当ブログではこの夏を通して、「男性学祭り」を執り行ってきました。
「男性学」とはやや乱暴に表現すれば、渡辺恒夫という男性学の提唱者を殺し、その死体の上で行われている宴でありました。
神話には神様や巨人の死体から食物や国土が生まれてくるパターンがあり、死体化生神話などと呼ばれているのですが、何だかそれを連想する話です。
『ウルトラマンタロウ』で時々「キノコの怪獣をやっつけるとその死体からマツタケが湧いてきて、防衛隊の隊員がそれを美味い美味いと食う」みたいなのをやってましたが、これは意識的に神話を模倣していたものと思われます。
――えぇと、取り敢えずそれはどうでもいいんですが。
ともあれこの祭りにおいてぼくが申し上げたかったのは「男性学に騙されるなかれ」との、ただ一言です。
そして今回はそれに引き続き、本田透の死体の上で執り行われつつある宴についてご報告し、それに騙されるなとのご注進を申し上げたいと思うのです。
ここしばらく折に触れて指摘していることですが、ネット上では時々「オタクをセクシャルマイノリティの一カテゴリーとして位置づけよう」という目論見にお目にかかります。
「オタクィア」とか「二次元性愛者」といった造語がそれに当たりますね。
オタクとは、アニメや漫画のキャラクターに性的欲望を抱く存在だ。
なるほどなるほど、確かにその通りです。
だから、生身の人間に欲望を抱く三次元性愛者に対し、彼ら彼女らは「二次元性愛」というセクシュアリティを持った、セクシャルマイノリティなのだ。
え?
そ……そうだったのか……?
何というか、ちょっとヤバいヤツにいきなり、「お前の前世は織田信長だ」とまくし立てられた気分です。
相手はテンションマックスでこちらの前世について語ってくれるのですが、こっちとしては心の底からどうでもよくて、頭の中は今夜の夕食のメニューやニコ動の『ギンガイザー』全話配信のことで占められていくばかり――といったシーンをつい、連想してしまいます。
言うまでもないことですが、オタクはセクシャルマイノリティなどでは、ありません。
確かに、二次元は至高です。
三次元はクソです。
それは人類の辿り着いた絶対普遍の究極真理であり、これより以降も覆ることはありません。
しかしそれは「真理」であって「セクシャリティ」ではないのです。
いわゆる萌えオタの中に、三次元の女性に一切の興味がない者がどれだけいるのかとなると、いささか疑問です*1。例えばですが、「眼鏡っ娘フェチの人が眼鏡っ娘以外の女性には全く性的興味を覚えないか」という比喩で考えればわかりやすいでしょうか。或いはまた、「ぼくたちが“守備範囲”とか“属性”とか言う時、その範囲外には全く性的興味を覚えないか」と言い換えてもいいかも知れません。
こう言うと彼らは「いや、バイセクシャルが同性にも異性にも性的興味を覚えるように、二次元と三次元の両者に興味のある者がいてもよい」或いは「真性のサディスト、マゾヒストでなくともサディスティック、マゾヒスティックな心理を持ったり、そうした要素を含む性行為に及ぶことはある」といった反論をしてくることが予想されます。
しかし、それは違います。
ぼくが最大限にリスペクトし、当ブログでも度々名前を出す本田透氏は二次元の三次元に対する優位性を説きました。が、ある人物はその主張を
モテないからと言って、女性に対してテロ行為に出てはいけないよ。
というものであると端的にまとめていました。
そう、確かに本田氏の著作を読んでいると度々「モテない男の、現実へのテロ」への危惧が言及され、萌えこそはそんな男を救う道であると説く場面に出食わします。例えばですが『電波男』では『タクシードライバー』の主人公のテロ行為を、「非モテ故の行為」であると解釈しています。
しかしそうした文脈では当然、萌えキャラがある種の「現実の代償」であるという価値観が前提されているわけです。
ですが、ところが、いつも繰り返す通り、本田氏は今ではすっかり忘れ去られた存在になっています。
後期の著作ではバッシングを受けていることを暗示する記述もあり、そうした誹謗中傷や恫喝に耐え兼ねて、表舞台から去ったのでは……との推察もつい、してしまいたくなります。上に「殺した」の「死体」だの繰り返したのも、そう考えると満更過剰な比喩とも言えなくなります(渡辺恒夫氏もまた、フェミニストたちからのバッシングに苦しめられたことを匂わせる発言をし、表舞台から去った人物です)。
そして、そんな本田氏を殺した上で、彼らはその死体を踏みつけにして、「闇の大首領様」に対しておもむろにこう言い出したのです。
貧民どもが牛丼で満足しているのと同様、きゃつらは二次元で満足してございます。
きゃつらはjpgを与えておけば結婚とかしなくても幸福だと申しております。
本田氏の主張はモテない者の、しかしそれに耐えていこうという凜とした宣言でした。
その死体の上で、本田氏の悲しみも辛みも全て踏みにじった上で、彼らはそんなことを言い出したのです。
彼の「心」はないものと切り捨てた上で、「でもそのロジックは使えんじゃん」とばかりに一度埋めた屍体を掘り返し、リサイクルし出しているのです。それは丁度、『エヴァ』以前はオタクを見下していたにもかかわらず、目下はオタクの味方を演じている人々と全く、同じに。
海燕師匠が「オタクはリア充だ、何となればリア充でなければならないからだ」と言い募っていたことを思い出します。ちなみにぼくがこの海燕師匠に対する反論をブログに書いた時、大炎上してしまったのですが*2、どうも話を聞いてみるとブログを荒らしていた人たちはかなりの比率で、「オタクはリア充である」論を兵頭新児自身の主張であると思い込んでいたご様子です。
それは、例えば為政者が山田鷹夫さん(『不食』の著者で、人は食べなくても生きられると主張している人物)をスラムへと連れていき、バタバタと餓死している人間を見下ろしながら「餓死なんてあり得ないですよね、寝てるだけですよね」と頷きあっているようなものでしょう。
そう、目下、左派の間で牛丼を食っている愚民たちに対してウナギやメロンを食いながら*3「脱成長」を説くことが流行っていますが、それとこれとは全く、同じなのですね。
いくら何でも、言葉を失ってしまうほどの、容易には信じがたいほどの、地獄の鬼も震え上がるであろうほどの、残忍さです。
*1 ただし、女性、或いはセックスそのものに対する嫌悪感から、女性との性交渉を拒む者はある程度多いかと思います。しかしそれは「セクシュアリティ」とは違うでしょう。
*2「海燕『ほんとうはリア充なオタクたち。クリスマスを前に多様化する「幸福のかたち」を考える。』を読む。」(http://ch.nicovideo.jp/hyodoshinji/blomaga/ar26499)
*3 これは内田樹師匠について書いたことですが、後に調べ直して、彼が食べていたのはメロンではなくフレンチであったと判明。まあ、どちらでもいいことですが。
――さて、ところで、ちょっと順序が前後するようですが、ここで申し上げておきましょう。
上に挙げた「オタクィア」というのは、小谷真理師匠の造語かと思われます。『網状言論F改』に所収された「おたクィーンはおたクィアの夢を見たワ。」がその初出ではないかと恐らく、思います。
ただ、上の小谷師匠の論文では、タイトルに反して実のところ「オタクィア」という言葉の実質については、大して語られておりません。
また、「おたクィア」「二次元性愛」といったワードをネット上で検索しても、これぞといった記述を見つけ出すことができませんでした(何しろ「おたクィア」で調べると、ぼくのブログの昔の記事*3がトップに来ます!)。
そのため、上に挙げた「オタクィア」「二次元性愛」の概要はあくまでぼくが記憶によって書いたものであることを、お断りしておきます。
「萌えフォビア」といった造語や、また「リベラル/ラディカルフェミニズム」に対するデマが積極的にウィキに書き込まれているのに比べ、いささか後手に回っている印象です。
しかし、とは言え、だからこそこの論調、これから盛んに言われ出すだろう……という気が、ぼくにはしているのです。それは丁度、忘れ去られていた「男性学」が復活したのと、全く同様に。
*3『男性学の新展開』(http://blog.goo.ne.jp/hyodoshinji/e/42ed34b541bfa0ee2eb51ce4814b160e)
これには恐らく、「アセクシャル」という概念の一般化が関連しているものと、ぼくは想像します。
「アセクシャル」は無性愛者の意で恋愛感情を抱かない、或いは性的欲求を抱かない人のことを指します。
そうした人々がいることは否定しません。
ていうか、知識がないのでそれに対して断定的なことを言おうとは思いません。
しかし例えばですが、ツイッターのプロフィールで性同一性障害を匂わせている腐女子の全員が本物の性同一性障害者かとなると、疑問を感じずにはおれないのと同様、アセクシャルを自称する人々の自己申告が100%信じられるかとなると、やはりそれは疑問と言わざるを得ないでしょう。
そして、この概念が(ある種の思春期の病的な)自らのジェンダーに対する、セックスに対する嫌悪へのエクスキューズとして働く作用があることもまた、どうしたって否定はできません。
そうした「性欲を持たぬ聖なる存在」としてアセクシャルを持ち上げることと、自らを「三次元への欲望を抱かぬ二次元性愛者」としてプロデュースする心理は、「完全に一致」しているのではないでしょうか。
もう一方、忘れてはならないのは、こうした概念を持ち出したがる人々は往々にして「恋愛至上主義はけしからぬ」といった主張をする人々と重なる、ということです。
――ん? それのどこが悪いのだ? 本田透も「恋愛資本主義」を批判していたではないか。
いえ、それは違います。
本田氏のスタンスは、まず恋愛を良きものとして前提した上で、現代の形骸化した愛を嘆くというものです。
しかし彼らの「恋愛至上主義」を否定しようという動機の裏には、「それが男性支配社会の罠であるから」「家父長制へと絡め取ろうとするシステムだから」全否定しようとする強烈なフェミニズムのイデオロギーが潜んでいるのです。
一部の人々にとって、彼らのスターであるLGBTの末席にオタクを加えていただくことは、大変な名誉なことなのでしょう。しかし客観的に見て、その話に乗っかったところで「恐らく十年くらいパシリやらされた挙げ句、隅っこにだけ座らせてもらうことしかできないんだろうなあ」という予感が、ヒシヒシとします。
何となれば、同性愛者や性同一性障害者たちがあれだけ持ち上げられるのは、彼らが「名誉女性」だから、なのです。
浅田彰師匠は「ホモは素晴らしい、そして男性ジェンダーを捨てた男たちもまた、ホモの一種である(大意)」などとどうにも能天気なことを書いていました。
そこでフェミニストたちのお稚児さんになることを切望している人たちは、「よし、俺も」と思ったのでしょうが、肝心のフェミニストたちがぼくたちオタクを「男性ジェンダーを捨てた男」と認めるかとなると、どうにもそうは思えません。正直、その性行動を見ても、ホモ一般に比べてもオタクの方が「草食系」じゃないかなあと思うのですが、彼女らは一向にそのような指摘をする素振りを見せてはいませんから*5。
*5 上の『男性学の新展開』は実は田中俊之師匠の初期の著作です。ここで田中師匠が上に挙げた小谷師匠の文章を引用しつつも、「しょせんオタクはヘテロセクシャル男性の一カテゴリーだ」と言い捨ているのは、極めて象徴的と言わねばなりません。
暗鬱たる気持ちにさせられる話ですが、最後にちょっとだけメシウマな点について。
これまでの文脈からも想像がつくかと思いますが、この「オタク=セクシャルマイノリティ」論はフェミニスト自身と言うよりは、その理解者たらんとしている男性たちによって専ら、唱えられているような気がします。
そう、その意味でこれもまた、「男性学」の一種と言えましょう。
しかしその一方で、フェミニストたちはオタクが好きではない。
ぼくたちが三次元の女性を求めず、二次元に引き籠もっていること自体が、彼女らにとっては「テロ」であると思えていることでしょう(正直にも、ツイッター上でそのように言っていたフェミニストもいたと記憶します)。
彼女らがぼくたちに求める「性役割」は「自分たちが幾度も幾度も肘鉄を繰り出そうとも、それでも服従を誓い、靴を舐め続ける」ことでしょうから。
しかし更にもう一つ言うならば、幾度も指摘している通り、「彼ら」の側もフェミニストたちのあまりのムチャクチャさにいい加減呆れ、彼女らへの批判を強めている。
ツイフェミは偽のフェミだ、しかしどこかに真なるフェミがいるのだ、見たことはないが。
ラディフェミは悪しきフェミだ、しかしどこかにリベフェミがいるのだ、見たことはないが。
そう繰り返す「彼ら」もまた、フェミのロジックのおいしいとこ取りをせんとする、ゾンビマスターの一人でしかありません。
しかし、いずれにせよそうしたセコいマネは早晩、ムリが出てきます。
「彼ら」に求められるのは「正しい死体遺棄」でありましょう。
そう、これはフェミニストと、彼女らをガールフレンドにしているオタク界のトップとの、「価値観の不一致」の予兆と言えるのです。