兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

ドラえもん論 すぎたの強弁

2020-04-25 22:00:35 | アニメ・コミック・ゲーム



 ※この記事は、およそ10分で読めます※

 え~と、一応読んじゃったので軽く押さえておきたいのですが……。
 その前に、本稿をお読みいただいている方の中で、『パーマン』の動画をご覧になっていない方はいらっしゃるでしょうか。



 できればそちらを視聴後、本稿をお読みいただきたいのですが、ごく簡単にここまでの経緯を説明しますと、今まで『ドラえもん』評論というのはいくつか出ている。が、リベラル寄りの、フェミニズムに大きな影響を受けた論者たちの言説はほぼ、言いがかりとしか言いようのないものである。
「しずちゃんを嫁にするのがけしからぬ」。
「ジャイ子を蔑ろにするのが許せぬ」。
 フェミニズムに影響を受けた者はフィクションにまで牙を向けてくるということが、はっきりとわかりますね
 そうした「評論」については今までも当ブログで採り挙げてきたのですが*1、つい最近、出版されたのがこれ。動画の中では通読しないままに採り挙げることになったので、ブログで補完するかもと予告めいたことをしてしまったのです。
 が、いざ読んでみると、そこまで熱心に批判を加えたいという衝動を感じませんでした。なかなかいいと思える部分が二割、牽強付会だなあと思える部分が六割、許せぬという感情を覚えたのは二割といった感じでしょうか。
 そもそも本書では『大長編ドラえもん』について書かれた第二章に、全体のほぼ半分のページが割かれています。第三章はSF短編について語られており、本来の『ドラえもん』については第一章とまとめというべき第四章で語られているのみで、これでは『ドラえもん』以上に『大長編』にページが割かれていることになります。
『大長編』は劇場版アニメの原作として描かれたもので、宇宙なり恐竜時代なりで大活躍する冒険譚。そうした性質上、語られるのは自然と地球や人類といったマクロな、スケールの大きなテーマになります。普段の作品とはあくまで別作品なのです。
 本書の、その辺りについて語る筆致は上に書いたとおり牽強付会の念を拭えないのですが、どうしても受け容れられない、論破せねばと思わせるような主張がなされているわけではありません。
 ただ、さらに言うと本書の副題は「ラジカルな「弱さ」の思想」。
 それと同様にネット上の本書に関するインタビュー記事を見ていると、本書は『ドラえもん』を「男性学」の視点で語ったもの、のび太の「弱さ」について語ったものであると盛んに主張されています(第一章冒頭でも同様の論旨が展開されているのですが、まえがきではもっぱら『大長編』にばかり言及がなされているのは、何だか象徴的です)。
 が、本書の半分を占める『大長編』論がそうしたミクロな話題に焦点を当てたもの(という側面もあれど、メインがそう)であるとは、どうにも言い難い。
 そこが、本書の一番まずい、看板に偽りのある点だとも感じました。
 ぶっちゃけると本書は、セールスポイントとしては「男性学の専門家が語る『ドラえもん』」というところにあるのでしょうが、作者が実際に語りたかったのは『大長編』(劇場版アニメ)の方……というねじれが生じているのです。
 ということで本稿では本書の半分以上をばっさり切り捨て、上の副題に即した面を中心に語っていきたいと思います。はっきり言うと第一章だけになってしまいますが、それこそが著者である杉田俊介師匠のホームグラウンドである「男性論」「フェミニズム」で『ドラえもん』を語った部分だからです(何とまあ、それでも前後編になってしまいましたが……)。

*1 源静香は野比のび太と結婚するしかなかったのか
ドラがたり
ドラがたり とよ史とフェミニン兵団
ドラがたり とよ史とチンの騎士


 ●ポンコツ、ドラえもん

 さて、本書が編まれたきっかけは、杉田師匠が大学で学生たちから、「弱い人物と言えばのび太が連想される」といった声を聞いたからだと言います。
 杉田師匠は(別に詳しくは知りませんが、以前採り挙げた著作*2などを見るに)言ってみれば「弱い男としての自分」みたいなイメージでセルフプロデュースしている御仁。以前、『現代思想』の「男性学」特集で執筆者がどいつもこいつも気持ちの悪い「森岡正博萌え」の様相を呈していることを指摘しましたが*3、「男性学」自体が「男だけど弱いボク」というのを理由にフェミの方舟のチケットを何とかせしめようという政治運動、という側面を強く有している(そして、「ボクは弱い、ボクは弱い」と自称しつつ、彼らがチケットを得るためには他の男たちに身も凍るような憎悪を向けることも、度々指摘してきました)。
 そんな彼らが、考えてみれば「のび太という生き方」の政治利用を考えないはずが、最初からないわけです。
 もっとも、杉田師匠ののび太評は、それほど外しているとは思いません。
 そこで述べられるのは、今となっては誰もが知る「のび太の結婚前夜」でのしずちゃんのパパのセリフ(のび太は他人の幸福を喜び、不幸を悲しむことのできる人間である)、『のび太の恐竜』のフタバスズキリュウを始めとして、動物や植物、無生物(台風のフー子など)にも愛情を注げる人物であるなど、まあ、語り尽くされたこととはいえ、別段異論はありません。
 また、

 そんな中で、のび太の性格は、戦後日本の去勢された「男の子」(オトナになれないコドモ)のシンボルでもあります。のび太は「永遠に成熟できない私たち」の自画像でもあるのです。
(28p)


 といった指摘もなかなか秀逸です。
 さらにはこれを大塚英志氏の「アトムの命題」(いつまで経っても成長できないアトムは戦後日本の男性のカリカチュアライズである、といった指摘)と絡める辺りも唸らされました。
 ……いえ、動画を観てくださった方はご承知の通り、ぼくはその指摘を、さらに深化させて語っているのですが。
 動画でも述べたように『ドラえもん』大ブームの80年代に出された『ドラえもん研究』において、のび太は「何もしない世代の誕生か」と語られています。若者の時代、反体制の時代である70年代に登場した矢吹ジョーや星飛雄馬などに続く者としてのび太が出てきたことは、全共闘世代にしてみれば、相当にショックだったことでしょう。これはまた、サブカルがオタクを見る時の視線にもつながるものです。
 しかし、首をかしげてしまうのは以下の記述。

 ドラえもんもまた、根本的なところでは成熟できないけれども、それでも自分の存在理由を内省して、のび太との関係=友情を見つめなおし、成長しようとしているのです。
(52p)


 これ以降、師匠は「ドラえもんもまた、弱い」と続け、それは本書の主要な主張なのですが、どうにも首肯できません。
 師匠はその証拠として、初期のドラえもんが非常に切れやすいキャラであったことを挙げるのです。
「のろいのカメラ」をご記憶でしょうか。のび太が泣いて帰ってくると、ドラえもんはのび太が口を開く前から「またスネ夫だな」と激怒し、復讐のために飛び出していきます。むしろ強いキャラだったのですね。
 しかしこれは、当初の『ドラえもん』が『オバQ』に連なる作として描かれていたからなのです。
 今まで書いたことがあるかどうか忘れちゃいましたが、フロイトは人間の心を自我、イド、超自我に腑分けしました。自我は簡単にいえば意識そのもの、イドは欲望です。正ちゃんは「自我」であり、Qちゃんは「イド」、つまり正ちゃんの拡張した「欲望」そのものなのです。正ちゃんが「空を飛べることができたら、学校に遅刻せずに済むのに」と考えると、すかさずQちゃんは彼を乗せて空を飛ぶ。『オバQ』においては正ちゃんが始めた遊びを途中で飽きて放り出してしまうのに、Qちゃんが継続するといった展開が非常に多く描かれていました。二人は実は、同一人物だったのです*4
『ドラえもん』はのび太の両親を過保護に、のび太をことさらに無気力(初期ののび太はスネ夫に自慢されても素直に感心しているようなキャラでした)にすることで、やはり少々大人向きの作劇を狙っていた(上の構造を踏襲しつつ、よりそこに大きな意味づけを持たせた)のですが、作品構造そのものは『オバQ』を引き継いでいた、と言えるわけです。
 つまり、確かに連載初期とそれ以降では、ドラえもん自身のキャラクターは異なる。しかしそれは作品の構造自体が変化したためである。そこを「ドラえもん自身の作中の成長」と強弁するのは、それこそドラえもんの絵が初期と後期では違うこと、つまり初期は太っていたのがだんだんと頭が大きく、身体が小さく描かれるようになったことを根拠に「野比家ではロクにものを食わせてもらっていない」と解釈するようなものではないでしょうか。さらに、そこまで言うならのび太の性格の変化、つまり初期ののんびり屋やから作品構造の変化以降、少々ちゃっかり屋になったこともまた「成長」であるとすべきでしょう。
 他にもドラえもんの「弱さ」として挙げられるのは「未来のデパートでセール品になったこと」。
 そりゃ「ドラえもん大辞典」での話や!!
 これは企画ものの記事に描かれたことで、本編のものではありません。
 もちろん、そうは言っても藤子Fの手によるものだから公式設定だ、ということは可能ですが、そりゃ「優秀なロボットであった」ではギャグにならないからそうしただけでしょう(そして、これが突き詰められたのが藤子Fのアシスタント、方倉陽二氏による『ドラえもん百科』だと言えます。これはドラえもんブームの際に描かれたやはり企画ものの漫画で、ここでは「本来、主役ではないドラえもんを主役として引っ張り出してきたがために」、やたらとドラえもんに道化役を演じさせることになり、結果、本編とはまた随分と違ったドラえもん像が描かれる作品となりました)。
 他にも後期作品「ションボリ、ドラえもん」において、ポンコツロボットのドラえもんより、ドラミの方がのび太のお守りとしてふさわしいのではないかと言われる話もまた、根拠に持ち出されます。
 まあ、一応ドラえもんよりドラミの方が優秀とされているのは事実ですが、実は登場当初のドラミはそんな感じではなく、「家庭用の道具(「そくせき料理機」など)しか持っていないし、機械の扱いも下手な上にママのように口うるさい」存在とされていました。『パーマン』のガン子がそうであったように当時の「妹」は「萌え」の対象ではなく、男の子にとっての「敵」だったのです。
 よく知られる、兄より良質なオイルを使っている、兄より頭が三倍いいなどの設定はやはり、上の「方倉設定」だったりするのです。しかし本書においてそこを指摘し、「ドラミもまた弱さを持っており、成長した」などとする箇所はないのだから、ぼくなんかは「あぁ、女の子はヒイキされていいなあ」なんて思ったりします。
 もっとも、「ドラえもんの弱さはついのび太を甘やかしてしまう母性的なもの」という結論そのものは、全くその通りだと思いますが、それは今までに挙げられた、上の諸々とはあまりつながるものではありません。
 結局、『ドラえもん』という作品が「弱さ」を巡る物語である、という杉田師匠の打ち出してきた主題は全く、正しいと思います。
 ただ、「ドラえもんも弱い」はどうしても「弱さ芸人」である杉田師匠がついつい自らの芸風にこと寄せるため、テキストを強引に解釈してしまっている感が、非常にする。
 ぼくがいつも言っている「『ドラえもん』はのび太の私小説である」、または「(Qちゃんと正ちゃん同様)ドラえもんとのび太は同一人物である」との解釈を導入すれば、別にわざわざドラえもんを「弱い」とする必要はないし、やはりそちらの解釈の方がいいのではないかなあ……というのが、ぼくの感想です。

*2 冬休み男性学祭り!!(その1.『非モテの品格』)
*3『現代思想 男性学の現在』(その2)
*4 もっともこの説自体は、実は虫コミックス版『オバQ』の巻末の解説で誰かが語っていたものです。


 ――さて、以上はホンの前振りなのですが……それでもう、それなりの文字数を稼いでしまいました。
 次回はいよいよ「フェミニズム」「男性学」をフォーマットにした杉田師匠の『ドラえもん』論に踏み込みます。
 待て、次週!!

【反フェミはこれ一本でおk】風流間唯人の女災対策的読書・第6回『パーマン』(後半)【ゆっくり解説】

2020-04-18 23:17:33 | アニメ・コミック・ゲーム


【反フェミはこれ一本でおk】風流間唯人の女災対策的読書・第6回『パーマン』(後半)【ゆっくり解説】


みんなの人気者、パーマンが帰ってきたよ!!

パーマンセット、パー着!!
……というわけでコロナ対策の給付金が気になる今日この頃ですが、皆さんいかがお過ごしでしょうか。
本日は前回の続き。
『パーマン』が、そして少年漫画そのものがいかに変貌していったかを、「男性論」の観点からご紹介しましょう。
そうこうしているうちにまたしてもフェミ視線の『ドラえもん論』なるものが出てしまいました。
ぼくたちは藤子漫画を守るためにも、フェミニズムに対抗していかなければならないことが、本動画を観れば理解できることでしょう。
 正直、youtuberとして収入を得る、などは夢のまた夢の状況ですが、登録していただく、高評価ボタンを押していただく、コメントをつけていただくことで再生数が上がるようです。
 また、当動画で『女災』に興味を持っていただけたら、kindleでお買い求めいただければ幸いです。
 どうぞよろしくお願いいたします。

エンタのフェミ様!(再)――NHKのデマ放送の元ネタが、デタラメ極まる件

2020-04-11 19:30:13 | 女災対策について


 ※この記事は、およそ10分で読めます※

 さて、前回記事の続きです(本稿とNHKのデマとの関係については、そちらをご参照ください)。 
前回の本を採り上げた後、当時(十年前)のぼくはさらにそれから遡って十年以上前の書籍、雑誌などに当たり、正井礼子師匠を始めとするフェミニストたちの言い分にどこまで理があるかを検証しました。
 それが以下の記事ですが、読み直すと本当に、フェミニストの言動が全く変わりなく信頼の一切置けないものであることがわかります。
 相手の批判に誠実に応えることなく「何か、こっちをバカにしていて許せん」とふわっとした観念論で相手を罵倒、否定する。ネット上のフェミ側の人物たちの「反論」もまた、ほぼ100%これです。
 翻って、ぼくがそれに対し「お気持ち絶対主義」とでもいった指摘をしているのも、読み返していて気づきました。御田寺圭の著作が『女災社会』に墨を塗ったものであるとの指摘は既にしていますが、本当に彼はぼくの後追いばかりをやっていることがわかります。
 では、前説はこのくらいにしまして……。

*     *     *


性犯罪、なくすつもりで捏造(つく)ってる! ハイ! ハイ! ハイハイハイ!」でおなじみの過激お笑い集団・ウィメンズネットこうべが面白いのをやっていました。
 阪神大震災当時、彼女らは個人ボランティアHさんが電話相談で聞いたレイプ事件についての事例を、あちこちで吹聴しました。
 が、そこへライターの与那原恵さんから、Hさんが極めて信用ならない人物であること、兵庫県警が震災の年に認知した強姦事件が15件で例年よりも少なかったことなどを挙げての、鋭いツッコミがありました。
 それに対してウィメンズネットこうべを率いるリーダー、正井礼子師匠のリアクションは……。

 
これ自体注目すべきことであり、警察の限界として将来指摘されるであろう。



 この天然ボケには、読者一同ズコー(ハットリくん風)。
 その他にも与那原姉さんは、正井師匠が「誰かが可愛い女の子の噂をしていた」と言うだけの事例までも「レイプ未遂」だと言い張っていたことに対しても鋭いツッコミをしていたのですが、師匠はそれに対して「スルー」という地獄の新人芸人つぶしで読者の快哉をさらっていました。

 ――さて、ここからはちょっとマジメモードで。
 前エントリでフェミニストたちの不誠実さが、また露わになったかと思います。与那原姉さんにそれを暴露されて以降も、彼女らが全く反省したそぶりを見せていないことも、既に書きました。

 が、例の与那原姉さんのルポに対して、彼女らもいくつかの反論を試みていました。
 今回はそれをご紹介したいと思います。
 上に挙げたのはウィメンズネットこうべが発行した冊子「災害と女性」(2005年刊)からの引用です。正確には上の「警察が間違ってる(大意)」という発言は正井師匠ご本人のものではなく、彼女が精神科医・斉藤学センセイのコラムから引用したものなのですが、斉藤センセイはこの後「犠牲者たちの多くは警察を相手にしていない(だから認知件数には現れないのだ)。」というリクツを展開し始めます。
「ええ? 仮にそうだとしても、本当に震災でレイプが多発していたとしたら、警察の認知件数に現れる数は(発生件数より少ないにしても)、やっぱり増えるはずなんじゃないの?」という読者の疑問を完全に「スルー」という斉藤師匠のドSぶりに、フェミニストたちは快哉の声を上げておりました。

 Mixiでも、「本当に警察に落ち度があると思うのなら、フェミニストは裁判で争えばいい」という意見がありました。まさしくそうですよね、裁判は彼女らの得意技なのですから。
 フェミニストたちは「レイプがあった」と「多発した」の区別を、どうしてもつけることができないようです。ぼくも数字が苦手なので親しみを覚えないでもないのですが、しかし彼女らに唱和して、与那原姉さんを口汚く罵る斉藤センセイは「数字が読めない人」として学者の看板を下ろした方がよろしいでしょう(むろん、「フェミニズム」は下より学問ではないので、彼女らは学者の看板を降ろす必要はありません)。
 マジメな話、正井師匠が「女の子の噂をした」だけのことをレイプ未遂と言い募った件は、とても看過できる話ではありません。逆にもしこれが与那原姉さん側のでっち上げ*ならば、師匠はそれに対して反論すべきだったはず。そこを見事にスルー、というのはやはり師匠側に非があると言われても、仕方がないのではないでしょうか。

*例えばですが、極めて具体的な「あの女をレイプしてやろうぜ」という計画相談を、与那原姉さんが矮小化して上のように書いた、という可能性も考えられなくはありません。もっともそれだって「小女子を殺す」といっしょで、果たして「レイプ未遂」として認知すべきかどうかはわかりませんが……。

 同様に師匠はHさんのことも(そして自分のことも)終始「心ないバッシングを受けた被害者」として描き、Hさんの発言(レイプ事件の報告)にはどうも全幅の信頼を抱き続けているご様子です。

 同誌では「洋子」という人物も与那原姉さんへの反論を書いています(正確には「ファイトバック」からの転載)。
 また、『週刊金曜日』1997年6月27日号にも栗原洋子さんという人物の同様な記事が掲載されました。
 両記事は内容が非常に重複しており、また両者とも「性暴力を許さない女の会」の関係者であり(「ファイトバック」は同組織の会報です)、まず両者は同一人物だろうと判断して、ここではまとめてご紹介することにします。
 と言っても、(栗原)洋子さんの主張もやはり、

 与那原さんが(引用者註・Hさんの発言に)「根拠がない」と断定する根拠は多くはHさん個人のプライバシーをあげつらうことであった。

 記事のなかでHさん、Mさんはなんの断りもなく一貫して敬称なしの呼び捨て、そして容貌、服装、しぐさなど「からかい」の表現とともにその人物像が記述されている。


 と憤るものです。
 確かに与那原姉さんのHさんを描写する筆致はなかなかに厳しいものであると、ぼくも読んでいて思いました。しかし、ルポで取材対象の人となりを(主観を交えて)描写することに文句をつけ始めたら、それはもう「いいこと以外は書くな」と言っているのに等しいでしょう。
 この後、洋子さんがフェミニストである江原由美子キョージュの論文「からかいの政治学」を引用して「からかうことは悪質だ(大意)」と延々続けていることが象徴するように、彼女らの視線は事実関係を云々するよりは「あいつはワタシたちに悪意を持っていて許せぬ」という次元にばかり専ら、向けられているように思われます。(これは当ブログに対するフェミニストのリアクションにも共通して見られる心理です。この「とにもかくにもワタシのキモチが侵害されたことが許せない、そのキモチこそが絶対なのだ」という「一人称性」がセクハラ冤罪、痴漢冤罪といった女性災害を生んでいることは、もうくどくどと繰り返す必要もないでしょう)。

 洋子さんは与那原姉さんが「Hさんがあたかも信用できない人物であるかのように印象づけたうえで、相談電話がでたらめだと断定している。」と主張しています。逆に言えば彼女はHさんには全幅の信頼を置いて、与那原姉さんの記事こそ信用ならないというお考えなのでしょう。
 彼女がこの記事で採り上げた、与那原姉さんの言い分は二つです。
 一つはHさんが当時持っていた回線では、彼女の主張する四ヶ月に一六三五件もの相談を受けることは、物理的に無理だということ。
 もう一つは「Hさんが相談を受けたレイプの話は、神戸で噂として流れているものと一致しているから」信用ならない、というものです。
 この二種の主張に対して洋子さんは、前者については「いや、知り合いのグループに聞いたがその程度の件数の相談を受けている(大意)」、後者には「レイプの手口なんてみんな似通ったものだ(大意)」と反論しています。
 なるほど、Hさんの主張が正しいとすると、受けた電話は大雑把に言って一日に一四件。「物理的に無理」と言えるほどの数字ではありません。これについては洋子さんに理があるように思います。
 が、後者について、与那原姉さんのしている主張は「マスコミや女性団体の語るレイプ事件の内容が、Hさん発のものと一致している(つまりそれらの出どころはHさん一人なのだ)」というものなので、そもそも順序が転倒しています。もし「いや、その事件の内容はHさんの口から以外も聞かれたものだ」というのであれば、そう指摘することでHさん発の情報の信頼性を主張できるはずなのですが、彼女らは何故かそうはしません
 その他にもぼくが前エントリでも引用したように、Hさんが信頼できないと推察される理由はいくつもあるのですが、それらについてはすべてスルーです(「震災と女性」の記事では電話の回線の件のみが採り上げられ、与那原姉さんがHさんを疑う「根拠らしきもの」はそれが唯一であるとの、明らかなウソが書かれています)。
『金曜日』の記事には

 私たちの会にもたった一回、九六年五月二八日に電話取材があったきりで「震災後のレイプの相談はゼロ」と記載されている。しかし、私たちの会にはそれ以降震災がらみのレイプの相談が入ってきている。随分とずさんな取材、しかも全国にネットワークを持った「性を語る会」を避け、ネットワークを持たない個人のHさんに「計二回、のべ六時間以上にわたって」取材したのいうのは、どう考えてもおかしい。


 といった一文もあります。
 いやはや、「取材時にはなかったこと」が取材に反映されていないからずさんな記事なのだとは、何ともまあすさまじい言い分です。
 この「性を語る会」というのは例の北沢杏子さん主催の組織なのですが、それでは北沢さんは(ぼくの質問に対して時におっしゃっていたように)Hさんに依らない、独自の情報をお持ちなのでしょうか?
 北沢さんの執筆する記事や同組織に取材した記事を見ていくと、様々なレイプ事件についての報告がなされています。その中にはおっしゃるように、彼女ら独自の情報もあるのかも知れません。しかし「女性を風呂に入れてやると誘って車で連れ去ってレイプした」という事例など、明らかにHさん発と思われる情報が混入しており、その信頼性には疑問符をつけざるを得ないように思います*。

*ただし、ここまでくるとHさんがフェミニストたちと関わる内に聞いた話を自分発の情報として与那原さんに話してしまった……みたいな可能性もゼロとは言えず、カオスとしか言いようがありません。


 ――以上、やや細かく見ていきました。
「被災地でレイプ多発」神話のポイントは、大体押さえられたのではないかと思います。
「レイプ事件自体は平時でも起きている。しかし震災時に多発したとの証拠は見つからない」というスタンスと、個々の事例を持ち出して「レイプという(事実があったかどうかはともかく、その)概念に喚起されたワタシのキモチこそが大事なのだ」と言い立てるスタンス。
 両者は、最初から噛みあっていません。
 正井師匠含め、フェミニストたちは「震災と女性」や『女たちが語る阪神大震災』などの中で「阪神大震災では女性が男性より1000人多く亡くなった」と繰り返し繰り返し絶叫しています。
 ご丁寧なことに念の入ったことに、彼女らは円グラフでその比率を分析しているのでこちらとしても手間が省けるのですが、見ると阪神大震災で亡くなった犠牲者の男女比率は40.1:59.9。女性ばかりが犠牲になったのだと言い立てるには微妙な数値です。
 しかもご丁寧なことに念の入ったことに、彼女らは棒グラフでその年齢分布を分析しているのでこちらとしても手間が省けるのですが、見ていると年寄りに犠牲者が多いのは明らかで、それって男性は高齢になる前に死んでいる、というだけのことです*。

*男性に平均寿命が女性に劣るのは必ずしも先天的な要素ばかりでなく、男性が粗末に扱われているからだというのは、拙著にも書いたとおりです。

 正井師匠は「すなわち、高齢者、障害者、外国人労働者、そして女性といった社会的弱者とよばれる人たちの貧しさが浮き彫りにされた。」と得意げに書き立てています。
 しかし本当に浮き彫りにされたのは「死人に口なし」ということ、そして男性の生命など顧みようともせず「ワタシがワタシが」と言い続けるフェミニストたちのエゴイズム、思考停止ぶりであるように思います。
 そしてこうしたメンタリティが、レイプ多発という幻想を生み出したメンタリティと地続きであることも、もはや明らかなのではないでしょうか。


物語の海、揺れる島(再)――NHKのデマ放送の元ネタが、デタラメ極まる件

2020-04-04 21:06:50 | フェミニズム


※この記事は、およそ9分で読めます※

 ――ここをご覧いただいている方の中で、上の書について、ご記憶の方はいらっしゃるでしょうか。
(再)と書いたように、OCNブログ時代の、もう九年前の記事です。
 記事自体は目下もこのgooブログのなかに掲載されているので、今回はこうした前書きと後書きを追記するに留め、本文自体はリンク先でご覧いただこうかと思います。
 これからよいと思ったものは、こうしてサルベージしようかと考えております。

 さて、本エントリが書かれたのは、東日本大震災の直後。この時期、フェミニストが「阪神大震災でもレイプが多発した、今度もそうなる」とウソを元にした風評を垂れ流していたのです。
 それをサルベージしたのは、本書で言及されているデマを近年、NHK『クローズアップ現代』が事実として放映したからです。
「明日へつなげよう 証言記録『埋もれた声 25年の真実〜災害時の性暴力〜』」というもので、ぼくはこれそのものは観ていないのですが、正井礼子師匠の主張をそのまま鵜呑みにして報道してしまったようです。
 ぼくもクロ現のツイッターアカウント、また本放送を肯定的に紹介していた水島宏明師匠のアカウントにリプし、またNHKにもメールを送りましたが、もちろん返答はありませんでした。番組サイトへもコメントしましたが、もちろん掲載はされませんでした。
 もうNHKの放送権を剥奪してもいいくらいの大スキャンダルだと思うのですが、もちろん誰も話題にする者はいません。
 お読みいただければ、フェミニストたちが、NHKがいかに卑劣で不誠実かがおわかりになれましょう。
 問うわけで、以下をご覧いただければ幸いです。

https://blog.goo.ne.jp/hyodoshinji/e/f77a77d0e768c37b34cdfd4c3340381b

 ――以上です。
 NHKがいかに信頼できないデマ放送局か、おわかりになったかと存じます。
 来週は上の記事の続編の再掲を行いたいと思いますので、どうぞよろしく。