兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

宇宙刑事ギャバン THE MOVIE

2012-10-29 00:23:15 | アニメ・コミック・ゲーム

 以下は劇場作品『宇宙刑事ギャバン THE MOVIE』の感想文です。
 目下、兵頭新児のブログはニコニコチャンネルのブロマガ、「
兵頭新児の女災対策的随想」を中心に展開しているのですが、今回、「女災」には何ら関係ないグチが描き並べられています。『まど☆マギ』も、かつての『SH大戦』、『スーパー戦隊199ヒーロー大決戦』も、一応は自説にちょっとでも絡めようとしていましたが、今回はほぼゼロです。
 よって、ニコブロではなくこちらにのみうpすることにしました。こういう二軍っぽい扱いをするのもどうかと思うのですが、あんまり大々的に発表するのもどうかと思いまして。
 さて、上に「愚痴」と書いた通り、評価は非常にネガティブです。
 また、平気でネタバレしまくりますので、どうかその辺をお含み置きの上で、ご覧になってください。

     *     *     *     *

 ひと言で言えば、お粗末な、凡庸な、薄っぺらな、若者三人の三角関係を描く三文芝居に宇宙刑事を無理やり絡ませた話、という感じでしょうか。
 お話は火星探査の途中の事故で行方不明になった主人公・撃が恋人であるヒロインがピンチの時、ギャバンとなって帰ってくるところから始まります。
 この時、「もしや撃?」と考えるヒロインの前から、ギャバンは逃げるように姿を消します。なるほど、恋人には正体を隠しているのか……と思いきや、次のシーンでは普通に再会し、普通に名乗りを上げます。何だったのでしょう。
 また、銀河連邦警察でコム長官に報告するシーンでは二代目シャリバン、シャイダーが失敗した撃に対してにバカにしたような態度を取ります。おいおい、勘弁してくれよ、ライダーバトルに引き続いて宇宙刑事バトルか?
 ――と思ったが、そんなことはなかったぜ。このふたりは以降のドラマには、一切かかわってくることはありません。
 さて、二度目の変身。一度目の変身では一応善戦していたギャバンだが、二度目はラスボス怪人が相手だったという事情があるにせよ、敵が現れた瞬間、生身でバトルすることなく、飛びかかっていっていきなり変身。しかし相手には一撃もくれてやること適わず、惨めに変身を解除され、敗退。そこへジープが現れ初代ギャバン・一条寺烈が助けに入ります。が、盛り上がるべきシーンなのに、演出的にはケレン味ゼロ。また、最初のバトルでも初代ギャバンの加勢が入ったという演出があるのですが、曖昧でどうにも要領を得ないシーンとなっていました。
 烈はふがいない撃をしごくためにどつきまくります。やめたげてよお。ここまで弱い主役ヒーローにギャバンを名乗らせる意味は果たしてあったのか。コム長官が「ギャバンの名を汚すな」と心配するのもムリはありません。
 魔空空間に取り込まれる烈、撃。この魔空空間のシーンは大変によかったです。演出、両者のアクション共に見応え充分でした。できれば「幻? 影? 魔空都市」みたいに全編をこれで突っ走っていってくれていたら……。
 とは言え、ラストバトルに期待が高まってきます。
 そもそもテレビシリーズ『ギャバン』において、魔空空間というのは変身前の烈を幻惑させる、新宿の町や時代劇のセットなどをカット割りで次々にワープさせていくという演出で表現されるもの(今回の映画で十二分に表現されていたのも、まさにこれ)と、変身後のギャバンがモンスターと戦う時の、採石場やセット、マットアートで表現されるものと、二種ありました。後者が(当時のことですから、さすがにショボかったものを)現代の技術、映画の予算でどう表現されるか楽しみにしていたのですが、
そんなことはなかったぜ
 ラストバトル。
 烈と撃は敵の怪人一体の前でゆっくり蒸着ポーズを取り、変身し、ふたりがかりで殴りかかります。
 そもそもが宇宙刑事の変身は「大勢の戦闘員相手の大乱戦」→「光球化」→「高見まで飛翔し、名乗り」→「ナレーションによる変身解説、再現」という流れこそが醍醐味だったのですが、そこの再現をご丁寧にカットしているのです。考えると『ヒカルオン』もここだけ外していた気がします(何故だ?)。
 一方、シャリバン、シャイダーも味方のピンチを救うために何の伏線もなく出現。洞窟みたいなところに人間体ですっと現れ、ふたりでゆっくり変身ポーズを取り、洞窟からは一歩も出ることなく幹部怪人をやっつけて終わり。これなら『レッツゴーライダーキック』のキカイダーたちの方がよっぽどマシでしたわ。
 一方、ギャバンも最後まで魔空空間に突入することなく、敵怪人を倒して終わり。
 ストーリー的には最後の最後まで上の三人の話。
 一応、敵はマクーの残党と語られ、マクーの再興を目論んでいたらしいのだが(女怪人が魔女キバ一族の末裔らしいが、魔女キバ一族って……)、スケール感はゼロ。
 要は三角関係のひとりが闇落ちしてマクーの幹部となるが、ギャバンに倒され、死の間際に唐突に良心を取り戻す
、という大変感動的なお話です。何の意味もなく改心して死んでいく辺り、「まあ、段取りとしてそうでしょうなあ」と思うばかりで、腹立ちすら感じることができなかったということが、映画のクオリティを象徴していたように思います。
 普通、こういう時には(最終的には三角関係に話が集約されるにせよ)マクーが再始動して『シャイダー』一話のフーマのように全銀河に侵攻して……とかそういうのを期待するものです。そうした作品世界の広がりがあれば、唐突に出て来た主役三人組も、「あの宇宙刑事の守った宇宙で平和に暮らしていた若者」として、血を通った存在として描くことができるはずです。脚本家さんはイベントか何かで「三角関係のプロットを最初から提示されていた」と語ったそうですが、「三角関係だから」ダメだったのではなく、話が最初から最後まで「三角関係に閉じていたから」ダメだったのです。この辺、どうにでもできたはずです。
『宇宙刑事』は軽薄短小の80年代に、周囲に嘲笑われつつも「熱血」「正義」を描いていたドラマだったのですが、どうやらここへ来て、「セカイ系」へと、ようやっと世間のトレンド()に追いつくことができたようです。
 後、一般的に知名度のあるらしいタレントが冒頭でキモ男を演じてたが、あれ何だったんだろう? 意味ねーし。
 役者さんに関して言えば、撃の人、ヘンにイケメンの必要もないけど、二枚目とは言い難いし、大葉健二さんのような魅力があるでもないし、何より声がダメでした。変身もので決め技とかのかけ声がダメなやつは致命的です。
 それはシャリバンも同様。こっちはちょっと渡さんを思わせなくもない二枚目だったんですけどねー。
 つまり抑えるべきツボを全て外し、でき上がったのが今回の映画と言えましょう。
 まさに、トンカツの入っていないトンカツ弁当。

 当たり前だけど、スーツの造形とかは文句のつけようがないものでした。
 新ギャバンもヘンにデザインを変えず、マイナーチェンジに留めておいたのは正解だったと思います。ただ、胸の電飾部分はもっとビカビカ光らせるべきだったと思うけど。
 が、その新ギャバンと旧ギャバンがふたりで立ち回りするのはやっぱり「う~ん」と思っちゃいました。逆にスーツをデザインは全くいっしょだけど、金にしてしまうとか。今の技術ならカッコいい金のスーツも可能でしょうし。そもそもギャバンは本名なわけで、それを襲名するのは二代目麻宮サキくらいヘン。
 或いは、上とは全く違った意見になりますが、やはり『宇宙刑事 The MOVIE』にして、撃はあくまで全く今までと違った新刑事にすべきだったんではないでしょうか。当時から「黒い宇宙刑事」「グリーンの宇宙刑事」などを見るのはファンの夢だったんですから。

 

ブログランキング【くつろぐ】 

 

にほんブログ村 本ブログへ 

 

人気ブログランキングへ


魔法少女まどか☆マギカ

2012-10-28 20:34:08 | アニメ・コミック・ゲーム

 以下はニコニコチャンネルのブロマガ、兵頭新児の女災対策的随想において既にアップされた記事です。目下、兵頭新児は活動の軸足をそっちに移そうかと考えているのですが、或いはアカウントを持っていてそちらを見られない方もいらっしゃるかもと思い、こちらにもアップしてみることにしました。

 こちらを完全に廃墟にしてしまうのも何だか寂しいので。

 文章自体は変わらないので、一度お読みになった方は、再読される必要はありません。

     *     *     *     *

 

「もう、サリーちゃんもララベルも、そんなことに魔法を使わなかったでしょ!?」


 ……でしたっけか?
 いえ、もう二十五年ほどの昔、アニメ雑誌『アニメック』の投書コーナーに載っていた一文を、
うろ覚えで引用してみたりしました。
 それにしてもさすがに『まど☆マギ』です。
 前回はものすごい食いつきぶりに結構驚きました。
 何しろ一時期、ブログランキングのベスト10入りも果たしたくらいです。
 いや、その人気ぶりの割に、何故か運営側からは無視を決め込まれていましたが。
 とは言え味を占めたので、『まど☆マギ』でもうひとネタやらせていただこうかと。

 

 さて、上に引用したのは当時放映を開始したばかりの魔法少女アニメ『魔法の天使クリィミーマミ』についての、かなり酷烈な批判であったと記憶します。
 確かに、そうなのです。
「魔法少女」の歴史は、横山光輝の『魔法使いサニー』を原作とする『サリー』を、東映が制作したことに始まりました。『サリー』に端を発する60年代から70年代の魔法少女たちは、ウルトラマンや仮面ライダー、マジンガーZが悪者相手に戦っていたように、基本は人助けのために魔法を使っていました。
 しかし一時期その伝統は途絶え、80年代に当時、新興勢力であったアニメ会社、スタジオぴえろが制作したのが『マミ』でした。ところがマミは魔法の力で変身して何をするかと言えば、アイドル歌手になって歌うだけ。恐らく今、じっくり見返してみればそれなりに人助けをする話などもあるんだろうなとも思うのですが、いずれにせよ魔法をあまり深く考えずに私物化していたことは事実で、上の投書の人物はそうしたことに憤っていたわけです。
 こうした魔法を私物化するようなエゴイズムを、当時のオタクたちは
「マミる」と表現して批判していました。ウソです。上の投書の人物が例外的なだけであって、『マミ』は快哉をもって迎えられていました。
 しかしそうした風潮は、志が低くてケシカラン。
 藤子・F・不二雄の名作、『エスパー魔美』において、高畑さんが魔美に言った「大きな力を持つものは大きな責任をも背負うのだ」との言葉を思い起こします。魔美のように人々のために自らの力を使う清廉さを、当時のオタクたちは
「マミる」と表現して賞賛していました。ウソです。『魔美』はアニメ版では最初は頑張ってたけど、だんだん何だか普通の学園ものみたくなっていきました。
 とは言え、80年代は男の子たちもそうそう迷いなく正義を遂行することは、できにくくなっていた時期です。『ガンダム』を筆頭とするそうした「勧善懲悪」を超えた世界観、ストーリー性をもったロボットアニメは(従来の正義や熱血といった価値観に貫かれていた「スーパー系」の作品と対比して)「リアル系」と呼ばれます。
 つまり、ぴえろの魔法少女たちは、東映の魔法少女をスーパー系とするならば、言わばリアル系魔法少女と言えるわけです。
 ただ、とは言え、魔法の私物化という志の低さ自体は否定できないような気がしますし、故に彼女らが最終回、「与えられた魔法を返し、自分の力でやってみる」という「答え」を見出してきたことは象徴的だとも言えます。その意味でぴえろ魔法少女は「魔法」が自らと向きあうツールとしてのみ機能している、言わば「セカイ系」を先取りした作品群であった、とも言えるでしょうか。
 ちょっと経緯をまとめましょう。
 60~70年代は東映魔法少女もマジンガーZや仮面ライダーと同じく、「スーパー系」でした。そこでは魔法の力や正義の力がキャラクターたちの内面と齟齬を生じさせることは、なかったのです(むろん、『ウルトラセブン』における「ノンマルトの使者」のような例外はいくらもありますが)。
 80年代、男の子たちはリアル系の世界に突入し、「何故ガンダムに乗るのか」について悩み出しました。自らの力と内面とに齟齬が生じだしたのです。もっとも、女の子にはそこまでの悩みはありませんでした。彼女らがセカイ系という環境に身を置けたのは、やはり少女というのが「社会に組み込まれない」存在であったがためでしょう。
 90年代、『エヴァ』が言わば魔法少女に遅れる形でセカイ系というジャンルに参入してきます。それは言ってみれば「ひきこもり」のようなもので、社会に出ても何もいいことがないとわかってしまった男の子たちが、女の子のマネをし出した、ということでもありました。
 上の投書の人物が『エヴァ』を見たら、「シンジはエヴァの力を正義のために使おうとしないから許せん」と言うかも知れませんね。

 

 さて、ところが、です。
「戦うことの意義を問う」というテーマに真正面から取り組んだ作品として、『まど☆マギ』はぼくたちの前に姿を現しました。
 いえ、上に挙げた魔法少女たちと異なり、まどかたちは明確に「戦闘」する、『セーラームーン』や『プリキュア』の直系と呼べる作品です。本来ならこれら二作品についても言及するのがスジなのでしょうが、『セラムン』はある種「正義のスーパーヒーロー」物のパロディという側面が色濃く、また『プリキュア』はむしろ「東映魔法少女」の正当後継者たる「スーパー系」の存在と言うことで、ひとまずここでは置きます。
 ぼくが指摘したいのは、『まど☆マギ』は『エヴァ』的なセカイ系っぽさを持っていながら――いや、『エヴァ』後半の鬱展開が半ばアクシデントのようなものだったのに対し、本作では緻密な計算の上で近いことがなされたわけだから、本作のスタッフたちは
庵野以上に悪質とも、庵野より天才とも言えますが――あくまで悩み傷つきながらも「魔女を倒す」という正義に葛藤し続ける、言わば少女物初の「リアル系作品」である、と言いたいのです。
 では何故、2011年にこのような作品が誕生し得たのか。
 80年代の魔法少女の「セカイ系」ぶりを、ぼくは少女というのが「社会に組み込まれない」存在であったがためだ、と書きました。
 しかし(まさに80年代であったならともかく)現代の日本において、少女たちもやがては成長し、社会に出て働かなければならない存在となりました。別に専業主婦に収まってもよさそうなものですが、何故だか今の世の中では社会で働くことが絶対の正義であり、それに疑問を持つことは許されなくなったのです。
『まど☆マギ』の世界においてもそれは同様です。
 まどかのお母さんは「バリキャリ」であり(劇中で実際にそう呼ばれる)充実した毎日を送っているようですが、旦那が主夫で女ながら一家の大黒柱――という設定は、言ってはナンですが、「魔法少女」という設定以上に非現実的です。勘違いしないでいただきたいのですが、ぼくの言っていることは「日本はホモソーシャルで女性差別なので女性の管理職は少ない」といったことでは
ありません。「主夫を養って稼ぎ頭になる」という意志を持った女性など皆無に等しい、と言っているのです。
 まどかの担任の早乙女先生はいつもいつも男性にふられ、そのグチを生徒に零している存在です。彼女もまた、「戦いの意義」に葛藤する「魔法少女」であり、また人を呪わずにおれない「魔女」なのかも知れません。
 キュゥべえをブラック企業のスカウトマンに準える批評はネット上では普通に見られますが、だとしたら彼は「少女の魔女化」という目的のために、きっとこの数十年をかけてマジンガーを倒し、ガンダムを倒し、エヴァを引き籠もらせ、その一方ではセーラームーンやプリキュアたちの姿を見せることで戦いの凄惨さを隠蔽し、少女をムリからに戦いの場に呼び寄せる罠を張り続けてきたのです。
 男の子たちですら価値を見出せなくなった戦いの場へと、女の子たちを駆り立てようと、し続けたのです。
 となると、彼らインキュベーターたちの真の目的は、真の正体は、一体何だったのでしょうか……?

 

 とは言え、重要なのはまどかが最後まで「正義」について悩み続けた点です。
 クリィミーマミのように魔法を私物化することもなく、エヴァのように戦いを放棄して引き籠もってしまうこともなく、悩み続け、そして答えを出した点です。
 岡田斗司夫さんは最近のニコ生で本作を「ほむらをまどかだけを守ろうとするキャラとして設定することで視聴者をミスリードし、そこへまどかの出した答えで一挙に視点をパラダイムシフトさせ、そうして感動させる構造になっている」といった主旨の分析をしていました(「
【岡田斗司夫のブロマガ号外】「まどか☆マギカ劇場版」を金払って観たから言いたいこと言うよ!」記憶だけで書いているので、細部は違うかも知れませんが……)。
 言わば袋小路に陥り、「私とまどかだけのセカイ系の世界」から出られなくなってしまったほむらちゃんを、まどかちゃんは最終回、もっと大きな心で救い、そうしてこう言ったのです。
「正義も、世界も、あるんだよ」と――。

 

 ――はい、以上、『まど☆マギ』評でした。
 前回の記事読んでムカついた方は、以下は読まない方がいーですよ。

 

 さて、言ってみれば『まど☆マギ』って「正義の復権だよね」というのが上のお話でした。それは「個人のエゴばかり通さずみんなのことも考えよーぜ」とも、言い換えられるかと思います。
 しかし、例の劇場版の騒動において、エゴイスティックなリベラリズムを振りかざすリベラリストの影が、見え隠れしました。
 前回の記事で書いたことについて、ぼくの意見は全く変わっていません。
『まどか☆マギカ』は一時期、「OP詐欺」などと呼ばれていました。
 何しろOPではほのぼのアニメを連想させる可愛らしい絵が続きますし、本編もそれこそ3話で「マミる」直前まで、視聴者を騙し続けます。
 これについては詳細な評論がいくらでも既になされていることでしょうが、3話までの本作においてはキャラクターたちが「キャラ立ち」「萌え」「私の嫁」といった「オタク用語」を連発します。恐らく「凡庸な、萌えアニメ」としての体裁を意図的にまとわせたのではないでしょうか。
 また、マミの戦闘シーンはまさにプリキュア的な快感に満ちたものであり、BGM、演出などからして明らかに視聴者を「騙しに」来ています(これはちょっと自信がないけれども、戦いの時に呪文というかかけ声があるのってマミさんだけじゃないかなあ?)。

 

 

 みんな騙されてただけじゃない!!

 

 騙すという行為自体、ぼくたちには理解できない。認識の相違から生じた判断ミスを後悔する時、何故か人間は他者を憎悪するんだよね。

 

 あなたの言ってること、ついていけない……。

 

 いえ、作品として視聴者を「騙す」こと自体は別に悪いことではありません。
 これら「詐欺」は「大きなお友だち」には快い裏切りであり、これら要素が本作を名作にしたことは疑い得ません。
 が、子供に見せていいか、となるとやはり話は別でしょう。
 実のところぼくも放映当時、いきなり
下調べをせずに7話、8話辺りを見たのですが、やはりちょっと悪趣味だなあと感じ、視聴をストップしてしまったという経緯があります。
 いや、しかし今回ぼくが言いたいのは、ぼくたちが今、現実の世界でもキュゥべえに騙されつつあるのではないか、ということです。
 最後にちょっと、最近見聞した「本件と極めて近い事例」について書いておきましょう。
 詳しくは「
うぐいすリボン 堺市立図書館BL小説廃棄要求事件を振り返る」をごらんになってください。
 経緯について掻い摘んで説明しますと、市立図書館がBL小説を大量に所蔵し、小学生にでも借りられるような状況になっていたため、廃棄しようとしたところをフェミニストが「ゲイへの差別だ」と抗議をしたという事件です(以前、旧ブログ「
兵頭新児の女災対策的読書 今さら堺市立図書館BL本問題」でも採り上げたことがあります)。
 BLなんて子供に読ませるものではないですし、また市立図書館に置くようなものでもありません。それにゲイ差別、表現の自由の侵害、と言い立てて噛みつく神経がまずわからないのですが、上に挙げたブログでは上野千鶴子師匠の発言を挙げ、

 

 

「イマジネーションを規制してはならない」

 

「フェミニズムは敵ではありません」
と、ジェンダーの話題を怖がるオタクたちへのメッセージを、印象的な言葉で、明快に語ってくださいました

 

 などと書かれています。
 いや、オタクが怖がっているのはフェミニストたちの欺瞞の方だと思いますけれど。
 そもそも「ミソジニー」などといった言葉でイマジネーションの規制を執拗に続けているのはフェミニストの方でしょう。
 また、昨今、フェミニストたちは左派の運動と連携を取るためか、「表現の自由」を掲げ、「ポルノ容認派」を自称するようになってきました。
 しかしそんな彼女ら、例えば上に名の挙がっている上野師匠も著作を見てみればポルノを平然と否定しているんですね。
 結局、フェミニストの発言など一切信頼はおけない、ということです。
(これらについては長くなるので、次回にでも詳述しましょう)

 

「子供向けとも言えないアニメを劇場公開するのだから、注意書きを張り出した方がいいのでは」との意見に、表現の自由を重んじるリベラリストたちは「下調べをしてこい」というよくわからない責務を強いました。
 そしてまた、「ゲイへの差別はならん」と主張するフェミニストたちは、それを際限なく拡大させ、「ホモフォビアはまかりならん」と、人の感情への侵犯を平然と行います。
 そうした人たちに欠けているのは、「A君とB君の権利は、常にバッティングし得る」という当たり前のことに対する認識です。

 

 

 誰かの自由を祈った分、他の誰かの自由を阻まずにはいられない。
 私たちリベラリストってそういう仕組みだったんだね。
 私って……ホント、バカ……。

 

 

ブログランキング【くつろぐ】 

 

にほんブログ村 本ブログへ 

 

人気ブログランキングへ


劇場版『魔法少女まどか☆マギカ』

2012-10-26 01:09:13 | アニメ・コミック・ゲーム

 以下はニコニコチャンネルのブロマガ、兵頭新児の女災対策的随想において既にアップされた記事です。目下、兵頭新児は活動の軸足をそっちに移そうかと考えているのですが、或いはアカウントを持っていてそちらを見られない方もいらっしゃるかもと思い、こちらにもアップしてみることにしました。

 こちらを完全に廃墟にしてしまうのも何だか寂しいので。

 文章自体は変わらないので、一度お読みになった方は、再読される必要はありません。

     *     *     *     *

 参った……。
 ブログ記事二回目にして、「女災」と直接関係ないテーマになってしまいました。
 今回は劇場版『まどか☆マギカ』について。
 というよりは、それにまつわる騒動についてですね。
 くどくど書くのも面倒なのですが、掻い摘んで説明すると、要はマニア向けの深夜アニメが劇場版となった、それを見た子供がショックを受けていた、という目撃談がツイートされ、それに過剰反応する者が大勢出た、というお話です。
『魔法少女まどか☆マギカ』は見ればわかるように可愛らしいタッチのキャラクターデザインですが、しかしその内容は非常に凄惨なもの。可愛いキャラでシリアスなことをやるというある意味「不意打ち」が、マニア層に衝撃を与え、話題作となったわけです。この「不意打ち」という戦略が一種、確信犯的に採られたことについては恐らく、マニア間でもコンセンサスとして認められているのではないかと思います。そうした作品が、深夜放映している分には問題はなかったものの、劇場版となったがために問題が露呈したというハナシです。
 近年の『ひぐらし』などは問題視されたとは言え、一応、その時の受け手は本来のターゲットである中高生でした。しかし今回は「子供が知らずに見てしまった」、或いはそうなる可能性が充分に想定できる、というものです。例えば『セーラームーン』のエロ同人誌が普通の書店に並べられるとか、古くはいわゆるオタク系の美少女エロ漫画を子供が間違って買ってしまったとか、「萌え系」と呼ばれる文化はこの種の問題をずっとはらみ続けて、しかしそれをしつこくしつこく
華麗にスルーし続けてきたわけです。

 普通に考えて、こんなものは子供に見せるべきではないし、そうしたものを劇場公開する以上、作り手は多少なりとも考えておくべきだったでしょう。
『ゴジラ』が『とっとこハム太郎』と併映した時、映画館には「『ゴジラ』は怖い映画なので子供に見せる時は注意して云々」といった注意書きが貼られました。『ゴジラ』についてはむしろ「そんなに怖いかなあ?」というのがぼくの個人的な印象なのですが、とは言え、対策としては非常に行き届いていて好ましいものであったと思います。
 しかしこうしたことにガマンがならない層がおいでのようで、ツイッター上でも
論争が起きました
 一部の人たちは今回の騒動に拒否感を示し、「そんな子供などいなかったに決まっている」といった根拠のない願望を押し通したり、「下調べをせずに見に来るヤツが悪い(見に来るヤツがいるはずがない)」などと詰ってみたり、「子供にはこの話を理解するだけの力がある」という意味のない反論(別にお話が難解だ、ということは問題にされていないのですが)をしてみたり、「不意打ちのどこが悪い」といった居直りをしたりで、本件を「スルー」しようとしていました。
 そうした人たち(問題なし派)が本件を問題視する人を「規制派」と呼んだり、或いはまとめの「みんなのおすすめ商品」に『有害コミック撲滅!――アメリカを変えた50年代「悪書」狩り』が配置されたりしているのを見ると、彼らの本心が仄見えてきます。
 つまり、彼ら彼女らは『まどマギ』によって傷つけられた幼い少女、或いはそれに反応する人々に「コミック規制派」であったり「オタク差別者」であったりの影を見ているのでしょう。
 この映画を規制せよ、上映中止にせよなどと言っている者など、少なくとも上のまとめを見る限りは
ただの一人もいないのに。また、その少女が実在かどうかについても、少なくとも「証拠もなくいたのだと決めつける」意見などは、ぼくの記憶する限りなかったように思います。むろん、ぼくの知らない場でそうしたやり取りがあった可能性は否定しませんが、上のまとめを見る限りでは、過剰でヒステリックなのは問題なし派の方だと言って間違いがないでしょう。

 

 上にも書いたように彼らは「下調べもしないヤツが悪い」と言い張るのですが、ポスターを一見して、ましてや小さな子供やその親御さんであれば本作をまず、『プリキュア』などの延長線で考えるでしょう。
 それが入ってみるや美少女キャラクターの首が飛ぶとか、美少女キャラクターが「私、ゾンビになっちゃったから好きな男の子とはつきあえない」と絶叫するとか、そんなものを観せられたらどんな気分になるか。

 

 

 ダメだよ、こんなの絶対におかしいよ!

 

 

 

 非道いよ、こんなのあんまりだよ!

 

 上に書いたような「注意書き」の一つもあれば間違って観る者も減り、また嫌な言い方ではあるけれども作り手や上映館の責任も回避でき、いいこと尽くめではないかと思うのですが、彼らはそれがどうしても許せないようです。まとめ人の有村悠師匠自身、「ゾーニングまかりならん論」の主なのですが、こうした規制に反対し、表現の自由を標榜する「リベラリスト」たちは、どうしたわけかそうした「住み分け」が絶対に許すことのできない蛮行だと、どういうわけか考えている比率が大変に高いようです。
 コミック規制の問題でも、話していくと彼らは非常に頻繁に「子供にエロ漫画を見せることの何が悪い、ゾーニングは認めぬ」といった主張をします。
 彼ら彼女らにとっては子供の心理よりも、遙かに「表現の自由」が大事なのでしょう。その「表現の自由」とは、上にも見た通り、他人の意見から耳を塞いだところでのみ、成立するものなのですが。
 まあ、他人様のガキの心の痛みなんざ、どうでもいいですからなあ。

 

 

 ねえ、この世界って守る価値あるの? 私何のために戦ってたの? 教えてよ。今すぐあんたが教えてよ?

 

 ちょっと余談になりますが、この種の議論の時に出てくる「ガキもこうしたトラウマを受けて成長するのだ」論を一種の「シゴキに耐えてこそ男は成長する」と言った類の精神論のバリアントだ、として批判している人がおり、それは大変面白いと感じました。なるほど、彼らリベラリストはそうしたマチズモを狂ったように批判してきたにもかかわらず、自分にとって都合のいい時ばかりマッチョなことを平然と言い出すというのは、当たっているように思います。

 

 

 ふふふ……ふふふ! うっふふふ! 本当だ! その気になれば痛みなんて! あはは、あはは! 簡単に消しちゃえるんだ!!

 

 上の「ゾーニングまかりならん論」を見てもわかる通り、大変不思議なことですが、「リベラリスト」を持って任じる方々はどういうわけか、他人の権利については一切考えないという性向を持っている場合が、大変に多い。後藤和智師匠しかり、高橋直樹師匠しかり。
 そしてまた
公立の図書館で小学生にでもBL本が借りられる状態になっていたことが問題視された時、「BL本排除はホモ差別だ!」と絶叫したフェミニストしかり、任意の表現に「ミソジニーだ」とのレッテルを貼ることに躍起になるフェミニストしかりです(やっとちょっとだけ絡めることができました)。
 残念なことですが、オタク界にもそうしたご立派なリベラリストが増えてきた。てか、意見を言える立場にいるのって、そうした人たちばかりのように、ぼくには思われます。何しろ、そうした学閥だの何だのに与さないことには、偉くなれませんからなあ。

 

 

 ぼくと契約して、リベラリストになってよ!!

 

 自由なんてそもそも他人のそれとバッティングすることが多いのは自明の理であり、ぼくたちの自由よりも「リベラリズム」という正義の心を持った者の自由こそが優先されるのは、彼らにしてみれば当たり前のことなのでしょう(リベラリスト同士の同士討ちの場合はどうなるのか知りませんが、まあグリーフシードを多く得た者の方が強いとか何とか、恐らく彼らだけにわかるルールがいろいろとあるのでしょう)。

 

 

 この国では成長途中の文化のことをサブカルチャーって呼ぶんだろ? だったら、やがてファシストになる君たちのことはサブカルファシストと呼ぶべきだよね。

 最後にもう一つ、テーマを「女災」と絡めて結論めいたことを書いておきましょう。
 結局、A君とB君の「自由」がバッティングするのが自明である以上、「自由主義」という名の美辞麗句の中には既に「尊重されるべき自由/尊重されない自由」という価値判断が内包されていると考えざるを得ないわけです。それは「差別」という言葉の中に、実は既に差別性が内包されていることが、「ミソジニー」という言葉で明らかになったのと、全く同じに。


 

ブログランキング【くつろぐ】 

 

にほんブログ村 本ブログへ 

 

人気ブログランキングへ


ぼくたちの女災社会

2012-10-17 00:39:51 | レビュー

 以下はニコニコチャンネルのブロマガ、兵頭新児の女災対策的随想において既にアップされた記事です。目下、兵頭新児は活動の軸足をそっちに移そうかと考えているのですが、或いはアカウントを持っていてそちらを見られない方もいらっしゃるかもと思い、こちらにもアップしてみることにしました。

 こちらを完全に廃墟にしてしまうのも何だか寂しいので。

 文章自体は変わらないので、一度お読みになった方は、再読される必要はありません。

     *     *     *     *

 どうも、女災問題の第一人者・兵頭新児です。
 いや、「
女災」って言葉自体、ぼくが勝手に言ってることなんで自動的に第一人者になるのは当たり前なんですけどね。
 三年ほど前、世に蔓延する「女災」を看過できず、ぼくは(兵頭名義としては)処女作、『ぼくたちの女災社会』を著しました。
「女災」とは「女性災害」の略。
 男女のジェンダーバイアス()に起因する、男性が女性から被る災いを、「女災」と呼ぶのです。
 いや、上にも書いたようにぼくが勝手に言ってることに過ぎないんですが。
 ――が、本書は最近、ぼくもあずかり知らぬまま絶版となりました。
 そのほとんどは、既に廃棄されているようです。
電子版はまだあるので買ってね)
 倉庫移転とかいろいろ事情はあったようなのですが、要するに売れなかったんですな。
「どうしてだろう? 『嫌韓流』くらいに売れてもいいのに」とおっしゃってくださった方もいました。
 確かにその通りです。
 あの本に書かれた韓国に対しての批判にどれだけの正当性があるのかを、ぼくは知りません。しかし「社会ではタブーとされ、今までであれば決して表には立ち現れなかったが、ネット時代になって可視化され、大衆の多くが共有していた本音」、そうしたネット発の本音が書籍という形になることで(具体的な部数とかは知りませんが)ベストセラーになった、という経緯については間違いがないでしょう。
 同様に女性優遇社会への不満は、ネットには満ち溢れているのだから、こっちだって売れてくれたっていいだろう。
 正直、ぼくもそう思います。
 が、やはりぼくの実感としても、本書は読まれたとはあまり思えない。
 本書を読むことなくあちこちに悪口を言いふらしていた文化人()も幾人かおりましたが、まあそれは、そういうものなのでしょう。そもそもそうした人たちは「ミソジニー」といった言葉を捻り出して、「女性への批判自体が絶対に許されざることなのだ」と真顔で主張するほどの徹底したファシストであり、本の内実をわざわざ云々するような誠実さは最初から持ちあわせてはおりません。
 が、正直、本来であれば「ぼくの味方」である人たちにも、本書を読んでくれた人たちは大変に少なかったのではないか。
 それこそが、『女災社会』の敗因だったのではないか。
 今回は、第一回を記念しまして、それを分析する体を取って、愚痴、不満、恨み、妬み、嫉み、僻みの感情を吐露してみようかと。
 
みなさん、ご愛読いただければ幸いです。 

 ――さて、とは言え、いくつかのサイトでは本書を好意的に紹介していただきました。
 そこでは「男性差別に悩む方にお勧め」「本書では男性差別を女災と称し云々」といった紹介をしてくださったように記憶しています。
 が、これはときどき言っていることなのですが、ぼくは「男性差別」という言葉があまり好きではないのです。
 むろん議論の際、わかりやすさを優先して取り敢えずこの言葉に乗っかることもありますし、「ではお前はこの世に男性差別はないというのか」と聞かれたら恐らく「ある」と答えることでしょうが、言葉としてはあまり好ましく思わない。
 何となれば、「差別」という価値観の体系の上に乗っかっていては、いつまで経ってもこの問題は解決できない、と考えるからです。

 

 さて、ここで今更「ココロコネクト」問題です。
 詳細についてはぼくよりも皆さんの方が遙かによくご存じでしょうから、省略させていただきますが、ぼくがこの問題に引っかかりを感じたのは岡田斗司夫さんがニコ生で採り上げていたことがきっかけです(
岡田斗司夫ゼミ「タブー完全無視の一問一答地獄」~ブロマガから領土問題まで~)。
「芸能界はパワハラOKだろ」と、岡田さんはおっしゃっていました。
 それは頷けないけれども、現実問題としてそうだろうと思います。
 岡田さんは「パワーバランスの読み違いだ」ともおっしゃっていました。「このドッキリを仕掛けられたのがお笑いタレントであれば美味しかったろう」「或いはもうちょっと売れてない若手の声優であったなら、役がもらえて美味しかったのではないか」とも。
 つまり、微妙な「さじ加減」の問題だったというわけです。
 ぼくもその考えに賛成します。
 彼はこの問題を「そこまで騒ぐ問題ではない」と言っていたし、ぼくもまた、ある意味そう思います。というのは「これより非道いけれども表に出せないケース」は無限にあるに決まっているからです。岡田さんの考える「役がもらえて美味しかったケース」も恐らく無限にありますし、そうした事例と全く線対称の、「話題にならず役ももらえず、しかし干されるのでツイッターでもつぶやけず」という最悪のケースだって、恐らく珍しくはないはずだからです。
 勘違いしないでいただきたいのですが、ぼくは「もっと非道い目に遭ってるやつに比べれば大したことがない、ガマンしろ」と言っているわけではありません。ただ、さじ加減が微妙なケースであった、後耳かき一杯だけ砂糖を入れていれば美味しくいただけたのに、と言っているのです。岡田さんの本意もまた、そうしたものでしょう。

 

 本件は「パワハラ」問題です。
 が、この「パワハラ」に「セクハラ」を代入すれば、ぼくの立ち位置が明快になるのではないかと思います。
 セクハラというのも本来は労働の場での、上下関係を盾にとってなされる不当な行動のことであり、実は完全にパワハラの一カテゴリと言っていいものでした。
 しかしこの上下関係というものは、少なくとも資本主義社会においてはなくては困るものであって、それをなくしてしまおうというのは無意味な空論であると、普通の人であれば考えるところだと思います。
 そうなるとパワハラの全くない社会というのもまた、極めて空想的です。つきつめれば上司のあらゆる言動をパワハラであると言えなくはないのですから。
「ぼくたちはパワハラがある社会に生きている」「しかしなるべく行き過ぎはなくそう」そう考えた方が前向きでしょう。
 しかし――ここからが本題なのですが――フェミニズムは男女関係における問題を、性差の全てを「リセット」することで解決しようと企てました。彼女らは男女のジェンダーは後天的なものであり、なくしてしまえるもの、なくしてしまうべきものと考え、「ジェンダーフリー」を唱えました。
 近年、その後天論自体が誤りとわかったのですが、彼女らは特に過ちを認める様子もなく、いまだジェンダーフリーを唱え続けています。いや、ジェンダーが後天的であろうと先天的であろうと、「リセットする」という乱暴な考え方が既に短絡的に過ぎ、とても賛同できるようなものではないのですが。それはちょうど、「パワハラをなくすため、将軍様以外はみな平等な社会体制を作ろう」といった暴論と全く同じ、いやその一万倍くらいは乱暴な机上論です。
 岡田さんはこの種のドッキリを見て微かでも不快感を感じてしまうのは、そこに「上下関係」が見て取れるからだ、とおっしゃっていました。ぼくも随分昔、「ウルトラクイズ」か何かで異常に執拗な若手タレントいじめを見て慄然とした記憶があります(ただしこれもよくわからないままに一部だけを見て、文脈が理解できず笑えなかった……といった可能性も、大いにありますが)。
 しかしぼくたちはまた、例えば時代劇で金さんや黄門様が町人に優しくするような、「上下関係」を快感として感じる回路を持っているということもまた、忘れてはなりません。
 言ってみれば本件は、SMショーで鞭打ちはおkだが浣腸はNGの女性が浣腸プレイを強要された的な、現場としては、個人としては重大な問題だけれども、SMのココロを解しない第三者がずかずか上がり込んでケンケンガクガクするようなものではない微妙な問題であった、と思うのです。
 ぼくがこの問題が異常に拡大したことに対して感じた違和の本質は、恐らくそういうことであり、男女間のトラブルにも全く同じことが言えるように思います(当たり前ですが本件について騒ぐこと、或いは男女間のトラブルについて法整備すること自体が悪いのだ、と言っているわけでは全くありません)。
 いささか遠回りをしましたが、「ココロコネクト問題」が許せないからといって職場に上下関係があること自体は仕方がない。同様に男女間の問題をジェンダーフリーによってリセットするというのも乱暴極まりない話です。
 ぼくたちが考えておかねばならないのは、ぼくたちがそうした磁場の中で生きており、それをまず受け容れた上でのバランスを取るしかない、ということなのです。
 フェミニストは「
男女間のあらゆるセックスは全てレイプである」と考え、それらをなくすためにジェンダーフリーを強行しようとして、支持を失っていきました。
 男性論の世界で大先輩に当たる小浜逸郎さんは名著『男はどこにいるのか』において、フェミニズムを

 

 

 男と女の性的な磁場の本質からその否定的な現れのみを抽象して、そこに政治的意図を新たに塗り込めたところになりたっている。

 

 と表現しました。この一文以上にフェミニズムを的確に言い表した言葉を、ぼくは他に知りません。
 ぼくもまた、「
男女間のあらゆる関係は全て女災」と考えますが(上のフェミニストの「暴論」程度には理のある「極論」だと思います)、しかしそれらをジェンダーフリーでリセットしようとは、考えません。
「男性差別」論壇も一枚岩ではなく、果てしなくフェミニズムに親和的な人々から、ただひたすら「女氏ね!」と言っているだけの人々まで多様なグラデュエーションを描いているのですが、意外や「ジェンダーフリー」的な発想の人が多いように思います。
 フェミニズムに親和的な人々は彼女らのロジックを全く疑いなく鵜呑みにしていますが、女性に敵対的な人々は「あまり深く考えず、とにかく差別は悪だ、平等は善だ、と唱えているうちに、いつの間にかジェンダーフリーに絡め取られてしまった」人が多いという印象を、ぼくは持っています。例えば女性専用車両に反対するうち「男女平等であるべきだから、分けること自体が許せん」という結論に辿り着いてしまった人々。彼らは「男女の車両を、更衣室やトイレのように分けてしまおう」というアイデアには、決して首を縦に振りません。
 手短に、まとめます。
「差別は悪い」と言われたら、それは誰もが否定できない「正義」でしょう。
「平等は正しい」もまた、しかりです。
 しかし「平等=全てがみな同じ」といった考えに囚われると、それはフェミニズムと同じ過ちに陥ってしまう。
「差別」という言葉を聞くと、ぼくが身構えてしまうのは、そんなところが理由です。
 それともうひとつ。
 上に「女性専用車両反対運動」について採り上げました。目下、「男性差別云々」と言うと、どうしてもそうした人たちが一番に目立ってしまっています。
 正直、女性専用車両はぼくにとって「女災」の氷山の、それも小さな小さな一角に過ぎないことなので、彼らがどうしてあそこまでそれにばかりこだわるのかが、どうにも不可解です。
 時折、フェミニストたちが彼らを評し、「女性専用車両のことばかりを騒いでいること自体、それ以外には『男性差別』がないことを証明しているではないか」と言っているのを聞きます。
 ぼくは恐らく彼らは、それに反論する言葉を持たないのではないか、と思っています。
 ぼくたちに必要なのはいきなりわけのわからない運動を始めて、世間の失笑を買う「勇気」ではありません。
 もう少し、状況を抽象化させて、問題の本質が何かを考えてみることです。
「男性差別」は結論です。
「差別は悪い」というのは現代社会では疑うことの許されない「正義」なのですから。
 だから彼らは「男性差別」と唱えた瞬間、「結論は出た」と感じ、「運動」に乗り出してしまったのでしょう。
 しかし現実問題として「男性差別」は世間に許容されています。いえ、「差別」という概念(近代的な人権観みたいなもの?)が生まれた瞬間、恐らくそこには「男性による女性差別」という概念が前提されていたはずで、そもそも「男性差別」という言葉自体が「青いアカレンジャー」みたいな一種の形容矛盾に他なりません。だから恐らく彼らの「運動」は何万年かけようと、実を結ぶことはない。
「女災」はスタート地点です。
「何故、性別によって『差別反対』という『正義』の恩恵を受けられる者と受けられない者に分かれてしまうのか」。
 それを考えるために作られた、スタート地点の言葉が「女災」です。
 ぼくはこれからここで、「今まで誰も考えなかったこと」について拙い考察を行っていこうと、思っています。
 ご愛読いただけたら、幸いです。
 大切なことなので、二度言わせていただきました。


 

ブログランキング【くつろぐ】 

 

にほんブログ村 本ブログへ 

 

人気ブログランキングへ


「兵頭新児の女災対策的随想」

2012-10-09 23:31:52 | お知らせ

 どうも、みなさまお久し振りです。
 また一ヶ月も間が開いてしまいました。
 実はニコニコチャンネルの方のブロマガに新たなブログを立ち上げました。
 やることは大して変わらないでしょうが、しばらくはそちらで動いてみようかと考えています。


兵頭新児の女災対策的随想
 

 ↑こっちですね。

 というわけなので、よければ覗きに来てやってください。

 

ブログランキング【くつろぐ】 

 

にほんブログ村 本ブログへ 

 

人気ブログランキングへ