兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

柴田英里「新緑のアクアリウム──ジャニー喜多川の少年愛」を読む

2022-09-25 19:13:42 | 弱者男性

 

『Daily WiLL Online』様でオープンレターのついての記事が掲載されています。
 一応、このオープンレターの(ネット上の)公開は終わっているのですが、何か論文とかでチクチクと呉座氏を攻撃しているようで……。

「オープンレター」問題とは何だったのか~フェミニズム=「強権体質」の象徴的事象か


 どうぞ応援を、よろしくお願いします。

 さて、ここしばらく、『薔薇族』の元編集長である伊藤文学を批判をしてきました。
 ペドファイルは幼い子供とのセックスを正当化する傾向がある、そして伊藤もまたそうした病的な考えを流布し、児童への性的虐待を推奨してきた異常な人間であると。
 フェミニストもまた、伊藤とタッグを組み、児童への性的虐待を推奨してきた異常な人間たちです。
 その具体例について、当ブログをご愛読の皆さんはよくご存じかと思いますが、ここではちょっと新ネタを。
『ユリイカ』「2019年11月臨時増刊号 総特集=日本の男性アイドル」における柴田英里師匠の言をご覧いただきましょう。
『ユリイカ』と言えば、金田淳子師匠や加野瀬美友師匠といった当ブログでもおなじみの香ばしい人材を抱えた雑誌。『現代思想』と版元を同じくする極左の宝石箱であり、近年はことさらに(BLやオタク文化を含め)サブカルチャーをネタにしては若い世代に媚びを売っている感があるのですが、本特集における柴田師匠の記事、タイトルを見るだけでもヤバいムードが漂ってきます。
 ではどの内容は果たして、いかなるものでしょうか……?

ジャニー喜多川が同性愛者・少年愛者であり、彼の事務所に所属する男性タレントに対して猥褻な行為を行っているというウワサは、一九六〇年代から散発的に報道されてきた。
(226p)


 柴田師匠は記事の一行目から、まずこの問題に言及します。
 なかなか攻めてると思いますが、まあ、タイトルからして避けて通るわけにもいかない点ではありましょう。
 ぼくが前回ご紹介した北公次の本も紹介されていますが、それに加え同主旨の暴露本がそれぞれ違う著者(いずれも元ジャニーズメンバー)から七冊ほど出されていることがあどけなく語られ、ちょっと驚きます。
 そもそもジャニーは二十年前、自身の少年への性的虐待を「文春砲」によって告発されています。それに対しては名誉毀損の民事訴訟を起こしているのですが、裁判の場に元ジャニーズの二名が証人として出廷し、性的虐待について語っています。2003年に東京高裁がジャニーの行為を事実として認めており、要するに(案件としてはジャニーの性犯罪を裁いたものではないとは言え)裁判所が彼の児童への性的虐待を事実と認定しているのです。
 以上は柴田師匠の記事にも書かれているのですが、師匠はその後、以下のように続けます。

ゆえに、ジャニーが所属する男性タレントに対して猥褻な行為を行っているというウワサは、荒唐無稽なデマとはいえない。と同時に、人間は記憶を都合良く書き換える生き物であり、能動と受動、同意と不同意は明確に線を引けるものでもない。すでにジャニー がこの世を去った今、真実は藪の中であり、ウワサはあくまでもウワサである。
(227p)


 れれッッ?!
 たったこれだけの文章で、前半と後半が全く空中分解しています。
 ま……まあ、そりゃ裁判所のジャッジが絶対にいついかなる場合も100%正しいとは限りませんが……ウワサはあくまでウワサって……。
 また「能動と受動、同意と不同意は明確に線を引けるものでもない。」とは言いも言ったりです。
 能動と受動って、ひょっとして師匠は幼い少年が薄汚い老人を無理矢理レイプしたという可能性を考えているんでしょうか?
 同意と不同意ってアナタ、確かに仮に未成年でも日本では13歳以上が成功同意年齢とされており、一応、それ以上の年齢で同意があれば、合法とは言えましょう(当時は都条例による規制もないでしょうし)。しかしジャニーズJrなんて12歳くらいの子もいるし、全てが13歳以上の子供との案件だったんでしょうか。
 それに、師匠は被害者が女の子でも同じことを言うんですかね。

そもそも、「同性愛」「少年愛」「ペドフィリア」といっても、時代や国によって扱われ 方はかなり異なり、過去の常識が現在の非常識、現在の非常識が未来の常識となるように、激しく移り変わっている。
(227p)


 またペドとホモを混同して正当化しています。
 これ以降、柴田師匠は戦国時代や古代ギリシャでは少年とのセックスが許されていた云々と述べ出しますが、そうした前近代の話を持ち出して自分たちを正当化するのはペドの常套手段です(同じ口で「昔はホモが犯罪だったぞ」と真顔で言っているのだから、聞かされている方は頭がおかしくなりそうですが)。

近年、LGBTの急速な認知と社会包摂と平行して、ペドフィリアの排除が進行して いるが、一九九〇年代初頭までは、少年愛と男性同性愛の権利運動は共に活動していた。
(227p)


 松浦大悟師匠は幾度も幾度も「1990年代、ホモレズ団体のILGAが少年愛者団体NAMBLAを排除した」件を採り挙げ、ぶち切れていますが、これはその件を逆に表現したものでしょう。しかし90年代以前も具体的に排除していなかっただけで、ホモ側も少年愛者を積極的に仲間だと思っていたわけじゃないと思うのですが。
 柴田師匠の言い訳は、お定まりの苦しいものばかりです。明言はされていませんが、「成人と子供とのセックス」を(ホモ限定でも)よきことだというのが師匠のホンネなのではないでしょうか。

 さて、そうしたよくわからない言い訳の後、話はアイドル語りに移っていきます。
 ジャニーズタレントが中性的だの何だの。
 シブがき隊の歌とか、典型的なチンピラソングですけどね。
 宝塚の少女たちが少女の性から逃れ切れていないのに対し、ジャニーズの少年たちは少年の性から解放されている、ジャニーは父権的でない、云々。
 フェミ的にはレイプって「支配」のためになされるっていう「設定」だったと思うんですが。あ、ジャニーはレイプしてないって「設定」でしたっけね。
 後はジャニーズアイドルが「ダサい」格好をしているが、それは「ダサさ」に「セックスアピール」を隠しているのだ、とか何とかどうでもいい話。BLにおいても男性が「性的主体」として振る舞うことを嘲笑するような描写もありますし、分析としては正しいんだろうな、という気は何となくしますが。
 ともあれそうした萌えトークが続いた後、またペド擁護に(脈絡なく)戻ります。

しかし、「子供の権利を守る」という理念のもと作られた法や規範が、本当に子供を尊重しているのかは甚だあやしい。おそらくこれからも未成年が成人と全く同等の権利を持つことはないと思うが、それにしても、この手の「子供のために」をうたうものには、子供の持つ欲望や子供の自己決定の意志を蔑ろにし、子供の生身の身体を奪い、自分たちにとって都合の良い「子供という概念」に置き換えてしまうようなものが多く存在する。
(中略)
 そこには、「子供の権利」の名のもと、子供の身体を都合良くハッキングする人々がいるのではなかろうか。
(237-8p)


 あー、はいはい。
 子供にもセックスをする権利を認めよ、ということのようです。
 ぼくにはペドやLGBT運動家こそが「「子供の権利」の名のもと、子供の身体を都合良くハッキングする人々」だと思いますけどね。

 この後、ハナシは(オタクのご機嫌を伺うためか)アニメや漫画の規制ハンターイ! みたいな方向にずれまくり、またジャニーズ萌え話に(脈絡なく)戻りますが、記事の紹介はこれくらいにしましょう。
 以前もぼくは柴田師匠の「ペド推し」発言を批判したことがあります。
 そう、前回もちょっと言及した斉藤章佳師匠による『「小児性愛」という病――それは愛ではない』についてのレビューの時です。

小児性愛はおぞましい思考なんですか?仮にあなたがそう思っているにしても、それをわざわざぶちまけるのって下品で失礼なことにはあたらないのですか? https://t.co/aPW0x9ylTh

― 柴田英里 (@erishibata) January 27, 2020

だいたい、異性愛再生産と小児性愛どちらが「まとも」かだって怪しいものです。個人的な趣味判断から言えば、前者の方が醜いと思っていますが、私はわざわざ前者に該当する人を罵って回るようなことはしませんよ(数も多いのでやりあったら負けますし)。

― 柴田英里 (@erishibata) January 28, 2020


 いや、まあ、キレッキレのペド擁護、頭がクラクラします。
 同記事(春一番 日本一の認知の歪み祭り! 「小児性愛」という病――それは愛ではない(その2))においてぼくは

端的には柴田師匠は「ペドは異性愛者と違うからエラい」と言っているだけに過ぎず、方や斉藤師匠は「ペドは異性愛者と同じだからけしからぬ」と言っているだけに過ぎないのですから。


 と表現しました。
 柴田師匠も斉藤師匠も深く深くフェミニズムを内面化している。
 フェミニズムは「異性愛規範」を何よりも深く憎み、それを破壊することが絶対の正義だと盲信する危険思想である。
 そこでペドを憎む斉藤師匠は「ペドは異性愛者と同じだから悪だ」と(無理矢理なリクツを捻り出して)糾弾し、ペドを深く愛する柴田師匠は「ペドは異性愛者と違うから正義だ」と(無理矢理なリクツを捻り出して)断言している。
 同じ穴のムジナだ、というのがぼくの指摘だったわけです。
 しかしまあ、一体全体、柴田師匠はどうしてここまで子供とのセックスを肯定したいのでしょうか
 ぼくはこの時点では師匠が「表現の自由クラスタの姫」として君臨するため、彼らに媚びを売るような発言をしているのだと判断しておりました。
 しかしこうして見ると師匠の「ペド推し」はジャニーズを肯定するため、もっと言えば少年愛者の正当化こそがその主眼だったのではないでしょうか。
 柴田師匠が指摘するように、海外のLGBT運動が従来、ペドファイルを排除してきたことは確かに事実ではあります。しかしWiLL様などでも書いていますが、近年のLGBT運動が「子供をLGBTの仲間に引き入れること」に熱心なのもまた、否定のしようがない事実です。それは同時に、どうしても(柴田師匠の力説を見ればわかるように)子供とのセックスを肯定することにもつながる。
 やがてLGBT運動はペドファイルと「和解」することを、ないし既に水面下では手を取りあっていることを、柴田師匠は知っているのではないか。
 ただし、ロリコンの方々には申し添えておきたいのですが……柴田師匠の片棒を担いでも、おそらくこうした「ペド擁護論」は「少年愛者の男/少女愛者の女」の幼児虐待を正当化する時のみに「発動承認」され、(子供どころか大人同士でも)「異性とのセックス」は絶対悪として、いよいよキツく規制されるよになる、というのがありそうな未来予測図ではないでしょうか。

 スペシャルボーナスです。
 本書(というのは『ユリイカ』のことですが)には「トモコ」という名義で「ジャニー喜多川という少女」という文章が収められているので、ちょっとだけご紹介しましょう。

しかしジャニー喜多川にはもっと大きな闇がある。ホモセクハラ問題だ。ジャニー喜多川のホモセクハラ問題だ。
(151p)


 ここでもしれっとジャニーの虐待が認められています。
 先にも述べた文春裁判について言及、

表だったメディアで語られていないとはいえ、二〇〇四年の裁判結果を見る限りホモセクハラは事実だ。
(153p)


 おお、同じ件に言及しつつ「ウワサだ」と言い張る柴田師匠とは違い、事実を受け入れるとは何と清廉なことか!
 そう思って読み進めると。

(引用者註・ジャニーの)訃報直後からインターネット上ではそのホモセクハラ問題について語る人物たちが少なからず存在した。それはどちらかというとジャニオタと呼ばれる人たちではなく、普段からあまりジャニーズを好ましく思っていない人たちによって語られていたように思う。(中略)正直に言えばジャニオタたちがそんなことを知らないわけはないのである──見ないふりをしているだけで。
(151-152p)

その上で語り始めるなら、まずジャニー喜多川のホモセクハラ問題に同性愛差別の側面はなかったのだろうか。
(中略)
あえて差別的な言葉を使うが、ホモセクハラだからセンセーショナルでゴシップとして好まれたのではないのか。
(154p)


 れれッッ!?
 ジャニーズの児童への性的虐待の報道は「男たちのホモ差別で~ちゅ」ということらしいです。
 本稿においては、どんな場合であろうとセクハラ(じゃなくレイプだと思うんですが……)は許されない、と再三繰り返されてはいます。
 また自分たちジャニオタもまたある意味ジャニーの共犯者であると、殊勝にも認めてはいます。
 しかし上の文章も(中略)した箇所には「我々は差別と戦ってきたのだ」などと書かれていたり(この「我々」というのが具体的に何を指すのかわかりませんが)、上の文章の直後には「女(のタレント)もセクハラを受けているが、男たちはそれを許容している云々」とまあ、フェミ的定型文が並びます。
 が、それが現実を反映しているとは、とても思えません。仮にAKBなどが未成年の時点で秋元康が性交渉を強要していたとわかったら、完全に社会的に抹殺されると思いますが、ジャニーは結局(社会的生命も含め)天寿を全うしています。
 この後もジャニーズアイドルを「女こどもの文化」であると称し、

しかしその客の大半は少女たちだ。だからこそ、少女たちが受けてきたセクハラのように軽んじられてきたのだ。
(158p)


 などと言い出します。意味が取りにくいのですが、どうもこれは「ジャニーズアイドルのジャニーからのレイプ」が「少女たちが受けてきたセクハラのように軽んじられてきた」わけではなく(いくら何でも、それではついさっきまで男どもが大騒ぎしていると憤っていたのと矛盾が生じます)、ジャニーズの文化そのものが「少女たちが受けてきたセクハラのように軽んじられてきた」のだと言いたいようです。面の皮の厚さもここに極まれりだと思います。
 そう、汚い変質者の子供へのレイプすらも、フェミニズムにかかっては「ヘテロセクシャル男性の女性への差別」に変換されてしまうわけですね。
 ついでなので最後の数行を引用して本稿を終えましょう。

最後にもう一度繰り返しておく。セクハラは対象が男性であろうと女性であろうと最低な暴力であり、許されるものではない。見て見ぬふりをしてはならない。同じく芸能界に蔓延るとされるパワハラも同様 だ。
 どうかジャニー喜多川よ、安らかに眠って欲しい。あなたはきっとずっと私たちと同じ罪深き少女だった。あなたの作り出したものは最高でした。
(160p)


 サイコーに薄っぺらなキレイゴトですね
 ちなみにこの人物の肩書きはただ「ジャニオタ」となっています。
 想像ですが誰も書きたがらないジャニーの性犯罪についての言い訳を、執筆者の誰かが子分のジャニオタに押しつけ、結果こうした摩訶不思議な一文が生まれたと、そういう裏事情があるんじゃないでしょうかね。


今は亡き遙かなる男の娘へ

2022-09-17 19:06:59 | 弱者男性

 

 本稿、noteやニコブロで先月十二日に発表したモノなのですが……何とまあ、公式から「ブリジットは女性である」との声明(ファンへの指針のようで公式発表ではないでしょうが)があったようです。

「ブリジットが「男の娘でいられなくなった」理由についての推察など(https://togetter.com/li/1945534)」

 本当に愚劣な、低劣なハナシですが、この傾向はいよいよ強まっていくことになるでしょう。
 もう一つ、本件が「ブレンダ事件」のフィクションでの再現であるとの点についても留意すべきでしょう。そうした事実に基づかないイデオロギーを流布したい者の意思が、この裏にあると(直接的な介入はなかったとしても)考えざるを得ないのですから。
 できればもう少しこの問題については追及したいのですが、どうなりますか……。


 *     *     *

 

 対戦格闘ゲーム『ギルティギア』シリーズの人気キャラクター、ブリジットが十数年ぶり(?)に復活するとのことで、オタク界隈が大いに揺れています。
 このブリジット、いわゆる男の娘なのですが事前情報ではそれが伏せられており、いざゲームをプレイして「実は……」とサプライズ的に仕掛けたことが話題となりました。初登場はもう二十年ほど前のことでしょうか、「男の娘」という言葉自体、確か当時はなかったと思うのですが、そうしたキャラのブームの先駆けとなった感もあります。
 そんな伝説のキャラの復活となり、例えばオタク向けの画像投稿掲示板「ふたばちゃんねる」では常時ブリジットスレッドが立ち、毎回1000というレス数の上限を突破するなど、ちょっといささか異常な盛り上がりぶりを示しています。
「男の娘」という、そうは言ってもニッチだろ――と思えるキャラへのニーズが、実際、ニッチとは言えないくらいに広がっているのだと考えざるを得ません。
 さて……ところがこのブリジットが男女論界隈でも少々の話題となっております。
 いえ、そう言うと表現の自由クラスタによる「オタクの多様な表現ガーーーーーー!!!!!」とのドヤ顔の主張かと思われる方もいるかも知れません。
 しかし事態はそれよりも先へと進んでいたようです。

 このブリジット、元は「村の掟で女装している」という設定でした。
 本人の性同一性はあくまで男性だったんですね。
 ところが今回はどうもトランスという設定を与えられているのではないか……といった噂が囁かれています。「自分を女性だと思い込んでいる一般オカマ」になってしまったのですね。
 これはどういうことだ、「男の娘」の持つ豊穣な多様性を否定するとは……というのがネット界隈の反応です。
 これは明らかに海外への、引いてはLGBTへの配慮、「トランスのエンカレッジ()」が意図されてのことでしょう。
 LGBTにしてみればオカマキャラが「自分は男だけど女装が好き」などといった「趣味者」であるのはあまり好ましくなく、あくまで「間違って男性の肉体を持って生まれてきてしまった女性」であるべきなのでしょう。
 そもそも本人が自らを男性と認識していたら、女湯に乱入するのも控えそうですしね。
 先のネットでの反応、「多様性」という言葉は気に入りませんが、当然これは、「LGBTへの配慮」という「多様性の最たること」とされた行為それ自体が、「多様性の否定」になってしまっているという逆説が指摘されているわけです。
 そのことは痛快でもありますが、しかしテキの論調は「(お前らマジョリティのマスターベーションの多様性などより)我々マイノリティを重んずることこそが、真の多様性だ」といった辺りになるんじゃないかなあ……とぼくは愚考します。

 近い例は以前にもありました。戸定梨香騒動の時、青識亜論はフェミニストのクレームに対して「女性の多様な在り方と自由を称揚する立場と矛盾する」などと、(全くもって奇妙と言う他ない)反論をしました。
 言うまでもなくフェミの主張はまず、「女性の肉体が性的なものとして強調されること」自体を否定するものであり、この「女性の肉体は性的」という価値観(そのような意図で作られた作品)は全くもって普遍的と考える他ないのだから、噛みあってないどころではない。
 これは先に述べた「(お前らマジョリティのマスターベーションの多様性などより)我々マイノリティを重んずることこそが、真の多様性だ」というリクツと全く同じですが、「男女のセクシュアリティは社会が生み出したモノで、本来的なモノではないのだ」とのフェミの価値観を正しいと仮定するならば、正しいのは明らかに反戸定梨香側です。
 相手の主張の矛盾を突くためのカウンターとして「多様性」と言ってみるのであればわかるけれども、あくまで「多様性」を正しいものと考えるのであれば、その人はフェミに平伏して戸定梨香を否定するしかないわけです。
 しかし彼らにはそうしたムツカしい(まあ、小学校中学年くらいになれば理解できると思うのですが)リクツは念頭になく、ただ「多様性」との呪文を唱えれば相手がたじろぐのだ、くらいにしか思っていないのでしょう。

 そう、考えれば「男の娘」が流行した時の彼ら(表現の自由クラスタに親和的な、左派的なオタクや、オタクを利用しようとする左派)は近いことを言ってきました。
オタクは男の娘のようなLGBTフレンドリーな表現を好む、素晴らしい」。
 以前、小山晃弘氏が腐女子フェミニストの「BLはLGBTフレンドリーな文化である」という世迷い言を舌鋒鋭く批判したことがあります。
 しかし実際のところ、左派オタクはそうした世迷い言をただひたすら、宣い続けて来たのです。
 それは言うまでもなく、左派にとってはオタク文化も「マイノリティ様へと平伏して、お褒めの言葉をいただく」ためのツールでしかないからなのでしょう。
 本件は、そうしたオタク左派とLGBTの「蜜月」に他ならぬLGBT側が冷や水を浴びせてきたという意味で、近年のトランスの暴走(彼らの女性への加害)に近い事例と言えます。

 そしてそれを裏返したところに、先にも述べた「(お前らマジョリティのマスターベーションの多様性などより)我々マイノリティを重んずることこそが、真の多様性だ」というリクツも必然的に生まれてくる。実際、フェミやLGBTはそれと同主旨のことを、ずっと言ってきました。
 例えば、レズ漫画(と言っても百合漫画と言ってもいいのですが)はLGBTフレンドリーでしょうか。無論、以前からフェミもレズもこの世で一番、レズ漫画を憎んできました。彼女らの根源にあるのは男性への憎悪であり、そうした漫画はレズを性的対象物としてヘテロセクシャル男性に供する世にもおぞましい表現なのですから、この世で一番許してはならない、レズへのヘイトそのものというわけです(もう随分前のことですがオタク界隈で幅を効かせ、「エロ漫画評論家」を自称している人物が上のようなロジックに首肯し、「レズ漫画はレズ差別」などと口走っていた時にはさすがに腰を抜かしました。しかしそうした人たちがLGBTの手先とわかった今では、何ら不思議はないわけです)。
 また、一部ホモがBLを憎むのも、当然近しい理由によるものでしょう(だから、そちらに軍配を挙げる小山氏の言説にも、ぼくはあまり賛成できない旨を動画の第33回で述べました)。
 DLsiteなどをご覧になっている方の中には、ガイジンが「男の娘」のことを「トラップボーイ」と呼んでいる、という知識を持っている方もいらっしゃるんじゃないでしょうか。
 ネットでの聞きかじりですが、ところがこの「トラップボーイ」という言葉は近年、差別的で忌避される傾向にあるとか。
 確かに上のようなロジックを演繹すれば「トラップボーイ」は「レズ同人誌同様、ヘテロセクシャル男性に聖なるオカマを供する裏切り行為」となるわけなのでしょう。

 もちろん、「表現は自由」であるべきなのだから、彼ら彼女らのイチャモンに対しては「知るかボケ」以外に返答のしようはありません。
 例えばレズ漫画には不美人のレズは出ないし、男の娘もあくまで「女の子みたいに可愛いから(萌え絵の文法では男の子も女の子のように可愛く描くことができるから)」ヘテロセクシャルのオタク男性(及び女性)に愛好されるのであって、ぼくたちは最初から現実のLGBTについてなど、何も斟酌していないし、別にそれでいいんですから。
 しかし、それならばぼくたちも愚かな人たちの口真似をして「オタク文化は多様」などと下らないことは、間違っても口にしてはならないのです。

 いつも言うようにオタク文化は男の子たちが自分の心を訪ねて、自分のニーズに則って始めた、男の子の男の子による男の子のための表現です。
 そこが「マイノリティ様に価値づけをしていただく」という他者指向のサブカルと全く相容れない理由であると、ずっと以前から言ってきている通りです。
 男の娘やショタといった表現にも、思春期の頃のナルシシズムや男の子同士の仮性の同性愛を懐かしむという、言ってよければ私小説的匂いが確かにありました。
 しかし左派は男の娘、またそれ以前にあったショタブームの時も、これらをLGBTへの忖度のあるなしだけを基準に評価してきました。
 ショタブームの時、それを「女性様の(BL)表現を受け入れた正しいオタク男子のなした表現」と言っている連中がいた時は腰を抜かしました。性欲ってのは彼らにとって「政治的正しさ」で発動するモノらしいんですね。
 そうした文化略奪上等の他人様に、ぼくたちはぼくたちの表現をずっと奪われ続けて来ました。
 その挙げ句が、今回の騒動です。
 ぶっちゃければこれ、ぼくの目からは悪の組織のボンクラ幹部(というのはオタク界の上層部の左派のことですが)が大首領(というのはLGBTですが)に「この役立たずめ!!」と制裁を受けている光景に見えるんですね。もちろん、彼らが手柄のつもりで奪い取ってきたオタク文化の資産共々。
 そしてぼくたちはぼくたちの大切なものを、またしても彼ら彼女らによって喪うことになってしまったのです。


伊藤文学の問題発言についてⅡ

2022-09-11 19:04:17 | セクシャルマイノリティ

『Daily WiLL Online』様で「リケジョと呼ばないで」の動画について、記事が掲載されています。


 高校生が作った動画とされますが、そのバックの市民団体が、何だかヤバい感じで……どうぞご愛顧のほどお願いいたします!

 ――さて、ややこしいですが今回、新規記事です。
 同性愛者と幼い少年とのセックスを何十年にも渡って称揚し続けた児童への性的虐待の旗手、伊藤文学。そしてその彼をひたすら崇拝し続けるフェミニストや左派。
 ここしばらく、何度かこの問題を蒸し返しておりましたが、今回はそんな伊藤の問題発言から十年ばかり前の記事では採り零したものを、そしてまた、伊藤の後を継ぐ同人誌版『薔薇族』の情報も少し、お伝えしましょう。


薔薇を散らせはしまい―『薔薇族』と共に歩んだ22年批評社、1993。

「僕の子供がホモだとしても」

 今回ご紹介する『薔薇を散らせはしまい』は特に章立てがないコラム集なので、上のようにそれぞれのタイトルを「」に入れて見出しにすることにします。

いつか少年愛の人が訪ねてきて、自分が写した何十人もの少年の写真のコレクションを見せてくれたことがありました。どれもこれも、はだかのものなのです。こういう写真をとれるということは、相手に警戒心をおこさせない人だということです。はっきりと自分のことはいわないから、その人がどんな職業をもった人か分かりませんが、おそらく、学校の先生だと思うのです。
 自分の息子と同じくらいの子供たちが、はだかで、いろんなポーズをとっている写真を見て、ショックを受けないといえばうそになるでしょう。自分の息子がそんな写真をとられていたら、親である僕はどうするだろうか。
 まあ、そのときのことは、そのときに考えなければ、なんともいえないけれど、自分の息子がホモであったら、これは僕自身「薔薇族」を刊行し、たくさんの読者にも会って、ある程度は理解しているのだから知らなけりゃびっくりもするでしょうが、今の僕なら、べつにおどろきもしないと思うのです。そんなことでおどろくぐらいなら、自信をもって『薔薇族』を刊行し続けてはいけないでしょうから。
(58p)


 伊藤には二人の息子がおり、当時、上の子は六年生だったといいます。
 いやらしいのは「変質者が何十人もの子供を瞞し、ヌード写真を撮っている」という事案を「僕の子供がホモだとしても」との意味のない仮定にすり替えている点。
「子供がホモでも差別しまちぇ~ん」という格好のいい宣言によって「薄汚い性犯罪者」の行状をロンダリングしようとしたのでしょうが、読む側にしてみれば「子供が変質者の毒牙にかかっても構いません」と言っているかのような印象を受けます。

 僕の子供がホモだって、僕はちっともおどろきゃしません。人間が、人間を愛するんだから、男が、男を好きになったって、いいじゃないか。
(59p)


 あぁ、そうですか。

「なんとも、いまわしい本が出たものだ!」

 ジャーニー喜多川の性的虐待に関しても、ずっと擁護の立場です。
 何十年にも渡って児童への性的虐待を称揚し続けた伊藤は左派から一流文化人として崇拝され続けていますが、何十年にも渡ってそれを実際に行動に移していた者は、この国ではメディアの王として君臨し続けていました。
 日本はまさに誰もペドに逆らうことのできぬペド帝国なんですね。
 さて、上の「いまわしい本」というのは北公次『光GENJIへ』のこと。
 北は元・フォーリーブス(といっても若い方はご存じないでしょうが、大昔のジャニーズアイドルです)の一員であり、ジャーニーから受けた性的暴行についての暴露本を出し、世間から黙殺されたといったことがあったのですが、唯一、伊藤はそれに過剰反応したのです。

この本を読んで、一番嫌だったことは、同性愛が汚らしいこと、罪悪であるということを前提にして書かれているということだ。
(346p)


 何と、北はホモ差別者でけしからんと居直るのです!!
 力関係で勝てない相手に(まだ二十歳前であろう時に)性行為を強要されたことを、やっとのことで告白した者に対し、「差別だ」。
 ホモはそんなことすらもが許される方のセクシュアリティ、なのでしょうか。
 いえ、続けて伊藤は枕営業を悪いことでも何でもないと大肯定します。

 たとえ事実だとしても、世間には男と女の関係ではよくある話ではないか。新人の女性タレントを売り出すためにはプロダクションの社長、それを売り出すためにマスコミの人に抱かせるというような話はよく聞く話だ。
 それが、なぜ男と男だといけないのか? それが不思議ではある。
(347p)


 男でも女でも枕の強要はOK。男女平等ですね。
 フェミニストの皆様方が伊藤の味方となり、批判する者を恫喝するのも当然です。
 もっとも、伊藤はいついかなる場合も、強固な信念を持ってブレなく「児童への性的虐待は正義」と主張していたというわけではありません。

「少年愛の読者諸君、今こそブレーキを!」

 1989年、連続幼女誘拐殺人事件が起こっていた時期には、「子供に手を出してはならぬ」という投書を紹介しています。

『薔薇族』の編集長として、切にみなさんにお願いします。つらいかもしれないけれど、直接行動に走ることだけはやめてください。
(363p)


「少年愛って悲しいな!」

 また少年に対する事件が起きていた時期にも読者からの投書を織り交ぜ、近い主張がなされています。

“伊藤さん、少年愛の人に、とにかく自重するように呼びかけてください。よろしくお願いします”

 子供とは精神的に付き合うのが精いっぱい。からだを求めたいと思ったことは何度もあるけど、悪いことだと、いつも想像だけで、がまんしてしまう。

 少年愛の人って、本当につらいだろうと、いつも思う。精神的なもので満足感を得て、性欲は他に発散する何かを持って生きていくしかないだろう。
(404-405p)


 ちなみに上の二段が投書であり、最後の段が伊藤の意見なのですが、なるほど、ここだけ読めば彼は少年愛者に常識を説くまともな人間のように思えます。
 ところがこれらも『薔薇を散らせはしまい』、つまり先の「子供のヌード写真を収集している変質者」の記事と同じ本に載っているものなのです。
 つまり事件が起こるなどして不利な時には場当たり的に常識論を説き、しかし喉元過ぎると本音を吐露し出す、というのが彼のやり方なのです。
 伊藤を称揚するフェミニストたちは、ぼくの指摘する問題発言を頑として認めませんでしたが、上のような常識を説いている箇所については、一体全体どういうわけか実に目ざとく見つけてきて、こちらに突きつけてきました。
 しかし今回の記事、そして前回記事をお読みいただいた方はもう、確信を持つことができたことでしょう。
 伊藤文学は長きの間、児童への性的虐待を称揚し続けてきた悪魔、なのです。

 ――ところで伊藤、いまだ存命なのですが2011年に『薔薇族』編集長を「勇退」しています。
 現在でも『薔薇族』はSage/セージという若手の変臭者、否、編集者を迎え、同人誌として継続中。この人物は「この当時のホモは(今の少年愛者のように)強烈に差別されていた(2022年夏号、6p)」などと関係ない場面でも少年愛者を引きあいに出して、同性愛者以上の苦難を受けるマイノリティであるかのように語っており、「『薔薇族』の魂」を受け継いでいるとしか言いようのない御仁。
 ここ数年のものを見ても、読者投稿という形ですが畑一麦という少年愛者の書いた文章を幾度も掲載しています。
 子細に見ていくほどのものではありませんが、この畑の記事について、軽くポイントだけご説明しましょう。

「少年愛者が語る希望の未来」(2021年春号)

この感覚は、ひと昔前の同性愛者と通じるものかもしれない。
(11p)

 世界的な評判からすると、現代日本の特徴的な文化として、アニメとマンガの興隆は見逃せないだろう。作品の質量の豊かさは、必然的に「ショタコン」向けの作品の豊饒さとなっている。
(11p)


 編集長同様(そして白饅頭など左派寄りの御仁同様)「同性愛者も以前まで差別されていたのだ」といったロジックで少年愛者を正当化してみせ、オタク的「ショタ」表現を「少年愛」と同じものだと勘違いする(ことで仲間がいるのだと妄想する)のが彼の流儀のようです。

「「少年愛者」自身が読む、『「小児性愛」という病――それは、愛ではない』」(2020年秋号)

 ぼくも以前レビューした斉藤章佳師匠の著作の書評です。

春一番 日本一の認知の歪み祭り! 「小児性愛」という病――それは愛ではない
春一番 日本一の認知の歪み祭り! 「小児性愛」という病――それは愛ではない(その2)

 本書についてはぼくも酷評しましたが、それは斉藤師匠が重篤なフェミ信者だからであり、「ペドファイルは子供とのセックスを悪いことではないのだと盲信する傾向にある」という指摘自体は正しいものとして評価していたかと思います。
 さて、では畑の評がどんなものか。
「ヘテロセクシャル男性が女性をレイプしてもそれは個人の犯罪であり、ヘテロセクシャル男性全体の問題とはされまい。ところが著者は小児性愛者を性犯罪者と混同している(大意)」。
 これまた青識亜論など左派寄りの論者のお決まりの文句であり、もちろん、これそのものは正しい。
 しかしフェミ信者である斉藤師匠は本書において「ヘテロセクシャル男性全体を性犯罪者と混同している」のだから、批判としてピントがずれているのです。あまりちゃんと読まず、決まり文句を口にしているだけなんじゃないでしょうか。
 細かいことだと思われるかも知れませんが、斉藤は「ペドと普通のヘテロセクシャル」をいっしょくたにして断罪していますが、畑や青識もまた「ペドと普通のヘテロセクシャル」をいっしょくたにして正当化しようとしている。「合意のセックス、否、ポルノの収集という行為すらもがペドの場合、加害となる」という明白な事実を、ここで彼らは不誠実にもスルーしている。
 そしてそんな両者共が政治的スタンスは左派であるのは重要で(畑のスタンスは知りませんが、青識はそうでしょう)、要するにこんなの、子供の立場など歯牙にもかけず左翼同士が「俺の好きにさせろ」と山小屋でどつきあっているだけの話なのです。
 一応、公平を期するために書いておけば、彼も「少年愛者が語る希望の未来」において「少年への性的虐待は論外」と言ってはいます。

本来言う必要もないことだが、あらためて言葉にすると、少年への性的虐待などは私にとって論外の行為であり、少年を傷つけたいなどとは露ほども思わない。魅力を感じるものを、貶めようと思わないのは当然のことだ。
(11p)


 ここだけ読めば、彼もまた常識人のように思われます。
 しかし上の「性的虐待」とは、厳密にはどのような意味で言っているのか。斉藤の本にも書かれてている通り、ペドファイルは非常に往々にして「子供とセックスは性的虐待に当たらない」と考えているのです。そうした肝心な点で論点をぼかし、明言を避けるという戦略は伊藤もよく使っていたところ。
 もし畑が本当に「合意だろうと子供とのセックスはするべきでない」と考えているのであれば、かつての伊藤の言を批判すべきなのですが、それはなされません(当たり前と言えば当たり前ですが)。
 実のところ畑は別な記事では少年と性交渉を持ったことはないと明言しており(2020年春号、11p)、ぼくも彼をことさらに非難しようとは思いませんが、ぶっちゃけ「信用できないなあ」というのが率直なところです。

 まとめに入りましょう。
「やらないか」で一世を風靡した山川純一作品。
 近年の伊藤はこれを積極的に商売のタネにしていますが、考えてみればこのヤマジュンのタッチって当時の少女漫画のものですよね。伊藤は男性だとしていますが、そんなことから女性説も囁かれています。
 実際、ホモである編集者たちはこの絵を好まず、掲載に猛反対したのを、伊藤が強引に掲載し続けたのです。
 考えれば『薔薇族』自体、初期に表紙を描いていたのは内藤ルネという、少女画の大家で女性に人気のあった人物です。よく表紙を見れば描かれる男の瞳は少々、少女漫画的です。
 要するにヘテロセクシャルである伊藤は、同時に少女趣味めいた感性の主でもあり、『薔薇族』はそうした伊藤のシュミを推し出す場でもあった。(そんなこともあってかホモに評判の悪い)伊藤がフェミニストたちの絶大な支持を受けるのは、その辺りも理由なのかも知れません。
 そして伊藤の抜けた同人版でも、そこは受け継がれているようです。編集長のSageは誌面で実に饒舌に少女漫画に言及します。近年騒がれた大泉サロンの件(竹宮恵子と萩尾望都の確執)についても長文の記事が掲載されており、ついつい読んでしまいました。
 そして、先にも述べたような少年愛者の「ショタ」への(自分たちのための表現であると勘違いしての)言及――。

 少女漫画家、そしてBL作家でも貴腐人的な世代の人は、「少年愛」という言葉を使う傾向があります。が、もちろんそれと『薔薇族』的な意味での「少年愛」とは、(畑や伊藤の切なる願いとは裏腹に)何ら関係のないもの。
 そしてまた欧米の少年愛者は自らを「BL(ボーイラバーズ)」と称するのですが、これまたもちろん腐女子の言うBL(ボーイズラブ)とは一切の関係がない。
 ジャニーズもそうで、その商品である美少年タレントは専ら女子に向けて出荷されているわけで、(ジャーニーを除く)少年愛者など歯牙にもかけていないことは自明です。
 ジャニーズやBL、ショタ文化を自分たちに近しいものだと信じたがる少年愛者たちは哀れではあるけれども、それはそうした文化が彼らの歪んだ世界観(子供とのセックスは許されるのだ)を正当化するツールに不正使用されているということでもある。
 そしてさらに、BLやショタ文化がそうした彼らに対して毅然とした態度を取ってきたのであれば、ぼくももう少しエラそうなことを言えるのですが、ぼくたちの上にいる腐女子や左派はむしろ少年愛者に、伊藤に無限の手揉みを続けて来た連中です。
(今ちょっと見てたら極左のオタク洗脳サイト「おたぽる」で『薔薇族の人びと』を採り挙げて絶賛してんのね)
 いつも言うように表現の自由クラスタなど、オタクのインフルエンサーとして振る舞っている連中は極左であり、フェミニストが大好きである。
 同時に彼らは極めてペドファイルに擁護的であり、子供とのセックスも悪いと考えていない節がある。
 フェミニストもまた腐フェミなどオタクに距離の近い者が多く、彼女らはペドファイルに擁護的である。
 これらから見えてくるのは、左派が、フェミが、共にオタクを「ペド類似物」として自分たちの政治の駒に使おうとしている姿です。
 そして――自分たちをオタクの友だちであると勘違いをしてしまっている『薔薇族』もまた、実のところ彼ら彼女らと非常に近い存在なのではないでしょうか。


サ○の命を救ってくれなかった○モへ

2022-09-03 18:57:27 | 弱者男性

 

 前回もお伝えしましたが、ツイッターに復帰しております。
 新アカウントは(@Frozen_hyodo)になります。
 これからもどうぞご愛顧の程、よろしくお願いします。
 また、『Daily WiLL Online』様にも復帰が適いました。
「リケジョと呼ばないで」の動画について、記事が掲載されています。
 高校生が作った動画とされますが、そのバックの市民団体が、何だかヤバい感じで……どうぞご愛顧のほどお願いいたします!

『「リケジョ」って呼ばないで』動画に見るフェミの無理な話題喚起

 さて、復帰とは別に関係ないのですが、ツイッター上でちょっと嬉しい出来事がありました。ピル神(ピルとのつきあい方師匠)が『WiLL』様の記事を評価してくださったのです。おかげで結構昔の記事ながら、目下ランキングの三位になっているのだから、ありがたい話です。

これはよい論稿。ジェンダ―イデオロギー/トランスジェンダリズムのもたらす害悪が社会問題になり、ジェンダーフェミニズムは滅ぶことになるというのが私の見立て。
兵頭新児氏を肯定的に紹介することになるとは複雑だが。
https://t.co/51LCkubUwr

― ピルとのつきあい方(bot) (@robot_pillton) August 2, 2022


 未読の方は読んでいただきたいのですが、LGBT運動の暴走と欺瞞についての記事であり、ピル神はこの点についてはぼくとスタンスを同じくすることを、表明してくださっているのです。
 ピル神が否定的に見る「ジェンダーフェミニズム」とはWikiによれば性役割の全廃を目指すフェミニストのこと。言わば「ジェンダーフリー強硬派」といったところですね。
 ぼくは今まで「表現の自由クラスタ」に対して、「ジェンダーフリー」などのフェミの主要概念に対するスタンスを明らかにしないので信頼できぬ(明らかにしないのはどうせ、フェミニズムに親和的な本音を持っているのを隠しているからだろう)といった批判をしてきました。
 しかしピル神は基本、ジェンダーフリーに否定的と言ってよさそうです。
(ただし、本当に「ジェンダーフリー」を全否定してしまってはフェミニズムはほぼ、支柱となる理論を失ってしまうわけで、そうなるとその人物はもうフェミニズムのほぼ全てを捨てるも同然であり、正直ピル神が論理的整合性を保ったままこのスタンスを維持しているかとなると、疑問です。Wikiの同項ではこの言葉は「異常に女性中心で男性差別的なフェミニズムを批判するために作られた」との記述もあり、この言葉自体がフェミニスト同士の派閥争いの中で、自分たちだけを正当化するために作られたもの、つまり「ツイフェミ」程度の意味しか持っていない言葉、との感もあります)
 さて、ともあれ、いずれにせよそんなピル神が近年、「ターフ」として表現の自由クラスタと亀裂を生じさせたのはご存じの通り。
 誉めてもらっておいて貶すのはナンなのですが上の括弧内に書いたような疑念もあり、ぼくもピル神の全てを肯定するわけでは全くありませんが、それにしてもあそこまで敬愛し、盲愛し、妄愛していたピル神とオカマとを秤にかけてあっさりとピル神を放り出す表現の自由クラスタの恐ろしさには慄然とさせられます。
 彼らにとっての第一の目的はフェミニズムの一番過激で、先鋭で、反社会的な部分を延命させることであるということがはっきりとわかります。それで性表現なんか守れるわけがないんですが。
 さて、それではその「表現の自由クラスタ」がピル神以上に畏怖し、畏敬し、盲従するLGBT運動とはどのようなものか。
 それを探った記事を今回、マガジンにまとめることにしました。
 順に読んでいただければ、彼ら彼女らがいかに恐るべき存在かが理解できるようになりましょう。

 ――というわけで、以降は過去記事の解説ということで、noteの課金コンテンツになります。お気が向けば、覗いてみていただければ幸いです。