兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

ぼくたちの女災社会(その2)(再)

2024-07-28 19:33:54 | 男性差別

 

『ぼくたちの女災社会』[増補改訂版]刊行を記念して、ここしばらくnoteでは記事再録を続けています。
 本来こちらでは再録まではフォローしていないのですが、今回は少々の加筆があるので、こちらでも掲載することにしました。
 是非、増補版をお買い求めの上で記事をお楽しみください。

 

 そもそもこのブログ、最初はocnのブログ人で公開していたのを、ニコニコチャンネルのブロマガへと軸足を移し、noteにも掲載するようになりました。
 今回再録するのはそのニコブロ第一回記念で自著を語ったものです。
 もっとも、目下はそのニコブロ自体が見れなくなっており、果たしてこれからそちらの方をどうすればいいのかも、決めかねているのですが、ともあれこのニコニコ動画問題、『WiLL Online』でも書かせていただきましたので、どうぞそちらもご覧ください。

 さて、今回の再録記事ですが、書かれたのは2012年10月17日
 文中では「ココロコネクト」問題について言及されており、今となっては何のことだかわからないでしょうが、とあるアニメで、話題作りのために声優さんにドッキリを仕掛けたのです。アニメのオーディションを受けさせ、合格を告げるが、それが嘘。とは言え、声優さんはアニメそのものの「宣伝部長」という形で(これも何だか懐かしい響きこの言葉です)作品に参加できて、それなりに美味しかったはずなのですが、見せ方がどうにも悪趣味で、顰蹙を買った……といったことのようです。
 この「パワハラ」の微妙さを「セクハラ」の微妙さと絡めて論じることが、本稿の目的となっていました。
 もう一つは当時のネットでは「男性差別」というワードが人口に膾炙しており、言うなら今の「弱者男性」論壇の代わりに「男性差別」論壇とでも称するべきものがあった。が、それには今一、賛同できない、というのが本稿の主張になります。
 では、そういうことで……。

     *     *     *     *

  どうも、女災問題の第一人者・兵頭新児です。
 いや、「女災」って言葉自体、ぼくが勝手に言ってることなんで自動的に第一人者になるのは当たり前なんですけどね。
 三年ほど前、世に蔓延する「女災」を看過できず、ぼくは(兵頭名義としては)処女作、『ぼくたちの女災社会』を著しました。
「女災」とは「女性災害」の略。
 男女のジェンダーバイアス()に起因する、男性が女性から被る災いを、「女災」と呼ぶのです。
 いや、上にも書いたようにぼくが勝手に言ってることに過ぎないんですが。
 ――が、本書は最近、ぼくもあずかり知らぬまま絶版となりました。
 そのほとんどは、既に廃棄されているようです。
電子版はまだあるので買ってね)
 倉庫移転とかいろいろ事情はあったようなのですが、要するに売れなかったんですな。
「どうしてだろう? 『嫌韓流』くらいに売れてもいいのに」とおっしゃってくださった方もいました。
 確かにその通りです。
 あの本に書かれた韓国に対しての批判にどれだけの正当性があるのかを、ぼくは知りません。しかし「社会ではタブーとされ、今までであれば決して表には立ち現れなかったが、ネット時代になって可視化され、大衆の多くが共有していた本音」、そうしたネット発の本音が書籍という形になることで(具体的な部数とかは知りませんが)ベストセラーになった、という経緯については間違いがないでしょう。
 同様に女性優遇社会への不満は、ネットには満ち溢れているのだから、こっちだって売れてくれたっていいだろう。
 正直、ぼくもそう思います。
 が、やはりぼくの実感としても、本書は読まれたとはあまり思えない。
 本書を読むことなくあちこちに悪口を言いふらしていた文化人()も幾人かおりましたが、まあそれは、そういうものなのでしょう。そもそもそうした人たちは「ミソジニー」といった言葉を捻り出して、「女性への批判自体が絶対に許されざることなのだ」と真顔で主張するほどの徹底したファシストであり、本の内実をわざわざ云々するような誠実さは最初から持ちあわせてはおりません。
 が、正直、本来であれば「ぼくの味方」である人たちにも、本書を読んでくれた人たちは大変に少なかったのではないか。
 それこそが、『女災社会』の敗因だったのではないか。
 今回は、第一回を記念しまして、それを分析する体を取って、愚痴、不満、恨み、妬み、嫉み、僻みの感情を吐露してみようかと。
 みなさん、ご愛読いただければ幸いです。 

 ――さて、とは言え、いくつかのサイトでは本書を好意的に紹介していただきました。
 そこでは「男性差別に悩む方にお勧め」「本書では男性差別を女災と称し云々」といった紹介をしてくださったように記憶しています。
 が、これはときどき言っていることなのですが、ぼくは「男性差別」という言葉があまり好きではないのです。
 むろん議論の際、わかりやすさを優先して取り敢えずこの言葉に乗っかることもありますし、「ではお前はこの世に男性差別はないというのか」と聞かれたら恐らく「ある」と答えることでしょうが、言葉としてはあまり好ましく思わない。
 何となれば、「差別」という価値観の体系の上に乗っかっていては、いつまで経ってもこの問題は解決できない、と考えるからです。

  さて、ここで今更「ココロコネクト」問題です。
 詳細についてはぼくよりも皆さんの方が遙かによくご存じでしょうから、省略させていただきますが、ぼくがこの問題に引っかかりを感じたのは岡田斗司夫さんがニコ生で採り上げていたことがきっかけです。

#016 ニコ生岡田斗司夫ゼミ「タブー完全無視の一問一答地獄」~ブロマガから領土問題まで~201209

「芸能界はパワハラOKだろ」と、岡田さんはおっしゃっていました。
 それは頷けないけれども、現実問題としてそうだろうと思います。
 岡田さんは「パワーバランスの読み違いだ」ともおっしゃっていました。「このドッキリを仕掛けられたのがお笑いタレントであれば美味しかったろう」「或いはもうちょっと売れてない若手の声優であったなら、役がもらえて美味しかったのではないか」とも。
 つまり、微妙な「さじ加減」の問題だったというわけです。
 ぼくもその考えに賛成します。
 彼はこの問題を「そこまで騒ぐ問題ではない」と言っていたし、ぼくもまた、ある意味そう思います。というのは「これより非道いけれども表に出せないケース」は無限にあるに決まっているからです。岡田さんの考える「役がもらえて美味しかったケース」も恐らく無限にありますし、そうした事例と全く線対称の、「話題にならず役ももらえず、しかし干されるのでツイッターでもつぶやけず」という最悪のケースだって、恐らく珍しくはないはずだからです。
 勘違いしないでいただきたいのですが、ぼくは「もっと非道い目に遭ってるやつに比べれば大したことがない、ガマンしろ」と言っているわけではありません。ただ、さじ加減が微妙なケースであった、後耳かき一杯だけ砂糖を入れていれば美味しくいただけたのに、と言っているのです。岡田さんの本意もまた、そうしたものでしょう。

  本件は「パワハラ」問題です。
 が、この「パワハラ」に「セクハラ」を代入すれば、ぼくの立ち位置が明快になるのではないかと思います。
 セクハラというのも本来は労働の場での、上下関係を盾にとってなされる不当な行動のことであり、実は完全にパワハラの一カテゴリと言っていいものでした。
 しかしこの上下関係というものは、少なくとも資本主義社会においてはなくては困るものであって、それをなくしてしまおうというのは無意味な空論であると、普通の人であれば考えるところだと思います。
 そうなるとパワハラの全くない社会というのもまた、極めて空想的です。つきつめれば上司のあらゆる言動をパワハラであると言えなくはないのですから。
「ぼくたちはパワハラがある社会に生きている」「しかしなるべく行き過ぎはなくそう」そう考えた方が前向きでしょう。
 しかし――ここからが本題なのですが――フェミニズムは男女関係における問題を、性差の全てを「リセット」することで解決しようと企てました。彼女らは男女のジェンダーは後天的なものであり、なくしてしまえるもの、なくしてしまうべきものと考え、「ジェンダーフリー」を唱えました。
 近年、その後天論自体が誤りとわかったのですが、彼女らは特に過ちを認める様子もなく、いまだジェンダーフリーを唱え続けています。いや、ジェンダーが後天的であろうと先天的であろうと、「リセットする」という乱暴な考え方が既に短絡的に過ぎ、とても賛同できるようなものではないのですが。それはちょうど、「パワハラをなくすため、将軍様以外はみな平等な社会体制を作ろう」といった暴論と全く同じ、いやその一万倍くらいは乱暴な机上論です。
 岡田さんはこの種のドッキリを見て微かでも不快感を感じてしまうのは、そこに「上下関係」が見て取れるからだ、とおっしゃっていました。ぼくも随分昔、「ウルトラクイズ」か何かで異常に執拗な若手タレントいじめを見て慄然とした記憶があります(ただしこれもよくわからないままに一部だけを見て、文脈が理解できず笑えなかった……といった可能性も、大いにありますが)。
 しかしぼくたちはまた、例えば時代劇で金さんや黄門様が町人に優しくするような、「上下関係」を快感として感じる回路を持っているということもまた、忘れてはなりません。
 言ってみれば本件は、SMショーで鞭打ちはおkだが浣腸はNGの女性が浣腸プレイを強要された的な、現場としては、個人としては重大な問題だけれども、SMのココロを解しない第三者がずかずか上がり込んでケンケンガクガクするようなものではない微妙な問題であった、と思うのです。
 ぼくがこの問題が異常に拡大したことに対して感じた違和の本質は、恐らくそういうことであり、男女間のトラブルにも全く同じことが言えるように思います(当たり前ですが本件について騒ぐこと、或いは男女間のトラブルについて法整備すること自体が悪いのだ、と言っているわけでは全くありません)。
 いささか遠回りをしましたが、「ココロコネクト問題」が許せないからといって職場に上下関係があること自体は仕方がない。同様に男女間の問題をジェンダーフリーによってリセットするというのも乱暴極まりない話です。
 ぼくたちが考えておかねばならないのは、ぼくたちがそうした磁場の中で生きており、それをまず受け容れた上でのバランスを取るしかない、ということなのです。
 フェミニストは「男女間のあらゆるセックスは全てレイプである」と考え、それらをなくすためにジェンダーフリーを強行しようとして、支持を失っていきました。
 男性論の世界で大先輩に当たる小浜逸郎さんは名著『男はどこにいるのか』において、フェミニズムを

 男と女の性的な磁場の本質からその否定的な現れのみを抽象して、そこに政治的意図を新たに塗り込めたところになりたっている。

  と表現しました。この一文以上にフェミニズムを的確に言い表した言葉を、ぼくは他に知りません。
 ぼくもまた、「男女間のあらゆる関係は全て女災」と考えますが(上のフェミニストの「暴論」程度には理のある「極論」だと思います)、しかしそれらをジェンダーフリーでリセットしようとは、考えません。
「男性差別」論壇も一枚岩ではなく、果てしなくフェミニズムに親和的な人々から、ただひたすら「女氏ね!」と言っているだけの人々まで多様なグラデュエーションを描いているのですが、意外や「ジェンダーフリー」的な発想の人が多いように思います。
 フェミニズムに親和的な人々は彼女らのロジックを全く疑いなく鵜呑みにしていますが、女性に敵対的な人々は「あまり深く考えず、とにかく差別は悪だ、平等は善だ、と唱えているうちに、いつの間にかジェンダーフリーに絡め取られてしまった」人が多いという印象を、ぼくは持っています。例えば女性専用車両に反対するうち「男女平等であるべきだから、分けること自体が許せん」という結論に辿り着いてしまった人々。彼らは「男女の車両を、更衣室やトイレのように分けてしまおう」というアイデアには、決して首を縦に振りません。
 手短に、まとめます。
「差別は悪い」と言われたら、それは誰もが否定できない「正義」でしょう。
「平等は正しい」もまた、しかりです。
 しかし「平等=全てがみな同じ」といった考えに囚われると、それはフェミニズムと同じ過ちに陥ってしまう。
「差別」という言葉を聞くと、ぼくが身構えてしまうのは、そんなところが理由です。
 それともうひとつ。
 上に「女性専用車両反対運動」について採り上げました。目下、「男性差別云々」と言うと、どうしてもそうした人たちが一番に目立ってしまっています。
 正直、女性専用車両はぼくにとって「女災」の氷山の、それも小さな小さな一角に過ぎないことなので、彼らがどうしてあそこまでそれにばかりこだわるのかが、どうにも不可解です。
 時折、フェミニストたちが彼らを評し、「女性専用車両のことばかりを騒いでいること自体、それ以外には『男性差別』がないことを証明しているではないか」と言っているのを聞きます。
 ぼくは恐らく彼らは、それに反論する言葉を持たないのではないか、と思っています。
 ぼくたちに必要なのはいきなりわけのわからない運動を始めて、世間の失笑を買う「勇気」ではありません。
 もう少し、状況を抽象化させて、問題の本質が何かを考えてみることです。
「男性差別」は結論です。
「差別は悪い」というのは現代社会では疑うことの許されない「正義」なのですから。
 だから彼らは「男性差別」と唱えた瞬間、「結論は出た」と感じ、「運動」に乗り出してしまったのでしょう。
 しかし現実問題として「男性差別」は世間に許容されています。いえ、「差別」という概念(近代的な人権観みたいなもの?)が生まれた瞬間、恐らくそこには「男性による女性差別」という概念が前提されていたはずで、そもそも「男性差別」という言葉自体が「青いアカレンジャー」みたいな一種の形容矛盾に他なりません。だから恐らく彼らの「運動」は何万年かけようと、実を結ぶことはない。
「女災」はスタート地点です。
「何故、性別によって『差別反対』という『正義』の恩恵を受けられる者と受けられない者に分かれてしまうのか」。
 それを考えるために作られた、スタート地点の言葉が「女災」です。
 ぼくはこれからここで、「今まで誰も考えなかったこと」について拙い考察を行っていこうと、思っています。
 ご愛読いただけたら、幸いです。
 大切なことなので、二度言わせていただきました。


風流間唯人の女災対策的読書・第38回「男性差別最終解答」

2022-10-29 18:23:41 | 男性差別

 

 第三八回目です。
 前回は「オタク差別」の真実についてお報せしました。
 しかしでは、「男性差別」は……?
 中の人(兵頭新児)はそもそも「差別」という「切り口」そのものがもはやオワコンではないか、と考えています。
 それは一体何故? それでは、それに対してぼくたちはどのように対抗していけばいいのか……?

風流間唯人の女災対策的読書・第38回「男性差別最終解答」

 また、本件と強く関わるブリジット問題を、『WiLL Online』様で採り挙げています。
 どうぞ応援をよろしくお願いします!

LGBT・ポリコレ勢が名作ゲームの世界観を破壊


恋愛氷河期

2015-09-25 19:05:27 | 男性差別


「この世は神様が作ったんだから、ちゃんとした法則性があるに違いないンゴ」
「よし、その法則性調べるため、“自然科学”というツールを考えたンゴ」
「それによって神様がいないことがわかったンゴ」


 以上、三行でわかる科学の歴史でした。
「自然科学」は「キリスト教」の子供です。
「キリスト教」を殺した、親殺しの息子です。
 そして「フェミニズムの息子」たる勝部元気師匠もまた……というのが今回のお話です。もっとも勝部師匠が、ご自分のおっしゃっていることと聖書との徹底的齟齬に自覚的であるかどうかは、いささか心許ないのですが……。

 さてこの勝部元気師匠、「KTB」との愛称で親しまれる、twitter芸人としても著名な方です。チャラいホスト風のルックスで古拙なフェミニズムのロジックを振り回す、というのが芸風で、
LUMINE(ルミネ)が女性蔑視のセクハラCMを作って炎上中
いい加減ナンパを禁止にしてくれませんか?キャッチより怖いんです。
 といった珍論奇論を展開しては、まあ、はっきり言って男性女性問わず広範囲の人たちからブーイングを受けています。
 笑ってしまうのは本書の帯。

ナンパ禁止論や「反・不倫」論で話題を呼んでいるコラムニストが断言


 とあります。むろん、ブーイングであろうが何であろうが商売に利用できるものはする、という態度は正しいとは思うのですが。
 そんなわけで処女作である本書を、手に取ってみたわけですが……。
 とにもかくにも本書は、女に対して「恋愛、結婚ができないのは貴女のせいじゃない」、と繰り返します。帯にもまえがきにも本文でも最初の1p目から、そうした主旨の文章がとにかく何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も繰り返されます。
 では、何が悪いのか。
「貴女が結婚できないのは社会が悪い、結婚というシステムが社会の変化に対するアップデートができていないのだ」というのが師匠の主張です。
 師匠はプロローグから、「恋愛文化の終焉」との節タイトルを掲げます。おわコン化したのは結婚だけでなく、恋愛もまたそうだ、というわけです。
 師匠はまるで本田透の本でもパクッたかのごとく、ヴェルナー・ゾンバルトを引用し、資本主義、恋愛至上主義を糾弾します。

お金儲けを企む企業や人が、「モテないと負け組だぞ? 異性に選ばれたければ努力しろ! お金を使え! オシャレしろ! プレゼントしろ! ダイエットしろ! キラキラしろ! アイテムそろえろ! 女子力・男子力を磨け!」という圧力をかけます。それによって、恋愛・結婚のハードルがみるみる高くなってしまったのです。
(20p)


 なるほどなるほど。
 或いはKTB師匠は「電波男」の後を継ぎ、この世に「真の愛」を求めようという愛の戦士なのか?
 更に読み進めると、師匠は「なんと、一人暮らしの若者は女性のほうが、可分所得が高いのです。(57p)」と指摘。
 おぉ!
 いいぞ、KTB、もっと言え!!
 第1章では現代の恋愛が長期化し、仮に交際した時も「別れ」が念頭にあるために、結婚の困難さがあると指摘していますが、これは全くの正論でしょう。また婚活などの場でも「代わりがいくらでもいる」気安さから関係が安易になりがちであり、また打算で相手を見てしまいがちだと批判。その意味で、「打算」の部分を親や上司が引き受けてくれたかつての見合いを、彼は評価します。
 時代の流れであり、不可逆的なこととはいえ(例えばぼくも自分ではあまり見合いをしたいとは思いません)、これはこれで正しい指摘でしょう。
 第2章「恋愛のステップアップ術」では、出会い系サイトなどで「よい出会いを期待します」などの定型句があるが、受け身で期待していてはいけない、関係は作っていくものだとバッサリ。
 おぉ! いいぞKTBアニキ!!!
 また「男らしいタイプ」「尊敬できるタイプ」が好きという女性は相手のお金、権力、地位が目当てなのだから危険だと、いちいち大仰に頷かずにはおれない正論の嵐。
 輝いてます、アニキ!!
 第5章のタイトルは「ホテル代を割り勘する女性が幸せなわけ」。
 ホテル代を割り勘にする女性、男性に支払わせる女性、どちらがいいかと男性に聞いたところ、全員が「割り勘女子」の方を選ぶと言っていたぞ、とアニキ。「(男にばかり支払わせていては)ステキ男子の支持を失う」との節タイトルもステキな、アニキの正論!

 1つは、「お姫様願望を満たすためにお金は払ってほしいけれど、発言権はしっかり確保したい」というご都合主義に陥ること。これでは自立した魅力ある女性とは言えないですし、都合よく女性の体を消費しようと考えている男性から狙われても致し方ないと言わざるを得ません。
(148p)


 ステキです、アニキ!!
 感激に打ち震えながら、もう一度パラパラと目次をめくると――目に留まるのは節タイトル。

スマート女子とガラパゴス男子
マトモな男はいなくなった
女性の成長を邪魔するお荷物男子たち
男のプライドはどんどん傷付けよう


 ん……?
 何だかきな臭いものを感じつつ「スマート女子とガラパゴス男子」を眺めてみると、

 ファッション、食生活、趣味、キャリアコースなど、女性の価値観や生活行動は、時代の変化とともに急激に変化しています。一方で多くの男性がその変化に追いついていません。
(24p)


 う~ん……以前も採り挙げましたが、この種の「女は変化している」論ってバブルの遺物なんですよね。「女はファッション/食生活/趣味が豊かだが男は貧しい」とドヤ顔の師匠ですが、それ、女がカネ持ってるってだけやん。若年層では女性の方が可分所得が高いことを指摘したページでも、女性のコミュニケーション能力の高さを掲げ、これからもその傾向が強まるだろうと得意げですが、女の方がカネを持っているのは、女が男を養うことがないからでしょう(ちなみに本書には「主夫」という概念は登場しません)。
 また、ファンタジーであるコンテンツが日常に溢れる現代にはファンタジーリテラシーが必要となるが、男性はそれに乏しく、異性に対する歪んだ認識を持ちがちだ、との主張も。むろん、その主張を裏付ける根拠はどこにも記されていません
ロクでもない男の親はだいたい毒親」の節では、恋愛のハードルが上がったのはモラルの低い男性が増えたからだ、とご高説。そして、そうした男性の親は毒親だそうです。
 なるほど、母親が悪いのだな。また、当然女性のモラルも低下しているのだな……と思っていると、もちろんそうではなく、社会が女性を主婦に追い込んだから悪いのだそうです。う~む、均等法が施行されて三十年近く経つ今は、素晴らしい男女が増えていそうなものですが……。
 そうした男性は人格が未成熟なため、被害者意識で自らを武装し、攻撃性を発露させるとのことですが……それみんなフェミのことやん!!
 さて、ここで師匠は「モラル、モラル」と繰り返しています。また、「DV」「ストーカー」「リベンジポルノ」などといった性犯罪を例に持ち出してきています。
「レイプ」などを持ち出さず、「モラル」というどうとでも言えるモノや、近年の概念ばかりを例示するのは、「レイプ」などでは「減った」という数字が出るため、指摘されないための用心ではありましょう。師匠も満更、バカではありません。
 こうした男性の未成熟さの原因を、師匠は核家族化など現代社会の状況に求めていますが、しかし昔の方がDVやストーカーなど(そうした言葉がなかっただけで)非道かったはずだと思うのですけれどもね。
女性の成長を邪魔するお荷物男子たち」では「家庭的な女性がいい」との男性の恋愛観に従うと、女性の成長が止まる、婚活本などもそうした男性側の女性観を女性に押しつけている、男が悪い、と主張。
 いや……婚活本などを書いているのは大体女性でしょうし、そうした本が売れている以上、そうした女性観は男性が押しつけたものとばかりは言えないのでは……。
 男が「家庭的な女性がいい」と言うことをマザコン的甘えで、それが女性を傷つけていると主張するページでは、驚くべきことに「東南アジアの屋台文化に学べ」と提案しています。貧しい東南アジアを天国のように偽り、「日本よりも女性の社会進出が進んでいる、家事のアウトソーシングが進んでいるからだ」とするお馴染みの主張ですが、そんなモノに学ばなくても日本にはコンビニがあるでしょうに。それとも師匠、その存在をご存じないのでしょうか……?
 ひょっとすると師匠は大富豪で毎日ステーキの生活をなさっているのかも知れません。羨ましいですね
 補足しておけば、「ホテル代を割り勘する女性が幸せなわけ」の節においても、「割り勘を好む男ばかり」ではあるものの(それならば理論上、「男の方が女より先進的である」と言わざるを得ないと思うのですが、そうではなく)「そうした男子の中にも女性の人格を認めるが故に割り勘を選ぶPC的に正しい男子と、単に安くやりたいPC的に悪い男子がいるぞ」と「ワルモノ作り」の心を忘れない辺り、さすがの腕前です。
 とにもかくにも本書では「結婚できないのは貴女のせいではない」と「自己責任論」悪い主義を振りかざすその返す刀で「男が悪い、男が悪い」と繰り返しており、このダブルスタンダードぶりはいっそ潔いほど。

 第7章のタイトルは「結婚できないのは、あなたが悪いんじゃなくて結婚が悪い」(またかよ!)。
 ここでは「結婚は2億7645万円の損失」だとされます。これは女性がずっと働いた時の生涯賃金らしく、結婚はそれを諦めると言うこと。それ故、非婚化が進んでいるのだそうです。何と言いますか、「男にとって結婚は1億円の無駄遣い」というコピペを思い出します。
 ちなみに「女性はその全員が社会進出を望んでいる」は師匠にとっての大前提であり、専業主婦志望の女性という概念は、本書には存在しません
 この章でも、またまえがきでも、師匠は日本生命の調査を持ち出し「結婚したくない女性が男性の2倍になった」「結婚にプラスのイメージが持てないからと回答する女性が男性の2倍になった」と吹聴します。
 これはネットでも結構あちこちに書かれ、師匠自身もtogetterでまとめているのですが(「結婚したくない」女性が男性の2倍!増える結婚ボイコット)、これは実は70代、80代といった高齢のの女性の答えをも含めたデータであり、20代に絞ると男性の方が結婚したがっていないんですね。これは加齢と共に葡萄が酸っぱくなっているだけで、むしろ結婚願望の高さの表れでしょう。ちなみにそうしたデタラメさはtogetterでも指摘されているのですが、それを改めないどころか著書にも引用する辺りに師匠の不誠実さが見て取れます
 また、「個の時代だからみな結婚しない」と現状を(古市師匠の本をも持ち出して)肯定。少子化は「仕事と家庭の両立という無理ゲー」を強いる社会のせいだと続けます。いえ、それを女性に強制しているのはあなたのボスだと思うのですが。
 終盤に入ると、「なぜ、日本人男性はフランス人男性の10倍以上浮気をするのか?」という節が登場します。十倍という数値に驚いてよく読めば、師匠がこう主張する根拠は、買春のデータだけです。つまりここでは先と同様、「買春=浮気」という詐術でこうした主張がなされているのです。
 フランス人男性/女性と日本人男性/女性の比較は図にもなっており、要するに「日本の男はセックスをアウトソーシング、家庭機能を伴侶に求めるが、フランスの男は逆」。また、そこから導き出される必然として日本の女は母親役を強いられ、フランスの女は「母親である前に女性」であるともしています。
 ぼくは日本人男性の方がまだマシな気がするのですが、これ、女性には魅力的に映りそうですよね(大体、フランスって国を出された時点で女性はメロメロって気がしちゃいますし)。
 ところが、そこまで言っておきながら、フランスやスウェーデンでは結婚しない女が増えていることを称揚するので、こっちはひっくり返りそうになります。本書も最後の最後になって登場するこれが、どうも師匠の本音と言えそうです。
 それはつまり、「結婚も恋愛もおわコン、みなさん、一生"個"として生きていきましょう」というものですね。

 ――さてみなさん、いかがお感じだったでしょうか。
 勝部師匠が男の敵である、という事実は十全に伝わったかと思います。
 が、重要なのはネット上で、師匠は必ずしも女性に受けてはいない、ということです。
 この、ホスト面が。
 上にもある通り、師匠は「ナンパを法で禁止せよ」と署名運動を展開していらっしゃる面白い方です。また、「サニタリーボックスを汚物入れと呼ぶのは女性蔑視の現れ」とのまとめを作り、女性にどっ退かれたという経験もおありです。後者は発言をあっさり削除してしまったのですが、何と言いますか……「ジェンダーフリーを真に受けたガリ勉君の暴走」という微笑ましい感じが、どうしてもしてしまいます。師匠はきっと、「ジェンダーフリーなフェミニストの女性たちは、ボクの主張を冷静に理論的に受け止め、誉めてくれるはずだ」との思いがあったのではないでしょうか。
 本稿の冒頭、ぼくは師匠を誉め殺しました。例えば「デートの時に割り勘にせよ」的な主張はそれこそ「男性学」「マスキュリニズム」と称する先生方も時おりなさり、ぼくもそれ自体は賛成です。しかし同時にぼくは、「だが、とは言え、そうした主張をしながらもフェミニズムのダブルスタンダードに気づけない彼らは信頼できない」といった主旨のことをずっと言い続けてきたはずです。
 勝部師匠の言もそれと同様なのですが、それに加え、上のサニタリーボックスの件のような「女性の機微を理解しないマジメ君の失態」的な振る舞いがどうにも多く、ぼくは何だか師匠を憎めません。
 師匠の主張のうち、ぼくが誉めたモノも上の「サニタリーボックス云々」も、実はフェミニズムやジェンダーフリーに則れば、正しいこと、のハズなのですから。
 ひるがえって見合いを称揚したり、不倫を否定したりはフェミニズムに反しますが(フェミニズムは家族制を否定するので不倫はむしろ正義のはずです)、しかし「女性のため」を思えば決して間違った主張ではない。彼が持続的な愛情を重要視し、「腰や肩を抱えながら一緒にホームパーティーで来客を出迎えている海外の中年夫婦(123p)」を称揚しているのもそれで、これは欧米の強烈なカップル文化、ロマンチック・ラブ・イデオロギーのタマモノであり、フェミニストにとっては気の狂うほど憎らしいモノのはずです(あ、俺もここだけはフェミに同意だわ)。

 ぼくも勝部師匠のファンの一人として、ネット上でついつい彼をいじってきました。
 そんな中、ぼくは彼にはプロデューサー的なフェミニストがいると想像してきました。今時、バックアップがなければ無名の作家が本などなかなか出せませんし。だから権力を持つフェミニストが一般層にアピールする戦略として、こうしたチャラ男に本を出させたが、彼自身はフェミを超えたビッグさで、一般層もフェミ自身もどっ退き、といった図を想像していたのですが、こうして見るとその想像は当たっていないように思います。
 恐らく、彼は独学です。
 そのため、先の「ロマンティック・ラブ・イデオロギー」といった概念はご存じではない。コンビニをご存じでないように。
 ただただマジメなガリ勉君であるがため、フェミニズムの主張を鵜呑みにし、フェミニストの見ている方が気恥ずかしくなるような輝かしいな自己像を真に受けてしまった。そのため、一方ではフェミニズムに則った(一般の女性からは総スカンを食う)高邁な主張をする。
 一方では「常識的女性」の感覚に則った反フェミ的な主張をする。
 彼の珍論奇論はそれぞれ一つ一つは「フェミニズム、或いは女性の利」に敵っており、奇しくもフェミニストたちのダブルスタンダードぶりを明らかにする破壊力を持つに至ってしまった。
 それが、実態なのではないでしょうか。
 ぼくが先に挙げた比喩の意味も、もはやおわかりでしょう。
 我らがKTB師匠は神殺しの兵器、ロンギヌスの槍だったのです。

夏休み男性学祭り(その3:『日本のフェミニズム 男性学』)

2015-08-28 18:03:04 | 男性差別


 さて、相も変わらず「男性学」についてです。
 90年代にちょっとだけ騒がれ、そのまま消えていった「男性学」が近年、まさかの復活の機運がある。ならばこちらとしては、「男性学に騙されるなかれ」との警告を発するためにも、当時の状況を今一度見直しておこうと考えたわけです。
(ちなみに「メンズ・リブ」、「マスキュリズム」などとも呼ばれるものも似たようなものですが、本稿では「男性学」で統一します。また「男性学」の研究者、支持者をここでは「男性学」者と呼ぶことにします)
 さて、今回採り上げるのは「日本のフェミニズム」というシリーズの、その中でも別冊扱いの一冊です。出版は1995年で、やはり当時のフェミニズム界隈で「男性学」が無視できない勢力であったことを伺わせます。
 本書を読んでいて、ぼくは感じました。
『ゆう君ちゃん』みたいだなあ……と。
 と言っても、ご存じない方が大半でしょう。『ゆう君ちゃん』については後にまたご説明しますので、まずは本書のご紹介から始めましょう。

 ページをめくると真っ先に始まるのが、上野千鶴子師匠による端書き、そのタイトルも「「オヤジ」になりたくないキミのためのメンズ・リブのすすめ」。
 内容は本書に収められたそれぞれの論文への一口批評集、といった感じなのですが……このタイトルだけで、何かため息が出てきません? ぼくは出てきました。
 この「オヤジ」になりたくない「キミ」とは誰なのか?
 何故「オヤジ」になりたくないのか?
 そもそも「オヤジ」って何?
 今の目からは次々と疑問が浮かんできますが、当時はそれらの説明は全くの無用だったのです。
 当時、「オヤジ」は絶対悪でした。女性を差別し、搾取し、一方会社社会にその全てを捧げ尽くしながらも、女性たちに逆襲され、その地位を追いやられ、全てを失って朽ち果てるだけの「産業廃棄物」でした。
 一方、当時の上野師匠は、例えば別冊宝島といったメディアで「彼女の欲しい少年たちの味方をする、優しいお姉様」といったキャラづけで小銭を稼いでいました*1。フェミニストは、「オヤジ」のような保守反動男性になりたくはないと望む少年たち、即ち「新男類」*2を導く、女神だったのです。
 さてこの端書き、読み進めると五行目から、


 かれらが「男らしさ」から降りないのは、ほんとうは「男らしさ」から利益を得ているからではないか。たとえ胃潰瘍になっても「カローシ(過労死)」をしても、コストにみあう報酬が還っているからではないか?
(4p)


 と筆の滑りは絶好調。
 いや、しかし、死に見あう利益があるとは言いも言ったりです。
 ぼくたちは企業社会に殺されながら、その生命に見あうほどのメリットを得ているのだそうです。そのメリットが何なのかは、明らかにされませんが。
 それならばぼくたちは主夫になるので、そのメリットは女性たちに譲渡して、是非とも過労死していただきたいと思ったのですが、更に読み進めると


 「カローシ」という言葉は、いまや「スキヤキ」「ジュードー」とならんで、翻訳なしで流通するニホンゴのひとつになった。日本の男たちの生き方は、女にとってすこしもうらやむべきものではない。
(216p)



 などとぬけぬけと書いているので、こちらはひっくり返りそうになります。
 つまり、男は全然いい目を見てないって師匠自身が認めているわけです。
 フェミニストたちが「男性は女性を搾取し、一方的に利を得てきた」と語っていたことは全部ウソだったのだと。
 こうなると師匠が冒頭で「カローシ(過労死)」をしても、コストに見あう報酬が還っているからではないか? などと言ってみせたのは、単純にフェミニズムのウソを誤魔化すための、思いつきだと言わざるを得ないようです。フェミニストはこういう、子供でもしないような妙な論理展開をする方が大変に多く、見ていて唖然とさせられます。
 前回記事でも書いたように、当時は「女性が企業社会に入っていくことにより、何かが変わる」との期待がありました。政治の世界ではマドンナ旋風とか言われ、サブカルチャーの世界では少女漫画が聖書のように扱われていた時期です。
 なるほど、「男が女よりも得」というウソはさすがにもう通らない。そこは諦めましょう。しかし「男は女性を搾取し、自身をも破壊してきた」という言い分なら通るかも知れません。上のリクツと総合すると、「しかし女性が企業社会に入ると驚くべき改革がなされ、そのような破壊活動には終止符を打つことができるのだ」との仮定も成り立ちそうです。何だか民主党のマニフェストみたいですが。
 しかし女性が会社に入ることでどのような改革がなされるのか、その具体策は誰も語りませんでした。「ワークシェアリングで世の中がよくなる」的な話は聞きましたが、そんなの、女性が主夫を養うようになってからの話ですよね。
 彼女らが自らの矛盾を脳内でどう処理しているのかは不明ですが、ともあれ、「男性学」が当時の「男性も女性の生き方に学べ」的な風潮の一端であることが、ここからも伺えるかと思います。それは上野師匠自身が「男性学」がフェミニズムの産物であると指摘していることからも、証明できましょう*3


 男性学とは、その女性学の視点を通過したあとに、女性の目に映る男性の自画像をつうじての、男性自身の自己省察の記録である。
(2p)


 つまり「男性学」とは「フェミニズムに学ぶことにより、男性も救われるのではないか」との願望だったのですが、師匠はよりにもよって、その「男性学」の本の1p目から、「いや男性は(過労死に見あう)利を得ているのだ」と支離滅裂なことを口走ることで、ある種、男性へと肘鉄を繰り出してしまっているわけです。
 非道いです。
 もう泣きそうになりながら更にページをめくれば、得意げに家事や主夫業に精を出してみせる村瀬春樹、たじりけんじ両師匠を紹介し、


フェミニズムに理解のある男たちといえば、まっさきに思いつくのが「家事・育児をする男たち」である。(中略)妻に迫られ、あるいは子育ての状況に強いられ、または自分自身の意思から、不払いの家事労働をになうことで、「二流市民」にドロップアウトする危険を冒す男たちがいる。
(11-12p)


 などと評し出します。
 なるほど、彼らがそこまで正しい存在なら、さぞかしフェミさんは喜んで彼らを「扶養」しているんでしょうなあ、と思ったのですが、意外や意外、男性を養う女性の率はむしろ過去の方が(ちょっとソースを失念したのですが、確か均等法以前の方が)高かったそうです。
 こうなると師匠が「家事・育児をする男たち」を持ち上げて見せたのは単に「男への復讐心」からであり、ホンネは「男と女の美味しい部分、楽な部分のいいとこ取り」をしたいというものであるようです。上の記事でも、また前回記事でもご紹介したように「男性学」者たちが「女性ジェンダーを身につけさえすれば俺も救われるのだ」と一心不乱に家事をしていることを考えると、もう可哀想で泣きそうになります
 余談ながら、そもそもそこまで男性ジェンダーが劣り、女性ジェンダーが優れているのなら、「ジェンダーフリー」など愚の骨頂のはずなのですが、彼ら彼女らがこうした矛盾に目を向けるのは、見たことがありません。
 更に指摘するならば、フェミニストたちは「マッチョなオヤジ」の攻撃性、権力欲を憤死しそうな勢いで憎悪しますが、彼女らの素描するそうした「マッチョなオヤジ」像はあまりにも現実と乖離したものであり、更に、裏腹に彼女ら自身が彼女らが素描する「マッチョなオヤジ」を超えた幼稚な攻撃性、権力欲を発露させることにためらいのない人々であることが非常に多い。ここ、以前にも書いた「男性学」者自身がどんな男性よりもマッチョである、というお話と全くいっしょですね。

*1 「チェリーボーイの味方・上野千鶴子の“恋愛講座”」など。
*2 当時の上野師匠が考え出した、要は「草食系男子」とほぼ同じ意味の言葉です。
*3 もっともここで師匠は日本の男性学のスタートを切ったのが渡辺恒夫教授であると認めています。以前に述べたように、「男性学」者は渡辺教授の業績の美味しいところだけは剽窃し、都合の悪い部分は抹消し、「我こそが一番乗りなり」と名乗る傾向にありましたから、珍しくフェミニストが事実を認めたという点で、ここは評価できます(もっとも渡辺教授の主張については全くデタラメな読解をしまくっていますが)。


 さて、本書では以上に挙げた上野師匠の端書きの次に橋本治師匠の、そして山崎浩一氏の文章が続きます*4
 橋本師匠の「男の子リブのすすめ」は、(この人の文章は情緒的観念的で極めて把握がしにくいのですが、思いきり端折ると)「男は仕事人間でつまらない、自分自身のために生きようとしないので幸福になれない、女に学べ」的な主張です。まあ、趣味と実益を兼ね、「ホモセックスの勧め」をなさっているのはご愛敬、といったところですが。
 橋本師匠は『枕草子』をギャル語訳してみせる小技で評価されるなど、少女漫画を神のように称揚する当時のサブカルチャー界の流れに沿って出て来た人物です(上野師匠は「女装文体の持ち主」と極めて的確に形容しています)。彼は実のところ「男性学」においては隠れたキーパーソンで、男性が半ズボンを穿くことを提案するなどして、渡辺教授にも影響を与えています。
 その意味でこの文章も、言ってみれば一足先に女性軍に投降したインテリ男性の、「女性軍はこんなにも楽しいぞ、羨ましいかお前ら」という宣言であると、取り敢えずは言えましょう。
 続く山崎浩一氏の文章はそこを踏まえると極めて示唆的です。
 彼は男性誌『ポパイ』の編集に携わっており、同誌の変遷についてが語られます。


 そして特筆すべきは、そこからは「セックス」が慎重に排除されていたことだ。それは「性文化なしに男たちは消費の主体たりうるか」という、ささやかな実験であり、冒険であったように思える。
(53p。ちなみに原文では「消費」に「あそび」とルビが打たれていました)


 本来の『ポパイ』はそうした(言ってよければ)硬派なホビー誌でした。
 それが80年代の中頃から、「女性を口説くための恋愛マニュアル誌」へと変貌を遂げ、類似の『ホットドッグ・プレス』なども登場するようになる。そう、まさに当時の「男性誌」は「恋愛マニュアル誌」だったのです。前回ご紹介した「アッシー君」云々が、当時はそれなりの説得力があったことの、一つの証左と言えましょう。
 しかしこの後、文章は


結局、「アセクシャルな男の子文化」は、以後〈おたく〉的な文化へ収斂するのみとなり
(55p)


 と続きます。まさか恋愛マニュアル誌どころか「恋愛資本主義」そのものがおわコン化し、裏腹に当時としてはあだ花くらいにしか思えなかったオタク文化が日本を制し、世界を覆い尽くすとは、山崎氏をしてすらこの時点では予測だにつかなかったのでしょう。



*4 すみません、露骨に「師匠呼ばわり」したりしなかったりもどうかと思うのですが、山崎氏は「味方」だと思っているので……上の文章は山崎氏の単著、『男女論』にも収録され、これは今の目で見ても得るところの多い好著です。

 ぼくは以前、自治体などで催されている「男性学講座」などが「蕎麦打ち講座」などと同列のものである(だろう)ことを揶揄してみせました。それは定年後にやることのない高齢男性を嘲笑する「男性学」自身も、実のところ似たようなものでしかないのではないか、との皮肉でした。
 また一方、ぼくは「オタク文化」を「裸の男性性」と形容したこともあります。それは日本の男性が役割から解き放たれ、初めて得た「自分のための楽しみ」であり、(例えば『エヴァ』が象徴するように)初めて吐露した「自らの内面」でした。
 いや、むろん昔から趣味人はいたのだからこれはかなりの極論ですが、『ポパイ』のホビー路線が上のような経緯を辿ったことを思えば、極論なりに意味が生じてくるのではないでしょうか。
「オヤジになりたくな」かったぼくたちは、「オタク」になりました。
 庵野秀明は『エヴァ』を作る数年前、「少女漫画の世界はアニメを超えている」と絶賛し、しかしながら『エヴァ』である意味、少女漫画を超えてしまいました。
 オタクはフェミニストたちの望んだ「新男類」であり「草食系男子」のはずでした、理論上は。
 ところが、当のフェミニスト様たちは、それをお喜びになっているご様子があまりありません。
 ですがそれは、仕方のないことです。
 ぼくたちは彼女らに向かって、こう言わねばならないのです。
「ぼくたちはお言いつけ通り、自らに正直になりました。あなたたちがフェミニズムを、少女漫画を称揚している間に、あなたたちの与り知らぬ間に、あななたちに学ぶことなく、オタク文化という自らの内面を吐露する大衆文化を築き上げ、世界に広めました。その反面給付として(というよりは同じ原因から導き出された必然として)、ぼくたちは草食系男子となり、女性を養うマチズモをいささか喪失してしまいました。ご希望に添えなくて、ごめんなさい」と。
 後、ついでながらフェミニズムに大いにベットしていた人たちにも、謝っておきましょう。
「ごめん、俺らが全部持ってったから。なれるモンなら、キミらもオタクになれば?」
 考えれば橋本師匠が極めて口汚くオタクを罵っていたことは、なかなかに象徴的です。それはつまり、「自分が内面を獲得するには女装しなければならないのだ」との強迫観念に囚われていた師匠が、「女装することなく内面を獲得したオタクたち」を見た時の、はらわたの煮えくり返るような嫉妬の感情であったことでしょう。
 一方、山崎氏は『週刊アスキー』で連載を持つなど、近年オタク度を強めていたのでありました。

 さて、こうなると橋本師匠は、「男性学」者たちは「ゆう君ちゃん」だった、ということがよくわかるのではないでしょうか。
 というわけで以下、『ゆう君ちゃん』について説明します。
『内気はずかしゆう君ちゃん』は自主制作アニメーション。
 男の娘*5であるゆう君ちゃんが、めそめそしてはお姉さんに甘やかされ、お父さんや昭和軍人に怒られ(というか殺しにかかられ)るという内容です。
「待て、お父さんはわかるが昭和軍人って何だ?」といった声が聞こえてきそうですが、そんなことを言われたってぼくにだってわかりません。ゆう君ちゃんは父親や軍人、地獄の鬼に常に「男たれ」と追い立てられ、しかし母性の象徴たるお姉ちゃんに、常に甘やかされ続けるのです。男の娘物のエロ漫画などでも「年上の女性に甘える」というモチーフは散見されますが、ここまで父性への怯えを執拗に描写するのは特徴的です。
 自主製作アニメにありがちな、言っては悪いですが稚拙な画に稚拙なストーリー展開。その稚拙さが、期せずして作者の精神世界をストレートにこちらへと伝える結果となっています。
 ぼくが本作を持ち出した理由は、もうおわかりではないでしょうか。
 稚拙さのため、作り手の父性、男性性への憎悪がストレートな形で溢れ出た自主制作アニメ――それは、橋本師匠や「男性学」者たちと「完全に一致」してしまった。
 そして、一般的な「男の娘」物にそうした男性への憎悪は登場しない。
「ボクが幸福になるにはオヤジを嬲り殺しにして、お姉様を獲得し、女装しなければならないのだ」との彼らの強迫観念を、オタクたちは否定した。
 橋本師匠が、リベラル男性が、フェミニストたちがオタクを憎悪するのは、オタクのせいで自分たちのマスターベーションイマジネーションが打ち砕かれてしまったからなのでした。
 橋本師匠は「妻と息子がオヤジに愛想を尽かして家を出ていく」たとえ話を得意げに語り、また鹿嶋敬師匠は本書の「捨てられる夫たち 夫無用の時代」という論文でそうした実話を楽しげに語っていますが――こうしてみると「愛想を尽かされ、出て行かれた」のはフェミニストであり、「男性学」者たちだったようです。
 終わり。

*5 言うまでもなく、オタク系漫画に登場する「女装少年」を指します。昨今、リアルなオカマが「男の娘」を僭称する事例が増えてきましたがむろん、男の娘は「萌え絵」の中にしか存在しません。

夏休み男性学祭り(その1:『男性学入門』)

2015-07-31 19:21:34 | 男性差別


 ファレルの著作にヘンなレビュー 都合の悪いやつぁ黒歴史
 自治体の予算をありがとさん 男子学生disりまくり
 楽なモンだぜ 男性学音頭~♪


 というわけで今年もやって参りました、ドラえもん祭」に代わってすっかりおなじみとなりました「男性学祭」!!
 男性学と言えば、当ブログでは渡辺恒夫、伊藤公雄という人物の名前を今まで幾度も挙げてきました*1。
 簡単におさらいしておくと、渡辺氏は1986年に『脱男性の時代』を著し、また89年には『男性学の挑戦』を編んで日本で最初に「男性学」を提唱した人物です。前々回記事にもあるように、「男を脱する」のはよきことだ、という考えには疑問符を着けざるを得ませんが、論調は「男性は悪」とするものではなく、「男性は恐るべきデメリットを背負っている」ことを指摘したものであり、大いに頷くべき点の多い快著と言えます。
 彼は『脱男性の時代』の冒頭で

 最初に一つの予言をさせていただきたい。それは、
 二〇世紀が女性問題の世紀であったとすれば、
 二一世紀は男性問題の世紀になるだろう、
 ということである。
(p1)


 と述べていました(アンダーラインは、元の文ではルビとして点々が打たれている箇所です)。
 が、千田有紀師匠の著書、『女性学/男性学』には、伊藤師匠が近しいことを言っていた、という下りがあるのです。

日本において男性学というジャンルを打ち立てるのに大きな役割を果たした伊藤公雄は、「一九七〇年代から八〇年代にかけて「女性問題の時代」の開始があり、それが今後ともますます深化しようとしているとすれば、一九九〇年代は「男性問題の時代を告げる時にならざるをえない」といいます。
(p132)


 つまり、言ってみれば伊藤師匠のパクリ疑惑が、この時浮上したのです。
 しかし、有紀師匠の本は引用が多い割に引用元の書名が書かれておらず*2、伊藤師匠が本当にこのように言っていたかどうか、未確認でした。
 さてこの伊藤師匠、主に90年代のメンズリブで活躍した「男性学の専門家」です。彼については永らく、『〈男らしさ〉のゆくえ〉』しか読んだことがなかったのですが、先日、何とはなしに『男性学入門』を手に取ってびっくりしました。これは96年の出版なのですが、「はじめに」に以下のようにあるのです。

 ぼくは、一九八九年の暮れ、一つの「予言」をしたことがある。
 それは次のようなものだった。
「一九七〇年代から八〇年代にかけて、“女性問題”の時代があった。この女性問題は、今後、さらに重要な課題となるだろう。そして、こうした動きに対応するかたちで、一九九〇年代は、“男性問題”の時代がはじまるだろう」
 この「予言」は、どうも的中したようだ。
(p1)


 何と言うか……全くいっしょですよね*3。
 もちろん、年代設定は違います。
 渡辺氏が20世紀と21世紀と言っているのに対し、伊藤師匠は80年代と90年代。
 結果、伊藤師匠の予言だけが外れてしまったのはお気の毒ですが(当人は的中したと豪語していますが、「男性問題」の時代なんて来てませんものね)、しかし「他人の発言をパクって、手柄をいち早く我が物にするため、年代設定までも早めて記述した」ように見えるのはぼくだけでしょうか……?
 そもそも自己申告を見る限り、伊藤師匠が「予言」したのは89年で、86年に渡辺氏の著作が世に出た後。自分で「パクリました」と言っているようなものです。
 むろん、こうした(学術的データによる「予測」ではなく、印象や直感による)「予言」にパクリ問題が発生するものかどうか、ぼくは知りません。恐らくノストラダムスの後に「1999年に地球は滅びる」と予言した人も、パクリ扱いは受けてはいないでしょう。
 しかし、渡辺氏が伊藤師匠よりも早く「男性学」を提唱したにもかかわらず、フェミニストのバッシングを受け、黒歴史扱いを受けている*4ことを思うと、やはり納得できないものを感じます。
 呆れたことに伊藤師匠は『〈男らしさ〉のゆくえ』の中で参考文献として『脱男性の時代』、『男性学の挑戦』を挙げ、また『男性学入門』でもその研究について(ホンのチラッとだけですが)言及し、「読書案内」では『男性学の挑戦』を挙げています。知らないはずがないのです。

*1 「夏休み千田有紀祭り(第一幕:メンリブ博士のメンズリブ教室)
*2 とある人物が、有紀師匠の著書を「フェミニズムの良質なテキスト」として紹介していたので、ぼくのレビューにリンクを貼ったところ、「引用するなら出典元書誌情報とページ数を書いてくれ」とお叱りを受けました。師匠に言ってあげて!
*3 さらに摩訶不思議なのですが、この一文は、同書の28pでも全く一字一句違わず、繰り返されています。
*4 「夏休み千田有紀祭り(第四幕:ダメおやじの人生相談)」の「■付記1■」をご覧ください。有紀師匠は伊藤師匠が最初に「男性学」を提唱したようなことを言っていますが、それはちょっとないでしょう。


 ――さて、それでは、自分たちに都合の悪い研究者の存在を抹殺してまで立ち上げた、伊藤師匠の「男性学」とはいかなるものか。まあ、「フェミニズム」を絶対の正義として前提し、男のあり方をdisる以上の内容はないのですが、せっかくですから簡単に表題の『男性学入門』をレビューしていくことにしましょう。
 伊藤師匠も前々回の田中師匠同様、大学で教鞭を執っていますが、第3章の「授業での学生たちの反応」という節を読んでいて腰を抜かしそうになりました。
 大学での男性学の講義に対し、女子の反応は多様性、具体性があるが、男子学生は一般的かつワンパターンな返答しか返ってこない、と師匠は嘆きます。
 男子学生のレポートが引用されるのですが、それは性別役割分業を肯定する内容。師匠はそれに対し、「旧来の意識から抜け出していない」と腐し出すのです。
 最初は「多様性、具体性の有無」を問題にしていたにもかかわらず、話がすり替わってしまっています。これでは「俺の押しつける考え以外はNGだ」と言っているだけで、そんな基準で男子の程度が低いと言われても、困ります。
 第1章冒頭でも「今の男の子は軟弱だ、ふにゃふにゃしていて頼りない、しかしその中身は旧態依然とした性役割に支配されている」などと書いていますが(この当時はお天気の挨拶でもするみたいに、とにかく「男が弱い」と繰り返すのが流行りでした)、そりゃ、自分の考え以外は認めない人に対してはそれ以外のリアクションはしようがないでしょう。
 3章では、欧米での男性学についても語られます。
 アメリカでは必ずしも親フェミニズム的な男性運動ばかりが一般的ではなく、反フェミニズム的な勢力が優位である印象もある、といった記述がされ、ワレン・ファレルもややそっちに行きかけていると腐してもいます(ちなみに本書では「ワレン・ファレル」「ウォレン・ファレル」と表記が一定しません)。
 第4章ではジェンダー論が概観され、ミードが引用されます*5。もっともこの時点でも、既にミードの過ちは明らかで、師匠も気が引けたのか、懐疑論との両論併記といった感じの書き方をしています。が、マネーについては(「読書案内」で『性の署名』が採り挙げられているだけで)言及なし。この時期に、既にウソがバレていたのでしょうか。
 第8章のタイトルは「もっと群れよう、男たち!」とされ、仕事以外の男たちのネットワークを作ろうとの提案がなされます。まだバブルの余韻冷めやらぬ当時としては、「仕事人間」のオッサンを嘲笑う論調が、ある程度の説得力を持っていたのでしょう。
 しかし「ホモソーシャル」などという概念の捏造を始めたフェミニズムにとっては、これももはや古びた主張ではないでしょうか。
 また、他の章でも「男は女に比べて共感的コミュニケーション能力に欠ける」といったこの当時よく言われたロジックが繰り返し語られているのですが、それもまたホモソーシャル論とは齟齬が生じます。

*5 文化人類学者、マーガレット・ミードの研究は一時期、フェミニズムによって「男女のジェンダーが環境によって左右される」ことの論拠として採り挙げられていましたが、ミード自身によって「いや、そんなことは書いていない」と否定されてしまいました。

 第6章は「「働く主夫」の生活と意見」と題され、自分は「働く主夫」であるとドヤ顔の師匠。しかし、見る限り大学に通勤もしているし、「専業主夫」というわけではなく、一家の稼ぎ頭が師匠なのか奥さんなのかは判然としません。朝食は師匠が作るけれど、夕食は奥さんが作ることが多いとかで、こうなると「主夫」の定義がよくわからなくなってきます。どうも師匠がとにもかくにも「ワタシは主夫です」と言ってみたかっただけなんじゃ、という気が……。
 268pに書かれていることが象徴的です。男性は(他の家事もそうだけれども、とりわけ)洗濯という行為を嫌がる、しかし自分は洗濯が好きだ、と大いばり。自治体で講演を請け負った時、(こうした人たちはこういう税金をじゃぶじゃぶ投入した利権に与れ、本当に羨ましい限りでございます)とある職員が「私は家事を進んでやるよき夫」とアピってきたので洗濯について口にすると、その職員は呆然となって、「なるほど、洗濯はできない」と告白したそうです。師匠の、どうやら洗濯は男にとって最後の障壁らしい、と語る口調には、「この職員のような似非と違い、我こそは真の解放された男性なり」との得意さが感じられます。しかし、師匠の家庭のご事情は存じ上げませんが、一般的には仮に旦那がやると言っても(ましてや年頃の娘でもいれば)、下着の洗濯など、嫌がられるのではないでしょうか。
 先の「もっと群れよう、男たち!」との理念が『ホモソーシャル』との概念とバッティングする件と併せ、何だか勝部元気師匠を思い出します*6。
 それはつまり、男性フェミニストがバカ正直にフェミニズムを実践すると、それが女性フェミニストへのブーメランとなってしまい、女性フェミニストからのお叱りを受けてしまう、との気の毒な構図です。いえ、伊藤師匠がこの後、女性フェミニストに叩かれたかどうかは知りませんが、いずれにせよこうした男性フェミニストを、そして主夫を、女性フェミニストが必ずしも歓迎しないことは、みなさんご承知の通りです。
 そもそも、この洗濯論、目下のぼくたちには極めて奇異なものに映ります。フェミニズムの華々しい成果としての非婚化がここまで進行した現在では、少なくとも自分一人の分の洗濯を行う男は、世に普通になっているはず。つまり「洗濯」は意識の高い人にのみ許された特権的行為でも何でもなくなったわけで、何というか、まあ、おめでとうございます
 さて、主夫についてまだまだ続きます。

「専業主夫」たちの体験記を読んで感じるのは、「家事・育児」という労働が、それまでの仕事に追われる生活と比べれば、それなりの楽しさや新しい発見をもたらす労働であるということだ。
(p277)


 へえ、だったら是非、女性たちにもその楽しさを分けてあげたいですね……と思っていると、とたんに家事について、無力感を感じる、イライラが生じる、評価されないことで不満が募るとその苦痛を語り出します。

 実際、「働く主夫」の生活をしているぼくも、このたいへんさは身に染みてよくわかる。
(中略)
 いわば二四時間労働なのだ(まあ、これはこれで息抜きになって、楽しいところもないではないのだが)。
(p277-278)


 どっちじゃい!!
 二四時間労働じゃ息抜きになんかなんないでしょうに(先には男性の労働こそ「仕事に追われる」非人間的なものだと言っていたばかりなのだから、もうメチャクチャです)。まさに筆致が一行毎に千変万化、何を言いたいのかさっぱりわかりません。
 結局、「家事労働などという苦痛なものを女性に押しつけてすみませんでした、贖罪のために家事をやります」というのならば辻褄はあいます。もっともそれが正しければ、女性たちはその男性の選択を大いに歓迎して、専業主夫を養うようになるはずですが。
 或いは「家事労働がことさらに悪いわけではない、性別役割分業という思い込みこそが許せないのだ」、といった主張も考え得る。しかしそうなると「女性が搾取されてきた(=主婦業が損)」という前提が揺らぎます。また、女性たちの専業主婦志向を説明できません。結局、「主夫普及運動」は他のフェミニズムのあらゆる主張と同様に、「意識の高い我々がお前らの洗脳を説いてやる」というものになるしかないのです。

*6 「サニタリーボックスを汚物入れと呼ぶのは女性蔑視の現れ」。チンポ騎士を気取ってトイレの汚物入れについてインネンをつけたはいいが、女性からは総スカンという勝部師匠の気の毒な姿にみんなで涙しましょう。

 いえ、それでも「フェミニズム」は「とにもかくにも男が得をしている、男が全部悪い」と言っておけば話が済みました。
 しかし「男性学」はいささか事情が複雑です。「この世は絶対的男性優位社会である」という前提から出発して、「男性を解放しよう」という結論に至らねばならない、根本的絶対的矛盾を抱えた、奇妙奇天烈摩訶不思議な学問なのです。
「男は男らしさの縛りに苦しんでいる」。
 ここまでは、ぼくも全面賛成です。
 しかし、それによってデメリットを被っているのであれば、男は被差別者と考える他はありません。
 そして、男が男らしさを捨てたら、「誰かがやらねばならない」その役割はどうなるのか。エラいエラい男性性に富んだフェミニスト様がえふいちに行ってくださるのでしょうか。
「ジェンダーは男が陰謀で捏造したフィクション」であると主張しながら、一方ではコミュニケーション能力など、女性ジェンダーの美質を持ち上げ、男も女並みになるべきだと言っておきながら、しかし女は男並みになるべきだとの幾重にも幾重にも矛盾を折り重ねた主張しかしないから、読んでいるこちらは頭がおかしくなりそうです。
 結局、彼らの過ちは「フェミニズムから出発したこと」にあるとしか言いようがありません。
 一般的な男性(女性)は、恐らくですが言語化はしないまでも、何とはなしにでも女性のメリット、女性の業(女性にも悪いところ、男性を利用している面があること)についても、認識できているはずです。
 それらの直感を、フェミニズムは全て否定し、覆い隠してしまう。
 結局、これはやはり(あんまりこういうことばかり言いたくないのですが)「何か、体制が悪い」という彼らの習い性がするっとフェミニズムにハマり込んでしまったがために、起こってしまった過ちなのでしょう。
 90年代当時はフェミニズムや男性学が「既存の、マッチョな男性」へのカウンターであると自称することに、今に比べればまだしもリアリティがありました。もっとも、「今時の男は軟弱だ」との男性へのバッシングもまた、今より遙かに酸鼻を極めるものではあったのですが。
 本書には世間がフェミニズム、ジェンダーフリー論を支持し始めたと誇り、以下のような記述が度々登場します。

 さて、われら男たるもの、この文明史的転換を、「客観的に」見つめなおし、それこそ「男らしく」「いさぎよく」、古い〈男らしさ〉のこだわりから自由になれるのだろうか。
(p194)

 これは、男性にとっては、ちょっと悔しいことだけど、そのへんは、「男らしく」(?)フェアーネスの態度を貫きたいものだ。
(p257)


 これらはこの当時の彼らの決まり文句でした。つまり自軍の勝利に酔い、「お前ら、男らしさにこだわるなら『男らしく』男らしさを捨てる覚悟をしろよな」と皮肉っているつもりなのです。
 が、彼らはそもそもその「男らしさ」を否定しているのですから、復讐史観*7と同じ、ダブルスタンダードなんですよね。
 事実、男が、まさにフェミニスト様のご命令通りに「男らしさを捨てた」ことで、目下の男たちは「女ばかりずるい」と言うようになってきたわけです。しかしフェミニストたちはそうなると一転して、それへと罵詈雑言を浴びせるようになりました。
 今までひたすら十年一日の言葉を吐いてきた「男性学」者たちは果たして、これからそうした男性、そしてフェミニストたちへと届く言葉を、新たに紡ぎ出すことができるのでしょうか……?

*7 やられたからやり返していいのだという論法ですが、これは非常にしばしば、当人は悪いことをしていない人物であろうと、男という属性を持っているだけでその相手への攻撃をも正当化してしまう、手前勝手な理論です。