兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

兵頭新児のレッドデータコンテンツ図鑑 ⑦タイムボカンシリーズ――歴史修正される、女ボス

2024-09-14 18:44:31 | アニメ・コミック・ゲーム

 目下、『WiLL Online』様で牛角炎上問題に鋭く切り込んだ記事を掲載しています。
 ランキング早くも二位!
 本件について、どこよりも深くまで切り込んだものと、自負しておりますのでどうぞ、ご愛顧ください。

 ――さて、本編は久し振りにレッドデータコンテンツ図鑑です。

 

    *     *     *

 

 ――あのさ、思うんだけど今の若いヤツってドロンジョを「単に、フツーにいい女」と思ってんじゃね?

 はい、ここでみなさん共感の嵐。
 え? 全然共感しない?
 困りましたな。
 ほら、何かの広告ではブラックジャックと婚活してたじゃん。他にも転生もので主役の悪役令嬢を張ってるらしいですよ今は。
 キャラデザは何と天野喜孝御大。美麗でセクシーなキャラデザインです。
 声優は先日物故された小原乃梨子。のび太のイメージの強い方ですが、旧作『うる星』ではお雪さん、洋画ではブリジット・バルドーを持ち役とするなど、妖艶な美女も得意とする方です。
 だから、今の人は峰不二子的な位置のキャラだと思ってるかもと。

 ――と、まあ、タイムボカンシリーズについて書く書くと予告していたので、前々から以上のようなことを書き溜めていたのですよ。
 ところが上にもあるように小原氏が亡くなられ、それをきっかけにまさにぼくが上に書いた通りのことをおっしゃっている御仁が現れました。
 それも「若くてよく知らない」人ではなく、林譲治氏というSF作家さん。結構なお歳で、リアルタイム視聴者のはずなのですが。

 いや、まあ、一応、林氏の言うように、このキャラは「男を顎で使う女」の先駆けとは言えました。
 しかし「ドロンジョは色を使わない」ってのは明らかに違うでしょう(もっとも、これは林氏とは別な方の意見です)。彼女は常にセクシーな衣装に身をまとい、自分の女を十二分に利用していました。
 そんなわけで、「格好いい悪女」というキャラであるというのも一面の真実ではあります。
 が!!
 この人、それと同時に徹底的な道化でやられ役で負け犬のド雑魚なのですな。
 毎回ヌードを披露してたけど、それすら(お色気を狙っているとは言え、同時に)ギャグとして描かれてたんで、滑稽なんですな。
 というわけで、今回は小原乃梨子さん追悼の意味も含め、タイムボカンシリーズです。
 本シリーズについて今までも言及しつつ、なかなか採り挙げられませんでした。
 また、書きたい内容は以前から言っていることの繰り返し――つまり70年代後半、政治の季節が終わり、正義が曖昧化した「パロディ」の時代を迎えつつあった時期に登場した怪作――といった辺りなのですが……。
『アルベガス』、『レザリオン』はロートル作家がそうしたオタク的「パロディ」芸を真似ようとして失敗した、と評しました。

・兵頭新児のレッドデータコンテンツ図鑑⑥ 東映まんが祭り 光速電神アルベガスvsビデオ戦士レザリオン 空中大激突

 ところが『ゴレンジャー』、『ジャッカー』は(そのホンの数年前)、同じ脚本家によって書かれた、極めて先進的な「パロディ」的作品だったのです。

・兵頭新児のレッドデータコンテンツ図鑑⑤『ジャッカー電撃隊VSゴレンジャー』――80年代ニヒリズムを先取りした者たち

 そしてまた本作は丁度『ゴレンジャー』と同じ時期に始まった作品。
 では果たして本作は、『ゴレンジャー』といかなる違いがあったのでしょうか……?

 ご存じない方も多いでしょうから、簡単にご説明します。
 ただ、前にも言ったように今から全話見直すといった時間や金銭を投じる余裕はないので、あくまでかつて見た(再放送を繰り返していたので、それでも結構見ていました)記憶で書かせていただきます。
 まず75年に始まったのが『タイムボカン』。
 少年少女がコミカルなメカに乗り込み大冒険。ところが悪の三人組が、少年少女の追い求める秘宝を奪おうと、妨害を繰り返す。
 以降、本作はシリーズ化し、後のシリーズでもこの基本ラインは大体、守られます。
 ただ、実のところこの『タイムボカン』そのものは「ちょっとコミカルなヒーローもの」といった感じで、そこまではっちゃけた作品でもなかったのですが、次回作『ヤッターマン』により、シリーズのカラーが決定されます。『タイムボカン』シリーズと銘打たれてはいるものの、実質的には『ヤッターマン』シリーズとも称するべき作品群がこれ以降、続くのです。
 では『タイムボカン』と『ヤッターマン』はどう違うのか。何しろキャラクターのシフト(少年少女の正義の味方に、三人組の小悪党は女ボス、頭脳派、肉体派の子分という布陣)も同じ、キャラデザも同じ。声優さんも続投するという徹底ぶりで、実質毎回同一人物が名前だけ変えて再登場していたようなものなのですが、それでも演出する側の意識のようなものが、『ヤッターマン』では根本的に変わっているのです。
 それは「正義の、ドラマツルギーの、徹底的な無化」であり、おそらくこれは『ボカン』ではそこまで徹底されてはいなかったのでは……と。
 これはまさに『ゴレン』の次回作『ジャッカー』のビッグワン編で戦いの戯画化がより徹底した形でなされるようになったことと、奇妙な合致を見せています。
 ヤッターマンは登場時、「ヤッターマンのいる限り、この世に悪は栄えない!」と格好よく名乗るのですが、そこに悪党であるドロンボーが冷ややかなツッコミを入れる――そういう感覚は、『ボカン』ではなかった気がします。そもそも名乗りがなかったんじゃないかなあ……。
 またヤッターマン1号2号はカップルで、戦闘時でもこの二人、身体が弾みで接触するなどすると「愛ちゃん好き」「私も」といちゃつき出す。「健全で明朗な正義の味方」というものを、スタッフは徹底的に馬鹿にしていたわけです(白黒時代から清廉な少年ヒーローを立て続けに演じた太田淑子さんがこの1号を演じているのが、また皮肉)。
 一番特異なのは、毎回展開されるストーリーです。時代劇などでもこの種の作品、ヒーローや悪以上に、「悪に翻弄される毎回のゲストである庶民」が重要な役割を担いますよね。
 ところがこれ、例えばですが以下のような具合。

 飲んだくれで妻子を蔑ろにしているオヤジ。ドロンボーに利用され、儲け話に手を出すも失敗。ヤッターマンの活躍によりそれがドロンボーの口八丁のデタラメと知り、妻子に泣いて詫びる。「俺が悪かった、これからは真面目に働くよ」。めでたしめでたし。


 ――以上の経緯を見守り、ヤッターマン自身も「よかった」などと喜ぶのですが……これらは全て茶番なのです! 劇中ではノーツッコミです。しかし見ている側はここにテンプレなドラマの空疎さを見て取り、笑ってしまうのです。

 ――「ノーツッコミ」って、それはお前、スタッフはマジメに感動させようとして作ってたんじゃないの?

 いや、そうじゃないんです。確かに、ひょっとすると理解できずに見ていた層もいるのかもしれませんが、明らかに、スタッフは茶番として描いているのです。
 それは上にも挙げたヒーローの演出もそうで、一応悪役が「格好つけんなよ!」とツッコむものの、全体としては正義側はあくまで正義として描かれ、悪役は否定されて終わる。それでも見ている側はその「正義の空疎さ」を感じ取ってしまうのです。

 これは同時に悪役の描かれ方を見ることで、より明快になるかもしれません。
『ボカン』における悪役ガイコッツ(これは彼らの操るメカの呼称とされることもありますが、同時にチーム名でもあるんじゃないかなあ……)も、ドジな小悪党であり、憎めない悪役、それが、大の大人にも関わらず毎回少年少女のヒーローに敗北を喫するところがギャグになっていました。
 ところが『ヤッターマン』では悪役チーム、ドロンボーの上に立つ正体不明の首領ドクロベエが配され、三人は「しがない下っ端」といった性質を持つに至ります(さらに後期作になると会社員という設定を配されることもあり、これは『ガンダム』がそうであるように当シリーズも三人組に「サラリーマンの悲哀」を見て取る「リアル系」へと変貌していったということなのですが、その辺りの作品は、個人的には今一です)。
 ともあれ、ここら辺りから「大人の悲哀」こそが少年少女のヒーローの照り返しを受けて強調されることとなり、それこそが作品の売りになっていくのです。
 頭脳派のボヤッキーは折に触れ「(今は都会で悪党に落ちぶれているが)故郷の会津若松には恋人を残してきている」と嘆きますし、何より女ボスのドロンジョはとにもかくにも結婚ネタでいじられます。例えば、ヤッターマンにやられた時のボヤッキーとのかけあい。

「これはお前の作戦ミスだよ!」
「あたしが作戦ミスならあんたオールドミス」


 えぇと、ひょっとすると「オールドミス」がわからない方もいるかもしれませんが、ようするに「嫁のもらい手がなく、ババアとなっても独身の女」ってことですね。
 他にも後期作(『ゼンダマン』辺り……?)でも悪役のテーマで「結婚したい!」「相手がいない!」といったかけあいがありました。
 本シリーズの(小原氏演ずる)女ボスは確かに美女として描かれ、『ボカン』の女ボスであるマージョは企画書で明確に「ウーマンリブの信奉者」と書かれており、男たちを顎で使う女傑です。
 しかしそんな女性だからこそ結婚ネタ、年齢ネタ、即ち女としての欠落が嗤われていたわけだし、同時にからかわれて恥じらうところが大いに可愛げとなっていたわけです。
 このオールドミスいじり、昭和の時点で急速にタブー化していき、何だったか、『名作劇場』の後期作でオールドミスキャラが出てきた時、「今時ありなのか」と驚いた記憶があります。
 もちろん、現代社会においては、「オールドミス」という言葉自体がわからないのではと書いた通り、それはもうタブーと化して久しい。
 林譲治氏の言もそれと同様、ポリコレに対応してドロンジョの一面だけを評価する、バイアスのある見方です。
 しかし果たして、それは女性にとって幸福なのでしょうか。
 水着撮影会が中止になることで女性モデルの仕事が奪われるのと同様に、(本当にオールドミスとからかわれ、傷つく女性がいる一方)それが一律に禁じられることは、単に女性が「可愛げ」を発揮するシーンを奪われる、「女性の仕事を奪う」ことでしかないでしょう。
 繰り返す通り、『うる星』は「男性性の否定」をテーマとする作品と言っていい(余談ですが、同時期にアニメ化された『じゃりン子チエ』のテーマもまたそれであり、何とアニメの音楽担当が同一人物なのですな)。
 面堂終太郎は完全無欠の二枚目がギャグを演じるというパターンの先駆けと言えました。いえ、縷々述べてきたようにヤッターマン1号も近いキャラなのですが、文武両道、金持ち、二枚目とスペックを積み上げた挙げ句ギャグで落とすというのはあまり先例はないはずで、ともあれここでは男性性が徹底的に茶化されている。
 ところが本シリーズではそれよりも数年前に、女性性を茶化していたわけです。基本、女性性とは神聖にして犯すべからずなもののはずで、その意味でこのキャラはかなりエッジなものなのですが、やはり悪役だからこそ、そうした変化球も許されたのでしょう。

 ……もう一つ、ちょっと(ここでぼくが書かないと、永久に忘れ去られるであろうことを)書いておきましょう。
 先に本シリーズを『ゴレンジャー』と同時期であると述べました。
 そして『ゴレン』はご存じの方も多いでしょうが、紅一点のモモレンジャーを登場させた、変身ヒーローものの中でも(先例はあれ)女性の社会進出の先駆け、といえる作品でした。ここでしかしモモレンジャーは意外にプロフェッショナル然としており、あまり「私」は出さない(もっともこれは『ゴレン』そのものの作風でもあります)。
 ところがやはり同年に『コンドールマン』という変身ヒーロー作品が放映されていました。川内康範原作で、主人公はゴリゴリに堅い(そう、まさに『ヤッターマン』でからかわれるような)当時としても古くさいキャラだったのですが、しかし敵の怪人であるレッドバットンというのが先進的だったのです。

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 ご覧の通り、当時としては図抜けて可愛らしい、オーパーツとも言えるような萌え系の怪人。彼女があくまで悪の組織の作戦として、義賊のように装うという話があるのですが、そこで彼女は使命を差し置いて、義賊として民衆にちやほやされる快感に目覚めてしまうのです。
 言うならば、彼女は悪役でありながら「悪の正義」にすら忠誠を誓わない、「ドキンちゃんの十年前に登場したドキンちゃん」だったのです。
 そして、これは実のところ、ドロンジョにもあった特徴なのです。
 多分当時観てたみなさんもお忘れだと思うのですが、ドロンジョ、ガンちゃんが好きなのです。
「ガンちゃん」というのはヤッターマン1号、主役です。上に書いたように1号には2号のアイちゃんという彼女がいるのですが、その正義の味方に、ドロンジョは横恋慕しているのです。年齢差、十五くらいあると思いますけどね。
 最終回ではドロンジョがガンちゃんへの愛情から悪党人生に嫌気が差し、そのためドロンボーが瓦解する様が描かれます。
 即ち、彼女らは悪のサークルのクラッシャーであり、女というものが、悪なり正義なりといった理念を超越したところで動いている存在である、ということが、ここでは語られているのです。これは丁度『キカイダー』の人魚姫ロボットの時にも申し上げたことですね。

・兵頭新児のレッドデータコンテンツ図鑑②『キカイダー』シリーズ 長坂秀佳――ホモソーシャルの作家

(この種のキャラの元祖はテレビ版『バットマン』のキャットウーマンがバットマンを愛するようになる……という辺りでしょうか)

 八十年代、「物語の喪失」と共に、ヒーローの正義は形骸化した。ところが「悪の正義」すらもが実のところ形骸化していることを、ドロンジョは描いて見せた。
 そして九十年代。専ら女性が「悪」として描かれる時代が現出した。いや、これはちょっとオーバーに言いましたが、以前『スパロボV』について語った時に書きましたよね。『マイトガイン』の明らかにキャットウーマンを意識した女賊カトリーヌ・ヴィトン、『GS美神』のピカレスク的ヒロイン美神さん、他にはタイムボカンシリーズ的なテイストの『ゲンジ通信あげだま』の男子小学生が正義のヒーロー、そのクラスメイトで小学生離れしたプロポーションを持つ女子、九鬼麗が悪玉であった図式などが思い浮かびます。

 この時期に、「世界征服」といった明確なヴィジョンを持つ「悪の正義」は失われていた。
 そこで(ある意味、しょうことなしに)「女のエゴ」が「悪」そのものとなった。
 ドロンジョは実のところその「どうしようもなさ」(何しろ、最後に組織を瓦解させてしまう)までをも、描破していた。

 そして観ていたはずの人たちもそれから何一つ読み取らず、いまだ「女に顎で使われたい」とか言っているのでした。
 めでたしめでたし。

 

兵頭新児のレッドデータコンテンツ図鑑⑥ 東映まんが祭り 光速電神アルベガスvsビデオ戦士レザリオン 空中大激突

2024-04-27 19:25:40 | アニメ・コミック・ゲーム

 

 目下、暇空茜氏の件でWiLL Online様に寄稿させていただいております。
 雁琳氏の件にも連なる左派勢力のキャンセルについて語っています。どうぞご覧ください。

暇空茜氏のネガキャン――一本の線でつながっている!?

YouTubeでは近年のフェミについての動画も挙がっています。
こちらも未見の方はチェックを!


風流間唯人の女災対策的読書・第56回「覇権フェミと中堅フェミと派遣フェミ」

 さて、今回はそれと関係なく、サブカルのオタクへの加害。それが80年代のオタクコンテンツにおけるニヒリズムと大きく関わっていた……というお話です。
 と、そういうことで……。

     *     *     *     *

 が~んがんが~んがんがんがんが~んがんが~んがんがんがん♪
「おっ、『ゲッターロボ』か、懐かしいな」
「再放送じゃないっっ!」
「でも、今の子は『ゲッター』知らんだろ。笑えるかな」
「パロディじゃないッッ!!」


 ――というわけで久し振りにやって参りました、『レッドデータコンテンツ図鑑』。
 前回、次はタイムボカンシリーズと予告しましたが、ちょっと思いついたことがありまして……いずれも「価値相対化の時代である80年代に生まれた、ある意味あだ花」といった側面がある作品なので、語る内容はいずれにせよいっしょになっちゃうんですが。
 さて、数日前、ツイッター上に以下のような書き込みがなされました。

長くなりそうなんで書くのやめてましたが、最近のオタクはウヨったりミソジニーだったりと評判が悪いので、若い人にはオタ創世記?の頃が分からなくなっているらしく、結論を最初に言うと「元々オタクはリベラル寄りであり知的であった」です↓
例えば、円谷特撮で育った当時の子供にものすごい衝撃を与えたのはG・ルーカス『スターウォーズ』77年ですが(日本公開は78年)映画のあとすぐに出たムック本には、黒澤映画の影響(隠し砦~)やエロール・フリンの海賊映画、米国のスペースオペラの系譜(パルプ雑誌)などが↓
作品の裏側にはあるんだよ、ということが縷々説明されていました。これらの解説文を書いていたのは、日本に海外SFを紹介してきた人たちで(野田元帥など)ウルトラシリーズとゴジラくらいしか知らなかった、当時のガキには「そんなもんが外国にゃあるんだホゲー」でした↓
(中略)
つまり雑駁に言えば「創作物を通じて意味を汲み取り、自分が生きている現実を考える姿勢」は、当時の漫画ファン・アニメファン・映画ファン・活字マニアにとって「それは当たり前」でした↓
また、それらサブカルの紹介者もファンも言うまでもなく昔の日本はどんな国だったかはよく知っており、「住んでる世界が軍事独裁になればいい」というグロテスクな妄想は抱かないのが「普通」でした↓
(以下略)

https://twitter.com/Simizushi/status/1756990126482407911

 

 ――長い長いツイで、できれば略した部分も読んでみて欲しいのですが(よくある、自分の仮想敵としての「ネトウヨ」を妄想し、自己正当化を続ける、気持ちの悪い内容です)、要するにぼくがいつも言っているような、「愚かなサブカル君」を象徴するかのようなツイなわけです。
 読んでいくと円谷特撮に対し『スターウォーズ』を優位に見ているし、そもそも語るうちにホンネがまろび出て、当初は「オタク」だった主語が後半では「サブカル」へとすり替わっている辺りが微笑ましいですね。
「サブカル君は左派的価値観を振りかざし、オタクにマウントを取るが、その傲慢さ、古色蒼然さが嫌われている」。
「サブカル君はオタクの上位者を気取り、オタクを侮蔑しきっていたが、オタクがカネになると知るや擦り寄ってきた」。
「サブカル君はオタクを自称するようになったが、実際には上位者であるという醜い勘違いしきった自意識を捨てていない」。
 今までぼくが繰り返してきたことが、このツイには非常にコンパクトに実証されています。
 それに対し、今までぼくはガイナックスの母体となったDAICONフィルムの自主映画『愛國戰隊大日本』を例に論じていました(これについては少し前に書いた「山田太郎と岡田斗司夫とぼくらのオタク主義」を読んでください)。本作は上の世代(ぼくが言うサブカル君)の政治イデオロギーを徹底的に笑い飛ばした作品でした。
 ただ……イデオロギーを笑い飛ばす時点でイデオロギーに対するそれなりの知識や感情があるわけで、下々の若きオタクたちは、ぶっちゃけそれすらもなかったわけです。
 では、何を笑っていたのか。

 はい、答えは「本作を笑っていた」でした。
 本作は1983年に放映された作品。
 世はガンダムブーム……がちょっと落ち着いてきた頃かな?
 ともかくリアルロボットが流行し、オタク世代、中高生のアニメファンが増えてきた頃です。
 そんな中、一昔前のスーパーロボットの復権を狙って作られたのが本作。
 三体のロボットが合体し、悪の軍団デリンジャーに戦いを挑む――という『ゲッターロボ』(74)を露骨に意識した作品でした。
 冒頭に書いた会話は当時のアニメ雑誌で若き日のゆうきまさみが描いていたもの。『ゲッター』そっくりだな、しかしもうちょっと何かプラスアルファがあってもいいんじゃないの、というこれ自体が本作への鋭い批評となっていました。
 もっとも独自性が全くなかったわけでもなく、主人公たちは青葉学園の生徒であり、学校の課題として作ったロボで敵に戦いを挑むという、近未来のテクノロジーの進歩を、そして『ガンダム』のニュータイプにも通ずるような若者たちが新たな技術を使いこなし、新たな時代を築くのだとの楽観性が、そこにはありました(何しろ次回作の『ビデオ戦士レザリオン』(84)ではコンピュータ少年がロボを「何か、作って」しまいます!)。
 当時は『3年B組金八先生』(79~)を考えてもわかるようにティーンエイジャーの多かった時代です。アニメの主人公がそうなるのも必然だし、また『ガンダム』(79)がそうであるように、この設定もオタク世代の視聴者を意識してのものだったと思えます。
 ところが……ゆうきまさみの評でもわかるように、本作は必ずしも「俺たちの作品」として迎えられたわけではありません。
 脚本(おそらくシリーズ構成めいたことも担当していたと想像できます)は上原正三。以前にも採り挙げたことのある、ぼくも尊敬する脚本家です。ウルトラシリーズから戦隊シリーズまで、そして本家『ゲッター』までも担当していた特撮、アニメ脚本の帝王なのですが、そして当時も宇宙刑事シリーズ(82~)を執筆し、何度目かの黄金期を迎えていたのですが……本作に関しては「外していた」と感じます。
 えぇとですね、主人公は円条寺大作。声は古川登志夫。
 同氏は80年代アニメを語るに外せない、『ガンダム』ではカイ・シデンを、『うる星やつら』(81)では諸星あたるを演じた、ある意味では当時の「ニヒリズム」を強く体現する声優なのですが……例えば本作ではこんなシーンがありました。
「来るなら来い、デリンジャー! どんな卑劣な手を使おうとも、俺たちが必ず叩き潰してやる!!」
 勇ましく拳を固め、決意する大作――ところがカメラが引いていくと、その後ろ姿は尻を丸出しにしている。風呂上がりで、シャツだけ着てパンツを穿いていなかったのだ……すみません、記憶で書いているので厳密には差異もあるでしょうが、何かそんなんです。
『超魔術合体ロボギンガイザー』(77)でも主人公が敵の前にギターを弾いて現れるという(つまり、ヒーローが前時代的なヒーローを演じ、それが笑えるという)ギャグをやっていましたし、そうしたセンスは別に80年代になって始まったものではないはずです。
 上原正三自身、以前にも書いたように『ゴレンジャー』(75)、『ジャッカー』(77)で先進的なギャグを書いておりました。
 が、上のギャグは申し訳ないけど「寒い」。
 先にも書いた次回作『レザリオン』は本作に比べシリアスな作風なのですが、たまに入るギャグが微妙でした(もっとも上原は後期からの執筆なので、下の全てが彼の手によるものかはわかりませんが……)。

・主人公・香取敬が寝坊なのを母ちゃんに叩き起こされるが、その時、怒った母ちゃんがゴジラと化す。
・敬を演じたのは古谷徹。「父ちゃん、俺はやるぜ!」、「敬、行きま~す」などと言う。「行きま~す」の後には「いけね、昔のクセが出ちまった」などと自己突っ込みが入る!
・敵に惑わされるレザリオン。味方の博士が周囲に解説し、「SF的に解釈するなら、異次元空間に取り込まれたのじゃ」などと言う!


 最初の母ちゃんがゴジラと化す、こういうのは当時、やたら多かったのです。ちょっと好例が思いつきませんが、例えば『マカロニほうれん荘』でキャラクターたちが次々変身していくような、そんなギャグを狙ったものだと思われます。
 が、それがやはり、申し訳ないけど寒い。
 古谷徹の声優ネタもそうで、(こういうのは同人誌など、オタクの間で確かに流行していたのだけれども)やり過ぎだろうと嘲笑されてしまいました。
 博士のセリフもそうで、いわゆる「メタ」的なギャグを狙ったわけでしょうが、シリアスな場面でいきなり発せられたため、「ポカーン(゚Д゚)」という感じでした。
 ちなみにこの三つ目のもの、「敵のジャーク星人が巨大ロボを操り、レザリオンを追い詰めていく様を、自ら琵琶法師の姿となって実況する」といったヘンな話で、同時期の『宇宙刑事』の敵が宇宙刑事を異空間に取り込むという演出を再現したものだと思えますが、正直、成功していません。
 一方、『アルベガス』の大作のケツ丸出しですが、シリアスな『レザリオン』に比べれば作風も明るく、大作自身二枚目半として描かれていたため、そこまで唐突感はないはずなのですが、それでも寒い。
「ヒーローに道化を演じさせる」というのはこの時期の流行りでした。
 しかしそこには正義と悪との戦いの相対化、という状況がありました。タイムボカンシリーズではそのため正義の味方が徹底的に道化とされたわけです。
 また、島本和彦作品は実のところこの当時の作品の中では例外に属し、これらとは逆に、「現代においては正義が道化とならざるを得ない」切なさのようなものが、根底に流れていました。
 そこを上のシーンは「あくまで正義のために戦っている、肯定的に描かれるべき主人公」に、「何か、流行りだから」という理由でギャグを演じさせ、しかしならば必要であるはずの「切なさ」も、そこでは描かれていない。竹に木を継いだだけであるために、「寒い」という印象しか与えないのです。
 上にも書いたように『ゴレンジャー』では先進的ギャグを、また同時期に『宇宙刑事』で時代の先端を走っていた上原正三がことここでだけうまくいっていないのは何故か、わからないのですが、やはりそれは「アニメが若者文化」だから、なのでしょう。
 上原にしてみれば普通に肯定されるべき正義の味方を描き、ただ、その後ちょっとギャグをつけ加えれば受けてくれるのかなと思っていたが、そうではない。オタク文化はそれまでの正義を根本から否定していたのです。一方、『宇宙刑事』は、オタクの間でも評価されていました(その中で描かれた正義をどこまで受け入れていたは措くとしても)が、それはやはり上原が媚びることなく自分の信念をぶつけていたからでしょう。
 翻ってこれら作品はロートルなおっちゃんが一生懸命一生懸命若者に媚びようとして失敗、という感じなんですね。

 ――さて、ちょっとサブカル君のツイートに戻ってみましょう。
 サブカルチャーは本来、「下位文化」ですが、「下位文化」であるが故にそこでヒエラルキーを作ってしまいがちです。だから彼らは「権威主義」なんですね。
 しかし何も生み出せず、だからこそ権威に媚びへつらい続けるしかなかったサブカル君に対し、オタクは文化を生み出しました。
『マクロス』(82)は当時まだ二十代だったオタク世代による作で、『ガンダム』の数年後にはそうしたものが生まれていたわけです。
 先のツイにも円谷だ何だとあるように、サブカルは「上の世代(の、左派的感覚)」を専ら称揚します。そして円谷作品も『ガンダム』もオタク文化の範疇に入りましょうが、上の世代の作ったものであり、オタク世代の純正作品ではない。
 『マクロス』以降、言うならオタクがオタクによるコンテンツを持つようになった辺りから、サブカルはオタクを批判し始めるんですね。「権威」がありませんから。
 つまり彼らは「上位者へのカウンター」という理念を掲げつつ実際には「上位者に平伏」しつつ「下位者を見下す」という残念な矛盾を、ずっとはらんできた。
 一方、『アルベガス』は「上の世代がオタクに向けて作ろうとして、上手くいかなかった作品」、つまり失敗した『ガンダム』であり、オタク文化になれなかった『ガンダム』なのです。
 何故なれなかったかというと――オタク文化には上に縷々書いた細かい細かい「文脈」、まあ「お約束」みたいなことがあったからで、そしてそれが生まれるには「正義の喪失」と言っても「価値相対主義」と言っても「ニヒリズム」と言っても「男性原理の失墜」と言ってもいいのですが、それなりの必然があった。
 オタクは「上位者の依って立つイデオロギー」を無為だと知り、それを拒絶した(ここも詳しくは「山田太郎と岡田斗司夫とぼくらのオタク主義」を読んでください)。この当時のオタク文化は先代文化の否定(パロディ)という形でこそ、現れました。
 そしてだからこそ皮肉にも、オタクはサブカル君が喉から手が出るほど欲っしていた「新たな表現」を、それも驚くべき高クオリティと呆れるべき量とをもって生み出すことができた。
 しかしそれは、まさにサブカル側のイデオロギーを嘲笑し、無化するニヒリズムが本質であった。
 もうちょっと経つとオタク文化は「萌え」として結実するのですが、それもまたイデオロギーの敗北からの、恋愛などの「個人主義」の肯定という面を持っていました。
 一方、サブカル君は、依って立つイデオロギーによって自分たちで何かを生み出し、既存の社会にモノを申すことを欲していた存在だったが、しかしイデオロギーが終焉を迎えてしまったがため、何も生み出すことができなかった。
 だからこそ、サブカル君にはオタクが(何しろオタク君には自分たちの政治の駒になってもらおうというのが、彼らの目論見でしたから)絶対に許せなかった。
 そして『アルベガス』から四〇年。サブカル君は、いまだ「お前らよりも俺の方が、俺の方が」とつぶやきつつけているのです。


兵頭新児のレッドデータコンテンツ図鑑⑤『ジャッカー電撃隊VSゴレンジャー』――80年代ニヒリズムを先取りした者たち

2023-10-28 17:01:01 | アニメ・コミック・ゲーム

 

 さて、久し振りのこの企画です。
 今回も何というか、だらだらしゃべりという感じですが……まず、本作についてご存じでしょうか? 観てない方も、動画の第43回でちょっとシーンをご紹介していたので、思い出してください。敵の怪人がゆで玉子食って爆死してましたよね。



 本作については、今までも何度か言及していますが、多くが(先の動画もそうであるように)『セーラームーン』と比較しての、極端に言えば『セラムン』のご先祖様としてのご紹介でした。
 この『ゴレンジャー』こそ集団ヒーローの元祖。前例もあったことは以前に『トリプルファイター』などをご紹介した通りですが、大ヒットを飛ばしたのはやはり本作が初。結果、現在に至るまで戦隊シリーズが続き、パロディなどで特撮ヒーローが描かれる場合、ウルトラよりもライダーよりもおそらく、戦隊が使われる率の方が高い。放映は1975年ですが、まさに本作は80年代型のニヒリズムを体現した存在であり、パロディと最初から親和性が高かった(本作そのものが一種のパロディであった)からでしょう。
 まず、従来の作品においてはヒーローは一人でした。それが五人になるだけで、そこにはヒーローの相対化が生まれます。リーダーのアカレンジャー、サブリーダーのアオレンジャーは典型的なヒーローですが、三枚目のキレンジャー、女性のモモレンジャーが登場することでヒーローという存在そのものが絶対的というよりは「誰もがなれる」相対的なものになってしまったんですね。

 もちろん、だからこそキレンジャーもモモレンジャーも人気キャラとなったのですが、これこそが相対主義、「二枚目はモテない、個性の時代」という当時の状況を示しています。ちなみにこのフレーズは『行け!孫悟空』というドリフメンバーが『西遊記』のキャラを演じる人形劇のテーマソングの詩を意訳したモノ。歌はピンクレディーでした。
 そう、このピンクレディー(という当時のアイドルデュオ)の歌う歌がいちいち戯画的だったことも、ドリフがコミックバンドであったこともまた、やはり同様に当時の相対主義、ニヒリズムを象徴していました。
 当時はドリフの若手、志村けんが絶対的な人気を誇っており、上の『行け!孫悟空』で孫悟空を演じたのもやはり志村だったのですが、(同作にピンクレディーが、そして毎回のゲストに様々な芸能人が出演したことと同様に)同時に当時はドリフのコントにも、積極的に芸能人が登場していました。
 中でも歌手としても絶頂期を迎えていたまさにモテモテの二枚目、沢田研二はよく登場し、志村がジュリー(というのが当時の沢田の愛称でした)のコスプレをして、沢田自身は付き人を演じて志村演じるジュリーに平身低頭するというコントを嬉々として演じておりました。
 まあ、元々そういうのが好きだったんでしょうが、同時にドリフ人気は上の「(つんとすましているだけの)二枚目はモテない」を実証するものでもあり、ジュリーもそこを見抜いて、バラエティに参戦していたわけです。

 さて、『ゴレンジャー』、動画に挙げたおちゃらけた必殺技も登場は中期からであり、当初は比較的、シリアスでした。本作はそもそも人がバタバタ死ぬ凄惨なスパイ戦の様相を呈しており、それ自体は最後まで透徹された要素でありました。が、ごく初期から敵の怪人が何の意味もなくキレンジャーにカレーを振る舞うなど、どこか呑気な、ギャグ作品めいた描写もちらほらと見られました。
 これはやはりドリフ人気に影響されたものだと思われ、必殺技ゴレンジャーストーム(上に挙げた怪人の弱点に変形し、一くさりコントをやってから爆死)というパターンが確立して以降、その暴走には歯止めが利かなくなったわけです。

 しかし――ある意味、この『ゴレンジャー』路線の真の暴走は、次回作『ジャッカー電撃隊』でこそ花開いた……と、ぼくにはそう思われます。
『ジャッカー』は当初、シリアス路線に立ち返ったドラマ作りがなされていました。
 敵の「クライム」は世界征服というよりは利潤を追求する犯罪組織。主人公たちにもキレンジャー的な布陣はなく、悪く言えば地味、よく言えば大人な役者が配されました。
 人気シリーズの次回作が「視聴者も成長したろう」とのことでやや対象年齢を上げるのも、そしてまたそれが失敗に終わり、また低年齢向けに路線変更するのもこの種の番組で無限回数繰り返された「あるある」なのですが、本作もそれに倣い、途中からはシリアス路線を捨て、ジャッカーたちもコミカルな役どころを演じるようになり、そして――中盤からは「行動隊長番場壮吉・ビッグワン」が登場することになります。
 スペードエース、ダイヤジャックとトランプをモチーフにした(これも大人な)ジャッカーに、ビッグワンはいきなりド派手な「白い鳥人」としてメンバー入り。それも今までの四人を顎で使うリーダー格です。
 演じるのはアオレンジャーでも(そして仮面ライダーV3、快傑ズバットとそれまでもヒーローを兼任して)絶大な人気を得た日本一のヒーロー役者、宮内洋。要するに番組のピンチに際し、視聴率要員として投入されたのです。
 ところが……彼がまた、何とも形容しがたい怪キャラクター。
 毎回敵の怪人に囚われるなど、危機に陥る(変身前の)ジャッカーの面々。そこに現れる謎の男。この謎の男は毎回ほっぺにでっかいホクロをつけるなど、珍妙な三枚目として演出され、例えば釣り人であれば怪人の頭に釣り針を引っかける、例えば怪人がヒトラーに心酔している場合、ヒトラーに変装して、「余がジャッカーを処刑する!」と進み出てくる。
 ところが、その正体は番場壮吉。上のような珍妙なコスプレでおどけていたのがジャッカーを救い出すや一転、キザに笑い、変装を解くと白いテンガロンハット、白いスリーピース、白いステッキという紳士の正体を現し、怪人へと胸のバラを投げつける。

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これが……。


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こうなる。

 その間にジャッカーは変身、番場もいったん姿を消しますが、決戦ではやはりビッグワンに変身して再登場、必殺技の指揮を執ります。
 つまり、『ゴレンジャー』ではあくまで(キレンジャーを除き)道化を演じるのは敵の怪人という縛りがあったものを、本作では正義の隊長自らが、道化を演じてしまうのです。
 もっともこの変装パターン、番場壮吉が登場して三話目くらいで定着するものであり、本当に現場では大慌てで、見切り発車で新キャラを投入していたという混乱ぶりが窺えます。
 番場隊長自身、当初は部下の危機にあってもパチンコに出かけたのではないかと疑われたり、どういうわけか基地内でインスタントラーメンを鍋から直接啜るなど、昼行灯キャラとして設定されていたとも思しいのです。
 言うなら、テコ入れとして作品をギャグっぽくしようという意向がまずあり、一方では新キャラとして人気のある宮内洋を投じるという戦略も採られた。番場は当初は三枚目キャラを想定されていたけれども、そこを宮内が(宮内の適性を知るスタッフが)アレンジし、「三枚目を演じるが、実は格好いい」という不思議なキャラクターが誕生した。
 そんな、ややこしい裏事情が仄見えてくる。
 それもこれも、相対主義の時代にいかに二枚目を登場させるかというトライアルだったと言えましょう。

 もう一つ、余談ですがもう書き留める機会も二度とないだろうし、姫玉三郎についても書いておきましょう。
 番場壮吉と共に投入された、若手の噺家さんの演じる新キャラです。ジャッカー本部の炊事係を務めるコメディリーリーフなのですが、何故か番場との絡みが多いのです。
 これは明らかにアオレンジャーとのかけあいで人気を博したキレンジャーの路線を再現しようとしたキャラなのですが、一般的には評判がよろしくありません。しかしぼくは結構、好きなのです。
 アオレンジャーキレンジャーは両者ともが芸達者で、そこがよかったのですが、玉三郎はそもそも役者でもない若手の大抜擢。正直、演技などは拙いのですが、そこがいかにもな天然の素っ頓狂さ、馬鹿っぽさを生み出していました。
 昭和の東映作品においては、(というか、おそらくこの時代は全般的に)三枚目というのはとんでもないアホキャラとして設定されていました。しかし子供には、そういうのはあまり評判がよくなかたように思います。
『仮面ライダー(新)』の飛田今太やがんがんじい、『キカイダー01』の百地頑太、後はちょっと違うかも知れないけれども『仮面ライダーV3』の佐久間ケンなど、彼らは徹底してアホで役立たず、ヒーローたちに疎まれるというのが役どころ。
 こうした三枚目は、言うなら前時代的な「ヒーローと、道化」の身分制を完全に前提した存在でした。ヒーローに絶対性がある以上、道化もまた絶対的なアホでなければならなかったのです。
 ところが、まさに戦隊が象徴する「一人ひとりがヒーロー」、「二枚目なんかじゃモテない」という民主化の流れにあっては、これは忌避される感受性であったのでしょう。
 逆に成功したコメディリリーフは(まずはキレンジャーがその代表であり、古くは『ウルトラマン』のイデかも知れませんが)『キカイダー』の服部半平、『宇宙刑事』の大山小次郎など、「アホで間抜けだが、それだけでない何かを持っている」者たちです。ボスボロットもそうですね。
 ところがこの玉三郎は当時としても古い、徹底した「単なるアホ」。しかしだからこそ「アホだけど格好いい」というとんでもなく先進的なキャラであった番場の相棒たることで、いい引き立て役として機能していたように思うわけです。
 そしてこれはある意味、「価値相対化が、民主制が、ダイバーシティがそこまで諸手を挙げて素晴らしいものと言えるのか」という、アホキャラからの最後の問いかけでもあったのです。

 姫玉三郎は上にも挙げた番場のコスプレをしての活躍の場で、往々にして共に変装をして活躍していました。また、番場自身が玉三郎に変装して敵を惑わしたこともあります(それがホンモノの玉三郎以上の、当時でも前時代的な田舎っぺキャラ!)。
 つまり玉三郎は番場の半身であり、80年代以降のヒーローもギャグをやることが常態化した作品群において、玉三郎は番場に吸収されたのだ、ということができるのです。
 先にドリフと沢田研二について述べましたが、当時の番組ではドリフのコントが終わると舞台が回転し、コントで道化を演じていたアイドルたちはバンド演奏をバックに一曲披露したものです。
 さんざん道化を演じた番場が変装を解くやイケメンに、そしてシリアスなバトルへと移っていく。これはドリフのコントと、構造が同じです。
 テレビ時代になって、憧れられる映画スターよりも親しまれるテレビアイドルが人気を博するようになった当時の時流に、明らかに本作は影響されていました。何しろ、番場が加トちゃん的なおまわりさんに変装する話もあるのですから。
 つまりこれは宮内洋という稀代のヒーロー役者を得ることで、ギャグをやりつつも格好いいという、「ヒーローの絶対性」を、「正義」をぎりぎりのところで保った、奇跡のような作品であったと言うことができるのです。
 もっとも、「正義」への懐疑そのものはこの連載でずっと繰り返すように、時代の流れではありました。
 次回は――と言ってもいつになるかわかりませんが――『タイムボカン』シリーズでそれを語りたいと思います。
 これについてはぼくもちらちらと見ていただけであまり詳しくないのですが(今時は全話を視聴しようと思えばできるのですが、さすがに時間が取れません)、実は数年前、準備のためにムックなどを買い集めていたこともあり、何とか付け焼き刃のまま語っていこうかと思います。


『怨み屋本舗DIABLO 悪魔のフェミニスト編』――「悪魔のフェミニスト」という言葉は「頭痛が痛い」みたいなヤツかと思ったらそうじゃなかったけど、そうじゃないのは間違ってるのだの巻

2023-07-22 18:53:18 | アニメ・コミック・ゲーム

 さて、今回は漫画のレビュー。
 上の写真にはありませんが、帯には「悪魔のフェミニスト編」と大書されており、まあ、「そういうヤツ」なわけです。
 ネットで話題になっているのを見て、尼でポチっちゃったんですが……こういうの、業者の量産した粗悪な時事系動画みたいなもので、ひとまず話題のトピックスに飛びついただけのことが多いんですよね。ぼくもあまり期待せずに読んだし、結論を先に書いておくならば、その予想を大きく外すものではなかったんですが……まあせっかく読んだので、軽くレビューしましょう。

 まず、本書は復讐屋を営むチームの活躍を描く、言うなら現代版仕事人。元締めの美女、頭脳役の男性に次ぐ、実働部隊的な三番手がオタクキャラ。これが眼鏡で長髪、パンツインネルシャツにリュック、ドライバーグローブという90年代のテレビドラマに出てくるようなデザイン(読者からも言われているのか、他のキャラに「昭和のオタクか」と突っ込ませているのがおかしい)。この人、どういうわけかやたらと妙なポーズを取って語尾に「~チュ」とつけてしゃべるというキャラで、「オタクのフリークス性」を頑張って表現しようとしてこうなったのかも知れません。ただ、そこまでイラつくキャラのクセして、能力的には有能なチームの重要人物として描かれているのは、嬉しくもあるのですが。
 四番手のマスコット的美少女もコスプレっぽい格好で、いわゆる「オタク受けしそうなタイプ」として造形されたキャラ。もっとも言うまでもなく画のタッチは萌えと180度違い、こんなふうに「よそ様に萌えやオタクをシミュレートされ、それを提示される」というのは、どうにもいたたまれないというか、ホモサウナに間違って入ってしまったような居心地の悪さを覚えます。
 まあ、それはともかく、内容ですね。

 まず、本話の悪役は売れないグラドル、蜜箱かりん。
 タレントとしての失速の原因はイケメン男優との交際を報じられたことであり、(これ自体は自業自得とも言えるのですが、それを)所属事務所の大物のスキャンダルをマスコミに沈黙してもらうためのスケープゴートとしてさし出された形。
 事務所にもほぼ干され、枕営業をすると申し出るも(口が軽いからと)断られてしまう。本人の実力や性格にも問題があるのでしょうが、何とも気の毒なキャラとしてまず登場してきます。
 ところがそうした不遇を「世の男どもの見る目のなさ」のせいにしてルサンチマンを募らせているおり、ふと、アニメ専門学校の萌えポスターを見て、彼女の中に火がつきます。
 性的搾取だ何だとツイートをすることでそれがバズり、実際にポスターが撤去されてしまい、「私のツブヤキが世界を変えた」快感を感じるかりん。そこで「ジュワ~~~」という描き文字が入るのですが、これはあれですかね、『えの素』でいうところの「ジュン」「ジュナー」「ジュネスト」の状態なんですかね。
 ともあれ、ポスターを描いた萌え漫画家が炎上し、コミックスを有害指定されそうになり、先に挙げたオタクキャラもことあるごとに憤るなど、身のつまされる展開が続きます。

 このかりんにディアブロ8号と名乗る怪しい女が接近してきて、社団法人を立ち上げるよう、入れ知恵します。
 つまり、かりんはキャラとしては石川優実師匠と仁藤夢乃師匠との合体であり、凡百の評であれば「よく調べている」と絶賛する箇所かも知れません(いや、以下にも並べますが確かに「よく調べている」のです)。
 社団法人立ち上げの記者会見の場、マスコミ側は彼女が過去に際どいグラビアの仕事をしていたこと、そしてイケメン男優とのスキャンダルの件をつつきます。前者はまさに石川師匠のネタを拾ってきた形ですが、マスコミがそこを擦るのは描写として疑問、むしろ徹底して隠蔽することでしょう。
 しかしこのマスコミの質問に対し、彼女は「ジャニー的枕営業的なものであり、断れなかった」と言い出すのです! フェミの特殊能力、「過去改変」の炸裂です!
 確かに「よく調べている」と思います。
 先のディアブロは要するに悪の組織の手先であり、彼女の指示で、社団法人は貧困女子を集めるように。ここもColaboを「よく調べている」のですが、ディアブロが「馬鹿な女は金のなる木」「私達がさらにステップアップするための捨て駒」などと言い出すのです。この辺りから、どうにもきな臭い感じがしてきましたが……さて、どうなるかと思っていると案の定、彼女らはシェルターに女性を匿い出します。
 タコ部屋フルなシェアハウスにぶっ込まれ、精神科医にデタラメな診断で重度の心の病を抱えているとされ、生活保護申請し、そのカネを法人で管理。
 これらもみなさんご承知の通り、実に「よく調べ」られています。
 ここに、先にも挙げた怨み屋本舗の萌えっぽい()娘がシェルターに潜入捜査を開始します。
 ここでかりんが彼女に「男性経験はないの、いい男性紹介しようか」などと言うのですが、これもまた、え? という感じ。
 もう一人、シェルターに匿われる女性が登場しますが、ホスト狂いで彼氏にDVを受けており、DVはともあれ本人も無反省な馬鹿女として描写されます。
 一方、かりんは過去の自分に似ているとの近親憎悪から貧困女子を憎んでおり、何と匿った女性に「男に身体を売れ、ここを追い出されたらホームレスに輪姦されるだけだぞ」と言い出します。
 買春相手は議員の醜い親父。社団法人は彼と癒着することで、さらなる利権に預かろうとしているのです。
 潜入捜査している萌え美少女がコンドームを渡されるという描写もあり、これもColaboの支援物資にそれがあったことを「よく調べ」た結果であり、おそらくそうした事実からこの買春という描写も思いついたのでしょうが……しかしこうなるとさすがに、実在の人物を露骨にモデルにしたにしては、フライングと称するべき描写だと思います。
 事実と異なるからけしからぬ、と言っているのではありません。単純にあり得ない(例えるなら粗暴犯が急にすごい知能犯的な詐欺を働くような)描写を、単にキャラをわかりやすいワルモノに仕立て上げるため、やってしまうのが安易なのです。
 当noteの愛読者の方には言わずもがなですが、フェミニズムの本質は男性憎悪であり(その憎悪がツンデレ的感情の発露であり、彼女らほど男性からの愛を求めている存在はないのは、本作の蜜箱かりんと同様とは言え)、このような描写は非現実的に過ぎるでしょう。
 なまじっかなことではバズらなくなったかりん、ついには先のDV彼氏から逃げてきた女性に対し、DV彼氏の仕業と偽装し、硫酸をかけます! そして彼女の整形手術の費用と称し、また募金を募るのです。これはアシッドアタックと呼ばれ、日本では聞きませんがインドなどではよくある事例だそうで、その辺から引っ張ってきてるかなあ。

 もっともさすがに彼女らの悪事もここらがクライマックス、怨み屋本舗がさんざん証拠を掴み、それを公表することで陰謀は全て露見というオチ。
 主人公(みなさんお忘れかも知れませんが主人公は「怨み屋本舗」の元締めの美女です)にはかりんに一喝。

画像

 いただきました!!
 似非フェミニストいただきました!!
 だああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁいてえええええええええええええぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ッッッッッッッッッッッッッッッッ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
 ぼくもバカではないので(いや、少しバカなのでしょう)主人公がクライマックスで「似非フェミ」と一喝するってのは事前に想像していました。
 しかしこの大駒を見て、やはり失意を隠せませんでした。
 先にディアブロという悪役の存在について描きました。
 この存在に、ぼくはちょっと期待してしまったんですね。
 彼女は先にも述べたように悪の組織の一員として、超越的な立ち位置を保っている。まさに「ディアブロ(悪魔)」として、人間を悪に引きずり込む存在として描くことができる。
 普通に考えれば……というか、もうちょっとお上品なコンテンツの普通の考え方で行くなら、このディアブロにそそのかされたかりんだが、最後は「報われなかった過去の自分を救おうとしての、歪んだ正義感の発露としてこのようなことをしていた」といった描写がなされるところでしょう。別に「同情すべき悪としての描写がなされるべきだ」と言っているわけではありません。同情されようとされまいと、彼女なりの歪んだ正義があったことを描写すべきで、「わかりやすいワルモノ描写」に落とし込む(ために売春の強要をさせる、政治家と癒着させる)のは安易だ、と言っているのです。
 ひるがえってディアブロは「男性への、家庭への憎悪の凝り固まった存在」つまりはフェミニズムそのものの擬人化として描くことで、ある程度の批評性、文学性を獲得することができたはずです。
 もちろん、作者は(読者も)そんなことを求めてはいなかったのだから仕方ない、のですが……。

 冒頭にも書きましたが、こうした漫画は本当に俗に徹した、文学性芸術性批評性など期待すべくもない時事系量産型業者動画と、質の低い転生漫画と、ソシャゲと同様のものです。
「時事ネタ」を丁寧に丁寧に拾って、大衆の満足する落としどころへと持って行ってあげるのが彼らのお仕事です。
 しかし、それにしても、ここまで「よく調べ」た上、後半で大幅な「創作」をぶっ込んで、後は(大したものでもないので細かくは言いませんが)バイオレンスなオチをつけて読者の溜飲を下げさせるというのは、まあ、何というかがっかりです。
 例えるならば、岸田総理についてさんざん「よく調べて」おいて、最後に「岸田は悪い宇宙人の手先だった」とオチのつく政治漫画みたいなものでしょうか。
「ワルモノは悪者であって欲しい」。
「ワルモノは最後に惨めにぶっ殺されて終わって、スカッとしたい」。
 そりゃそうでしょう、わかります。
 でも、ならばここまで時事を入念にトレースしなくてもいいでしょう。
 本作、社団法人がシェルター事業をやり出す下りでは主人公たちが「貧困ビジネスだ」と一席ぶちます(その他にも漫画の前半ではグラフが出てきたりで、そういうちょっとおベンキョになる路線も狙ってるのかと思いきや、中盤以降そうした要素はなくなります)。
 それはまさにそうで、そこはいいのですが、フェミニストがシェルター事業をやりたがるのは女性を家族から引き離したいからであり、そこには深い家族や男性への憎悪が潜んでいるのです。
 Colaboも同様であり、フェミニストたちは今までもDV冤罪、幼児虐待冤罪で家庭そのものを破壊してきた――それは拙著でも書きましたし、Colaboの件でも「WiLL Online」様で書いています(自分としてはかなり優れたものだと思うのですが、残念ながら反応はいつもより今一でした)。

「彼女らは利権のためにやっているのではない」とまでは言わないけれども、利権以上に歪んだ正義感が彼女らを動かしており、そこを一切理解できない人たちの姿が、ぼくには非常に奇矯なものに見えます。
 何でこの人たち、フェミニズムのフェの字も、フェの子音のFの字も、エフの字のそのまた頭文字のエの字も知らないのに、こうまで饒舌にフェミについて語っているのだろうと。
 そうした人たちはこの漫画を「絶賛」していることでしょうが、それはつまり、この漫画の作品としてのクオリティは、そのまま、その人たちの脳のクオリティであり、何というか、いくら何でも、もうちょっとあんたら……と思ってしまいます。
 念のために言っておきますが、これは別に特定の人物を指して言っているわけではありませんし、そもそもぼくはまだそうした「絶賛」評を見てもいません(これから目にするのが怖くもありますが……)。
 また、この漫画家を責めようというのでもありません。
 既にかなり責めたようなことを書いた気もしますが、そこは取り消しておきます
 先のような指摘はフェミニズムについて批判したければ常識であり、外してはならないものと思いますが、これを指摘している者はおそらくぼく以外にはほとんどいません(小山晃弘氏がちょっとしているくらいか)。
 本当に「よく調べ」ろと憤るべきは、漫画に対してではなく、そんな見識すら持てずにいる評論家もどきに対して、なのでしょう。

 


兵頭新児のレッドデータコンテンツ図鑑④『さすがの猿飛』――サブカル様のためになるお話

2023-07-02 23:48:58 | アニメ・コミック・ゲーム

 さて、『うる星やつら』に引き続き、当時はそのライバル的立ち位置だった作品について。
 実は動画でも本作が言及されており、その補足みたいな意味も含まれますので、どうぞお読みください!

風流間唯人の女災対策的読書・第46回「フィクトセクシャル――オタクは現実の女に興味がないのか」

 

  *     *     *

 

 さて、正直そんなにメジャーな作品でもない本作ですが、読んだこと、観たことのない方も『アオイホノオ』で言及されていたのを読んだことがあるかも知れません。
 1980年から『月刊サンデー』に連載開始された、乱暴に言えば『うる星』エピゴーネン的漫画。エピゴーネンというのは、あまり誉めた表現ではないですが、少なくとも受け止められ方はそのような感じだったはずですし、また作者の細野不二彦、ぼくもこの人の作品、一時期いろいろと読んでいたのですが、どうも作家性の強い方というよりは、計算で仕上げていくタイプの人ではないかという気がするので、恐らくご当人もそうした意識を持って描いていた作品なのではないでしょうか(何しろ、他にも露骨に『オバQ』、『めぞん一刻』を意識した作品のある作家さんです)。
 さて、そんなこんなで基本設定は、忍者学校を舞台にした美少女とデブ少年とのラブコメ。デブ少年の肉丸は一応、忍術の使い手としては一流なのですが、人間離れしたデブが主人公という辺り、『うる星』の時も言及した、当時の「男性」が像を結びにくくなっていた時代性を象徴しています。
 そんな時代性を持った本作、先にもエピゴーネンと言ったように、『うる星』の二匹目のドジョウを狙って1982年、アニメ化されました。とっとと二匹目をとっ捕まえねばと大慌てだったからかどうか、月刊誌連載であるがためエピソードのストックがなかったところのアニメ化で、たちまちのうちにネタが底を突きます。
 そのため、苦肉の策の「番外編」が連発されることになりました。今もキャラのスピンオフだの学園漫画でもないものを学園漫画化だの、近いパターンはよく見かけますが、当時は「あくまでその漫画連載(アニメ放映)内で番外編をやる」ということがよくありました。中でも多かったのは「舞台を変える」というもの。いきなりキャラクターたちが江戸時代の住人になったり、スペースオペラの主人公になったり。『うる星』でもよくあったパターンで、「日常系」でネタが尽きた時の定番企画でした。中でも本作は本当にそれが多く、三回に一回くらい番外編だったんじゃないかなあ、という感じ(……ウィキペデアを観たら、三分の一以上と書かれていました)。
 この辺りについては懐かしのアニメ(しかしなかなかスポットライトの当たらないものを絶妙にチョイスしている)サイト、「記憶のかさぶた」の「№50 さすがの猿飛」でも言及されているところで、詳しくはそちらをご覧いただきたいところなのですが……この時にパロディの「元ネタ」として選ばれていたのは、一つには当時上映中の話題作、そしてもう一つは往年の名作。『第三の男』とか。

 80年代当時は、オタクのためにアニメが作られ出した時代でした。例えば『超時空要塞マクロス』などはオタク世代が作り手に回った、オタクのオタクによるオタクのためのアニメ第一号と言っていいと思うのですが、まだまだ「おっさん世代の作り手」が多かった。一方では華々しい若者文化でありながら、一方ではおっさんが若者に向けて作っている面があったわけです。そこには時おり、「おい若いの、アニメばかりじゃダメだぞ。おじさんの若い頃にはこんな名画があってだな……」と言わんばかりのパロディが登場し、少々鼻についたものでした。
 そして、もちろんそれはそれで仕方のないことではあるのだけれども、アニメ誌などでは「おっさんの、オタクへの悪意」がさらに凝り固まった形で発露されている……といったことは以前、動画(風流間唯人の女災対策的読書・第37回「オタク差別最終解答」)でもお伝えしたことがありますね。
『うる星』がそうであったように、この頃のアニメは作品自体が「何でもアリの、スタッフが好き勝手に遊べる遊び場」であり、そこがアニメ文化、オタク文化という「新しい若者文化」を形作っていった面も、多いにあったわけですが、そうした世代間ギャップが露わになる場でもあったわけですね。
 さて、それともう一つ。
 本作のオリジナル展開はそのような番外編に限りません。
 ヒロインである魔子ちゃんは基本、肉丸の庇護下にあるのですが、やがて自立した女を目指すようになるのです。その「魔子の自立編」、たまに挟まっては、ヒロインがつまらぬ苦悩を延々し出してうっとおしい、という印象でした(このテーマ、Wikiによると決着を見ず、なし崩し的に終わるようです)。
 乱暴に言えば、オタクの誕生とは「男の子が初めて自分の遊び場を持った」という人類史上、記念すべき事件なのですが、その最初期から実のところ、その遊び場にはおぢさん(この「ぢ」が当時風)と女の子の邪魔が入っていたわけです。
 Wikiなどを見ても、「魔子の自立編」が女性スタッフによるものかどうかは判断がつきかねますが、まさに『水星の魔女』的な、そして『トクサツガガガ』的な、「少女漫画」感が濃厚なんですよね。
 まあ、近年もエロゲなどでいかにも女性ライターがプロデュースしたんだなあというような歪な作品のお手伝いをさせていただくことがあり、もうちょっと自分たちが男の子向けを作ってるって自覚を持ってくださってもいいんでは……と思うこともしばしばですが、どうもあの人たち、端っから「男の子向け」をテンで理解しておらず、しかし自分は男性的な志向を持っていると、どうもあどけなく信じているようなんですよね。

 さて、ではその最終回は……?
 当然、原作アニメと異なるオリジナル展開であり、主人公たちの通う忍ノ者高校が悪の巨大組織と戦うという話。日本政府は忍ノ者高校の生徒たちに出動命令を下し、宇宙戦艦大和(だいわ)で決死の特攻作戦を敢行! 何でお気楽ラブコメが急にこんな話になるのかわかりませんが、ともかく決戦前夜のキャラクターたちが死を覚悟し、また恋人が運命を共にしたいと闘いに同行しようとする様が丁寧に描かれます。
 しかし「愛する者を守って死ね」との命令に対し、主人公たちは「愛する者は隣にいるじゃないか」とはたと気づく。
 主人公たちは愛する者と共に戦線から離脱。悪の組織の総統はモテないがために女の子に怨嗟の念を抱くメカの天才少年で、そのため日本を滅ぼそうとしていたというオチがつきます(先の「記憶のかさぶた」では「受験に失敗し続けた浪人生、アニメと特撮が大好きなオタクで、外見のせいでを女にふられた」という設定が語られていますが、これは記憶違いと思しい)。
 女に怨嗟の念を吐くことに加え、兵器としてペギラやゴジラを繰り出す、メカフェチで人間よりもメカに愛着を持つ、また防衛軍側にも嘲笑される幼稚で子供っぽい敵として描かれ、「オタク」といった言葉はさすがに出てこないものの、明らかにそれを意識したキャラクター造型がなされています。
 日本は焼け野原になりましたが、忍法でリセット、破壊される前の日本が復元され、平和な光景のまま、終劇。
 何というか、サブカル君の薄っぺらな平和思想と醜いオタクへのへの憎悪がありありと現れた最終回ですねw
 この辺、ギャグ作品とは言えあまりにも破天荒ですが、この種のオタクを悪役に仕立て上げてドヤる、というのは当時、たまに見たパターンです。翻って例えば時期の近い『スケバン刑事Ⅱ 少女鉄仮面伝説』(1985)では(バックに日本を牛耳るジジイがいるとは言え)天才少年が高校生たちをオルグし、「十代の若者のみによる革命」を企みます。
 当時は丁度、学生運動が挫折し、オタクは政治を「ダサい」こととして上の世代をからかっていましたが、同時に校内暴力の吹き荒れた時期でもありました。つまり「正義」が失われたがため、若者たちの中で「DQN」はただ暴れ回り、「オタク」はおとなしくいじけていた。上の世代はそれぞれに自らの願望を仮託し、前者は反体制的スーパーヒロインであるスケバン刑事やその敵役(悪とは言え義を持った存在)に、後者は『猿飛』のラスボス(否定されるべき、ただ惨めな悪)に仕立て上げられたのです。
 最終回の脚本は本作のシリーズ構成を務めた首藤剛志。『ミンキーモモ』などの傑作で知られ、80年代的ニヒリズムというか、物語の定番を常に外す作家であり、ぼくも尊敬する作家さんの一人ではあるのですが……『モモ』や、他にも『ようこそようこ』など少女を主人公にしたアニメでは保たれているさわやかさが、ことマニア向けアニメになると受け手への憎悪へと取って代わってしまったわけです。
 受け手もまた、そうした憎悪を上の世代に植えつけられ、自らの周囲の、「俺よりも格が下(だと本人が信じる)オタク」へと向けた。
 男性というものが像を結びにくい時代、肉丸という戯画的に描かれた少年が美少女とラブコメを演じる本作は、外部に皮肉にもそうした「負の連鎖」を生み出し、エンディングを迎えたのです。

 さて、しかしさらにもう一つ、本作は期せずしてだと思いますが、先に述べたようにヒロインの「自立」をテーマにしつつ、それが「愛する者は隣にいる」という結論を導き、結果、主人公たちに「敵からの逃亡」という結論を導き出させました。
 ここには「女性の社会進出」「男女共同参画」が戦いを忌避させるのだとの、ある種の平和論が成立しています。『ガンダム』とかイキって女をいっぱい出してるけど、女が銃後にいないんだから、逃げちゃえばいいじゃん、という80年代的考えです。
 しかし、そうなると敵と戦う者がいなくなる。そこをごまかすために作り手はオタクに悪役を演じさせ、焼け野原もギャグでごまかして一瞬で「復興」させた。
 これはまさに、悪に挑むフリをしながら弱い者イジメしかできず、もちろん国を守ることもできない当時の左派の思想的終焉をも、描いてしまったように思えます。
 というわけで、何というか、終わり。