前回は金田澁澤両師匠の対談に対するツッコミだけで終わってしまいました。
今まで(その1)(その2)(その3)と続けてきて、それぞれ「男性学」という宗教団体の「一般信者」、「教祖」、「ご神体」のお言葉について扱うという趣向だったのですが、最終回の今回は「ご神体」の続きと、後、最後にまとめに代わるような「一般信者」の「信仰告白」を採り挙げて終わりたいと思います
そんなわけなので初めてこられた方はまず、先行するエントリお読みいただくことを推奨します。
因みに今回、この『現代思想 男性学の現在』という一冊の本を指す場合は「本特集」、それぞれの記事を指す時は「本稿」、そしてこのブログ記事は「本エントリ」と表現することで区別しております。
また、男性学の研究家を男性学者と書くと「男性の学者」を指しているみたいで紛らわしいので、「男性学」者と表記します。
○貴戸理恵 生きづらい男性と非モテ女性をつなぐ
え~と、タイトルを見てもわかるように、「非モテ男性の問題を、女性である自分に引きつけて語る」ことが試みられています。
前回の金田澁谷両師匠の対談は男性への上からのお説教という感じでしたが、本稿は一応、女性自身を語ることが想定されています。想定されてはいるのですが……。
い、いえ、貴戸師匠、フェミニズム寄りの論者にもかかわらず、わりといいことを言っているという印象を持ちました。「女の生き難さは往々にして結婚や出産で落ち着く、これは女性が自分の肉体性というものに多くを依っているからだ(大意)」といった指摘がなされるなど。要するにフェミニズムをつぶして女がとっとと結婚出産するようにすれば女の(そして男の)非モテ問題は解決するよってことなんですよね。
ですが、冠されたタイトルに反して、延々金原ひとみ師匠の援交ケータイ小説みたいなのが紹介されるばかりで、苦笑。非モテ女性の話を出そうとして出てきたのがせいぜいそれってのが、もう語るに落ちています。見るとこの人、ずっと金原師匠の評論をなさっていたそうで、想像だけどあんまり関心のない仕事を引き受けて、自分の専門分野に(無理からに)引きつけて語っちゃったんじゃないかなあ。
時々話題にすることですが、『電波男』が流行した時、出版社は『電波女』(的なものを著すことのできるオタク女子作家)を探したが、見つからなかったといいます。(本稿が明らかにしたように)女性の方が男性より有利なため、語りようがないという側面もあるものの、一方では前回書いた女性の虚栄心、言ってみれば「ケツのまくれなさ」が影を落としている面もあります(そのしばらく後、オタクのイメージがちょっとだけポップなものになるや『801ちゃん』が登場したのも、ご存知の通り。ガガガ)。
しかし、そうした「ケツのまくれなさ」のため、女性たちは「フェミニズム」というモンスターを生み出し、男性のみならず自分自身をも苦しめることとなってしまいました。
その実況中継とも言えるのが前回の座談会であり、その「ケツのまくれなさ」を如実に表しているのが、本稿だったわけです。
あ、この人も杉田師匠をやたらと称揚なさっています。
○森山至貴 ないことにされる、でもあってほしくない――「ゲイの男性性」をめぐって
タイトルから見てもわかるように、ホモの立場からの文章なのですが、正直、難解で意味の取れない部分が多いです。森山師匠、「ホモ独自の男性性」というものがあるはずだ、といったトピックスに延々こだわっているのですが、何でそんなことにこだわるのかわかりません。
例えば、「日本人に特有の男性性」というのは想定し得るでしょう。男言葉で「○○だぜ」と言うとか。しかしそれも「男は強い」という普遍的なジェンダー観に紐づけされたものであり、別段、特筆するようなことでは全然ないないわけです。
もう一つ、驚き呆れるべきは「ベアバッキング」について。これは「ときにはHIVウィルスが感染するのも厭わず、むしろその危険性にこそ快楽を感じ、またえり好みせずに他者の精液を受容しようとさえする(122p)」というもの。実は以前からよく聞くハナシだったのですが、正直、ぼくとしては都市伝説というか、ネット上のホモヘイターによるデマの可能性を疑っていたのですが、こうも明確に実際にあるのだと言明されると言葉を失います。非常に言いにくいことですが、現状ではエイズの拡大はホモに寄るところが大きいと言うしかない*1。そんな現状でこれはまずかろうとしか言いようがありません。
しかし、はっきりと異性愛男性との差異を表明し、挑発的であるベアバッキングの文化すら、むしろ異性愛男性の「男性性」とそう変わらない特質を持ってしまっている。ベアバッキング研究の第一人者であるティム・ディーンは次のように指摘している。
ベアバッキングの文化が愛国主義的文化と同質の倫理を保持(し、かつベアバッキングの実践者が軍国主義のエロスを受容)するかぎりにおいて、ベアバッキングは擁護されうる。(Dean2009.58 訳は引用者による)
(122-123p)
ベアバッキングの文化が愛国主義的文化と同質の倫理を保持(し、かつベアバッキングの実践者が軍国主義のエロスを受容)するかぎりにおいて、ベアバッキングは擁護されうる。(Dean2009.58 訳は引用者による)
(122-123p)
一応、念のために行っておきますが、上段は森山師匠の文章、下段は師匠の引用しているディーン氏とやらの文章です。
……といったところで、師匠が何を言わんとしているのかわからないと思いますが、要は「ベアバッキング実践者は「挑発的」なのでエラいと思ったがネトウヨだった、死ね!!」と言っているのです。いや「死ね!!」とは言っていませんが。しかし、最終的には否定しているとはいえ、まず「ベアバッキング」を肯定から入るとは恐れ入ります。この人、仲間がバタバタ死んでも構わないんですかね。いや、今はエイズでは死なないんでしょうが。しかしこれではホモ雑誌の編集長が男児へのレイプを称揚しても、それをホモやフェミやリベが批判することは期待薄……あ、いやいやいやいやいや(リンクと本文とは一切関係がありません)。
ともあれここからは、「男性性」という言葉には「ネトウヨ」と同じ(「私に逆らう者」という)意味しかないことが極めて明瞭に見て取れます。
正直、意図の読めないことだらけの本稿ですが、師匠はこの「ホモ独自の男性性」について、最後に「それを否定したいからこそ明確にしたいのだ」などと言って終わります。何じゃそりゃ、って感じです。師匠は「ベアバッキング」とやらが「愛国的」でさえなければ好ましいものであるかのように言っているのだから、そうなると「ホモの男性性」はよきもの、というリクツのはずです。
以前も指摘したように、浅田彰師匠は「ホモとは男性性を捨てた者である、だから、ヘテロであっても男性性を捨てた勇者は広義のホモだ」みたいなバッカみたいなことを言いました。この種の人たちの世界では、ホモは男性性を捨てたジェンダーエリートとして立ち現れます。森山師匠も(本特集の書き手全員がそうであるように)そうした言説の影響下にあるはず。つまり感情のレベルでは師匠は「男性的」でありたいと願っている(ここには「ホモは女性的」といった俗説への反発もありましょう)ものの、「男性性」はとにもかくにも悪であるとの価値観も、内面化している。だから「ホモにも男性性はある(ヘテロのそれとはモノが違うのだ、ということにしたい理由がわかりませんが、やはり一般的な意味での男性性を見出しにくかったのかもしれません)」との仮説を立て、しかしそれでも叱られそうなので取ってつけたように「ホモの男性性も否定する」と言ってみた。師匠の本意は、そんなところなのではないでしょうか。
*1 エイズ・性感染症の近年の発生動向
○稲垣諭 男性原則の彼岸へ――男の現象学はどこまで可能か?
恐らくこの人、シスヘテロ男性なのでしょうが、掲載順もほぼ最後のせいで最後に読んでしまいました。
「一般信者」→「教祖」→「ご神体」と出世魚のようにランクアップしてきた本エントリですが、最後の最後にもう一度、「一般信者」の生のお声を届けよう、ということで、レビューもこれを最後に持ってくることにしました
つっても、内容はもう耳にタコからイカからカニからエビからが大漁になるほどに聞き飽きた、「とにかく男が嫌いだ」の繰り返しですが。
いつからか人間の男という性は静かに絶滅すればよいと思うようになった。力点はあくまでも「静かに」であり、オセロの盤上が知らずに塗り替わるように消滅することである。それが生物的意味なのか、社会的意味なのかよく分からない。ただホロコーストのような暴力だけは回避せねばならない。
(202p)
(202p)
――はい、のっけから、うわ言の第一声から、これです。
敢えて言えば本稿自体が男への暴力そのものだと、ぼくは思いますが。まさかこの人、「ポルノはヘイトスピーチ(キリッ」とか冗談でもおっしゃってないでしょうなあ。
もし男のいない世界を有史の最初期から改めて再生できれば、これまで行われた戦争や虐殺、犯罪、性被害といった暴力と不法の実態と総数がどうなるのかの対照実験を行うことができる。どこまでが男であることの影響なのかを炙り出せる。(203p)
「誰か俺のおならを百万円で買ってくれたら、会社行かなくて済むのになあ」と言ってるのとこれと、どう違うんでしょう。てか、この人は会社にも行かずにこういう寝言を並べてカネをもらってるわけだから(大学には行ってるか)、何というか、まあ、夢の体現者ですな。ことに、カネにならないブログをおびただしい手間と暇をかけて作り上げている身からすれば。
稲垣師匠はドヤ顔で、「女がセックスストライキをして、男に戦争をやめさせた」というギリシャのおとぎ話を持ち出してきますが、史実を鑑みれば、別に女性は常に戦争に反対していたわけではありません。それにみなさんもおわかりじゃないでしょうか、ツイッターを見るに、もし女が世を支配していたら今よりも何百倍も凄惨な戦争や虐殺、犯罪、性被害といった暴力と不法が世を席巻していたであろうことに。
稲垣師匠に限らず、「男性学」者はただひたすら「男の暴力性」とやらを採り挙げ、大騒ぎします。師匠も暴力的な女、レイプをする女もいようが、それは「統計的に測定誤差内に収まる例外(208p)」であるとします。もちろん、それ自体は正論です。「男/女は能動/受動的」というジェンダー差は、確かにあるでしょう。前者が暴走すると「能動性」は「暴力性」となり好ましくないが、しかしそれもよきことを行う行動力と表裏一体なんだから、その全てを否定すべきではない。誰だってわかっていることです。しかしこの原則を理解できないフェミニズムというカルトの構成員は、「男は悪」という雑な図式に逃げ込みます。
一方、師匠はそれに続き「痴漢の冤罪問題に関しても同様である。」と実に奇妙なことをおっしゃっています。「痴漢冤罪」はこれらと異なり「女の受動性の暴走」という名の悪であり(ちなみにこれを専門用語で「女災」というのですが)、別に論じるべき問題であるのに、師匠はそこがおわかりでない。恐らく「男が悪」である以上、「痴漢冤罪」など取るに足りない例外事例だと言いたいのでしょうが。でも、この人『男性権力の神話』を読んでいるのだから「レイプの訴えの六割は嘘」ということを知っているはずなんですけどね。
師匠は自らの男性性を憎むナイーブな青年の例を挙げます。男たちの飲み会などでのマッチョな様子、下ネタを嫌い、マスターベーションすら罪悪感を持ってやろうとしない。そうした男の野蛮さに対する嫌悪感そのものは共感できます。
また、本稿には渡辺恒夫、ファレルを比較的好意的に紹介する箇所もあります。渡辺教授は時々書くようにオカマを研究し、男には女の身体性(というか、女性が身体性に敏感であること)に対する羨望があると説いた人物であると同時に、男の生命が蔑ろにされていることをも、指摘した人物。ファレルはそれをさらに膨大なデータを挙げ、緻密にレポートした人物です。少なくとも本特集では、(前者もそうですが、ことに)後者については必死になって頬かむりし続ける論者ばかりなので、ここは特異です。
他にも師匠は「世界的に男の自殺率が女性より高く、平均寿命は女性よりも短いこと(206p)」、「暴力の被害者になる総数も男性の方が女性より三倍以上多い(210p)」こと、「何かあった際に「女」、「子ども」、「老人」が優先的に守られるのがどの社会においてもデフォルト的な慣習である(210p)」ことなどを指摘してもいます(もっとも最初のものはルソーが「男の方がエラい(大意)」と言ったことへのカウンターとして持ち出してきたものではありますが)。
また、そもそも人間とは猛獣に駆られる被食者であったこと(210p)、今時の男は草食系になってきていること(211p)なども指摘されています。
大いに賛成です。
前者からは「この世で生きる以上、男の能動性を全否定しても始まらない」、後者からは「でも豊かになったからその発露の仕方が洗練されてきた、いいことじゃん」以外の論理を展開させることは、困難です。
いいぞいいぞ、と思っていたら。
しかし本当にそうか。懸念はまだある。トランプ政権しかり、イスラム圏しかりである。(中略)妊婦や女性専用車両等に対する執拗な抗議、(中略)インターネットでの女性叩き、これらに一定数の女性が関与していることも当然あるが、それでも男の暴力性の発露であることに違いはない。
(211p)
(211p)
はいお疲れー。
相手を追いつめるだけ追いつめておいて、少しでも逆襲に出たら「やはりあいつらは根っから攻撃的な劣等種族だ」などと絶叫する、それが男性学です。
後者(男性の草食化)はあっさり否定され、前者(人間は被食者である)に至っては言いっ放しで終わっています。まあ、前者について敢えて忖度すれば「もう被食者じゃないんだから、暴力性を捨ててもいいじゃん」と続けたかったのかもしれませんが。
これ以降、とにかく女性の身体性(というか身体性に対する敏感さ)への羨望がこれでもかと延々延々延々延々と語られます。繰り返すようにぼくはそこについては否定する気はないのですが、終盤にかけては「性生活のパートナーも二次元キャラやアンドロイドでも当然構わないし、そうした未来の到来は存外早いと思われる。(214p)」などといったテンプレ*2に並んで、「女性がイルカを出産し、育児を開始する」、「マグロやサメを産んで自分たちで食すればいい(それぞれ214p)」といった女性の手によるキモすぎるジェンダーSFみたいのを称揚し、以下のようにおおせです。
男性の出産可能性は村田沙耶香の『消滅世界』や『殺人出産』でも描かれているが、こうした女性の作家やアーティストが描く未来への耐性を、男性は今から養っておく必要がある。既存の倫理観を堅持するオラつきを弱体化し、受け入れる基体となる身体を作るのである。
(214p)
(214p)
何でそんなことをしなきゃならんのか、さっぱりわかりません。
わかるのは師匠の目的は「既存の倫理観」の破壊であるという、その一点だけです。
実のところ中盤ではY染色体が劣化してるだの何だのという話題を持ち出してもおり(参考文献にはピンカーの名もあり、彼ら彼女らの多くが理系嫌いな中、異彩を放ってはいます)、「人間のオスはY染色体とともに近い将来、耐用年数を迎える可能性すらある。(211p)」とも指摘しているのですが、にしてもそんな切迫した状況なんですかね。これら生物学的知見にどれだけ信憑性があるのか、ぼくにはわからないのですが、師匠は以上のような理由から「女性軍の勝利」を固く信じていらっしゃるのでしょう。
女性がさまざまな効用から生物学的な身体をコントロールしているのなら、男性も性欲や攻撃性を薬剤でコントロールすればよい。見境のない他者への性欲が緩和されれば、単純に性被害を減らすことにもなるし、アダルトコンテンツを見ている時間を有効活用できるメリットにもなる。
(215p)
余計なお世話です。それより腐女子とホモがウザいので何か注射して、あいつらを「治療」してください。
こうした選択肢は既存の男を降りることでしか見えない世界であり、その経験の裾野には豊かな余白が残されている。にもかかわらず、そうした選択を辺境に起きる小さな問題として片付けようとしてしまうとき、その欲望こそがすでに耐用年数を越えた男の欲望かもしれないことを自覚してみる必要がある。
(215p)
(215p)
本稿の最後の文章です。
上のような出産のテクノロジー化についての下りを読むに、師匠は女性のジェンダーをも解体しようとしているのかもしれません(これ自体はサイボーグフェミニズムみたいなのが語る定番で、独自性のある主張ではありません)。
が、やはり見ていて感じるのは、何が何でも男性そのものを解体したいという昏い情念。
前回の金田澁澤両師匠の対談は、二人が「男たちが女を欲しがっている、迷惑だ、迷惑だ」と繰り返す度に、先方の男への飢餓(正確には「男に求められるワタシ」という幻想)ばかりが感じられる、という奇観が展開されていました。
同様に本稿では(否、あらゆる「一般信者」の論文では)「男性性を受け入れられないキヨラカなワタシ」と繰り返される度に、先方の「男を戮したいというマチズモ」ばかりが感じられる、という奇態が観察されることになってしまいました。
時々持ち出しますが『神聖モテモテ王国』という漫画があります。宇宙人(……???)と眼鏡の坊主頭というどう転がってもモテそうにない二人組が毎回ナオンをナンパしては失敗するというギャグ漫画なのですが、この宇宙人、ファーザーはナオンにモテたいと思う一方で男というものを激しく憎んでいます。相棒の眼鏡坊主、オンナスキーが何かの間違いでモテそうになると、その殺害を企む始末です。
さて、この稲垣師匠の名言の数々をファーザー、或いはまた勝部元気アニキが書いているものだと想像してみるといかがでしょう。驚くほどぴったりくるのではないでしょうか。
我こそはただ一人、時代の最先端に到達して「男はその存在自体が消えるべき」とまで気づいた存在なり。女性様の一番のお側にいる存在なり。しかし俺以外の愚かな男どもはそうした「真理」に気づかぬまま、滅びていくだけなのだ。
そう、前回も申し上げたカルトの教祖様が、自ら抱える全人類への憎悪に一切の自覚を持たないまま、「新世界の女神」となる様を夢想しているように、彼ら「男性学」者たちもまた、自らのおぞましい憎悪に対する内省を一切欠いたまま、ただ女神さまの命に従い、そして自分の中の殺人衝動に従い、弱い者を殺し続けているのです。
*2 最近、幾度も繰り返していますが、これはフレンチとウナギを食いながらの「貧乏人は牛丼食ってろ」論と全く同じであり、許容できません。しかし、果たしてオタクが、アニメキャラそっくりのメイドロボットを与えられたら満足するか、については詳述する必要がありそうです。
結論から言えば、そんなことはありえないのです。というのは、「まず、アニメキャラそっくりのロボット」が不気味の谷を越えて製造できるものかどうかが大きな疑問なのですが、それも含め、ぼくたちが美少女キャラに萌える時、そのルックスに即物的に反応しているわけではなく、(そのキャラクターに与えられている内面に萌えていることもまた、もちろんですが、そこからさらに)世界観そのものに萌えている、とでも考える他はないからです。ヴァーチャルユーチューバーに今一萌えないとして、「それは彼女が、リアルな人間のようなしゃべり方をするからであって、物語中のキャラクターのようなしゃべりではない萌えキャラというものに違和を覚える」と分析していた人がいましたが、これはなかなか卓見だと思います(むろん、オタクの中でどれだけキズナアイに違和を覚える人がいるのか、ぼくにはわかりかねますが)。