兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

ズッコケ三人組シリーズ補遺(その二)

2015-02-28 09:44:57 | レビュー


 続きです。
 正直、ニーズがあるのかどうかわかりませんが、今回は五作を採り上げます。
 相変わらず、「普通のブックレビュー」寄りの内容になりますが『宇宙大旅行』において当時の女性観、また『結婚相談所』について女災が語られますので、よければそこだけでも読んでみてください。
 後、性質上、ミステリなどもネタは全部バラしていますので、そこはお含み置きください。

『花のズッコケ児童会長』
●メインヒロイン:荒井陽子

 例えば、藤子不二雄Aの『魔太郎がくる!』。
 これは周知の通りいじめられっ子の復讐をテーマにした漫画ですが、お決まりのパターンとして、スポーツマンが登場すると必ず「本人としてはよかれと思っているのだろうがスポーツ至上主義を押しつけてくるイヤなヤツ」として描かれ、魔太郎の復讐の対象となってしまいます。
 本作もそれに近しく、品行方正な柔道家の男子、津久田が弱虫の章にリンチまがいの稽古をつけていたのを目撃したハチベエが怒る、というイントロダクションから始まります。
 津久田が児童会長に立候補することを知ったハチベエは対抗馬としてクラス一の美女、荒井陽子を担ぎ出す――というのが前半のプロット。
 津久田も陽子も、選挙活動期以前の事前運動としてファンクラブまがいの活動を行い、しかしそれがやり過ぎと言うことで先生にお目玉(実際、少額とは言え、現金が動いてしまう)。陽子はそれがショックで泣きながらハチベエを責め、一転して立候補を取り下げます。
 おい、いくら半ば強引に担ぎ出されたとは言え、何て無責任な!!
 後半はハチベエ自身が立候補し、選挙活動を始めます。
「あぁ、最後の最後、陽子が応援演説でもするところがクライマックスかな……」と思ったのですが、陽子は存外に早く機嫌を直して、選挙活動に協力するように。しかし今度はハチベエが陽子人気に苛立って応援を断ってしまいます。こうなるとハチベエのわがままさも大概です。
 最終的には選挙当日の演説会で、緊張したハチベエは惨憺たる演説をしてしまうが、章が応援演説に立ち、冒頭の一件をぶちまけます。
 結局、ハチベエが当選することはありませんでしたが、津久田も当選ならずという痛み分け。まあ、悪は滅びたわけでグッドエンディングです。
 面白い話ではあるのですが、この津久田はちょっとないくらいゲスな人間として描かれていて、あまりにもストレートな勧善懲悪は『ズッコケ』としてはちょっとどうなんだという感じです(同時に、ゲスな本性が出るまでは、劇中で「ひょっとしていい人かも……」と人物評価が二転三転するのもいささか凝りすぎです)。
 本作のテーマは「体育会系の否定」でしょうか。章が「スポーツをやれば根性がつくなんてウソだ」と絶叫するシーン、また応援演説に柔道道場の子供たちが現れ、「スポーツによって礼儀と度胸が養われる」と演説する中学生は舞台度胸がなく目を白黒させ、次に出て来た小学一年生はお辞儀もしない、といった小ネタに那須センセの体育会系への憎悪を見て取ることができます。
 が、基本、それと政治とは関係のない話であって、話が政治のことに至るや、ちょっと内容が怪しくなります。
 中盤、事情を知ったモーちゃんが津久田不支持を表明する場面で、「立派すぎる津久田はダメな人間の気持ちがわからない」と主張。いや、そこまではいいのですが、ハカセもそれに同調、「そうした視点こそ民主主義の本質だ」と語ります。
 そうか……?

『ズッコケ宇宙大旅行』
●メインヒロイン:タウ星系第二惑星人

 子供の頃、次はSFだとの予告に期待して『時間漂流記』を読んでみたら、江戸時代が舞台でがっかり、といった経験をしました。
 恐らく、そうした感想が当時から多かったのではないでしょうか。本作の読後感は『時間漂流記』を、子供が喜ぶジャンルでリライトしたもの、という感じなのです。それは同時に、当時の「SFっつったらアレだろ、UFOだろ」という空気を如実に表した結果でもあります。
 プロット自体は大したものではありません。近所の山にUFOを発見した一同。宇宙人とファーストコンタクトを果たし、また宇宙人の危機を救って友好関係を築き上げる。
 それだけです。
 ただ、(レビュアーブログなどによると)那須センセは蘊蓄シュミがあるようで、本作でも児童文学にあるまじき、UFO研究家のハイネック博士(文中では「ハイネク」)の名前(と、イラスト!)が出て来たりします。
 他にもマニア的視点で細かいツッコミを挙げていくなら、まずUFOの形状がキューブとされ、シャンデリア型UFO全盛の時代に独自性を出そうという気概を感じさせますが、逆にUFO底部よりの牽引光線で内部に入る点は、当時のイメージを忠実に踏襲しています(このビジュアルは繰り返し挿絵に描かれ、「UFOにさらわれる」イメージを当時の子供が共有していたことが窺い知れます)。またこのUFOの内部があまりメカニカルでない辺りも、実際のアブダクティ(UFOにさらわれた人)の体験談に近しいように思います。UFOは偵察艇、大型の母船が月の裏側に待機している点は、アダムスキのイメージでしょうか。
 アダムスキと言えば、本作に登場する宇宙人は、三人組と変わらぬ年頃の美少女として描かれます。これもまたアダムスキ的コンタクティ的な宇宙人像と一致しますが、肌は褐色で地球のさまざまな人種のハイブリッドに見える、とされます。この種の美形宇宙人は北欧系が多いことを考えると、独自性を出そうとしたとも思えますし、単純に「人種差別を克服した未来の地球人の姿」を見て取ろうとしているようにも思えます(もっともこの美少女宇宙人については二重、三重、四重のどんでん返しが用意されているのですが)。
 そう、本作は第三章のタイトルが「スター・ウォーズ」となっていることが象徴するように、当時のスペースオペラブームを受けた作品であることは疑うべくもないのですが、どちらかと言えば全体にニューエイジっぽさが満ちているのです。
 宇宙人は将来、地球人と友好関係を築くため、まず地球の子供と接触を求めてきます。三人組は「ぼくたちが大人になった頃、彼らと本格的な友だちになるのだ」と気負い、また宇宙人側も「彼らが成人する頃には、地球も我々宇宙連盟の仲間入りを果たせるだろう」と語ります。
『未知との遭遇』の宇宙人が象徴するように、この当時の「宇宙人」とはニューエイジ的な「穢れない子供」のメタファーそのものでした。この美少女宇宙人もまた、『時間漂流記』の若林先生に連なる、「80年代SFによくあった女性聖化型美女」の系譜であることは、言うまでもないでしょう。
 その意味である種、当時よくあった(言っては悪いけど)『未知との遭遇』劣化版の一つとして、本作も位置づけられるように思えます。

『うわさのズッコケ株式会社』
●メインヒロイン:荒井陽子、榎本由美子、安藤圭子

 面白いです。
 レビューブログでも最高傑作、株式会社のシミュレートをしてみせる小学生向けとは思えないリアルな内容が見事、といった評であり、その通りだと感じました。
 お話としては近所の港が釣り客で賑わうのを見て、三人組が弁当や飲み物を売ろう、と思い立つ、というものです。資金繰りのためクラスメイトたちを相手に、株式会社を立ち上げる。が、釣りシーズンが過ぎ、経営難に……。
 ここで株主たちにつるし上げられるも、ハカセが口八丁で場を収めてしまうのがすごい。
 そして一転、お話はモーちゃんの姉の学校の文化祭でラーメンを売る、という話に。
 と、今まで株主としてハチベエを冷たく吊し上げるのみだった美少女勢が「私たちも働いてみたい」と言い出します。高校の文化祭というのが、彼女らにとっては魅力的に映ったのでしょうか、楽しそうに接客します。
 メイド喫茶回ですよ、メイド喫茶回!!
 いや、メイド服は着ませんけどね。そして商売は成功を収め、また一時期はハチベエを責めた陽子が照れくさそうに謝罪するのです。
 今までの『ズッコケ』では、女子はそれこそのび太にとってのママと大差ない、「外敵」でした。が、今回の女子たちは当初は株主という立場だったが、三人組の行動に興味を持ってこちらへと歩み寄り、共に働き、株主たちに「あんたたち、カネを出して文句を言ってるだけじゃない、ハチベエたちは汗を流して働いているのよ」とまで言うのです。
 まあ、作者の(労働者は尊い、株主は悪者、という)イデオロギーを代弁させただけとも言えますが、同時に『ズッコケ』史上初、女の子たちと本格的な「ファーストコンタクト」を成し得たのが本作であったとも言えるのです。
 仮にですが、これをオタクネタに喩えるならば、『ズッコケ同人サークル』で、美少女勢が同人誌即売会に参加、「オタクたちの方がリア充よりいいわ」と理解を示してくれる話、とかそんな感じかも知れません。
 もう一つ。流浪の画家島田淡海の存在も三人組を助ける一因となっており、また彼の浮世離れした生き方をハカセが「一番正しいお金の使い方」と評する辺り、やはりちょっと、「金儲け」というテーマに対する作者の屈折が見て取れます。

『ズッコケ恐怖体験』
●メインヒロイン:おたか

 ハチベエがとある閉鎖的な田舎で女幽霊に取り憑かれてしまうお話なのですが、レビューなどでも書かれる通り、怖いと言うよりもの悲しい内容です。
 心霊現象を謎解きしていき、合理的に解明できたかと思いきや、最後に「いや、でも不思議なことは本当にあるのだ」とひっくり返す展開は鉄板ですが、それが幕末の、権力者に翻弄された哀れな母子の話へとつながっていきます。幽霊話が「迷信深い人々による、故人への冤罪」とオチがつくのは時折見るパターンですが、それが更に故人が生前にかけられていた冤罪の解明へとつながって行く様は見事です。
 不満を挙げるとすれば三人組があまり活躍をしないことでしょうか。とは言え、閉鎖的な村の迷信を新任の若い教師が打ち破る展開は面白いし、逆にこの謎解きをハカセたちがやってもそれほど面白味もないだろうし、仕方のないところでしょう。
 いずれにせよ、こうした母子関係を神聖視するムードは『ズッコケ』では珍しく、次回作のドロドロした母子関係とは対照的です。
 那須センセには日常を書くと辛辣なものになり、翻って非日常系では理想的な母子関係、理想的な美女を描こうとする傾向があるように思われます。つまり今回の女幽霊、おたかもある意味では『宇宙大旅行』的な「異界の美女」のバリアントと言えるのではないでしょうか。

『ズッコケ結婚相談所』
●メインヒロイン:奥田タエ子

「D」「V」「冤」「罪」



 ――そうか、わかったぞ!!

 というわけで『ダンガンロンパ』風にお送りしました。
 すげえ。すげえええええええええええええええええええええええええええええええええ。
 これ、何なんだ。
 実は出だしはあんまりいい印象がありませんでした。
 イントロはハチベエの発案で子供電話相談室を始めるというものですが、そのきっかけが新聞で小学生の自殺の記事を見たから、というもの。どうでもいいけど要るか、その自殺って話題。
 その後、ページの1/3近くをこの相談室で消費するのですが、このエピソード、本筋にはかかわりません。本筋は「モーちゃんのお母さんの再婚話」。
 実はこのシリーズ、結構タイトル詐欺の傾向があります。恐らく方針としてあとがきに次回タイトルの予告を書くようにしているため、そうなってしまうのではという気がします。想像ですが、『結婚相談所』と予告したので前半でつじつまあわせをしたんじゃないかなあ。
 さて、モーちゃんの家は母子家庭です。モーちゃんが物心つく前、母は父親と離婚。それもお父さんが酒に浸って妻子に暴力を振るうようになったからです。その後、お母さんは女手一つでモーちゃんと姉とを育ててきました。
 そこに現れたのが裕福なスポーツマンの再婚相手。モーちゃん同様のデブに描かれている(もう四十を超えた)お母さんにとっては、二度とない、それも理想的な再婚のチャンスでしょう。
 しかし、モーちゃんはいつまで経ってもグズグズと割り切れない。
 そこでハチベエとハカセは東京に住む元・父親の久村を訪ねようと発案します。
 モーちゃんが一歩踏み出すためには、最初の父親への感情を精算した方がいい、と考えたのです。モーちゃんのお姉さんであるタエ子もこの計画に協力して、旅費を捻出するという活躍ぶりを見せます。
 そして、いざアポなしで突撃した元・父親との再会は――。
 当たり前ですが、久村も今となっては新しい家庭を持っています。彼はモーちゃんを丁寧に迎えつつ、その対応はよそよそしい。もう親子ではないと言い切ります。
 この新しい妻との間に子供も生まれているのですが、ここでモーちゃんは初めて「自分には実の兄がおり、この家で暮らしている」と知らされ、その兄からの「何だコイツ?」といった無愛想な対応を受けてしまいます。
 ついには久村も「これから家族で出かける予定だ、そろそろ帰ってくれないか」。
 同席していたハカセが切れます。最初は「おじさん、もうお酒飲んで暴れたりはしないんですか?」と不躾な子供を装い、最後は「とぼけないでください、さんざんモーちゃんのお母さんをいじめておいて!」と。
 ここ、ハカセが言うからこそ感動するのですが、それにしてもキャラクターを考えれば、ハチベエこそが切れるのが自然でしょう。このハカセ、「普段は冷たいがいざとなると友情に厚い」というキャラクターで、大体美味しいところを持って行ってしまいます。『ジェットマン』の竜が凱を抑えて一条司令を殴るシーンを想像しなくもありませんが。
 しかしそれに対する元・父のリアクションは「困惑」というもので、同席していた妻が見兼ねて説明します。「酒乱になったのは夫ではない。あなたのお母さんの方だ」。
 彼女は元々お母さんの同僚で、結婚後も三人でのつきあいが続いていたが、その内にお母さんが彼女と久村の仲を怪しむようになり、精神が不安定になって酒に浸るようになった。長男(つまり、モーちゃんの兄)すらも不倫の末の子供だろうと疑い出した。
 久村はやむなくお母さんと離婚し、嘘から出た誠という形で今の妻と再婚したのだと。
 その告白に圧倒されたまま、三人組は久村の家を出ます。
 その後もハチベエとハカセがモーちゃんを気遣う描写が続くのですが(ハチベエはハチベエでぶっきらぼうな中にモーちゃんへの友情を覗かせ、それはそれでいいシーンです)、帰りの新幹線で、モーちゃんは「ぼくには父親はいないし、要らない。お母さんの結婚に反対もしないが、ぼくは家を出て親戚の家にでも身を寄せる」と決意します。
 大人たちのちゃらんぽらんさに比べて、子供たちの聡明で清廉な姿に、ただ圧倒されます。
 このモーちゃんというのは自己主張の強いハカセとハチベエの調停役に徹することが多く、普段は目立たない存在です。それで主役話を、といったことで本作は始まったのでしょうが……しかしこのモーちゃんの老成した態度に、頭が上がりません。いえ、それを支えるハチベエとハカセの大人な対応も決して負けてないのですが。
 冒頭の人生相談で、鼻を摘んだだけで「ぼくはモーちゃんじゃありません」とバレバレの相談電話をかけてくるというアホなシークエンスは、一体何だったのでしょう。

 さて……みなさん気になっているかと思います。
 この久村は本当にDV夫だったのか、モーちゃんのお母さんこそがDV冤罪犯だったのか。
 ハチベエとハカセは「どっちとも言えないよな」と中立的な会話を交わすのですが、帰宅したモーちゃんを迎えたお母さんは「(久村たちから)離婚の理由も聞いたの?」とさりげなく尋ねてきます(三人は「ただの東京見物」との名目で出かけたのですが、お母さんはお姉さんに聞いて事情を知ってしまっていたのです)。その様子から想像するに、やはり久村の主張が正しいのではないでしょうか。
 その後、彼女は「久村とのことは、自分が正しいと今でも思っている」とも言うのですが、ここは「DV」についてか「離婚したこと」についてか或いはまた「長男が不倫の子だ」という思い込みについてかは判然としません。そもそも自分で産んだ長男を不倫の子だと言い立てていたのですから、この時期のお母さんが正常な精神状態でなかったことは明らかです。いえ、それすらも久村の妻のウソ、という可能性もあるとは言え。
 見ていくに、作者の意図としては子供の読者にはどちらとも取れるように描き、しかし読み返した後ではお母さん側が怪しいと判断できるように持っていく、といったものだったのではないでしょうか。
 ヒントとなる描写があります。
 今までムダだと繰り返していた冒頭の「電話相談」。これは無残な失敗で終局を迎えるのですが、それは以下のようなものでした。
 ハチベエが電話相談に対応していると、可愛らしい女の子の声で電話がかかってくる。「恋愛について相談したいんです。私、隣のクラスのハチベエという男の子に恋をしていて……」。
 舞い上がったハチベエはその子と会う約束を取りつけ、約束の場所で待つのですが、いつまで経っても相手が来ない。その時、クラスの美少女トリオが現れ、妙になれなれしくしてきます(ハチベエの手を取ったりすらします!)。普段なら舞い上がるハチベエですが、他の女の子(何しろ隣のクラスと言っていましたから)との約束があるからと我慢していると……美少女トリオは吹き出して、あの電話の主は私たちだ、あなたをからかったのだと告げます。
「モテない男の子って悲惨ね」と言い捨て、美少女トリオは去っていきます。
 むろん以上は、全体の話には一切関わってはきません。
 那須正幹は言いたかったのではないでしょうか。
「女災」には二種類あり、一方は能動的女災である。これも悪質ではあるが、ある意味、目に見えやすく、また「女子力」の高い者のみに使える技である。
 もう一方は受動的女災であり、しかしこれこそが目に見えにくい、「女子力」の低い者にも使用可能な、だからこそ本当にタチの悪い、本質的な女災である、と……。

 一応書いておくと、お母さんはモーちゃんの決意を聞いて、「あなたが認めない男と結婚なんかしない」と宣言し、また再婚によって(モーちゃんが仮に親戚の家に身を寄せるとしても)引っ越してしまうのではと危惧していたモーちゃんがこの場に留まってくれることを知り、喜ぶハチベエとハカセの姿で話は終わります。
「完璧でないながらも、息子を愛そうとする母」。読後感は、非常にさわやかです。

お知らせ

2015-02-22 20:35:33 | お知らせ
 ちょっと時期を逸したのですが今回もまた、お知らせです。
 ネットマガジン『ASREAD』様での連載、第四弾。
ドクター非モテの非モテ教室(その四)」が掲載されました。テーマは伊集院光と童貞!!
 
 
 フェミニズム批判であると同時に、今絶対必要とされているが、誰も言い出さない「男性論」足り得ていると自負するものであります。
 他にも硬軟取り混ぜて興味深い記事がいろいろと書かれておりますので、ご一読いただければ幸いです。

 また、記事中にある伊集院のトークは「毒舌な妹botの伊集院光教室」で実際に聞くことができますので、そちらも是非、ご覧ください。

ズッコケ山賊修業中

2015-02-20 17:36:31 | レビュー


●メインヒロイン:土ぐも

 さて、予告通り本作については少し詳しく見て行きたいと思います。
 正直今回は前回より更に「女災」とは関係のない話になってしまいますが、今回のヒロインとも言える「土ぐも」は先に述べた『時間漂流記』の若林雪子先生同様、「この当時のフィクションにおける女性像の一典型」とも言えるので、その辺りに興味を持った方はどうぞご一読ください。
 ただし最後までネタバレしてしまいますので、そこはご了承ください。

 さて、本作はシリーズの中でも最高傑作、異色作といった評価を受けているのですが、何十年ぶりかに再読したぼくの感想は、「キモい」というものでした。過剰に表現するなら、「児童文学でオウムを賞賛した」的な感じです。
 プロットを説明しますと、要するに「三人組が隠れ里に迷い込む」お話です。
『オバQ』にも平家の隠れ里に迷い込む話があり、昭和のフィクションではよくあるパターンではあるのですが、特異なのはその「くらみ谷」と呼ばれる隠れ里に潜む人々が「土ぐも一族」と設定されていること。彼らは自分たちこそが日本の真の先住民族であるとし、政府転覆の機をうかがっています。トップの「土ぐも」は宗教的カリスマであり、地元の村には信者のシンパが大勢います。
 とは言え人数としては百人足らずの勢力のため、たまには外部の血を入れようということで、ドライブ中の三人組を拉致ってきた(このような表現が一般化したこと自体、考えてみればオウム以降です)と、そういうわけです。
 しかし仮に彼らの先住権が正当であれ、子供を拉致るようなヤツらは単なるテロ集団です。何しろ過去には「逃げ出した者は三歳の女児を含め斬首された」ことすらあるというのですから、こんな腐れ外道どもは、拉致被害者さえ奪い返せば無慈悲な核攻撃を加え殲滅してやってもいいくらいです。
 が、基本、作者の筆致は、この土ぐも一族に好意的なのです。
 三人組を温かく迎えた食事係のおばさんが、にこやかに自分もまた娘時代に連れてこられ、その後は三日三晩泣いたことを語ります。何というか、拉致られたものがすっかり馴染んでしまっているというこのリアリティ、非常にどす黒いモノを感じます。
 三人組もまた比較的すぐ、一族の暮らしに馴染むようになります。こういう場合、一族の生活ぶりの描写をしたり、或いは一族の子供たちと仲良くなる描写などが見どころになるだろうに、そうした面は淡泊に感じられました。ハチベエは婚約者まで宛がわれるのに、その描写もあっさり風味。もっとも美少女と混浴という、とってつけたようなエロ描写はありますが。
 さて、おかしいと言えばキーマンとなる堀口青年です。三人組をドライブに連れてきたがため、共に囚われてしまった大学生なのですが、すぐに三人組と別れてしまい、あまり登場しなくなります。別に会うことを禁じられたわけではないにもかかわらず、こんな非常事態に際し、たった一人の親しい大人と会うこともなく、何となく土ぐも一族に馴染んでしまう小学生って、一体何なんでしょう。
 それもこれもページの都合だったのかも知れません。
 中盤の山場は土ぐも一族の祭りで、ここは確かに絶賛されてしかるべき子細な描写がなされています。
 一族のトップである土ぐもは「ルサンチマンをぶつける対象としての神」、「人々の恨みを一斉に受けることで崇拝される神」として描かれます。人々は自らの不幸についてこの神事で「土ぐも様、お恨み申し上げます」と不満をぶつけることで、憂さを晴らすのです。
「女災」理論に近しいとも、何とかウォッチ的とも、現代のぼくたちの政治体制の暗喩とも取れるし、単に「ルサンチマンにまみれて生きている人々」の「負け犬根性」を描写しているとも取れます。
 作者は一族に好意的ですが、この場面だけは「怨んでばかりじゃ仕方ない」とやや批判的です。また、彼らはこの神事に際し、「土ぐも様、今年こそクーデターを!」「まだ時機ではない」といったやり取りを行いますが、これもまた形骸化した天丼であり、マジで政権を取る気はないんじゃね、といったことが暗示されます。

 そしてこの祭りの最終日、三人組は逃げ出します。祭りは土ぐもを崇拝する地元の人々と共に行われるため、この時が脱出の千載一遇のチャンスだったわけです。
 地元の村の駐在に助けを求める三人ですが、この駐在も土ぐも信者であり、「通報しますた」で脱出は失敗してしまいます。
 おかしな話です。
 そもそも一帯の村にシンパが大勢いることはわかりきったことです。彼らが拉致られたのも、最初からシンパである村人がウソを教えて土ぐも一族の里に誘導したからこそでした。
 大体、最初から彼らは上の斬首の件を持ち出され、さんざん脅されていたのです。にもかかわらず三人は何の計算もなく、ただ人々が酔っ払っている間に逃げ出しただけ。小学生離れした知恵者であるハカセが、こんな無謀な計画にダメ出しをしないことが、全く理解できません。
 また、(首切りの話を聞いていながら!)連れ戻された三人は「こっぴどく叱られるかも」などとノンキなことを言っています。
 しかし三人は裁判の結果、斬首されることに。このヘビーな展開に、挿絵師の前川かずおセンセも大慌てでコミカルな挿絵をつけて何とかフォローしようとするも、焼け石に水
 で、最終的には土ぐも様が御自ら、部下には秘密裏に三人を助け出します。
 この土ぐも様、普段は顔を見せず、上の神事では恐ろしい面を被っているが正体は美少女。物語中盤でちょっとだけ正体を隠してモーちゃんの前に姿を現し、テレパシー能力があるのでは……と匂わせる描写がなされます。
 ここで三人は晴れて下界に帰れることになりますが、堀口青年はあろうことか、里に残ることを決意するのです。
 その理由は、ここに恋人ができたからということもありますが、本人の口からは「みなそれぞれが得意な仕事をして、平等で金持ちも貧乏人もいないこの里が気に入った」と語られるのです。
「は、は~ん」と、やっぱり言いたくなりますよね。
 三人組が家族の下に戻った後、当然、堀口青年にも親がいますから、警察は三人組の話を聞いて山を捜索しますが、地元の村は口裏をあわせ、結局真相は闇の中、というオチになります。これ自体がかなり無理矢理な上に、やはり作者の土ぐも一族への傾倒ぶりを感じさせる展開です。
 しかしどうリクツをこねようと、こんな連中は極悪犯罪者集団です。
 ハチベエはラストで堀口さんを偲びつつ、土ぐもは一族に帰化したがる人間だけをさらっているのでは、だからこそ俺たちについてはミスだったと判断し、解放してくれたのではと想像します。土ぐも様がテレパシストと暗示させる描写は、上の下りの伏線として描かれたものなのでしょうが、それこそそんな言い訳は焼け石に水というものです。
 やはりこれ、オウム以降じゃ出せなかった話だよなあとか、北朝鮮がおんなじことやったこと知っても驚かねーメンタリティの主じゃねーかこいつとか、いろんなことが頭を巡るのですが。
 取り敢えず、当ブログ的には、やはりこの「土ぐも」の存在に注目したいのです。
 このキャラクターもまた、言わば『時間漂流記』の若林先生同様、この時期のSF特有の「女性の聖化」を感じさせるキャラですが、考えると彼女がテレパシストとして表現されることもまた、象徴的です。
 この「テレパシスト」という概念も当時のニューエイジ系SFが女性性に無理からに「萌え」るため、多用していたガジェットだったのですから!

 ちなみに、本作も『中年三人組』シリーズで続編が書かれているようです。
 まさかとは思いますが、土ぐも一族が「くらみ国」を名乗るとか、土ぐも様の薄い本を出した同人サークルに一族が殴り込んで同人作家を殺すとか、首を切られた三人組の死体の映像を宅和先生が授業に使うとか、それらを全て好意的な筆致で書いているとか、そういうことがないといいなあ

ズッコケ三人組シリーズ補遺

2015-02-13 21:21:07 | レビュー



 半月ほど前、『ズッコケ(秘)大作戦』について語りました。
 が、その時には専ら、子供の頃の記憶に頼って記事を書いておりました。
 これがきっかけで、ここしばらくものすごい勢いで本シリーズを再読しております。
 いや、何としたこと、この半月足らずで本シリーズを出版順に『ズッコケ山賊修行中』まで十冊読んでしまいました。
 ムツカシイ本だと一冊読むにも大変な時間がかかるのですが、児童書ならば結構なスピードで読めるようです
 さて、そんなわけで本シリーズについてちょっとまとめめいた文章を残しておきたいと思います。読みたい人がどれだけいるかわかりませんが、一応、作者の那須正幹センセの女性観を中心に、『ズッコケ三人組』シリーズについて、何度かに分けて語って行きましょう。
 今回は各作品について簡単にコメントすると同時に、前回記事の訂正、補遺をしていきます。
 後、以下は平気でネタバレが書かれていますので、知りたくない方は読まれませんよう。

『ぼくらはズッコケ三人組』
 ●メインヒロイン:荒井陽子、榎本由美子

 前回、


第一作『ぼくらはズッコケ三人組』で「美少女二人組が事件をきっかけに三人組とつるむようになった」との記述があるのですが、まさに記述だけで実際につるむ場面は描かれませんでした。


 と書きましたが、これは間違いでした。
『ズッコケ』は基本長編小説ですが、第一作目だけは例外で五本の中編のオムニバス。
 その三作目で三人組と美少女二人組(上にある陽子と由美子です)との間にフラグが立ち、四作目では五人で自由研究をする姿が描かれます。
 ただしこの四作目も「ハチベエの危機に際し、女子二人は呑気に構えて心配もせず、普段は冷静なハカセを切れさせる」といった役どころであり、五作目、そして以降のシリーズではやはりつるむことはなくなります。
 ブログなどでちらちら見る限りでは、シリーズ中盤辺りからは女子キャラの登場頻度も上がるようなのですが、しかしいずれにせよ現段階(初期十作を読み返した段階)では女子キャラは存在感が薄く、しかもどいつもこいつも「気が強く口うるさい」といったキャラづけばかりがなされていて区別がつかない、といった印象を持ちます。
 やはり那須センセ、女性がお嫌いなのかも知れません。

『それ行けズッコケ探偵団』
 ●メインヒロイン:細野久美

 前回、本作において、ハカセがホームルームで女子を論破するシークエンスがある、と書きました。
 ここはいざ読み返すと、男子(ハチベエ)側がバットを振り回して女子が怖がらせた、というのが経緯で、さすがに男子側が悪いように感じられました。もっとも、ハカセは「ハチベエはちょっとふざけただけ」と主張し、ホームルームでは「女子は男子をむやみに怖がらないよう」との結論が出されました。そう、「男子は乱暴を振るうな」だけでなく、「女子もむやみに怖がるな」とジェンダーの両価性(どっちもどっちさ)にまで、それもここまでわかりやすい言葉で、このホームルームは言及しているのです。那須正幹先生は間違いなく、日本のジェンダー論の最先端を走っていたと言えましょう。
 と言っても、以上はあくまでマクラ。本筋は殺人事件のお話であり、女性の存在感は希薄。今回のゲストキャラ、久美は一応、内面描写があり、それによって作品に深みを与えてもいるのですが。

『ズッコケ(秘)大作戦』 
 ●メインヒロイン:北里真智子(マコ)

 先のブログで単独で取り扱いました。その記述に大きな間違いはありませんでしたが、細かいことを言えば、スキー場で美少女(マコ)に助けられたのはモーちゃんではなくハチベエでした。
 また、頭からすっかり抜け落ちていたエピソードに、このマコがクラスメートの歓心を買うため、下級生を言い含めて川で溺れさせ自作自演で助ける、というものがありました。この自演がバレ、中盤以降のマコはクラスの中で腫れ物扱いになります。何というか、読んでいて気持ちのいい場面ではなく、必ずしも必要もないのにわざわざマコを悪者にするため(貧しい生活を偽って金持ちを装うだけでは、あまり責める気にはなれません)、そしてまたウソがバレるや彼女から離反していく女子たちの心の冷たさを描写したいがためだけに挿入されたかのようなエピソードで、著者の心の闇を垣間見るかのようです。

『危うしズッコケ探検隊』
 ●メインヒロイン:なし

 初見時、小学生男子の身としては、後半があんまり好きではありませんでした。
 本作は三人組が孤島でサバイバルをする話。
 小学生的にはそうしたロビンソン状況は何物にも勝るロマンを感じるものなのですが、ところが再読してみるとそのシチュエーションは中盤戦で早々に終わり、後半の「孤島に何故か生息するライオン、そして老人」の話に移っていきます。
 老人は戦後三十五年、ずっと島で一人暮らしをしていると語られます。その理由は明示されません(し、子供にとってはどうでもいいことです)が、最後に彼が家族を空襲で失っていることがちらっとだけ書かれ、要するに戦後から背を向けた老人の孤独な戦い、その終焉がこの作品の裏テーマであることがわかるわけです。
 老人はおとなしく老人ホームに入って終わりなのですが、その後のことはやはり明示されません。
『ズッコケ』シリーズには結構じいさんが登場し、子供心に作者もよほどのじいさんなのかと思っていたんですが(実際には四十ちょいくらいだったでしょうか)、本作では「大人側の事情」が極めてストイックに暗示されるのみで終わっており、好印象です。

『ズッコケ心霊学入門』
 ●メインヒロイン:ミス・グリーン、浩介の母親

 タイトル通り、幽霊話。
 どういうわけかハチベエに懐く下級生、浩介が全編において活躍し、シリーズにおいては珍しいショタキャラとして印象を残します。
 ミス・グリーンは霊媒。浩介の母親と共に「冷たい大人の女」の典型として描かれます。
 当初は怪しい洋館に悪霊が取り憑いている――というお話だったのですが、それが実は浩介の起こしているポルターガイストでは、との展開になり、そこからお話は、母子家庭で母親が仕事に出ている、浩介の寂しい心へと焦点が絞られていきます。
 オカルトの世界では「ポルターガイストは思春期の子供の不安定な心が引き起こす」とされ、それを材に当時はやった「鍵っ子」のお話が展開されているわけです。

『ズッコケ時間漂流記』
 ●メインヒロイン:若林雪子

 那須センセは歴史物もお好きなようで、本作は「三人組が平賀源内に会う話」。しかしどこぞの悪の組織のように「源内に秘密兵器を作らせる」といったストーリーではなく、筆はかなり抑揚的。直接の登場はないものの田沼意次について再三言及され、田沼を進歩的政治家として描く視点は当時としては先進的だったの何の、といったことがこの本についてのお定まりの評価のようですが、読んでいくと源内についてのエピソードは三章でやや唐突にフェードアウトし、四章(最終章)では若林先生が主役を務めます。
 若林先生は三人組の小学校に赴任してきた若い美人の音楽教師であり、その正体はタイムトラベラーでした。つまり、本作は源内の活躍する二、三章を若林先生の活躍する一、四章でサンドイッチしているかのような構造になっているわけです。この若林先生の設定も「お約束」を一ひねりも二ひねりもした興味深いものではあるのですが、同時に「少年主人公を異界に誘う美女」というこの時期のSFの「お約束」を忠実に踏襲している存在でもあります。NHKの少年向けSF番組的とでも、或いは「何かアレだろ、SFって美女がキーマンで出てくるんだろ?」感とでも言いますか。
 そう、この時期のSFは青少年向けの文化であり、「女性の聖化」と「異世界への憧憬」がパラレルで描かれているかのような、そんな童貞的な感性が濃厚であり、それが本作にも影響を与えているように思われるのです。
 これはまた、オタク第一世代の連中がフェミニズムをうっかり鵜呑みにしていまだ夢から覚めていないこととも、やはりパラレルでしょう。
 もっとも、とは言え、本シリーズが今まで、「クラスの女子」といった俗な存在はイヤな女として描いてきたことと対置させると、やはりオタク的な厭世観が、そこには濃厚に漂っているとは思うのですが。
 美女が常に異界からやってくる、そして地球人の女、しのぶが嫉妬深く気の強い女であった『うる星』を考えれば、それはわかるのではないでしょうか。

『とびたぜズッコケ事件記者』
 ●メインヒロイン:探偵ばあさん、宅和めぐみ

 テーマは「ジャーナリズムの否定」でしょうか。
 お話としては「三人組が学級新聞の記者となり奮闘」という現実的なものです。
 モーちゃんは「町内一美味しいケーキ屋はどこか」の取材でケーキを食い過ぎ、腹痛を起こします。取材のためだったにもかかわらず「デブが大食い記録を更新し、腹痛」という面白おかしい記事のネタにされ、ご立腹。言ってみれば飛ばし記事の犠牲者になってしまうわけです。
 ハカセは偽札事件をきっかけに「お金とはなんぞや。国が胴元のフィクションである」と考えます。が、結局その学術的な記事(というより論文?)が没られたことにフンガイし、代わりに掲載された(モーちゃんについての飛ばし)記事に対して「こんなのが面白いのかよ」と嘆きます(最初の面白記事に興味を失い、学術的な記事を書こうとする下りでも「あんな記事はどこぞの三文児童文学者が書いていればいい」などと言っており、笑わせます)。
 ハチベエは体育教師と担任の娘、めぐみのデート現場を粘り強く張り込むも(この子、単細胞のクセにこういう行動力には秀でています)、めぐみに妙に正々堂々とした態度に出られ、困惑します。あたふたする体育教師を尻目に、めぐみは終始冷静で、「記事を書くのは全然構わない、しかし本当の真実だけを書いてほしい」と念を押し、「自分で自分の気持ちについて整理がつかない」と答えます。そうなると「熱愛中!」とも書けず、ハチベエはここでジャーナリズムとは何か、との問いにぶつかるわけです。
 もう一人のゲストキャラ、探偵ばあさんについては、どちらかと言えば狂言回しに終始していた印象です。例えば『探検隊』のじいさんなどに比べ、遙かにキャラは薄い。
 通例ならば変人として描かれ、主人公たちをさんざん振り回した後、「寂しさを紛らわせるために警官の相手になってもらおうと探偵ごっこをしている婆さん」といった真実が明らかに……みたいな展開になるところでしょうが、そうなっては悪目立ちしすぎるでしょうし、まあ、こんなところだったのかも知れません。
 いずれにせよ「さわやかで清廉な美人」「壮健で気も若い老女」と、珍しく魅力的な女性が二人も登場する作品でもあります。

『ズッコケ探偵事務所』
 ●メインヒロイン:ハカセ(?)

 宝石偽造団とのバトル。
 活劇調で面白い反面、作品としての深みという意味ではかなり低い。
 一応、偽造団のメンバーに女性団員がいるのですが、今回のヒロインはハカセと言えるでしょう。敵の目を騙すためにハカセとモーちゃんが女装するところが、本作のクライマックスであり、最後にハチベエがハカセの女装は可愛かった、などと言って終わるのですから。子供心に「何がやりたかったんだ」と思ったオチでした。

『ズッコケ財宝調査隊』
 ●メインヒロイン:熊谷美由紀

 旧日本軍の隠し財宝を探し当てたと思ったら、北京原人の骨だったでござる、といった社会派ミステリ。
 戦時中の描写が極めて詳細だったり、骨がまさか北京原人のモノだと思わないハカセが、軍が隠蔽しようとした戦争犯罪の被害者の骨ではないかと推理する辺りがいかにも那須センセ。
 お話の中盤で熊谷美由紀がキーマンとして登場します。
 彼女は五十過ぎにも関わらず独身で、話し方は若々しく、外見も以前は美人だったことを連想させる。痩せてメガネをかけており、いかにもインテリ風の学校の先生を思わせるといったなかなかリアリティ溢れる人物造詣がなされていますが、意外にも好人物として描かれています。中学生時代の彼女の過失がモーちゃんの伯父の死につながったがため、独身を貫いているとの恋愛話が心に残り、本作のヘソとしての機能を果たしています。

 ――さて、簡単に見て参りましたが、以上のような感じです。
 実はこの後、シリーズ最高傑作とも言われる『ズッコケ山賊修行中』が構えているのですが、これについては少々字数を取って語りたいと思いますので、今回はこんなところで。

ズッコケ(秘)大作戦

2015-02-06 22:28:04 | レビュー

 ニコブロの方では本年最初の記事が以下でした。
 正直、需要がどれだけあるか、わからないのですが……。

*     *     *


 早いもので、今年ももう僅か十一ヶ月と二十日を残すのみとなりました。
 みな様、年越しの準備はお済みでしょうか。
 ……リクエストがありましたので一応、歌丸師匠のネタ、やってみました。

 さて、そんなわけで今年初のネタは『ズッコケ三人組』です。
 みなさん、ご存じでしょうか。本作は児童文学界では最大の売り上げを誇るミリオンセラー。イラストレーターに人気の児童漫画家を起用する戦略はこの時期、かなり先進的だったはずで、今にして思えばラノベの元祖、と言えなくもありません。
 タイトルからもわかる通り、主人公はハチベエ、ハカセ、モーちゃんの小学生男子三人組。
 それぞれに「意」、「知」、「情」の役割を受け持たせるという鉄板の布陣で五十巻を数える長期シリーズになるまで愛された作品です。
 そんな本作ですが、比較的近年に半年ほどアニメ化しただけで絶頂期にはあまりメディアミックスに恵まれず、そのせいか昨今では比較的地味な存在になってしまっています。ぼくも少年時代に、それもいくつかの作品を読んでいただけで、殊更本シリーズのマニアというわけではありません。
 なのですが、最近ふと表題にあるシリーズ第三作目、『ズッコケ(秘)大作戦』について思い起こしました。
 作者の那須正幹氏、かなり女性に対して辛辣だよなあ、と。
 考えて見ればシリーズ第二作目、『それ行けズッコケ探偵団』でも、冒頭でハカセが口の達者な女の子を論破する、という見せ場がありました。男子と女子の、遊び場の占有権か何かを巡る争いで男子が勝ったことを、優等生系女子がホームルームの場で不当に遊び場を奪われたと主張。しかしハカセが女子の方こそ不当であったと見事に論破するという展開で、痛快だったことを覚えています。那須氏、口のうまい女子に虐げられている小学生男子の心理をよくわかってますよ。
 そんな『ズッコケ探偵団』を読み終え、あとがきを見ると次回は恋愛ものとのこと。
 何だか甘酸っぱい期待と共にその次回作、『(秘)大作戦』を買い求め、ページをめくったら――。
 さて、ここからはネタバレです。知りたくない方はこれ以上、読まれませんよう。

 ごく簡単にあらすじを述べますと、三人組のクラスに美少女が転校してきて、モーちゃんを初めとしてみな、彼女に好意を持つところから話が始まります。もう少し詳しくお話ししますと、その前振りとしてスキーで転んで往生しているモーちゃんを、颯爽と現れたその美少女が助け、後日、運命の再会――という心憎い導入部が用意されているのですが。
 です、が。
 結論から言いますと、その美少女は「男たちを翻弄する悪女」でした。
 その子の話す華やかな実生活はみな、ウソ。実は彼女は、借金苦で夜逃げをして回っている家庭の子供であったのです。
 いえ、「悪女」ではありませんね。
 そのウソが「最後の最後に明かされ、一同びっくり」というオチであれば、この子も「男を翻弄する悪女」、「ビッチ」を名乗れたかも知れません。
 しかし、彼女が虚栄心からつくウソは、みな中盤でバレてしまいます。
 物語後半、彼女はまた夜逃げをしなければならなくなるのですが、それでも主人公たちには「私、悪のスパイ組織に狙われているの」と見栄を張ります。主人公たちはウソを承知で女の子のために活躍し、大人たちからお説教されるという泥を被る、というのが本作のクライマックスです(具体的なことは忘れましたが、離れ離れで暮らしている父親にひと目会わせてやるために、彼女と共に修学旅行を抜け出し、護衛を務める――といったような話じゃなかったでしょうか)。
 女の子のために泥を被る、修学旅行をエクソダスし、子供だけで小旅行を敢行する――小学生男子にとってこれらがいかに英雄的な、ドキドキワクワクの冒険であることか。本当、子供の心理を熟知してますよ、那須センセ!
 しかし……それは最後までその美少女が語る身の上話が本当であるか、それとも最初からウソなどつかず、不幸な身の上の少女として語られていれば、の話です。
 エピローグ。その少女から手紙が届くのですが、そこでも彼女は「スパイ組織の目を逃れて云々」などと書いているのです。彼女一人だけは、ウソがバレていないと信じて。
 この少女にベタ惚れのモーちゃんはともかく、ハチベエもハカセも中盤からは冷淡で、「よくこいつ、俺たちの住所がわかったな」とハチベエが漏らすと「仲よしのスパイ組織に教えてもらったんだろ」とハカセが突き放したようなことを言い、話は終わります(スパイ組織は敵対者どころかお前自身の生み出したもの、お前の子分だろう、というこのニヒリズム!)。

 あとがきには「ウソつきの子を、それもウソをつけばつくほどその子の本質が浮かび上がってくる子を描きたかった」とあるのですが、或いは深読みをするならば、「男は女に萌えの心を踏みにじられてなお、そのウソに騙されてあげ、彼女のために尽くさねばならない敗戦処理投手だ」とでもいった諦念こそが、この物語のテーマなのかも知れません。
 もし凡百の「女の子に憧れていたが彼女らも人間なのだと知り、少年たちはほろ苦い経験と共に一歩大人への階段を昇った」みたいな話にしたければ、美少女キャラを「裸の女王様」にする必要はなかったのですから。
 本書のテーマは、「ホモソーシャル()の勝利」です。
 例えばですが、仮にこの美少女の「女子力」、即ちウソをつくスキルがもう少し高ければ、この美少女は三人組の「サークルクラッシュ」というミッションに成功していたかも知れません。しかし彼女のつくウソはあまりにも稚拙であり、三人組はそこで冷めてしまった。
 本人だけが見ているこちらが恥ずかしくなるほど高慢に「いい女」として振る舞い、こちらがアゼンとしている様すらも「自分に圧倒されているのだな」と思い込み、いよいよのぼせ上がるが、見ている側は居たたまれなくなるばかり……目下、ネットのあちこちで見られる光景ではないでしょうか(まあ、彼女らの困ったところはそれでまだなお一定の信者を抱えているところですが)。
 三人組の「ホモソーシャル()の勝利」は、それはそれで彼らが小学校高学年であり、ある意味自然なことです。この年頃は男子も女子も、自らのジェンダーアイデンティティの確立のため同性同士で集まる、「ギャングエイジ」と呼ばれる世代なのですから。
 しかし成人してよりも男性に「ホモソーシャル()」を強いるほど、成人女性の「女子力」が低下しているとするならば、それはそれでちょっとまずい話なのではないでしょうか……?

 ――以上、子供の頃に読んだ記憶に頼って書いたので、細かいところで間違いがあるかも知れませんが、ご容赦ください。いえ、レビューブログや評論本なども読んだので、そこからのフィードバックもあるのですが(ラストのハカセとハチベエのセリフはそこからのものです)。
 ブログのレビューを探す内には、やはり「こんなギスギスした話でいいのか」といった感想も見つかりました。そんな中には、




那須正幹には自身の女性蔑視・女性嫌悪を露骨に作中に表してしまうという悪い癖があります。


 といった記述のあるブログもありました。
 果たして作者の中に「女性蔑視」の心理があるかどうかは、ぼくにはわかりません。
 上に書いたように美少女を「裸の女王様」にしてしまうその辛辣さは、確かに女性への「諦念」で満ちているとは思うものの、それは「蔑視」ではないでしょう。
 むろん、フェミニズムに倣って「ホモソーシャルな関係性も、女性に対するいかなる悪感情も、その全ては許されざる女性蔑視である!」とするのであれば、それは確かに「蔑視」となるのでしょうが。
 先に「本作は今では地味な存在だ」と書きました。メディアミックスに恵まれない、とも書きました。
 これは完全に想像なのですが、それは一つには、本作がホモソーシャル()だから、換言すれば徹底して「男の子視点」で描かれているからではないでしょうか。
『(秘)大作戦』に登場した美少女はストーリーを見ればわかるように完全に一作のみのゲストキャラで、またその存在は三人組から見た「客体」として描かれます。
 いえ、シリーズに渡って登場するクラスのマドンナ的な美少女キャラもいるのですが、それもあくまで客体として描かれるのみで、例えば怪事件を前に美少女キャラも三人組と行動を共に……といった展開はほとんどなかったように思います(第一作『ぼくらはズッコケ三人組』で「美少女二人組が事件をきっかけに三人組とつるむようになった」との記述があるのですが、まさに記述だけで実際につるむ場面は描かれませんでした)。
 翻って、何作目かでは、普段は三人組を遠巻きに見下している女子が、何らかのきっかけで三人組に興味を持ってこちらに歩み寄ってきた……といった描写があった気がします。逆に言えばその程度のことが貴重であるくらい、この三人組は女子と距離が遠いと言えるのです。
 しかしそれは、繰り返すようにギャングエイジの少年にとっては極めて自然なことです。以前も述べた通り、フェミニストは『ドラえもん』をしずかちゃんを客体として描いており許せないと糾弾しますが(源静香は野比のび太と結婚するしかなかったのかhttp://ch.nicovideo.jp/hyodoshinji/blomaga/ar537876参照)、しかしそれは『ドラえもん』があくまでのび太を主人公として、男の子の視点で描かれる作品である以上、当たり前なのです。
 それでもマドンナ役を物語世界に登場させるため、しずかちゃんは「何故か」ジャイアンやスネ夫と共に、空き地の土管の前にいる。これは『ドラえもん』が子供社会を戯画的に描いているからで、そこをもう一歩リアリティを持った描写にするならば男子と女子があまり接点を持たない、本シリーズのような描写にならざるを得ないのです。
 しかし、テレビメディア的にはそんなホモソーシャル()な世界観は女子のファンを呼び込みにくく、アニメなどにするには利が少ない、というのが当時の判断だったのではないでしょうか(近年のアニメ化はいささか時機を逸していた、と上に書きましたが、ウィキペディアによると案の定、女子キャラクターの出番が増やされていたそうです)。
 その意味で、『ズッコケ』はフェミニズムよりも前に、商業的判断で「黒歴史」化されたのだ、といった言い方も、できなくはありません。

 さて、件のブログについて、もう一つ興味深い記述がありました。
 今まで「現在では地味な存在だ」と書いてきた本作ですが、実のところここ十年、リメイクがなされているのです。四十代の三人組が活躍するというお話で、その名も『ズッコケ中年三人組』シリーズ。こうしたリバイバル企画がなされること自体、児童文学というジャンルでは恐らく前代未聞で、本作の人気を物語っています。が、しかし同時に「オッサンになった少年キャラクターを見たい人間がどこにいるんだ」との疑念も、湧かないではありません。
 事実、このシリーズには『劇画・オバQ』を思わせるとの感想が目立ちました。
『劇画・オバQ』は「十五年後、オバQが正ちゃんの下に帰ってきた。しかし既に大人になった正ちゃんたちとの間には埋まらない溝が生まれていた」という切ない話ですが、読み切りの短編であったため、番外編の、極端に言えばウソの未来であると考えられなくもないものでした。それに対し、中年三人組シリーズは去年で十作を数え、本年には新シリーズ「熟年三人組」の開始が予定されているという、本気度の違う正統派の続編。
 しかも、そこでは本来の「三人組」の後日談が描かれることもあって、いささかファンたちは複雑な心境でこれに接しているようです(『(秘)大作戦』の美少女も再登場する話があるそうです)。
 そんな中、上に挙げたシリーズを通し登場する美少女キャラ、荒井陽子が「中年三人組」でハカセと結婚する、というエピソードがあるのです。
 そこだけ切り取ればめでたい限りの展開なのですが、この荒井陽子は成人してよりはキャリアウーマンとしての道を歩み、しかしそのために行き遅れたという設定とのこと。
 先にも挙げた




那須正幹には自身の女性蔑視・女性嫌悪を露骨に作中に表してしまうという悪い癖があります。


 との評は本作に付されたものであり、レビューは




自立した女性として生きていた彼女は、その懲罰としてハカセごときと結婚されられてしまったのです。


 と続きます。
 表れているのは、ハカセを見下す、このブロガーの露骨な男性蔑視・男性嫌悪のような気もするのですが。
 むろん、本作については未読なため、勝手なことは言えません。或いはどう考えても理不尽な主張が、そこでなされていたのかも知れません。
 ……というわけでふと、今年の目標として「ズッコケ三人組シリーズを読破する」ことを思い立ったのですが、どこまで行けるかは未定です。何しろ問題の作品、『ズッコケ中年三人組age47』を読むには、その前に五十六冊を読破しなければなりません……。
 果たしてどうなりますことやら……。