兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

ショウジョマンガガガ(その2)

2019-11-29 19:10:23 | アニメ・コミック・ゲーム


※この記事は、およそ12分で読めます※

 はい、続きです。
『トクサツガガガ』について、ことにドラマ版について書くべきことがあったにもかかわらず、前回はそれについて述べることができないまま終わってしまいました。
 というわけで、前回記事を未読の方は、本エントリの前にお読みいただくことを強く推奨します。
 また、これ以前に本作について述べた記事、『フェミナチガガガ』*1を併せて読まれますと、より内容が深く理解できようかと思いますので、そちらの方も是非。まあ、全部読むとかなりなテキスト量になっちゃいますけどね。

*1 過去の記事は以下を参照。
 フェミナチガガガ
 フェミナチガガガ(その2)
 フェミナチガガガ(その3)
 また、当エントリにおいてはこの一番最初の記事(無印)を便宜上、(その1)と表現します。


●笑え!大きな口で

 本作は「負のポルノ」そのものである、というのが前回記事におけるまとめでした。
 本作ではチャラ男や小野田君のみならず、初期はネパール料理店の店員など、仲村さんの「子分」的な男性キャラがより取り見取りで揃っていた。仲村さんが彼らに慕われつつ、彼らを雑に扱うことこそが、本作の見どころとして設定されている。言わば本作は「逆乙女ゲー」だったのです。
 また、前回記事で、仲村さんの「笑い」について書きました。どうも対外的には本作は、「仲村さんはニコニコ笑っている」キャラにしたいようなのに、実際にはしかめっ面ばかりしている。これはどうしたことか。
 確かに連載開始当初の仲村さんは、会社の同僚などには笑っていた。美人が(まあ、美人かどうかはわかりませんが)会社で同僚の男性にモテるものの、それをスルーするという「負のポルノ」であった。
 とはいえ、一応モテているのだから、まだしも一般的な「女の子向け」の側面もあった。
 しかしすぐに仲村さんは「笑わなくなった」。
 これはつまり、仲村さんが女性性を発揮しなくなったことと、同義です(現実の世界でもやたらと愛想の悪い女性って、いますよね。あれは彼女らにとっては笑うことがピンクの服を着ること、ミニスカを穿くことと同義だから、なのでしょう)。
 いえ、そもそも表紙絵を見ていただければおわかりになる通り、この作家さんの絵柄自体がいわゆる「萌え」にはほど遠いもの。正直絵については詳しくないのですが、こうした絵柄の構築自体が、「笑わない」、換言するならばキャラクターに女性性を発揮させない方向で作られたものと言っていいでしょう。
 以前書いたように、ぼくが仲村さんに対して唯一萌えを感じたのは、「オープンオタな仲村さん」を自分でイメージするシーンであり、ここで仲村さんは「大きく口を開けた、萌え笑い」をしているのです。
「萌え笑い」といっても、そんな言葉もないことでしょうが、要するに丁度、今回上に挙げた10巻表紙のような笑いです。この「萌え笑い」は、上に書いた時以外は、確か子供相手にお芝居をしてあげるという話で一度出て来ただけだったように記憶しています。
 この「口を開けた笑い」、劇中でもテーマとなった回があります。幼い女の子が『ラブキュート』(劇中に出てくる『プリキュア』的アニメ)の真似をして、口を開けて笑うが、現実の世界では不自然になる、というお話。いえ、このエピソード自体、別に『ラブキュート』やその「口を開けた笑い」を否定して終わる話では(確か)なかったのですが、ともあれ、この「萌え笑い」をさせれば、「仲村さんですら可愛い」。しかし、仲村さんは、笑わない。
 いえ、「笑わない」と繰り返してはいますが、もちろん、前回挙げた17巻表紙のような「微笑」であれば、劇中にも度々描かれています。ただ、この「萌え笑い」をさせないという描画法そのものが、キャラクターに女性性を発揮させないという作者の方針そのものを表しているわけです。
 この17巻のような「微笑」、つまり1巻の冒頭で描かれたような「一般ピープル相手に愛想笑いをする」シーンすら、中期以降減っていったと思うし、以前も書いたように、後期の本作では女ばかりでつるんでいる「喪女漫画」めいた描写が目立つようになるのです。
 実はこの「喪女漫画」的描写、それそのものはぼくも見ていて不快感はない。おそらくですが、初期に半ば義務的に「イケてる女」としての描写を済ませておいて、そこそこ長期連載を勝ち取った人気作になって以降は作者が好きな描写を重ねている、というのが正直なところなのではないでしょうか。それはちょうど、学園漫画でごく初期だけは申し訳程度に授業風景を描写して見せるのと、同じ感じで。
 つまり、これは仲村さんが仲間内の関係に引きこもり、いよいよ笑わなくなった、比喩的に言えば身だしなみに気を使わなくなった、「女性性」の発揮を拒否するようになったことの現れなのだ、と言えるわけですね。

●桃ガキ大・大キライ

 え~と、すんません、何だこのタイトルと思われたでしょうが、「青ガキ隊大キライ」のもじりです(また説明しなきゃわからんのかよ!!)。
 さて、そんなことだから、本作は巻が進むにつれ「負のポルノガガガ」として先鋭化していきます。
 仲村さんがピンクが大嫌い――否、世間がピンクを押しつけてくるのが気に入らない、と自称しているけれども、実際には自分の中のピンクに対する愛憎を他人の目に投影して、自らの感情に向きあっていないのではないか――であったことを(その2)の「●怪異! フェミ女」で書きました。これもまた、仲村さんの女性性に対する屈折を象徴するエピソードであることは、言うまでもない。彼女が笑おうとしないことと全く等価と言えるのです。
 ぼくは(その3)の「●特オタの母は太陽のように」において、本作の結末自体を「仲村さんとピンクの和解」にすべきだと書きましたし、それは言うまでもなく、彼女が「負のポルノ」から解き放たれ、幼女を泣かすこともなく、小野田君を傷つけることもなく、女性性を受け容れるようになるエンディングである、と想定していました。
 しかしこの仲村さんのピンクとの確執は、いよいよ大きなものとなり、結局、本作のメインテーマにまで成長してしまった。
 そう、蒸し返しますが、仲村さんのお母さんは特撮嫌いで彼女の趣味を認めない横暴な人物として描かれます。が、同時に「可愛いものが好きで、それを(幼い日の)仲村さんと共有したいと願っていた」人物としても描かれているのです。これはどちらかと言えば、この後者こそが重要なのではないでしょうか。
 即ち、お母さんとは仲村さんに女性性、ピンクという価値を押しつける「外圧」の具象化として描かれている。これはいわゆる、「ブンガクっぽい少女漫画」にもどうやら共通のモチーフのようです。
 しかし、ところが、言い続けてきたように、作者がこの母親に投影して描いた、(作者自身が現実世界で感じてきた)「外圧」というのはむしろ作者の自意識が生んだ「幻聴」ではないのかなあと、ぼくには思われる。これは本作を見ていて常に感じることで、北代さんの「周囲が自分の趣味を正確に把握してくれない、自分はアイドルと結婚したいと思っているわけではないのに、それを訂正しても訂正してもわかってはもらえない」という甘ったれきった嘆き、寿退社するOLの、読んでいて何が不満なのかどうにも理解できないエピソードのような形で、本作に折に触れ立ち現れています。この辺りは(その2)の「●怪異! フェミ女」で書きましたね。
 本作は「オタク差別」に仮託して、「ピンクを押しつけてくる、女性差別社会」への怨念を、否、「自分の中のピンクへの屈折を社会のせいにする過程」を描く物語であった。「ワタシは特撮オタクという(男性ジェンダーを獲得した)存在だから、『プリキュア』のようなピンクを好まないのだ」との、壮大なる「言い訳」であった。
 ぼくは「十年目の『ぼくたちの女災社会』」*2において「学園祭のメイド喫茶で、コスプレでノリノリになる仲村さん」という「二次創作SS」を展開しました。これはオタク文化とは女性のピンクへの(専ら自意識内での)葛藤を、フィクションというエクスキューズを用意してあげることでソフトに解消させてあげる、女性にとっても救いとなる文化となり得るのではないか、ツンデレちゃんを、デレさせてあげるための方法論ではないか、とでもいった仮説でした(換言すれば、オタク文化とは「魅力的過ぎるピンクそのもの」であり、フェミニズムがそれを目の敵にするのは当たり前すぎるほどに当たり前のことでした)。
 しかし仲村さんはぼくたちの手から「オタクコンテンツ」を奪い取り、自らのピンクへの屈折を他者のせいにするためのツールにしてしまった。それはまるで、表現の自由クラスタのように
 端的に表現するならば、仲村さんはぼくたちが読んでいた『私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!』を取り上げ、その内容にペンでいろいろと加筆をして「本当に、一切もこっちに非がなく、ただ周囲が悪いせいで彼女がモテない、モテないのはただ社会が悪いのだ」という漫画に描き換えてしまったのです。
 この辺りは実のところ既に本田透氏が『電波男』において、女性向け文化には男性向け文化と違い、内省的なコンテンツがほとんどない、と鋭く指摘していました。ぼくたちがもこっちという「萌えキャラ」に自らを仮託し、自らの「痛さ」を笑い飛ばしていたところへ持ってきて、女性たちはそのもこっちを連れ出し、無理からにメイクを盛って「可愛い」を連発し出したのです。

*2「十年目の『ぼくたちの女災社会』」の「●時代が進んでしまった点――その時、女たちは婚活していた」など。

●さらば仲村よ!特オタの母よ!

 え~と、それで、です。
「最終回」について書きましょう。
 上にも書いたように、ぼくは(その3)の「●特オタの母は太陽のように」で「ぼくのかんがえたさいきょうの『トクサツガガガ』さいしゅうかい」を展開してみましたが、ここでもう一度、「本作がランディングすべき、よき最終回」について考えてみたいと思います。
 てか……すみません!!
 前回書いたように、最近、ドラマ版の「最終回」を見直す機会に恵まれました。
 そして、ぼくの「NHKをぶっ潰す!!」は冤罪に根ざした主張であったことが判明したのです
 ゴメン(軽い謝罪)。
 軽くご説明しましょう。もちろん、最終回の手前で母娘の破局が描かれること自体は、間違いありません。しかし最終回の本当にラスト手前、和解もちゃんと描かれていたのです。短い描写であるために印象に残らなかったようです。ゴメン(軽い謝罪)。
 ふとおもちゃ屋に立ち寄った仲村さん、幼い日の母との思い出を想起します。それは母が買ってくれようとした犬のぬいぐるみを気に入らないと拒絶した記憶。母親が大の可愛いもの好きであるとわかっている現在の仲村さんは、


自分が好きなものを否定され続けて感じていた想いを、私もお母ちゃんに感じさせていたんだ……。



 と思い至ります(ただし、ほぼ同主旨の描写は、原作にもあったはずです)。
 仲村さんはまた母の下を訪れ、彼女へとウサギのぬいぐるみを渡す。
 え……?
 いや、ここがよくわからんのですが。
 仲村さんが幼い日、勧められたのは犬なのに、仲村さんがお母さんに差し出すのはウサギです! ここは同じ犬にすべきだろ!! 何か深い意味があるのか!?
 ともあれ、この一連のシーンは短く、セリフも少なく、極めて暗示的に語られます。ドラマスタッフにしてもケンカをさせたまま終わらせるわけにはいかない、という大人の判断はあった。しかし連載中なので、あまり先走った描写もできない。そこで多分にイメージ的な処理で片をつけたわけなのでしょう。
 しかしこれは母との和解を描くと共に、仲村さんが「母の好きなもの」をも受け容れるという大変にいい描写になっていたと思います。
 最終回のサブタイトルは「スキナモノハスキ」。そう、仲村さんもそうだけど、お母さんも「スキナモノハスキ」であったという、これは見事なエンディングなのです。
 もちろん、文句をつけようと思えばつけられます。好きと嫌いは等価なのであって、「キライナモノハキライ」なのだという一面もある。そうした母親の特撮嫌いというネガティビティまで仲村さんは受け容れられるのか。といったところにまで踏み込んでない、とも言えましょう(このケチは、表現の自由クラスタにはいくらつけてもつけ足りないのですが)。
 また、ここで犬(だかウサギだか)を持ってくるのも一種の逃げではあります。あれだけ特撮と『ラブキュート』を女性性と男性性の対立の象徴として使っていたのだから、こここそラブキュートにすべきだろうと思います。
 ただ、ここは当然、スタッフもわかっていて、そこまで(原作に先んじて)踏み込むわけにはいかないと、確信犯でぬいぐるみに逃げたのでしょうし、犬とウサギを併置させたのも敢えて解釈するならば、男性的、女性的な動物を並べてジェンダーレス性を演出したと、まあ、言えなくもありません(順当な想像をするなら、ぼくが忘れているだけで、かつての回でお母さんが「娘は可愛いものより格好いいものが好きだから」と、ウサギが好きなのに娘に「歩み寄ろうとして」犬を差し出した、というエピソードでもあったのでしょう)。
 ただいずれにせよ、連載途中の漫画の最終回という制約の中でやったことであり、ドラマ版スタッフもいい仕事をしたと思います。
 というのも、これはある意味では「私は、私は」とひたすら繰り返していた本作への、強烈なカウンターですらあるように、ぼくには感じられたからです。
 上にも書いた、北代さんの「訂正しても訂正してもわかってはもらえない」とのセリフ、本当に今年の流行語大賞に選びたいくらいにお気に入りのフレーズです。ぼくたちも是非、実生活においても相手が自分の身勝手な好みを解さなかった時、このフレーズを放ってみましょう。たちどころに孤独になると思います。
 そんな、家来の察しが悪いことをただひたすら嘆くことがテーマの、お姫さまの描いた漫画への、この「お母さんを慮る」エンドは極めて痛烈なカウンターと言えるのではないでしょうか。ぼくが書いた空想最終回はそこに、「実はそのウサギのことも、仲村さんは好きであった」とオチをつけたものでありました。
「ピンク」からの逃走を続ける漫画版仲村さんに対し、(大変残酷なことに美人の演ずる)ドラマ版仲村さんはウサギのぬいぐるみ(という、「ピンク」を提示することで)で、引導を渡したのです。

ショウジョマンガガガ

2019-11-16 01:55:14 | アニメ・コミック・ゲーム


※この記事は、およそ13分で読めます※

 おもちゃのカンヅメクルクル回ってまっ可愛い!
 というわけでこんにちは、森永チョコボールを買って銀のエンゼル五枚か金のエンゼル一枚を送ったら、いまだにおもちゃのカンヅメをもらえると知って驚愕している兵頭新児です(『トクサツガガガ』風イントロ)。
 でも、このおもちゃのカンヅメって元々は「男の子向け/女の子向け」に分かれていたんですよね。ところが今ちょっと調べたところ、どうも現在では性別による区分をしていない模様。
 こうして日本の文化はフェミニズムによって破壊されていくのだなあ……と思ったことでありました。
 終わり。
 終わってしまいました。
 そうじゃありません。今回のテーマは『トクサツガガガ』です。
 以前にも幾度にも渡って採り挙げたものの*、最後(その3)はどうにも消化不良なままで終わり、しかしもうさすがに書くこともないなあと思っていたのですが、最近、新しい巻が出たので一応、読んでみました。
 もう一つ、最近、ドラマ版の最終回がHDDに録画されていたことに気づき、それもネタにしつつ、ちょっと残り物で記事をでっち上げておくか、と思い立ったわけです。
 しかしその前に、一つだけおもちゃのカンヅメに立ち戻り、指摘しておきましょう。
 この世には男の子と女の子がおり、両者の好みは違うのだから、「男の子向け/女の子向け」の区分をなくすべきではないというのがぼくのスタンスです。ただ、「多様な性ガーーーーーーーーーー!!」と言う人に対しても一応、首肯しておきましょう。
 確かに人間のジェンダーは二つではないのだから、三つのおもちゃのカンヅメを用意すべきである。それはつまり、「男の子向け」と「女の子向け」と、そして「ブス向け」を……と。

* 過去の記事は以下を参照。
 フェミナチガガガ
 フェミナチガガガ(その2)
 フェミナチガガガ(その3)
 また、当エントリにおいてはこの一番最初の記事(無印)を便宜上、(その1)と表現します。


●グッバイ・ママ!二人はリベラル友だち

 できれば前回記事を読んでいただきたいのですが、ここで最低限の説明をするならば、ぼくが本作にこだわるようになったのは、NHKで放映されたドラマ版の最終回で主人公の仲村さんと母親との決裂が描かれ、非道いと思ったからです。ドラマ版ではそこでばっさりと話自体が終わってしまい、まるで親子愛を否定したいかのように見えてしまいました。まさにNHKがそのようなメッセージを、我々の血税を使って垂れ流し、国民を洗脳しようとしているのだ、NHKから国民を守れ!!
 ……とまー、そういった感想を持ちました。これについては(その1)において詳述されています。
 そして、(その3)の「●助けて! 2人のオタ友!! 母ちゃんが鬼になる」で書いたように、いざ漫画版を読むとそれなりに仲村さんの内省も描かれ、賛同できるかどうかはともかく、一応のバランスを取ろうとしていることに好感が持てる、またそもそもそれ以降もストーリーは続き、仲村さんはずっと母との関係を気に病み、また関係を修復しようとしており、それもまた好ましい、とそんな感想を抱きました。
 が、いよいよ母との対決が書かれると思っていた16巻は仲村さんが母親に「あんたはもう母じゃない、母でないなら、何と呼べばいい?」などと言い、そこでばっさりと終わるというもの。ぼくはこれについて、

 しかし……恐らくですがこれは、いつもの思わせぶりな演出で、仲村さんの本心ではないと思われます。でなきゃ、帰省を決意するはずもないし、母と会う間際、「母に冷たく拒絶される悪夢」を見てうなされるといったエピソードもあるのですから。


 と予測しておりました。
 そして、先日、17巻が出たので一応、読んだわけです。
 が! この17巻では仲村さん、「お母さんと友だちになる」という提案をするのです。彼女は「人は学生、社会人と肩書を変えていくのに、どうして母とは一生親子関係なの」とどちて坊やのようなことを言い出します。例によって特撮も引きあいに出し、「戦隊も毎回リニューアルするんだから、親子関係もリニューアルしてもいい」とわけのわからないことを言います。「ママをとりかえっこ」かよ!
 結局、母親に対しての感情は、「嫌いな部分もあるが好きな部分もあるので、あなたと関わり続けたい」というところに収まっていて、一読者としてはほっと胸を撫で下ろす展開だけれども、「母と、親子関係を辞めて友だちになる」というのは言葉の遊びみたいなもので、要するにどういうことなのかさっぱりわかりません。リニューアルも何も、子供が成長するに従い、自然と親との関係は変わっていくものです。でも、だからといって親子が親子でなくなるわけではない。そこを今日から急に「対等な友人」になれるものなのか。
 仲村さんは母親が「あなたのため」と称して自分をコントロールしようとするのに辟易としており、そうした関係性を抜け出したいというのが彼女の真意なのですが、しかし逆に言えばそんな母親の性格を何とかしなければ、「友だち」になったとしても関係性は改善されないのではないでしょうか。いえ、まあ、好意的に解釈するなら、「友だち」は言葉のアヤで、「私ももう大人なんだから違う扱いをしてほしい」程度の宣言だと解釈すれば、いいのですが。
 ただ、ここを読んでぼくはやはり、この描き手のことをフェミなんだなあと感じました。
 少子化担当相を担当していた福島瑞穂師匠が自らの家庭で「家族解散式」をやっていたことをご存じでしょうか。今回時間がなく、書籍の記述には当たれませんでしたが、ネット上で数多く言及されているので、これは間違いがないと思います。
 時々書くように、フェミニズムが家族解体を志向していることは疑い得ません。上の仲村さんの宣言も、「家族解散式」などに着想を得ている可能性が、かなり高いのではないでしょうか。

●歩く完全負のポルノ図鑑

 さて、ここまで見てくれば自明なように、『トクサツガガガ』のテーマは「母との葛藤」です。
 少女漫画が常に母親との葛藤をテーマにしてきたらしいこと、つまり本作が「以前存在していた、文学的と評される少女漫画」に極めて近い存在であることも、以前指摘しました。
 そうした指摘自体、フェミニストの受け売りですし、一昔前のフェミニストが実に熱心に少女漫画評論をやってきたことなどを鑑みれば、(かつてのブンガクっぽい)少女漫画とフェミニズムに強い親和性があるのは自明です。本作が『フェミナチガガガ』であると共に『ショウジョマンガガガ』であること、おわかりいただけようかと存じます。
 時々言うように「少女漫画」そのものは、かつてに比べメディアとしての影響力を著しく失っているわけなのですが……本作を見ていて、気づきました。『サルまん』において竹熊健太郎氏は「かつての忍者漫画は換骨奪胎され、現代にエスパー漫画という形で生き残っている」と喝破しましたが、それと同様、言わば「(かつてのブンガクっぽい)少女漫画」は目下、「BL」になり、「負のポルノ」となって生き残っているのです。
 というわけで、ちょっと今さらなのですが、もう一度本作の構造について見直してみることにしましょう。
 以前も書いたようにヒロインの仲村さん、毎回表紙で何でこうもと思うほどに険しい表情を見せつけてくれています。ドラマ版のスチールで美人の女優さんがニッコリ笑って写っているのとは、まさに対照的((その1)と(その2)の冒頭の画像を比較してみてください)。何せ、NHKのサイトにあるドラマ版の紹介文には

 いつもニコニコ笑顔で女子力が高いと思われている。でも・・・。本当の私のことは誰も知らない。


 とあり、どうにも奇妙に思えました。はて、或いはドラマ版は原作とは敢えて、キャラクターイメージを変えてきているのでしょうか。
 いえ、ところが原作でも何巻だったか、かなり後期の巻において、ご機嫌斜めの仲村さんが任侠さんに対して、「私がいつも特撮観てニコニコしてると思ったら大間違いだ」などと語るシーンがあるのです。いや、アンタ、いつも険しい顔で、ことに任侠さんにはキツく当たってるやないか。
 しかしこうして見ると作者としては一応、仲村さんを「いつもニコニコ笑っているキャラ」として設定しているということになりましょう。
 一体、これはどういうことなのでしょうか。
 或いは、(その2)の「●ウソマツ作戦第一号」でぼくが書いたことを、覚えている方もいらっしゃるかもしれませんね。第一巻の第一話、仲村さんは笑顔で登場、職場の仲間の飲み会の誘いを断ります。
 この笑顔は、前にも書いたように「会社ではイケている私(しかしそれは、仮の姿である)」との描写なのです。仲村さんは会社では、一般ピープルを相手にしている時は、笑顔の仮面をつけている。しかし、ひと度素顔になるや、険しい顔の特オタの本性を見せる! そう、笑顔は特オタの醜い素顔を隠すための仮面に他ならなかったのだ!
 すみません、『仮面ライダー』の原作では、あの仮面は改造手術でできた醜い傷を隠すためのモノである、という設定をもじったつもりなのですが、あまりうまく行きませんでした。
 ともあれ、初期には仲村さんの周囲にチャラ男、小野田君といった男性たちが取り巻いていて、彼女のリア充ぶりをアピールしています。即ち、本作は近年ぼくが時々言及する『私がモテてどうすんだ』や『うまるちゃん』、『オタクに恋は難しい』などと同じ「オタク女子のための願望充足コンテンツ」、引いては「ブスコンテンツ」としての側面を持っているのです。これは(その1)で述べましたね。
 そしてまた、それらが『私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い』や『オレの妹がこんなに可愛いわけがない』などの「男の子向けのオタクネタコンテンツ」のブームに乗っかったものであることも、幾度も指摘してきたところです。

 ――それのどこが悪い。男も女も自分に都合のいい夢を見る、お互いさまではないか。

 いえ、それが違うのです。
 ぼくは冒頭で「男の子向け」「女の子向け」「ブス向け」の三種の「おもちゃのカンヅメ」を用意すべき、と言いました。つまり、「ブスコンテンツ」こそがこの最後のカンヅメの中身であったわけなのです。
 確かに「男の子向け」にも(「女の子向け」にも)、取り柄のない主人公が異性にモテるというのはあります。
 そして「ブスコンテンツ」もまた、「ブス(=女子力に乏しい女)がイケメンにモテる」ことを楽しむコンテンツであると言えます。正直、男であるぼくから見るとキモいのですが、しかし女性が楽しんでいる分には罪のあるものではありません。
 しかしこうしたコンテンツでは非常に往々にして、「ヒロインが異性を振る」描写が執拗に繰り返されるのです。仲村さんはチャラ男に冷たくし、小野寺君の求愛をそれと気づかずスルーし、イケメンに恋をしたと思わせておいて、ただヒーローの真似をしてもらっただけで満足する。
 17巻にもそうした描写がありました。そもそも母との葛藤話って17巻の1/3くらいで終わっちゃうんですよね。後はいつもの「例えになってない例え」を並べる日常回が延々続くのですが、バレンタイン回は以下のような具合です。
「バレンタインにおけるチョコを安くあげたい女子社員たち。仲村さんは『巨大ロボの戦闘シーンでは予算の都合でCGと実際の着ぐるみとをうまく使い分ける』という逸話を思い出し、一点だけ豪華なチョコを買い、他は安物と組みあわせたセットで豪華に見せる(何だそりゃ)」というお話で、仲村さんにチョコをもらって喜ぶ小野田君をモブ子が「義理なのに男って夢見てんなー」とdisって終わり。
 これは他の「ブスコンテンツ」でも定番の描写です。実は『おそ松さん』の六つ子がどうしてあそこまで腐女子に支持されたのか、という疑問も、この概念を導入することで理解が可能になります。ダメ男に憧れられるが、相手にしていないトト子、というのがここでは重要なのですね。『CLANNAD』の春原もそうですし、また『スーパーダンガンロンパ2』に登場した左右田というキャラクターもこの系譜と言えます。この左右田君はヨーロッパの小国の王女様に横恋慕しているのですが、彼女は田中というイケメンといい仲で、左右田がこの両者から見下される様が、劇中では執拗にギャグとして描写されていました。
 ネット上でよく挙がる、(そしてまた「負の性欲」という言葉の提唱者であるリョーマ氏が持ち出してきた)「何か、エラそーな女が男に対して論理的整合性を一切持たないお説教をして、男が黙り込む」類の漫画も同等のものと考えていいでしょう。
 そう、「ブスコンテンツ」の中に非常に往々にして立ち現れるこの種のモチーフをこそ、ぼくは「負のポルノ」という、独特のモノである、と考えるのです。
 これらは自分に求愛してくる男をやっつける、というシーンをこそ「抜きどころ」としていますが、男性向けの娯楽でこのようなものは見当たらない。「ムカつくブス」をやっつけるといった内容のものはあるかもしれないけれども、それは「ムカつく」ヤツをやっつけることが主眼でしょうし、男性向けの負のポルノというのはちょっと、思いつかない。
 負の性欲とは(リョーマ氏による概念なので、彼のオリジナルを尊重すべきかもしれませんが、敢えてぼくの咀嚼したものをここで提示するならば)女性は「自分を性的に求めてくる男性を拒絶する」というイメージに「欲情」するという一定の傾向がある、とでもいうものです。
 それは言うまでもなく、女性の性欲が自らの性的魅力を立証することに向けられているからであり、言わば女性は「自分が誰かに求められるというシチュエーションに萌える」生き物であるから、と説明することができる。
 彼女らに普通の性的魅力があるのであれば、普通に男性からの求愛を受けることができ、そのまま普通におつきあいすればいいだけの話です。しかし彼女が男性からの一切の求愛を受けることがないような性的魅力に欠けた人物であったら? その時は「私は男性から求められることなど望まない」との妄想に耽るしか、他にしようがなくなる。「負の性欲」の発動となるのです。
 例えばですが、この求愛者を悪者とすれば(例えば、『マリオブラザーズ』シリーズでピーチ姫をさらうクッパのように)、エンタメとして普遍性と「男の子向け」性、を獲得できるのですが、だんだん、だんだんとそうした普遍性が崩壊しつつある。
 これは純粋にコンテンツの発信側に女性が増え、感覚がマヒしているからかもしれませんし、女性側が過激なものを求めるようになっていったからかもしれません。しかし一番の原因は女性たちがいよいよブスに、非モテになっていっているところにあると考えるべきでしょう。いえ、これは『女災』でも書いたように絶対的な意味でのブスではなく、フェミニズムによって非婚化に追い込まれた「相対性ブス」が急増しつつある、ということですが。
 もちろん、ぼくはこれらを発禁にせよ、と思っているわけではありません。しかしおもちゃのカンヅメの「ブス向け」に入れておけとは、思う。しかしそれがグリコの方針のせいで、いや、グリコじゃなかった森永だった、じゃない、要は男女共同何ちゃらやら多文化強制やら矯正やらのせいで、「女の子向け」どころか「男の子向け」とごっちゃになっている。ゾーニングしてりゃ問題ないんじゃないの、とぼくには思えるのですが。

 ――さて、冒頭では残り物で記事をでっち上げるなどと書きましたが、書き終えるとテキスト量がいつもより増えていたので(!)、続きはまた次回。
 実はNHKのドラマ版については誰も想像していなかったすごいオチが用意されています。
 待て次号!!

「インセルの思想と歴史について実はメディアは全く語らない」を読む

2019-11-09 02:10:01 | 弱者男性



※この記事は、およそ18分で読めます※

 すんません、ここしばらく多忙で、ずっと当ブログの更新が滞っておりました。
 本エントリ、書かれれたのはかなり以前で、いささか古びているのですが……。

 本タイトル、の記事はrei氏によるもの。元はnoteで書かれたものですが、話題を集め、『ガジェット通信』にも転載されています。極めて示唆に富むものであり、是非読んでいただきたいところですが、本稿ではその上で、巷に溢れる「反インセル論」の真実を探っていきたいと思います。

●インセルを巡る左派の嘘 その1.「インセルはネトウヨである」

 さて、そんなこんなで今回のテーマは「インセル」。
 この、アメリカの「非モテ」であるインセルについては、去年も八田真行師匠によるヘイト記事*1への突っ込み、という形で話題にしました。八田師匠は「インセルはトランプ現象と関係があるのだ、あるのだ」と、自分の憎悪を無反省に吐露していましたが、そんなことを言われても、そもそもトランプが出て来たのは、左派が弱者をいじめ続けたからなのではないでしょうか。
 弱者をいじめるためのみに存在している左派としては、トランプを叩かないわけにはいかない。しかし強者を堂々と叩いては左派の名折れだ。だから力のない者たちをトランプ支持者だとの理由から、嬲り殺しにする。師匠の記事からは、そんな左派特有の異常な加虐性が溢れておりました。
 トランプが当選している以上、彼は(確か、女性に限ってもヒラリーより)それなりに支持されているわけなのであって、「インセルはネトウヨ」というのはまあ、「そういうヤツもいる」という意味ではウソではなくとも、政治的目的を持った、恣意的なミスリードと考える他はないでしょう。
 しかしそれをどうしても受け容れることができない左派は、「俺たちの敵は卑しく惨めな者どもなのだ」とヘイトスピーチをひたすら繰り返すのみ。インセルはそんな彼らの前をたまたま偶然に通りかかり、ただ弱そうだというだけの理由で、彼らに意味もなくナイフで滅多突きにされた存在である、というのが実情のようでした。
 これはまた、町山智浩師匠が「トランプ支持者はアニオタだ」などと泣き叫んでいたことと「完全に一致」していますね。
 先頃も師匠の手による「モテない――ただそれだけで大量殺人を犯す“童貞”は、なぜ誕生したのか?」といったネット記事が発表されていました。これは師匠の近著の宣伝記事。エラいエラい作家先生におかれましては著作を出す度、ネットに諸手を挙げて宣伝していただけて、大変羨ましゅうございます。

 モテない、ただそれだけの理由で、無差別大量殺人を犯すテロリストが日常に潜んでいる!

 行方不明になっていた若い女性が惨殺死体で発見されたというニュースに「また売女が死んだ」「ざまあみろ」と喜びのコメントが並ぶ。「レイプの利点は何だと思う?」というアンケートに「デートの必要がない」「金がかからない」などの答え。


 上はインセルのSNSにおける書き込みの内容だそうです。
 いやはや、何ともすさまじいですが、これを持って師匠は以下のように評しています。

キリスト教原理主義者たちがアメリカの政権を握って、すべての女性から働く権利と、選挙権を奪ってしまうのだ。

 え~と……キリスト教原理主義ってレイプと関係あるんですかね?
 インセルコミュニティには確かに、「女の就労を禁止しよう。生きるためには結婚するしかないから、俺たちにも回ってくる」といった言葉も並んでいるそうなのですが、仮にそれが本当だとしても、かねてから言うように*2、ある種の暴論が恣意的に採り挙げられているだけではないかなあとの疑念を拭いきれません。ましてや、町山師匠の言にそうした政治的バイアスがないことは極めてまれです。

*1 八田真行「凶悪犯罪続発!アメリカを蝕む「非モテの過激化」という大問題」を読む
*2 男性問題から見る現代日本社会


 しかし、それにしてもrei氏の記事は極めて挑発的です。
 何しろタイトルからインセルについて、「実はメディアは全く語らない」としているのですから。事実、インセルでググって見るとただひたすら「女性憎悪」「女性蔑視」の文字が目に飛び込んできて、頭がくらくらします。「非モテ」という本質は、二の次……というわけでもないのでしょうが、町山師匠を見てもわかるように、左派が「喉から手が出るほど欲しかった、女性差別主義者」の姿を見出すことができて、随喜の涙を溢れさせている様が、ここからは見て取れます。
 そして実のところ、先のぼくのエントリの中でも、これは予見されておりました。
 ぼくは八田師匠の記事をアメリカの一齣漫画に準えました。「マリッジカウンセラー(夫婦のいざこざを仲裁するカウンセラー)の事務所を訪れた夫人が、自分側の言い分を存分にしゃべった後、『これから夫の言い分を、私が説明しますわ』と言い出す」というものです。端的には「男の言い分など、誰も聞かない。男の言い分は女の口のみを通して語られる。これは全地球規模の普遍的なコンセンサスだが、師匠の記事は言わばそこに乗っかることで、物言わぬ弱者男性を叩くという目的を完遂したものだ」とでもいった指摘でした。

●インセルを巡る左派の嘘 その2.「インセルはPUAに源流を持つ」

 さて、ではもう少し具体的に、「インセルについて、メディアが語ろうとしない真実」というのはいかなるものか。本エントリではそこを見ていくこととしましょう。
 八田師匠の記事では、「(アメリカの反レイシズムNGOの主張を引用し)インセルの源流はPUA(ピックアップアーティスト)である」としていました。このPUAというのは言わばナンパ師のことです。ぼくも「恋愛工学」みたいなヤツだろう、と書きましたが、rei氏もツイッター上で「恋愛工学」の源流がPUAにあることを明言していました。
 しかし八田師匠の記事を見ても、インセルとPUAにどう関係があるのかが、どうにも見えてこない。
 rei氏の記事においても、むしろインセルはPUAを憎んでいるとの例を挙げ、

その為、日本のインターネットで言われる「PUA(欧米のナンパ文化)からインセルが誕生した」は全くの間違いである。まずインセルの方が先に誕生しているし、PUAもインセルとは無関係に発生したムーブであり、更に両者は基本的に対立関係にある。


 と断言します。
 なるほど、ぼくの予言はまたしても的中したわけです(と、調べもせずに言うのだからお気楽な身分ですな)。
 さて、では左派は何故、そのPUAとインセルを強引に結びつけようとするのでしょう。アレですかね、両方とも「プア」だからですかね。「敵」に「貧乏人!」と心ない言葉を投げつけるのは左派の得意技ですし。
 敢えて言えば、「アーティスト」が「技術者」と訳せることが象徴するように、これには「モテのテクニックを分析し、習得する」といったニュアンスがつきまとっています。
 つまりテクニックによって女性心理を操り、ゲームのように女性を落とすことが女性蔑視でけしからぬ、というのが八田師匠の言い分なのですが、しかしそれはモテ男だって同じでしょう。ならば、「男はとにもかくにも全て悪いのだ」というのが結論のはずですし、実際に彼らはそう思っていることでしょうが、先にも書いたように、強い者に牙を剥くなど、左派の名折れ。そこで彼らはひとまず弱者である側にだけ、刃を向けているわけなのです。
 もう一つ。この「技術」という言葉には、「モテ男が本能的に取る行動をリクツで学び、模倣する非モテ」といったイメージが、なくもありません。これを男女逆転させてカリカチュアライズするとするならば、「二目と見られぬブスがメイド服を着て『萌え萌えきゅん』と言っている光景」とでも形容できましょうか。
 つまりメイド服を着ることで、その女性のブス性が、普段着以上に強く浮かび上がってくるのと同様、ピックアップアーティストという言葉には、どこか「非モテが無理してイキっている」というイメージがある。そこでこの両者を「非モテ」として雑に一括りにして採り挙げてしまった、というのが実情ではないかなあ、と思われます。

●インセルを巡る左派の嘘 その3.「インセルは風俗嬢に乱暴する」

 さて、インセルにまつわるウソはまだまだあります。

 以上、長々と語ったが最後に1つ付け加えておくと、インセルは性風俗産業には反対の立場である。
(中略)
よって日本のインターネットで言われがちな「性風俗で乱暴な言動をする男性」は間違いである。そもそもインセルは性風俗産業を利用しない。


 これは極めて重要な指摘でしょう。
 現実のインセルの実像については目もくれず、ただひたすら「インセルはモテないので、風俗に行く。しかし、女性差別主義者なので、風俗嬢をいじめるのだ」という脳内に立ち現れた淫夢を、左派がネット上に流布させている様が、ここからははっきりと見て取れます。
「敵」の悪事を恣意的に捏造するのは、言うまでもなく左派の得意技ですが、ここには彼ら彼女らの「インセルは女を憎悪しつつ、その肉体性を求めているのだ、そうでなければならないのだ」というニーズがはっきりと表れています。
 さて、今までぼくは「左派」という言葉を多用してきました。八田師匠が象徴的なように、どうにもこの種の話題を好んで採り挙げるのは、男性に多いように思われるからです。
 しかし、この主語を「フェミニスト」に置換すれば、以上は全くお馴染みの光景になりますね。
 フェミニストたちがここ十年ほど多用濫用するようになった「ミソジニー」という言葉が、まさにそうです。いつも指摘する通り、「女性差別」ではなく「女性への嫌悪」という感情そのものを裁こうというおぞましい言葉なのですが、ここにはそれ以上に「彼ら弱者男性、非モテは女を憎悪している。しかしそれは女にモテないからこそであり、実のところ女を求めているのだ」との彼女らの淫夢に立ち現れた妄想が含意されている。
 即ち、上に「左派」と表現したフェミニストの傀儡男性たちによって行われる「インセル批判」は、「女を求め、それが叶わず女に狼藉を働く弱者男性を、正義の強者男性がバールで撲殺する」というフェミニストにとっての「負のポルノ」というのがその本質であった、と考えることができるわけです。
 先にPUAを男女逆転させたら、「メイド服を着たブス」になるのではないかと形容しました。となると「PUA批判」とは、「メイド服を着ているブスを『勘違いするなブス』と撲殺している光景」とでも形容できましょう。文章で書くだけでも嫌な気分になる寒々とした光景ですが、実のところそれがフェミニストにとっては「負のポルノ」として「シコい」ものであるわけなのです。

●インセルの真実――男が内面を持つことは、許されていない

 ――さて、ちょっとここでrei氏の「インセルは性風俗産業には反対の立場である。」との指摘に立ち返ってみましょう。その理由は三つあるとされています。

・セックスだけ買えてもロマンチックな関係とは言えず、また金銭でそれを得なければならないこと自体が苦痛である
・また仮にロマンチックな関係が買えたとしてもインセルには低所得者が多い為、それを定期的に買うのは不可能である
・性風俗産業は脱税や公衆衛生の乱れが横行しており、明確な社会悪である


 まあ、三つとは言っていますが、実質的には一つ目がメインと考えるべきでしょう。
 そしてこれを読むと、何か思い出さないでしょうか。
 そう、『電波男』ですね。
 同書は当時の非モテ論壇(日本のゼロ年代のネット上では「インセル」が既に誕生しており、「非モテ論壇」と呼ばれていたのです)を背景として出て来た書。時々書くように、ぼくはこの非モテ論壇そのものについては疎く、『電波男』にその主張の反映がどれだけあるのかはわからないのですが、「現実の世界に失われた愛を求め、二次元世界へエクソダスした選ばれし民、それがオタクである」というのが本書の作者である本田透氏の主張でした。そしてまた彼はkeyのゲームなどに家族志向があることを指摘、「オタク文化は家族愛の復権」であるとも説き、家族を何よりも深く憎む左派によって袋叩きに遭いました。ぼくもまた近年、オタクが萌えキャラを好むのは当然、そのキャラクターの美しさ、可愛らしさ故であるが、より以上に「萌え的世界」の持つフィクション性、分けてもジェンダーが温存されている世界観にこそ憧れを持っているのではないかと指摘しました。言うまでもなく左派がオタクを叩き続けるのは、彼ら彼女らがジェンダーを何よりも深く憎んでいるからでしょう。
 ともあれ、インセルとは、「ロマンチックな関係」をこそ望む者、ということが言えそうです。この「ロマンチック」は恐らく「ロマンチックラブイデオロギー」の略語のようなニュアンスで使われており、要は恋愛こそがそこでは想定されているはず。
 しかし、それならば、何故、こうまでロマンチックな恋愛を尊ぶインセルが「女性差別主義者だ」などと言い募られねばならないのでしょう(……などと本ブログで書くのは動物学の講義で「イルカは魚でしょうか」などと言ってるような茶番ですが、もうちょっとおつきあいください)。
 ぼくはふと、以下を思い出しました。



 これ、実のところネットで拾ったもので、前後ではどんなことが主張されているのかわからないのですが、この種の揶揄は度々、ネット上でなされているように思います。
 感じとしては(プロの)フェミニストなり左派文化人なりはタテマエ上、こうしたことは明言しにくく、専らツイッターや匿名掲示板などで一般的な(言ってみればツイフェミ的立場の)人々がこうした揶揄をすることが多い気がします。
 しかし一体全体、何をもって、この発言が叩かれなければならないのでしょう。
「インセルは風俗嬢に狼藉を働くから許せぬのだ」と絶叫しておきながら、返す刀でこうしたことを言っているのだとしたら、もう本当にダブルバインドという他はありません。
 かつて「男は裸百貫」といった言葉がありました。男性は持って生まれた身体能力そのものが資本であり、生まれながらにしてそれだけの価値がある、との言葉です。しかし現代においてはそうしたブルーワーカーには残念ながら、あまり価値があるとはされません。
 ひるがえって、女性にはまさに裸千貫、万貫の価値があるかのように扱われています。おそらくそうなったのは八〇年代以降自由恋愛の時代に、女性の身体性(男のように身体能力ではなく、性的価値ですが)に無限の価値があるとのフィクションが「国教」になってからでしょう。もちろん、本当のところ、ほとんどの女性の肉体に、そんな価値などはないのですが、上の漫画とは裏腹に、メディアはとにもかくにも女性に「ありのままで」とのメッセージを繰り返し、「何か、そういうこと」になっているのが現状です(女性向けの漫画でヒロインが売春させられる時、法外な値がつく傾向にある、との指摘を思い出します*3)。
 もちろん、「異性にモテたいならば努力しろ」というのもまた、一方では極めて真っ当な正論ではあります。しかし、それを演繹していくと、結局女性が男性のありのままを受け容れようとはしない、社会的地位なり経済力なりといったパワースペックの塊として見ている、との証明になってしまうわけです。経済力のない男性が結婚できないのは、もう隠しようのない真理なのですから(おそらく、PUAのノウハウに触れても、例えば「女に対して強気で出ること」など、同じことが語られていると想像できます)。
 となると、上の漫画のようなことを言ってみたくなるのも、不当なこととは言いにくい。
 事実、本田氏も近しいことを言っていたと記憶しています。仮に自分がライター、作家として成功したら女性たちは寄ってくるだろう。しかしそれは本当の愛と言えるのか、と。
 ぼくとしては本田氏は少々潔癖症的過ぎるというか、「目立つ」ことでモテるようになれば、それをきっかけに自分の内面も好きになってくれる女性と出会えるチャンスも増えていいではないか、くらいに思うのですが(その意味でモテるために社会的成功を得るのも、身体を鍛えるのも、ぼくは別段悪いとは思いません)、いずれにせよ論理としては、本田氏や上の漫画のキャラクターは正しいことを言っているとしか、言いようがない。
 男女とも現実にまみれて生きていくものではあれ、前提として「ありのままを愛されたい」との願望、欲望があること自体は当たり前であり、否定されるべきではないと思うのです。

*3 少女漫画の中の売買春の値段

 もう一つ。ぼくはこれを、「処女厨」といった言葉と極めて近しい構造を持っていると考えます。
 例えばですが、アイドル声優が男性とつきあっていると知り、攻撃するファンというのは(別に声優に限らず、かつてのアイドルから)普遍的な存在です。好ましいことではないけれども、アイドルの商品性は処女性にこそあるのだと考えた時、それなりに故のないことではなく、アイドル側もそこをちゃんと管理すべきでしょう。行き過ぎたものは当然、批判されなければならないが、根本から否定することはできないわけです。
 男性が相手に「処女」を求めることにはある種の普遍性があり、それは女性が「童貞」を忌避すること(これは男性に強さを求めることと全くパラレルです)とワンセットです。
 それは男性が女性の肉体性に魅力を感じ、能動的にアクションを起こすという男女のセクシュアリティに紐づけられており、もしそれを根本から否定するのであれば、恋愛そのものもまた、完全に否定されてしまうでしょう。

●フェミニストの真意――男は内面を持たねばならない、苦しむところを眺めるために。

 さて、くどくどと述べてきましたが、先にも述べたように、これは動物学の講義で「イルカは魚でしょうか」などと言ってるようなもの。そろそろぶっちゃけましょう。
 当初、ぼくは「インセル批判」を「弱い者をいじめないと死ぬ左派が、ターゲットとしてインセルを選んだのだ」と述べました。それはそれで、間違った理解ではありません。しかし後半からは主語がフェミニストへとスライドしていきました(換言するならば、インセル批判をする左派男性が前提しているフェミニズムという思想の腑分けをして見せました)。
 そう、フェミニズムの本質は、「女性差別であるから」との詭弁による、恋愛そのものの全否定です。
 rei氏の記事に立ち返ると、印象的な記述に行き当たります。
 MeToo運動の過程で、

決定的だったのが、オーストリアで自閉症男性の「チック(動作の癖)」がセクハラとしてSNSに晒され、多数の加害予告や個人情報をバラまかれた事件である。


 ということがあったというのです。

 この「主観的・客観的にセクハラや性的アプローチでない言動にせよ、ある1人の女性にそう解釈されたらリンチされる」構造を示した事件とMeToo運動でリンチや自殺による多数の男性死者が出た事と合わせて、「女性は先進国において非モテ男性を殺す権利を有している」という思想が生まれた。



 こういう考え方を、インテリは「女災」と呼んでいるのですが。
 いや、本当に不勉強極まりないことに、リンチや自殺による死者まで出ていたとは知りませんでしたけど。
 ともあれ、白饅頭や青眼鏡が崇拝する牟田和恵師匠の著書を読むとわかるように*4、「女性が不快と感じたら、それはセクハラ」です。
 フェミニズムが恋愛(そして家族)を全否定していることは、自明の、客観的事実です。これは、揺らぐような種類のものではありません*5
 が、ぼくはそう指摘する時に、大体同時に申し添えているかと思います。
 彼女らの本を読むと、確かにそう書いてあるけれども、一人の女性としてのフェミニストの本音としては、実のところ「恋愛の完全否定」をしたいわけではない。
 彼女らの真の理想は、女性ジェンダーの旨味だけをいいとこ取りすること。
 彼女らは、ジェンダーフリー(これは恋愛、結婚、家族の全否定そのものです)を望んではいない。ただ、女性ジェンダーにまつわるネガティビティのみを免除してもらいたい、と思っているのみ。
 換言するならば、彼女らの望みは「恋愛を、女性による完全コントロール下に置くことによる、強者男性から得られるメリットの獲得、弱者男性の抹殺の合法化」です。左派男性たちはこうしたフェミニズムによる大量殺人計画に従事する手先でありました。
 先にも述べた、イケメンには愛され、一方弱者男性はそのイケメンに殺させ、自分はそのスナッフムービー(娯楽目的で作られた、殺人を撮影した映像)という「負のポルノ」を楽しむ、というのが実のところ、フェミニストの目的でした
 その方が、「一粒で二度美味しいから」です(穿ったことを言えば、フェミニストという恋愛弱者はイケメン側の愛は得られず、次善の「(疑似)恋愛体験」として、この「負のポルノ」を求めたのだ、といったことも、当然言えましょうが)。
 だから、彼女らの手先である左派たちは絶叫を続けるのです。
 弱者ども、お前たちに愛される資格があるなどとは、勘違いも甚だしい驕りである。
 それは上級国民である女性様(とその騎士である俺)だけが持つ権利なのだ。
 それにいささかなりとも疑問を持つ者は、こう呼ばれるのだ。女性差別主義者、ミソジニスト、と。
 それが、反インセル論者の高らかな宣言であったのです。

*4 実践するフェミニズム――【悲報】テラケイがラディカルフェミニストとお友だちだった件
*5 夏休み千田有紀祭り(第四幕:ダメおやじの人生相談)