兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

間違いだらけの論客選び

2018-02-16 23:11:34 | レビュー


 今回俎上に上げるのは、2017年の冬コミでゲットした後藤和智師匠の同人誌です。
 いや、本当は今年初の記事をこれにするつもりでいたのですが、まあ、ああした予想外の事態が起きてしまいましたので……。
 さてみなさん、後藤師匠をご存じでしょうか。かなり旧聞に属しますが以前、コミケで撒かれた「TPP反対」のチラシに噛みついた御仁です。その時の言い分がケッサクで、「萌えキャラを使用して政治主張をさせていた、けしからぬ」というわけのわからぬモノ*1
 そのチラシでは東方のキャラの「扇情的な」姿と共に、そうした主張がなされておりました。「扇情的」と言っても大したものでもなく、ましてや東方のキャラは公式がパロディ化を容認しています。無許可の版権キャラの凄惨極まる二次創作が溢れており、それを正義とするのがコミケのはずですが、そしてまた師匠のブースの周囲は政治的主張がなされた本を売っているサークルばかりだと思うのですが、師匠は「扇情的な姿を描くとは何事、本当にキャラを愛しているのか」「キャラクターに自らの主張を代弁させるとはけしからぬ」「コミケで政治主張をするな」といった理解不能の理由をもって、チラシの主を人でも殺したかのように舌鋒を極めて罵っておりました。とにもかくにも「表現の自由」を何よりも深く憎悪する、リベラルならではの言動と言えましょう。
 そうそう、『男性権力の神話』が出た時の師匠の言にも肝を潰しました。何せ師匠は件の書を「「女性よりも男性のほうが差別されている」と主張しているものではな」い、などと事実と全く異なる紹介*2していたのですから! とにもかくにも「内容がいかなるものであろうとも、味方の書いたものであれば肯定」というリベラルの揺るぎない派閥性がここでも明らかになり、ぼくたちの胸にさわやかな感動を運んできました。

*1 詳しくは「不惑のフェミニズム」を参照のこと。
 ちなみに後藤師匠はぼくに批判されたことがよほど気に入らないらしく、(自分はブロックしておきながら)ずっとぼくのツイートを監視しているみたいです。今回、調べていて5chの彼のスレッドで以下のようなつぶやきに気づきました。

えー球審の後藤です(半ギレ)。なんかH頭S児のクソ野郎に私について「コミケで本が売れないので途方に暮れている」とかリークしている奴がいましたが私は同コミケで6桁の売上を記録しました。なお本当に途方に暮れているのは、駅メモのガチャで根雨さんが出なかったことです。
https://twitter.com/kazugoto/status/948419966386126849


 いや、しかし、それにしても、文筆活動をする資格があるのかはなはだ疑問といわざるを得ない人間が売り上げ六桁を行くとは(これ、金額のことなのかなあ?)、本当に、羨ましいですね。
*2 (https://booklog.jp/users/kazutomogoto/archives/1/4861824737


 その後藤師匠が冬コミでぼくの著作を俎上に乗せるというのだから、こちらとしても心中穏やかではいられません。そんなわけで早速ゲットしたのが本書です。
 見るとまあ、タイトルにあるとおり「論客」と称すべき人々の著作のタイトルが出るわ出るわ。ぼく以外にも(東浩紀師匠、宇野常寛辺りはまあ、どうでもいいんですが)岡田斗司夫氏、本田透氏、小浜逸郎氏と錚々たるメンツの著作が、やり玉に挙げられております。
 もっとも内容は他愛のないモノ。「対応分析」やらいう手法で著作を分析したというのですが、要は本を(70年代アニメの悪役のごとく)こんぴゅーたーにかけて単語を抽出、その傾向を調べたという、徒労に近いモノです。PTAが昔、(まだ子供も専業主婦も多く、その活動が活発であり)漫画やテレビアニメを目の仇にしていた時代、「作中に銃が何丁、刀が何本登場した、教育に悪い」といった文句のつけ方をし、また漫画家の方も(確か藤子A氏だったと思います)そのやり方に閉口して「内容を見てくれ」とぼやいていたのを思い出します。
 本書では著書一冊につき1pを使い、そうした分析で導き出したグラフと共に寸評が書かれているわけです。例えば小浜氏の『人はひとりで生きていけるか』については

 小谷野敦の『すばらしき愚民社会』に見られるような「大衆社会」批判であるが、この本の中ではやたらと「自分は政治には疎いが、現在(当時)の民主党政権があまりにも酷いのでついつい政治について語ってしまった」という趣旨の(原文ママ)文言が目立つ(これ、「っべー、政治について詳しくねえのについ政治を語っちまったわー」というような〈地獄のミサワ〉感が強い)。
(60p)


 といった具合。「対応分析」やらいう頭のよさそうな手法と、幼稚な罵倒に終始した本文とのギャップがすごいです。
『電波男』については

はっきり言って、全体としてネット掲示板的な言い回しや女性を侮蔑する表現が非常に多く、極めて読みづらかった。しかし本書で説かれたような女性観は、後にロスジェネ言説やオタク言説に引き継がれ、ネット上における女性差別として実を結んでいるあたり、実に罪深い本であると言える。ごめんなさい(実は私もこの本をかつてそれなりに高く評価していたのでした……)。
(44p)


 とあります。どうもよくわかりません。「かつてそれなりに高く評価していた」時にはこの本が「読みづら」くは感じなかったのが、「真実に目覚めた」後に読み返すと「読みづらかった」のでしょうか。それとも評価していた頃から「読みづらかった」のでしょうか。文脈から見るに、この「読みづら」いはあくまで「内容に賛成できない、不快である」といった意味に取れるので、前者かとも思いますが、それにしても何かヘンです。
 最後は

 ちなみにカテゴリ9の使用頻度も全体で3位だった。結局のところ、愚痴だったということか。


 で終わっています。
 このカテゴリ9として選択されている単語は、以下のような具合です。

男性、場所人生、バカ、母親、先生、電話、好き、選ぶ、男、女、子
(17p)


 どうも、師匠にとっては、これらが使われている本は「愚痴としての傾向」が強いらしいのです。
「バカ」が使われていれば「愚痴」というのはわからないでもないですが、「男性」とか「場所」とがが多用されている本が愚痴だという価値観がさっぱりわかりません。師匠は「近い性質を持った単語を集めて(16p)」と言っているのだけれども、「電話」と「人生」って近い性質を持っているんでしょうか。まさかとは思いますが、これらは後藤師匠の判断で恣意的に集めてきた単語なのではないでしょうか*3
 というわけで恣意的に「電話」と「子」の性質が近いのだと強弁し、好きな単語をセレクトして、そこに「愚痴」というレッテルを勝手に貼りつけて、それらの単語が多いからその本は愚痴だと言い募ることが、後藤師匠の方法論であることがわかりました。
 師匠はぼくの書を「自分と異なる考え方を持った人たちや異なる社会集団(その中のマイノリティ)をバッシングするもの」であると罵倒していますが、少なくとも本書を見て間違いなく言えるのは、恣意的な要素を恣意的に結びつけることで、自分と異なる考え方を持った人たちや異なる社会集団(その中のマイノリティ)をバッシングする、リベラルの傾向であるように思えるのですが……。

*3 師匠のセレクトが恣意性に満ちていることは、間違いないかと思います。何しろ、堀井憲一郎氏の著作を複数採り挙げた箇所では、

同著は今回も採り上げるが、著者初めての新書である『若者殺しの時代』と比較することにした。同書は、ロスジェネ系・オタク系の男性論客に広く共有されている「バブル女」への敵愾心を含んでるからだ。
(122p)


 と、自分の選択が恣意的であることをあどけなく吐露しているのですから!


 しかし、それより、ぼくはここでかつては師匠が本田氏を評価していたと知り、大変意外に感じました。ですが、考えるとこの本は話題になった当初は結構、リベラルにも評価されていた気がするのです。大御所フェミニストの小倉千加子師匠も結構好意的な評を与えていましたし(リップサービスレベルのモノですが、しかしフェミニストがそれをすること自体がすごいことです)、草食系男子大好き芸人として有名な森岡正博師匠も本書を絶賛していました。宮台真司師匠も『バックラッシュ!』というフェミの言い訳本の中で本書を「気持ちはものすごくよくわかる、だけど違う(大意)」といった割合共感的な評を与えていました。
 何というか……師匠の説明不足な文章からちらちら窺い知れることからの推測でしかないのですが、当時『電波男』はロスジェネ論みたいな感じで評価されていたのかも知れません。リベラルが『電波男』を取り込もうとしていたというのは今となっては理解しがたい話ですが、彼らが無茶苦茶なデタラメを弄してオタクを取り込もうとしたり、またフェミが「男性学」などと称して男性を取り込もうとしたりは現在進行形の事態です。事実、当時のいわゆる「非モテ論壇」には反女性的なスタンスのモノと同時に、「フェミニズムに理解を示す(と、本人たちが自称していました)」リベラル寄りの流派も存在していたのです。彼らのスタンスはよく知らないのですが、「何か、安陪さんのせいでモテない」みたいな方向に持って行こうとしていたのでは、といった気もします。いや、俺がモテないのはどう考えても女性を輝かせようとする安陪さんが悪いんですが。
 で、まあ、『電波男』のモテモテぶりに便乗しようとして『女災何とか』みたいな本を書いたバカがいた気がするのですが、彼が「自分をオタクだと思い込んでいる一般リベ」の総バッシングにあったということはご存じの通り。この潮目の変化は「ミソジニー」という言葉の登場の仕方と対になっている気がします。
 リベラル君の一部は当初、「これだ!」と『電波男』という鉱脈に飛びついた。そしてセミをご主人様に見せびらかす猫みたいに、グルにご報告に行った。しかしそこでグルのガールフレンドであるフェミ様のキツい叱責を受けた。フェミニストは子分たちの愚かさにブチ切れ、「ミソジニー」という概念の流布を急いだ……本田氏の「消え」方は本当に不気味ですが、以上のような事情が、或いは裏にはあったのかも知れません。
 そしてまたこれはちょうど、ぼくが時々指摘する、「セクハラ」の時はフェミを批判する気概のあったマスコミが、「ジェンダー」といった概念が流布した辺りから完全にフェミの傀儡と化したのと、全く同様な現象のようにも思えますね。

 事実、本書から立ち昇ってくるのは、相手を女性差別的であると言い立てて、とにもかくにも「表現の自由」を踏みにじってやろうという師匠の惛い情念です。
 ちょっとまえがきに立ち戻ってみましょう。

またロスジェネ程度の男性オタクによる議論は、いまのまとめサイトに代表されるような反フェミニズムと密接に繋がっております。
(略)
本書で分析しているオタク論客の著書には、明らかに反女性的な傾向が見られます。それをいかに位置付けるかにより、ヘイトスピーチ対策にも役立つのではないかという算段です。
(3p)


 う~む、東浩紀師匠も宇野常寛も岡田斗司夫氏もみな「オタク論客」だと思うのだけれど、諸氏の著作も反女性的な傾向が見られるとは知らなかったなあ……。
 師匠の主張を特徴づけているのは、反フェミニズムは即、反女性であるとの短絡、そしてそれら(フェミニズム批判にせよ女性批判にせよ)は是非を論じる以前に、その存在自体がまず許されないヘイトスピーチなのであるとのリベラルならではの思考停止、他者排除、言論否定です。
 ちなみに上には「いまのまとめサイト」とありますが、これはどうも「まとめサイト一般」とでもいった意味らしい。まとめサイトで反フェミ的なところを、少なくともぼくは一つも知らないのですが。
 また、「対応分析」についての事前説明の項では様々な「主成分」について述べられています。中でもぼくや本田氏の書は「主成分3」の「負の方向」に位置づけられるのだと幾度も幾度も繰り返されます。この「主成分3」というのは「オタク論の哲学系?/近年の保守論壇系」であるとされ、

 主成分3は、単語だけ見るとかなり解釈に困るものだった。というのも、正の方向には「仮面ライダー」「ケータイ」「ネットワーク」「キャラクター」、負の方向には「萌える」「オタク」などの単語が並ぶなど、どちらもオタク文化論系の単語が見られたからだ。
(8p)


 などとあります。
 統計分析に知識がないので、正直ぼくも正確には理解していませんが、「対応分析」というのは要するに、各因子の相関関係をグラフ化して現す手法、みたいなことのようです*4
「ケータイ」や「ネットワーク」はともかく、他の単語が頻出したらそれはオタク論であろうというのは一応、わかるのですが、「仮面ライダー」が唐突でギョッとします。他に「主成分」の中には作品名、ないしキャラクター名は見当たらず、この単語だけ何故選ばれたのか、謎です
 正の方向、負の方向の意味がどうにもわからないのですが、読み進めると師匠が悪しき価値観だと思っている単語が頻出する時に「負の方向」と言っているように思え、これはどうも「近年の保守論壇系」との相関関係が高く、「オタク論の哲学系?」とは低いことを示しているのだと思われます(いえ、別に「オタク論の哲学系?」と「近年の保守論壇系」とは相反する概念ではないのだから、不自然かとは思うのですが、他の「成分」が一応、対立概念を並べているように思えたので今回はそのように解釈しました)。
 しかし……恣意的に選んだ単語を分析して恣意的な因子と因子を組みあわせて相関関係を調べた上、因子に「?」マークをつけられても「勝手に言っとれ」以上の感想を持てません。
 先の記述には続いて、

 負の方向には、本田透『電波男』や勢古浩爾『まれに見るバカ』、兵頭新児『ぼくたちの女災社会』などといった、女性を中心に自分と異なる社会集団をバッシングする書籍と、ケント・ギルバート『儒教に支配された中国人と韓国人の悲劇』や竹田恒泰、渡部昇一といった保守論壇の人物が並立された。
(略)
 この方向は、近年のヘイトスピーチを支えている保守論理、ないしネット上の保守言説(所謂「ネット右翼」)的な傾向と言うことができるだろう。
(8p)


 とあり、また、ケント・ギルバート『儒教に支配された中国人と韓国人の悲劇』評のページでは、

主成分3の負の方向には、本田透『電波男』、勢古浩爾『まれに見るバカ』、橋本治『バカになったか、日本人』、兵頭新児『ぼくたちの女災社会』など、自分と異なる考え方を持った人たちや異なる社会集団(その中のマイノリティ)をバッシングするものが多く位置付けられている。この指標を「ヘイト本」的な傾向として捉えることができるのだ。
(95p)


 と、ほとんど同じ内容が(少ない文字数にもかかわらず)繰り返されております。
 上には書かれていませんが、「主成分3」の「負方向」には「朝鮮」「韓国」「中国」といった単語も含まれており、要はそれらと「萌える」「女」という単語を同一視すれば、オタクと保守論者は「完全に一致」するというモノスゴく頭のいいことを、師匠はおっしゃっているわけです。何せ、ぼくの本にそれらの単語が出た回数は

 朝鮮:0
 韓国:0
 中国:1

 といった具合なのに(ただし、本文のみではなく表も含めるともっと出てきます)、師匠の基準では、ぼくの本はいわゆる反韓本と同一視されてしまうわけです。
 まあ、このリクツではフェミニストの書いた本など、絶対に「ヘイト本」になるわけですが、そこはそれ、師匠は独断で採り挙げる本を決めていらっしゃるので「多い日も安心」なわけですね。

*4 とは書いたものの、そもそもグラフってみんなそうですよね。詳しくは(https://res.pesco.co.jp/analysis/statistics/corresponding/)辺りをご覧ください。以下の図がわかりやすいかと思います。

【分析例】
年代別にみた昼食の特徴(架空のデータ)


 上の表を、以下みたいな感じにするのがそうみたいです。


 さて、いよいよ師匠の兵頭新児評を採り挙げましょう(いや、もう今までのでおなかいっぱいなのですが……)。ごく短いモノなので、全文引用してみます。

 ストーカー、痴漢冤罪などといった「女性による男性の受難」を「女性災害」と表現した議論で、内容はとにかく女性叩きに溢れている、典型的なフェミニズムからの「バックラッシュ」系議論と言える。近年ネット上においても性犯罪・性暴力被害者への理解が(まだ足りないものの)進んできた一方で、いまだに本書の議論のように「女性の権利向上によって、いまや男性が「被害者」「弱者」である」という認識を示す人も後を絶たない(名前は伏せるが、某人気成人向け漫画家が削除したブログにもこのような認識が示されていた)。ちなみに統計には現れていないが女性はかなりの割合で「ナオン」と書かれている……。
 チャートを見ると、まず主成分3・6・8がかなり負の方向に振れているのが見られる。ネット上の右派言説、コミュニケーション論、サブカルチャー論の悪魔合体がここでは見られるというこおとだ。(原文ママ)そして主成分1・7も正の方向に強く振れている(どちらも十指に入る)。自らとは異なる社会集団を理由をつけて叩くという宮台社会学の正当な後継者は、東浩紀や宇野常寛ではなく兵頭ではないかと言えるのかもしれない。
 ちなみにカテゴリ9の単語の使用頻度は31.21%と堂々の一位(ちなみに二位は勢古浩爾『まれに見るバカ」の26.61%)。まあ、そういうことです。
(58p)


「主成分3・6・8」とありますが、6、8はそれぞれ「決断主義系/引きこもり系」、「劣化言説系/サブカルチャー論系」。一言で言えばこれらが負であるというのは「引きこもり系」「サブカルチャー論系」の論調が強いというわけでしょう。この評は別段、異存はありません。
「1・7」は「若者論的傾向/政治論的傾向」、「宮台社会学系?/マーケティング社会学系」。これが正というのは「若者論的傾向」、「宮台社会学系?」が強いということでしょうか(「宮台――」というのがよくわかりませんが、上の寸評からするに「差別的」とでもいった意味あいを込めているようです)。
 笑ってしまうのが「ナオン」表記に泣きを入れているところで、ここで師匠が自らの徒労に近い手法について認識を改めてくれれば、ぼくも本書を著した甲斐があったというものです
(ところで「某人気成人向け漫画家」って、誰のことなんでしょう?)
 いや、しかし、それにしても、唖然とするのが、相手の主張に反論するのではなく、とにもかくにも女性叩きは許せぬとただひたすら思考停止を続ける(他のリベラル君と何ら変わることのない)後藤師匠の姿です。
 ぼくは著作で、性犯罪冤罪の洒落にならない実態を素描しました。そうした事実関係やそれを元にしたぼくの議論の仕方に問題があるのであれば、そこを批判すればよい。しかし師匠は(そして全リベラルは)それをしない。ただひたすらに女性についてネガティブな記述があった、許せぬと半狂乱になるばかりです。
女性の権利向上によって、いまや男性が「被害者」「弱者」である」という認識が間違っているというのであれば、そこを指摘すればよい。しかし師匠にはそれができない。専ら、言論そのものがまかりならぬまかりならぬと絶叫するばかりです。どこに問題があるのかさっぱりわからないチラシを全否定して泣き叫んだあの時と、全く同じに。
 いえ、そもそも著作から単語のみを拾い上げ、「こんな要素が多かった、けしからぬ本だ」と真っ赤になるという師匠の方法論自体が、最初っからそうした「言論」というモノを見事なまでに、惚れ惚れするほどに、清々しいまでに迷いなく打ち捨てることでしか採用できないモノであることは、考えてみれば自明です。自らとは異なる社会集団を理由のないままに叩くという宮台社会学の正当な後継者は、東浩紀や宇野常寛ではなく後藤ではないかと言えるのかもしれない
 ちなみに「カテゴリ9」とやらに属する「男性」「女性」、或いは「バカ」といった単語は確かにぼくの著作に頻出していますが、この「バカ」にしても、そもそも「ぼくがバカなだけですが」など、必ずしも相手を「バカ」と罵倒する時のみに使っていたわけではない。しかし師匠はそうしたことに対する忖度を一切、働かせないのです。
 他にもざっと検索したところ、(先の基準でいえば、ぼくが多用していなければならない)単語の使用頻度は

 場所:1
 人生:3
 電話:7
 先生:6

 でした(ただし引用中のものは除く)。
 まあ、正直多いのか少ないのかわかりませんが、「男性」「女性」という言葉がこれの数十倍出て来ていることは、確かです。逆にこれら単語が頻出し、「男性」「女性」「バカ」といった単語が全く出ない本があったとしても、それは師匠にとっては「ヘイトスピーチ本」なのです。まあ、そういうことです

うるさい日本の私

2018-02-09 23:54:10 | 男性学


 去年の秋は、ずっと「と学会」の本を採り挙げてきました。
 それによってフェミニズムが完全なトンデモであること、そしてまたこのトンデモが(他のトンデモと同様に、しかしその度合いは類例のないくらいに深く)日本の中枢にまで入り込んでいること、これについてはインテリたちの見識すらも一切の役に立たないことが明らかにできました。
 おかげで去年の後半はほぼ、と学会の本の再読に費やしてしまいました。まあ、こんなことでもなければ生涯二度と読まなかった本もあろうし、面白い体験ではあったのですが。そんなわけでつい先日も『トンデモ本 男の世界』を読んでおりました。既に記事は書いちゃった後なので読む必要もなかったのですが、これを読破すれば『年鑑』を除きと学会本がほぼコンプリできるので、せっかくだからという感じだったのですが……。
 そこで本書のレビューを、と学会の中でも名文家である植木不等式氏がやっていることに気づきました。いえ、気づきましたも何も買った時に一度読んでいるわけで、そのこと自体は覚えていたのですが、以下のような極めて秀逸な下りがあったことは、すっかり失念していたのです。

本書の秘められた価値とは、ひょっとしたらそれが男性論としても読めることなのかもしれない。
(237p)



 ここです。
 いえ、ここだけを取り出すならば、そこまで驚くべきことではないかも知れません。上にも書いたように、このレビューは『トンデモ本 男の世界』に掲載されたモノ。「男性にまつわるトンデモ本を紹介する」ことが主旨の本です。言ってしまえばこの『男の世界』でレビューされた本はそのいずれもが「男性論としても読める」はずです。
 しかしそれはひとまず置いて、続けましょう。
『うるさい日本の私』に対してです。
 当ブログを読むような方ならばご存じの方も多そうな気がするのですが、本書は中島義道氏の代表作と言っていいでしょう。何しろ文庫版だけで何Verも出ているという、文筆家にしてみれば血涙迸らせて妬むべき存在(本稿のために最新版を買ったら、単行本一種、文庫版は何と三種も出ているとのこと。ぼくの中の中島氏へのシンパシーがこの瞬間、吹き飛びました)。
 しかし本書、確かに売れるのも納得の面白さです。
 著者は哲学者ですが、とにもかくにも騒音が大嫌い。「スピーカー音恐怖症」と自称するその嫌いぶりは正直病的ではないかとの印象も持つのですが――というかそもそも、本書の書き出しそのものが「私は病気である。」なのですが――彼にしてみればどこへ行ってもうるさいアナウンスで溢れている日本の方が狂っていると思われるのです。
 彼は竿竹屋のスピーカーの音声などにも敵意を燃やすと同時に、デパートや駅の施設における「エレベータにお乗りの際はベルトに捕まって……」「白線の内側にお下がりください」などといった注意喚起のアナウンスを、お節介極まるモノとして深く憎悪しています。つまり彼の怒りには、何割か純粋な音量へのモノではない側面が含まれている気もするのですが……まあ、そこは置いて、ひとまずは純粋に音量に対する耐性が(それも極めて)低い人なのであると捉えておきましょう。
 そして、彼は戦いを開始します。
 メガホンで大声でがなり立てる行列の整列係に切れては「そんな大声を出さずとも整列させることはできる」と実際に列をさばいてみせる。竿竹屋などに文句をつけては逆切れされて追い回されたり、逆に「この一帯で得られたはずの利益分のカネは払うから来ないでくれ」と現金を差し出し、あっさり言うことを聞いてもらったり。
 そうした著者の、苦闘の数々にページが割かれているのがまず、読み物として純粋に面白いのです。

 さて、植木氏の評に立ち戻りましょう。

 あくまで個人的感想で恐縮だが、自分の個人的被害感情に基づいて他者とバトる、という点では、一般的に男性よりも女性の方が高い能力を持っている気がする。「こんな女に誰がした」は、当該女性の物言いとしてしっくり来て、語弊を恐れずに言えば男性文化の中ではある種の色気すら感じさせてしまう。女性イコール弱者という、現在までも続く文化的ないし現実の社会的状況が、こういう物言いを受容させてしまっているのである。
(中略)
 私自身はこれは、不幸な状況だと思う。 ジョン・レノンに『ウーマン・イズ・ザ・ニガー・オブ・ザ・ワールド』という日本語にしづらいタイトルの歌があるが、システムが女性を被差別的な状況に置く限り、「誰がした」という被害者感覚も続いてしまうであろう。本来あるべき姿とは、男女ともに、自己の現状の責任を他者に押しつけることなく、自ら引き受ける「自己責任」の社会である。私的にはそう思う。
(238p)


 植木氏の評は誠に卓見という他なく、これ以上つけ加えることはありません。
 いえ、

システムが女性を被差別的な状況に置く限り、「誰がした」という被害者感覚も続いてしまうであろう。


 といった下りは賛成できませんが。女性が「誰がした」という被害者感覚を抱いたが故に、システムが女性を被差別的な状況に置かれていると一見、錯覚させるモノになっているというのが正しいのでは。
 まあ、それはいつも言っていることですから、横に置いて置いてもう少し続けましょう。植木氏は「ナカジマちゃん」といういじめっ子を仮想し、男の子はナカジマちゃんにいじめられて親に泣きついても、厳しく当たられることが多かろう、と指摘します。

 特に男性は、自己の被害感情を表に出すことを、文化的にあまり許容されてこなかった。
(中略)
 それが許容されるのはたぶんナカジマちゃんが衆目一致するようなイジメっ子であるといったように被害が「公的」なものだと認知される場合においてである。
(238-239p)



 全く素晴らしい!
 全面的に賛成です。
 ただ、とはいえ、「男も被害感情を露わにしていいのだ」といった物言い自体が、ある意味で既にメンズリブやら男性学やらいうフェミニストの使徒が繰り返し、すっかり汚染物質にまみれてしまってもいます。しかしながら彼ら彼女らにとって、男が被害感情を露わにすることを許されるのは、彼ら彼女らの考える政敵へとそれがぶつけられる時に限ってであることは、みなさんもよくご存じでしょう。
 しかし、ぼくが植木氏の指摘が鋭いと思うのは、これがまさにそうした「男性学」やらの書を読んで発せられた感想などではなく、本書を読んでのものであったから、なのです。
 兵頭新児大先生という天才の名著『ぼくたちの女災社会』では男は「三人称性」の、女は「一人称性」の主であると語られます。また同氏の天才的慧眼ではサブカルは「他者指向」でありオタクは「自己省察的」であるとされ、オタクをそれ故に女性的側面を有しながら、それに自覚的でもある存在であるとします。
『男性権力の神話』でも同様でしたね*1。男性はいまだ「ステージⅠ=生存欲を満たす段階」に留まっているが、女性は「ステージⅡ=自己実現欲を満たす段階」にいる、即ち「男性は彼ら自身の司令官になったことは一度もなかった」のだ、というのがそこでなされた指摘であり、それは男性が「一人称性」の主ではない、との意味なのです。
 植木氏はまさにそれらと同じ主張、つまり「男も被害感情を露わにしていいのだ」ではなく、いや、それ以前の問題として、「男は被害感情を露わにできない性として初期設定されているのだ」との指摘をしているのです。
 そして、そうした結論に、本書を読むことで至ったという経緯そのものがまさに、彼の慧眼ぶりを表しています。「ナカジマちゃんが衆目一致するようなイジメっ子であるといったように被害が「公的」なものだと認知される場合」という比喩が非常に重要で、これは「男は公的な怒りしか、発露してはいけない決まりである」との意味なのですね。
 実際には中島氏は「拡声器音声を考える会」という市民グループに参加したり、「静音権確立をめざす市民の会」を名乗ったり(相手へのハッタリのための名刺を作っているだけですが)はしているのですが、基本、「個」として「騒音」という敵に立ち向かっている。そこが重要です。
 彼は自らの苦痛を社会のマジョリティが理解してくれないことを理解し、以下のように言います。

 現代日本で身長一五五センチメートルの若者は、この悩みを知っている。偏差値四〇の大学生はこの悩みを知っている。「醜い」としか言いようのない女性(たしかにいるものである)はこの悩みを知っている。身体障害者や精神障害者なら、その人権は手厚く保護される。彼らは人権侵害に対して声を大にして訴えることができる。だが、身長一五五センチメートルの若者が「チビ同盟」を結成してその苦しみを訴えることができようか?
(7p)


 いや、まあ、チビもブスも今の世の中、表立って笑う人はいないであろうことに比べ、中島氏の苦悩はほとんどの人にとってさっぱりわからないことでしょうし、その意味では彼のマイノリティ性はチビやブス以上、とも言えると思うのですが。事実、彼の騒音に対する訴えはアナウンスなどの係に常に困惑を持って迎えられますし、彼がバス内のアナウンスを苦心惨憺して止めさせた時、その変化に乗客の誰もが無関心であったことに驚く下りもあります。
 ともあれ、中島氏の怒りは世間が、「いったん認められたマイノリティ(それこそ女性であり、同性愛者であり……)に対しては極度にセンシティブなのに対し、認められていないマイノリティに対しては絶望的なまでに鈍感である」ことに向けられます。
 ここは、ぼくが近年繰り返している主張と丸きり被りますね。
「弱者男性」へのフェミニスト、リベラルたちの陰惨無惨なもの言いに対しての、「サベツである、仮に韓国人相手ならどうなんだ?」といった言い方。これ自体はぼくもすることなので、そうした指摘自体がまかりならん、というわけではないのですが、限界はあるわけです。最近、KTBアニキが

勝部元気 Genki Katsube‏認証済みアカウント @KTB_genki
『弱者男性が日本を滅ぼす』という本を出したい。どこかに興味持ってくださる編集者さんいないかな。そこそこ注目されるような気がするんだけど。
https://twitter.com/KTB_genki/status/943365740589039617


 こんなステキなうわごとを発しておいででした。それに反発した方が「障害者」の男性も「弱者男性」だぞ、と言い立てたのですが、それはやっぱり無理筋でしょう。「障害者」はここでカテゴライズされるいわゆる「弱者男性」ではないのですから。
 ここは中島氏の、あくまで自分自身の属性に依って立つやり方をこそ、ぼくたちは学ぶべきです。
 更に読み進めると、彼は「優しさ」をこそ悪だと断じ、人ともっと対話をしていくことを訴えているのす。
 本書の四章、五章(つまりラストの)の章タイトルはそれぞれ

「優しさ」という名の暴力
「察する」美学から「語る」美学へ


 というものです。
 ここで言う「優しさ」とは「優しさのあり方が、テンプレで決まっていること」と言い換えられましょう。そしてそれはまさに日本人が「察する」美学を愛するから。そりゃそうです、責任なんか取りたくないから、誰かにテンプレを、「女性は弱者だから持ち上げろ、男はぞんざいに扱え」といった「正義」を用意してほしいんです。
 先ほどちょっと言いかけた、「お節介なアナウンス」への中島氏への憎悪の理由も、こうなれば明らかでしょう。「一応、俺言っておいたからね」で責任逃れをするようなやり方が、彼にとっては何よりも許せないのです。
 つまり中島氏は「俺も弱者仲間に入れろ」と言っているのではなく、「世の中には多様な人間がいる。しかし、多様性論者は実際にはそうした真の多様性には絶対に目を向けない。そうした本当の意味での多様性に対応する方法はテンプレを用意しての対応をすることではなく、その場その場で個々と話していくことだけだ」とでもいった主張をしていると言えます。
 しかしここで、また別な「方法論」を選んだ者もいます。
 そう、「フェミニスト」、及び「男性差別クラスタ」、そして「秋山真人」です。
 フェミニズムとは「個的な怒りを公的な怒りにすり替えるノウハウ」でした。「最初っから一人称だけで突っ走らせていただきますとの、すがすがしいまでにエゴに徹しきるためのレトリック」でした。
 そして、その「方法論」に学んだのが男性差別クラスタと、秋山真人氏です。
 詳しいことは以前の記事を読んでいただきたいのですが*2、秋山氏は「クラスのみんなに注目してほしくてユリ・ゲラーの真似をしているうちに超能力に開眼、目下はと学会などのエスパーを否定し、ヘイトスピーチを繰り返すレイシスト集団に対し、エスパーの人権を守るための戦いを繰り広げている」、ある種の人権活動家です。
 以上はご本人の公式プロフィールとは違う部分もありますが、ぼくが彼の守護霊から聞き出した霊言を元にしたモノなので、絶対に間違いがありません
 そう、自分の情緒以外に根拠を持ち得ない「弱者性」をもって、世間からいくらか還元してもらう。秋山氏の方法論はフェミニズムに学んだモノであったのです。
 中島氏のスタンスは、それと真逆です。だから彼はまず、「私個人」との立場を明確にして、いちいち相手にケンカをふっかけるという方法論を選び取ったのです。
 読んでいけば、彼が公明正大な正義を謳って運動をしているのではないことは明らかで、文中では「相手を選んで戦っている」ことが強調されます。暴走族とやりあえば彼はわかりやすい英雄だが、それはしない。リスク回避という点で当たり前だし、何より彼は「正義のために」ではなく「俺のために」活動しているのですから。
 ただし、ぼく自身は、例えば話を「男性問題」に転じた時、そうした方法論のみが望ましいのだ、と言っているわけでは全くありません。例えば「男性団体」を作り、NGOのような形で国家からいくらかのカネを巻き上げることに、ぼくはあまり興味がありませんが、それが絶対ダメだと言っているわけではないし、むしろ男性が共有すべきロジックという意味においての「テンプレ」を作ることは有効でしょうし、現に幾人かが既に成し遂げているし、大変重要なことでしょう。
 ただ、中島氏が「先人の中のおっちょこちょい」を見て、それを選ばなかったことに価値がある、との指摘を、ここではしたいのです。

*1「男性権力の神話 《男性差別》の可視化と撤廃のための学問
男性権力の神話 《男性差別》の可視化と撤廃のための学問(その2)
*2「トンデモ女性学の後始末」の「ファクト9 その憎悪には、根拠がない」を参照。


 中島氏と騒音を出している主体(鉄道会社など)とのバトルは、中島氏のクレーマーぶりに眉を潜めなくもないのですが、企業側のお役所的対応にうんざりしている人間であれば、ある種の爽快感を感じさせます。
 ただし、中島氏の「なおざりを嫌う」心理には大変共感するのですが、相手側の心情もわかります。相手側が彼に頑なな態度を取るケースが多いのは、もちろん一つには「商売の邪魔をするな」との心理が原因でしょう。これは商売上、大きな音を立てねばならない者と、それがイヤでたまらない者とのバトル。いつも言う、「近代的個人主義の社会では、こうした争いが絶え間なく起きるに決まっている(のに、自分の気に入らない相手は自民党の操る戦闘員だとのビジョンで動いているから左派はダメだ)」ということです。
 そう、本書の価値の一つは「マイノリティに優しく」という惹句は大変もっともなモノだけれども、「でも共存できないマイノが出てきた時、どうするか考えてそれ言ってんの、お前?」との鋭い突っ込み足り得ている部分です。
 しかしもう一つ、大きなことを忘れてはならない気がします。
 中島氏の敵は必ずしも、完全に正当な必要性があって大きな音を立てているとは限りません。
 論理的にアナウンスは必要ないと説いても、それどころか整列など静かにできるのだと実践による成果を見せられても、場合によってはキャッシュを懐にねじ込まれても、相手はやり方を改めません。お役所的と思うと同時、しかしその気持ちも大変よくわかるのです。
 それは「仕事を否定されたくない」というものなのではないでしょうか。
 例えば車内アナウンスなどは、想像するに会社の窓際みたいな人がやっているのでしょう(作るのは業者でしょうが、業者への発注係などはやはり、そうじゃないでしょうか)。そうなればことはいよいよ重大です。
 言ってみれば世の中の仕事の大部分は、その仕事をしている人物以外にも代替可能であり、いえそれどころかそもそも「なくても別にいい」業種だって多いことでしょう。
 しかし男にとって、仕事は一番のアイデンティティです。
 何故か。男は「三人称的存在」だからです。お前の仕事が無意味であると突きつけることは、男にとっては死の宣告に等しい残忍無比な振る舞いでしょう。
 つまり中島氏の行為は男女を逆転させて考えるなら、「ブスにお前のようなブスなどこの世に不要だと言っている」にも等しいのです。ブスであればブスであるほど、それは傷つくに違いありません。
 バス内のアナウンスを苦心惨憺して止めさせた中島氏は、その変化に乗客の誰もが無関心であったことに驚きます。恐らくその時、アナウンス係は思っていたのではないでしょうか。「恐れていたことが起きた」。
 そう、中島氏は非道にも、バスのアナウンス係に「お前の仕事は無駄だ、無駄飯食いだ」と最終通告を突きつけたのです。自分の苦情に対しての係の四角四面な対応に対し、彼は「紋切り型だ!」と激怒します。その気持ちもわかるのですが、恐らく相手は薄々以上のような展開を予測できているからこそ、腹を割って話そうとしないのではないでしょうか。
 本書は「一人称的存在になさしめてくれ」という血の出るような叫びと「三人称的存在でいさせてくれ」という血の出るような叫びのバトルでした。
 そう、本書は男性論の本だったのです。