兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

風流間唯人の女災対策的読書・第59回「母性カルト」――「オルタナティブフェミ」の華麗なる世界

2024-07-06 19:02:52 | フェミニズム

 

風流間唯人の女災対策的読書・第59回「母性カルト」――「オルタナティブフェミ」の華麗なる世界

 第五十三回目です!
 三人の実子を殺した母親に対する判決が話題となりました。
 一つは報じたネット記事が「無罪か、有罪か」などとたわけたことを書いていた件。
 もう一つは小山晃弘氏の、「自然派ママが、最後に子供にジャンクフードを食べさせた」ことについて。
 そう、世の中には「フェミではないフェミ」とでも称するべきおぞましい、「母性カルト」というものが存在するのです……。

動画中で紹介した『アゴラ』様、『WiLL Online』様の記事は以下を!

動画中で言及された記事は以下を!

 

 

 


反社会学者の奇妙な変節

2024-06-23 19:05:14 | フェミニズム

 

 目下、言論プラットフォーム「アゴラ」様で「フェミニストは何故、「男児叩き」をするのか」という記事を掲載しています。

 どうぞ応援のほどをよろしくお願いします!!

 さて、『ぼくたちの女災社会』の改訂補足版はお買い求めいただけたでしょうか。

 フェミニズムとは「性犯罪冤罪」そのものであり、そのフェミを擁護しようと思えば、嘘をつき続けるしかない。今日はそんな哀しいフェミ騎士についてご紹介しましょう。
 では、そういうことで……。


    *     *     *     *

 さて、みなさんもう飽きているでしょうが、パオロ・マッツァリーノ師匠です。ちなみに師匠、今週の『文春』に書いていました。
 内容はまあ、一応は松本人志バッシングですが、ワイドショーについて語ったものであり、師匠の近著である『読むワイドショー』の宣伝かなと。
「勇気あるなあ」というのが一読しての、ぼくの感想です。
というのもこの『読むワイドショー』、実のところ――。

・コドモダマシ


 今までもご説明してきたように、パオロ・マッツァリーノ師匠は「反社会学者」を名乗り、社会学の欺瞞を指摘してきた人物です。かつては(そこまで明確ではないものの)フェミニズムへの懐疑も吐露していたことも、動画で指摘した通りです。

 ところがそんな師匠が松本人志の性加害疑惑をきっかけに(ではないのですが、それは後に述べます)、おかしなフェミニズム的迷妄を垂れ流すようになりました。
 師匠の記事は頭のてっぺんから尻尾の先までデタラメと嘘と矛盾の詰まったものでしたが、中でも「性犯罪の中で裁判にまで漕ぎ着けるのは全体の2%」という(舞田敏彦師匠発の、おそらくこれ自体はそれなりに信頼できる)データをねじ曲げ、「それは警察が門前払いをするからだ」とミスリードしたことは、絶対に許されるものではありません。
(ちなみに、師匠は卑劣にも批判者がこのデータ自体を否定していると称することで、自身のデマを正当化していますが、少なくともぼくは上にも書いたように、データ自体を否定しているわけではありません。師匠の最初の記事を見る限り、「2%」の原因として「警察の門前払い」を持ち出しているとしか読めず、そこを批判しているのです)
 さてこの2%について、師匠は当初、ソースを出していませんでした。
 ぼくがツイッター上で直接問い質し、またその主張が実情と齟齬があることを指摘した後、師匠はブログでソースが舞田師匠の記事であると明かしたのですが、上に書いたように、パオロ師匠はそのソースをねじ曲げていたわけです。
 そこを指摘された師匠はまた新たな記事で、前回採り挙げた牧野雅子師匠の著作を持ち出したのですが、読んでみれば案の定、これまたソースとして成り立っていない。

痴漢冤罪とはなにか

風流間唯人の女災対策的読書・第57回「性欲で痴漢しない男、性欲で冤罪を着せる女――Liar/ふのせいよくを、君に」

(同書がソースとして成立しない件については、動画の方で……)

 それなりに長年活動してきた作家が、ここまで右往左往していい加減なことしか言えないとは、驚くべきことです。

・「昔はよかった」人

 いえ、動画でも「前はいい人だったのに」と形容したように、パオロ師匠はやはり、どこかのタイミングで「変節」したと考えるべきでしょう。
 師匠は新たなブログ記事(「松本さんについての記事への反響など」)でも、「前はいい人だったのに」といった評をされていることに対して、いたくご立腹で、以下のように言い訳しています。

私は社会学もフェミニズムも全否定などしていないのですが、それについては以前のブログ記事で説明しています。

 この以前のブログ記事というのは、 2023年6月9日に公開された「『読むワイドショー』のレビューについて思うところをお話しします 《前半》」というもの。読んでみると以下のような記述に行き当たります。

 自分が好きなマンガやアニメがフェミニズム社会学者に批判されたことでアタマに来て、社会学を全否定して溜飲を下げている、という程度の人が多いのでしょう。

 ええええええええええええ!?
 パオロ師匠って、この程度の認識なんだ……。
 まずフェミニズムは漫画やアニメ、そこで描かれるセクシュアリティの全て、全人類のセクシュアリティの全てを否定するために存在している学問です。
 師匠はご存じないでしょうが(この人、フェミを擁護するために知らぬフリをしている部分もありましょうが、本当に知識に欠けているんではないか……と思える節もあります)、当noteの読者のみなさんは、即座にでも師匠を論破できることでしょう。
 この「全否定していない」という言い方がいやらしく、なら部分的には否定的なのか、それはどこなのかが、さっぱりわからない。
 普通ならば、「これこれの部分は問題だと思っているが、これこれの部分は否定しない」と論点を整理するものですが、上の記事においても以降は批判者への子供じみた罵倒が並ぶだけで、(フェミについても社会学についても)それをしません。
 できるはずがないんですよね、「変節」したんですから。

・過去の発言を消すな

 もう一つ、上の記事はタイトル通り、2023年刊の『読むワイドショー』に対する批判への反論という形をとっています。が、不思議なことに同書には別にフェミニズムへの言及はないのです。上の記事でも一応、「デビュー作の頃から(社会学を、フェミを全否定していると)誤解されている」と言っており、この点は同書とは関係がないのかも知れませんが、なら何故このタイミングで(同書のレビューへの反論を意図した記事の中で)そんなことを言い出したのかがわかりません。
 同書の内容自体は、昭和の芸能人が政治批判をしていたことを語る最終章など、タレントが自民を叩けば快哉、共産党をからかえば真っ赤になって怒るという近年の師匠にありがちなもので、まあ、保守寄りの人の不評を買っても不思議はありませんが、いずれにせよフェミは関係ない。
 これは一体どういうことでしょうか……?
 実は同書には、他にも気になる箇所があります。
 昭和の時代、とある有名歌手が殺人事件を起こし逮捕され、出していた曲が回収されるという騒動があったのです。そう、今の世においても芸能人が事件を起こすと、自主規制で曲や番組がキャンセルされるのはよくあることですが、師匠はそれを腐し、以下のように言っているのです。

 じつに不思議な慣習だと思いませんか。歌手の罪は作品である楽曲にまで及ぶのでしょうか。歌詞で犯罪を勧めているわけでもないのに、歌っているのが犯罪者というだけで、歌が犯罪を助長するのでしょうか。
(73p)

 え……?
 それじゃあ、師匠があれだけ嬉しげに松本人志氏をキャンセルせよと絶叫していたのは何だったんでしょうか。
 このリクツなら、少なくとも松本氏が勝訴するなり敗訴して賠償金を払うなどした後ならば、テレビに出ても文句はないはず。ところが師匠はそれを「笑えないでしょ」と全否定していたのです。師匠の愚劣さ、軽率さにただただ、哀しくなります。
(ただし、松本氏についても「You Tubeでの活動なら文句はない(大意)」と言ってはいます)

・政治の憑きもの

 さらに遡り、2022年の著作、『思考の憑きもの』を覗いてみましょう。
(この書名、意味がわかりにくいですがイデオロギーという「憑きもの」が思考に憑くと、正確な判断ができなくなるという、極めて優れたブーメランタイトルなのです)
 実はここでも、パオロ師匠は「フェミにアニメや漫画を貶されたファンが自分のことをフェミと戦う勇者だと勘違いしていて迷惑だ(257p・大意)」などと言っているのです。
 つまり、師匠をアンチフェミと考えていた人が、この時期からいらっしゃるようなのです。
 幾度も書く通り、かつての師匠は今と論調は違ったけれども、積極的にフェミと戦っていたとは思えず、何故そのように考える者がいるのか不思議です。
 ぼくが未発見なだけで、そうした発言がかつてあったのかも知れませんが、いや、むしろ……と意地悪な想像もしてしまいたくなります。
 もうちょっと師匠の発言を引いてみましょう。

 学問としてのフェミニズムや学説にはあまり興味が持てないし、ちょっと皮肉ることもありますが、私が皮肉や批判を向ける対象はフェミニズムに限ったことではありません。
(257~258p)

 動画でもご説明した(そして本稿でも後に述べる)ように、比較的近年まで、師匠は「サブカル」同様に、言うなら「不良キャラ」として女性に対しても結構な暴言を吐いていた。同じ変節者でも町山師匠たちは何の能もなくただ、過去をなかったこととして扱っていますが、パオロ師匠ともなると自身のかつての発言を(今、ぼくがしているように)蒸し返されることを恐れる注意深さがあった。
 そこでムリヤリに「自身の著作を曲解した者」を仮想し、「皮肉っただけだ」と自作自演の「反論」をすることで、極めて自然に(いや、全然自然じゃない気もしますが)変節宣言をしおおせた……とまあ、そんな裏事情が、或いはあったという気も、しなくはありません。
 そう考えれば、先の『読むワイドショー』でキャンセルカルチャーを批判した後で、フェミの味方であると自称しだしたのも頷けます。師匠には過去ロンダリングをする必要があったのですね。
 さて、『思考の憑きもの』に戻ると、師匠は(ネット上の、萌えキャラに対する攻撃などに対し)フェミの言い分も行きすぎの面もあるが、オタク側も過剰反応だ、などと中立派を気取ります。
(もちろん、フェミという人類の文化の全てを否定するウルトララディカルな思想に対し中立派などあり得ないのですが、みなさんご存じでしょうから、措きます)

 もし、批判に理があるのなら対処法を考えて実行すべきだし、批判を受け入れがたいのなら、正々堂々と反論すればいいだけの話です。
(259p)

 あの~~、書くならちょっとくらいは事実関係を調べましょうよ。
 例えば青識亜論師匠が石川優実師匠とトークショーを開くなど、これなどは左派のプロレスに過ぎずぼくは全く評価しませんが、少なくとも表現の自由クラスタは幾度もフェミと対話を試みてきました。
 また、左派寄りでないアンチフェミだって「反論」はいくらでもしているでしょう。
 物事をホンの僅かも知ろうとはせずに、政治的に強い側につき、提灯記事を書く。
 それがパオロ師匠のスタイルです。

 私が見たところでは、知的好奇心が低いひとほどフェミニズムを毛嫌いする傾向があります。知的好奇心がないから、フェミニズムについて知ろうともしない。無知なまま全否定してしまうのは、知的怠慢、思考停止です。
(259p)

 パオロ師匠を見る限りでは、知的好奇心が低い人ほどアンチフェミを毛嫌いする傾向があるんじゃないでしょうか。知的好奇心がないから、アンチフェミについて知ろうともしない。無知なまま全否定してしまうのは、知的怠慢、思考停止です。
 後、師匠が言うには八〇年代には世界中でフェミへの「バックラッシュ」があったそうで、アンチフェミはそうした「プロパガンダを鵜呑みにして」フェミを叩いているのだそうです。
 八〇年代のバックラッシュなんて、ぼくは聞いたこともありません。いえ、「バックラッシュ」については九〇年代にも言われていたので、あったにはあったんだと思います。しかしその「プロパガンダ」とやらを、ぼくは聞いたことがない。日本にそんな情報が入ってきたことを、ぼくは過分にして知りません。本当にごく僅かな例外はないでもないですが、それを「ネットのアンチフェミ」の多くが知っていると、師匠が何を担保に確信しているのかは、さっぱりわかりません。

・何も調べなかったパオロペテン史

 パオロ師匠の「変節」ぶり、どうも赤木智弘師匠などを思わせ、正直気味が悪い。
 ぼく自身、十年ほど前に師匠の本を追うのを止めていたところ、本件(というのは松本氏疑惑を巡る師匠の一連のデマについてですが)を知り、唖然となったので、少々気になっているのです。
 師匠はいつ、「変節」してしまったのでしょう?
 もうちょっと探ってみようと、師匠のブログを「フェミ」で検索してみました(あ、師匠の著作っぽい展開)。
 が、意外にヒットした記事は少なく、以下の四つのみ。

・「被害者の存在を消すな」
・「松本さんについての記事への反響など」
・「『読むワイドショー』のレビューについて思うところをお話しします 《前半》」
・「それは説教ではない。きみは論破されたのだ」

 上二つは松本氏関連であり、まだ言及していないのは一番下のものだけ。
 ちなみにこれは2021年1月11日に公開されており、「フェミ」への言及があるモノの中では最古の記事です。
 見てみると、テレビドラマ『逃げ恥』に対しSNSで「フェミの説教みたいだ」といった感想が溢れていることに憤慨する内容(このオッサン、ヒマなのかとにもかくにもひたすらテレビばっかり観てます)。攻撃的な記事タイトルは、要するにドラマを正当化しようとしてのものなのですね。
 もっとも、その肝心の『逃げ恥』、ぼくは観てないのでパス。
 ところがこのドラマを一くさり擁護した後、パオロ師匠は呆れたことに『ミステリと言う勿れ』を持ち出します。
「一年ほど前にとある漫画の感想を読んでいて、やはり似たことが言われていた」と、このロートル少女漫画家のとんでもない非常識ぶり、反社会ぶりがこれでもかと現された怪作を引きあいに出すのです。

 フェミの説教などと批判されてることに、私はビックリしました。え? あのマンガがフェミニズム? そんな印象、まったく受けなかったけどなあ……? そこでもういちどマンガ喫茶で1巻を読み直しました。

 で、久能は刑事たちに何を告げたのかといいますと、娘が父親のニオイを嫌うのは近親交配を避けるための本能とする生物学の仮説を披露したり、刑事が奥さんを怒らせてるのは、ゴミをゴミ置き場に持ってくだけで家事を手伝ってるつもりになってるからだと忠告したり、アメリカの野球選手は奥さんの出産やこどもの卒業式のときに試合を休むことを父親の権利だと思い、世間も認めてるが日本ではなかなか認められない……とか、その程度の話です。
 批判レビューを書いたひとたちは、この程度の内容をフェミニズムだと誤解して唾棄してるわけで、それは単なる無知、勉強不足ですね。

 家事を手伝え、育児を手伝えと(男がいかに会社で酷使されているかも考えず)主張するなどはどう考えても単なるフェミニズムでしょう。その程度のことも知らずに誤解してるわけで、それは単なる無知、勉強不足ですね。
 何より、この一巻だけを読んだというのがいかにも片手落ちです。デタラメなデータをドヤ顔で担ぎ出す三巻、男が戦争で殺されても自業自得だなどと絶叫し、痴漢冤罪で苦しむのは(疑われた男性ではなく)女は男に冤罪を着せるものだなどと偏見の目で見られる女性だ、などと泣き叫ぶ八巻など、師匠がチェックすべき巻は他にもあったのですが。
 いえ……一巻の「説教」の中でも師匠が華麗にスルーしているものがあります。
 ここで主人公の久能整は「男は社会で悪いことをするものだ」と決めつけ、男性への抑止力を、当初は「女性」が発揮するべきと言っていたのですが、話の途中から抑止力として「第三の性」があるといいなどと言い出す。
 おそらく作者もその場のノリで書いていて、論理的整合性が保てていないのでしょう。
 この下りは、この回のヒロインと呼ぶべき婦警をエンパワメント(大爆笑)するというドラマの肝の部分であるように思われ、そこをスルーする師匠は極めて不誠実です。
 師匠は「久能はつねに合理的な視点で物事を見ています。」などと書いていますが、本作を絶賛しつつ都合の悪いところは隠す師匠自身が、「(久能に比べれば)合理的な視点で物事を見」る能力をお持ちなのでしょう。

・偽言のトリセツ

 ――さて、しかしブログでは、これ以前にフェミへの言及はない。
 もう少し、著作の方を調べようということで、2020年刊の『サラリーマン生態100年史』(17年刊の『会社苦いかしょっぱいか』の新書版なのですが、今回挙げる箇所についての改訂はないと思しい)を借りてきました。
 パオロ師匠はNHKの大河ドラマに対する、戦前の実在した人物のドラマでは妾がいたことについて伏せて欲しいという要望について揶揄し、以下のように言います。

じゃあ戦国時代の男色や戦前のこどもの間引きなんかを忠実に描いたら? 視聴者どん引きまちがいなしです。そういうのに比べたら妾なんてかわいいもんじゃないですか。
(35~36p)

 実は本書、妾について一章割いており、もちろん諸手を挙げての大肯定ではないのですが、上にあるようにトーンとしては極めてソフトなのです。
 あんなに松っちゃんに正義の刃を振り下ろしていたのに~~~!
 男色をどん引きというのも(当時の衆道と今のホモは全然別物ではあれ)大首領にバレたらいろいろとおしおきされそうですね。
 何しろ二一歳の女子大生が「月三〇万もらえばどんな男の愛人にでもなる」と言っているのに対しても「身の程をわきまえぬ」、「このバカ女子大生はいま六五歳のババアです。老後破産してればいいのに。(44p)」とばっさりです。恐ろしいミソジニーに震えます(もちろん1970年代のことで、貨幣価値を考えても、身の程をわきまえていないこと自体は事実ですが、それは本件には関係ないでしょう)。
 他にも大正時代の大会社の重役が二二歳の秘書を手籠めにし、愛人同然に扱い、時計や指輪を買い与えていた事件についても、秘書本人が被害を訴えたわけではなく、この女性の母親が警察に相談に行ったために発覚したことであり、「どうでもいいこと」とばっさり。

 二二歳の大人の女性で、一流企業に勤めるくらいなら、それなりに世間ずれしてるでしょ。仮にきっかけは手籠めにされたことだったとしても、高価な装飾品をくれるおじさまとの割り切った関係を続けていたのではないかと。
(48p)

 言っておきますけど「手籠め」ってレイプですからね。それを師匠は平然と「女も割り切ってただろ、騒ぐようなことか」と断言しているのです。
 あ……あんなに松っちゃんにぐうの音も出ない正論をぶつけていたパオロ様が~~~!!

・これは批判ではない。きみは一蹴されたのだ

 何があったかは知りませんが、同書の出た20年12月から、先のフェミへの帰順を高らかに謳い上げた21年1月のブログ記事に至る、たった一ヶ月の間に師匠は変節したわけです。丁度、ポリコレが異常な勢力となり始めた頃ですね。
 今までの記事や動画をご覧になって、それでまだなお師匠を信頼に足るとお考えになる方はよもやいらっしゃらないでしょうが、それでも強調しておくならば、師匠はこうした、極めて機を見るに敏な、勝ち船に乗るのがお得意な、しかし思考に憑き物が憑いており、クリティカルシンキング(批評的思考)が一切できない方なのです。
 知識もない。
 論理もない。
 根拠もない。
 結論は常に妄想によって導き出される。
 その戦術は徹底したレッテル貼りによる「思考停止」とデマの流布による「プロパガンダ」。
 その目的はあくまで政治的に有利な側に追従するという「事大主義」であり、「論より党派のポリティカルシンキング」の実践。
 それが、反社会学の本質だったのです。


痴漢冤罪とはなにか

2024-06-15 00:19:42 | フェミニズム

 まずはお報せから。
 何と言論プラットフォーム「アゴラ」様で「フェミニストは何故、「男児叩き」をするのか」という記事を書かせていただきました。

 また『女災』[増補改訂版]がKindleで刊行されています。そちらの方もどうぞよろしく。

 

    *     *     *     *

 

 さて、今回は先日うpした動画の補足のような感じです。

風流間唯人の女災対策的読書・第57回「性欲で痴漢しない男、性欲で冤罪を着せる女――Liar/ふのせいよくを、君に」

 パオロ・マッツァリーノ師匠のデマについては既に第55回でも批判したのですが、その後、ご当人が言い訳記事をうpしたので、それにも対応せざるを得なくなり、また長ったらしい動画になってしまいました。
 その時にパオロ師匠の掲げた『痴漢とはなにか』がこれまたどうしようもない本であったため、基本、動画のテーマはそちらにツッコミを入れるのがメインではあったのですが、それすら要所について触れるに留まってしまいました。もうちょっと詳しく見ていきたいということで、こちらへ長文をしたためることになってしまったわけです。

 さて、本書は三部立てで、第一部では少々お堅い法令などの解説や細かいデータが並べ立てられているのですが、その中でちょっと気になる指摘がありました。
「薄着の季節は痴漢が少ない!」(29p)というのです。データとしては警察の、ホンの四ヶ月の間の553人の被疑者に対する聞き取りで、どこまで当てになるのかはわかりませんが、ともあれ痴漢が被害者の選択理由(その女を狙おうと思った理由)として「挑発的な服装」を挙げたのは5.2%にすぎないとし、「被害者の服装が性犯罪を呼び込む」というのは「神話だ」と言います。
 また、他の調査でも「夏は痴漢が少ない」との結果が出ており、これは「露出の高い夏は痴漢が増える」との通念とは相反するもの(もっとも、これは夏休みだからだと思うし、文中でもそれは指摘されているのですが)。
 ともあれ、作者の牧野雅子師匠はこれらデータを挙げ、警察が「夏は女性が狙われる!」的なキャンペーンを張ることに対し、「痴漢をなくそうとは思っていないのだろう」とわけのわからないインネンをつけるのです!!
 この辺りに、もう本書のスタンスは十全に現れています。
 まず上に「挑発的な服装」とありますが、「露出が(ことに夏だからという明確な理由で)高い」のと挑発的な服装では全然違うでしょう。セーラー服を挑発的な服装と言ってしまえば言えるけれども、一般的にはそうではなく、いわゆるケバい格好が想定されるはず。ケバい格好とセーラー服とでは後者が狙われやすく、セーラー服でも冬服と夏服とでは後者が狙われやすいと思われますが、双方では話が全然違います。
 ここで問題なのは牧野師匠の中に、「挑発的な服装」が痴漢の原因であるという「通説」を否定したいとの衝動がまず、あることです。その根底にあるのは要するに、「痴漢が一方的に悪いのだから、女性がどのような格好をしていようと(極端な言い方をすれば全裸で歩こうと)いいのだ、女性に痴漢への防衛策を講じさせてはならない」というフェミお馴染みの考えです。
「痴漢が悪いのはわかるが、それと防衛策を講じることとは矛盾しないではないか、フェミは本当に女性の被害者を減らしたいのか」といった批判は誰もがするところなので繰り返しませんが、動画でも述べたように、そのさらなる根底には、フェミニストの「全ての責を男性にとって欲しい」という煮えたぎるような感情があることは、自明でしょう。「警察は痴漢をなくそうとは思っていない」という謎の決めつけもその一環であることは、もはや多言を要しません。
 ポスターなどによる警察からの乗客への呼びかけで、「痴漢を捕らえよ」といった文言がないことにもお冠。近年統計上、痴漢が減っているのですが、師匠はそれすらもこうした傾向(つまり警察が市民に「痴漢を捕まえよ」と奨励しない)が理由なのではないかと勘繰ります(39p)。
 そんなこと言ったって痴漢に逆ギレされて市民に被害が出たら困るでしょう(もちろん師匠の中で、痴漢を捕まえるべきなのは常に男性なのでしょうね)。『ウルトラマンレオ』の初期では毎回、お話の冒頭で防衛隊と悪い宇宙人が街頭で追っかけっこをしており(宇宙人のくせにまさに痴漢とかこそ泥みたいです)、隊員に「そいつを捕まえてくれ!」と請われた一般市民が宇宙人に立ち向かい、殺されてしまうという展開を繰り返していましたが、それを思わせる話です。
 以降、既に動画でご説明した、「痴漢は性欲ではない」「痴漢被害者が性的羞恥を感じたと考えることは許せぬ」といった戯れ言が続きます。

 さて、一部を読み終えると、動画でも書いたように、昭和から平成に至るまでの週刊誌の痴漢関連記事を引用しては延々憤るという体裁の第二部が始まります。
 確かに、昭和の週刊誌では見ていて不快になるような痴漢擁護、否、賞賛論が溢れており、それに憤る牧野師匠の筆致もお説ごもっともではあります。ただ、それが昭和の価値観に下支えされたものであったことも、忘れてはなりません。
 痴漢推奨論は男女相互の楽しみ(「女だって楽しんでるんだろ?」)といったニュアンスで語られるものが多く、確かに許しがたいのですが、怒る前にそもそもの普通の男女関係というものを、ここでイメージしてみてください。
 基本は男が女にアプローチし、しかし女は意志を明確にすることなく、ムードでことが進み、男は「行ける」と思ったらさらに次のステップに進むというものではないでしょうか。痴漢行為は電車の中で無言でなされるということが異常ではあるけれども、そこを除くと、実は普通の男女交際と基本構造は変わらない。
 言い換えれば「女は自分から動こうとはしないが、セクハラとかが嫌なら女ももう少し自分の意志を表明すべきだろう」ということです。或いは(ここは想像ですが)昭和の女は今よりも消極的であったがため、男は今より以上に積極的な働きかけが求められた(がため、相対的に痴漢行為についての忌避感も今よりも少なかった)のかも知れない。
 そう考えると、やはり犯罪であり、けしからぬことであるとは言え、果たして先の痴漢賞賛論が今の感覚でジャッジされるべきものかとなると、それは違うのではないかと思えるわけです。

 一方、師匠の男性に対する冷酷ぶりは、見ていて背筋が凍るほど。IBMの部長が痴漢騒ぎを起こしたという記事を採り挙げ(116p)、そこで「たかが痴漢、罰金一万円の微罪で一生を棒に振らないよう」と注意を呼びかける記事に、師匠は「たかが」「痴漢騒ぎ」という語句がけしからぬと泣き叫びます。
 この頃から痴漢は(無論性犯罪全体の特徴として立証が難しく、逮捕しにくいという面はあるが、それでも)犯罪として取り締まりの対象となっていたのだし、仮に微罪でも会社を解雇されたり、重要人物なら上のような週刊誌報道があるなどで「一生を棒に振る」、即ち社会的制裁のあるものだったのです。
 男性たちにそこを自省しようとの呼びかけに、ひたすら文句をつける師匠。本当に痴漢を減らしたいんですかね。
 もう一つ、性犯罪で捕まるって、およそ男にとっては最大の恥辱でしょうね。恥辱の度合いを測る装置がない以上、証明しようがありませんが、「痴漢に遭った女性の精神的苦痛」を上回るものなんじゃないでしょうか。
 もちろん、実際に犯行があった場合は自業自得ですが、冤罪だった場合のことを考えると……。
 ところが、痴漢冤罪と女性専用車両について述べた本書の第三部に至ると、師匠はさらに男性の痴漢冤罪問題に対しても、痴漢行為そのもの以上に憤りを炸裂させます。
 2017年の大阪府警のデータでは、痴漢事案の221件中、現行犯逮捕は87件、「指導・警告」が104件ということなのですが(166p)。それをもって、師匠は以下のように言います。

 こうした事実があるにもかかわらず、警察に引き渡された段階で現行犯逮捕されているという話が流布される。
(167p)

 意味がおわかりでしょうか。
 確かに「警察に引き渡された段階で“100%”現行犯逮捕されている」わけではない、現行犯逮捕されるのは半分に満たないということは、上のデータを見れば明らかです。しかし例えばですが致死率50%弱の病気に罹った人に対し、「死ぬとは限らんじゃん」などとお気楽に言えるでしょうか。
 しかしそこを、牧野師匠は(男になら)言えてしまえる人なのです。
 何しろこれ以前でも「メディアは痴漢だという女性のひと声で男性の一生が終わってしまうかのような情報を世に提供してきた。(155p、大意)」などとそれが過ちのように書くのですから。
 これ以降、師匠は痴漢冤罪が話題になったため、「男も被害者」だという言説が増えたとして、以下のように続けます。

ここでは、痴漢に間違われることが被害であり、その不安に怯える人たちも「被害者」であるかのように扱うのだ。それによって、痴漢という性暴力の被害者と冤罪に怯える男性が対置させられる。
 痴漢被害者を、被害者という立場から引きずりおろすことで、痴漢被害者と痴漢冤罪被害者を対比させる論法も見受けられる。
(169p)

 男性を被害者扱いすることは、決してあってはならないのです。
 この後、弁護士の談話を引用し、そこに痴漢に遭ったと称する女性が「自称被害者」と書かれていることに、また師匠は激昂します。

「自称被害者」という呼称が使用されることによって、被害当事者は被害そのものを疑われ、被害者として主張する立場を奪われる。それによって、被害申告は、傾聴すべき語りから、その内容の真偽を厳しく審査すべきものへと変わる。確かに、痴漢に間違われた男性にとっては、厄介なトラブルであることは間違いない。しかし、一方で、その人物が犯人ではなかったにせよ、被害に遭った女性にとっては、紛れもない犯罪被害であり、単なる「トラブル」ではあり得ない。それを、間違われた男性にとっては「トラブル」だからと、女性の性被害を「トラブル」という位置に引きずりおろすことは、刑事手続き上も問題があるのではないか。
(170p)

 そう、痴漢に間違われることは「トラブル」にすぎません。
 それによって現行犯逮捕されても。
 罪は免れても会社を解雇される、本名を報道されるなど普通にあることなのですが、それくらい、男なのだから「トラブル」のひと言で片づけないといけないのですね。
 本書を絶賛するパオロ師匠は当然、冤罪で立場を失っても、笑顔でフェミに心酔し続けるのでしょう。
 また痴漢冤罪について語られる時には、女性にも他人ごとではないと周知させようと、「濡れ衣を着せられた男性の家族、つまり女性も苦しむのだ」といった話題が出ることもありますが、これにも師匠は発狂します。

ここで被害者女性は、冤罪被害男性のみならず、その家族、とりわけ妻という女性を苦境に陥れる存在として描かれている。家族の女性を取り込んだ女性の分断を煽る手法といえる。
(171p)

 意味が、おわかりでしょうか。
 ずっと当noteをご覧いただいてきた方なら、「は、は~ん」とお思いかもと思うのですが、要するに「強制異性愛」の概念ですよね。「本来、女は男に興味などなかったが、陰謀で男と結婚させられた。そして男の妻と痴漢被害者という形で、女は敵対的な立場に分断させられているのだ」という妄想です。もちろん、その前提には「男が好きで好きで仕方がないが、モテないので男に興味のないフリをせざるを得ない」というさらなるホンネが隠されているのですが。
「手法といえる」が千両で、まさに「男どもは痴漢冤罪を“利用”して(計算尽くで)女を分断しているのだ」との牧野師匠の取り返しのつかなくなった妄想が、十全に表現されています。
 痴漢に間違われた男が「誰がお前なんかに触るか」と一喝したという武勇伝めいた週刊誌記事もありますが、当然、師匠は憤死寸前で書き連ねます。

痴漢に間違われたことは、男性には屈辱的な体験だったのだろうが、女性が、人違いとはいえ痴漢被害には遭っていたとしたら、この男性の「誰が触るんだ」という罵倒は、被害を告白した当事者の語りを否定する、被害者に対する二次被害に他ならない。
(中略)
この男性とおそらくは書き手もが「スッとした」のは、ここぞとばかりに女性を侮辱し、罵倒することができたからだ。日常生活では言えないことが、痴漢冤罪にかこつけて言えたのだ。
(191p)

 あぁそうですか、よかったですね。
 痴漢冤罪に伴い、ゼロ年代には女性専用車両が普及しましたが、師匠はそれに対しても怒髪で天を突きます。
「女性記者同伴で女性専用車両を視察し、侮蔑する記事が増えた、差別だ」というのです(大意、213p)。
 もう、女性専用車両をわざわざ作ったら作ったでここまで癇癪を起こすその心性に仰天します。

 女性専用車両は、男が排除されており男性にとって差別的であると言われることが多いが、こうした、男の目がなければ野放図になってしまう女を描こうとすることで、男性の女性支配欲求をあらわにし、女性差別が今も続いていることを示してしまっている。
(215p)

 あぁ、そうですか。
 女性専用車両は男性にとっては面白いものではなく、多少のことを言われるのは仕方ないと思うのですが(そして師匠が目を皿のようにして見つけ出しているだけで、実際にはそこまでこうした記事が多かったわけではないのでしょうが)、見ていくと同様の企画は女性誌でもなされており、これは主婦のOLに対する対抗意識が源泉なのかもしれません。
 もう一つ、『犯罪白書』のデータによれば、痴漢示談金名目の詐欺事件は2005年、1512件あったといいます。すごい数です。しかしこれについての師匠の言い分は、以下のようなもの。

被害者の多くのは女性で、高齢者に多く、加害者のほとんどは男性である。
(173p)

 一瞬、意味がわからずぽかんとなってしまいますが、何のことはないオレオレ詐欺ですよね、これ。実際に、参考文献を見るとそうした文字が並んでいます。

 痴漢でっち上げ詐欺と聞いて、女性による男性の被害を思い描く男性誌には、息子や夫の痴漢事件をでっち上げて女性から高額な金を振り込ませる男性たちという現実は描かれない。女性の置かれた状況は、ここでも、関心の外なのだ。
(174p)

 何を言ってるのかわかりませんが、痴漢冤罪については男の妻に対し「あなたも他人ごとじゃないぞ」と言うと発狂するのに、都合が悪くなると「母」や「妻」の被害者を持ち出してくるのだからたまりません。加害者が男だから嬉しくなって、そこで思考が停止しちゃったんでしょう。
 またこういうの、主犯は男が多いとしても、女の共犯者も相当いるんじゃないでしょうか。例えば電話口で痴漢被害者を演じ、「あなたの息子がやったのよ!」とヒステリックに叫ぶなど。オレオレ詐欺って劇団みたいになって警官役、弁護士役とかがいたりするそうですし。

 ――以上、本書は全てがこの調子でページをめくる度に頭がおかしくなりそうですが、それを一気に読み、一気に絶賛し、一気に書かれてもいないことを読み取るパオロ師匠はさすがとしか言いようがありません。
 元はと言えばパオロ師匠がデタラメを書き、ソースを求められてあたふたと東奔西走したことです。初期段階であれば、「無知なため、舞田敏彦師匠の嘘に騙された」でギリ逃げられたものを、言い訳を繰り返したがため、師匠当人が故意にデマを流している、重篤なフェミ信者であることが、明らかになってしまったわけです。
 動画や本稿でご説明してきた通り、フェミニストにとっては痴漢被害を減らすことは眼中になく、もっぱら被害者女性に寄り添うフリをして、「被害者意識」を共有することによるマスターベーションの敢行こそが主目的であることは、もはや明らかです。
 パオロ師匠もまた、そうしたフェミに寄り添うフリをして、これからもマスターベーションに邁進なさるのでしょう。


風流間唯人の女災対策的読書・第57回「性欲で痴漢しない男、性欲で冤罪を着せる女――Liar/ふのせいよくを、君に」

2024-05-11 20:19:33 | フェミニズム

 第五十七回目です。

風流間唯人の女災対策的読書・第57回「性欲で痴漢しない男、性欲で冤罪を着せる女――Liar/ふのせいよくを、君に」

 兵頭新児に完膚なきまでにデマを暴露されたパオロ・マッツァリーノが、またしても苦しい言い訳をしていました。
 それを笑うと共に、彼が「新たな証拠」として持ち出してきた書、『痴漢とはなにか』のデタラメぶりを、君に。

 最後に述べた、『WiLL Online』様の記事は以下を。

フェミニズム関連の裁判から浮上する奇妙な共通点

 本動画の前編に当たる動画は以下を。

風流間唯人の女災対策的読書・第55回「パオロ・マッツァリーノの不埒な研究報告 フェミ騎士最終解答」

劇中で言及された過去動画は以下を。

風流間唯人の女災対策的読書・第20回「ミソジニーとミサンドリー」

風流間唯人の女災対策的読書・第18回「強制異性愛社会――フェミニストがポルノを憎む本当の理由(わけ)」


風流間唯人の女災対策的読書・第54回「震災から女災へ そして、性犯罪は捏造される」

2024-02-10 18:16:15 | フェミニズム

 第五十三回目です!

風流間唯人の女災対策的読書・第54回「震災から女災へ そして、性犯罪は捏造される」

 能登半島地震の際、ネット上で阪神大震災でも東北大震災でも被災地で性暴力が多発したとの噂が流れました。しかしそれは、本当のことだったのでしょうか?
 フェミニズムが「男性への冤罪そのもの」であることはもう、誰もが知るところではありますが、今回はそんな中の一つをお伝えすることにしましょう。

 それと、『WiLL Online』において書かせていただいた記事が、早くもランキング一位となっています。
 パオロ・マッツァリーノという評論家が松本人志騒動について述べているのですが、それが非道いもので……。
 未見の方はこちらも!

松本人志さんの騒動に便乗する怪しい人たち【兵頭新児】