現代を代表するラノベ『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』、略称『俺妹』の最終巻である12巻が先頃出版され、あちこちで騒ぎになっています。
本作については以前も採り上げたことがあり、万一全く概要を知らない方は、そちらを見ていただきたいと思います。というかウィキでも見た方が早いですが。
また、面倒なのでストーリーなどの説明は基本、省くことにしますが、ネタバレは避けられませんので、未読でこれから読もうと考えている方は、以下は読まれませんようにお願いします。
さて、最終刊については賛否真っ二つに分かれたわけですが、見る限り否定派の方が多いようです。
否定論者たちの意見は「そもそもあの兄妹って互いに恋愛感情なんか抱いていたのか?」ということに集約され、ぼくもそれに同意します。
いや、それ(第四章)以降の展開にも大いに疑問はありますが、その是非を云々するよりも前に、「まず恋愛感情があったのか」という疑問がどうしても湧いてくる。
逆に肯定論者たちは軒並みそこをスルーしており、対照的です。
こちら(否定派)としては「肯定論者の目は節穴か?」と言いたくなるところですが、むしろ「桐乃と京介の間にあった感情が兄妹愛であったか恋愛であったか」という点について、肯定論者は鷹揚に構えている、「いや、そこはどっちでもいいじゃん」と思っている感が、ぼくにはしました。
肯定派は、「恋愛も兄妹愛も、本作では敢えて区別せず、ごっちゃにして描かれているのだ」と捉えているのではないでしょうか。
これは、もし本作がエロゲなら「エロにかこつけて兄妹愛を描く」みたいなウルトラCもありそうで、肯定派はそうした展開に慣れていた「エロゲ脳」なのではないか、という気もします。別にこれは肯定派をdisっているわけではなく、エロゲは「エロを入れる」という特質上、どうしてもそうした展開に陥りがちだし、またプレイヤー側もそれを読み解くことに慣れてしまっているわけです。
比喩として適切かわかりませんが、ロボットものとかで男女の恋愛を、「ロボット同士のバトル」で表現するのに、ちょっと似ています。『Gガンダム』の最終回、ドモンとレインの痴話ゲンカがロボットバトルとして描かれたことを、思い出さなくもありません。
或いはまた、BLや百合が友情を「恋愛」に変換してしまうのにも似ているかも知れません。男たちは「腐女子はBLという形に曲解して男同士の友情を汚す!」と憤りますが(ぼくにもそうした感情はありますが)あれは曲解していると言うよりは、「わかっているけど彼女らの規格にあわせるために、あのような形に変換している」のですな。もっと簡単な比喩を使うなら、美味しく食べるためにマヨネーズをバンバンかけてるという程度のことです。
オタク文化、萌え文化というのは少し前までエロゲやエロ漫画と言ったエロメディアに依拠していました。そのため、「エロゲ脳」を持った者にはあのマヨ山盛りの味つけがある種自然に感じられたが、若い人には不自然に感じられたのではなかったか。
……などと書くとぼくもまた若い側の人間みたいに思えますが、当然年寄りでも、「ここで二人の感情を恋愛へと移行させるのは不自然だ」と感じた人間は多かったはずです。どう見ても前巻までは京介が桐乃に恋愛感情を抱いていたという描写は(肯定論者にしても「暗示はされていた」と言うのがせいぜいで)なかったのですから。
――ただ、まあ、上に自分を否定派であるとは書いたものの、ぼくの感想はまた違っています。
ぼくにとっての『俺妹』はあくまでオタクを描く作品だったので、そうしたテーマが最終巻のみならず、物語後半には薄れがちになっていたこと自体が不満でした。
ぼくの本作初期についての評価は、上のリンク先から旧ブログへ飛んでいただければ読むことができますが、例えば「幼児向けの魔女っ子アニメにしか見えないオタク向け萌えアニメで結構えぐいエロが」といったネタを出してくることで、オタクシーンをそのネガティビティに至るまで結構リアルに描いて、しかしそれでも「オタク肯定」という結論に落ち着けるそのバランス感覚が、素晴らしいと思ったわけです。
昨今、主人公がオタクである作品が増えていますが、その多くは小ネタとしてオタネタを出す程度であったりして、物足りなく感じておりました。が、本作はそんな中で明らかに頭一つ抜けていると言えます。
が、残念ながら巻を数えるにつれ、本作ではキャラクター同士の恋愛模様がむしろ主眼として描かれるようになっていったのです。
それがファンの思惑の影響か、編集部やアニメ会社の意向か、原作者がそうしたかったのか、或いは単にオタネタがつきたのかはわかりません。
しかし、恋愛に終始した最終巻を見るとやはり、いささか寂しく感じます。
ちなみに、Amazonのレビューで秀逸なことを書いている人がいました。
エピローグ(本当に最後の最後)において、「オタクッ娘あつまれー」のオフ会が開かれ、京介と桐乃、黒猫と沙織が一堂に会します。
そして彼女らのサークルに今日、新メンバーが加わることが語られ、京介が「新入りはどんなヤツかな、俺たちのことをそいつにも語ってやろう」などと思うところで、お話は終わりになっています。
この新メンバーとは、今まで『俺妹』を読んできた読者のことであろうが(これはあくまでそのレビュアーの意見であり、作中にことさらそれを暗示する描写があるわけではありません)、しかし普通に考えて「京介と桐乃は兄妹で恋愛をしていた」「黒猫は京介と以前つきあっていたが関係を解消している」と、そんな複雑怪奇な人間関係を持つサークルに放り込まれた新メンバーは普通退くぞ、絶対かかわりたくねーよ、というのがそのレビュアーの意見です。
なるほど、作品としては桐乃と京介の関係も、桐乃とオタ友との関係も、これからもいい感じで続いていくことを暗示させて終わってはいます。が、リアルに考えるとそれはどうか。
ここで「新メンバー」の登場などという展開がなければ「まあ、こいつらは変人の集団だから」で何とか納得させられたところを、なまじ新入りを設定したことで、このレビュアーはふと素に戻ってしまったわけですね。
沙織のオタサークルを大事に思う心は以前から描かれてきた通りです。ぼくは今回本ブログを書くために読み返していて、「桐乃たちはオタクッ娘あつまれーの二軍メンバーである」、との設定が語られていたことに初めて気づきました。つまり沙織は桐乃や黒猫といった協調性のない連中のことを慮り、彼女らの面倒を見てやっているわけです。
「新メンバー」はその彼女らのコミュニティがこれからも発展していくことの象徴として、彼女らを、言ってみればオタクの中のはぐれ軍団を祝福するために登場するはずでした。その意味で、一応、作者は本作のオタク作品としての側面を忘れることなく、最後にこのような展開を用意してくれたはずです。
が、しかしその設定のせいでふと素に戻った読者もいる――沙織の気持ちを考えた時、何だか切なくてなりません。
どうしてこうなった?
それに対する答えを、ぼくは持っていません。
しかし肯定派の、それもどちらかと言えばAmazonのレビュアーなどではなく、ブログなどで意見を表明している肯定論者たちの言い様に、ぼくは僅かばかりの不快感を覚えました。
というのもブログなどでは、上に挙げた「兄妹愛か恋愛か」といった論点ではなく、また別な論点が上げられていることが多いように思うからです。
つまり、
「従来のラノベは生ぬるいハーレムを破綻させず、『これからも日常は続く』などといって終わらせるのが常であった。そうしたお約束に踏み込み、最後まで描ききったことが素晴らしい」
といったような論調ですよね、大体。
海燕師匠の
『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』は、おそらく現在のライトノベルの限界にまで踏み込んでいる。
といった評はその代表と言えましょうか。
彼の友人であるペトロニウス師匠もまた、
この中で、なんといっても、特筆すべきテーマの一つは、ラブコメの領域に生まれたハーレムメイカーの系譜です。そのテーマのイシューについて、どう俺妹が回答を出そうとしているのか、という視点で見ていきたいと思います。
と前置きし、
そして、実妹ルートに入ったのは、そもそも「選ぶこと(=決断する)で、時を止めない」ことを、優先させた結果に僕は思えます。
と書きます。
しかし決断すること、時を動かすことがそんなにも偉いのか……否、「動かないこと」をやたら腐してみせることが、そんなにもいいことなのでしょうか。
以前も書きましたが、80年代以降、例えば子供向けのヒーローアニメなどでも「他の星から来たキャラクターが地球の少年と別れを告げ、故郷の星に帰る……かと思いきや、また舞い戻ってきて共に暮らすことに」といった「外し」たオチで「別れ」を忌避するようになっていきました。
しかしそれもぼくたちが「辿るべき、正しいルート」を失ってしまった現代においては仕方がない面もある、といった辺りが、ぼくの感想でした。
海燕師匠もペトロニウス師匠も、ある意味では沙織のような人なのだろうなあ、と思います。彼らの中では「迷えるオタクたちを善導してやらねば」といった使命感が炎と燃え立っているのかも知れません。
しかし娯楽作で居心地のよい仮想空間を描くことをよしとせず、厳しい現実を描くことこそが尊いのだ、といった評論には何だかもう、食傷気味です。
そんなの「ドラえもんはすぐ道具に頼らせるから子供に有害だ」という江川達也の考えと、どこが違うのでしょうか?
そんなことを思いながら、ペトロニウス師匠の『俺妹』一巻が出た当時の記事を拝見しました。彼自身が、「実は初期の『俺妹』は自分にはあまりにあざとく感じられ、酷評をしていたのだ(大意)」と語っていたからです。
いやはや、ちょっと心が折れそうになりました。
これって「自己肯定されたい」というヲタク側(ってカテゴライズするの難しいけど)の欲望が透けて見えるなーって思うんですよね。
これは、やっぱり「自分が世間から自己肯定されたい」という自己の仮託に思えてしまいます。
本作が、男の子と女の子を入れ替えることで、「俺みたいなオタクの女の子を助けてやることで、俺が女の子から感謝される」という形にして、読者の男の子(そして女の子)たちがアイデンティティを保護膜に守られながらお話を読み進めることのできる構造になっている、という分析は、実のところぼくがしたものと全く同じです。
そこを、彼は嫌悪し、ぼくは賞賛している。
そして残念なことに、ぼくには彼が何故それを嫌悪するのかが、さっぱりわからない……というのは嘘で、実は死ぬほどよくわかる。
ペトロニウス師匠は海燕師匠と共にウェブラジオもやっているのですが、そこではいよいよ苛烈な言い回しがなされます。
記憶で書きますが、彼は(すみません、一部海燕師匠などの発言も含まれているかも知れませんが)
一巻はマーケティングで作られてる。
タイトルがまず出てきて、そっから自動的にくみ上げられた作品だ。
と指摘した後、
編集者は『オタクはバカで肯定されたがってるから、こうした物語に飛びつくだろう』という計算でこうした作品を立ち上げたのだろう。
といったことを、非常にいやらしい口調(編集者のセリフをいやらしい感じで読み上げているところを想像してください)で語っていらっしゃいました。
どうして?
どうして編集者もオタクで、「こんなオタクな美少女を彼女にしたいな、読者たちにもそんな女の子を届けてあげたいな」と考えたのだ、とそういう発想にならないのでしょうか。
ラノベ編集者って、そんなにオタクを憎悪しているのでしょうか?
いや、憎悪している人が大変に多いんですけどね、経験上。
まあそれはいいです。
編集者(いろいろと話題の多い三木氏ですね)がオタクを好きかどうかは徹底的にどうでもいい。或いは、(企画の立ち上げに三木氏の意向が大きかったのはどうやら事実のようで)彼がオタク嫌いだとでもいった話が、あるのかも知れない。
しかし何よりぼくが感じたのは、オタクを善導したくてたまらないであろうペトロニウス師匠は、オタクが嫌いでたまらないのだな、ということです。上のいやらしい口調もその意味で、編集者の舌を借りて彼の中の本心が現れてしまったもののように、ぼくには思われました。
時々、「男性差別クラスタ」の方から「お前は何故男性差別とオタク差別をごっちゃにして語るのだ」と問われることがあります。
むろん、ぼくは「男性差別」などというものについて語ったことはないのですが、こうして見るとぼくの意図は明らかになってくるのではないでしょうか。
こうした人々は「男のマチズモ」を否定することが深夜の萌えアニメを視聴することの千倍くらい好きなのですが、実際に力を持った男性に立ち向かうことはまあ、あんまりない。それが証拠にこうした論者が『ドラえもん』を批判することは決してないのです。
彼らは萌え作品に耽溺しているけしからぬオタどもに正義の刃を向けることに専ら、熱心ですが、では女性オタクにもその刃を向けるかというと、それは決してない。それが証拠にぼくは本作の構造を男の子にも女の子にも快いものだと分析しましたが、ペトロニウス師匠は女性ファンへの視点は全く欠落させています。
オタク(男性限定)は萌え作品で二次元への女性へと身勝手な欲望をぶつけていて許せない(彼が自己肯定の欲求を、悪ででもあるかのように「肯定されたがっている肯定されたがっている」と執拗に糾弾する筆致が特徴的です)。
普段は児童ポルノ法反対運動の先頭に立って行進していそうな人物が、一体全体どうしたわけか、そうしたオタク(男性限定)の「悪しき欲望」を一刀両断に切り捨てます。
結局、彼らもローゼン閣下くらい俺たちの味方であったはずの上野千鶴子師匠がポルノを否定しているように、ぼくたちの欲望、それも持っていて当たり前でその発露の仕方にどこに問題があるのかさっぱりわからないそんな欲望のあり方が、憎くて憎くてたまらないのです。
彼らにとっては「慮るべき弱者」というのがまず確固たる存在としてあって、彼らの味方を装い、返す刀で「慮らなくともよい弱者」を一刀両断にするというのが、習い性なのです。
オタク(男性限定)は、「慮らなくともよい弱者」なのです。
そう、弱者には「人権強者」と「人権弱者」の二者があり、オタク(男性限定)は後者なのです。
オタク問題は弱者男性問題だ――彼らを見ていると、それがはっきりとわかるのではないでしょうか。