・風流間唯人始末記
みなさん、『Daily WiLL Online』様で書かせていただいた記事は読んでいただけたでしょうか。もう掲載から結構経ってしまいましたが、一時期ランキング1位だってこともある人気記事です。未見の方はどうぞお早めに!!
また、風流間唯人の女災対策的読書はご覧いただけているでしょうか。
風流間唯人の女災対策的読書・第18回「強制異性愛社会――フェミニストがポルノを憎む本当の理由(わけ)」
――こう書くと宣伝ばかりしているようですが、今回の記事はこれらの取りこぼしネタというか、これらを補完するためのものなので仕方がありません。
動画の方ではホモソーシャルについて、「同性同士でつるみたがる傾向は確かにあろうが、それ自体は当たり前だ」とし、また記事の方では「親しい関係性にはその裏面として排他性が生じるのは当たり前だ」としました。
動画ではそれに続き、以下のように言っています。
しかしそれは類を以て集まるのが人間の性だ、そしてホモとヘテロでは好みの女の話をして盛り上がりにくい――というただそれだけのことだ。
これそのものは全く正しいのですが、ただ、ちょっと説明不足かなとも感じ、そこを補足したいというのが今回の主なテーマです。
確かに、同性愛者と異性愛者では「好みの性対象の話」をしにくい。
しかし同時に記事の方にも書いたように、「ホモへの嫌悪感」というのもまた、普遍的であり、動画ではそこについて語っておらず、ちょっとそこから逃げたような物言いになってしまったなあ、と後から思いました。
さて、その「ホモへの嫌悪感」ですが、しかしこれは「ホモセクシュアル」というよりは「男性の肉体性への嫌悪感」が本質だというのが正しいのではないでしょうか。
――いや、そんなんどっちでもいっしょだろう!
う~ん、そうでしょうか。
いえ、突き詰めれば同じかもしれませんが、ぼくがここでしたいのは「ホモフォビア」とやらいう感情は、要するに「女の肉体は性的だが、男の肉体は性的ではない」という、この世の「真理」に準じたものだという指摘です。
――待て、「真理」とは何だ兵頭。そうした世の男どもの頑迷な思い込みを打破したのが、フェミニズムの説く「強制的異性愛」の概念ではないか!
はいはい、では動画でもご紹介した「強制的異性愛」の概念について、もう一度見てみましょう。
・リッチ始末記
まずこの言葉の提唱者リッチ(厳密には先行する提唱者がいるようなのですが)の主張は「レズこそが原初のものである」とでもいったものでした。もう少し詳しく言うならば、「人は誰もが母親に育てられ、母親に懐くものなのだから、女の子にとっては同性愛の方が自然だ」といった感じでしょうか。
これは(動画のコメントに「まるでポストモダンだ」と感想を書いてくれた方がいましたが、まさにその通りで)精神分析学的な、立証の難しい思弁的な立論ですが、実のところ、リクツとしてはそれなりにわかりやすいものではあります。
時々引用しますが、これも精神分析学者のラカンは「異性愛とは女性に性的欲望を感じることだ」と指摘しているといいます。(男性誌の表紙が女性であると共に)女性誌の表紙が女性であることが象徴するように、女性にとっては自分の性的魅力で男性を惹きつけるこそが重要です。レディースコミックが「男性が女性に求愛する」というヘテロセクシャル男性向けのポルノとほぼ同じ構造を持っているのも、それ故です。昨今はイケメンを鑑賞したがる女性も多いですが、例えば女性向けの男性ヌード雑誌などというモノはさっぱり出てきません。
逆に考えるなら、「女性もまた女性に性的欲望を感じているのだから、みんなレズ」と言ってしまえば、言えなくもない。
精神分析ついでに申し上げると、フロイトはエディプスコンプレックスという概念を提唱しました。言ってみれば「男はみんなマザコンだ」という理論ですね。
では女の子は、という段階になって、フロイトは「女の子はファザコンになるはずでは……」などと考えました(が、今一うまくまとめられませんでした)が、後に続く女性の研究家、例えばクラインなどは「いや、女の子はむしろ母親と自分とを同一化してるんじゃ? 男の子はある時期から同一化を止め、母親を対象として愛するようになるのでは?」と考えました。そもそもが「人間はまず自己愛から始まり、同性愛(学童期の子供の、性的な要素を含まない親友関係がこれに当たると考えられます)へと段階を経て異性愛へと「発達」していくのだとの説を唱えたのがフロイトなのだから、むしろその考えを演繹するならば、このクラインの考えの方が筋が通っているわけです。
(以上は大昔に勉強したことを記憶で書いているのですが、アウトラインは間違っていないはずです)
つまり、リッチの唱える「女性もまた女性に性的欲望を感じているのだから、本来はレズが正常」という発想は、ある意味では正しい。しかしさらにその「女性の女性への性的欲望」は、それに先行する自己愛の一種であると考えた方が理解しやすい。だから女性は自己愛、同性愛的要素を温存させつつ、「異性愛」、つまり「男性に自らを欲望させる」段階へとステップアップしていくのだと、一応、そうした見方ができるわけです。
つまり、リッチの主張は実際にレズの女性が少ないこと、また(ことにホモに比べ)レズへの嫌悪感が普遍的とは思えないことなどから容易に否定し得るものですが、「女性の肉体への欲望は男女とも普遍的」という点においては「正しい」のです。
しかしそれを逆に言うと「男性の肉体への性的欲望」は極めて例外的ということにもなります。「ホモはキモい」という価値観は普遍的だ、と考えざるを得ない。いわばリッチの主張は「ホモフォビア」を「正しい」とするものなのですね。
フェミニストがホモを政治利用しているのは周知ですが、本来、フェミニズムはミサンドリーそのものであって、ホモを好きなわけではないのです。その意味で「ホモだって男だ、だから嫌い」と明言している上野千鶴子師匠は正直だし、リッチもまた、近しいことを言っています。「レズはホモといっしょにされがちだが、男性であるホモと違って弱者だ。またホモは性対象を選ばない傾向があるが、レズは違う。(大意。88-89p)」と。
端的にはリッチの主張は(レズ推しなのだから当たり前ですが)女性性は極めて優れた尊いものだ、ホモはしょせん男だから下等だ、とでもいったところにあるわけです。
ただ、この箇所には後年に書かれた脚注で「ホモにも学ぶべき点はたくさんあると思ったよ」などと言い訳が書かれています。動画中でもリッチの論文には言い訳が多い、と指摘しましたが、「本音としてはホモなど嫌いだが、フェミ的にはホモと共闘するのが利口だと考え、言い訳を繰り返している」といったところが本当のところでしょう。
さて、ここまでの流れをちょっとまとめましょう。
リッチの主張はいずれにせよデタラメという他ないが、「女性の肉体性への欲望が性欲の本質」であるという意味では一応、正しい面もある、といった感じです。しかしこの考え方を根底に置くとするならば、フェミニストは間違っても「ホモフォビア」などという言葉でヘテロセクシャル男性を攻撃する資格などは、全くないのです。
・セジウィック始末記
では、セジウィックについてはどうでしょうか。
「ホモソーシャル」という言葉を提唱した(これも厳密には先行した提唱者がいますが)彼女の著作、『男同士の絆』において語られているのは、家父長制は「ホモフォビア」と「ミソジニー」を前提する「ホモソーシャル」によって成り立っている、との主張です。
もっともこれが「(結婚した、即ちヘテロセクシャルの)男は男同士でいい目ばかり見ている、女とホモを差別することでそれを成立させているのだ」というわけのわからない(何より前提が既に完全に間違っている)インネンをムツカシく言っただけのものであることは、ここをお読みの方はもう、おわかりでしょう。
しかしヘンです。
セジウィックは「強制的異性愛」の用語を使っており、またリッチの論文にも言及しており、「ホモソーシャル」という概念の立論の前提として「強制的異性愛」があるのは明らかです。
が、「強制的異性愛」というのはあくまで「レズというよきものを男たちが弾圧したのだ」というものなのだから、ホモは関係ないのです。西欧社会では一応、「ヘテロセクシャルがホモを弾圧してますた」という歴史があったとは言えましょう。しかし少なくともホモソーシャルの概念は「男同士結託する必要があるが、同時に女と結婚する(ことで女を虐げる)必要があるので、ホモを差別する」といったものなので、リッチのロジックはそれの説明に使えるものでは、元々ない。
セジウィックは間違った材料で、作れるはずのないものを作ってしまっているわけです。
もっとも、同書を見て行くと、ヘテロ男同士のホモソーシャリティとホモの関係性とを同じだと言ったら、ヘテロの男側もホモも両方が嫌がるであろう、などと述べ、そして以下のように言っています。
女性と違って男性の連続体には、「男を愛する男」と「男の利益を促進する男」を直感的に結びつけるような力がないのだろうか。
(4p)
とすると、現代社会では、女性のホモソーシャルな絆とホモセクシュアルな絆との間に比較的連続性があるのに対して、男性のホモソーシャルな絆とホモセクシュアルな絆とは完全に断絶しており、男の絆と女の絆は明らかに非対称的な姿を呈している、ということになる。
(6p)
(4p)
とすると、現代社会では、女性のホモソーシャルな絆とホモセクシュアルな絆との間に比較的連続性があるのに対して、男性のホモソーシャルな絆とホモセクシュアルな絆とは完全に断絶しており、男の絆と女の絆は明らかに非対称的な姿を呈している、ということになる。
(6p)
えぇと、わかりにくいかと思いますが、簡単に言えば「何で男って友情と恋愛を分けたがるんだろう」と言ってるんですね、これは。レズが自分の感覚が普通であると思い込んでおかしなことを言っているようにしか読めませんが、しかし、女性が男性に比べて比較的同性同士の肉体的な結びつき(例えば手をつなぐなど)に抵抗を覚えないのは事実であり、これはむしろ「女が自分主観で男の友情を見て首をひねっている」様と表現すべきかもしれません(実はこの人、『クローゼットの認識論』という著書においても似たようなことを延々クドクド書いています)。
しかしその疑問も、上にも挙げたラカンの説を持ち出した時、たちまちに説明が可能になることは、もうおわかりでしょう。
まとめると、セジウィックが指摘したように「男たちの関係性は分断されており、女たちの関係性は分断されていない」のだから、リッチの考えは完全に間違っている。だからリッチの考えを前提とした、「ホントはホモが普通なのに、それを弾圧して男たちに異性愛を強制しているのが現代社会である」という考えも、ましてやそれを演繹した「男がホモと女を搾取して利を得ている」とのホモソーシャルの理論も、最初から間違っていた。
両者とも本当に何重にも何重にも、論理をこんがらがらせて間違ったことを言っているのです。
・バイセク始末記
もう一つ、記事の方にも書きましたが、この「強制的異性愛」を演繹して「近代以前の人間は元々バイセクシャルであった」みたいな俗論が囁かれることがあります。例えば、村田沙耶香の小説『地球星人』ではセジウィックの説として、上のようなことが書かれているようです。
しかし、これはまずリッチの主張と噛みあわないことはおわかりでしょう。彼女はレズ至上主義者ですから。
では、セジウィックは本当にそんなことを言ったのでしょうか。
恐らくこの「バイ普遍論」とも称するべき考えは、古代ギリシャの少年愛の風習を根拠にしているのではと思われます。事実、セジウィックも上述書でそれを持ち出し、「かつてはホモセクシャルとホモソーシャルが連続していた(=ホモを排除してなかった)」と述べています。
しかし彼女は同時に「少年愛といっても基本妻帯者のやってることで、ヘテロセクシャルが根底にあるじゃん」とも述べているのです(ただ、この発言自体は、上の書を書いた後のもののようです)。これは筋の通った指摘であり、納得のできるものです。
つまり、「かつて、バイセクシャルを基調とするジェンダーフリーでホモ差別も女性差別もない理想郷がありますた」といった世界観は、リッチもセジウィックも述べていたとは考えにくい。
ただ、「強制的異性愛」といったフレーズに飛びついた者が、何とはなしにそうした世界観を夢想し、その「夢想」がいつの間にか「現実」であるかのように語られるようになった――と、そうした経緯があったのではないでしょうか。
随分前に藤本由香里師匠の著作を採り挙げたことがありました*。
ここで師匠は少女漫画の中に登場する、異性愛者が見下される「完全両性愛社会」に快哉を叫んでおりました。しかし当たり前のことだけれども、その社会においてはホモも「女を愛さない」ことを馬鹿にされるようになるはず。レズもまた、です。
この「バイ普遍論」は言うならばラカンの説くように、「普通に男が好きだが、アイドルや萌えキャラなどの女の子も好き」な、ヘテロセクシャルであるフェミニスト女性が、「ホモを嫌う一般的なヘテロ男性」へとマウントするという娯楽のために作られた幼稚な妄想なのではないでしょうか。
* 私の居場所はどこにあるの?(その2)
――さて、ではホモは本当に彼女らが主張するようなヘテロより優れたスーパー男性なのか。
その辺りを明らかにするため、最後にちょっとだけ過激なことを書く必要が出て参りました。
当noteの愛読者の方は大体おわかりでしょうが、ここから先は一応、大事を取ってnoteの方の課金コンテンツにしたいと思います……。
・ホモフォビア始末記