兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

敵の死体を兵器利用するなんて、ゾンビマスターみたいで格好いいね!

2016-01-30 18:01:25 | 男性学


 当ブログではこの夏を通して、「男性学祭り」を執り行ってきました。
「男性学」とはやや乱暴に表現すれば、渡辺恒夫という男性学の提唱者を殺し、その死体の上で行われている宴でありました。
 神話には神様や巨人の死体から食物や国土が生まれてくるパターンがあり、死体化生神話などと呼ばれているのですが、何だかそれを連想する話です。
『ウルトラマンタロウ』で時々「キノコの怪獣をやっつけるとその死体からマツタケが湧いてきて、防衛隊の隊員がそれを美味い美味いと食う」みたいなのをやってましたが、これは意識的に神話を模倣していたものと思われます。
 ――えぇと、取り敢えずそれはどうでもいいんですが。
 ともあれこの祭りにおいてぼくが申し上げたかったのは「男性学に騙されるなかれ」との、ただ一言です。
 そして今回はそれに引き続き、本田透の死体の上で執り行われつつある宴についてご報告し、それに騙されるなとのご注進を申し上げたいと思うのです。

 ここしばらく折に触れて指摘していることですが、ネット上では時々「オタクをセクシャルマイノリティの一カテゴリーとして位置づけよう」という目論見にお目にかかります。
「オタクィア」とか「二次元性愛者」といった造語がそれに当たりますね。

 オタクとは、アニメや漫画のキャラクターに性的欲望を抱く存在だ。

 なるほどなるほど、確かにその通りです。

 だから、生身の人間に欲望を抱く三次元性愛者に対し、彼ら彼女らは「二次元性愛」というセクシュアリティを持った、セクシャルマイノリティなのだ。

 え?
 そ……そうだったのか……?
 何というか、ちょっとヤバいヤツにいきなり、「お前の前世は織田信長だ」とまくし立てられた気分です。
 相手はテンションマックスでこちらの前世について語ってくれるのですが、こっちとしては心の底からどうでもよくて、頭の中は今夜の夕食のメニューやニコ動の『ギンガイザー』全話配信のことで占められていくばかり――といったシーンをつい、連想してしまいます。
 言うまでもないことですが、オタクはセクシャルマイノリティなどでは、ありません。
 確かに、二次元は至高です。
 三次元はクソです。
 それは人類の辿り着いた絶対普遍の究極真理であり、これより以降も覆ることはありません。
 しかしそれは「真理」であって「セクシャリティ」ではないのです。
 いわゆる萌えオタの中に、三次元の女性に一切の興味がない者がどれだけいるのかとなると、いささか疑問です*1。例えばですが、「眼鏡っ娘フェチの人が眼鏡っ娘以外の女性には全く性的興味を覚えないか」という比喩で考えればわかりやすいでしょうか。或いはまた、「ぼくたちが“守備範囲”とか“属性”とか言う時、その範囲外には全く性的興味を覚えないか」と言い換えてもいいかも知れません。
 こう言うと彼らは「いや、バイセクシャルが同性にも異性にも性的興味を覚えるように、二次元と三次元の両者に興味のある者がいてもよい」或いは「真性のサディスト、マゾヒストでなくともサディスティック、マゾヒスティックな心理を持ったり、そうした要素を含む性行為に及ぶことはある」といった反論をしてくることが予想されます。
 しかし、それは違います。
 ぼくが最大限にリスペクトし、当ブログでも度々名前を出す本田透氏は二次元の三次元に対する優位性を説きました。が、ある人物はその主張を

 モテないからと言って、女性に対してテロ行為に出てはいけないよ。

 というものであると端的にまとめていました。
 そう、確かに本田氏の著作を読んでいると度々「モテない男の、現実へのテロ」への危惧が言及され、萌えこそはそんな男を救う道であると説く場面に出食わします。例えばですが『電波男』では『タクシードライバー』の主人公のテロ行為を、「非モテ故の行為」であると解釈しています。
 しかしそうした文脈では当然、萌えキャラがある種の「現実の代償」であるという価値観が前提されているわけです。
 ですが、ところが、いつも繰り返す通り、本田氏は今ではすっかり忘れ去られた存在になっています。
 後期の著作ではバッシングを受けていることを暗示する記述もあり、そうした誹謗中傷や恫喝に耐え兼ねて、表舞台から去ったのでは……との推察もつい、してしまいたくなります。上に「殺した」の「死体」だの繰り返したのも、そう考えると満更過剰な比喩とも言えなくなります(渡辺恒夫氏もまた、フェミニストたちからのバッシングに苦しめられたことを匂わせる発言をし、表舞台から去った人物です)。
 そして、そんな本田氏を殺した上で、彼らはその死体を踏みつけにして、「闇の大首領様」に対しておもむろにこう言い出したのです。

 貧民どもが牛丼で満足しているのと同様、きゃつらは二次元で満足してございます。

 きゃつらはjpgを与えておけば結婚とかしなくても幸福だと申しております。


 本田氏の主張はモテない者の、しかしそれに耐えていこうという凜とした宣言でした。
 その死体の上で、本田氏の悲しみも辛みも全て踏みにじった上で、彼らはそんなことを言い出したのです。
 彼の「心」はないものと切り捨てた上で、「でもそのロジックは使えんじゃん」とばかりに一度埋めた屍体を掘り返し、リサイクルし出しているのです。それは丁度、『エヴァ』以前はオタクを見下していたにもかかわらず、目下はオタクの味方を演じている人々と全く、同じに。
 海燕師匠が「オタクはリア充だ、何となればリア充でなければならないからだ」と言い募っていたことを思い出します。ちなみにぼくがこの海燕師匠に対する反論をブログに書いた時、大炎上してしまったのですが*2、どうも話を聞いてみるとブログを荒らしていた人たちはかなりの比率で、「オタクはリア充である」論を兵頭新児自身の主張であると思い込んでいたご様子です。
 それは、例えば為政者が山田鷹夫さん(『不食』の著者で、人は食べなくても生きられると主張している人物)をスラムへと連れていき、バタバタと餓死している人間を見下ろしながら「餓死なんてあり得ないですよね、寝てるだけですよね」と頷きあっているようなものでしょう。
 そう、目下、左派の間で牛丼を食っている愚民たちに対してウナギやメロンを食いながら*3「脱成長」を説くことが流行っていますが、それとこれとは全く、同じなのですね。
 いくら何でも、言葉を失ってしまうほどの、容易には信じがたいほどの、地獄の鬼も震え上がるであろうほどの、残忍さです。

*1 ただし、女性、或いはセックスそのものに対する嫌悪感から、女性との性交渉を拒む者はある程度多いかと思います。しかしそれは「セクシュアリティ」とは違うでしょう。
*2「海燕『ほんとうはリア充なオタクたち。クリスマスを前に多様化する「幸福のかたち」を考える。』を読む。」(http://ch.nicovideo.jp/hyodoshinji/blomaga/ar26499)
*3 これは内田樹師匠について書いたことですが、後に調べ直して、彼が食べていたのはメロンではなくフレンチであったと判明。まあ、どちらでもいいことですが


 ――さて、ところで、ちょっと順序が前後するようですが、ここで申し上げておきましょう。
 上に挙げた「オタクィア」というのは、小谷真理師匠の造語かと思われます。『網状言論F改』に所収された「おたクィーンはおたクィアの夢を見たワ。」がその初出ではないかと恐らく、思います。
 ただ、上の小谷師匠の論文では、タイトルに反して実のところ「オタクィア」という言葉の実質については、大して語られておりません。
 また、「おたクィア」「二次元性愛」といったワードをネット上で検索しても、これぞといった記述を見つけ出すことができませんでした(何しろ「おたクィア」で調べると、ぼくのブログの昔の記事*3がトップに来ます!)。
 そのため、上に挙げた「オタクィア」「二次元性愛」の概要はあくまでぼくが記憶によって書いたものであることを、お断りしておきます。
「萌えフォビア」といった造語や、また「リベラル/ラディカルフェミニズム」に対するデマが積極的にウィキに書き込まれているのに比べ、いささか後手に回っている印象です。
 しかし、とは言え、だからこそこの論調、これから盛んに言われ出すだろう……という気が、ぼくにはしているのです。それは丁度、忘れ去られていた「男性学」が復活したのと、全く同様に。

*3『男性学の新展開』(http://blog.goo.ne.jp/hyodoshinji/e/42ed34b541bfa0ee2eb51ce4814b160e)

 これには恐らく、「アセクシャル」という概念の一般化が関連しているものと、ぼくは想像します。
「アセクシャル」は無性愛者の意で恋愛感情を抱かない、或いは性的欲求を抱かない人のことを指します。
 そうした人々がいることは否定しません。
 ていうか、知識がないのでそれに対して断定的なことを言おうとは思いません。
 しかし例えばですが、ツイッターのプロフィールで性同一性障害を匂わせている腐女子の全員が本物の性同一性障害者かとなると、疑問を感じずにはおれないのと同様、アセクシャルを自称する人々の自己申告が100%信じられるかとなると、やはりそれは疑問と言わざるを得ないでしょう。
 そして、この概念が(ある種の思春期の病的な)自らのジェンダーに対する、セックスに対する嫌悪へのエクスキューズとして働く作用があることもまた、どうしたって否定はできません。
 そうした「性欲を持たぬ聖なる存在」としてアセクシャルを持ち上げることと、自らを「三次元への欲望を抱かぬ二次元性愛者」としてプロデュースする心理は、「完全に一致」しているのではないでしょうか。
 もう一方、忘れてはならないのは、こうした概念を持ち出したがる人々は往々にして「恋愛至上主義はけしからぬ」といった主張をする人々と重なる、ということです。

 ――ん? それのどこが悪いのだ? 本田透も「恋愛資本主義」を批判していたではないか。

 いえ、それは違います。
 本田氏のスタンスは、まず恋愛を良きものとして前提した上で、現代の形骸化した愛を嘆くというものです。
 しかし彼らの「恋愛至上主義」を否定しようという動機の裏には、「それが男性支配社会の罠であるから」「家父長制へと絡め取ろうとするシステムだから」全否定しようとする強烈なフェミニズムのイデオロギーが潜んでいるのです。
 一部の人々にとって、彼らのスターであるLGBTの末席にオタクを加えていただくことは、大変な名誉なことなのでしょう。しかし客観的に見て、その話に乗っかったところで「恐らく十年くらいパシリやらされた挙げ句、隅っこにだけ座らせてもらうことしかできないんだろうなあ」という予感が、ヒシヒシとします。
 何となれば、同性愛者や性同一性障害者たちがあれだけ持ち上げられるのは、彼らが「名誉女性」だから、なのです。
 浅田彰師匠は「ホモは素晴らしい、そして男性ジェンダーを捨てた男たちもまた、ホモの一種である(大意)」などとどうにも能天気なことを書いていました。
 そこでフェミニストたちのお稚児さんになることを切望している人たちは、「よし、俺も」と思ったのでしょうが、肝心のフェミニストたちがぼくたちオタクを「男性ジェンダーを捨てた男」と認めるかとなると、どうにもそうは思えません。正直、その性行動を見ても、ホモ一般に比べてもオタクの方が「草食系」じゃないかなあと思うのですが、彼女らは一向にそのような指摘をする素振りを見せてはいませんから*5。

*5 上の『男性学の新展開』は実は田中俊之師匠の初期の著作です。ここで田中師匠が上に挙げた小谷師匠の文章を引用しつつも、「しょせんオタクはヘテロセクシャル男性の一カテゴリーだ」と言い捨ているのは、極めて象徴的と言わねばなりません。

 暗鬱たる気持ちにさせられる話ですが、最後にちょっとだけメシウマな点について。
 これまでの文脈からも想像がつくかと思いますが、この「オタク=セクシャルマイノリティ」論はフェミニスト自身と言うよりは、その理解者たらんとしている男性たちによって専ら、唱えられているような気がします。
 そう、その意味でこれもまた、「男性学」の一種と言えましょう。
 しかしその一方で、フェミニストたちはオタクが好きではない。
 ぼくたちが三次元の女性を求めず、二次元に引き籠もっていること自体が、彼女らにとっては「テロ」であると思えていることでしょう(正直にも、ツイッター上でそのように言っていたフェミニストもいたと記憶します)。
 彼女らがぼくたちに求める「性役割」は「自分たちが幾度も幾度も肘鉄を繰り出そうとも、それでも服従を誓い、靴を舐め続ける」ことでしょうから。
 しかし更にもう一つ言うならば、幾度も指摘している通り、「彼ら」の側もフェミニストたちのあまりのムチャクチャさにいい加減呆れ、彼女らへの批判を強めている。

 ツイフェミは偽のフェミだ、しかしどこかに真なるフェミがいるのだ、見たことはないが。
 ラディフェミは悪しきフェミだ、しかしどこかにリベフェミがいるのだ、見たことはないが。


 そう繰り返す「彼ら」もまた、フェミのロジックのおいしいとこ取りをせんとする、ゾンビマスターの一人でしかありません
 しかし、いずれにせよそうしたセコいマネは早晩、ムリが出てきます。
「彼ら」に求められるのは「正しい死体遺棄」でありましょう。
 そう、これはフェミニストと、彼女らをガールフレンドにしているオタク界のトップとの、「価値観の不一致」の予兆と言えるのです。

「新春暴論2016――「性的少数者」としてのオタク」を読む

2016-01-22 20:44:35 | セクシャルマイノリティ

 あけましておめでとうございます。
 本年も当ブログをよろしくお願い致します。
 ……今更ですか。そうですね。
 オタクにとって(というか近年では世間的にも)暮れも正月も関係ありませんし、仕事が忙しかったわけでもないのですが、随分と間が空いてしまいました。
 早いもので今年も残すところ後僅か十一ヶ月と……(ry
 まあそれは置きましょう。今回は新年企画として、ワタクシこと大予言者が年末に唱えた「予言」の成就について、ご報告したいと思います*0。
 上の表題にある、山口浩師匠の手によるシノドスの記事*1がそれです――といっても、ぶっちゃけこの文章、ぼくが「予言」した以上の内容はありません。要は「オタクはセクシャルマイノリティだ」と言っているだけです。
 ですが、ツイッター上ではinumashという人物がこの意見に対し、「オタクがセクマイ利権に預かろうとはフリーライドであり、けしからぬ」とわめいたりしており*2、それら「オタクの側を自認する人々は哀れなことこの上ないと思った*3」ものです。
 しかし……何と言いますか、inumash師匠の主張は期せずして、この「オタク=セクマイ」論に対する、極めて優れた「オチ」足り得ているのではないか、とぼくには思えるのです。

*0 ニコブロの「敵の死体を兵器利用するなんて、ゾンビマスターみたいで格好いいね!」という記事で「オタクをセクシャルマイノリティであるとする言説がこれから増えるだろう」と「予言」したのです。近いうちにこちらにもupします。
*1(http://synodos.jp/society/15869)
*2 「「オタクは性的少数者」はLGBTムーブメントへのフリーライド? 董卓(不燃ごみ)さんの議論をまとめました」(http://togetter.com/li/923342)ただし、これについてはぼく自身は未読です。
*3 わかりにくいので書いておきますが、「のうりん」騒動の時の昼間たかし師匠の物言いのマネであります。


 もうちょっとだけ細かく見て行きましょう。
 件の記事は1p目(という表現でいいのでしょうか。要は記事の前半です)では「世田谷区が同性婚を認可したの何の」といったセクシャルマイノリティについての豆知識が語られ、2p目(つまり後半)ではオタク問題について、「表現の自由がどうたらこうたら」といった話題が語られています。
 昨今、セクシャルマイノリティがLGBT、つまりレズホモバイオカマの頭文字を取った略号を名乗ることが多いことは、みなさんもご存じかと思うのですが、記事の1p目で、山口師匠はその四種以外にも様々なセクシャルマイノリティがいるではないかと指摘し、以下のように言います。


似たようなことを考える人はいるようで、他の類型の人たちも含めようという話が出ているわけだが、何しろ性的少数者は実に多様なので、頭文字を集める方式だと、略称はどこまでも長くなる。

LGBTQ(LGBTにqueerを加える)やLGBTI(intersexを加える)あたりはまだ短い方で、長くなるとLGBTTQQIAAP(LGBTにtranssexual、queer、questioning、intersex、asexual、ally、pansexualを加える)とかLGBTTQQFAGPBDSM(LGBTにtranssexual、queer、questioning、flexual、asexual、gender-fuck、polyamorous、bondage/discipline、dominance/submission、sadism/masochismを加える)とか、とても覚えられそうにないところまでいく。これでも全部ではないだろう。


 そう、「あらゆるセクシャルマイノリティ」について語ろうとすればするほど、略号には無限にアルファベットがくっついていくのです。こうなったら「AtoZ」とでもしたいところですが、上にも「A」や「Q」が複数ある以上、もうキリがないとしか言いようがない*4。永遠にアルファベットを並べ続けていくしか、手はないのです。
 師匠自身は一部で提唱されている「GSD」(Gender and Sexual Diversities)という表現を「包括的」だと誉めているのですが、ていうか、「セクシャルマイノリティ」は「セクシャルマイノリティ」でいい気がするのですが
 では、師匠はLGBTの運動を否定しているのかと思うと、どうもそうではないようです。
 上の引用の直後、師匠は


繰り返すが、LGBTの運動自体を否定するものではない。しかし現在のあり方は、社会における多様性を認めていくべきとする旗印に沿ったものとはなっていない部分があるように思う。


 と批判、その理由をLGBTたちが「性的嗜好の主を仲間に加えようとしない」ことである、としているのですから。
「性的嗜好」とはですね、えぇと……すみません、よくわかりませんが、「性的指向」と区別されなければならない概念のようです。後者の「指向」が例えば「男性を指向する」といった言葉にするとニュアンスがわかりやすいように、例えばホモセクシャルなどを指すものであり、前者の「嗜好」は例えば「SMを嗜好する」といったように「行為」、プレイ関係を想像するとわかりやすいようです。
(そうなると「小児性愛者」は明らかに「指向」であろうに、師匠を信ずるならWHOは「嗜好」としているようで今一わかりませんが、まあそこは置きましょう)
 師匠はLGBTには「嗜好」に対する蔑視があるのでは、と糾弾します。


中には小児性愛や窃視のように、実行すれば犯罪となりうる行為も含まれていて、これらを権利問題の論点とすれば自分たちが批判されるかもしれない、という点も、排除したくなる要因だろう。

しかし、あえて悪い言い方をすれば、このようなやり方は、自分たちだけ特別扱いで権利を主張し、そこから漏れた人たちを切り捨てる「名誉白人」型アプローチであるともいえる。


 なるほど、例えば障害者が自分よりも重篤な障害者により蔑視の視線を向けるなどといった例は、普遍的に存在します。「セクシャルマイノリティ」の仲間にしてもらえない「小児性愛」者や「窃視」症者の方がより弱者ではないか、と師匠は言いたいようです。

*4 更に言うならば、本来は「クィア」という表現自体が、「あらゆるセクシャルマイノリティを包括するための表現」だったはずです。しかしそうした表現を「政治的に作り出す」こと自体が、彼らの運動の「仲間割れ」を前提としているわけですね。
 更に更に言うならば、上に並んだ英単語、意味不明だと思う方も多いかと思います。ぼくも初めて見たものが多いのですが、例えばpansexualなどは「全性愛者」とでも訳すのでしょうが、しかしそれはバイセクシャルとどう違うのか、判然としません(「動物性愛者」などがカウントされていない以上、この「pan」には人間の男女以上の意味はないと思います)。また察するにally、flexual、も同義に思え、こうしたネーミングが多くなされること自体が「自他を区別したい」という政治的な動機づけに支えられているとしか、ぼくには思えません。
 ここには彼らのアンビバレントな心性が、生のまま、あまり省察されないままに放り出されているように思えます。


 言っていることはよくわかります。そこで、「だからLGBTの運動には欺瞞がある」と主張するのならば大賛成なのですが、この後師匠は、「オタクもセクシャルマイノリティの仲間に入れろ」と言い出すのです。つまり、上の長ったらしい略号にまた(要らない余計な)アルファベットをつけ加えろというのが、師匠の主張なのです。
 そうした「利権に乗っかり隊」の意見に、ぼくは首肯できません。
 それは「何か、漠然と上を向いて『おまんじゅうをよこせ』と言うだけの運動」であり、果たして国庫に、ぼくたちに回ってくるだけのおまんじゅうがあるのかが、ぼくにはどうにも疑問です。無限に並ぶアルファベットに均等におまんじゅうを分けるとしたら、おまんじゅうは限りなく小さくなるのが道理です。仮に回ってきたとしても、LGBTの食いかけの歯形のついたものがせいぜいなのではないでしょうか。
 おおそうだ!!
 国民の稼ぎは全部国庫に納めさせ、エラい人がそれを均等に分配すれば……(察し)。

 さて、先にも書いたように、記事の2p目では「オタク的表現が規制されようとしている」動きが滔々と述べられ、(そして、「表現の自由」という名の「正義」を掲げるだけでは規制反対運動はジリ貧ではないかとの指摘をして)最期の最後で、師匠は以下のように主張しています。

これまでの表現の自由論に加えて、彼ら一部オタクを性的少数者の一部であると位置づけ、そうしたコンテンツを消費することを性的少数者の権利であると主張してみてはどうであろうか。かつてそうだったように、性的少数者の中に、性的指向や性自認における少数者と同様、性的嗜好における少数者も含める、ということだ。


 何というか……師匠は完全に天然なのだと思います。
 天然であるが故に、何だかTSUTAYAの会員になるみたいに気軽に、ぼくたちにLGBTへの「入会」を求めてきます。
 そしてそんな天然であるが故に、この提言は図らずも、種々の問題へと光を照射してしまっているのです。
 まずLGBTの運動が、専ら「政治的なもの」でしかないと、吐露してしまっている点。
 師匠はあくまで、最初っから政治的戦略として、こうした提言をしていますが、それを果たしてLGBTが受け容れるはずがあるのでしょうか。
 例えば、彼ら彼女らがレズビアンやゲイとしてのアイデンティティ、歴史性、文化などに真摯に考えている時に、ぼくたちが「綾瀬タン萌え~」と言いながら入っていって、いいものでしょうか。だって逆にぼくたちが「黒猫タン萌え~」って言っているところに彼ら彼女らが入って来て「キリスト教がゲイを弾圧し……」とか言い出したら、やっぱりムカつくでしょう。
 そう、ぼくがいつも「LGBTの運動はフェミニズムの影響を受けている」と言っている通り、この運動の根底には「ヘテロセクシズムへのカウンター」という動機が横たわっています。彼ら彼女らが「小児性愛者」を仲間に加えないのは、そもそも「小児性愛者」が「シスヘテロ男性」*5の仲間だからであって、その意味において「仲間に加えない」のは当たり前すぎるほどに当たり前です。
 逆に表現するならば、山口師匠の意見は実のところ、大変に正鵠を得たものなのです。
 要するに、彼の主張は突きつめれば「シスヘテロ男性」は「セクシャルマイノリティ」である、との「正論」となってしまうのですから(むろん、師匠自身は意見の「正しさ」に気づいていないことでしょうが)。
 彼ら彼女らの運動は「抑圧者」という敵を仮想するところにその醍醐味がある。そして、「オタク」は明らかに、その「抑圧者」の側なのです。しかし、その「抑圧者」であると仮想された中で、更に地位の低い者であると言うことはできる。即ち、ぼくがよく言う「プアファットホワイトマン」が「被差別者として認めてもらえないが故の、最弱の者」であるのと同様、「オタク」は「被差別者として認めてもらえ」るはずがないのです。
 inumash師匠のフリーライド論に対しては、「お前らもフランス革命へのフリーライダーじゃん」といった批判がなされていますが、この反論には「元々のLGBTがぼくたちを仮想敵にしている」という視点が欠落しているのです。
 去年、当ブログではずっと「男性学」について語ってきました。
「男性学」者たちは踏んでも蹴られても、「いつかフェミニスト様がボクを愛してくれるようになる」と盲信を続けている人々でした。
 その意味で山口師匠もまた、「男性学」者たちの仲間の一人であると言えます。
 inumash師匠の意見は、そうした山口師匠へと冷や水を浴びせました。いや、じゃあ師匠はフェミニズムの欺瞞を理解しているのかとなるとそうではなく、単に「フェミニスト様に鞭打っていただく権利は俺だけのものだ」と言っているに過ぎないのですが……。
 山口師匠の言は、政治的な立ち回りだけを考えたある種の打算的な、しかもその打算自体も荒さの残る、申し訳ないけど粗雑なものでした。
 inumash師匠の反論は、「おまんじゅうの分け前を減らしてなるか」とのある種の打算的な、しかしならば「フェミはオタクの味方」などとアナウンスするのは止めろと言いたくなる、申し訳ないけど正直すぎるものでした。
 両師匠の発言が反面教師となり、オタクたちがLGBT運動と距離を取らせる方向に進めば、むしろwin-winでしょう。
 しかし最悪を考えるなら、両師匠の失敗を鑑みた「悪の大首領」が新たなる怪人を送り込んでくる、という展開もあり得ます。その怪人は意に添わぬ者を「自称オタク」と呼び捨てつつ、「オタクをセクマイ様の舎弟として飼い慣らす」ための洗脳作戦を企むのではないでしょうか?
 何か『シャイダー』の話みたいですが。

*5 シスジェンダー、即ち男性ジェンダーを持った、性的志向もヘテロセクシャルの男性。小児性愛者がセクシャルマイノリティなのかどうかは知りませんが、「シスヘテロ男性」であることは、確かです。

★オマケ★
 また「新怪人」の新たな作戦として、小児性愛者は置いてオタクを「二次元性愛者」と規定、「絵に描いたおまんじゅうだけを与えて馬車馬のようにこき使う作戦」が考えられます。それについては「敵の死体を兵器利用するなんて、ゾンビマスターみたいで格好いいね!」という記事を書いているのですが、更新が遅れ、こちらではまだ掲載していません。ニコブロの方を見ていただくか、もうちょっとお待ち下さい。