兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

モテキ(その2)

2010-07-17 22:55:14 | アニメ・コミック・ゲーム

すんドめ』という漫画があります。
『ヤングチャンピオン』連載、作者は岡田和人……と言えば何となくイメージが沸くのではないでしょうか。
 内容は言うまでもなく、高ビー女が気の弱い少年を振り回すラブコメ。主人公の少年はオタクなのですが、掲載誌の価値観に従って(?)本作ではオタクは徹底的に薄気味の悪い異物として描かれます。
 そして本作は実写映画にもなっており、基本的に漫画の実写化というのはイタいものですが、本作はそれが輪にかけて非道く、「オタク描写」が酸鼻を極める凄惨なものになっておりました。
 主人公が所属するオカルト研究会がUFOを召喚する儀式として珍奇なポーズで珍奇に叫ぶシーンがあるのですが、メイキングで(ぼくはDVDで見ました)役者さんが「見せ場なのではりきって演じました」とエビス顔でインタビューに答えていたのが大変に印象的でした。後、温水洋一が「摺千好男(ずりせんすきお)」という映画だけのオリジナルキャラとして登場します。80年代だったらヤングに大受けだったかも知れませんね。
 これほどアキバだ萌えだと騒がれるようになっても、世間サマにとってオタクというのはフリーキーな異物、それも「キモさで嗤いを取る」ためのツールでしかないのだなぁと。まあ、『ヤングチャンピオン』だからってのもあるでしょうが。


 さて、ドラマ版『モテキ』の第一回が昨日(正確には今日ですか)、放映されました。
 むろん、期待はありません。
 きっとフジ君や漫画家のオム先生の描写が目を覆わんばかりのものになってるんだろうな……との陰鬱たる気分で、鑑賞しました。
 お話としては基本は原作に忠実ですし、過度な漫画的描写(漫画的演技や演出を実写でやってしまい、滑っている描写)はなかったのですが、クライマックスのフジ君の流血や「ギャル御輿(笑)」のシーンなど、やはりギャグっぽく小馬鹿にした感じに描かれていたように思います。前者は原作にはなかった描写ですし、御輿に担がれて滑稽にはしゃぐフジ君をOPやアイキャッチで繰り返し繰り返し描写するのははっきり言って、センスがありません(多分、苦労して撮ったシーンなんでしょうが、見ていて「CGでいいから女の子を百人くらい並べられないのかな、と思いました)。
 高校時代のフジ君が『ときメモ』に熱中していたなど、原作にはなかった描写です。
 実のところ、原作でもフジ君は高校生の頃萌えエロ漫画を描いていたなど、確信犯的にオタクとして描写されていたので、恐らくその種の描写を増やそうというのが、作り手の意向なのでしょう。


 一方、原作でもフジ君がただの「モテモテ君」になってしまった中盤以降に比べ、初期編の彼はモテないことの惨めさや「スウィーツ」への嫌悪感などを露わにし、女たちがそれを一喝するというパターンが繰り返されておりました(前回の『モテキ』評が比較的穏健だったのも、巻が進むにつれ不快感が収束していったから、という面もあります

 放映されたドラマ版も全体のトーンがその頃のものであるため薄っぺらな男性批判色が濃厚で、見ていてムカムカ来ますw
 本作について、匿名掲示板を見てみると男性たちの嫌悪感が渦巻いているのですが、ブログを見てみると、まあ予想通りの言説が並んでおりました。
 とある女性はフジ君が受け身であることを、人でも殺したかのごとくただひたすら罵り貶め、返す刀で現実の非モテ男子に対しても「お前らは本作を見て自分を理解してもらえたと感じて喜ぶことだろうが、女はお前らのふがいなさにいらいらしているのだ」とこれまた人でも殺したかのごとくただひたすら罵り貶めていました。
 しかし是非はともかく、少なくとも本作を読んで喜んだ「非モテ」はほとんどいなかったようです。
 彼女が、男性が本作を読んで不快感を表明するとは夢にも想像できなかった理由。
 それはそうした「男性側の本音」が決して表には立ち現れない、否、表出することが社会的に許されず、仮に表出されても「ネット上のワルモノたちの戯言」として隠蔽されてしまう状況にこそあり、それが、ぼくには非道く不気味です(あとがきを読む限りでは、そもそも作者も非モテ男子を読者として想定していたようです)。
 また、男性もブログになるやどういうわけか本作を誉め湛え始めます。
 仮想敵は言うまでもなく、アキバ的<ハーレム漫画>
 世間のいわゆる<ハーレム漫画>は女性がペラッペラな記号的存在であり、男性に都合のよいようにしか描かれていないのだそうです。しかし本作はそれにアンチテーゼを提示するアンチ・ハーレム漫画であり、そうした<ハーレム系>とは一線を画す優れた作品なのだそうです。ぼくの指摘と全く逆の感想ですね。
 上の女性は「自分から真面目に女の子を好きになれるほど他人に興味もないくせに」とおっしゃっていますが、『モテキ』の女性たちが「真面目に男の子を好きになれ」ないくせにフジ君の周りをうろちょろしている方がぼくには不純に思えますし、下の男性が言う<ハーレム系>より、ぼくには本作の女性たちの方が遙かにペラッペラな記号的存在であり、デリヘルみたいに思えるのですが、そんなこと言ったってムダなんでしょうな、萌え系の作品なんてこの人たち、何言ったって見ないでしょうし。
 要は目に見える場では、ぼくたちは「女性の内面描写」とやらを見た瞬間ひれ伏し拝み(別に、
「私はブスでつらい」とか言ってるだけだったりするのですが、彼ら彼女らの目にとってはそれがどういうわけかものすごく深い描写に映ってしまうようです)、男性を批判することがお約束になっているということなのです。
 そしてこの種の凡庸な主張を繰り返すブログは、恐らくドラマ化に伴っていよいよ増えていくことになるのでしょう。
 昨日、やや煮え切らない評価をしていたように、本作は決して「見た瞬間、はらわたが煮えくりかえる」ような種類の作品ではありません。
 しかし、考えるとフジ君という「ツッコミ待ち」キャラを漫画として描き、それをドラマ化することで「オタクの真実の姿(テレビで見るオタクこそが、彼らにとってのオタク観の全てでしょう)」とやらを世間に晒し上げ、ブロガーたちにテンプレな「社会のお約束」を語らせる。
 そこで初めて『モテキ』は完結する作品なのかも知れません。


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モテキ

2010-07-16 00:28:23 | アニメ・コミック・ゲーム

「オタク、或いは非モテへの、女性からの果敢な働きかけ」。
 取り敢えず、本作はそうまとめてしまえるように思います。
 更に言えば「オタクというものを知らない女性がオタクを主人公に据えた漫画を描くとどうなるか」という疑問への一つの答え、とでも言いますか。
 普通の(普通に性格のいい)女の子がオタクに気を遣いながら話しかけてきて、とは言え彼女がオタク向けと思って持ち出してくれる話題はどうにもずれていて、オタクの側も冷や汗をかきながら対応している……と、本書を読んでいて思い浮かんだのは、何だかそんな光景でした。
 そもそも本作の主人公、フジ君は飲み会で女性と同席するし、ライブでデートとかするし、女の子とラーメンの食べ歩きとかするし(最後のは、作者としては男性側に歩み寄ろうとしてくれたのかも知れませんが)、そんなやつのどこが非モテだ? という疑問を、まず感じてしまいます。むろん「それは主人公にモテキ(=モテる時期)が訪れたからだ」ということなのでしょうが、「以前から、そうした女性の知りあいが大勢いた」こと自体がぼくたちからすれば充分に「リア充」に見えてしまうわけです(この感想はネットでも散見されました)。


 ……随分、思わせぶりなことを書きましたが、ぼくの本書の読後感は「微妙」の一言に尽きます。
「面白かった」わけでもないのですが、「酸鼻を極める男性差別描写に、
憤怒の河を渡った」というわけでもありません。
 ストーリーはご想像通り、基本的には「ダメ男にいい女がお説教する」の繰り返し。とは言えフジ君自身、それなりに誠意や内省を持った男性として描かれますし、相手の女性も必ずしも「常に肯定されるべき上位の存在」として描かれるわけでもありません。つまり、それなりのバランス感覚を持って描かれてた作品であるため、読んでいてムカムカする、或いは拳を振り上げて糾弾の対象にするというレベルのものでもないわけです。


 むしろ、本作を特徴づけるのはそのストーリーの破綻ぶりでしょう。
 女性である作者があまりストーリー構成に重きを置かなかったのかも知れませんが、それにしてもこの支離滅裂さは尋常なものではなく、恐らくは編集者との行き違いなどといった外的要因による路線変更が、連載中に幾度もなされたのではないでしょうか。
 化粧っ気のない地味な女性、いつかちゃんといいムードになるフジ君ですが、急に出てきた亜紀ちゃんに唐突に乗り換え、いつかちゃんは何らエピソードが描かれないままに登場しなくなります(このエピソードにおけるフジ君の行動そのものもまた、意味のわからないものでした)、その亜紀ちゃんとの関係も、フジ君がヘルニアを発症して郷里に帰ると共に自然消滅していまい(本当に唐突に、いきなりヘルニアになるという、行き当たりばったりのストーリー展開!)、郷里では以前フジ君をふった夏樹ちゃんが何故か急に積極的に迫ってきます。この作品は最後までこの調子で、女性が代わる代わる現れてはフジ君に積極的に迫り、しかしフジ君がグズグズしているうちにフェードアウト、その繰り返しです。

 恐らくこの作品の舞台裏では、編集者と作者がフニャコフニャオとドラえもんのようなやり取りをしていたのではないでしょうか。

 いや……しかし考えてみれば、男性がグズグズしているうちに女性があっさり見切りをつけて消えていくという展開は、極めてリアルではあります。
 そう考えると本作の破綻だらけに見える構成は、或いは意図的なものだったのかも知れません。つまり、これはいわゆる「ギャルゲー」の構造を、リアルに再構築してみせたものと考えることができるのではないか、と。女の子が次々に現れ、何の取り柄もない主人公がモテモテになるという「ギャルゲー」、その現実離れした設定に「リアルな内面」を与えるとこうなりましたよ、という。
『マジンガーZ』をリアル化したものが『ガンダム』であると考えるならば、後者は前者に比べ、ヒーロー活劇としてのカタルシスに欠けるという短所を持つ一方、リアルな人間関係を描いているところが長所とも言えます。
 そうか……そういうことだったのか……本作は「ギャルゲー」に対する『ガンダム』だったんだよ!!


 な、なんだって(ry


 ――いえ、やはりそれは違うでしょう。
 そもそも女の子が次々と日替わり定食のように現れて主人公モテモテ、というハーレム構造を初めて提示した作品が何なのかは、不勉強なぼくにはわかりかねますが、その元祖は「萌え文化」などではなくそれ以前(遅くとも80年代)に流行した青年誌のお色気漫画、『サルまん』で言うところの「エロコメ」だったわけです。
 翻って、「ギャルゲー」はよく「ハーレム物」という言い方がされますが、実際には女の子との一対一の恋愛が描かれ、その「愛する人は一人」という「保守的」な恋愛観は「進歩派」のセンセイ方
お叱りを受ける一因になっております(とは言え、ラノベなどは結構ぬるいハーレム構造を持っているものが多いようではありますが)。
 さて、言わば『マジンガー』の兜甲児が自らが戦う理由、自らの正義に疑念を抱かないのと同様、「ギャルゲー」における恋愛もある種、前時代的なドラマ性が保たれ、主人公が自らの恋愛感情に疑問を抱くことはありません。
 しかし本作において、フジ君はモテたいモテたいと繰り返しているわりに(そして「夏樹ちゃんが一番好きだ」と称しているわりに)現れる女性たちには優柔不断な態度を取り続けます。そんなフジ君に、女性たちが「自分から動け」「女に下駄を預けるな」とお説教を繰り返すのが、本作の要諦です。それはまるで、戦う理由が見出せず、延々と頭を抱えっぱなしのシンジ君と、彼にお説教をするミサトさんのように。
 そしてまたこの作品、リアルと言えばリアルですが、そもそもそんなやつに美人が次から次へと求愛してくるという状況自体が、巨大ロボット物なんかよりも遥かにアンリアルでもあります。しかしそれも、言わば美人がフジ君にお説教するというシチュエーションをお膳立てするために、敢えて描いていることだったわけですね。
 上で本作を「スーパーロボット物」と「リアルロボット物」との対置によって語ってみましたが、しかし 一般に「リアルロボット物」と呼ばれるものの中にも、ある程度リアルな世界観を突き詰めているものもあれば、リアルな世界の描写を重ねておいて、その中にポンとアンリアルな異物を混ぜ込むタイプの作品もあります。それこそ『エヴァ』など、後者以外の何者でもありませんね。
 即ち「リアル系」の世界観の中で「女性が異様にフジ君に積極的」という状況を説明するため、まさしく「モテキ」という「スーパー系」な設定を配した「変則型のリアル系」作品、それが本作であると言うことができるのです。
 そうか……そういうことだったのか……本作は「ギャルゲー」に対する『エヴァ』だったんだよ!!


 な、なんだって(ry


 ――いえ、やはりそれも違うでしょう。
『エヴァ』は男の子が自分から動き出したら、女の子は「気持ち悪い」とか言いやがるのだ、という女災の本質までをも描破しきっています。
 しかし本作は相も変わらず、不勉強にも、最後にフジ君が「社会に向けて一歩踏み出す」的なオチをつけて終わってしまいます(話としてはぶった切ったような「俺たちの戦いはこれからだ!」エンドですが、あとがきでは作者が「誰にも必要とされなくとも誰かとかかわっていくことが大事なのでフジ君には彼女を作らせなかった云々」などとご高説をのたまっています)。
 そしてまた、女性たちは積極的なわりには見切りをつけるのが異常に早く、結局フジ君のことをそれほど好きなようには見えません。そんな相手に股を開こうとする彼女らは当然、男性経験も少なくないようで、結果的にいわゆる「ビッチ」キャラばかりになっています。
「女性を真剣に愛せ」とお説教を繰り出してくる女性たちの誰一人として、「男性を真剣に愛していない」という構図。
 しかしそれを奇妙な図だと思ってしまうのは恐らくぼくたち、オタクだけでしょう。
 果たして、何故彼女らはみなビッチなのでしょうか?
 フジ君をある程度振り向かせようと画策しつつも、プライドのキャパの限界を超えるや、とっとと「そんなに好きじゃなかったのよ」「他にも男はいるし」と言わんばかりに退場してしまう女性たちからは、作者の思いが透けて見えるようです。
 トゥルーヒロインである夏樹ちゃんは、フジ君にこう語ります。


「あの頃の幸世君(引用者註・フジ君)って私が好きになるの待ちって感じだったじゃん
それが重かったわけよ
あ 別に幸世君の事嫌いだったわけじゃないよ?
でも私はまだ“好き”って思えてなかったわけ」



 彼女らはここまで頑なにプライドを保ちつつ、「男が、求愛しろ」との要求を突きつけてきます。
 これを「女どものダブルスタンダードだ」と憤るのはオタクだけで、リア充様たちはこれを粛々と受け容れているのだ、だからお前たちも受け容れよ。
 作者は、そう言いたげです。
 まあ、アレですね、A-BOYだの草食系男子だの、不況の折、女性たちもいろいろ大変なわけですね。
 しかしながら、美人に描かれる亜紀ちゃんも夏樹ちゃんも、ビッチに過ぎオタクには受けが悪いでしょう。一番オタク受けするであろう地味系のいつかちゃんが早々に退場してしまったことは、何だか象徴的です(ネットでは、このいつかちゃんを評して「ビッチに憧れる喪女」と呼んでいる人がいました。卓見だと思います)。


 いささか余談めきますが、エジソンのライバルと謳われたニコラ・テスラという発明家がいます。
 今となってはちょっとオカルトめいた人物像ばかりが伝わっていますが、生前の彼は若くして成功を収めた、長身の二枚目でした(まあ晩年は結構悲惨だったようですが……)。と同時にハトだけに心を許し、生涯独身を通した、オタク的な人物でもあります。
 そんな彼に対し、当時の大女優サラ・ベルナールがさりげなくハンカチを落として見せたところ、テスラは紳士的にそれを拾ってサラに手渡し、しかしそのまま立ち去っていったという逸話が残っています。
 女性がその頃から何ら変わっていないことに、驚嘆の念を覚えないでもありません。
 女性のガトリングハンカチ落としを受け、困り果てているテスラ。
 それが今の男性たちの姿なのではないでしょうか。


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