兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

俺の妹があんなに可愛くないのはどう考えてもお前らが悪い!

2013-07-19 20:50:02 | アニメ・コミック・ゲーム

「お母さん……子供の頃はいっしょに『プリキュア』ごっこをしてくれたお母さん……
でもいつからか、いつまで経ってもアニメを見ている私のことを、冷たい目で見るようになったお母さん……

学校ではずっとぼっちだけど、でも大好きなお母さんがいっしょにアニメを見てくれたら寂しくないのに……
私がいっそ登校拒否みたいな『わかりやすい、弱者としての徴』を抱えたら、お母さんも私のことを心配してくれるのかな?
いっしょにラノベを読んでくれるのかな?」
 トントン!
「智子、夜遅くまで何やってるの!?」
「っせえなああ――!!
私の勝手だろが――!!
出てけよクソ主婦が――!!!」


 今回は特別企画!
 ナウなヤングの話題を独占する二大人気作品、夢のコラボです!
 え?
 本家もニコブロで『超電磁砲』とコラボってるんスか? 知らん知らん!
 えぇ……コホン。
 当ブログだけに可能な特別企画
俺の妹がこんなに可愛いわけがない』と『私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!』の夢のコラボ。
 あのレビューを書いていたのは実はもこっちでした……というおハナシ。


 ――というか、この話題、どれくらいメジャーなモノなのでしょうか?
 当ブログでも扱った『俺妹』の最終巻、そのAmazonのレビューが話題になっているのです。


【ネタバレ注意】『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』最終巻のAmazonレビューが泣けると話題に


 元のレビューの全文は(http://www.amazon.co.jp/review/R17QH7FCJKXGVK/)になりますが、ごく簡単に書くと、レビュアーは不登校のオタク女子を娘に持つお母さん。娘さんは本作に勇気をもらい、立ち直った。お母さんもまた娘と共に本作を読み、そのファンになった、といった内容です。
 大変感動的なレビューで、ねとらぼでも採り上げられたのですが、一方、はちま寄稿では「作り話だろう」といったコメントが並んでいました。
 正直に言うと、ぼくも作り話である可能性はあると思います。
 こうした詮索は不謹慎ではあるけれども、そう考える理由を列挙していくと、
・まず、あまりに出来すぎています。この娘さんは「大好きな兄がいたが、事故で既に亡くなっている」、「オタク女子だがモデル級の美少女」、「沙織のように長身である」とのことで、ちょっと偶然と言うには……という気がします。
・また娘さんは桐乃のように活発な性格だったところが、オタク趣味がばれ、いじめられて自殺未遂に追い込まれたと言います。活発な美少女がいじめられるというのはどうでしょうか。確かに目立つ人物がいじめられるということは(特に女子の間では)多い気もするので、あり得る話だとも思うのですが。
・タイミング的にどうか。このレビューを「悪評を抑える目的での、ファンの作り話」と見る向きもいます。確かにタイミング的に12巻の悪評が盛り上がった頃に投稿されたレビューであり、「何故今?」という感じはします。とは言え、この母子が『俺妹』にハマったのは最近と思え(アニメの第二期が放映され出してからハマったと想像できる記述があります)、また単純に「大好きな作品が貶されるのを見兼ねて筆を執った」という状況は充分にあり得ます。
 以上のような次第で、ぼくは実話である可能性も大いにあるけれども、「怪しいな」と感じなくもない、そんな感想を持ちました。
 さて、ではもしこのレビューが作り話であったと仮定するならば、レビュアーの正体は一体誰なのでしょう?
 つまりそれはもこっちではないか、というのがぼくの
名推理です。


 ――おいおい兵頭よ、いくら何でもその推理は飛躍が大きすぎるぞ。


 そうでしょうか?
 では順を追って考えていきましょうか。
 仮に、作り話だとして。
 レビュアーが『俺妹』のファンだというのはまず、間違いがないと思います。
 オタク文化の全くの部外者が書いた可能性は、かなり考えにくいのではないでしょうか。やはり『俺妹』にある程度の関心を持っている者と考えるのが自然です。
 その中でも例えば、「ファンだったが12巻を読んでムカついた者」「小説を読んだりアニメを見たりしたこともあるが、『俺妹』アンチ」である可能性も、上に比べれば大きいでしょうが、やはり可能性としては低いように思います。
 ファンであり、本作の評価を下げさせたくない者が書いた可能性が高いように思うのです。
 では、その性別は?
 まあ、この辺りになると曖昧な類推になりますが、ぼくは女性であるように思います。
 何故か。
 いずれにせよこの不登校のオタク女子高生というのは、明らかにレビュアーの自己像そのものです。むろん、男性が「女子高生」ぶって上のレビューを書いた可能性も充分あるでしょう。しかしここでは「母親の語り口」が採用されており、男性がそのような「設定」を採用するのは、ぼくの感覚からするとかなり不自然です。
 また、「大好きな兄が死んでいる」という「設定」もそうです。むろん「原作」である『俺妹』に倣ってそうした「設定」を採用した可能性もあるとは言え、こうした「兄への思慕」は書き手が男性であればノイズとなるはずです。
 つまり、仮にこのレビューが作り話だとしても、「『俺妹』ファンのオタク女性」というのは恐らく事実ではないか、とぼくには思えるのです(レビュアーは母親ですから、その場合は母親ではなく娘自身が書いた、ということになりますが)。
 では、それ以上の細かい「設定」は、どこまでレビュアーの現実と符合しているか。
「活発な美少女」というのは、申し訳ないけれどもちょっと可能性としては低いように思える。そうした自己申告とは逆に、「学校でもシカトされてる取り柄なしの不美人」というのが可能性としては高いのではないか。
「お兄さんが亡くなっている」「不登校」といった要素は、言わば話を「盛る」ために持ち出された劇的な「設定」ではないか。
 そう考えていくとレビュアーの特徴を兼ね備えている人物として、もこっちが浮上してくるのです。
 言うまでもないことですが、このレビュー自体は極めて優れた『俺妹』の「批評」です。
『俺妹』はオタク趣味をコンプレックスにしている少女がそれを克服していく物語であり、そしてまたそれをきっかけに、家族が絆を再生させる物語です。
 そのことを、このレビューはどんな評論家よりも優れた筆致で指摘したのです。
 更に余談ながら付け加えれば、『俺妹』の最終巻についての辛口のレビューで、「敢えて両親を配した作品であるにも関わらず、最終巻では全く登場していない。不誠実な逃げだ」といったものがありましたが、ある意味このレビュー自体が、最終巻を「補完」しているとすら言えます。
 
このレビューが実話であろうと作り話であろうと、その優れた批評性が揺らぐことはありません。
 が、敢えてここでレビューを「もこっちによる、作り話」と仮定してしまうならば、こんな連想も浮かんでくるのです。
 もこっちは「私にあんなお兄ちゃんがいたら、そして私のお母さんがこんな風に私をわかってくれたら」と思いながらあのレビューを書いたのではないか。
 或いはまた『俺妹』自体が「本当は非モテでぼっちのオタク娘である桐乃が、『私にあんなお兄ちゃんがいたら(ry』と思いながら書いた小説であった」との想像も可能ではないか、と。


 ――さて、もし以前の記事を読んでいない方がいらっしゃるとしたら、是非読んでみていただきたいのですが、ぼくはそこで、ブロガーであるペトロニウス師匠を手厳しく批判しました。
 ぼくは『俺妹』を「オタク肯定」の物語として評価した。
 師匠は『俺妹』を「バカなオタクを甘やかす」物語として批判した。
 そうした師匠のスタンスが、ぼくにとっては下劣なものに見えたからです。
 そしてぼくはそこで同時に、『俺妹』についての両者の着眼点の違いについても、指摘したかと思います。
 ぼくは『俺妹』を男女オタの両者にとって快い物語であるとして評価した。
 師匠は『俺妹』を専ら男オタを甘やかす物語であるとして批判した。
 恐らくですが、ぼくの「男女共に快い」という指摘、師匠には理解ができないのではないかと想像します。
 が、本レビューを見ればぼくの指摘の正しさは明らかです。『俺妹』はオタク女子にとって、「優しいお兄ちゃんが私を助けてくれる物語」だったのですから。
 だから今頃ペトロニウス師匠は、海燕師匠はこのレビューが話題になっていることを知り、苦虫を噛み潰したような顔をなさっているのではないか……とついついそんなことを想像してしまうのです。
 一体全体どうしたことか、オタクを善導しようと使命感に燃え、オタクを罵倒するインテリの方々は、例外なくフェミニズムを信奉し、女性に対してはいかなる批判もまかりならんとの信念をお持ちです。
 彼らが何故、オタク(男性限定)に対しては「不幸だなどと感じるな、お前は幸福だ」と言い立て、しかしフェミニズムには平身低頭するのか。それは彼らにとって、「女性」は「わかりやすい、弱者としての徴」をまとった存在だからです。
 しかし上を見ると、話はそう簡単ではないように思います。
 師匠たちは女性の味方をしているおつもりなのだと思います。
 が、こうした「人権兵器」の運用によって、女性にも被害は出ているのです。
 今回のもこっちがそうです。
 あくまで件のレビュアーの正体がもこっちだとしての話ですが、彼女は「モテないから弱者属性を盛る」をついついしてしまいました。それは悪質な話ではあるけれども、ぼくは何だかもこっちを責められません。彼女もまた、「弱者だけが不幸だと感じる資格があるのだ」との狂った逆シバキ主義の被害者に他ならないのですから。彼女は「弱者の徴」を目の色を変えて鑑定する「弱者奉行」たちを気にし、ついついこのような「盛った」レビューを書いてしまったのです。
 もこっちがありのまま、「私はブスでぼっちでオタクなのでいじめられてます」と書いたら、それは「感動的なレビュー」として、ねとらぼで採り上げられたはずはないのだから。


 ――そのような推理は認められないッッ! 件のレビューは中年オッサンの萌え豚によるものだッッ! 本当はリア充であるにもかかわらずそうした自己憐憫を書き連ねるなど、「自己肯定されたい」というバカなヲタクを甘やかす低劣な小説を読んだ悪影響だッッ!!


 はいはい。
 そう顔を真っ赤になさらないでください、師匠。
 確かに、その可能性もあると思います。
 ぼくがレビュアーを女性と想像したのは、「母の語り口」にマザコン的心性を感じたからです。男性というのは、そうした母親への感情は素直に表には出さないものだからです。
 しかし――ぼくの経験上、左派の人たちは一体に、弱者男性を「マザコン」と罵るのが大好きなのですが――母親への愛着や葛藤などを吐露することが、女性には許されても男性には許されないのは「男性差別()」ではないでしょうか?
 女性を支配しない、マチズモから解き放たれたフェミニンな「草食系男子」は母親を大事にするのではなかったでしょうか?
 それともやはり、イケメンや社会的成功者が「オカンとボクと、時々、オトン」とか「がばいばあちゃん」とか言うのは許されても、萌え豚がそれをするのは許されないのでしょうか?
 そう、仮にこのレビュアーが男性とするならば、当然その本意は「モデル級の美少女になりたかった」「優しい母親が欲しかった」といったものであると想像できましょう。それは非常にキモい話ですが、同時にそれは「女の子であれば世間も同情してくれる」ということを、彼が知り抜いていたからでもある。
 そしてそうした心理は、実は上の推理におけるもこっちが、同情を買うために話を盛ったのと、全く同様なものなのです。
 いずれにせよ(このレビューを作り話とするならば)ウソはいけないかも知れませんが、そのウソは彼らのような「弱者奉行」が生み出した存在でもあるのです。
 彼ら「弱者奉行」は今まで、自分が「いい人」になるために「人権兵器」の開発を推し進めてきました。しかしそうした「
わかりやすい、弱者としての徴」をもって人を峻別する方法論は、既におわコンなのです。
 それは『俺妹』のテーマとして選ばれているのが「オタクとしてのコンプレックス」であったそのこと自体が、何よりも明確に証明しています。このポストモダン状況()では「
わかりやすい、弱者としての徴」以上に、そうしたことがある種の切実さを持っていたのです。
 ぼくたちは「人権兵器廃絶」に向けて、歩み出さなければならないのでは、ないでしょうか。

 

 

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男は邪魔!

2013-07-12 20:52:37 | レビュー

 少し前、ツイッターで有村悠師匠についてつぶやいたところ、やたらとリツイートされて驚いたことがありました。
「ぼくの著作を読みもせずに口汚く罵るほどのフェミニスト崇拝者でありながら、フェミニストに蛇蝎のごとくに嫌われていて可哀想だ」とごく一般的な感想を漏らしたに過ぎなかったのですが。
 何故フェミニストはあぁも奴隷のごとくに自らにかしずく人間を憎悪するのか。
 それは言うまでもなく、フェミニズムそのものが男性憎悪の情念に他ならないからです。
 が、もう少し言葉を足すなら、ああした男性たちはフェミニストにとっては「女性を差別しないから」許せないのではないでしょうか。
「男のクセに女を持ち上げるとは女性差別主義者だ」。
 彼女らの発言は、端的にはそうまとめてしまえます。
 何だかポリアンナが愚痴ばっかり言ってる婆さんに「おば様は愚痴のタネがあってよかった、って思えばいいんだわ」と言ったことを連想します。
 ツイッターの名物フェミニスト、NATSU師匠を見ていると、それは実感できるのではないでしょうか。小浜逸郎氏は均等法が通った後のフェミニストを「ここら辺りから、フェミニズムはなんとなく少し無理をしているような感じがつきまとうものとな」ったと評していますが、「女性差別がないことが女性差別」という情念こそが、今のフェミニストたちのホンネであるはずです。
 まあ、それは仕方ありません。あの人たちは被害者でいることでしか、生きていけない人たちなのですから。
 しかし不思議なのはそうした女性たちにかしずき、「フェミニストの理解者」として振る舞う男性たちです。
 ツイッター上でも彼らに対し、「フェミニストに反対しても賛成しても彼女らは男性を叩くのだから、かかわらないようにするしかない」といった意見が聞かれました。その通りだと思います。
 ぼくは以前から彼らを異次元生命体でも見るような目で眺めておりました。彼らは(有村師匠や小飼弾を別とすれば)それほどバカにも見えず、にもかかわらず何故フェミニストに疑問を感じることがないのか。
 多くの一般的な人たちはフェミニストを、例えばテレビで田嶋陽子師匠が、上野千鶴子師匠が男性論者にフルボッコにされてヒステリーを起こしているという場面で認識している。
 或いは雑誌や書籍で、昨今ではツイッターで電波を飛ばしているところを見て「ああ、こりゃダメだ」と感じている。
 しかし彼ら「フェミニストの理解者」たちは、恐らく大学の研究会などといったコミュニティで、権威者として振る舞う女傑然としたフェミニストの姿を見ているのではないでしょうか。そうした姿に彼らは、まるで幼女に母性を演じさせる富野アニメを見る萌えオタのごとくに「萌え」ているのではないでしょうか。
 そうなりゃしめたものです。予言者は予言を外しても、信者によって形成されるコミュニティにおいては意外に権威を落とさないものです。
 しかし彼らがフェミニストに対して「女王様、ボクにもっと鞭を!!」と哀願すればするほど、フェミニストたちは苛立ちを募らせる。何となれば彼女らが求めるのは男性から鞭を受けることで「謝罪と賠償を」と言い立てる機会を得ることなのですから。
 さて、そんな「フェミニストの理解者」、改め「Mっ子倶楽部」に朗報!
女王様に鞭打ってもらえない! ボク寂しい!!」と思っている君たちのための本がこの度、出版されました!


 ――はい、ようやっと長い長い前振りが終わりました。
『男は邪魔!』です。
 まあ、内容はどうってことはありません。
 90年代型ミサンドリー男性(男が嫌いで嫌いで仕方のない男)が「男は邪魔だ、男はバカだ、男はダメだ」と壊れたレコードのように繰り返すだけの本です。
 曰く、男が強いというのはウソだ。自分が高校時代の柔道は力で相手をねじ伏せていただけだが、今の女子柔道は「柔よく剛を制」している。いや、そもそも柔道ってそういうものだから、アナタの周りにちゃんとした柔道家がいなかっただけだと思います。
 ボクシングにおいても、男は殴られると戦意喪失するのでだらしないなどと説きます。が、女は戦意を喪失しないかどうかということについては言及がありません。あぁ、女子ボクシングってないんですか、ぼくキョーミないんで知りませんでした。きっと女性がボクシングを始めたら男性より強いことがバレてしまうので、陰謀で邪魔されてるんでしょうなあ
 戦国時代の艶笑小話で夫が妻にDVに遭う話を持ち出しては「男は弱い、男は弱い」、と大はしゃぎ。そんなの事実かどうかも疑わしい上に「例外的事例だからこそギャグになったのだ」とのリクツも成り立ちます。
 女が男を殴る話があるのだから、「女の方が腕力が強いのだ」と言うに至っては苦笑いもしてあげられません。きっと柔道も、男女で戦うと女の方が強いことがバレてしまうので、陰謀で邪魔されてるんでしょうなあ
 それだけ女性が強いんじゃ、さぞかし男尊女卑など幻想だったのだろうなあと思うと、いきなり著者が新聞の人生相談を担当しており、女性からの夫のDVなどについての相談に途方に暮れている様が語られ出すのでびっくりです。やはり、女性は弱くなったようです*。
 ご心配なく、女性が男性をバンバン殴り飛ばす様は、萌えアニメでご覧になれます。萌えアニメというのはご年配の方に説明いたしますと、現代の艶笑小話……あっ(察し)。
 明治時代の訓戒(「女は夫に従え」の類)にフンガイして見せ、「今日の少子化も、辿ればここに原因があったのではないでしょうか。」などとご明察。
 ちなみにウィキによれば明治43年(著者が持ち出した本の出た頃)の日本全国の人口は、五千百万足らず。今は一億三千万足らずです。
 多分高度経済成長期のベビーブームなど、この人にとってはなかったことなのでしょう。
 そしてまた、均等法など、男女平等が進んでから少子化が加速したのはみなさんご存じの通りです。
 ボーボワールが「男は創造する」性である、と言ったのに対しては、


 しかしよくよく文章を吟味してみると、男は闇雲に何かをつくり、つくっている自分に納得するということで、これは要するに「バカ」ということではないだろうか。


 何度読んでも意味がさっぱりわかりません。
 ものを作るというのは(無内容な新書を書き飛ばすことを除けば)非常に頭を使うことなのですが。逆にそれではBL同人誌を作る腐女子はやはりバカなのかとなると、恐らく著者は「いや、それは違う」と言うことでしょう。
 事実、腐女子に取材に行く下りもあるのですが、何しろ著者はBLという概念すらご存じない。饒舌な腐女子の発言にいちいち驚く著者の姿を見ていると、何だか懐かしくなってきます。今時萌えアニメの腐女子キャラのくすぐりでもこんなベタなネタは出てきませんから(著者と担当編集者を見た腐女子に「著者さんが責め、担当さんが受けですね」とか言われて「ひええ!?」と言うとか、何かそんなのです)。
 そして腐女子たちの妄想ぶりに対して「妄想ができるとは頭がいい(大意)」と大げさに持ち上げます。むろん萌えオタもまた彼のその賞賛の言葉を賜れるのかについては、大いに疑問ではありますが……。
 また著者は、息子を持つ母親にインタビューして「男の子はバカだ、男の子はバカだ」と繰り返すのを聞いてはご満悦。大体において女が男をバカにする時、女からは価値のわからないものに男が重きを置いていることが理由であることが多いように思います(むろんこれは男女を逆にしてもなり立つと思いますけれど)。
 この母親は息子のコレクション癖を嬉しげに「バカだバカだ」と繰り返していますが、この男の子は大人になって、そうしたこだわりを職業に選ぶかも知れないのです。コレクターとして名を成し、財を築くかも知れません。それは丁度、ぼくたちが著者がバカにする「闇雲に何かをつくり、つくっている自分に納得するという」作業で生きる糧を得ているのと同様に。もっともこう非婚化が進んでは、その「バカなこと」で稼いだカネは女性には流れないことでしょうが。よかったですね、女性の皆さん。バカの世話になる心配はないですよ。
 ついには著者は、ウシの専門家の所へと取材に行きます。
 何のことはない、今更聞き飽きた男性不要論です。
 家畜としてのウシはオスがごく少数で事足りるそうです。乳牛にならないことは言うまでもなく、食肉にも向かないから、精子提供役だけをやっていればいいのだとのこと。
 著者はここに「人間のオスもまた同様だ」と凡庸な寓意を見て取ります。
 むろん、このリクツが正しいなら「人間のメスは産む機械、埋めないメスはゴミクズ」と言うことに、どうしてもならざるを得ませんが、お利口さんな著者がメスウシにそうした寓意を見て取ることは、人類滅亡の日まで来ないことでしょう。頭がいいですね


*現代の男性が受けるDV被害も、「女にやり返せないから」というのが原因だったりするということは、彼にはナイショにしておいてあげましょう。


 ――さて皆さん、いかがでしょうか?
 ムカついているでしょうかw
 ぼくも読みながらムカついていました。
 ところがです。
 第五章に入るや、著者はフェミニズムについて言及し出します。しかしここで語られるのは、外部からの「フェミニストは要するに男にどうあれと言っているのだ?」といった率直な違和なのです。
 千葉のジェンダーフリー政策にも疑問を呈しています。
 松戸市の保育園では保護者にアンケートを採ったのですが、そこから「母親たちが強固なジェンダー規範に縛られている」といったフェミニストのお気に召すような結果が出てこなかったため、執拗にアンケートを繰り返しては強引な解釈を加えることで、「ジェンダー規範に縛られている現実」を無理からにあぶり出すといった力技で自分たちのリクツを押し通そうとしていることが、著者のレポートで明らかになっていきます。


 外国語に真意を置き、あくまで翻訳だとぼかしながら考えるのがフェミニズムの特徴であるが、


 などとすごいツッコミも。
 著者は欧米崇拝型のリベラリストが嫌いなのかも知れません。
女ぎらい』のホモソーシャル論など、上野千鶴子師匠の語るヴァーチャルな男性像に対しても概ね批判的です。
 こうしたフェミニストの描くネガティブな男性像に対して、「フェミニストの理解者」たちは大げさに頷きつつ「しかしボクは違うモン!」と卑屈な笑みを浮かべ、手揉みをするのがお約束ですが、著者は


 もしかして彼女(引用者註・上野師匠)は生身の男を知らないのではないか。


 などと言ってしまうブレイブぶり。
 王様は裸だと言ったあどけない少年を思い出させます。


 ――さて、どうお感じでしょう。
 要は「女性に神(=上位存在)でいて欲しいからフェミニズムは認められない」というのが著者の本意で、知的に誠実なMっ子、ということが言えましょうか。
 女性様優位を崩さないためにはジェンダーフリーは困るというわけですね。
 思うにフェミの理解者がフェミニストに評判が悪いのは「女は強い、女は強い」と、まるで幼女に母性を演じさせる富野アニメを見る萌えオタのごとくに(それも想像するに吹けば飛ぶような風体で)手揉みしながら卑屈に笑みを浮かべているからではないでしょうか。その時のフェミニストの心情は「女は被害者だと言ってるのに、コイツ全然わかってない!!」というものでしょう。
 フェミニストが求めるのは自分のダダを全て受け止めてくれる神のような男性なのだから、まさか自分にママに対してのように甘えてくる男性がいるとは想定外。結果、フェミニストの理解者は蛇蝎のごとくに嫌われることになるわけです。
 もう一つ、本書では著者が(女性の)脳科学者をやたらと持ち上げる様が印象的でした。
 こうした男脳、女脳は違うとのノーミソ還元論に対し、フェミニストは比較的反発することが多い。それはつまり、男女の性差を認めることは、彼女らにとっては敗北だからです。
 翻って、こうしたMっ子倶楽部のメンバーにしてみれば、ノーミソ還元論は女性を神とする「ナオン教」をカガク的に補強してくれる美味しいネタです。男脳と女脳とは違う、ということは事実でも、そこに偏った解釈を施すことで「だから女は優れている!」などと騒ぐのは、高校レベルの理科も知らない愚か者のすることです(小飼弾もまた、『できそこないの男たち』といった中学生レベルのカガク的寓話を信じた一人でした)。
 そう、本書はMっ子倶楽部のメンバーたちに、「フェミニストはもうダメだ、新しい女王様を捜せ」と説く、愛の籠もったメッセージであったのです。


 あと一つオマケ。この著者の嫁、何かというと旦那をバカにしては高笑いするキャラで、しかもその嫁とのノロケみたいな文章があちこちに挿入されていて、読んでいて何だか怖くなってきます。
 言っては悪いですが、よくこんな女と結婚したよなあ、この人。

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