あけましておめでとうございます。
本年度もよろしくお願いいたします。
最近どうも忙しくて、ブログの更新も滞りがちなのですが、ならばリアルの(表の)仕事が充実しているのかとなると、それはむしろ逆という状況。
一体、何が悪いというのか。
さて、当ブログをご愛読の皆様には、上野千鶴子センセイの『女ぎらい』がまさしくフェミニズムの最後っ屁であることがおわかりいただけたかと思います(「女ぎらい――ニッポンのミソジニー」「女ぎらい――ニッポンのミソジニー(その2)」)。その古色蒼然とした筆致は今、パラパラとページをめくってみただけでも歴然としており、その老醜ぶりは例えるなら一億五千万年の眠りから目覚め、大阪城を破壊するなど大暴れしたものの近代兵器に寄ってたかって攻撃され、亡骸は剥製になって万博で晒し上げられた古代怪獣……といったところでしょうか。
ところでこの奇書の最後の最後では、森岡正博教授が批判にさらされております。ここで上野センセイが批判なさっている森岡教授の主張は、まとめてしまえば以下のような感じです。
男性には深い「自己否定」と「身体蔑視」の心理がある。しかしフェミニストはここを理解していない。
驚きました。
これはぼくが拙著でフェミニストたちの深い深い男性憎悪を指摘し、そして男性が自らを「三人称化」してしまう傾向があると指摘したことと、まるっきり重なります。*
むろん、森岡教授は以前から『感じない男』などで上に近いことをおっしゃってはいたのですが(そしてその論旨自体にはぼくも同意できるのですが)、それでも彼はあまりにもフェミニズムに傾倒していて、正直、あまりいい印象を持っておりませんでした。拙著や当ブログで森岡教授をからかうような書き方をしてしまったのも、それが原因です。
しかし森岡教授が上野センセイに牙を?いたとなれば、こちらとしても援護しないわけには参りません。ちょっと、上野センセイが批判している元の本を紐解いてみることにしましょう。
*もっとも、この森岡教授の主張にたいする『女ぎらい』での反論は
誤解しないでほしい。フェミニズムが否定しているのは「男性性」であって、個々の「男性存在」ではない。
といった他愛のないものです。
語るに落ちるとはこのことです。フェミニストたちは一貫して個々の「男性存在」に半狂乱の憎悪をぶつけ続け、裏腹に女性が「男性性」を獲得することを半狂乱で称揚してきたのですから。
北原みのりさんが象徴的ですが、この人たちは本当に天然で、内省というものは皆無です。が、これはフェミニストだけの悪癖かと言えばそうではありません。
「弱者の味方」をもって任ずる「進歩派」というのは、とかくこの種の個人的感情とマクロな視点を極めて曖昧に混同しがちな傾向があるように思います。
「元の本」というのは、『フェミニズムはだれのもの? フリーターズフリー対談集』に収められた森岡教授と杉田俊介さんとの対談、「草食系男子と性暴力」です。
これを読んで一番驚かされたことは、フェミニストたちの男性への尋常ではない憎悪について、かなりラディカルに批判がなされていることです。上野センセイが慌てて反論したのは、その点についてでした。
また本書では同時に、
二十、三十代になると女性が得をしてるのではないかとの意識があるのでは(大意)。
などとも述べられています。
以前、森岡教授を「若いやつのことを知りもせずに若いやつに説教するジジイ」みたいに書いてしまったこともありますが、それは取り消さなければならないでしょう。教授は、柔軟に時代の変化を感じ取る感性と知性の主だと思います。
ただ、この対談では更に別な論文を巡っての議論がなされていまして、その一番最初の論文の中で森岡教授は「出産自体が(性交に強姦という暴力性が絡む可能性がある以上)暴力の結果の可能性がある」みたいなことをおっしゃっているのです。
問題の論文「膣内射精性暴力論の射程:男性学から見たセクシュアリティと倫理」(http://www.lifestudies.org/jp/sexuality01.htm)にまで遡ってみましょう。
森岡教授が先行する二人の学者の意見に対して論考する内容なのですが、この二人の学者さんがものすごくて、乱暴に要約してしまえば、
沼崎一郎さん「膣内射精は暴力だ」
宮地尚子さん「女性の主体性を重んじるため、あらゆる妊娠を後づけで犯罪化できる法律を作ればいいんじゃね?」
といった主張を、この二人はしているのです。
ムチャクチャです。
特に宮地さんはハンパなく、彼女は「強制妊娠罪」という法律の制定を提唱しています。
すなわち、女性が妊娠すると、「合意の有無をとわず男性は強制妊娠罪に問われることになる」(二三頁)。そのうえで、双方が妊娠を望む場合には女性がその旨の契約書を書いておき、強制妊娠罪が非犯罪化される。その措置がとられない場合には、男性は自動的に強制妊娠罪を問われるのである。さらには、強制妊娠罪の場合、女性が出産したら男性には「強制出産罪」が適用され、養育責任は男性が全面的に負う。女性が中絶したら、女性にではなく、男性に「堕胎罪」が適用される。
欧米で時々なされるようになってきているという、「恋愛契約書」の概念に近いと言えば近いですが、まず前提として犯罪を成立させ、その上で「非犯罪化」(何という奇怪な日本語でしょう!)するという手順を踏まえようとは、何ともすさまじい話です。
「女は後づけでいくらでも男を悪者にしてもいい」と言っているのと同じ。内田春菊大勝利です。
こうして見ていくとやはり女性の主体を無視し続けているのは、彼ら彼女らフェミニストたちであることが大変よくわかります。
結局、フェミニズムというイデオロギーはどこからどこまでも、「男が悪者」という大前提をまず掲げ、それを査定することだけが目的化しており、それに囚われている限り、こうした奇矯な結論しか導き出すことはできないわけです。
これら極論に対し、森岡教授は「女性にとっても幸福な妊娠というものの存在を軽視していないか」と主張して、ある種、「ちょっとヤバい人」を「まあまあ」となだめる役回りになっているのですが、しかし読み進めると教授もやはり「あらゆる性関係は性暴力たり得る」とおっしゃっていて、結局は男性の加害者性、女性の被害者性にばかり目を向けた論考で終わってしまっているように、ぼくには読めました。
ここでは幸福な性交があったとしても、事後に女性がその男性に悪感情を抱いたらどうする、との心配がなされるばかりで、その逆、「妊娠後、女性がもし浮気などして男性を裏切ったら」といった仮定は全く出てきません。
そもそもが男性が女性と性交渉をもったらそれ以降の未来の全てについて責任を持たなければならない、という発想こそ病的としか言いようのないものなのですが、ここから感じられるのは彼らの「性暴力撲滅」への極めてエキセントリックな情熱です。もはや牛を殺したくて角を矯めてるのでは、とからかいたくなってしまう、その潔癖症的な感受性です。
しかし、さんざんこき下ろしておいて何ですが、そうは言っても森岡教授がフェミニズムに懐疑精神を持っていらっしゃることはやはり大変素晴らしいことだと思います。
勘繰ってしまえば、教授は世代的にフェミニズムの影響を濃厚に受けてきて、しかし疑問を感じて、その呪縛を解こうと試行錯誤なさっているところなのではないか、とも思えるのです。
以前も少し申し上げた通り、昨今のネットでは「ウヨフェミ(=右翼フェミニズム)」などという「非実在フェミニズム」を持ち出すことで、いわゆる普通のフェミニズムへの攻撃をかわそうとする人々を、度々目にします。
また、フェミニズムというフォーマットの上で男性を救おうという、何とも奇妙な試行錯誤をしている人々にも、最近よくお目にかかります。
少なくとも森岡教授のスタンスは良心的であり、上のような人たちと混同するのは失礼なのですが、しかしやはり最後の最後で教授もフェミニズムを棄てられず、それでは彼らと同じ考えに陥ってしまいかねないのではないか、とぼくには思えます。
フェミニズムを放置して男性を救おうという振る舞いは、極めてナンセンスなのですが、しかし考えれば「男性解放」運動の中でも、フェミニズムに親和的な流派は最初からおりました。九十年代にあった「メンズリブ」のプチブームでも専ら彼らが主役だったことを思えば、(大変残念ですが)それは殊更不思議がることではありません。
しかし、やはりそれは無い物ねだり、モノがもうないことも知らされず長蛇の列に並び続ける旧ソの人、あるいは夏コミで午後から会場入りしてのいじのブースに並ぶ人みたいなものに、ぼくには思われます。いや、のいじさんのブースがいつ完売したかとか、ぼくは知りませんが。
森岡教授は極めて心優しい人で、自分が「傷つける側の性」に生まれてしまったことに大変な嫌悪と憎悪を抱いていらっしゃるのだと思います。
彼が『電波男』を誉めているのを見た時、不思議な感じがしたのですが、考えれば本田透さんもまた、そうしたナーヴァスさと優しさを持った人物でした。
しかし、そうした「男性=加害者/女性=被害者」という短絡こそが実はフィクションであり、それが欺瞞であることは、痴漢冤罪事件などを見ればわかることです。
そこを見破らなければ、ぼくたちに未来はない。『女災社会』の内容は、その一言に集約されます。
偉い人が用意した行列に並んで、自分にまで行き渡るかどうか心許ない商品を買うことを選ぶか、マイナーサークルを回って、自分の足と目で新しい本を探すか。
そろそろ選択の時であるように思います。