兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

オタク文化とフェミニズム(その1)

2025-01-05 14:24:41 | サブカル

 

 皆様、明けましておめでとうございます。
 新年を記念した記事などは本家(https://ch.nicovideo.jp/hyodoshinji)(https://note.com/hyodoshinji)で観ていただくとして、ここでは今話題の田中東子師匠のご著書についてです。
 田中師匠については「東大教授のくせに変名でBLを(商業出版でも)書いていたこと」「そのくせ萌え表現は燃やしていたこと」が難詰されました。
 前者に(だけ)着目し、「何を書こうが自由ではないか」と擁護する向きが(表現の自由クラスタ方面に)いますが、問題は後者と整合性が取れてないということであり、そこを突っつかれるのは当たり前です。
 ただ、もし仮にその点について田中師匠に問い質したら、師匠はおそらく本書を自慢げに掲げてくるのではないかと思います。
 まあ、その辺については後にゆっくり語るとして。
 実はぼく、この本、騒ぎの前にたまたま購入していました。
 いや、やん師匠という御仁が本書を批判していたのを見て、ついつい尼でポチったのです。
 やん師匠は以下のように宣っていました。

「はじめに」から偏見が多くて辛い。オタク文化は男が異性愛を語り消費するものと決めつけ、その他のオタクたちの存在を矮小化し頭を踏みつけながら、男オタクたちは上で私は下にいると思い込み拳を振り上げている。そんな本なのである。

 そんなこと言ったって、「オタク文化は男が異性愛を語り消費するもの」なのは自明であり、だからこそ異性愛を全否定するフェミはオタクの萌え表現をここ十年来、ずっと燃やし続けてきた。
 だからぼくはこれに対して「正しいじゃん。」と書いたのですが、そうしたらやん師匠、速攻でこっちをブロックしやがりました。
 まあ、彼のことは詳しく知りませんが、フェミ信徒なのでしょう、きっと。
 さて、ともあれそんなこんなで同書のページを開いたのですが――。

 

・オタクについての記述が、ない本

 

 開いてみて大後悔。
 これ、「オタク」についての本じゃないです!
 ここでは「オタク」という言葉は専ら「男性アイドルファンの女子」という意味で使われます!
「いわゆるオタク」の話題は、ほとんどないです!!
 以前も同じようなことを書いたことがありましたが、こっちはまあ、だらだらしゃべりの対談本だから……という感じではあったのですが。

 

 その意味で、やん師匠の「オタク男性を見下す書」とのコメントも全く事実に反しています。この人、字が読めないんでしょう。
 さて、しかしまあ、ある意味では同書のタイトルも「正しいじゃん。」かも知れません。
 Xではドヤ顔で「萌えから推しへ」みたいなことを言う輩がいますが、そもそも萌えと推しとは似たような概念だけど、言ってる主体は違います。「萌え」と言っていたのは一応はオタク男子であったのに対し、「推し」と言っているのはいわゆるアイドル好きのおねーちゃんでしょう。
 しかし「ジャニオタ」といった言葉に代表されるように、そのおねーちゃんたちこそが「オタク」であるということにもう、なってしまったのです。
 ちょっと前、togetterだかどこかで「オタクはもう女を指す言葉になってしまった」と書いても理解されなかったのですが、こうして見るともう、それは自明としか言い様がないわけです。
 世間ではオタクというのはもう、アイドルファンのおねーちゃんなのです。
 いつも書く通り、本稿もここで終わりでもいいのですが、いつも書く通り、大枚を投じて買ってしまった以上、記事のネタにでもしないとやってられません。
 そんなわけで別な視点から本書を斬りましょう。 本書のまえがきでは本書のタイトルについて、以下のように述べられます。

 一つ目の理由は、「オタク文化」という言葉がこれまで無意識のうちに「男性オタクの文化」として流通してきたことへの静かな異議申し立てである。「オタク論」とされるものはこれまで、ジェンダー的には無微で中立的な言葉であるかのようにふるまいながら、主に男性オタクのための論であった。
(9p)

 もちろん、ウソです。
 そもそもオタク文化自体が男性発祥のものであり、ジェンダー的に中立なんてことはあり得ない。こう書くと「初期のコミケの参加者の多くは女性で」などと言い出す人が出そうですが、まずオタク文化黎明期(八〇年代初期)にはそれは、「ロリコン漫画」と呼ばれるメディアで展開していました。もちろん一方では『JUNE』などもあったし、アニメファンの中にも(『ガンダム』を除くと*)女性は多かったのですが、独自の文化として勢いがあったのはこの「ロリコン漫画」でしょう。もちろん描き手読み手に、女性は決して少なくなかったとはいえ。
 さらにこの当時、「オタク」とは唾棄すべきゴミ虫くらいの意味であり、女性は決してオタクとは呼ばれなかった。女性は守らねばならないからです。オタクという言葉が肯定的に語られるようになった九〇年代後半、いきなり女性がオタクをまるでサブカル君のように名乗りだした、というのが実情です。
 さらにジャンルをBLに限るならば、それは十全に語られてきたでしょう。田中師匠がよく執筆し、本書の初出ともなっている『ユリイカ』でも特集は組まれてきました。
 もう一つ、時々言いますが、オタク文化と共にオタクそのものへとスポットを当てた「オタク男子論」とも言うべき『電波男』が話題になった時、出版社は「電波女」を、自らを語れるオタク女子を探しましたが、見つけ出すことはできませんでした。彼女らはこの時も「隠れていた」のです。
 さて、しかし本書はそのBLにすらほぼ言及されていません。腐女子をオタクというならわかるけど、アイドルファンがオタクかとなると、やっぱり違うでしょう。例えばサッカーファンを「サッカーオタク」と呼ぶような、一種の比喩的用法と考えるべきです。
 おそらく(三次元の、男性)アイドルファンと腐女子とはかなり層が被っていて、彼女らの主観ではアイドルファンを「オタク」と呼ぶことに違和はないのでしょうが、ぼくからすると大変に違和感があります。
 そんなわけなので以降、本書において「オタク」と詐称されている者たち、つまり男性アイドルにハマっている女性ファンのことを、本稿では「アイドルファン」と呼称します。
 まあ、フェミニストの本です。数行の記述に対するツッコミだけで大量の文字数を必要とするのはいつものことですが、タイトル詐欺についてはこの辺にして、内容について語っていきましょう。

*ギャグ

・何かネオリベみたいなことが書いてある、本

 さて、本書では「推し」という言葉の普及ぶりを誇るように、ひたすら経済雑誌だ、芥川賞を取った小説だ、NHKのドラマだと、あらゆる場で「推し」という概念が扱われていることが嬉々として並べ立てられます。
 が、アイドルや宝塚を見れば推し活に類するモノは以前よりあったし、それは本書にも言及のあるところです(そればかりかこういうの、歌舞伎の昔からありましたよね)。
 しかし、今日日の「推し」には二つの独自性があるのだというのが本書の主張です。
 一つは「ネオリベ的土壌の上にある」こと、もう一つは「ネット上で行われる」こと。
 しかし、前者は資本主義的と言い換えても構わず、別にそれも昔からだよなとしか。要するに近年のアイドル産業は商業主義的だ、さらに「推し」とは要するに積極的ファン活動であり、金銭はおろか労働力をも企業に搾取されているのだといった話が続くのですが、別に独自性はありません。
 ネットについてもファンがネットで宣伝の一環を担わされていることが独自だ、といったハナシになります。確かにSNSや動画投稿サイトなどで「推し」の宣伝をするのも「推し活」の一環です。ネット時代に入り、大衆が「発信者」となったはいいが、ファンは専らアイドル事務所の「ブラック社員」さながら、宣伝活動に従事させられている、というわけです(師匠はこれを「情熱のカツアゲ」などと称しています)。
 ただ、それも昭和のファンクラブの頃からある話じゃないかとは思いますが。九〇年代末ですが、ブラックビスケッツという音楽ユニットがテレビ発信で「CDが売れなきゃ解散!」と煽って買わせる手法を採っておりました。
 他にもマルクス主義に準え、芸能事務所が資本家でアイドルをファンから独占しているとか言ってるのですが……あの……あんまり言いたくありませんが、芸能事務所がイケメンを発掘して、テレビだの写真集だので消費者に届けてくれるから、あなた方がイケメンに賜れるのであって、そうじゃなきゃ、とてもとてもお近づきにはなれないんじゃないでしょうか。その意味でアイドルって師匠の指摘とは真逆の「イケメンの共産主義」です。
 一方、アイドル側も「搾取」されているそうです。
 近年はファンがネットで「布教」する以上に、アイドルもツイッターなどでプライベートの時間までも「営業」に費やしているのですから。
 何かそれが大変で大問題だ、みたいな話なのですが、じゃあファンを止めればいいじゃん、以外の言葉を思いつきません。
 大体、昔のアイドルの方がプライバシーゼロで住所まで知られていて大変だったと思いますけどね。
 以上、何も言っていないに等しい内容なのですが、これは要するに社会学者である師匠が自分の大好きなアイドルについて、マルクス主義だ何だと自分の専門分野にこと寄せてちょっと語ってみました、ということです。

・何か性的搾取みたいなことが書いてある、本

 さて、しかし田中師匠もフェミニストなのだから、ジェンダー論もまた、ご専門でいらっしゃいますよね。そっちの方はどうでしょうか。
「女はずっと男性アイドル(俳優、タレント、アニメキャラ含む)を消費してきた。自分の欲望の対象として『見る』対象としてきた。が、それは今まで専ら「ミーハー」という言葉の下に貶められてきた(大意・136~137p)。
 あっ、はい。
 要するに本書の主な主張は、「アイドルファン」が女性ながら男性を「まなざす」という主体性を獲得した存在である、ということです。
 これは、例えばですが以前ご紹介した『ポルノウォッチング』や、上野千鶴子師匠のデビュー作『セクシィ・ギャルの大研究』などを見れば、フェミにとっては一大テーマと言うことがおわかりでしょう。
 要するに男が女を「まなざす」ことは男による女の支配であり、女性差別でケチカランという。
 もっとも、田中師匠の筆致は、ちょっとどっちつかずです。「女が男をまなざすようになった、やったー、カッコイイ!!」で終わらないのです。まえがきからして「オタク文化は異性愛主義であるため、女性による男性性の消費が行われていた(大意・10p)」などと書かれています。
 今までフェミニズムは「復讐史観」でものを見ていました。男に対していかに残忍で卑劣な言動を取ろうとも、それは今まで男たちが女を搾取し続けてきた(という妄想史観)ことに対するカウンターであり、許されるというのが彼女らの考えでした。
 そこを(形だけでも)葛藤してみせている田中師匠はフェミニストの中ではまだしも、良心的な人だと言えるのです。
 が、「じゃあ、アイドルファンなんか止めればいいのに」と思いながら読み進めると、まとめとして以下のような記述に行き当たります。

 一見、アイドルを応援することで金銭や時間など様々な所有物を搾取されているかのようにも見える女性ファンの得ている対価は確実にあるし、男性アイドルと女性ファンの関係性のなかには、性的搾取以外の多くのものがある。とするならば、男性アイドルと女性ファンの研究は、ひるがえって女性アイドルと男性ファンの関係性を単なる「性的な搾取」のみに加減してしまわない、別の可能性を見出していくことにも貢献できるのではないだろうか。
(139p)

 何か急に男性の女性アイドルファンが巻き添えを食らってますが、要するにこれは、「これからも考えていかなければならない問題だ」と言っているだけで、別に内容のある文章ではありません(そもそも上にある「性的搾取以外の多くのもの」が何なのか、よくわかりません)。
 最終章である十章でも、似たようなマッチポンプ的記述が繰り返されます。

 女オタクによる男性消費はそのすべてが単なる搾取にはなるわけではない、ときっぱり宣言し、そこに搾取以外の何があるのか、一度きちんと考えてみることは重要かも知れない。同時に、もしそのように宣言するのであれば、男オタクによる女性消費のなかにも、「男性による女性の単なる搾取」以上の何かがあることを考えてみなければならないだろう。
(238p)

「考えてみることは重要」と言っているってことは、「搾取以外の何か」についてはまだ、思いついてないってことです。
 その上でいきなりこっち(男オタク)へと話を押しつけ、一腐り批判した後、以下のように締めます。

 二次創作やファン文化、それ以外のあらゆる文化的な活動が、既存のくびきからわたしたちを切り離すと同時に、新しい関係へとつないでくれる可能性を秘めている――その可能性を、私は絶対的に信じている。
(238~239p)

 絶妙に、いいことを言っているようで、実質何も言っていない文章です。
 フェミの文章って、痛いところを突かれると大体「これからも考えていかなければならない」で終わるんですよね。
 そもそもアイドルやアニメキャラを愛好することが「搾取」であるというフェミ以外には理解不能なロジックをこっちに押しつけられても困るのですが、もしそれを「搾取」というのならば、アイドルファンの振る舞いは「搾取」以外は特に何もないでしょう。
 翻って「萌え」コンテンツは「キャラ萌え」以上にストーリーや演出などにおいて優れたものがいくつもあるのだから、「搾取」以外の何かが大いにあると言うしか、ひとまずはないのではないでしょうか。
 師匠は「技術のある成熟した男性もまた、女性はアイドルとして見ている」などとしていますが、彼らをアイドルと呼んでいる以上、それは「性的な消費」がメインであるとしか言いようがないわけです。もう一つ、師匠は「ファン活動はクリエイティブ(17p)」みたいなことを言っているのですが、その具体例については一切語られません(応援する団扇とかがクリエイティブなのかなあ?)。

 ――さて、まだまだツッコまねばならないことがあるのですが、もう相当の文字数を費やしてしまいました。
 まだジャニーズについての6章、ルッキズムについての8章、そして(自分を)男の娘(だと思い込んでいる一般オカマ)についての9章と、ご紹介しなければならない点が多いのですが、ここで一端休憩にしまして、続きはまた後日お届けしようかと思います。


盗作はロボット軍団への反逆である

2024-11-17 20:12:54 | サブカル

 

 どうも、盗作家・兵頭新児です。
 そしてまたある時は、悪のロボット軍団と戦う正義のヒーローです。
 ネット界が悪のロボット軍団に支配されていることはみなさんご存じでしょうから、それは措くとして、ここはまず盗作についてお話ししましょう。
 それはまだ、兵頭が高校生だった頃。クラスでその当時最新の戦隊のEDテーマを口ずさんでおりました。

 ――テイクオフテイクオフ♪

 そこに、音楽好きのSが現れ、言ってきました。

 ――いい歌だな。詩を書いてくれないか。

 いや何で急に「詩を書いてくれ」となったのか、記憶も定かでないのですが、ぼくの歌に感心して作詞を依頼されたという経緯は間違いなく、今から思うとつながりが不明ですが、歌の詩に感銘を受けたんじゃないですかね。
 さて、まあ、しかしせっかくの頼みなので詩を書いてみました。
 Sにもなかなか評価され、感謝されました。いや、そいつも作曲をやっていたといった話は聞かず、結局その詩はどうなったのかわからないのですが。
 が、ちょっとしてそのSが「お前盗作すんなよ」とこちらを詰ってきたのです。
 その隣ではまた別なクラスメートのGがこちらをバカにしたような目で見下ろしながら、「テイクオフテイクオフ♪」とドヤ顔で戦隊EDを口ずさんでおりました。
 おいおいおいおいおい!
 どうもそのGが「兵頭は盗作家だ」と吹き込んだらしく、その根拠は「兵頭の詩にテイクオフというワードが使われていたから」ということらしいのです!!
 そもそも作詞を引き受けた経緯もうろ覚えですが、Sがぼくの歌う「テイクオフ」という歌詞を聴いていたのは間違いなく、或いはその歌の詩をアレンジしろと頼まれたような気もします。
 いずれにせよぼくの書いた詩、さすがに残ってはいないものの、その「テイクオフ」以外にことさら似た箇所はなかったはずです。
 そこを「テイクオフだから盗作だ」と言われても。
 世の中の歌に「テイクオフ」という詩が出てくるものは無数にあると思うのですが、実はそれらは全て、戦隊の盗作だったんですね。
 いやねー、でも世間ってそんなですよ。
 島本和彦氏はラジオ番組をやっていたのですが、代表作の『吠えろペン』のタイトルを『太陽にほえろ』からいただいた、と言ったところアシスタントの女性に「盗作だ盗作だ」と言われ、顔を顰めていたことがありました。
 ましてや高校生なんて世界が狭いですから、「テイクオフ」という言い回しがありふれたものと理解できず、自分の少ない知識が全てで、「あ、戦隊の歌詞だ! だから盗作だ」と短絡しちゃったのでしょう。

 ――さて、ここまでくどくどと述べてきましたが、本稿はアレです、唐沢俊一論の続きです。

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 というのは、唐沢俊一氏を潰したのは「悪のロボット軍団」であったという事実が判明したからなのです。
 ちょっとここで、星新一のエッセイに書かれていた話を持ち出しましょう。
 おそらく五〇年ほど前(1970年代)のことなのですが、コンピュータが歌を作ったと騒がれたことがありました。もっともこれは他愛ない、音楽のデータを膨大に入力されたコンピュータがそこからランダムにサンプリングした、そういったことであったと思います。そして近年のAIについて、ぼくは全く知識を持たないのですが、それもこれの高度になったものと考えていいのではないでしょうか。
 ともあれそのコンピュータ作曲の歌を当時の人気歌手、坂本九が歌い、「盗作の歌のようだ」との感想をもらした、とエッセイにはあります。
 星新一はそれに続け、「人間の場合は仮に似ても偶然の一致など、一概に言えないが、これは人間不在であり、明確な盗作だ」としていました。
 そう、人間の場合「偶然似てしまう」ということがあるわけです。

 ――いや待て兵頭。唐沢の場合は明らかな盗作ではないのか。偶然似たとは言えまい。

 そりゃわかってます。
 ご存じない方は前回記事をご覧いただくか、調べていただきたいのですが、唐沢氏の場合は「とある作品のプロット紹介を、ブログ記事から無断で引用した」ことが問題であり、これは「偶然似た」とは考えにくい。
 しかし同時に、前回にも述べたようにそもそもプロットの要約なのだから、「クリエイティビティというものの盗用」であったとは言いにくいのです。
 同様に、「偶然似てしまった」場合は「前例があることを知らず、同じ道を辿った」わけだから当人は同様のクリエイティビティを発揮したのだと言うしかなく、やはり「クリエイティビティというものの盗用」とは言いにくいわけです。

 ――なるほど、そうなると共通点があることは認めるが、それで唐沢を正当化するのは無理筋じゃないか。

 いやだから、ぼくは前回から、「唐沢氏は悪くない」などと一言も言ってませんって。
 ぼくが言っているのは「唐沢氏を叩いた者は悪い」です。
 何となれば、彼らは「悪のロボット軍団」の手先なのですから。
 そうそう、以前にも書いたことですが、やはり星新一のエッセイでは再三繰り返し、海外の学者の言葉が引用されています。
「機械がいかに人間に近づこうが、それは脅威ではない。人間が機械に近づくことこそが脅威だ」。
 ぼくはこれをオタク文化が一時期の勢いを完全に失い、前例に似たものを作るばかりのソシャゲやYouTube動画、SEO様のお告げ通りに記事を書くネットライターなどへの「予言」として紹介しました。

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 ぼくはそれらを「オタクの敵」認定すると共に、いつも腐す左派とはまた一線を画した存在(少なくとも直接の関係はない)ともしていましたが、「左派的な価値観で自由を縛ろうとするグローバル資本主義」をロボット軍団の黒幕とでもするならば、やはり似たもの同士、両者は「同じ黒幕に差し向けられた悪のロボット」であるとは表現し得る。
 そして、冒頭に挙げたぼくの高校生の時のクラスメートGの例、これはまさしく「自ら機械に近づこうとしている人間」、言い換えれば「ロボット軍団の軍門に降った人間」の姿ではないでしょうか。
 だってこの人はぼくの詩の「クリエイティビティ」というモノを(それがさほどあったか否かは措くとして)認めることができず、共通のキーワードを見た瞬間、それを盗作と認識してしまったのですから。
 何かからパクっただけのYouTube動画、SEOで検索されているキーワードを抜き出し、それらをウィキの記述から切り貼りしただけの、「意味」というものを一切持たないネット記事。
 これらは悪の軍団の「人間ロボット化作戦」の一環です。
 いえ、もちろん、Gを見てもわかるように、普通の人々の認識はその程度のものであり、クリエイティビティを認め、楽しむだけのリテラシーは最初から、持っていなかったという辺りが、結論なのでしょうが。

 ちょっとここで疑問に思った方がいるかも知れません。Gはぼくの作を盗作だと言い立て貶したが、翻ってネット民はクリエイティビティのない動画をおとなしく受け容れているではないかと。
 そう思った方は非常に鋭い。
 確かにそれはその通りです。
 しかし先にも述べたように、両者とも「クリエイティビティ」というものに価値を置いていないという意味で同じ、ということに気づいて欲しいのです。
 唐沢氏のやったことは明確に盗作で悪いことであった。
 が、彼を潰そうと大騒ぎした連中に、クリエイティビティを云々するだけの知恵はなかった。先の記事で言及した作家さんにおいても、それはそうでした。いえ、作家なのだからそうした批評眼がゼロであるはずはないのですが、唐沢憎しの感情に取り憑かれ、まともな判断力を喪失していた。
 それは、非常におぞましいことなのではないでしょうか。
 彼らは夥しいYouTube動画がある種の「盗作」によって成り立っていることを知っている。
 しかし彼らの中でそれに声を上げた者は、おそらく一人もいない。
 だって「盗作」とは「敵」に投げつけ、そいつを潰すための「攻撃呪文」でしかなく、クリエイティビティという尊いものの簒奪などでは全く、ないのだから。

 ここでみなさん、「女災」について思い至っていただきたいと思います。
 今年に入って松本人志氏、ジャンポケの斉藤氏と極めておかしなことになっていることは、ご承知かと思います。
 女災のおぞましさは「被害者だと最初から決まっている方の性」の鶴の一声で全てが決まってしまうこと、逆に言うならば女性の合意があったか否かという極めて曖昧で立証の困難なことを根拠として成立していることです。
 盗作問題もやはり、同じ構造が見て取れるのです。
 星新一が重要だと指摘した、人間のクリエイティビティというものは極めて曖昧で立証困難なものなのだから。

 話題としてはちょっとずれますが、そもそもがオタク文化というのはパロディから始まったものでした。
 例えば、美少女コミック誌(という名の、商業同人誌)においてはクオリティの低いものが多かった、ということは先の記事でも述べましたが、そこでは時々あからさまなパクリがあったものです。
 パクリとパロディの境目もまた曖昧ですが、数ページに渡り構図からセリフまで同じ、それを違うキャラにやらせているだけ、なんてのもあったのです。
 しかしそれを言うなら庵野もそうですよね。
『ナディア』を観れば『ヤマト』だ『サイボーグ009』だ『ノストラダムスの大予言』だ『日本沈没』だと「引用」に継ぐ「引用」です。
 そこで何故庵野が許されているかとなるとやはり作品全体を見渡せば、そこにクリエイティビティがあるからとしか、言いようがありません。
 ぼくはここで唐沢氏について、書籍全体にはクリエイティビティがあるから許せと言っているわけではありません(クリエイティビティは大いにあると思いますが、引用は引用と名言することは、書籍においては当たり前のルールですから)。
 ぼくがしているのは所詮クリエイティビティのあるなしを云々する見識のない輩が盗作だ盗作だと騒いで作家を潰すことができるのであれば、それは女災と変わらない、政治的な敵をいついかなる場合でも好き勝手に潰せるキャンセルカルチャーに他ならない、という指摘なのです。
 ある時期のオタク左派は、明らかにそうした「圧力団体」として機能していました。
 いつも言う「ガンダム事変」、「薔薇族事変」はそうした圧力団体によるフェミ擁護でした。
 しかし、幸いにして表現の自由クラスタという名の圧力団体も、既に力を失ってい(るようにぼくには見え)ます。
 ちょっと前、「男性差別」という言葉の危うさについて述べました。
 それは端的に言うなら「悪」の使っている武器を「自らも持とう」とすることへの危惧でありました。
 それと同様に、敵対的な陣営相手に互いに「盗作だ盗作だ」と攻撃し、相手を潰すという泥仕合がこれから盛んになる、と言う未来図も描き得ますが、好ましいことではありません。
 ぼくたちは「キャンセル抑止力」で互いに睨みを利かせあう未来より、「悪」の持つ武器を破壊することで自由を取り戻す未来をこそ、目指すべきではないでしょうか。


唐沢俊一論――評論家に戮された人たち

2024-10-26 17:56:11 | サブカル

 

 オタク評論家というか、オタク界隈の大物であった唐沢俊一氏が亡くなりました。
 心臓発作による急死とのことで、早すぎる死は惜しまれますが、同時に「むしろ餓死に近い」とも囁かれており、そうした晩年の惨状を知らされるに至っては絶句せざるを得ず、ことに近親者の告白は衝撃的なものでした。
 本件に関してはXで少し書いたのでもういいやとも思っていたのですが、「アンチ」の言動を見て、やはり永続的に残る形にしておいた方がと感じ、ここにまとめておくことにしました。
 そんなわけで少しヤバい話は課金制にします。
 あくまで「ヤバい」はぼく個人にとっての話であり、ことさらに裏事情などが明かされるわけではないので、そこはあくまで文章を面白いと思った方にだけ、お勧めします。
 では、そういうことで……。

・オタクを戮したい者たち

 まず、上にも書いたように近親者の言からすると、氏の晩年はお世辞にも誉められたものではなく、また惨憺たるものであったことが窺えます。
 ただ、同時に氏はサブカル界隈に悪評をばら撒かれていた人でもありました。
 唐沢俊一と言えば「盗作」とのワードが返ってきますし、それも否定できないのですが、「無断引用」とも言われたように(というか、確かご当人がそう表現していたと思います)、実態は「盗作」と言われた時に想像するものとはかなり隔たったものだったのです。
 問題になったのは『新・UFO入門』という新書。没後のポストにも、この本が丸々パクリで書かれたかのように言っているものもありましたが、実際のところ、とある小説についての要約の数行が、個人ブログからコピペされたものであったことが問題になったのです。こう聞くと、なあんだと思われた方も多いのではないでしょうか。
 例え数行でも、また要約であろうとも許されることではありませんが、それにしても他者のアイディアを自作のように装うという意味での盗作ではない。いくらかのペナルティはあってしかるべきでも、全方位からの集中砲火で筆を折らせるような種類のものかは疑問です。何せ、当時のバッシングは本当に常軌を逸したものでしたから。
 実は最近もこれについてXにポストしたことがあるので、そこから引用してみましょう。

(唐沢氏のは許されないこととは言え、明らかに出典を忘れただけのことを、「敵」がここぞとばかり叩き出すという、まさに「キャンセルカルチャー」の先駆けだったんだよね)
https://x.com/Frozen_hyodo/status/1808159262151266733


 これに対し、早速レスをつけてきた作家さんがいました。

違いますよ。漫棚通信さん@mandanatsusinのブログの文章をコピペしたうえ「加工」して原形が分からなくした極めて悪質なものです。くわしくはこちらのまとめを。


 それに対するぼくの(いささか長文の)お返事が以下です。

まず、ちょっと思ったのは「コピペしたうえ「加工」して原型が分からなくした」ってのは論理矛盾ですよね。
「原型が分からな」い場合はパクリとわからないわけです。
いきなり「盗品は処分しただけでお前が盗んだんだろ!」と殴りかかるようなものですw
ただし、唐沢氏の問題の件は確かに「原型」はそのまま持ってきたけど、最後をちょっとだけ変えていたということを、思い出しました。
モノは要するに別な資料の要約であり、その要約の部分がまんまだった。
だからやはり「コピペ」であることは事実であった。
ただ、同時に要約というものはクリエイティビティの少ない部分であることは事実で、一言「参考文献」などで挙げていれば問題も起こらなかったのになあと。
その意味で、騒ぎ方に対するよくぞここまで過剰にという感想が、先のツイになったわけです。


 この後、相手の作家さんは(他にも、ちょっと嫌味をおっしゃっていたので、それについては)冷静に謝罪してくださいました。いや、ぼくの主張に納得なさったかは判然としませんが。
 問題の部分は小説の要約であり、その要約がそのまんまだけど、最後のちょっとした感想の一言が、唐沢氏独自のものであった。
 件の作家さんはそれを引用とわからなくするための改変としているのですが、それ以前の部分が同じなら「わからなく」なるわけではないでしょう。引用文献として挙げ忘れただけではないかというのがぼくの判断です。
(もっとも超フラットに見るならば、唐沢氏に盗作の悪意があったかどうかは藪の中、というのが正しい言い方でしょうし、ぼくもやや唐沢氏寄りの見方はしています)
 ともあれ、順風満帆に見えた唐沢氏はここから作家、出版関係者、業界人の連合軍による尋常ではないバッシングを受け、坂を転がるように仕事を失い、転落してしまったわけです。
 先にあるように近親者、また仕事仲間とも問題を起こしていた人であり(ただ、近親者のそれは死後に一方的にされた話ではあります)、清廉で潔白だとは言いにくいですが、それにしてもバッシングは過剰であったし、それによって「戮された」のだということは、否定しにくいように思います。
 何しろ「アンチ」の中には今回、唐沢氏や岡田斗司夫氏を売り出した人間に取材しろなどと言っていた者もいましたし(取材してどうするんでしょう。悪者を世に放った責任を追及しろ、というわけでしょうか)、また無断盗用(と、敢えて表現します)騒動に対しては氏が会員だったと学会の山本弘氏にまで意見表明せよと迫り、病床に伏した近年までしつこくしつこく粘着していました(除名処分にしなかったことがお気に召さなかったようです。唐沢氏の問題の本が、と学会名義というわけですらないのに、です)。
 普通に考えて唖然とするような振る舞いばかりですが、「唐沢俊一は悪の権化だ」という「大前提」がもう、彼らの中では揺るぎないものとなっており、その唐沢を潰すという「大正義」のためには何をしても許される、というのが彼らの考えなのでしょう、安倍さん暗殺の時の左派と同様に。

・オタクについて論じた人たち

 さて、では、何故、唐沢氏はここまでバッシングを受けねばならなかったのでしょうか。
 そんなの、氏の「業績」を見れば明らかやないですか。
 いつも言ってる岡田氏の場合といっしょです。
 唐沢氏の著作に『B級学』というものがあります。
 漫画を中心に、大衆文化にはその時代の瞬間最大風速的に圧倒的な支持を受け、しかし評論家の先生方の受けが悪いがために「消えて」しまう作品が無限にある。確かにそれらはクオリティや芸術性という意味では取るに足りぬものが多い。だが大衆の心に何よりも寄り添い、慰めてきたそれらを蔑ろにしてしまっていいのか。
 ――以上は唐沢氏の本の引用ではなく、あくまでぼくが自分の理解を記憶に頼り書いていることなのですが、ここしばらくたまたま氏の本を読み返していたところでもあり、アウトラインは抑えているのではと思います。
 これは同時に、例えばぼくがオタク文化を形容し「裸の男性性」と称するのとも近い。オタク文化はもちろん大変なクオリティを持ってはいるものの、同時に同人誌やかつての美少女コミック誌(これは商業版同人誌とでも称するべき特性を持っておりました)などは、クオリティ的には低いものも多かったのですが、それらはその時のオタクの「気分」をストレートに汲み取るものでした。ぼくの言はそれに価値を置くものであり、これは唐沢氏のスタンスとも相通ずるものです。
 氏は以降、貸本の怪奇漫画などの復刻を積極的に行ってきました。それらはクオリティの低いものばかりで、そこに書き文字で「何やってんだ、この主人公」といったツッコミを入れるスタイルに「アンチ」が文句を言ったりもしておりましたが、じゃあ、お前がツッコミなしのものを先に復刻しろって話です(しかしそうした「アンチ」が『映画秘宝』的な、近いことをやっていた連中なのも不思議です)。そもそもクオリティが低い(ツッコまずにおれない)ものを復刻するというのが氏のスタンスであり、「アンチ」はそこを理解できていないのです。
 上に唐沢氏を「岡田氏と同じ」と書きました。が、唐沢氏のスタンスは、岡田氏とはまた少々、違ったものかも知れません。
 評論家としての岡田氏のモチーフは、「オタクは批評家たれ」とでもいったものになりましょう。
 要するにこの世に溢れるおびただしいコンテンツの中から、目利きたるオタクがある種のインフルエンサーとなり、「こんな面白いのがあるぜ」と伝える、クリエイターと消費者の仲介者とでも称するべき役割を担え、といったものです(『プチクリ』とかその時期の著作に、これは濃厚に出ています)。
 これはそもそも、オタクがアニメなど子供向けとされていたものから価値を見出した者であることに、端を発しています。また、先の同人誌などでも述べたようにオタク文化の本質は「舞台と楽屋と客席」を融合合体させたところにでもある、と言えそうです(これはまさに八〇年代のオタク投稿雑誌、『ファンロード』誌上において、読者が同誌を評して述べていたことです)。
 いずれにせよ、二人のスタンスは違いもあれど、クリエイター様を伏し拝むのではなく、受け手側がもう少し能動的に作品に切り込んでいくべきという点で、共通していたのだと言えますね。

・オタク資産が欲しい者たち

 ところが、一体全体どうしたことか、両氏の「アンチ」、ぼくが「サブカル」とか「オタク界のトップ」とか「自分をオタクだと思い込んでいる一般リベ」とか読んでいる連中はこうした世界観を頑なに拒む傾向があります。彼らは一体全体どういう認知の歪みか、オタクは「消費者」だと信じ込み、「消費者だから下等だ」とビシバシ決めつけます。彼らは一様にクリエイターを神のように崇め、消費者を見下しています。じゃあ、先にも述べたように、彼らに『映画秘宝』的にコンテンツを斜めに見たがる傾向があるのは何故か不思議なのですが、多分自分だけはクリエイターよりエラい、というリクツなのでしょう。
 ぼくはかつて岡田氏をサブカルに対する「ジオン」である、独立戦争を起こした側である、と表現しましたが、唐沢氏にもそれが当てはまるのです。そしてまた、その時にはサブカルの左翼性とオタクのノンポリ性の相克といった面を強調しましたが、唐沢氏は実のところ左派嫌いの人でした(晩年、フェミニスト作家を批判していたことを知る方も多いでしょうが、かなり早い段階からフェミ批判もしていました)。
 今回の訃報に際し、極めておびただしい「唐沢は売れなくなったからネトウヨに擦り寄ったのだ」とのさわやかな死体蹴りを拝見いたしましたが、それは残念なことに事実に基づいていないのです。
 そう、両氏が何故「消された」かはもう、明白です。
 彼らがバッシングを受けたタイミングと、オタク文化の凋落がシンクロしていたのは、決して偶然ではないのです。
 何しろ彼らの目的は、オタク村という「植民地」における成果物の中から、「自分たちにも食べれる」ものだけを簒奪するというものなのだから、やってることはフェミと面白いほどに「完全に一致」しているのです(腐女子フェミのBLの持ち上げぶりを見よ!)。
 ぼくは上で唐沢氏バッシングを「キャンセルの元祖」と表現しましたが、同じ手がこれからいよいよ、ぼくたちに伸びてくることも、既に必然なわけです。

 先に岡田氏、唐沢氏の評論家としての骨子について述べましたが、今のオタクコンテンツには、それらが失われているように、ぼくには感じられます。
『B級学』的な視点から見るならば、いい意味での素人っぽさ、マニアックなネタを競うような趣味性(要するに内輪受けということですが、それは必ずしも悪いことではありません)が失われている。同人誌の持つ特性を、ぼくは「気分」と表現しましたが、その「気分」を失った時、青年文化としてのオタクコンテンツは死ぬわけです。
『プチクリ』的な視点から見るならば、例えばですがマイナーなエロゲの記事をブロガーが書き、2ちゃんねるのスレッドでそうしたコンテンツについて喧々諤々と考察する、これらはゼロ年代には普通に見られたことですが、今ではそうした文化は失われています(2ちゃんがXに、ブログがnoteになったということではなく、そうしたオタク活動そのものが停滞しているわけです)。
 これは直接的には小銭を稼ぎたいヤツらがDLsiteなりソシャゲなりYouTube動画業者なりといった形でオタク業界を荒らしたことが原因だと思うのですが、オタク的な「気分」を、またオタクコンテンツそのものをサブカル陣営が叩き続けたことを考えると、それもまた、一助となっていましょう。
 仮にそうしたサブカル陣営の妨害がなければ、或いは両氏の著作を論理的支柱として、ぼくたちももうちょっとオタクコンテンツの防衛ができていたのではないでしょうか。
 今、唐沢氏は彼の愛したB級同様、「評論家の先生方」に消されようとしています。
 全盛期のことを知る者も減るばかりでしょうし、これを機に、サブカル陣営がネガキャンを張ることは目に見えています。
 そしてそのことはまた、ぼくたちの近未来を示唆してもいるのです。

 あ……いや、実のところ「アンチ」にそこまでの知性があるかは極めて疑わしく、単純にオタク村への侵攻時に、まず村長さんをぶっ殺しておく必要があっただけ、ということなのかも知れませんが。
 岡田氏は何しろオタキングを名乗り、今でもYouTuberとして活躍しており、オタク界の大物というのはご理解いただけましょう。
 唐沢氏もまた、二〇年ほど前はテレビに出るのみならず、毎月のように本をバンバン出版し、イベントを企画してと、オタク界の中心にいたのです。この辺り、おそらくこれからは晩年の窮乏を強調するネガキャンが始まるでしょうから、申し上げておきます。
 当時の唐沢氏はオタクのみならず、サブカル界隈からも憧れられ、妬まれ、嫉まれる対象であり、(事件以前より)その地位を失墜させようと叩く者が多かったのです。
 そう、「サブカルのオタクへの攻撃」というものが「あった」ことは、幾度も書いているので繰り返す必要はないかと思います。彼らのオタクへの感情はアンビヴァレントなもので、「俺を捨てたお稚児さん」への憎悪という側面と「いや、お稚児さんはまだ俺を愛しているはずだ」という未練という側面とがあります。
 それが彼らの「オタクもサブカルも元は同じだ」、「オタクどもはネトウヨだ」との矛盾した物言いへとつながっているわけです。
 そしてまた、オタクをお稚児さんであると思い込んでいるが故、彼らはオタク文化の中から「自分たちにも食べれる」モノを選別し、奪取することを正当な権利だと、傲岸不遜にも、本当に信じているわけです。
 ちょっと観念的にわかりにくいでしょうか。
 一つに、東浩紀や宇野常寛が常にオタクを貶め、蔑み、軽んじ、侮り、卑しみながら、オタクコンテンツで商売をしていることを例示すれば、それで充分かも知れませんが、今これを読んでくださっている何割かは、とある言葉が喉にまででかかっているかもしれません。
 ――ということで、以降はちょっと、課金にしておこうかと思います。
 ご興味のある方は下をクリックしてみてください。

・オタクを寝取った者たち


牛角炎上問題は小山田圭吾炎上問題である――『小山田圭吾冤罪の「嘘」』を読む

2024-09-22 17:42:39 | サブカル

 

 というわけでみなさん、ワタクシがマジメに小山田圭吾の問題についてガンバっている間にも牛角を炎上させてますな。
 古くからのぼくの読者の方は何とはなしにでもおわかりかも知れませんが、ぼくはあまり、この問題そのものについては興味がありません。
 女性専用車両の頃から、ぼくのこの種の問題に対しての熱量は微妙なものでした。例えば十年ほど前にも、ラーメン屋の女性百円値引きサービスが男性差別だとして炎上したことがありました。フェミ騎士がそれを「女性は経済的劣位者なのだからその程度で怒るな」と(嘘を根拠に)批判したのですが、ぼくの論調は「百円値引きなど、取るに足りない。男性はそもそも人間として扱われていないのだから『ハエ差別』という言葉がないのと同様、『男性差別』という言葉はない」とまあ、何かそんなでした。
 もちろん、今回の牛角について、いろんな論点で切り込むことは可能です。
 古くからこの業界にいる者にとって、「むしろ以前にこそ(女性優遇サービスが露骨だったこともあるからではあれ)憤る声は多かったじゃないか」とも言える。しかし同時に「いや、ここまで声が大きくなったのは(声が受け容れられたのは)時代の変遷を感じる」とも反論し得る。正直、どちらが正しいのか、ぼくには判断しかねるのですが。

 ともあれ、牛角については、『WiLL Online』様で書かせていただきました。同問題について、一番深く切り込んだものと、自負しています。

 

「牛角騒動」――逆転した男女差別?【兵頭新児】

 ――と、ここまではマクラ。
 本稿の主旨は先の動画でも扱った小山田圭吾炎上問題について、電八郎の電子書籍『小山田圭吾冤罪の「嘘」』について語るところにあります。
 本書について、何にせよ今なら格安でゲットできるはずなので、まずは一読して欲しいところですが、実のところ電氏にはやはり同問題を扱った前著、『小山田圭吾はなぜ障害者をいじめなかったのか』があり、ここではむしろ、(ぼくが動画でも問題にした)根本敬の同問題への影響についてにページが割かれています。
 翻って本書では「悪趣味・鬼畜AV」についての言及が多い。つまり電氏のスタンスは小山田事件も当時のサブカルの悪趣味・鬼畜ブームの一端でしかない、というぼくに近いものであるわけです。

 さて……そんなわけで本来ならば、同書が丹念に調査した当時の「悪趣味・鬼畜AV」の愚劣さ、悪辣さをご紹介したいところなのですが、それは次回に譲ることにして、ここでは同書の「松江哲明『童貞。をプロデュース』と『童貞の教室』」という項について語りたいと思います。
 ここでは松江というAV監督が「童貞をプロデュース」するという意図のドキュメンタリーAVを撮った、ところがその(童貞として出演した)男性K氏が、松江から性的暴行を受けたと訴えた、という事件が語られます。
 このエピソード自体、読むだけでも精神的ダメージを受けるような無残で悪質なAVについて並べられた、その最後の一例として挙げられており、身体に障害を負った女性などに比べればまだしもソフトなものなのですが、ともあれK氏はAV撮影の現場に引っ張り出され、その場のムードに逆らえず(否、早くしろと声を荒げられ、恫喝を受けて)、フェラチオを強要(……などとあるのでペニスをくわえさせられたのかと思ったのですが、要はAV女優からフェラチオ)されたというわけです。

 ――ここまででみなさん、どう思われたでしょう。
「なあんだ」と思った方もいれば「得したじゃん」といった温度の方もいらっしゃるでしょう。「しかし望まぬ行為なのだからレイプにも等しい」と考える人もいましょう。
 ただいずれにせよぼくが今回、牛角炎上問題と本件とを並べた意図は、ここでおわかりいただけるでしょうか。
 それはつまり「あぁ、男もそういうことを言うご時世なんだ」とでもいったことです。
 一昔前ならば、これらはいずれも「男たるもの、そんなことを気にするモンじゃない」で一蹴された問題です。
 いずれの問題に対しても、「いや、男性も自らの権利に対してようやっと目覚めたのだ」とも言え、それはそれで完全に正論であり、ぼくも否定しません。ただ、もうちょっと大きな枠組みで、これら問題を捉え直す必要もまた、あるのではないでしょうか。
 何でもこの松江、K氏に許可も得ず彼の主演作を全国上映や海外の映画祭での上映、DVDの発売までも無断で行い、支払われるべきギャラも払っていないとかで、(それが嘘でない限りは)いずれにせよ論外です。
 が、電氏は松江の著作とK氏のブログの記述とを並べ、両者の食い違いを比較検討しているのですが、そのどちらが正しいかについて、第三者がジャッジすることは難しいのではないでしょうか。
 例えば松江はK氏が風俗やAVを「汚い職業」と見下していたとしますが、K氏は(現場でムリヤリ言わされたが)そんなことは考えていないとしています。
 どちらが正しいか、第三者には判断のしようもないことですが、それでも敢えて言うなら、「確かにK氏はそう明言してはいなかったが、態度からそのように感じられた。松江がそれを言語化させた」といった辺りが真相ではないかという気がします。もちろん、松江の感じ方も正しいのか、それとも被害妄想の部分があるのか、そこは微妙なところですが。
 松江はK氏に対し、以下のように述べます。

 僕は、彼にも「己の小ささを知る」という経験をしてほしい。
 みずからの童貞は平気でカミングアウトするかわりに、何かを必死で隠しているような彼を見て、そう思った。
 隠すよりも、堂々と、セキララな自分で勝負をかけろ。二十歳を超えた男子なら、みずからに対して、強硬手段を仕掛けるべきだ。
(『童貞の教室』47~48p)

 要するにある種、AVを見下し、「セックスには純愛が必要だ」といった理想主義から抜け出せず、セックスに向きあえないK氏に現実を突きつけ、「男にしてやる」というのが、松江の描いているストーリーなのです。
 電氏はこれを「むちゃくちゃな理屈」と一蹴しますが、北方謙三の人生相談コーナーにも似たようなことが書かれていそうです。
 松江は本件を自著で以下のように締めています。

 片思いの彼女という、男にとっては世の中でもっとも「他者」な存在に対して、関係性を作ることを拒否していた彼が一歩を踏み出すまでの記録。
 この一歩があればきっと彼はだいじょうぶ。そう思えた瞬間が、撮れた。
(前掲書、61~62p)

 何だか感動的ですが、実際問題として松江が「K氏のため」と信じて行った諸々はK氏から恨まれているのだし、いずれにせよその思惑は外したということは紛れもない事実でしょう。
 いかにもな体育会系の松江はもちろん、ぼくも一番嫌悪感を感じるタイプの人物です。サブカルは基本、体育会系なんですね。いえ、厳密に言えば「自分をナイーブな文学青年だと思い込んでいる、一般体育会系」でしょうか。
 ただ、しかし「男なんだからグダグダ言ってないで積極的に行け」というのはある種の正論ではあります。仮にですが、K氏から相談されたら、誰しもその程度のことしか言えないのではないでしょうか。

 またちょっと話が変わりますが、実のところ(これはまた次回に詳しくお伝えしたいのですが)電氏の論調はある種、「小山田の行為は障害者差別」といったトーンが強く、そこはあまり賛成できません。
「悪趣味・鬼畜AV」について語る箇所では(ぱっぷす副理事長で、バリバリのドウォーキン主義者である)中里見博師匠の著書が盛んに引用されます。電氏自身もまたそれらを「女性差別」であるとの世界観を共有しているのですが、それはちょっとどうなんだという感じです。
 例えばですが、レイプは「女性差別」でしょうか。フェミニズムは「差別」とすることで、自分たちの正義を根拠づけています。しかし「許せない犯罪だが別にそれは差別とは関係ない」といった辺りが一般的な感覚ではないでしょうか。フェミの思い込みとは異なり、レイプの多くは性欲による衝動的な犯罪(或いは女性とのディスコミュニケーションが生んだ悲劇)だからです。
 先の悪趣味・鬼畜AV、本当に本書で概要を読むだけで気分の悪くなる陰惨なものですが、これもそれ自体は「女性差別」ではない。
 例えばレディスコミックがレイプ描写で溢れているように、セックスにおいて男性は能動性、女性は受動性の発揮を期待されるという男女ジェンダーの特性は、それ自体はどうしようもない宿命的なものです。
 悪趣味・鬼畜AVについても、一番重要なのはそれがフィクションか否か、言い換えれば女優の合意が取れていたか、またリスクについての充分なマネジメントがあったかでしょうが、本書を(ないし本書で引用される中里見師匠の主張を)読む限り、そこがどうも不明瞭です。
 それもこれも本書における悪趣味・鬼畜AV批判が「表現そのものが悪い、何となれば差別だから」というスタンスに立っているせいであり、そこはやはり、頷けない。
 だってこれが仮に正しいならば、言うまでもなくレイプ物のAVは製造販売を禁止せねばならない。架空の表現でもNGなのだから、言うまでもなくエロ漫画もしかりであり、そこにはBLもレディスコミックも当然、含まれます。
 いえ、先にも中里見師匠をドウォーキン主義者と書いたように、フェミ的には「あらゆるセックスはレイプ」なのだから、それは全て禁止されるべき、となってしまう。
 いつも言うように、これは「ジェンダーフリー」の罠です。フェミニズムとは「男女ジェンダーの様々な立ち現れの中から恣意的にネガティブなものだけをすくい上げ、悪しきものだから全面禁止せよとする思想」であり、それは角を矯めてウシを殺す行為です。フェミニズムの言う通りにすればあらゆるセックス、恋愛、それにまつわる文化(AVから恋愛映画に至るまで)を徹底的に破壊し、言うまでもなくセックスも禁じなくてはならなくなり、人類は絶滅するしかない、フェミはそうした途方もないカルトなのです。
 そして電氏もまた、その罠にハマってしまっているとしか、言いようがないのです。

 実際のレイプやあまりに危険なAVは禁じられるべきでも、普通の性行為やAVは禁じられるべきではない。
 ただ、そのボーダーは曖昧であり、セクハラやいじめのボーダーもまた、同様でしょう。
 その意味で上の松江とK氏のいさかいも(金銭問題は例外として)必ずしもK氏だけが被害者かとなると、第三者としては判断しづらい。
 ここまで来れば、大体わかってきたかと思います。
 牛角炎上問題の本質もまた、そこと同じなのです。
 本件で、むしろ左派寄りの御仁が以下のようなことを言っていました。

焼肉食べ放題女性半額の話
強者男性「妻とか娘の分が浮くな、家族サービスしよ」
弱者男性「男性差別ダー、ぎゃおおおおん!」
ガチでこんな感じになってるのキツい。
やっぱ強者は強者たる理由があって、弱者は弱者たる理由があるってわざわざ自ら証明しに行くのマゾなんかな?
https://x.com/tacowasa2nd/status/1830987115020329289)

 これは「ある意味では」正論であり、ぼくたちが怒るべきなのはフェミが男女ジェンダーを否定したがため、「大いに稼ぎ、女へおごってやる」という男の甲斐性を発揮することができなくなったという事態に対して、なのです。
 その意味で、上の御仁が「だから女の社会進出を推進することはないのだ、男に稼がせるべきなのだ」と主張するのであれば、ぼくは同意します。

 さて、これと近しい構造は、小山田問題そのものにも実のところ、横たわっています。
 動画でも片岡大右『小山田圭吾の「いじめ」はいかにつくられたか』について厳しく批判しました。
 が、実のところ同書も四章についてだけは、一部ですが傾聴に値する箇所があると感じました。
 教育学者やら何やらのいじめ論についてつらつら述べられているのですが、要するに八〇年代にいじめによる自殺など悲惨な事件が頻発したがため、言語空間でいじめが自殺と直結されることになってしまった、しかし子供の自殺の原因として、いじめは比率が低い、といったような話が続くのです。
 要するに片岡はここで、イジメというものの相対化をしようと言っているのです。いじめと言ってもいろいろで、大したことがない場合もある、と。
 そう、実のところこれは(圧殺されがちですが)絶対に忘れてはならない論点で、「いじめ」って「セクハラ」とほぼ同義なんですね。
 愛ある「いじり」と「いじめ」の差異は曖昧です。
 セクハラがそうであるように、その愛ある「いじり」を後になって実は嫌だったのだとするような論調、世間では溢れかえっていることでしょう。
「いじめ絶対許すまじ」というのは否定のできない正論ですが、それを錦の御旗として振りかざすことで、各々のケースの個別性を蔑ろにすることは、あってはならないのです。
 もちろん、そうした個別性を検討した上でも、『クイック・ジャパン』を見る限り小山田の行為は常軌を逸したものであり、小山田擁護としては、先の言説は成り立ってはいないのですが、ともあれ片岡の主張は、この箇所については一般論としては、正しいわけです。
 翻って電氏の著作では中井久夫『いじめの政治学』から引用し、いじめかいじめでないかの基準はそこに相互性があるかどうかであると述べます。これは要するに両者のスタンスが交換可能かどうかと問うているわけで、しかしこれもやっぱりおかしい。例えば、夫婦関係も親子関係も互いの立ち位置は交換可能ではないけれども(だからこそそれ故の問題が起こる可能性もあるけれども)だからけしからぬということにはならない。
 ぼくは以前、赤田佑一が小山田を『花のよたろう』に準えてわけのわからない擁護をしていたことを批判しました。
 よたろうはタア坊という自分を慕ってつきまとってくる子供を子分のようにこき使いつつ、可愛がってもいる。これは下町のガキ大将と子分のような関係で、そうした麗しい関係性というのもあり得るかとは思います。
 もっとも小山田と障害児の間に『よたろう』的な「善き上下関係」が成り立っていたとはとても言えず、いずれにせよ赤田の言は苦し紛れの域を出ないのですが。
 また、そもそも学校社会というもの自体が子供を学年で峻別し、同じ学年の者は先生というリーダーの下、平等なのだという物語を根底に置いているわけで、こうした関係は成り立ちにくい。言うならば子供を平等に扱うという理念の上に、いきなり「障害者をも包摂せよ」とのDEI的理念を木に竹をつないだように持ち出したことこそが(つまり障害者と健常者の差異を認めず、雑に同じ場に放り込んではい、終わりとしたことが)、小山田問題の発端です。
 即ちそうしたDEI的理念こそがそうした「善き上下関係」を真っ向から否定するものである以上、小山田擁護に『よたろう』を持ち出すこと自体が筋違いであり、赤田も片岡も何重にも間違いを犯しているとしか、結局は言いようがないのですが。
 しかしそれでも、子供同士が絶対的に対等な関係性を構築しなければならないというのも、よたろうとタア坊の関係を「いじめだ」と決めつける偏った、言うならSMプレイを、レイプAVを「女性差別だ」と決めつける価値観と同じであるわけです。

 ――というわけで、少々、電氏自身へも忌憚のない文句をつける内容となってしまいましたが、結局この問題が「サブカル」の愚劣で悪辣な露悪趣味に端を発するものであるという視点は、絶対的に正しいというしかない。
 次回は、その辺りをもう少し深掘りできればと思っております。


「悔い改めよ、オタク君!」とサブカル君はいった

2024-03-02 13:28:26 | サブカル

 

 ここしばらく「サブカルとオタクの関係」について書いた記事を再録してきました。
 以前も「サブカルそのものの悪質さ、低劣さ」についてのマガジンをまとめたことがありますが、今回はあくまで「彼らがいかにオタクに被害を与えてきたか」についてまとめました。
 一応有料なので、ご覧になりたい方はnoteの方を見てみてください。

 それと、お報せです。

『WiLL Online』様で書かせていただいた記事が、永らく人気第一位となっておりました。

松本人志さんの騒動に便乗する怪しい人たち【兵頭新児】

 おかげさまで、昨日、第二弾が発表されました。

松本人志さんの騒動に便乗する怪しい人たち2【兵頭新児】 

 いずれも松本人志氏の性加害疑惑についての、パオロ・マッツァリーノ師匠のおかしな論法について。今回は師匠の資料読解力のなさ(ではないですね、資料をねじ曲げて平然としている卑劣さ)に加え、『文春』の問題、そして本件がはらむ想像以上のおぞましさについて指摘しています。


 では、そういうことで……。