兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

モテキ(その3)

2010-09-21 16:47:36 | アニメ・コミック・ゲーム

 以前も書きましたように、ネットなどの匿名メディアで『モテキ』の感想を漁ると、男(であろうと想像できる人)たちからのバッシングが溢れています。
 ぼく自身、決して本作を好ましく思っているわけではないので、前にも批判的な文章をいくつか書きました。が、とは言えそこまでムカついていたわけでもなく、いささか微妙な批評になっていたかと思います。ドラマ版についても「さあ挙げ足を取ってやろう」と手ぐすね引いて視聴を開始したものの、退屈なだけで何の引っかかりもなく、最近ではついつい見逃すことも多くなっておりました。
 が、ここへ来て心境の変化がありました。
 すみません、今までぼく、『モテキ』の作者に甘すぎました。
 これからは厳しく行きます。


 というのも、本作のヒットに伴い、作者の久保ミツロウセンセイの発言をあちこちで拝見するようになったからです。
 いや、口は災いの元。ぼくもツイッターで呟く時は「俺は幼稚だ」とかいつでも逃げを打てるよう、準備しておかなければなりませんな。
 さて、『モテキ4.5』です。
 言わば『モテキ』のファンブックなのですが、センセイと文化人(笑)たちとの対談にかなりのページが割かれており、そこではセンセイの「男性向け漫画」での女性の描かれ方に対する嫌悪が、これでもかと語られていました。


 少年誌で連載していた頃から、男の人が求める女性像というものに対していろいろ違和感を覚えることが多かったんですよね。特に少年漫画の女の子の描写で、「私ってご馳走でしょ」って言う顔をしている女が一番嫌いなんです。女としての完成度が凄く形骸化してる。


 草食男子に「あなたたちこういう女好きなんでしょ?でもこういう女はいろいろ難しいんだぞ」っていう視点が一番描きやすかったから『モテキ』を描いてるんですよね。


 随分古いことを言う人だな、と感じました。
 ぼくが思い出せる中で同種の発言を見た一番古い記憶は、二十年ほど前の青木光恵センセイでしょうか。もう、申し訳ないですけれど「青木光恵」という名前だけで何だか笑ってしまいますし、更に遡れば、内田春菊センセイやそのフォロワーたちもおそらく、同種の発言をしていることでしょう。
 しかしこの手の「男性の描く都合のいい女性像」へのアンチテーゼを気取って商売をする女性というのは馬に食わせるほどいますが、「女性の描く都合のいい男性像」へのアンチテーゼって全然見ませんね。
 いいですね、女は楽で。
 てか、そもそも彼女らのやっていることはそんなご大層なことではなく、単なる「美人」「可愛い女」に対する(羨望の裏返しとしての)憎悪の発露に過ぎないのですから、もう本当に、いい気なモノだ、と言うしかありません。
 いい加減に二次元女子に嫉妬するのはやめてください、おばさんたち。
 あなたたちじゃ、俺の嫁には絶対に勝てないんですから。
 女性たちのこの種の感情の激しさは、尋常なものではありません。が、そうした憎悪は即座に「そんな女を好きになる男ども」への憎悪へとすり替えられ、女はいつまでも綺麗な身でいられる、という寸法です。久保センセイご自身、自ら創出したキャラ(ファム・ファタール的キャラである夏樹ちゃん)に対して


 で、そういう女を好きになって苦悩する男どもバーカ!(笑)、と言ってやりたかった。


 などとコメントし、またネットにおける座談会(http://natalie.mu/comic/pp/moteki)でも


「夏樹のような女性に入れ上げて酷い目に遭った」「夏樹のような女性はするりと手の中からすり抜けてしまう」と思い出を語る周囲の男どもに対し、「全員死ねばいい」と斬って捨てた久保ミツロウ。


 あのさー、芸能関係の人とかみんな「小宮山夏樹が好きなんですよね」って。(「モテキ」TVドラマ版で監督・脚本を務める)大根仁さんも夏樹が好きで、こないだ会ったavexのお偉いさんも、唐木さんも夏樹でしょ? 私は、夏樹が好きだって言う男が、大っ嫌い!


 と半狂乱で憎悪をぶつけまくります(普通、個人的にも親しくしているドラマ版の監督にこんなことを言うか!?)。
 著書にも書きましたが、女性のセクシュアリティの本質は、まさしく「男性を悪者にすること」そのものなわけですね*。


*これとはちょっと文脈が違いますが、センセイは対談で主人公のフジ君を自分自身であると幾度となく繰り返しています。本作の本質が「女性が自らのダメな部分を省みているはずが、それがいつの間にか男性へ責任転嫁した上での男性への攻撃へとすり替わっている」というものであることが、これ以上はないくらいに明快に語られているわけですね。


 同じ座談会で、相手の「久保先生はさ、なんであんな魅力的でかわいい女の子描けるの?」という問いに、センセイは


 っていうか男が魅力的な女を描けなさすぎなの! 男の新人の作家さんとか、どうやったらかわいい女の子が描けますかってよく訊いてくるんですよ。お前らさんざんグラビアでマスかいてんだろ、と。どの女が好きだとかさんざん言ってるくせに、なんでそれを絵で再現できないのか信じらんない。


 とまで言っています。それ以前に『モテキ』の女性キャラクターが魅力的とも可愛いとも、ぼくにはとても思えないのですが。
 この座談会は(妙に内輪感覚でなされているせいか)本当に非道く、何と言いますか、ブスの「ガールズトーク(笑)」を居酒屋の隣の席でたまたま盗み聞きしてしまったような、何だかムカつきと居たたまれなさが渾然一体となった読後感を味わわせてくれる、まあ「痛い女マニア」必見の内容になっております。


 もう一つ、対談で繰り返されるのは「女の子は言い訳が欲しい」ということ。
 久保センセイが「女の子は『やむをえず』がだーい好き、っていうのがあって(笑)。」と言うのに 対談相手の江口寿史センセイは「だから本当はね、言い訳を男が言わせてあげなきゃいけないんだよ。」と応じています。

 即ち、女性は男性にリードして欲しいもの、男女関係において女性が能動的になるには「やむをえず」という「言い訳」が必要、という言い分ですね。
 なるほどなるほど、BL漫画やレディースコミックにレイプ描写が溢れているのは、そういうわけなのですね。
 そして現世では男たちに求められなくなったため、女たちは男たちを種々の性犯罪冤罪に陥れることで、自らを「やむをえず性的対象にされてしまった存在」という位置に置こうと必死なのですね。
 しかし、本当は、「男の子も言い訳が欲しい」わけです。
 いくら楽な立ち位置から「どうして男の子ってこんなにも傷つきやすいの」と言われましても(確か土井亜紀がそんなことを言っておりました)、それは女の子が今までその役割を男の子に押しつけてきたからこそなのであって、ここへ来てそれへの不満がようやく、爆発したというだけのことなのです。
 だからこそ「言い訳」を用意してあげる萌え漫画がこれだけ売れているのです。いかに、女たちが萌えキャラに対して狂ったように嫉妬心を募らせようとも。
 岡田斗司夫さんは「萌え」を「男女平等」であると喝破しました。
 おそらくこの一言以上に「萌え」を的確に言い当てた言葉は、これからも出てこないだろうと思われる、見事な一言です。
 しかしそんな「男女平等」を、久保センセイは歯牙にもかけません。何しろ彼女は対談において、『草食系男子の恋愛学』を「男のこんなロマンチシズムに女がどうして平身低頭で接しなきゃいけないんだろう。」と切って捨てています。さすがのぼくも、この時ばかりは森岡センセイに同情せずにはおれませんでした。
 更に座談会において、彼女は


 モテ期が来てほしいとか言ってる男はみんな絶滅してください。あなたが誰かのモテ期になってください、と。それに尽きます。指折り数えて待ってるくらいなら、誰かにそういう思いをさせたげればいい。好きじゃなくても。


 とまでおっしゃいます。
 久保センセイの上から目線にはムカムカきますが、ここまで来ると、何だかちょっと可哀想にもなってきます。
 いかに男性であるフジ君をスケープゴートに置こうとも、もはやセンセイの本音は明らかなのですから。
 言うまでもなく、それは
「お願いだから、アタシを好きになって」。
 というものですね。
 はいはい、センセイのお気持ちはよくわかりました。
 その上で、これは皮肉でも何でもなく思うのですが、センセイが今なすべきことは一人称「俺」でガールズトーク座談会を開いたり、「久保ミツロウとカラオケできるカラオケ大会」なんていう企画に乗っかったりすることではないでしょう。自画像を(他者であれば憎悪の対象であろう)セクシー美女にしてみたり、オジサンにしてみたりすることでもないはずです。
 今であれば、『モテキ』バブルで対談を申し入れてくる「殿方」が大勢いることでしょう。だからこの機会を逃さず、彼氏をゲットするべく努めることです。「言い訳が必要」「やむをえずが好き」などと逃げ続けることをやめて。
 それをせず、男性への憎悪を世に撒き散らしていても、久保センセイにも世の中にも、きっといいことなど一つもありません。そんな行為は決して「創作活動」などではなく、単なる「テロ」に過ぎないのですから。


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結婚ってどうよ!?

2010-09-11 05:49:01 | レビュー

 承前。
 さて、『フロン』を読んでムカついたみなさん。
 本書をご覧になることをお勧めします。
 といっても本書も女性向けですから、男性が見てムカつく部分がないわけでもありませんが、とはいえ先の本に比べてかなり読後感は爽快です。
 渡辺由美子さんというライターさんと共著の形になっていますが、これは岡田さんのお話をライターさんが小説という形でまとめたためで、結婚問題に悩む二九才の独身女性、アリス(笑)さんが岡田さんに悩みを聞くという形式になっております。
 内容は本当に、女性相手の恋愛指南書(とでも言うんでしょうか? ぼくが知らないだけでこのジャンルに冠するべきネーミングって、ありそうですが)であり、前述書のような「論」は一切ありません。女性の疑問にズバリズバリと具体的なアドバイスがなされるのみです。


 岡田さんは「男はみんな『セックス付きの家政婦』がほしい」のだ(これは章タイトルにもなっています)、女は装飾品だとまで断言します。その言葉に憤るアリスちゃんですが、それについては


「……でも、女性の側も『装飾品』みたいなひどい言葉で言い換えられるようなことを、何か男に要求してるんじゃない?」


 職業に限らず社会的ポジションね。学歴でも同じだけど。男の場合、社会的地位に匹敵するものが奥さんの年齢なんだ。そこらへんは公平に見ると、お互い似たようなもんでしょ、と僕は思うんだけれども」


 そしてまた、「対等な友達夫婦」を理想だと言いつつも「割り勘は嫌」で「おごってほしい」というアリスちゃんのダブルスタンダードに対しては


「じゃあ、セックス付きの家政婦で我慢しな、と。はい、回答終わり」


 更に家事の苦手なアリスちゃんが「家事を押しつけてくる男」の批判を始めるや、「男は女を守るべき」とか「レディーファースト」とかは(「女は家事をやれ」と同様に旧来の男女観ではあるけれども)好ましいんでしょ、とばっさり切り捨てます。
 女性が結婚になかなか踏み切れないのは、結婚が「男性に幸福にしてもらおうとする」ためのツールだからだと指摘、そうした幻想についても手厳しい批判がなされます。
 非常に明快で爽快です(とは言え、女性たちはこれを読んで
納得できたんでしょうか? Amazonなどを見ても高評価ばかりですが……)。
 続いて、岡田さんは(結婚に過度な幻想を抱かないために)自らの現状を正しく把握し、生涯結婚しないままの人生を選択したらどうなるかのシミュレートをすることを勧めます。
「一生結婚できず一人だったらどうしよう」とアリスちゃんが怯える様を見ていると*、可哀想で可哀想で「女性の皆さん、今まで小馬鹿にした発言を続けてきてすみませんでした」と謝罪したい気持ちでいっぱいになってきますw
 あなた方も、「フェミニスト」という憎むべきお局様たちに人生を踏みにじられた被害者だったのですね。これからは力をあわせ、きゃつらを倒しましょう!!


*この辺りでは歳を取った女性に対する「男に好かれるためのノウハウ」がかなり具体的に書かれます。他にも岡田さんは「女は四十歳にモテキが来る(大意)」と言ったりで、どうかと思う部分も少なくはないのですが、とは言えこの辺り、女性にとっては読んで損はないんじゃないでしょうか。


 ぼくは当初、本書の後半では前掲書に顕著だった「家族解体論」や「女性の社会進出論」が語られるのでは、と想像していました。同じ著者の、同じ路線の著作なのですから、それは当然、そう予想しますよね。
 何だか、それじゃ『「婚活」時代』と同じだよな……とそんな悪い予感に駆られながら、ぼくはページをめくり続けました。
 女性の社会進出が好ましいことなのか好ましくないことなのかは置くとして、もし女性が幸福な結婚をしたいのであれば当然、「働いている暇があったら早いうちから婚活しろ」以外の理論的な答えはあり得ません(本書のように四十からモテ出すというアクロバットを持ち出すのであれば別ですが……)。
 しかし『「婚活」時代』はどういうわけか、「結婚するためには積極的な活動が必要」という正論に、まるで抱きあわせ商法のように「女はキャリアがあればモテるのだ」という自分の願望を無根拠に混ぜ込んでいます。
 むろん白河さんは不況の折、男性も女性が働くことを望んでいることを根拠として挙げてはいます。しかしそれは現代の日本の状況から来る二次的なことでしかありませんし、ましてや「玉の輿に乗るための婚活」という世間の女性たちの目的意識とは全く逆ベクトルのものでしょう。
 そして案の定と言うべきか、白河さんの「結婚するには自分で稼げ」との論法は「婚活」がブームとなるや忘れ去られ、「婚活」は玉の輿に乗るためのノウハウとしてマスコミを賑わすようになり、白河さん自身がどこかで苦言を呈していたと記憶します。
 ぼくは必ずしも女性の社会進出を無条件で肯定するものではありませんが、白河さんの失意には、大いにシンパシーを覚えます。
 そして『フロン』と本書との関係は、何だかぼくにはそんな「婚活」ブームの「予告編」のように見えてしまうのです。


 ……すみません、随分と話が横にずれましたが、結局本書においては、ことさら「女の自立」が声高に叫ばれることはありませんでした。
 最後は「自立することこそ肝要」との結論が語られることになりますが、どっちかと言えばそれは結婚できないという可能性への覚悟、といったニュアンスが強かったように思います(つまり「稼げば結婚できる」という『「婚活」時代』の転倒した論理とは正反対の、「自由にやりたいのなら男にたかるために結婚しようなどと考えず、稼げ」という正論ですね)。
『フロン』においてぼくが感じた違和感は、岡田さんが女性たちがキャリア志向を持っていると信じている、その認識の甘さでした。
 ところが本書では女性たちの男性への甘えに対して、歯に衣着せぬラディカルな批判がなされています。
 男に自分の人生の全てを丸投げするのはやめて、まず「結婚しなかった自分」を想定してみろ、と彼は繰り返します。
 それは、男の精の全てを食らい尽くすことを当然と考え続ける女たちへの、岡田さんのため息混じりの懇願のようにすら、見えてきます。
 この作風の変化は何なのでしょうか。
 ちょっと先走った想像かも知れませんが、それはこの二年の間に女性たちに取材するうちに、岡田さん自身が女性観に変化を来したためなのではないか。
 それこそ白河さんの
「絶望した!」を、岡田さんは先取りしてしまっていたのではないか。
 それを暗示するかのように、『フロン』が2001年に出された岡田さん最初の恋愛本だったのに対し、本書は2003年に出された、(今のところ)岡田さんにとって最後の恋愛本になっています。


 ――話がずれたまま修正が効かなくなっていますが、ぼくの興味の焦点は本来、岡田さんの提唱する「自分の気持ち至上主義」にありました。
 しかし本書には、前掲書では重要なキーワードであったその言葉が全く登場しません。
 それは何故か。
 それは、「自分の気持ち至上主義」がアンフェアな運用のされ方をしていることに、彼が気づいたからです。
 岡田さんはその処女作『ぼくたちの洗脳社会』で、お金が一番大切な資本主義社会においてはフェアトレードこそが重要視され、泥棒は一番悪いことと見なされるのだと指摘しました。
 では、「自分の気持ち至上主義」で重要視されるのは?
 それは個々人が互いに相手の「自分の気持ち至上主義」を尊重し、欲望と欲望の折りあいをつけていくことでしょう。
 しかし本書で明らかになったのはあからさまにアンフェアな結婚(男性への過剰な依存)を、女性たちが「当然の権利」であるかのごとく思っているという現実でした。
 それは資本主義社会において、
とある人種だけが泥棒を許されているかのような、極めて許容し難い事態です。
「自分の気持ち至上主義」が「女性の気持ち至上主義」へとすり替わっていっているという事態、即ち「
チ/シキュウ化」です。
「自分の気持ち至上主義」社会は「身分制」という概念を導入し、例えば女性と男性との「気持ち」がぶつかりあった時は、事情を勘案することなく女性の「気持ち」を優先するのだとの、新ルールをでっち上げてしまったのです。
 しかしそんなことをやっている社会はとうてい、近代国家とは呼べません。
 本書は「チ/シキュウ化」した社会へと戦いを挑む、オタキングの物語であった――。
 いささか恣意的な解釈ではありますが、この二つの著作を続けて読んだぼくの感想は、どうしてもそんなものになってしまうのです。


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フロン

2010-09-04 22:54:48 | レビュー

 オタク評論家(評論家を自称するオタクの意)の東浩紀センセイが論破され逃走した経緯については既に述べました。
 ということで、今回はオタク評論家(オタクを評論する人の意)の岡田斗司夫さんについて採り上げたいと思います。
 岡田さんは一時期、恋愛関係の本を精力的に出版していました。
 正直、それらはフェミニストたちの家族解体論の二番煎じに思え、あまり興味を抱いていなかったのですが、最近ちょっと読んでみて、まるで東センセイを真似たかのようなホモソーシャル論が展開されていることに、笑ってしまいました。
 最初にお断りしておけば、岡田さん自身はフェミニストか反フェミニストかと言えば、「ノンポリ」だと思います。だから、上のホモソーシャル論も「男たちは家庭など顧みず男同士でばかりつるんで、天下国家を語ることがカッコいいと勘違いしている」という内容ではあるのですが、同時に「女たちも理性的な議論が一切なく、良い/悪いか好き/嫌いかの二者択一だ」と明快に述べており、女性が一方的に優れているのだとのありがちな主張をしているわけではありません(これはぼくが一人称性/三人称性のそれぞれに安易な善悪の価値づけをしなかったのと同様ですね)。


 さて、とは言え本書の要諦は(確かカバーなどでも謳われていたかと思いますが)「夫を家庭からリストラせよ!」です。
 見るからにフェミニズムに汚染された家庭解体主義者の物言いで、ムカムカきますねw
 確かに本書では夫を「リストラ」せよと言っておきながら、金だけは夫に吐き出させることが基本路線になっています。
 ふざけています。
 ムカつきます。
 しかし、とは言え、後半は女性たちに自立を促すような筆致が目立ってくるようになり、それこそが岡田さんの本意であるとも取れます。
 ここは、評価が分かれるところでしょう。
「女どもにばかり媚びる書き方をしやがって!!」と腹を立てる方もいるでしょうが、「いや、女どもをおだてつつ、何とか自立させようという作戦なのだ」と取る方もいるかも知れません。
 が、ぼくの想像では岡田さんにはそうした「裏の意図」はないと思います。
 というのも、岡田さんはあまりにも邪気なく「自立した女性像」というものを信じきっているからです。


 いまの仕事を生涯続けたい、と願う女性が増えています。仕事に不満があっても「働くこと」はずっと続けていきたいと思う女性は、さらに増えています。


 更に岡田さんは(家庭の概念を瓦解させ、恋愛を自由化させるべきだという文脈で)


 40歳、50歳をすぎてから恋をし、同棲する女性も増えるでしょう。
 異性との関係も、無限のヴァリエーションが出てくるはずです。


 などと書き立てますが、こうなると彼は九十年代にはやったフェミニズム主導の無内容なクィア論の影響下にあるとしか、言いようがありません。
 岡田さんは「社会で重要なポストに就く、輝かしいキャリアウーマン」、「三十四十を超えても、とてはそうは見えない若さと美貌を保ち続ける現役の女たち」といったフェミニズムや女性誌のプロパガンダをすっかり信じきってしまっているのでしょう。
 それも無理はありません。八十年代から九十年代における、
ぼくたちの女災社会でのマスコミを牛耳っての洗脳工作は、本当に異常で過剰でしたから。
 要はこの本は、「殊更フェミニズムに興味のない人間が、しかし無自覚のうちにどれだけフェミニズムの洗脳を受けているか」の一つの指標ということが言えるでしょうか。
 しかし、女性たちにそこまで自立する意欲があるのかと言われても、そもそも彼女らにそんな気持ちがあるのであれば、婚活ブームなど起こりようがないわけです。目下のこの状況は、きっと岡田さんにとっても予想外だったのではないでしょうか。


 本書では結婚について女性側のデメリットばかりにページが割かれ(とは言っても介護問題とか家事が大変とか、その程度ですが)、ついにはシングルマザーが一妻多夫制度を取ることを提唱し出します。男性側の辛さについては、最後までついぞ目を向けようとはしません。
 ムカつきますが、しかしまあ、それは女性向けに書かれているからだとひとまず、拳を降ろしましょう(事実、本書は当初、男性向けを想定していたそうで、むしろその路線で進めていた方が……という気も、しなくはありません)。
 冷静な目で本書を眺めていて気づくのは、センセーショナルに書き立てられたその実質が、装飾を剥ぎ取ってみると意外に古くさいものであることです。
「金さえあれば夫はいない方がいい」と女性たちが口を揃えるなどと、得意げに書かれている箇所は読んでいて愉快ではありません。しかしこんなことは、随分昔から言われていたことです。「亭主元気で留守がいい」ってコマーシャルは八十年代のものだったでしょうか。「遅く帰って来たお父さんが家に入れてもらえない」なんていうギャグは
欽ちゃんが普通に言っていたことです。
 また、導入部のホモソーシャル論が象徴するように家庭から「逃走」を続けていたのは従来、男性の方です。「独身貴族」という言葉が流行ったのは確か七十年代だったはずです。
 そして昨今の婚活ブームでとうとう、「家庭からリストラ」されていたのは女性側だった、いや、「家庭」という女性の本拠そのものが男性たちから放棄されてしまったということが、明らかになってしまったわけです。


 さて、では岡田さんの本意はどういうものなのでしょうか。
「女どもをおだてつつ、男側にお得な社会制度を提唱しよう……」というところにあるのかというと、(まあ、そう捉えることもできなくはないものの)おそらくそういうわけではありません。
 歯にものの挟まったような言い方を続けていますが、ここでぼくが指摘したいのは、岡田さんの家族解体論の根拠が、従来のそれとは異なるということなのです。
 フェミニストたちの家族解体論の根底にあるのは言うまでもなく彼女らの中にある男性への、そして男性からの愛を受けている女性への深い憎悪です。
 しかし岡田さんの主張はもっと至極単純なものです。
 彼は「みんなわがままになったし、家族ごっこってもうムリじゃね?」と言っているだけなのです(岡田さんはそれを、「自分の気持ち至上主義」と表現しています)。
 なるほど、ぼく自身の胸の内を照らして考えてみても、それは容易に否定しにくいことです。
「でも、よりわがままなのは女だ」と言いたいところですが、その
百分の一程度とは言え、男たちのわがままさだって一昔前の人々に比べたら相当なものです。国家への、人類への貢献のために子を育てるのだ、などと考える女性はもちろん、男性だって今時いないでしょう。
 女性たちのエゴを許してきたのはフェミニストだ、という主張も可能とは言うものの、(その百分の一程度とは言え)男たちだってわがままになってきたのですから、家庭の解体そのものは世の中全体の流れ(であり、フェミニズムはそれに便乗した)としか言いようがありません。


 ――と、ここまで書いたところで岡田さんのもう一冊の恋愛本、『結婚ってどうよ!?』を読んでしまいました。というわけで本エントリも中途半端なところで「次回に続く」ということで。


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