兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

実践するフェミニズム――【悲報】テラケイがラディカルフェミニストとお友だちだった件

2018-11-30 14:40:05 | フェミニズム
 どうも、まずはちょっとしたお断りです。
 この度、noteに手を出してみることにしました。
 実のところ本ブロマガ自体、ニコニコのブロマガとの二股で始めたもので、あんまりややこしいことはしたくないのですが、基本、同記事をこちらでも先方でもアップしていくことになります。ただし、noteでは多少、マニアック(オタク的ともいう)で揶揄気味の表現を和らげ、一般性を意識し、またこれはさすがに大っぴらにするのはヤバいかも……と思われる部分は課金コンテンツとして発表していこうかと思います。
 基本はいずれも変わりませんし、当ブログをお読みの方は、それを継続して、まあ課金コンテンツだけはお気が向けば購入していただければ幸いです(まあ、「ヤバい」と言っても大して期待するほどのものではありませんが……)。
 というわけで、今回は久々にフェミニズム本に対する真っ向からのレビューです。



 先日、処女出版『矛盾社会序説』を物し、また「キモくてカネのないオッサン」「かわいそうランキング」「お気持ち案件」などの造語を次々にヒットさせ、ツイッター界では大きな影響力を持つ白饅頭ことテラケイこと御田寺圭氏。
 ぼくもまた、彼については基本、スタンス的に同じ人物として信頼感を持っておりました。
 ところが、ネット上で牟田和恵師匠が炎上した時、彼が師匠の『実践するフェミニズム』を称揚し、「かつてはまともだったのに」と述懐している*1のを見て、驚きました。
 さらには青識師匠、借金玉といっしょに持ち上げ合戦までしている始末*2
「かつてからダメだが、それでも今よりはマシであった」というのならわからないでもないけれども、「読書会をしよう」と言い出すなど、手放しの誉めよう。おいおい、まずくないか。フェミの著作がまともだなんてこと、そもそも物理法則に反することであり、また師匠の悪辣さは以前、ぼくも採り挙げたところです*3
 ご当人に繰り返し、リプを送ったのですが、見事にスルー。この人、対話ぐらいはする人だと思っていたので、いささかショックでした。
 まあ、でも、確かにぼくもこの本自体は未読だったので、図書館で借りてきてようやっと読了しました。
 というわけで今回から数回に渡って、兵頭新児の一人読書会、お届けしましょう。


*1(https://twitter.com/terrakei07/status/1042613516274827265
*2 「反フェミニズムの人すら名著と推奨する「実践するフェミニズム」が高すぎて買えない件について
借金玉についてはスタンスをよく知らんのですが、青識師匠は典型的な「自分をアンチフェミだと思い込んでいる一般フェミ」と称するべき人。まあ、結論を書いておけばテラケイ師匠もそうだったということなのでしょう。
*3『部長、その恋愛はセクハラです!』。ぼくのレビューは(http://ch.nicovideo.jp/hyodoshinji/blomaga/ar471284)(http://ch.nicovideo.jp/hyodoshinji/blomaga/ar476779)。
『実践』は2001年の出版なのに対し、『部長』は2013年。以降、本稿では『部長』を「後の本」と呼ぶことにします。


 さて本書、前半(第1~2章)で「セクハラ」を、中盤(第3~4章)で「性暴力」を、後半(第5~6章)で「ポルノ(売買春)」を扱うといった具合。まずは「セクハラ」から見ていきましょう。
 が、テラケイ師匠おススメの本書、第1章の枕(リード文的なもの)からおかしな話の連続なのです。
 99年、均等法の条文に雇用主のセクハラ防止配慮義務が加わった。しかしこれは「防止義務」ではなく、被害があっても企業が防止規定を作ったり研修をしたりしていれば、「配慮はしていた」と責任逃れができ、また加害者も法的責任が問われない、と牟田師匠は嘆きます(2p)。
 しかしそもそも雇用主、企業側が個人の行いの責任を問われること自体、どうなんだという感じです。「加害者も法的責任が問われない」と文句を言っているのですが、強制わいせつで訴えればいいんじゃないでしょうか。
 この謎の主張は、本文でも延々延々、延々延々と繰り返されます。

 痴漢や一般の性暴力、夫婦間のレイプなどと比べてみるとセクハラの問題構成の「有利さ」がよくわかる。街路や電車、映画館で不幸にも痴漢やレイプの被害に遭った場合、責任を加害者本人以外に求めるのは困難だ。(中略)しかし、係員や駅員に助けを求めた場合は別として、個々の事件の加害責任を鉄道会社や映画館に追わせることは不可能だ。それは公道における痴漢や性暴力も同じで、例えば警察や行政機関は、明るい街灯をつけて予防する責務があるとは言えても、県道で起こったレイプや痴漢の責任が県にあるとはとても言えない。
(31p)


 いや、何を当たり前のことを、としか思えないのですが、しかし師匠はこんなことを言い出すのです。

 予防や救済という点でも、加害者本人以外に責任主体を設定しうることは大事な鍵になる。
(32p)


 すごいとしか。
 ここまで男性側や公側に責任を負わせながら、女性側には一切責任がないとするのが師匠、いや、全フェミニストです。
 16pにおいては「両者の合意があればセクハラにならない」としながらも、しかる後、「しかし相手が偉ければ断れないじゃないか」と言い出します。この後者にこそフェミニストたちは力点を置く傾向にあります。
 ここで牟田師匠は東京都労政局の金子雅臣師匠*4の発言を引用し、「加害者たちは、問題が表面化し、場合によってはそのために処分を受けてからも、自分のしたことがセクハラであると理解できないケースが少なくない」としています。それは単に、男性の視点からは合意だったように思えたということじゃないでしょうか。裁判においては、そこを中立的にどちらが正しいかをジャッジしていただかなくては困るのですが、「フェミ裁判」においては男性の言い分は常に間違っているというのが不動の、絶対的根源的大前提的「真理」なのです。
 何しろここではマッキノン師匠の「女性は沈黙をもって拒絶の意を示す傾向にある」との説が紹介されています。「見かけは喜んでいるように見せて巧みに男性の面子を立ててや」るのだと(18p。強調ママ)。いやあ、マッキノン師匠ってポルノ以外でもスゴい人だったんですねえ。
 ちなみに本書、テラケイ師匠が絶賛してます
 要するに「女は拒絶しにくいジェンダー規範を押しつけられている」のだから、「そのような社会にした男が悪い」わけです。もっとも、ちょっとだけ「女もはっきりと拒絶の意志を示すべき」と言ってはいるのですが。
 先にも述べたように、ぼくは以前、師匠の『部長、その恋愛はセクハラです』をレビューしました。そこでは「女が嫌だと言っていなくても、外からは喜んでいるように見えてもセクハラ足り得る。その時はOKしても後からセクハラだと判断することもあり得る」とシリメツレツなことが書かれていましたが、その「元ネタ」がマッキノン師匠にあったことについては、多言を要しないでしょう。
 もう一つ、師匠はこんなことも言っています。


たとえば、女性も男性と同じように仕事をこなし、上司に対しても遠慮せずに意見を言えるような雰囲気の会社があるとする(たくさんあるとは思えないが)。そういう職場で、対等な関係が根付いているならば、上司からの性的誘いがあっても、強圧的な「脅かし」にはなりにくいだろう。
(中略)
ところが権威的な上下関係があって言いたいこともなかなか言えないような職場なら、体を触られても「やめて下さい」とは言いにくい。
(34-35p)


 カッコをつけて(たくさんあるとは思えないが)と補足しているのがケッサクで、そもそも「上司に対しても遠慮せずに意見を言えるような雰囲気の会社」なんて男女問わずそうそうないでしょう。いえ、「遠慮せずに意見を言える」というのはまあ、程度問題で、どの程度ならば自由な雰囲気と称するべきか、測る物差しは存在しません。しかし原則論として、上司に異を唱えることに対して、ある種の遠慮が働くのは当たり前のこと。そこを師匠は、「女だけは上司よりもエラいという扱いにしろ」と言っているだけです。
 事実、少なくともセクハラという言葉の浸透した後の社会にあっては、女性の「やめてください」は水戸黄門の印籠のような切り札になったのです。

*4 ぼくの著作をお持ちの方は、ちょっと取ってきてください。金子師匠には『壊れる男たち』という著作があり、そこではフェミニストにこびへつらい、「男性は自らの本能をコントロールできない、人間以下の獣であるというプライドを欠いた主張を認めるかどうかがスタートラインとなると言っても、言い過ぎではないと思う。」などと男性を酸鼻を極める舌鋒で罵り倒しています。しかし『男女平等バカ』においては一転、「あなたの職場は大丈夫? ジコチュー女が仕掛けるセクハラ冤罪の構図」という、かなりラディカルに女災を批判した記事を書いておいでです。著作でも大いにからかいましたが、考えてみれば後者が本音とも思えますし、「正味の話、その両方が共に全く正しい」と考えるところからしか、話は進んでいかないというのが、本当のところなのではないでしょうか。

 また師匠はセクハラの概念が拡大されすぎていると嘆き、こんなことを口走ります。

たとえば女性を「オバさん」扱いして職場で軽視するのがセクハラであるのなら、中高年の男性上司のことを、「脂ぎったハゲ」「オヤジは臭い」などと陰口を聞くのもセクハラだ、という具合だ。
(中略)
女性社員の発した「チビでハゲ」などという無礼な言葉に男性の上司や同僚の心が傷つけられたとしても、それはセクハラではない。
(46p)


 非道い、とお思いでしょうか。
 一応つけ加えておきますと、師匠は「だから言ってもいいのだ」と主張しているわけではありません。「人を傷つけてはいけない」ということ自体は常識なのだから、

そんな「子供のしつけ」のようなことを会社や大学からされねばならないのだろうか? 言うまでもなく、そんなことはナンセンスだ。
(47p)


 まさにその通り! しかしそれならばセクハラも同様でしょう。そんな「子供のしつけ」のようなことを会社や大学からされねばならないというのは、言うまでもなく、ナンセンスです。
 いえ、もちろん師匠は反論するでしょう。「ジェンダーの何やらかんやらで、そんな子供のしつけのようなことが、今の男たちには必要なのだ!」と。しかしその理屈は、そうした男性へのハラスメントがセクハラよりも遥かに少ないのだとの前提があってこそ成り立つことです。ツイッター上でフェミニストらしき女性が「女は常に男からの暴力に晒されている、男たちはそんな危険に晒されていない」などと言っていたのに対し、dadaさん辺りが「ほとんどの男は男から殴られた経験があるぞ、フェミはそれに頬かむりしているだけだ」と返していたことを思い出します(記憶で書いているので、細かい点には差異があるかもしれませんが)。
 結局、フェミニズムの主張は、「個人的なことは、女性にのみ限り政治的である」との前提を導入しなければ、絶対に成立し得ないのです。
 さて、とはいえ、です。
 セクハラというのは言うまでもなくセクシュアルハラスメント、性的嫌がらせの略です。先の例でいえばハゲや脂ぎっているというのは男性にこそ多い特徴であり、その性的な弱みを攻撃するのは語義的にはセクハラと呼ぶしかない、とも思えます。
 しかしこの言葉、本来は労働用語でした。歴然とした力関係が横たわり、断りにくい中で性的関係を強要される。そうしたパワーをかさに着た強要行為こそをセクハラと呼ぶのです。
 そして、上の例は「男性上司」が対象として仮想されており、「上司だからセクハラじゃない」ということは一応、言える。理屈は一応、通っているのです。だから一応、師匠も女性上司に性行為を強要された男性がいれば、それはセクハラ被害者だと認めてはいます。
 その意味で、一応の筋は通しているわけですが(一応ばっかりだな)、しかし「ハゲ」であることと「上司」であることは直接の関係はないのだから、恣意的な「実例」を挙げることで、自分たちの言い分を正当化しているようにしか、読めない(仮に支障が「女性上司にブスというのはセクハラにあたらない、というのでしたらこれまた一応のつじつまはあうのですが)。一体、どうしてこのような論理展開を、師匠はしているのでしょうか?
 師匠は日本のセクハラ裁判の事例を挙げ、勝訴した事例も「性差別」そのものが裁かれたものではないのだ、と嘆きます。
 どういうことかおわかりでしょうか? 確かにセクハラは裁かれたが、それは「性犯罪だから有罪」なのであって、「性差別だから有罪」のわけではない、そこがけしからぬ、と師匠はお嘆きなのです。
 まずそもそも、「性犯罪」が「性差別」を必ず内包しているという考え自体が、フェミニズムの歪んだイデオロギーに生み出された誤謬でしかない。彼女らはよほど女性差別があってほしいのか、レイプは女性への憎しみによって行われる、などと繰り返します。そしてそれは、それこそ見知らぬ暴漢に襲われる類のものであれば(必ずしも正しくはないでしょうが)理解できなくはないものの、彼女らは決まって「男性側は合意だと思っていた関係」をこそ裁こうというのだから、もう何が何だかわかりません。
 いえ、一兆歩ほど譲ってそこは置くとしても、ぼくはヘイトスピーチ同様、差別そのものは法で裁かれるべきではない、と考えます。当たり前です。差別そのものも人間の考えの一つなのですから。そして考えそのものではなくあくまで、それを発露することがけしからぬというのであれば、なおのこと行為を行為としてのみ裁くしかない。しかし、牟田師匠はどうしてもそこが許せないご様子。

 アメリカの場合とは違って、日本におけるセクハラ裁判は、「性差別」にあたるかどうかが直接に問われてきたのではない。
(52p)


 同趣旨のことを、師匠は幾度も幾度も幾度も幾度も幾度も幾度も繰り返します。事件の違法性が問われるのみで、セクハラが性差別に当たるかどうかは問われていないと。当たり前のことです。裁判所はフェミニズムのイデオロギーについて云々する場ではないのですから。

 マッキノンが詳述しているように、セクハラを不法行為法で裁くことは、加害者個人の言動にのみ焦点をあてて問題を個人レベルにとどめることになり、事柄の本質が性差別であることを曖昧にする(マッキノン、一九九九年、二六六-七頁)。
(55-56p)


「不法行為法」って言葉、スゴいですけど法学用語とかであるんですかね。上の文章、そのまま取ると「不法行為じゃなくても裁け」って言ってることになりますもんね。
 ちなみに(マッキノン、一九九九年、云々)というのはこれがマッキノン師匠の著作を引用しての主張であるという意味で、とにかく本書では延々延々延々延々とマッキノン師匠の主張が引用されます。しかし、性犯罪がそもそも個人的なものであるのは当たり前のことでしょう。本書の枕にもあるように、セクハラ関連の法は会社側に防犯義務を課すなどさせるようになってきていますが、そこには師匠たちのこのような思惑が働いていたのですね。

 マッキノンによれば、「不法行為法は、女性のセクシュアリティに対する権利侵害を女性の置かれている社会的状況という背景から切り離す点でセクシュアル・ハラスメントの問題を扱う概念枠組みとして不適切である」(マッキノン、一九九九年、二六六頁)。女性がセクハラを受けるのは、たまたま彼女の事情から、彼女の周りの環境や上司が「運悪く」「ろくでもないやつ」だったから起こるのではない。それらは要因の一つではあるとしても、セクハラの起こる根本の原因は、その女性が女性であるゆえに、性的圧力を受けやすくヴァルネラブルな(引用者註・傷つきやすい)立場に職業上立たされてしまいがちなことだ。セクハラは、偶発的で特異な逸脱行為ではなく、女性という集団への権利侵害であり、構造的な性差別に基づいている。女性が女性であるゆえに、社会経済的に無力で従属的な位置に置かれているからこそ、雇用と結びついた性的圧力にさらされ同意を強制されがちだし、社会における性的な位置づけのために、女性は社会経済的にも雇用上でも低い地位に置かれがちなのだ。
(56p)


 後半を書きとりながら、頭がくらくらするのを抑えられませんでした。
 何しろセクハラはそれを行った個人の問題ではないのですから、男は全員悪者であり、そんな悪者を放置するこの社会は根源的に間違っているわけなのです。

ましてや、受付係やエレベータ案内係などに典型的なように、女性の仕事につねに「若く」「親しみやすく」「感じよい」魅力をふりまくのが欠かせない要素がある限り、社員や客から性的な接近をされやすいことは当然すぎるほど当然だ。
(57p)

 このような意味でセクハラは、単なる個々の女性への被害ではなく、性差別なのだ。したがって、セクシュアル・ハラスメントは本質的に、不法行為法の問題としてではなく、女性という集団への権利侵害、つまり性差別の問題として扱われるべきなのだ。不法行為法とは、権利侵害を受けた個人に損害賠償をするものだから、たとえ損害賠償の網を広げようとも、根本的に社会的に根絶されるべき問題を、個人的なものであって損害賠償によって解決できるとみなしている。そうではなく、セクシュアル・ハラスメントは、社会的に根絶されるべき性差別による権利侵害なのである(マッキノン、一九九九年、二六七頁)。
(58p)


 それって泥棒だって同じじゃないでしょか。殺人だって、損害賠償によって解決はできないんだから、社会的に根絶されるべきと言ってしまえばそうでしょう。
 結局、後の本をご紹介した時の「なんでこんな企業に権限を持たせたがるんだ」という疑問に、本書は明快に答えることになっています。
 結局、師匠たちにとって、セクハラなどどうでもよかった――とまではいわないまでも、ある種のダシであったのです。つまり、「女性差別」という形のないものを違法化せよ、ということこそが、真の目的だったわけですね。
 だから、企業社会が女性の意を全て組むようになるまで、セクハラは企業側が(女性差別をした連帯)責任を負え。性犯罪を裁くのではなく、その根底にある(と彼女らが思い込んでいる)女性差別をこそ裁け。
 先にはマッキノン師匠が、「不法行為法で裁く」ことがダメと主張していましたね。しかしそれならどうすればいいのか。「遵法行為」か「不法思想」のいずれかを裁く以外の選択は、論理的にあり得ない。そして、その後者を裁けというのが、即ち人の思想を統制せよというのが、師匠の、全フェミニストの真意でした
 結局、セクハラという概念は、最初っから、成立したその時点から、それこそが目的だったのでした。少なくとも彼女らの願望が叶った世界では、「表現の自由」は根源的に否定されていることでしょう。
 ちなみに本書、白饅頭師匠が絶賛してます

 ちょっとページを戻ってみると、師匠は「ジェンダー・ハラスメント」と呼ばれる概念を紹介しています。

「女には大事な仕事はまかせられない」「女は若いうちが花」「キレイな女性の入れてくれたお茶はうまい」……。
(24p)


 何か、そんなんが「ジェンダー・ハラスメント」だそうです。「そう思われること自体は止めようがない」と思いますが、まあ、できるかぎり最大限、師匠に有利に解釈するならば、「口にすることがけしからぬ」ということなのでしょう。しかしそうなると結局、「A子ちゃん可愛いよね」といった会話すらもがセクハラにならざるを得ないし*5、「当然そうなのだ」というのが牟田師匠に限らず、フェミニストの一般的な考えであり、事実、会社社会は既に、そのようになってしまっているのです。つい先日やっていた『トネガワ』でもありましたが、ドラマなどでは男側が「セクハラになる」とビビり、女側が「私は気にしませんよ」というのがお約束になっているように思います。

ジェンダー・ハラスメントとセクシャル・ハラスメントは、必ずしも別ものではなく、どちらとも区別つきがたい言動もあるし、どちらも、女性への蔑視と差別意識から来ている点で同根である。
(26-27p)

私たちはジェンダー・ハラスメントを含めたセクハラ問題の解決に取り組んでいかねばならない。
(27p)


 はい、師匠の真意はもう明らかですね。
 ジェンダー規範が女性たちをモノも言えないほどに縛り、信じがたいほどの抑圧に押し込め、男性とは比べ物にならないほどの苦境へと追い込んでいる。そうしたフェミニズムの世界観を守ることそのものが師匠の目的でした。そして、そんな絶対的に間違った社会を改めるには、ジェンダーフリーによってジェンダー規範を壊滅させるしかない。本書のどう考えても首肯のしようがない奇怪な主張の数々は、そうした師匠たちの歪んだ世界観が前提されてることの、何よりも明白な証拠なのです。
 ちなみに本書、御田寺圭師匠が絶賛してます

*5 こうした意見への反論が本書にも書かれているのですが、それは「例えば、『そんなことを言ったら美人が台なしですよ』など、その言葉が女性である相手の発言を否定する意図でなされたらどうだ(大意)」などとわけのわからないもの(23p)。果たして、「否定する意図」がなければセクハラにならないのか……(否定する意図で「ブス」とののしって相手をひるませたというならわかるのですが)とにかくここに限らず、師匠のロジックはわけのわからないシチュエーションを想定して「さあどうだ」とドヤるものが多すぎです。

 ……まあ、本書は毎ページ毎ページがこの調子で、キリがありません。
 もう既に相当な文字数を消費して、ようやっと冒頭で述べた「前半」を紹介し終えたところなのですが、続きはまた次回ということにして、そろそろお開きにしましょう。ただし、最後にトンデモない爆弾が控えていましたので、最後にそれを投下して。

 男性が女性上司から意に反した性的要求をされるような場合、上司―部下の力関係のために断りにくい圧力がかかることは同じでも、男性上司から女性の部下に行われるのとでは意味は同じではない。なぜなら性的な攻撃に対するヴァルネラビリティ(傷つきやすさ)が男女で大きく違うからだ。たとえば職場の飲み会の後、上司とふたりきりになってしまい、「前から好きだった……」と迫られるとき、上司が男性であるのと女性であるのとは大違いだ。
(48p)


 え……?
 ここでは「物理的に男の方が力が強いから断れる」という(上司部下の関係を無視した)詭弁と、「男であれば女にモテたことは武勇伝だ」との詭弁が語られます(女だって自慢にはなるだろうに)。
 もう、語るに落ちるという他ありません。
 師匠が男性というものをの徹底的に軽視、侮蔑、憎悪していることが、よくおわかりになるかと思います。
 女性は地位が低い→だから性被害にあいやすいとのわけのわからん短絡もなされていますが、これもまた、フェミニズムの特徴です。それがもし本当ならば、貧者さえ救済すれば、性犯罪も激減するはずですが。
「女性だから性犯罪にあいやすい」も「地位が低い者だから性犯罪にあいやすい」も真理ではありましょうが、両者はイコールではない。そこを雑にいっしょくたにしているのが、フェミニズムです。
 男女のジェンダーの非対称性(女性は性的な働きかけをされる性であり、それ故性犯罪の被害者になりやすい)を、ある時は無視し、ある時は過剰なまでに押し出すダブルスタンダードによって、彼女らは利を得ようとしているのです。「女/男はいかなる場合にも被害者/加害者」と言っているだけなのです。
 ちなみに本書、「キモくてカネのないオッサン」問題の提唱者が絶賛してます
 バブルの頃からずっとフェミニズム批判を続けている小浜逸郎氏は、『男はどこにいるのか』において、ポルノを男性支配社会のイデオロギーの産物であるとするフェミニストの主張を

 男と女の性的な磁場の本質からその否定的な現れのみを抽象して、そこに政治的意図を新たに塗り込めたところになりたっている。
(草思社版47p)


 と批判しました。女性ジェンダーのネガティブな面ばかりを恣意的に抜き出して、本質をずらした文句のつけ方ばかりをしている、ということです。これ以上に優れた、ラディカルなフェミニズム批判を、ぼくは寡聞にして知りません。
 そして、テラケイ師匠、青識師匠たちはこの醜悪奇怪な書を盲讃しました。
 それは彼らと彼女らが、仲よしのお友だちだからです。
 その辺についてはまた、おいおいと語っていくことに(というか、以前からずっと言っているのですが)しましょう。

3D彼女 リアルガール ――オタクが終わった後、そこには「自分をオタクだと思い込んでいる一般リベ」のオタクdisり記事とヤンキー少女漫画のメイド喫茶回だけが残った(長い)(その2)

2018-11-17 02:07:51 | アニメ・コミック・ゲーム


 え~と、というわけで続きです。実はサブタイトルの「メイド喫茶」云々を回収しておりませんでした。
 今回それと共に、前回取りこぼしたことを拾い上げていきます。
 前回記事をお読みでない方は、そちらから読んでいただくことを強く推奨します。
 また、前回記事も当記事も、作品のオチまで全てネタバレしていますので、これから本編を読もうとしている方は、ここから先はお読みになりませんよう。

 本作の主人公は筒井君、ヒロインは色葉ちゃんですが、実のところ本作はオタク文化でいうところの「部活もの」ともいうべき、友情というかお友だちグループを描くことをこそメインとした、群像劇としての側面を持っているのです。
 7巻では文化祭の様子が描かれます。そうしたことに消極的な筒井君ですが、実行委員に選ばれてしまい……。
 はい、もうおわかりですね。
 そう、メイド喫茶回です。
 ただ、色葉ちゃん、筒井君とは別のクラスだからメイドコスしないんですね。また、綾戸さん(腐女子ちゃん)も「メイド喫茶のバイトをしている」というエピソードが描かれるんですが、何しろこの人、後輩で学年自体が違います。
 え? じゃあ、誰がメイドに……?
 はい、みなさんのご想像通りです。
 そう、見せ場は伊東君の女装ですねw
 このメイド喫茶が綾戸さんとのフラグになり、二人がくっつくきっかけになります。つまり、何のかんの言ってこの二人はうまくいくわけで、まあ、めでたい限り。とはいえこの綾戸さん、伊東君の女装を見ても、特にきゃあきゃあ喜んだりもしないんですよね。後、一応腐女子と繰り返してはいますがこの人、筒井君と伊東君が仲よさげなのを覗き見て萌えるとか、そうしたシーンも一切ありません
 思えば『ここはグリーンウッド』でも腐女子を意識したセリフなどあったわけで(まあ、これについては男子寮が舞台な辺りでお察しですが)、やはり本作、リア充向けの作品なのでしょう。
 何しろ伊東君、綾戸さんにふられた時に(髪を切ると共に)猫耳を外します。これはむろん、「大人になる」ことの象徴ではありますが、と同時にこれは「オタク性」の象徴でもあった(と、何しろ当人の口から明言されている!)のだから、ちょっとどうなんだという感じです。普段から女装していたわけではないとはいえ、順序として、猫耳を取り、メイド服を脱いでから綾戸さんとおつきあいすることになるのだから、まさにここは「脱オタ≒男になる」というイニシエーションを象徴するシーンなわけです。
 言ってみれば、「女装した伊東君に萌えない綾戸さん」というのがこの作品を貫く価値観を象徴しているわけですね。それは要するに「あるべき男女のジェンダー規範を、重視せよ」というものでしょう。
 まあ、それはいいんですが(いいのか)、この「メイド喫茶回」というのが、もう何というか、見ていて切なくなります。現実のメイド喫茶もある意味ではそうですよね、あれも「俺たちの文化を3D女どもが剥奪しやがった」という気分が、ないではありませんでした。しかしさらに言えば、前回にも書いた差し詰め「オタクにすり寄るリア充バッシング」のごときことをぼくたちが盛んにしていたのも、今は昔。そもそも萌えアニメのテコ入れで「メイド喫茶回」をやるなんてのも、オタクが勝利していた頃の美しい思い出だよなあと。それとも今の転生アニメでもメイド喫茶回ってあったりするんですかね。
 いや、本作を(少なくともこのエピソードを理由に)過度にdisる意図はないんですが、それでも「ぼくたちの文化を、よその子がパクっている」という部分は多分にある。それは例えるなら、少し前に書いたアレ*どう頑張っても萌えようがない三流劇画タッチの和服の未亡人がヒロインというオッサン向けのエロゲで、そのヒロインがメイドコスプレでご奉仕しているシーンを横目で眺めている時と同じような、「おもちゃを取られた」感です。
 はい、サブタイ回収しました。
 オタクが終わった後、そこには「自分をオタクだと思い込んでいる一般リベ」のオタクdisり記事とヤンキー少女漫画のメイド喫茶回だけが残ったわけです。
 ボードリヤールは実体を持たない記号、対応する現実を喪失した記号のことをシュミラークルと呼びました。それを説明するため、「街が滅びたのに、そこに街の原寸大の地図だけが残っている」といった比喩を使ったのですが、何だかそれを思わせるハナシです。
 すみません、シュミラークルそのものについては、ぼくはよく知りませんし、むしろ萌えキャラ、萌えアニメのメイド喫茶回こそ、本来の女性やメイドのシュミラークルでしょう。しかしオッサン向けエロゲ、及び本作のメイドコスプレは、さらにそのシュミラークルとして、「本来の萌え記号としての意味」をも喪失した存在であるように思います。

*「アイとフェミニストは共存できるか」においてここ十年くらい、廉価版エロゲなどで三流劇画的な絵が多くなってきていることを指摘しました。

 さて、もう一人、本作には重要な人物が登場します。
 石野さんという筒井君の同級生。勝気な姉貴分といった風で、恐らくヤンキーではないのでしょうが、ぼくの感覚ではヤンキーに見えます。
 で、ちょっと首をかしげるのはkey的な「悪のモブキャラ」とも呼ぶべき女生徒たちが伊東君と綾戸さんの様子を見て、「地味同士つきあってる」「小さな恋の始まり」と笑いあっているところを、この石野さんが一喝する、というシーンが描かれることです。確かに見ていてぼくもイラついたシーンではあるのですが、モブ子たちは当人たちをはやしたわけでもなく、それほど非道いことを言っているわけではない(ように、ぼくには思えます)。似たシーンが後にも描かれるのですが、その時など、石野さん自身が微笑まし気に綾戸&伊東カップルを見守っていたくせに、(多少、悪し様な言い方ではあれ)似たようなことを言ってるだけの連中に噛みついています。別にいじめてたわけじゃないし、そこまで怒らなくても、と思います。揶揄気味かどうかという差はあれど、いずれもオタクに対してウエメセという意味では同様で、なぜ石野さんがここまでイイモノとして描かれるのか、よくわかりません。
 オタク人権も随分上がったと感じると共に、「それはDQNのヒエラルキー体系に組み込まれることだ」と思ったり思わなかったり、「考えると今のオタクもサブカルのヒエラルキー体系に組み込まれてるなあ」と思ったり思わなかったり。
 この石野さん、常に筒井君たちの相談役みたいな上位者として描かれます。
 思い出してしまうのが『モテキ』のヤンママキャラ。何だか妙に主人公に対して偉そうで、「あぁ、作者の価値観では、ヤンママという存在がすごくエラいことになっているんだなあ」と感じたものです。
 その意味では『モテキ』こそ、実は本作のご先祖様とでも称するべき作品なのです。あれの主人公、藤君は「フジロック」という、何かよく知りませんがサブカルのコミケみたいなのに参加している、いわゆるサブカル君。彼は(現時点ではしていないのに)高校生時代にギャルゲーをやったり萌え漫画を描いたりしている様が、ドラマ版だか番外編だかでは描かれておりました。つまり、彼は「オタクを卒業して、サブカルになった」者なのであり、「オタクは我々の下位存在なり」とのサブカルならではの現実が見えていないレイシズムを象徴するキャラとなっておりました。
 そして本作もまた、それを継承してしまっているのです。
 恐らく『モテキ』の作者はサブカル寄りであり、本作の作者は恐らくギャルというかヤンキーというか、リア充寄りでしょうが……。
 前回にご説明したように、筒井君にロリコン犯罪者の濡れ衣を着せたDQN、高梨君は何ということもなく友だちになってしまいます。つまり先に「群像劇」と書いたように、この作品の主役たちは筒井君、色葉ちゃん、伊東君、綾戸さんと、そして石野さん、高梨君の六人、ということになるのです。
 石野さんもそして高梨君も、読んでいけばそんな嫌なヤツではなく、それなりに愛着も湧くのですが、この「群像劇」には結局、DQNが上でオタクが下とのある種のヒエラルキーが内在しており、ぼくとしてはそれはあまり面白いものではないわけです。
 何しろ本作、最終巻では七年後の世界へ飛び、社会人になった一同が描かれるのですが、ラストは石野さんと高梨君の結婚式です。まるで『じゃりン子チエ』の最終回がカルメラの嫁の出産エピソードだったことを思い出します(どういう例えだ)。いえ、カルメラ兄弟は『チエ』後期では実質上の主役と言っていいほどの比重の高いキャラになるのですが、石野さんと高梨君をクライマックスに持ってくるのはちょっと……という感じです。本当の本当の最後には筒井&色葉の結婚式も描かれるのですが。

 そして、実は……この社会人編、伊東君はアニメのメカデザイナーとして活躍する姿が描かれるのですが(どういうわけか劇中では「メカニカル」と呼ばれます)、綾戸さんが出てこないのです。ずっと。
 ちらっと「結婚してから忙しくなったんだよ」とだけ触れられ、どうなってるんだと思っていると。
 最後の最後に出てきて、バツイチになったとさらっと語り、伊東君が復縁しようと声をかけるところで終わりです。
 非道い!!
 非道すぎる!!
 どうなってるんだ!?
 綾戸さん、少なくとも劇中で男の影は(伊東君以前には筒井君に横恋慕していたことを除けば)なかったわけで、このバツイチの相手は全くもって不明。そんなオチにする必要が、どう考えてもないのです。また彼女、本来ショートカットであったのが、社会人編ではロングヘアで描かれます。彼女は「オタク≒コドモ」である伊東君とのままごと恋愛を「卒業」し、「バツイチ」という「聖痕」を得ることでようやくロングヘアに、即ち女になった。
 それは丁度、「オタクを卒業してサブカルになった」藤君と同様に。
 伊東君は猫耳を卒業したはずが、(あ、高校時代に綾戸さん相手に童貞も卒業してました)オタクは卒業できず、アニメ関係者となった。だから、綾戸さんを手に入れることができなかったのです。
 恐らく作者の論理では、「そうあらねばならなかった」のです。
 これが、腐女子が自身をモデルにしたオタク女子の漫画であったなら、必ず「即売会間際で修羅場ってるあたし、泣きついてくる彼氏」という、つまりは「彼氏も趣味もゲットしたあたし」という妄想が開陳されるでしょう。綾戸さんが、即売会に行くシーンが絶対に描かれているところだったでしょう(メイドさんだけはやっている辺りがまさに「外の目から見たオタク像」です)。
 アニメ関係者となった伊東君ですが、裏腹に綾戸さんが何をしているのかは描かれません。オタク女子が描いていたら絶対漫画家になったというオチをつけていたところです。
 しかし、男の子にそうした振る舞い(オタクとして全てを得る)は許されてはいないのだ、というのが本作のテーマでした。まあ、成人後の筒井君もアニメを観てはいるのですが、何か商社みたいのに務めていますし、要するにオタクという「穢れ」は伊東君が引き受けたわけですね。

 前回、ぼくは『3D彼女』の妄想最終回をちょっと書いてみました。
 が、あれはある種、「オタク勝利」史観ともいうべきものに則っていました。
 しかしそれは既に、古びた見方かもしれません。ここでは再度、「オタク敗北」史観に則った最終回を仮想してみましょう。
 ――あれだけオタク文化の優位性を説いていた筒井君だが、日本ではオタクが負けてしまった。久し振りに色葉ちゃんが日本に戻ってきた時、そこには規制によって萌えキャラの姿が失われていた。
 オタクをキモいといじめる高校生たちの姿をふと見かけた色葉ちゃんは、そのいじめる側に自分の影を見て取ると同時に、いじめられているオタクの持つ美少女マスコットを見て、筒井君のことを思い出す。
「あたしは何故、こんなにも日本に戻りたかったのか。日本に戻って、しかし何故心満たされなかったのか……『萌え』がないからだ。あたしに『萌える心』、つまり自分を愛することを教えてくれたあの人がいないからだ。
 あのオタク少年がいじめられていることと、あたしが美貌故にいじめられていたことは同じ。そしてまた、そのいじめていた側は大人になって、日本から萌えを奪ったのだ……」
 一番最初のデートで連れられたアニメショップに赴き、色葉ちゃんは筒井君と再会。
「萌えは、まだ死んでないよね」と確認しあい、エンド。
 ――と、まあ、そんな感じのオチが、考えられるでしょうか。最後はムリヤリハッピーエンドにしちゃいましたが。
 いえ、前回の繰り返しですが本作、あくまで少女漫画なのであって、上のような展開は、読者には望まれないことでしょう。
 しかしそれこそが、つまりオタクなどに興味も何もないであろう読者層を対象にした少女漫画誌がこのような作品を世に送り出したことこそが、ぼくには「オタクが負けた」ことを象徴しているように思われるのです。
 オタクはもはやただの「モテない男」でしかないのだと、本作は高らかに謳ったのですから。
 いえ、違いますね。
 世間の認識は以前からずっとそうだっただけのことです。オタクは一瞬だけ口を開きかけましたが、世間の無理解に失意し、『電波男』のページを閉じ、口を閉ざしてしまっただけなのです。
 世間は「オタクとしての価値観」、言い換えれば「男の子の内面」を、認めません。
 自分をオタクだと思い込んでいる一般リベは今日も「オタクの矜持などバカバカしい」「オタクという自意識など、もうすぐ消滅するのだ」と絶叫を続けています。
 何故か。
 破壊したいからです。
 支配したいからです。
 男の子の内面を破壊し、元の奴隷生物に戻し、自分のお稚児さんとして支配したいからです。
 ぼくが「オタク界のトップ」と呼ぶような「オタク文化人」は実のところ三十年ほど前まで、少女漫画というモノを「聖骸布」のように神聖視しておりました。これぞ女性様の内面を写し取った聖なる紙なりと。 そこへおにゃのこの真似をして、何か紙に描き出した男の子たちへの彼らの憎悪はいかばかりであったことでしょうか。
「お前たちに内面などない。俺たちの奴隷生物に戻れ!!」
 それが暗黒大首領からの指令であったのです。
 そう、本作は高らかに謳い上げたのです。「オタクなどいなかったことになった」というこの国が認めた「ファクト」を。

 まあ、せっかく読んだのだからという気分もあって二回に渡って『3D彼女』評をお送りしました。ぼくがこれを知ったきっかけは先にも書いたように映画のCMを見てのことです。
 本当、当記事を執筆するに当たってwikiを覗くまで、既に今年、本作がアニメ化されていたことすら知りませんでした。
 気が向けば、これらの評をお届けしたいと思います。映画、なかなか観に行くタイミングがないんですけどね(あ、勝手ですが漫画の方のネタバレはご遠慮願います)。
 というわけで、今回はこんなところで。

3D彼女 リアルガール  ――オタクが終わった後、そこには「自分をオタクだと思い込んでいる一般リベ」のオタクdisり記事とヤンキー少女漫画のメイド喫茶回だけが残った(長い)

2018-11-07 23:21:01 | アニメ・コミック・ゲーム


 ど~も~。
 今日も「ツイフェミ」とやらいう非実在フェミを相手に「萌えフォビア」とかいう、「この世に存在しない言葉」を武器に、みなさん元気に戦っていらっしゃるでしょうか?
 というわけで今回のお題、『3D彼女』です。あ、すいません、上の一文は枕として書いただけで、以下の記事には何ら関連してきません
 ちょっと前、何となくテレビを観ていたら、本作の実写映画のCMを見てしまい、慌ててGEOで借りてきて読み出しました。「非モテのオタク少年にものすごい美人のガールフレンドが」というストーリーの少女漫画です。
 みなさん、いかが思われたでしょうか。
 要するに『電車男』ですよね、これ。
 そう、あの作品のブームの後、「Aボーイ」だの何だのちょっとだけオタクがもてはやされ、しかしそれへの(当然あるべき)カウンターとして『電波男』が登場。ラノベなどでもオタクを主人公にしたネタが溢れ、ようやっとオタクは自分自身について語りだしました。
 が、ここ数年、そうした流れは途絶えてしまっています。当ブログの論調も近年、「オタク敗北論」とでも称するべきものへと傾いていたかと思います。『電波男』がつぶされたのは、「自分をオタクだと思い込んでいる一般リベ」の仕業でしょう。時々言うように、「出版当時は意外に肯定的だったのが、後々手のひらを返した」という連中が多かったように思います*1
 もう一つ、指摘しておくと近年、オタクは「女嫌い」というよりは「女の子に弱い」キャラとして捉えられるようになってきています。「オタサーの姫」という概念もそうでしょうし(本来は女子の中でも二軍がパッとしない男を相手にしている、との意味の言葉だったはずですが、次第にむしろ「女に飢えた男」の側に照準があわされるようになった感があります)、『ネットハイ』においてすら「オタクは女慣れしていないから、ちょっと優しくされるとすぐ好きになる」などと語られています。
 一方、本来オタクコンテンツであったものが、近年オタクから離反しつつあるように思われます。これはなろうにおける転生ものだの、エロゲに取って代わったソシャゲの隆盛などが原因であるように思われ、「自分をオタクだと思い込んでいる一般リベ」のせいだとは考えにくい……と思うのですが……。
 まあ、本稿はそんなことをつらつらと考えている人間による感想であると心に留めて、読んでいただければ幸いです。
 ちなみにクライマックスのネタバレまで全部してしまいますので、これから本編を読もうとしている方は、ここから先はお読みになりませんよう。

*1 後藤和智師匠など。

 ここしばらくの少女漫画でオタクネタというと、「オタクなあたしがイケメンにモテる」といったものが主流だったと思います。『私がモテてどうすんだ』とか。『うまる』もそうでしょう、掲載誌は少女漫画誌じゃありませんが。
 ところが本作は美人がオタクに惚れ込んで尽くすという図式で、まさに『電車男』、否、女性の方が能動的な『超電車男』とでも呼ぶべきもの。しかし、ちょっと不思議なのは、そのヒロインである色葉ちゃんが何を考えているのかが、どうにも伝わってこない点です。
 読み始めた当初は「ギャル」なのかと思いましたが、これは絵のせいで、ぼくがそのようにミスリードしただけのようです。鼻筋が通り、唇を強調して描かれるタッチは、オタク的な絵と比較すればそのように見えてしまいます(掲載誌の『デザート』の読者層については知りませんが、恐らく腐女子寄りではなくギャル寄りなんじゃないでしょうか)。そんなわけで、当初は『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』の桐乃みたいな感じで、オタクとギャルという存在のカルチャーギャップを描くとか、そういう話なのかと思ったのですが、どうも違うようです。
 色葉ちゃんは難病を患い、手術のための渡欧を控えていて、おつきあいが半年限定のものであることが冒頭で語られ(しかしその詳細は余り描かれず)、それがまた彼女を謎の存在にしています。彼女は美人のせいで友人のいない存在として描かれており、ある意味それのみが彼女のアイデンティティとなっています(文化祭の美人コンテストで自分をやっかむ女子に痛烈な返しをするというエピが入るんですが、少女漫画ではこういうの、定番なのでしょうか?)。
 いえ、本作はあくまで主人公である筒井という少年の視点から描かれている話であり、それはそれで構いません。それよりも問題は、一体全体どうしたことか、極めておかしなことに、本作ではこの筒井君のオタクとしての生活がほとんど描かれていないことです。
 例えば、「えぞみち」。何だか奇妙な名前ですが、筒井君がハマっている萌えアニメの主人公です。ところがこの作品がいかなるものかはほとんど描写されず、物語前半ではこのえぞみち(の幻影)が度々出現しては、筒井君に「現実を見ろ」と叱責します。あ、ちなみに物語後半はほぼ出番がなくなります
 筒井君には伊東君というオタク友だちがいます。可愛らしいショタキャラで(オタクネタでは友人がショタ系ってのが多い気がします。ある種、オタクの「幼児性」をここで表現するためでしょうが)一体全体どういうわけかこの人、頭に猫耳をつけています! 学校で、です! いや、それが可愛いのが困るんですが!! この猫耳カチューシャ(なのか?)は劇中で本人が、「オタクであると居直り、外に知らしめるためにつけているのだ」と言及しています。これはオタクが、例えば敢えてアニメキャラの下敷きを学校に持っていくような行動をディフォルメした表現なのでしょうか。いや、作者がそうした「オタクあるある」を知らず、頓珍漢なネット記事か何かを真に受けて描いたって感じもするぞ*2
 この伊東君の恋のお相手として途中から腐女子(なのか?)キャラが出てきます。が、上に「なのか?」と書いたように、この娘もやはりオタクとしてはあまり描かれません(筒井君はやたらとスウィーツを作っているところが描かれるのですが、それに歩調をあわせるようにこの娘、ガーデニングを趣味としている様子がやたらと描かれます)。伊東君とアニメ映画を見に行っても(セリフとして、「アニメの映画に行こう」と言います。『絶望先生』なら「テニミュに行こう」など、具体的な作品名を出してくるところですが)会話は「CGが」「主人公の乗るマシンが」「サブキャラが」と、何かふわっとしたもの。
 一方、結局、伊東君はふられてしまうのですが、「告白して振られたけど、経験値が上がってよかったよ」と言うなど、RPG系の用語だけはちょっと使われるのが笑っちゃいます。
 作者はオタクそのものには、何ら関心がないようです。
 何しろ、11巻(最終巻の前)に至ってようやっと色葉ちゃん、筒井君とのデートで観て「アニメの映画もバカにできないんだね」なんて言う始末です。
 今さらかよ!!
 言っておきますが二人、第一巻からずっとつきあってます。どう考えても筒井君が初デートで自信満々でオタク丸出しのデートコースを組むの巻、で済ませておくことでしょう。オタクの痛さをギャグ的に描いた挙句、最後にしかし色葉ちゃんがアニメ映画で泣いてしまうという。
 何しろ初期巻では筒井君がロリコン冤罪で濡れ衣を着せられるという、ものすごい展開が描かれます。ここはかなり期待したのですが、しかし筒井君は妙に飄々としており、事件もどうということもなく解決してしまいます。解決後は自分に濡れ衣を着せたDQNと何とはなしに友だちになってしまうのもあんまりで、ここ、DQN側が反省するなり筒井君を男として認めるなりが必要なはずですが、そんな描写もあまりなし。さすがにそこはどうなんでしょう。
 後、筒井君、時々幼女に関心を示す描写があります。最終巻辺りでも結婚した友人に「女の子を産め」などと言っています。しかしここも「何か、知識として、オタクは幼女という言葉を使う」と知り、取り敢えず言わせた感じです。では、筒井君はロリコンなのかとなるとその辺の描写が丸っきりなく、その幼女というものにオタクの込めた、性的なムードが本作では感じられないのです。どうなんでしょう、それ。
 敢えて言えば、二人がカラオケに行った時、アニソンを歌う筒井君に対して、色葉ちゃんが「(どっ退きではあるものの、しかし一周回って)何か格好いい」といった評し方をぼそっとします。このさりげなくぼそっとという点含め、何だかこの一点だけはちょっとリアリティを感じましたが、本作における「オタクあるある」はまあ、せいぜいそれくらいです。
 結局、筒井君は単なる「非モテ」としてのみ、描かれているのです。
 オタクのオタク性もただ「女慣れしていない」という「非リア」性とでも読み替えるべきものでしか、本作ではありません。
 本作の本質は「恋愛にウブな少年がドギマギするのを愉しむ」というものです。それは丁度、『おそ松さん』の腐女子人気を見て、ぼくたちが「腐女子はニートが好きなのかよ!?」と愕然となるも、それはそうではなく、彼女らはただ「女に飢えている男が、女を求めるところ」、つまりトト子ちゃんがモテるところを見たいだけなのと、全く同様です。上にも書いたように、伊東君も失恋した時、「女の子を好きになれてよかった」みたいなことを言うのですから。

*2 しかしこうした、「オタク資産を狙ってすり寄りってきたリア充を叩く」という文化、ゼロ年代には盛んだったのですが(女性誌に勘違いした「ツンデレ」の解説が載るのをからかうなど)、それも懐かしいものになってしまいました。


 さて、先にも書いたクライマックス近い11巻。
 筒井君の母親は筒井君に対し「お前は色葉ちゃんとつきあうようになって変わった」と言い出します。
 いえ、恋愛ものなんだから、そういう展開にならざるを得ないでしょう。恋こそが全てというのが少女漫画を貫く価値観でしょうけれども。
 この巻では筒井君と色葉ちゃんがついに初体験を迎えるのですが、そこで筒井君が「お前に出会う前のオレには何もなかった、全部お前がくれた」と言うのに対し、色葉ちゃんが「そんなことない、いろいろ持っていた」と返します。感動的なシーンなのですが、まあ、普通に読む限り「筒井君は全てを色葉ちゃんに与えられた」。いや、「恋愛という至高の、ただ唯一のモノを与えられた」というのが本当のところでしょう。
 しかし、なればこそ、「えぞみち」という恋敵をあんなになおざりにすべきではない。そもそも『3D彼女』というタイトル自体が「2D彼女」という存在があることを前提として、そのカウンターとして出現したものであるはずなのですから。
 筒井君がえぞみちと色葉ちゃんのどちらを選ぶかを悩む展開。
 もうちょっと具体的に言うならば、果たしてオタク趣味と色葉ちゃんとのどちらを優先させるのかなどの描写は、あってもよかったはず。
 本作、連載開始は2011年。この翌年には「ボカロがライバル」なんて歌が出ています。そう、「まだ、オタクが勝っていた」頃です。しかし色葉ちゃんは恋敵の顔すら知らないのではないでしょうか。てか、作者の中ではえぞみちは最初から恋敵になり得ない存在であり、だからこそ彼女に主人公を叱責するという役回りを与えたわけなのでしょう。
 この11巻で、色葉ちゃんの難病についてが明らかになります。手術が成功しても記憶が失われてしまう可能性が高い。筒井君のことは忘れてしまうだろう。先にも書いたようにつきあいが期間限定であるということは当初から語られ、折に触れて蒸し返されてはいたものの、読後感としては「急に言い出した」感が強いんですね。だって「それが具体的にどういうことか」など、このクライマックスに至るまではほとんど触れないんだもん。
 で、まんまと記憶をなくしてしまう色葉ちゃんですが、筒井君からもらったマスコットを見て覚醒します。
 二人の記念のマスコットなのですが、これが大仏様をモチーフにした奇妙なもの。渡すシークエンスでは特に「ヘンだ」とは言われないんですが、記憶を失った色葉ちゃんはこれを見て「高校時代のあたし、どういうセンスしてたんだ」と漏らします。
 そんな中、筒井君は彼女と出会っても「ただのクラスメート」と称して消えようとするのですが、色葉ちゃんは彼のカバンにつけられた大仏マスコットに気づき、呼び止めるのです。つまり記憶を取り戻すきっかけになる、すごい重要なアイテムなのですが……つまり、まあ一応、奇妙なデザインにすることで重要アイテムと印象づけているのでしょうが、でも、普通に考えればこれ、美少女マスコットにしておくよなあ

 えーと、以降はぼくの妄想です。
 まず、筒井君が色葉ちゃんに(美少女)マスコットをあげるエピソードは早めに描いて、これをきっかけに(マスコットがキモいのキモくないのと)ケンカしてもよかったのではないでしょうか。
 そして筒井君とつきあっていた記憶を一切失っていた色葉ちゃん、自分の私物の中から美少女マスコットを見つけて「キモ!」と漏らす。
 そして……その「キモ!」は本心だったけれど、どこか心痛むものをも感じる。
 久し振りに帰ってきた日本では、街に萌えキャラが溢れている。
 色葉ちゃんは日本が萌え大国になっていると改めて思い知らされ、「今にこうなる」と自分の身近にいた人(筒井)がしきりに言っていたことをふと思い出す。
 そして、「キモ」と思った時の、自分自身の深層心理と共に、その言葉で傷つけた者の顔をも思い浮かべる。
 最初はキモいと思っていたけど、あんなに好きになった人。
 記憶を取り戻した色葉ちゃんは筒井君に告げる。
「キモいのは、あたしの中のキラキラふわふわしたもの――萌え的なモノ――に惹かれる気持ちだった……いえ、あたしの美貌に嫉妬した周りの女子たちがあたしに放った『キモい』という言葉のために、そう思い込み……その気持ちを、萌えキャラへとぶつけていただけだったんだ。そして、そのことに、あなたが気づかせてくれた」。
 ――とまあ、そんなオチこそが、望ましかったのではないでしょうか。
 つまり、萌え的なものを色葉ちゃんが受け容れるかどうかを、話の軸にするわけです。

 いえ、本作はあくまで少女漫画であって、上のような展開は、読者には望まれないことでしょう。
 ぶっちゃければ作者にしてみれば、編集者から与えられたテーマを、苦慮して何とか仕上げた(オタクになど興味がなかったのに、ある種外的要因で描かされた)のかもしれません。
 そもそも一漫画作品として、ぼくも本作を充分楽しんで読みました。
 こうしてオタクがオタクとしての立場で本作を批判することは、BLを見たホモが「こんなのホモじゃない」というようなものであって、野暮なことというか、言っても仕方のないことなのかもしれません。
 しかし、そもそも「萌え」とは少女漫画を源流にした、男の子たちが内面を史上初めて吐露するという一大実験であったといえます。
 初期の萌え作家、つまり八十年代から九十年代辺りに出てきた美少女系のエロ漫画家には少女漫画の影響を受けた者が大勢いました。しかしそこで彼らが描いたものがエロであったり、オタク的なメカや怪獣であったりといったことを鑑みるならば(初期の美少女コミックにとってエロもメカや怪獣などと同列の、ファクターの中の一つにすぎませんでした)、萌え作品は男の子が自らの(文学などではなく、もっとしょーもない意味での)内面を史上初めて紙の上に吐露した、空前絶後の表現だったのです。オタク以前にも男性の漫画家はいた、と反論する人がいるかもしれませんが、「プロが、子供たちのために描いてあげたもの」ではなく「素人が、何か適当に描いたもの」が市場性を持ったこと、そしてモノローグなどの多用による内面の吐露など、その漫画文法が少女漫画の影響下にあったことが重要なのです。
 だからこそ、本作におけるオタクの扱われ方には複雑な思いを禁じ得ないわけです。
 というわけで、本作についてはもうちょっとだけ続けようかと思います。
 次週辺り、続きをアップしますので、どうぞよろしく。