある、だから普段は「量産型」をクローンとして産み出し、環境が厳しい時にはそれに耐え得るパワーアップを期して、有性生殖でDNAを混ぜあわせて「新製品の開発」を行うわけですね(これはハカセの本においても同様の説明がなされています)。
ガンダム的に解釈すると「そういや大体量産型って弱いよな」「新型って強いよな」ということになるでしょうか。「男の役割は窮地におけるブレイクスルーである、即ち男の方がエラいのだ」と考えることもできそうです。
しかしそれを口にしては、大変に怒られてしまいます。
また、「男というのは本来少数派でいい、そいつが多数の女と生殖するのが正しい」という生物学的な本質から考えると(いや、これはハカセがそう言っているだけでフィッシャーの原理では否定されているのですが)「なるほど、ハーレム漫画は正しいんだね」という気がしますが、生物学者たちは何故かその種の「擬人化」には極めて消極的です。
それをすると大変に怒られてしまうからです。
自然科学者にとって何より大事なのは「政治的見極め」なのです。
極めて周到に政治的配慮のなされた本書が、ベストセラーになるのは当然ですね。
確か「本屋が選ぶ今年の新書ベストテン」みたいな本でも、本書は一位になっておりました。本書が「俗に徹して売り上げを伸ばした」などという志の低い商品ではなく、知的エリートたる「本読み」たちの厳しい批評眼を潜り抜けた極めて優良な名著であることは、疑うべくもありません(とは言え、その本での得票数って七票とか、そんな数だったんですよね。今から考えると随分奇妙だけど、ぼくの記憶違いでしょうか……?)。
事実、AMAZONのレビューにおいても、本書の「美しい文章」に対しての惜しみない賞賛の声がひたすらに並べられておりました。美文家のイソップを祖とする学問の要諦が、文章の美しさにあるのは自明の理です。
――さて、ここまで自然科学を貶めておいてナンですが、福岡ハカセは決して、正統派の科学者というわけではありません。ライアル・ワトソンをリスペクトしていたり、専門分野においても初歩的なミスをしていたりと、「トンデモ」方面の人と言っていいようです。
この点については「liber studiorum」が参考になります(「大人の事情?」「福岡ハカセの恥ずかしい間違い」など)。また、ぼくが上に書いた「言い方次第で男がエラいとも女がエラいとも言えるじゃん!」論は「第二の性(1)」において更に詳しいツッコミがなされています。ぼくが書いてみせたような「男の方がエラい」論がかつてはギャグとしてではなくマジで語られ、フェミニストのボーヴォワールがそれに対して反論するという一幕もあったそうです。
が。
上のブログを見ていて、某自称アルファブロガー(笑)様も福岡ハカセ大絶賛のレビューを書いておいでだということに、気づいてしまいましたw
んもう、二度と関わるまいと思ってたのにぃ。
読んでいくと、あぁ、あぁ、何たること、自称アルファブロガー(笑)様もハカセの美文(笑)を誉めちぎっておいででした。
男女は、同権ではない。
女性の方が、上なのだ。
などと誇らしげに絶叫していらっしゃいます。
彼らが本気で、心底からそれを信じているのであれば、論理的帰結として「ならばフェミニストの言っていることは全て嘘ではないか」とか「ならば弱者たる男性をいたわるべきなのではないか」とかいったハナシに、どうしてもならざるを得ないはずなのですが、絶叫することの快感に耽溺する彼らが自らの考えを発展させたことは、今までただの一度もありません。
そんな彼らに対し、例のブログでは
福岡やdankogaiが、嬉々として男の弱さを説く態度の裏には、男の優位を疑わないマッチョな姿が透けて見える。
と極めて手厳しい指摘がなされていますが、さて、それはどうかと、ぼく自身は思います。
こうしたナオン教々徒たちの嬉々とした男性バッシングからぼくが感じるのは、むしろ男全体の優位ではなく他の男たちに対しての自分自身の優位性のアピールだからです。或いは、「他の男たちへのヘイト」と言ってもいいでしょうか*1。
上に書いたように、彼らが「男をいたわろう」と主張しないのは、彼らが「男の優位を疑っていない」からこそだという推論も、確かに可能でしょう。しかし本当に男の優位を疑っていないのであれば、何故ことさら「男は弱者だ」と口走る必要があるのでしょう? 普通に「女は差別されている、男女平等を目指そう」と主張すればいいだけのハナシです。
どのみち彼らの主張には矛盾があり、「欺瞞」があるか「愚鈍」であるかのどちらかであることは間違いないわけですが、ぼくは恐らく前者なのではないか、と考えます。
少なくとも現代社会において、男性を称揚すること、女性を非難することは「政治的に正しくないこと」として厳格に禁止されています。政治的センスに秀でた彼らが女性におもねようとするのは必然なのです。一部のフェミニストに唱和して、正気とは思えない男性への「ヘイトスピーチ」を繰り返す男性が少なからず存在することは、拙著に書いたとおりです。
彼らは(自分たちのしている主張とはまた違った文脈で)女性が強者であり男性が弱者であるという事実に気づいているのでしょう。故に、自らも勝ち組である女性軍へ入りたいと熱望しているのです。それで「女性軍への手土産」として、「男性軍のエラい人の生首」の代わりのつもりで、「女性強い論」を語っているわけなのでしょう。
その意味でぼくは彼らに対して好感を持つことはできませんが、同時に痛々しいものをも、感じずにはおれません。
2008年3月、埼玉県三郷市で「二十歳前半から育児に追われていたので、一人の女として自由になりたい」と称する母親が子供三人を放置し、二男を死なせたという事件が起こりました。
置き去りにされた長男である六歳の少年は一人で幼い妹と弟の面倒をみる羽目に陥り、その挙げ句に弟を餓死させてしまったのですが、彼は「本当に全部ボクが悪い」と母親をかばう供述をしたと伝えられています。
責任の全てを引っ被ろうとしているこの少年に対して、非常に失礼な話になりますが、ぼくにはどうしても、彼らがこの六歳児に被って見えて仕方がないのです。
あくまで仮定の話ですが、この少年がもし「お母さんも、そしてボクも悪くない。悪いのは弟だ」と、一番弱い者に責任を押しつけることで母親を免責しようとしたとしたら。
その振る舞いは、ママの愛を得るために「自分よりも弱い男」に罪を被せようとしている一連の人々と、寸分も違うことはありません。
*1「生命の理解、そして「理解」の理解。」の「福岡伸一氏:「できそこないの男はいばるな」」に書かれていたのですが、福岡ハカセは日経のインタビューを受けて、
「本書で書きたかったことの核心は『いばるな男!』ということです」
とおっしゃっていたそうです。
それを受けてブロガーさんは
「生物的にできそこないなら、いばってはいけない」
という考え方は非常に、非常に危険な考え方ではないでしょうか?
とおっしゃっていますがまさしくそのとおりで、この論法が成り立つなら「障害者は健常者より下だ!」という理屈だってとおりますよね。
つまり本書は、仮に科学知識がゼロであろうと良識を持った人間であれば「?」と感じて当然のものであり、にもかかわらず文化人センセイまでもがこぞってこんな本を絶賛している今の日本は完全に狂っているということなのです。いやまあ小飼弾は元々おかしいのでしょうが。
