兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

十年目の『ぼくたちの女災社会』(その3)  ――『女災』は「負の性欲」を予言していた!――(再)

2024-09-07 19:23:29 | 女災対策について

 

 相も変わらず『ぼくたちの女災社会』[増補改訂版]刊行記念の記事再録です。
 是非、増補版をお買い求めの上で記事をお楽しみください。

 

 さて、今回の再録記事の初出は2019年11月29日
 発刊十周年で書いてはいたものの、正直、この辺になると時事ネタと強引に絡めて自己宣伝という性質が強いです。
 リョーマ氏発の「負の性欲」というワードがあまりに見事で、何とか便乗しようという正々堂々とした下心が、記事からは横溢していますね。
 そんなこんなで最後にちょっとだけ「五年後の補遺」を設けました。
 一度読んだ方も、そこだけでも読んでいただければ幸いです。
 では、そういうことで。

     *     *     *

 今年は拙著『ぼくたちの女災社会』出版十周年の年です。そんなわけで本書については、(以下略)。
 が、期せずしてシンボリックな事件が起きたがため、それにちょい便乗させてもらおう(以下略)。
 今までも天才予言者であるワタクシ、兵頭新児が数々の予言を成就させてきた(以下略)。
 あ、それと本書を未読の方はkindleで買えますので、ご一読をお勧めします。目下ツイッター界隈で囁かれている反フェミニズム論、非モテ論がいかに浅く周回遅れなものかがおわかりいただけるようになりましょう。

●負の性欲とは?

 ――さて、ツイッターで今月28日、「負の性欲」という言葉がトレンド入りするという珍事が起こりました。いえ、この概念そのものは以前から結構評価されていたものであり、当然、当noteでも折に触れ、扱って参りました*1。
 が、当然というか何というか、ツイッターではフェミニストが聞きつけ、脊髄反射で拒否反応を起こしている場面、どう見ても語幹から適当に想像して勝手なことを言っているだけという場面などが散見され、まあ、しょうがないとはいえ何だかなあな状況を呈しています。

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 こうした図が出回ったりもしていますが、何というか、全然違いますね。
 まずはぼくのnoteなんかよりリョーマ氏のブログ*2を見るべきなのですが(全否定かよ)、まあここはポイントだけをご説明すると共に、ぼくの側の解釈を最後に述べることにしましょう。

*1「ショウジョマンガガガ」の「●歩く完全負のポルノ図鑑」など。
*2「女性専用化社会 負の性欲

●提唱者の、定義

まず、記事の冒頭には

とはいえ、最近の学生とかは恋愛はフラれるとSNSで「キモい奴から告白された~」って晒されるリスクが格段に高く、慎重にならざるを得ないっていう点で大変だな、と思います。

 とあります。
 何というか、上の図では「負の性欲」というのは誰にでもある、性のネガティブな発露。みんなでマナーを守り、楽しい社会を。とでもいった、薄っぺらなどうでもいい世界観が開陳されておりますが、リョーマ氏の記事の冒頭の痛烈な描写を見て感じるのは、「この女の過剰さって、何なの?」というものです。

 ――いや待て。男だってすることだろ。

 いえ、しません。
 否、そりゃするヤツもいるだろうけど、女の苛烈さと普遍性とは比べるべくもない。
 ここに何か、女性独自の精神的必然が働いてんじゃねーの? というのがリョーマ氏の疑問なのではないかと、ぼくは考えます。
 しかしそこを無視し、上の図は「お互いさま」とでも結論できるような、当たり障りのないものになってしまっている。
 白饅頭の著作で知ったのですが()、「世界公平信念」という言葉があります。これは「ずっとついてなかったんだから、そろそろツキが回ってくる」といった世界が公平にできているとの、整合性はないがついぼくたちが陥ってしまいがちな観念を指し、特にジェンダーフリー論者じゃなくとも、人は何とはなしに男と女を対称的なものだとの観念に引きずられてしまうものなのでしょう。
 しかし、あくまでこれは女性特有の、女性のセクシュアリティに紐づいた、特殊な欲望なのです。
 ブログを読み進めましょう。

男が女をキモいって言うこと、ほぼ無いだろ?女が魅力のない男からのアプローチに汚物のように嫌悪する感情、生理的に無理っていう感情を、男が女に抱くことってほとんど無いだろ?

 そう、「男には負の性欲は(ほぼ)ない」というのがリョーマ氏の考えだとわかります。

だから女の負の性欲から発せられる、「キモい男からアプローチされた!」「セクハラされた!」等の男をしばいてンギモヂイイイしているのは、女向けのポルノとでも言うべきものなんだ。

 とのフレーズもあり、これもぼくの指摘とほぼ、一致しますね。
 既に消されてしまっているけれども、恐らくリョーマ氏が広くこの概念を訴えたのは、棘のまとめで、ぼくが「ブスイキリ漫画」と称したような作品を例に挙げてのことだったはず。
 そう、何かエラそうな女が男に一喝して、男が反論できずたじろぐ。そうした漫画ってありますよね。あれこそがまさに「負のポルノ」だ、というのが彼の主張だったんじゃないかなあと、記憶しています。

「女性はこんなに被害に遭ってるんだ!」と延々男叩きを垂れ流してる女っているでしょ?フェミニストっていうんだけど。

つまりフェミニズムは女性向けのポルノコンテンツなんだ。

 驚きました。
 何しろ「フェミニズムとはポルノだ」との指摘は、ぼくが以前からしているもので、「あ、俺以外にも言ってくれる人がいたんだ」というのがぼくの率直な感想です。

●『女災』も実は同じことを言っていたとか、そういうことを言いたい

 しかし、敢えて、ここで一つだけマウントするならば、リョーマ氏の指摘ではこの「ポルノ」というのはこの段階ではある種、「比喩」と思えなくもないこと。
 ブログの見出しには「男から求められ、その男を性的優位な立場からボコる快感」ともあり、これは「暴力を振るう快感」と取れなくもない。が、その解釈に留まるならば、この「負の性欲」という概念のポテンシャルを、三割ほどしか発揮していないことになります(リョーマ氏がそうだというのではなく、ツイッター上の解釈が、そこに留まっているのではないかというのが、ぼくの危惧です)。
 ならばどういうことか……ということで、もうちょっとだけこの概念を深掘りしましょう。
 ぼくは『女災社会』において(以下の引用、実は前回記事と全く同じなのですが)、

女性のセクシュアリティの本質は、男性を悪者にすることそのものなのです。
(161p)

 と表現しました(強調原文ママ)。

 彼女らは自己愛を満たすために、男を悪者に仕立て上げます。恋愛や結婚における責の全てを男に求め、或いはまた自分が男から求められているのだ、という幻想を満たすために男を悪者に仕立て上げ、その結果、相手を殺します。
(157p)

 少なくとも立場的に弱い男性を「ストーカー」、「セクハラ加害者」扱いしてのいじめ、いやがらせとなると、日常的に広範に行われていると考えざるを得ません。そしてそういった行為に女性故の優越感を感じることの快楽がいささかも伴っていないというのは、どうにも考えにくいことです。
 何となれば、先に書いたように「男性から求められること」そのものが女性のセクシュアリティであり、アイデンティティの根幹をなしているからです。故に、彼女らは自らの欲望をつまびらかにせず、覆い隠すことで「男性から求められ」ようとします。
(160p)

 そう、前回記事では石川優実師匠の言動を批評するために引用したこれらフレーズは、全く「負の性欲」と重なるのではないでしょうか。
 女性の性欲というものは、そもそも自分自身に向かうという方向性があります。男性が自分の肉体性に惹きつけられていることを確認することで、女性の性欲は満たされるのですから。
 だから、男性が自分に求愛し、しかし肘鉄を食らい、無残に滅びていくことで、彼女らは「エクスタる」のです。
 フェミニズムとはまさにそうしたエクスタる過程そのものであり、性犯罪冤罪もまた、というのが実のところ「女災」理論の根幹なのです。
「女災」とは「負の性欲」の暴走で起こる厄災そのものなのです。

●ちょっとだけ、独自解釈?

 さらにもう少々、マウントを続けましょう。
 リョーマ氏は以下のように指摘します。

もちろん女にも男の肉欲的な「正の性欲」はある。けども、それは女がセックスしてもいいと認める、ほんの一握りの男にしか感じない、限定的な欲望だ。だから、女向けのAV(調べたら一応あるみたいだ)は男向けのポルノに比べて市場規模は小さい。

 ちょっとこれは違っていて、言うまでもなく女性向けのポルノというのはレディースコミックという形で、無限にあります(まあ、前にも書いたように女性週刊誌の誰それが浮気したの離婚したのという記事こそが彼女らにとってのポルノだろうけれども)。
 そこにはレイプ描写が溢れており、レディコミ全盛期にはフェミが必死になって言い訳に奔走していたというのが実情なのだけれども、BLもまたレイプ描写の山であり、女性はレイプ描写が大好きだという事実は揺らぎません。
 実はこれは、藤本由香里師匠が(いや、フェミニストという立場で大丈夫なんですかと言いたくなるほどにあけっぴろげに)分析していて*3、要するにレイプものとは責を男に預けたまま、自分は気持ちよくなれるというサイコーに負の性欲を満たしてくれる表現なのですな。「私はイヤなのに」というわけです。
 女性の描く「ショタ漫画」というのももちろん、ほとんどは成人男性が小学生男子をレイプするものなのですが、ぼくの知人の女流エロ漫画家さんはこれにも同じ評を与えていました。つまり、「責は男に押しつけて快だけ得るので安易である」と。責任逃れの度の強さは、何しろ子供で、しかも性別をも男性に押しつけているわけだから、最強なのですね。

*3 快楽電流
本書には「好みの男にされるレイプはレイプじゃない」と言っているとしか思えぬ個所もあり、「フェミとは思えぬ極めて率直な自己分析と鋭い自己洞察」と、「痛すぎるフェミの大変なことになってしまっている部分」とが同居しており、何というか、驚きの著作という感じがします。

 恐らく、リョーマ氏自身も(仮に無意識裡にでも)上のようなことを感じており、だからこそ「性欲」と名づけたのでしょう(「負の」というのは「性欲を感じていない」という意味ではないはずです)。
 ただ、ここは強調しておかないと、先にも書いたような、結局「男女ともに負の性欲があってお互い様だよね」みたいな曲解された通説が広まるのでは……というのがぼくの危惧です。こういうの、大メディアに採り挙げられると、とたんにそういうわかりやすい方向に持っていかれ、棘を抜かれちゃうんですよね。

 実はリョーマ氏のツイッターアカウントは復活しており、これからも積極的に発言してくれることを期待します。その上で、少しでもこの概念が深化されていけばいいな……とぼくは今、考えています。

●五年後の、短い補遺

 ――加筆部分です。
 振り返ると「負の性欲」、他にも「マ●コ二毛作」といった優れたタームを生み出した熱血系アンチフェミ、リョーマ氏も活動を休止しています。
 この「マ●コ二毛作」とは以下のような意味です。

「まんこ二毛作」とは、女性が性的価値の高い10代・20代の時に自らの意思で性を売り物にして金を稼ぎ、後に歳を重ね性的価値が低下した際には、性を売り物にしていた経験を「搾取されていた」などと表現して、いわゆる被害者ビジネスを展開することで再び金を稼ぐことを指すネットスラングである。

はてな匿名ダイアリー

 これも今となってはネット上でその実例がリアルタイムで余すところなく晒されるようになり、少なくとも男女論界隈では半ば「常識」化した概念です。
 女災、即ち「有毒な女性性」による被害は確実に周知されつつあるのだと、ひとまずはそのことを、喜んでおきましょう。


十年目の『ぼくたちの女災社会』(再)

2024-08-31 18:50:15 | 女災対策について

  しばらく続けている、『ぼくたちの女災社会』[増補改訂版]刊行記念の記事再録です。
 是非、増補版をお買い求めの上で記事をお楽しみください。

 

 それと昨日、新動画をうpしました。
 こちらの方もどうぞよろしく!

第六十一回「小山田圭吾擁護の「嘘」――サブカルの「いじめ」はいかにつくられたか」

さて、今回の再録記事の初出は五年前、2019年9月28日。丁度『女災』発刊十周年の頃。
 わりと真っ当にに当時の女災状況について分析がなされているかと思います。
 そんなこんなで最後にちょっとだけ「五年後の補遺」を設けました。
 一度読んだ方も、そこだけでも読んでいただければ幸いです。
 では、そういうことで。

     *     *     *

 さてみなさん、今月で拙著『ぼくたちの女災社会』出版十周年となります。
 本書を未読の方はkindleで買えますので、ご一読をお勧めします。今ツイッター界隈で囁かれている反フェミニズム論、非モテ論がいかに浅く周回遅れなものかがおわかりいただけるようになりましょう。

●時代がまだ、追いついていない点

 ……というわけで始めましょう。
 正直、よき結果を出せたとは言い難い、出版することでこちらも一生涯を棒に振るようなダメージを受け続けた本書、自分にとってもよい記憶と共にはなく、読み返すこともほとんどありませんでした。今回がほとんど五、六年ぶりの再読になったんじゃないでしょうか。
 で、読み返して感じたのが、ようやっと時代の方が、ちょっとだけぼくの足下くらいには到達しつつあるなという感慨。例えばですが、本書ではセクハラ(そう、既に三十年前の話題です)という舶来の概念が日本にやって来た時の騒動を形容し、

見ていくと浮かび上がってくるのは、「ひょっとして訴えられるのではないか」という差し迫った危機に怯える男性たちに対し、「ワタシの気持ちをわかって!」とお姫様の無理難題のような主張を続ける女性たち、という図式です。
(16p)

 またストーカーについても、ストーカー研究の第一人者、故・岩下久美子さんの著書『人はなぜストーカーになるのか』の、

まず大切なのは被害者の立場に立つことなのである。

その行為を受けている本人が不安や恐怖を感じた時点で、立派なストーカー行為なのである。
(197p)

 といった主張を引用し、

やはりセクハラと同じ、「女性の主観主義」とでも言うべき問題点が浮上してくるのではないでしょうか。
(同上)

 などと書かれています。
 これは目下、白饅頭発で人口に膾炙している「お気持ち案件」と全く同じですね。
 もちろん、フェミニストの手先である白饅頭*1は、それ以上の分析に立ち入ることができず、ぼくには予め、大きく水を開けられてしまう結果となっています。
 近年、気を吐いているすもも師匠も、「女性の方が遥かに恵まれている」というところにまでようやく到達しましたが、そこからの主張は「何か、ジェンダーフリーで男にもリターンをくれ」というもの。ぼくはこれ、「国家」に何やら求めるよりは好ましく思えるのですが、ジェンダーフリーを素朴に信じているというのでは、ちょっと期待できない。何しろ本書を読めば、森岡正博師匠の「草食系男子」論など、ずっと同じ論調がただ無為に繰り返され、女性が変わろうとしなかったことは明白なのですから。
 女性の持つ加害性、ネガティビティを引きずり出そうとするぼくの「女災」論の域は、彼らには期待すべくもない。ただ、近年のリョーマ氏の「負の性欲」論は女性のメンタリティに切り込んでおり、おそらく「女災」とほぼ同じことを言っているように思われこれは非常に評価できるのですが……すみません、放っておくと自画自賛ばかりを繰り返して終わってしまいそうです
 本書と今のご時世と齟齬のある部分、ある意味で「古びてしまった部分」はないかについても、ちょっと考えてみましょう。

*1 表現の自由界隈で気を吐いている青眼鏡、白饅頭共に表現規制に賛同するフェミニストの傀儡であることは、以下を参照。
実践するフェミニズム――【悲報】テラケイがラディカルフェミニストとお友だちだった件
実践するフェミニズム――【悲報】テラケイがパターナリズム支持者だった件
実践するフェミニズム――【悲報】テラケイが表現規制に賛成だった件

●時代が進んでしまった点――その時、女たちは婚活していた

 改めて再読して感じたのは十年前の2009年、当時は「萌えブーム」たけなわであったのと同時に、「女が落ちぶれた」時代であったということです。
 本書については中傷者(批判などという気の利いたことのできる者は、残念ながら現れませんでした)にも『電波男』との類似を指摘されましたが、それは「そういう時代だったから」というしかない。オタクの時代が来たというある種の「オタク勝利」論が本書のバックにあり、さらに言えばその前提としての「女凋落」論がありました。
 いつも言うように、バブル期には「強い女の時代」という根拠ゼロの神話が垂れ流されておりましたが、それも当時はすっかり古くなり、覚えている者もいないような状況だったのです*2。
 当時目立っていた女性にまつわる流行語は、「負け犬」女であり「婚活」ブーム。この婚活ブームの立役者である白河桃子師匠が、かつては『結婚したくてもできない男 結婚できてもしない女』、『こんな男じゃ結婚できない! 噂の「おみー君」劇場』といった本も出していたのだから、大変な落ち目っぷりです(「おみー君」とは見合い相手の奇妙な男を指す造語です)。本書でもかつては余裕があったが、今は涙目で婚活、などとギャグにさせていただきました。きました。

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 ただ、「婚活」という言葉そのものは、(フェミニストが、そのイデオロギーを先行させたものではあれ)当初は「見合いなどの社会のお仕着せの結婚までのルートが失われた以上、積極的自覚的に結婚に向けて活動せねばならない」という正論を前提したものではありました。しかしそれがいつの間にか、何とはなしに(女性たちが無反省に欲望を駄々洩れにさせた結果の必然として)「婚活で玉の輿を狙おう」という方向へと話が変わっていきました。
 そうそう、「草食系男子」なんて言葉もありましたね。これは(フェミニストが、そのイデオロギーを先行させたものではあれ)男性性に欠ける男性を肯定しようという言葉だったはずが、何とはなしに(女性たちが無反省に欲望を駄々洩れにさせた結果の必然として)「今の男はだらしない」に代わって行きました。
 ある意味で、女性が虚栄心を捨て、自分の欲望と謙虚に向きあうチャンスがこの「負け犬」ブームだったはずが、彼女らはまたしてもそのチャンスを棒に振り、見栄を張ってしまったのです。「デレ」ること敵わず、「ツン」を通す愚を犯してしまったわけですね。

*2 「『現代思想 男性学の現在』(その3)」などを読むと、年代によってはその当時の世界観を今もあどけなくキープしていらっしゃるかのようにも見えますが……。

 では、今は?
 女性の状況は好転するどころか悪化するばかりのはずなのですが、一時期の「女性たちが結婚したくてテンパっている」的なムードはあまり感じられなくなりました。そもそも上に書いた「負け犬」的な、女性の今を象徴する流行語なども今一、思い浮かびません。
 本書では「かつて、華々しく輝かしい女性像がメディアに溢れていたが、今はそれがない」ことの象徴として「負け犬」、「婚活」といったワードを挙げたのですが、もはやそんな「落ち目の女性像」すらも、メディアには見られません。
 この状況を読み解くカギは(一つにはマスコミの影響力というものが失われたことでしょうが)、メディアに「ブスコンテンツ」が充実しだしたことではないか……とぼくは考えます。そもそもテレビなどほとんど観ないので漠然としたイメージしかないのですが、ブスがイケメンと絡む類のドラマやCMなどが出て来たのはここ十年くらいではないでしょうか。
 乏しい知識を並べ立てれば、平成『ライダー』でも『シン・ゴジラ』でも美人と言い難い女性が出てきますし、戦隊シリーズでも『トッキュウジャー』には悪の組織にフリフリのフリルを着て日髙のり子の声でしゃべるという、しかしグロテスク極まりない姿をした女モンスターが登場しました。これがイケメン(こちらは人間の役者が顔出して演じていました)の悪の王子と恋愛を演じ、女性ファンがそのモンスターを「可愛い」ともてはやすのが、申し訳ないですが気持ち悪くてなりませんでした。
 他にも、これはぼくのお気に入りキャラですが、『ダンガンロンパ』シリーズには「腐川冬子」というあからさまにブスという設定を与えられたキャラが登場していましたよね*3。
 十年前に流行していた「オタクそのものをネタにしたオタクコンテンツ」もすっかり、女向けのもの特化になってしまいましたが、これもまた「ブスコンテンツ」のバリアントであることはおわかりでしょう。言ってしまえばオタクコンテンツ、本田透的なロジックが、女性がモテないまま自己を肯定するためのコンテンツに、彼女らの方に利するものに化けてしまったわけです。
 もっとも、これは実のところフェミニストが共産主義的体制、言ってみれば国家に男性の役割を果たしてもらう体制を求めていたことと、それほど変わりはありません。マスコミが女性をただひたすらにちやほやする状況は当時からあり、本書ではそれが「ホスト資本主義」と呼ばれておりましたが、ただ、女性がより以上にブスになったのでホストがブスにもおべんちゃらを使うようになったと、ただそれだけのことです。

*3「これからは喪女がモテる? 『ダンガンロンパ』の先進性に学べ!

●時代が進んでしまった点――その時、オタクたちは勝っていた

 一方、当時、勢いがあったのがオタク文化です。
 言うまでもなく「オタク」は「弱者男性」と「≒」で結んでしまってもいい存在です。そんな弱き者が、当時は力を持ち、世間に対するある種のカウンターの声を上げていたわけです。
 当時は「ツンデレ」という(オタク用語の中でもかなり理解しにくい)言葉を世間が曲解し、女性誌で「ツンデレで男子にモテる!」といった勘違いな特集が組まれ、オタクにからかわれるといったことが常態化していました。本書においても、「ムカつくバカ女のバカ本の文章をツンデレ風に言い換えると萌える」などという企画をやっており、隔世の感という感じです。
 むろん、それは文化的にそれなりに力を持ちつつあったというだけのことで、オタク自身がモテていたわけでは、全くありません。しかし、当時のオタク(≒弱者男性)側は「我々は二次元があれば充足していられる!」との主張をしていたのです。繰り返すように『電波男』に端を発する主張ですね。
 この主張の真意がどこにあるかは、本当に非常にデリケートに扱うべきことだと思うのですが、当時のぼくは基本、本田氏に準じた評価をしておりました。

 端的に表現するならば、現代の全ナオンは「メイドさん」という職に就き損ねた「メイドカフェ難民」なのです。
(101p)

 もうあなたではなく幻想の女しか抱いてはもらえないのです。
(同上)

 いや、「ネットカフェ難民」って言葉も聞かなくなりましたね。また、二段目のフレーズは宮台真司の奥さんである速水由紀子師匠の『あなたはもう幻想の女しか抱けない』という本のタイトルをもじったもの。こういうの解説しなきゃいけない辺り、やっぱり昔の本だなあと思ってしまいますね。
 とは言え、「メイドカフェ」ブームは外界へと流出したオタク文化の一つといえました。オタクのどれだけが現実のメイドカフェに行ったかは大いに疑問ですが、この頃の女性は「メイドさん」という「女性ジェンダー」の体現者に大いに憧れ、「オタク文化=虚構性」というクッションを安全弁として、それを享受しようとしていたのです。
 それは、例えて言えば「ピンク」を大いに憎む『トクサツガガガ』*4の仲村さんが、「文化祭だから」というエクスキューズを得て、メイドさんのコスプレをしているところを想像していただければわかるのではないでしょうか。
 結局、ある種オタクの在り方を一種のハンスト的に捉え、一方、「女性ジェンダー」を美化して描くことで、言わばオタク文化が女性側の意識の革新を促し得るのではないか……というのがこの時期のぼくの考えであったかと思います。
 事実、当時は例えばアイドル声優さんがオタク文化に親和的な発言をするなどの光景があちこちで見られ、「ひょっとしてオタク的価値観が世界を覆うのでは」といった希望的観測も、それなりに故のあったことだったように思えます。

*4『トクサツガガガ』は「女性ジェンダーについての自意識をこじらせてしまった女性が、単にそれへの愚痴を吐く口実として私は特撮オタクであると自称する」という、まさに本田透の死体を貪り食っているかのような、そんな漫画でありました。
フェミナチガガガ
フェミナチガガガ(その2)
フェミナチガガガ(その3)

 しかし、『電波男』は、あっという間に左派につぶされてしまいました。オタクたちが「俺たちは二次元の世界に旅立った」と言っていたのを、左派が「なるほど、JPGだけで満足なんだな、一生独り身で何の不満もないんだな」などと言い出したのですから*5。正直、左派の残忍さ、冷酷さをあまりにも甘く見ていたように思います。
 そんなこともあり、今のぼくはやや論調を変えています。しかしこれは別に主張の大本を変えたわけではない。左派の非人道性に舌を巻き、オタク側も不満がないわけではないのだ、と主張せざる得なくなっただけのことです。別に二次元美少女が現実の女の代替物というわけではないけれども、いまだアニメやゲームの世界にダイブするノウハウがない以上、ぼくたちは別に充足しているわけではない。ぼくたちはアニメやゲームの世界観、愛のある世界、乱暴に言えばジェンダーが温存された世界にこそ心酔しているわけなのだから、仮に現実の女の子が「盛る」ことでアニメキャラのようになったからと言って納得するわけではないし、メイドロボを押しつけられればそれで満足するわけでもありません。
 そもそも「オタク勝利」論がちょうど本書の出版時期と前後して、「日本のアニメや漫画は世界中で落ち目だ」といったカウンターにより否定されるようになっていきました。根拠が酷薄な上、言っているのが『朝日新聞』とかその辺ばかりで、果たしてどれだけ正しかったのかは、今となっては疑問ですが。

*5 これはずっとぼくが繰り返ししている(そして、誰からも同意されない)して気なのですが、「敵の死体を兵器利用するなんて、ゾンビマスターみたいで格好いいね!」など。

 もちろん、一方ではこの十年、オタクの反フェミ意識はもう、かつてからは想像もできないほどに高まりました。ここ十年、ツイッター上でのフェミニストの大暴れが、フェミニズムの危険性を可視化させたのです。これそのものは、危機意識を持つことができるようになったという意味では、よかったことかもしれません。
 しかし、これこそが大変皮肉なことに、表現の自由クラスタが活発化し、彼らに「真のフェミ」を持ち上げさせる結果ともなりました。彼らの言動を追っていけば、この十年はフェミニストに文句をつけられつつ、何とか水際でフェミニズムの実態を外部の者に知られまいとそのネガティビティをツイフェミに押しつけ、しかしとうとう上野千鶴子師匠までが悪質な人物であることまでがバレてしまった……という、見るも無残な振る舞いの連続でした。
 しかし、どうにも、彼らにはそんな自分たちの醜態に対する自覚があるようには思えない。
 どうにも、彼らのフェミニストへの忠誠は、白饅頭や青眼鏡を見ればわかる通り、いささかなりとも揺らいだようには思えない。
 これらの流れは、大きな目で見れば結局「ツイフェミをスケープゴートにして、フェミニズムがより頑強になる過程」だったのかな……との失意を感じずにはおれないのです。
 それはまた、オタク界の左派勢力がいよいよ強くなってきたことを示す十年でもありました。

●五年後、『女災』が再評価されそうな点

 いや、まあ、最後に希望めいたことを書いておかないとまとめようがない気がして、無理矢理にこういうタイトルをでっち上げましたが……。
 2009年の時点では女性専用車両に対する男性の反発が頂点に達しており、また『女災』がメインテーマにしていた「性犯罪冤罪」に対する危機意識も高まっておりました。本書もそれなりに売れる目があったことは、間違いがなかったはずです。
 実は以前、とある編集者に指摘されたのですが、この2009年は政権交代の年でした。もちろん、本書(が売れなかったこと)と直接の関係はありませんが、何か、世間の潮目が変わった、その変わり目に本書が出てしまった、数ヶ月早ければまた評価が違ったのではないか、ということは言えます。
 例えば、本田氏の主張は(当時はフェミニストなどもお追従を言っておりましたが)、恐らくこの頃から「何か、悪しき思想」ということにされてしまった。「ミソジニー」という思考停止ワード、本書的に言えば「攻撃呪文」が立ち現れ、とにもかくにも女性様に疑問を持つことは禁止、という風潮が強まったのです。
 そんなこんなで結局、上に書いたような「左派のマッチポンプバトル」によって、フェミニズムへの疑問は圧殺される時代と相成ったわけです。
 が、近年、またちょっとだけ希望が出て来たのではということを、ぼくは感じ始めています。
 というのは実のところゼロ年代に一度盛り上がっていた「非モテ」論の、再びの復権が見られるからです。これはもちろん、インセルだのミグタウだの海外発信の情報がきっかけなのですが、いずれにせよ日本においてもいよいよこれが話題になっていくことは間違いがないでしょう。
 前回記事でもわかるように、もちろんメディア側のこの問題に対する意識は薄っぺらとしか言いようがないものですが、実はちょっと、ネット上の「オタ論壇」とでも称するべきものに変化がみられるのでは、といった気が、ぼくにはしているのです。
 そして、このきっかけは意外なことですが白饅頭であろうと、ぼくは思います。
 彼の商業出版では、男性の惨状が極めて強調して書かれていました。これは「表現の自由クラスタ」的な、(形ばかりとは言え)アンチフェミ的な言説を封じられたがため、相対的にそのような内容が浮かび上がってきた、ということではなかったでしょうか。
 これにすもも師匠、rei氏辺りの言説が続いたことが、ネット上での「非モテ」論を活発化させた、という印象をぼくは持ちます。
 この「非モテ」論について、ぼくが「自分をオタクだと思い込んでいる一般リベ」と揶揄するようなオタク界のインテリ層はほぼ、切り込むだけの力を持っていません。
 例えばですが、町山智浩師匠がそうであるように、彼らは専ら「非モテ」を惨殺することしかできない*6。
 となるともう、オタクの多くは彼らについていけなくなるのではないでしょうか。
 今まで八百長を続けていたオタク左派ですが、それが「非モテ」論という「また、別な角度」から見られることで、いよいよ八百長がバレる時が来るのです。

*6 この辺は前回記事「「インセルの思想と歴史について実はメディアは全く語らない」を読む 」を参照してください。

●五年後の、短い補遺

 ――加筆部分です。
 読み返すともっぱら自分の仕事を誇り、手柄を読者に押しつけており、笑ってしまいますが、それもこれもツイッター界隈に「アンチフェミ的機運」は広がるものの、実際にはフェミを延命しようという連中が上で音頭を取っている……という状況に苛立っていたためかと思います。
 一方、しかし「五年後」について予測めいたことをしているけれども、これは結構当たっているかなと。
 ある程度ちゃんとしたアンチフェミ的言説が広がり、フェミは思想的には敗北を迎えつつある。
 もっともそれはツイッター論壇界隈のこと。これからはおそらく大手メディア側がアンチフェミを懐柔しようと手を伸ばしてくることが窺えます。
 それに騙されぬタメにも、当noteのご愛顧を、よろしくお願いします!

 


2020年・女災を読み解くキーワード10!

2021-01-03 17:48:01 | 女災対策について


※この記事は、およそ13分で読めます※


 みなさま、早いもので本年も年を越してから三日が過ぎ去ってしまいました。
 今年も362日を残すのみです。
 年賀状の準備はお早めに。
 というわけで、毎回年末か年始に行っている一年の総まとめです。
 2020年の初め(2月15日)に動画「風流間唯人の女災対策的読書」の第4回において、以下のように述べました。


実は、ツイッターのフェミ批判界隈が去年辺りから「表現の自由クラスタ」の手から離れ、「非モテ論壇」化したという印象を、ぼくは持っている。


 今年はこのことを象徴する出来事が、あちこちで起こった一年だったのではないでしょうか。
 というわけでまあ、ワード1と2はその辺のことを念頭において、お読みください。


・ワード1「ペドファイル」


 ぼくが一貫してペドファイルについて、否、ペドファイルを持ち上げてはしゃぐ左派について批判的なのはご存じかと思います。
 2018年も白饅頭の著作がペドファイルが薄っぺらに擁護していることについて、批判しました*1
 しかし本年、青識亜論は実に熱心にペドファイル擁護を続け、底の浅さを露呈させました(言っては悪いけど、この人は政治的な立ち回りは得意でも、論理的に考える能力は低いとしか言いようがない。長文を書くようになってあっという間に馬脚を顕したように思います)。
 それが以下の記事ですが――。


『ペドファイル利権を作ろう!』(愛称・ペドつく)
ペドっ子大作戦――青識亜論「論点整理:少女型ラブドール規制論」を読む
ペドっ子大作戦――青識亜論「論点整理:少女型ラブドール規制論」を読む(その2)

 彼ら自身に自覚があるかどうかは判然としませんが、彼らの物言いは「清浄かつ神聖かつ無辜のマイノリティ」をでっち上げ、それによる利権を立ち上げようという動機に強く根差しているようにしか、ぼくには見えない。
 また、彼らがペドをそんなにも迷いなく「キヨラカな弱者」にしてしまえる感受性も、奇妙としか言いようのないものなのですが、これは左派独特の「外部のものを崇拝する心性」の最悪の形での表れなのではないか……というのがぼくの分析です。
 即ち、近年の「表現の自由クラスタ」の「ペド擁護」の理由は、彼らが「オタク」だけを主語にしていては「持ちネタ」として弱いと考え始めているのでは、言い換えるならば「彼らがオタクから離反しつつある」ないし「オタクが彼らから離反しつつある」傾向の表れではないか、とぼくには思えるのです。
 これはまた、「異性愛」を否定したくて否定したくてならないフェミニズムが乗っかりたがる論法であることも、見逃せません。
フェミがホモの味方をするのはそういう理由からです。 柴田英里師匠が「異性愛じゃないから」という理由で熱いペド擁護を展開している様は、以下を参照。

春一番 日本一の認知の歪み祭り! 「小児性愛」という病――それは愛ではない(その2)

 もっとも、ペドもまた男が幼女が好きであれば「異性愛」だと思うのですが、まあ、そういうリクツを超越しているのが、フェミのすごさです。

*1 矛盾社会序説――表現の自由クラスタの、矛盾だらけの著作がネットを縛る

・ワード2「これからのフェミニズムを考える」


 正確には『シン・これからの「フェミニズム」を考える白熱討論会』みたいですが、まあ、どうでもいいし。何か討論会があったみたいですが、ぼくは足を運んだわけではありません(或いはネットイベントだったのかもしれませんが、それすら知りません)。
 ぼくにとって本件は単純に「坂爪真吾師匠と青識がつるんだ」ということ以上の意味を持ちません。
 坂爪師匠の本については夏に、しつこくしつこく採り挙げました。

「許せない」がやめられない坂爪真吾
「許せない」がやめられない坂爪真吾(その2)
「許せない」がやめられない坂爪真吾(その3)
「許せない」がやめられない坂爪真吾(最終回)
風流間唯人の女災対策的読書・第10回『「許せない」がやめられない』

風流間唯人の女災対策的読書・第11回『「許せない」がやめられない』(その2)


 動画を二本、文章記事を四本という大盤振る舞いで、ちょっと自分の著作をダシにされただけで過剰反応では……との感想を持った方もいたかもしれません。
 しかしこれはそれなりに大きな出来事だったと、ぼくは考えます。
 この数年のツイッター上におけるアンチフェミの流れ、表現の自由クラスタが騒いでいるだけであれば、「何か、オタクが騒いでいる」というだけで済んでいました。
 ひるがえって本件においては一応、一般的な業界で名のある人が、表現の自由クラスタに同調し始めた。即ち、「ツイフェミ」をスケープゴートにした「フェミ」延命に乗り出したわけです。
 まあ、坂爪師匠がそこまで有名人かはわかりません。アカデミズムの人ではなし、文筆家としてもプロではないでしょう(正直、本書の低質さは、語り降ろしをゴーストが無理にまとめたのではないか、と思っているのですが)。
 しかし一般的な業界で名のある人がこの流れを共有し始めたことは、それなりに重要です。原田実師匠、斎藤環師匠など、それなりに責任も名もある人が、この「ツイフェミ批判」に乗っかる傾向が、いよいよ顕著になってきました。
 繰り返すようにこれは「左派が仲間の中の後ろ盾のない弱い者を、スケープゴートとして殺す」卑劣極まりない行為であり、坂爪師匠の著書を見ればわかるように、必死になって殺している「ツイフェミ」と「本来のフェミ」がどう違うのか、どこをどう引っくり返してみても、わからない。書けば書くほど欺瞞が露わになる。
 そんな愚かな振る舞いを、責任のある者がし出したことが、ぼくとしては驚きでした。
 もう、彼らは進退窮まり、正常な判断力もなくなっているのでしょう。
 ――さて、しかし、では、何故「表現の自由クラスタ」はこうも急速に「オワコン化」したのでしょう?
 以下、ワード3、4、5、6ではその理由となるトピックスについて、見ていきましょう。

・ワード3「セカンドレイプの町」

 みなさんご存じでしょう。草津町の町長のレイプ疑惑にフェミが噛みついた件です。
 これ、一番重要なのは問題とされる町長に対して、被害者を自称する新井祥子町議が当初、(性暴力があったとされるその後も)好意を抱いていると述べていたことだと思うのですが*2。つまり新井町議は町長の自分への感情が変わったことを受けて、過去の経験を「性被害」だったのだ、実は嫌だったのだと後づけしたように思われるのです。
 これはまさにぼくがずっと言ってきた、「女災」そのものです。「女はウソを吐く」発言が叩かれたことは、左派がいかに「女のウソ」を「兵器利用」してきたかを表しています。
 白饅頭、本件について記事を書いていましたが*3、それは上のような論点をまるッとスルーした、相変わらずバランス感覚に優れたおりこうさんな文章で、別に間違っちゃいないが薄っぺらな批判に留まったもの。いえ、左派メディアでそれを書くだけでも勇気の要ることであり、むしろ評価してあげるべきなのかもしれませんが、それは同時に左派がいかにダメかを如実に示してもいます。

*2 令和電子瓦版  2019年12月3日茶番劇? 新井祥子元議員「町長室で気持ちが通じた時には本当に嬉しかった」
*3 草津を「セカンドレイプの町」と断定…冷静さを失うリベラルへの疑問

・ワード4「お母さん食堂」

 はい、これもまたホットなワードですね。
 実はぼく、モデルになっているのが香取慎吾だということすら知らずにいたのですが(与謝野晶子みたいな女だなー、とは思っていたのですが)、そう考えるとむしろ、この企画の担当者はフェミにセンシティブなヤツ、フェミに誉めてもらえるだろうと思ってやったことかも、という気もします。
 考えれば家事のアウトソーシングを旨とするフェミにとって、コンビニほど好ましいシステムは他にない。
 しかしそれにすらも、フェミは噛みついてくる存在だということが、本件では明らかになったのです。
 ――この3と4の二件は、「アンチフェミ」を自称する「表現の自由クラスタ」の刃が、全く敵を斬るだけの性能を有していなかったことを露わにしました。
 彼らのロジックではフェミの本質的な悪辣さを、全く批判できないことを明らかにしたのです。
 もっとも、2020年に起こったのは、そうした「人口に膾炙した」ケースばかりではなく……。

・ワード5「災害時の性暴力」

 2020年3月、NHKにおいて極めて重大なデマが流されました。
 以下がそれです(もっとも、こちらもちょっとしたミスをしてしまっているので、訂正を加えさせていただきました)。

物語の海、揺れる島(再) ――NHKのデマ放送の元ネタが、デタラメ極まる件
エンタのフェミ様!(再)――NHKのデマ放送の元ネタが、デタラメ極まる件

 国営放送が血税でこんなデマを垂れ流すなど、重大事だと思うのですが、どこからも批判の声は聞こえてきません。
「女性はウソを吐く」が望ましい発言かどうかはわかりませんが、「フェミはウソを吐く」はまごうことなき真実だと、本件からも明らかになりましょう。
 そして――。

・ワード6「SAVE JAMES」

 これです。
 ぼく的に本年、一番デカい事件です。
 また、以下にあるように『Daily WiLL online』においても記事を書かせていただくことができ、それは大変よかったのですが……。

9歳の少年を去勢⁉行き過ぎたLGBTはここまで来ている
風流間唯人の女災対策的読書・第12回「フェミニストの母親が、息子のペニスを切除…!?」
「双子の症例」始末記

 いわゆるアンチフェミの中でも、左派的なスタンスに与しない人たちは、大いにこれについて反応してくださったのですが、「表現の自由クラスタ」の中でこれに言及してくれた人はいません。
 これはご当地のテキサスでも、左派メディアが本件について沈黙を守っていることと、「完全に一致」しています。
 繰り返しますが左派の刃では、フェミに切り傷一つ、つけることはできないのです。
 そんな彼らの無力さの象徴として、今年目立ったフェミニストを二名、ワード7と8で挙げてみましょう。

・ワード7「石川優実」

 はい、目下の日本において、一番有名なフェミニストはこの方かもしれませんね。
 もちろん、動画などにおいてもこの方についてはネタにさせていただいています。

風流間唯人の女災対策的読書・第3回『#KuToo 靴から考える本気のフェミニズム』


 しかしここでは、彼女がいまだ「ツイフェミ」と呼ばれていることに注目したいと思います。
 坂爪師匠の項でも述べたように、左派は煙たいフェミを「ツイフェミ」と呼びつけることで、長年、「真のフェミ」は他にいるのだとのデマを流し続けてきました。
 それは単純に、自分のご贔屓のフェミを延命するための詐術でしかないのですが、その「真のフェミ」、即ちアカデミズムや出版界にいるフェミは実に貪欲に石川師匠を取り込もうとしています。フェミニズム雑誌『エトセトラ』では石川師匠が責任編集を務めた号が出版されました。見ていくと専ら「行動する女たちの会」など古株のフェミたちの「戦歴」に石川師匠が感服しているという、まあ、老人ホームの慰問みたいな内容。
 ここまできてまだ石川師匠をツイフェミと呼び続けるのは、欺瞞としか言いようがないのです。

・ワード8「小島慶子」

 はい、この人、何かやたらと今年は目立ちましたね。
 この二人を並べてみると、近年言われ出した、「フェミニズムとは若い頃は女子力でいい思いをしていた者たちの、年を取ってからのファビョり」という分析が真実味を帯びてくるのではないでしょうか。
 ここで重要なのは、フェミニズムとは「ブスコンテンツ」の一種だということ。
 まずは「女性ジェンダー」から得られる快楽という、女性にのみ与えられた、とんでもなく有利でとんでもなく莫大な特権を、彼女らが手放す気は一切、ない。
 しかし「女性の社会進出」という彼女ら自身の行った愚行により、多くの女性たちはそうした「女性ジェンダー」を味わうことが困難となり、結果、それを歪んだ形で疑似的に享受するコンテンツ、即ち「ブスコンテンツ」が世を席巻することとなった――といったことはここしばらく、よく言っていたかと思います。
 というわけで以下は、「ブスコンテンツ」について採り挙げましょう。

・ワード9「ジャイ子萌え」

 ――結局、左派は絶対にオタクコンテンツを守ったりはしません。
 ぼくは時々、それを実証する書籍を採り挙げています。2020年は『ドラえもん論』という本についてご紹介しました。

ドラえもん論 すぎたの強弁
ドラえもん論 すぎたの新強弁
ドラえもん論 すぎたの強弁2020

 左派は基本、自分たちのイデオロギーにこと寄せるためにコンテンツを捻じ曲げることしかしない。
『ドラえもん』も『セーラームーン』もそうやって破壊されてきた。
 詳しくは上を参照していただきたいところですが、ワードとして「ジャイ子萌え」としたのは、やはりこれが『ドラえもん』を到底理解しているとは思えない、PCにこと寄せた言説であると同時に、「ブスコンテンツ」への親和性を示すものだからです。
 ブスをことさらに持ち上げる行為そのものに、女性ジェンダーへの屈折がないとは言い難く、やはり健全とは言えない。
 ぼくは2019年の暮れ(12月22日)に動画「風流間唯人の女災対策的読書」の第2回において、以下のように述べました。

目下のところ、フェミニストが増えているかどうかは何とも言えないけれども(いわゆる「ツイフェミ」も急増しているのか、ツイッターで可視化されただけか……)、女性が社会進出したことで相対的に弱体化した男性への不満は、いよいよ募るばかりのはず。それが、「負の性欲」の発露を促した……。フェミニズムは女性たちの血を吸い、自分たちの仲間にする吸血鬼だったんだよ。


「フェミニストが増えてるか否か」という疑問に、答えを出すことは難しいのですが、フェミニズムが女性を不幸にし、自分たちの仲間にするという性質をもっていることは間違いがありません。「ブスコンテンツ」の隆盛はそうした不幸な女性が増えたことの証拠でしょう。
 2019年はそんな「ブスコンテンツ」である『トクサツガガガ』についてしつこく分析を繰り返しましたが、2020年の代表といえば――。

・ワード10『BEASTARS』

 はい、これですね。 何しろ二十巻以上の長期連載を、そもそも匿名用アカウント氏のnoteをフォーマットに論じ直したという企画なので、目下のところだけでこんだけあります。

漫画『BEASTARS』から読み取る、女性に内在するフェミニズム的性向
「漫画『BEASTARS』から読み取る、女性に内在するフェミニズム的性向」を読む(その1)
「漫画『BEASTARS』から読み取る、女性に内在するフェミニズム的性向」を読む(その2)
「漫画『BEASTARS』から読み取る、女性に内在するフェミニズム的性向」を読む(その3)
「漫画『BEASTARS』から読み取る、女性に内在するフェミニズム的性向」を読む(その4)
「漫画『BEASTARS』から読み取る、女性に内在するフェミニズム的性向」を読む(その5)

 もう、リンクを貼るだけでひと仕事という感じです。 本作については、恐らく作者も計算して、フェミニズム的イデオロギーを込めたものではありません。ただ女性が自分の感性をあどけなく露呈させ、節度なく描いた漫画、という評がふさわしいかと思います。
 例えばそれが単純に「美人になって男の子からモテモテになりたい」との願望を何の屈折もなく垂れ流した漫画だとしたら、まあ、つまらんし読む気もしないけど、本作を読んだ時のような不快感は受けないはず。
 しかし本作については作者のある種の「ブス性」、これは本人がブスか否かということとはかかわりなく、「女性ジェンダーのこじらせ」とでもいった意味あいの言葉ですが、そうしたものがあまり作者本人に内省されないままストレートに提出され、それがコマから濃厚に立ち現れている……といった感が非常にするのです。
 ――以上、簡単にと思っていたのに結構書き込んでしまい、もうヘトヘトです。
 しばらくは正月休みにしてダラダラ行きたいところですが、まあ、そんなわけで今年もよろしく。

エンタのフェミ様!(再)――NHKのデマ放送の元ネタが、デタラメ極まる件

2020-04-11 19:30:13 | 女災対策について


 ※この記事は、およそ10分で読めます※

 さて、前回記事の続きです(本稿とNHKのデマとの関係については、そちらをご参照ください)。 
前回の本を採り上げた後、当時(十年前)のぼくはさらにそれから遡って十年以上前の書籍、雑誌などに当たり、正井礼子師匠を始めとするフェミニストたちの言い分にどこまで理があるかを検証しました。
 それが以下の記事ですが、読み直すと本当に、フェミニストの言動が全く変わりなく信頼の一切置けないものであることがわかります。
 相手の批判に誠実に応えることなく「何か、こっちをバカにしていて許せん」とふわっとした観念論で相手を罵倒、否定する。ネット上のフェミ側の人物たちの「反論」もまた、ほぼ100%これです。
 翻って、ぼくがそれに対し「お気持ち絶対主義」とでもいった指摘をしているのも、読み返していて気づきました。御田寺圭の著作が『女災社会』に墨を塗ったものであるとの指摘は既にしていますが、本当に彼はぼくの後追いばかりをやっていることがわかります。
 では、前説はこのくらいにしまして……。

*     *     *


性犯罪、なくすつもりで捏造(つく)ってる! ハイ! ハイ! ハイハイハイ!」でおなじみの過激お笑い集団・ウィメンズネットこうべが面白いのをやっていました。
 阪神大震災当時、彼女らは個人ボランティアHさんが電話相談で聞いたレイプ事件についての事例を、あちこちで吹聴しました。
 が、そこへライターの与那原恵さんから、Hさんが極めて信用ならない人物であること、兵庫県警が震災の年に認知した強姦事件が15件で例年よりも少なかったことなどを挙げての、鋭いツッコミがありました。
 それに対してウィメンズネットこうべを率いるリーダー、正井礼子師匠のリアクションは……。

 
これ自体注目すべきことであり、警察の限界として将来指摘されるであろう。



 この天然ボケには、読者一同ズコー(ハットリくん風)。
 その他にも与那原姉さんは、正井師匠が「誰かが可愛い女の子の噂をしていた」と言うだけの事例までも「レイプ未遂」だと言い張っていたことに対しても鋭いツッコミをしていたのですが、師匠はそれに対して「スルー」という地獄の新人芸人つぶしで読者の快哉をさらっていました。

 ――さて、ここからはちょっとマジメモードで。
 前エントリでフェミニストたちの不誠実さが、また露わになったかと思います。与那原姉さんにそれを暴露されて以降も、彼女らが全く反省したそぶりを見せていないことも、既に書きました。

 が、例の与那原姉さんのルポに対して、彼女らもいくつかの反論を試みていました。
 今回はそれをご紹介したいと思います。
 上に挙げたのはウィメンズネットこうべが発行した冊子「災害と女性」(2005年刊)からの引用です。正確には上の「警察が間違ってる(大意)」という発言は正井師匠ご本人のものではなく、彼女が精神科医・斉藤学センセイのコラムから引用したものなのですが、斉藤センセイはこの後「犠牲者たちの多くは警察を相手にしていない(だから認知件数には現れないのだ)。」というリクツを展開し始めます。
「ええ? 仮にそうだとしても、本当に震災でレイプが多発していたとしたら、警察の認知件数に現れる数は(発生件数より少ないにしても)、やっぱり増えるはずなんじゃないの?」という読者の疑問を完全に「スルー」という斉藤師匠のドSぶりに、フェミニストたちは快哉の声を上げておりました。

 Mixiでも、「本当に警察に落ち度があると思うのなら、フェミニストは裁判で争えばいい」という意見がありました。まさしくそうですよね、裁判は彼女らの得意技なのですから。
 フェミニストたちは「レイプがあった」と「多発した」の区別を、どうしてもつけることができないようです。ぼくも数字が苦手なので親しみを覚えないでもないのですが、しかし彼女らに唱和して、与那原姉さんを口汚く罵る斉藤センセイは「数字が読めない人」として学者の看板を下ろした方がよろしいでしょう(むろん、「フェミニズム」は下より学問ではないので、彼女らは学者の看板を降ろす必要はありません)。
 マジメな話、正井師匠が「女の子の噂をした」だけのことをレイプ未遂と言い募った件は、とても看過できる話ではありません。逆にもしこれが与那原姉さん側のでっち上げ*ならば、師匠はそれに対して反論すべきだったはず。そこを見事にスルー、というのはやはり師匠側に非があると言われても、仕方がないのではないでしょうか。

*例えばですが、極めて具体的な「あの女をレイプしてやろうぜ」という計画相談を、与那原姉さんが矮小化して上のように書いた、という可能性も考えられなくはありません。もっともそれだって「小女子を殺す」といっしょで、果たして「レイプ未遂」として認知すべきかどうかはわかりませんが……。

 同様に師匠はHさんのことも(そして自分のことも)終始「心ないバッシングを受けた被害者」として描き、Hさんの発言(レイプ事件の報告)にはどうも全幅の信頼を抱き続けているご様子です。

 同誌では「洋子」という人物も与那原姉さんへの反論を書いています(正確には「ファイトバック」からの転載)。
 また、『週刊金曜日』1997年6月27日号にも栗原洋子さんという人物の同様な記事が掲載されました。
 両記事は内容が非常に重複しており、また両者とも「性暴力を許さない女の会」の関係者であり(「ファイトバック」は同組織の会報です)、まず両者は同一人物だろうと判断して、ここではまとめてご紹介することにします。
 と言っても、(栗原)洋子さんの主張もやはり、

 与那原さんが(引用者註・Hさんの発言に)「根拠がない」と断定する根拠は多くはHさん個人のプライバシーをあげつらうことであった。

 記事のなかでHさん、Mさんはなんの断りもなく一貫して敬称なしの呼び捨て、そして容貌、服装、しぐさなど「からかい」の表現とともにその人物像が記述されている。


 と憤るものです。
 確かに与那原姉さんのHさんを描写する筆致はなかなかに厳しいものであると、ぼくも読んでいて思いました。しかし、ルポで取材対象の人となりを(主観を交えて)描写することに文句をつけ始めたら、それはもう「いいこと以外は書くな」と言っているのに等しいでしょう。
 この後、洋子さんがフェミニストである江原由美子キョージュの論文「からかいの政治学」を引用して「からかうことは悪質だ(大意)」と延々続けていることが象徴するように、彼女らの視線は事実関係を云々するよりは「あいつはワタシたちに悪意を持っていて許せぬ」という次元にばかり専ら、向けられているように思われます。(これは当ブログに対するフェミニストのリアクションにも共通して見られる心理です。この「とにもかくにもワタシのキモチが侵害されたことが許せない、そのキモチこそが絶対なのだ」という「一人称性」がセクハラ冤罪、痴漢冤罪といった女性災害を生んでいることは、もうくどくどと繰り返す必要もないでしょう)。

 洋子さんは与那原姉さんが「Hさんがあたかも信用できない人物であるかのように印象づけたうえで、相談電話がでたらめだと断定している。」と主張しています。逆に言えば彼女はHさんには全幅の信頼を置いて、与那原姉さんの記事こそ信用ならないというお考えなのでしょう。
 彼女がこの記事で採り上げた、与那原姉さんの言い分は二つです。
 一つはHさんが当時持っていた回線では、彼女の主張する四ヶ月に一六三五件もの相談を受けることは、物理的に無理だということ。
 もう一つは「Hさんが相談を受けたレイプの話は、神戸で噂として流れているものと一致しているから」信用ならない、というものです。
 この二種の主張に対して洋子さんは、前者については「いや、知り合いのグループに聞いたがその程度の件数の相談を受けている(大意)」、後者には「レイプの手口なんてみんな似通ったものだ(大意)」と反論しています。
 なるほど、Hさんの主張が正しいとすると、受けた電話は大雑把に言って一日に一四件。「物理的に無理」と言えるほどの数字ではありません。これについては洋子さんに理があるように思います。
 が、後者について、与那原姉さんのしている主張は「マスコミや女性団体の語るレイプ事件の内容が、Hさん発のものと一致している(つまりそれらの出どころはHさん一人なのだ)」というものなので、そもそも順序が転倒しています。もし「いや、その事件の内容はHさんの口から以外も聞かれたものだ」というのであれば、そう指摘することでHさん発の情報の信頼性を主張できるはずなのですが、彼女らは何故かそうはしません
 その他にもぼくが前エントリでも引用したように、Hさんが信頼できないと推察される理由はいくつもあるのですが、それらについてはすべてスルーです(「震災と女性」の記事では電話の回線の件のみが採り上げられ、与那原姉さんがHさんを疑う「根拠らしきもの」はそれが唯一であるとの、明らかなウソが書かれています)。
『金曜日』の記事には

 私たちの会にもたった一回、九六年五月二八日に電話取材があったきりで「震災後のレイプの相談はゼロ」と記載されている。しかし、私たちの会にはそれ以降震災がらみのレイプの相談が入ってきている。随分とずさんな取材、しかも全国にネットワークを持った「性を語る会」を避け、ネットワークを持たない個人のHさんに「計二回、のべ六時間以上にわたって」取材したのいうのは、どう考えてもおかしい。


 といった一文もあります。
 いやはや、「取材時にはなかったこと」が取材に反映されていないからずさんな記事なのだとは、何ともまあすさまじい言い分です。
 この「性を語る会」というのは例の北沢杏子さん主催の組織なのですが、それでは北沢さんは(ぼくの質問に対して時におっしゃっていたように)Hさんに依らない、独自の情報をお持ちなのでしょうか?
 北沢さんの執筆する記事や同組織に取材した記事を見ていくと、様々なレイプ事件についての報告がなされています。その中にはおっしゃるように、彼女ら独自の情報もあるのかも知れません。しかし「女性を風呂に入れてやると誘って車で連れ去ってレイプした」という事例など、明らかにHさん発と思われる情報が混入しており、その信頼性には疑問符をつけざるを得ないように思います*。

*ただし、ここまでくるとHさんがフェミニストたちと関わる内に聞いた話を自分発の情報として与那原さんに話してしまった……みたいな可能性もゼロとは言えず、カオスとしか言いようがありません。


 ――以上、やや細かく見ていきました。
「被災地でレイプ多発」神話のポイントは、大体押さえられたのではないかと思います。
「レイプ事件自体は平時でも起きている。しかし震災時に多発したとの証拠は見つからない」というスタンスと、個々の事例を持ち出して「レイプという(事実があったかどうかはともかく、その)概念に喚起されたワタシのキモチこそが大事なのだ」と言い立てるスタンス。
 両者は、最初から噛みあっていません。
 正井師匠含め、フェミニストたちは「震災と女性」や『女たちが語る阪神大震災』などの中で「阪神大震災では女性が男性より1000人多く亡くなった」と繰り返し繰り返し絶叫しています。
 ご丁寧なことに念の入ったことに、彼女らは円グラフでその比率を分析しているのでこちらとしても手間が省けるのですが、見ると阪神大震災で亡くなった犠牲者の男女比率は40.1:59.9。女性ばかりが犠牲になったのだと言い立てるには微妙な数値です。
 しかもご丁寧なことに念の入ったことに、彼女らは棒グラフでその年齢分布を分析しているのでこちらとしても手間が省けるのですが、見ていると年寄りに犠牲者が多いのは明らかで、それって男性は高齢になる前に死んでいる、というだけのことです*。

*男性に平均寿命が女性に劣るのは必ずしも先天的な要素ばかりでなく、男性が粗末に扱われているからだというのは、拙著にも書いたとおりです。

 正井師匠は「すなわち、高齢者、障害者、外国人労働者、そして女性といった社会的弱者とよばれる人たちの貧しさが浮き彫りにされた。」と得意げに書き立てています。
 しかし本当に浮き彫りにされたのは「死人に口なし」ということ、そして男性の生命など顧みようともせず「ワタシがワタシが」と言い続けるフェミニストたちのエゴイズム、思考停止ぶりであるように思います。
 そしてこうしたメンタリティが、レイプ多発という幻想を生み出したメンタリティと地続きであることも、もはや明らかなのではないでしょうか。


2019年女災まとめ『ジョサイダー01(れいわ)』大百科!

2020-02-07 09:28:06 | 女災対策について


※この記事は、およそ8分で読めます※

 というわけで何というか、年末年始ネタを挙げるのを忘れておりました。
 例年は年末年始、その年(去年)のまとめめいた記事を書いているのですが、今回の企画はこれ。
 特撮を知らねば通用しないネタは控えよう控えようと思いつつ、何か、ついこうなってしまいました……。

■『ジョサイダー01』あらまし
■ジョサイダー怪人ベスト10!

●ネオリバー四人衆

 前番組『人造人間ジョサイダー』で倒れたはずのジョサイダーの宿敵、ネオリバーが、蘇らなくてもいいのに蘇った!
 ネオリバーは三人の部下と共にネオリバー四人衆を結成。世界征服を狙う!

1.タマネオリバー
登場:全話

 頭に「新しい頭脳」を入れて蘇った。しかししょせん、前番組のラスボスの脳だったため、どっちかと言えば劣化してるように見えるぞ。「フェミニストを名乗ることをやめ、ネオリブとなった」と繰り返していたにもかかわらず、あっさりと撤回、また「フェミニスト」を名乗るように。これはネオリバー部隊壊滅後、フェミーに取り込まれたからという大人の事情があるらしいぞ。
 イケメンロボットに恋をして決め台詞を吐いたことがあるが、それは「精液を糧にするサキュバス」という、書き写す方が恥ずかしさにのた打ち回るようなものだったぞ。

■ひみつ情報
 多摩湖師匠が最近、またフェミニストと自称するようになったのは本当。唖然として、欺瞞を指摘すると「デマを流すな」などと清々しい顔で言われて二度びっくり。信奉者も何ら疑問を感じていないのに三度びっくり。これが、フェミニストの真の姿です。

献血ポスターの騒動で、フェミニストが遂に「宇崎ちゃん取りやめないなら献血拒否しよう!」と献血拒否を呼び掛け始める

2.ピルネオリバー
登場:第一話「無敵!!人造人間レイワ誕生!!」他

「中絶は殺人である」との言説はヘイトスピーチであると絶叫し続けるネオリバー部隊俊英幹部。水子供養に深い憎悪を抱いていて、彼らを悪者にすると、何かがどうにかなると信じている。
 何か最近出てこないが、キカイダーの中の人が別な番組の主演をやるようになってゲスト出演しなくなったことと同じ理由だろうか。

■ひみつ情報
 ピル神の近年の「活躍」は以下。これは「何か、あの悪者をやっつければ世の中よくなる」として非現実的な仮想敵をでっちあげる典型的な左翼しぐさ。コメントの最後では、ぼくが同じフェミニストのナカイサヤカ師匠が、この「水子供養業者悪者論」に対して冷静な批判をしていたことを紹介しています。

中絶は殺人か、それはヘイトスピーチか。

3.シバネオリバー
登場:第一話「無敵!!人造人間レイワ誕生!!」他

 大昔、ジョサイダーと戦ったはずだが、どういうヤツなのか、あんまり記憶になかったんだけど、最近、「ちょっと前まで普通のフェミだった」ことが判明。悪の組織リーベに擦り寄るため、ネオリバー部隊に身を寄せた模様。しかしそうした過去がすっぱ抜かれたけど、仲間は平然としたものだったぞ。

■ひみつ情報
 凡百のフェミといっしょのことを言ってますね。まあ、ピルもそうなんですが。

2015年までの柴田英里、わりとフェミニストみたいなことを言っていた/実際のストーカー事件に「少女漫画の罪」とも

4.ロクネオリバー
登場:第一話「無敵!!人造人間レイワ誕生!!」他

 何か、自分の股間を模したヘンな形の武器をいっぱい作って敵に精神的ダメージを与える戦法で戦うぞ!
 近年、悪の組織リーベに擦り寄るため、ネオリバー部隊に身を寄せたが、その著作にはどす黒いオタクへの憎悪と幼い自己愛が渦巻いているぞ。

■ひみつ情報
 すまん、最近何やってるのかしらん

●世界大犯罪組織フェミー

 何か前番組の使い回しっぽい怪人ばかりを投入して世界征服を狙う悪の組織だ!
 これはフェミニストたちが海外の学者の言い分をそらんじるばかりで独自の発想を一切していないことへの「ふうし」らしいぞ!

5.フェミーナイト
登場:第九話「大犯罪組織フェミー出現の怪!!」他

 フェミーの初代大幹部。フェミーへの忠誠のためなら、どんな悪いことでもする恐ろしいヤツだ。
 というか、実際には有利な勢力間を渡り歩いている、ネオリバー以上の世渡り上手らしい。近年、何か左派っぽいメディアから電波を飛ばす攻撃法を会得したぞ!

■ひみつ情報
 え~と、このキャラが白饅頭を「ふうし」したものだということはここに書かなければ絶対にわかりようがないので、書いておきます。
 この人、ぶっちゃけ今年はそこまで目立った感はありませんでしたが、去年、語りつくしているので、どうぞご確認を。

矛盾社会序説 ――表現の自由クラスタの、矛盾だらけの著作がネットを縛る

6.パンプサー
登場:第三十話「悪魔?天使?パンプサー出現!!」他

 普段は美人……かどうかはともかく、いいケツの女の姿をしているが、変身すると戦闘用ロボットに。変身前は「対話を持とう」「また話しあいの場を持ちたい」など心優しいことを言うが、変身後は前言を撤回し、ブログで相手の悪口を書いたり、他人のツイートを改変して書籍に引用したりといった冷酷で高慢な性格となる。声優も変わる。
 良心回路を取りつけられて正義に目覚める的な展開はなかった。
 激痛回路によりパンプスを履いた足が痛み出すが、パンプスを脱がせた時、体内にセットされた核爆弾が爆発する。

■ひみつ情報
 このキャラが石川優実師匠を「ふうし」したものだということはおわかりかと思います。前回も動画をご紹介しましたが、見ていただけたでしょうか。
【反フェミはこれ一本でおk】風流間唯人の女災対策的読書・第3回『#KuToo 靴から考える本気のフェミニズム』【ゆっくり解説】


7.メガネダー
登場:第三七話「ネト豪 ツイの中から来たメガネダー」他

 フェミーが01を破壊するために雇った謎のネット論客。自分は非モテであり、ミソジナスな悪だとくどいほど強調しながら、フェミの心がわからないことを一年中悩んでいる。フェミの心を理解する犬を恐れる。
 一時期、パンプサーと文通していたぞ。

■ひみつ情報
 この人は今年大活躍でしたが、ぼくの方は既に去年、語りつくしているのでもういいや、という感じです。
 しかし「これフェミ」の時も「フェミニストは嫌いになってもフェミ(ニズム?)のことは嫌いにならないでください」と言ったり、アマプラにおいても「フェミニズムは肯定しています」などと言ったり、もう、お察しとしか言いようがありませんし、それでファンが減ったという話も聞きません。本当に彼らはフェミニズムを延命させるためだけにこの地球に配置されているんですね。

8.フェミー毒すもも
登場:第二十三話「悪魔のスモモ男 人類絶滅寸前!!」

 前番組『ジョサイダー』に出てきた怪人、ホワイト饅頭やブルーグラスの使い回しの着ぐるみで作られているぞ。

■ひみつ情報
 この人については、以下のようなことがあり、あまり信頼できないという評価になりつつあるのですが、近く、記事にまとめるつもりですので、もう少々お待ちください。

すもも師匠、北田暁大師匠のデマ本の記述を流布する。

9.特オタロボット
登場:第三十九話「強敵特撮オタクはNHKで来る」

 美人のねーちゃんの女優を連れて来ただけで「特オタを模したロボットだ」と言い張るいい度胸の怪人。この時期は予算不足でもうどうしようもなく、脚本家が知恵を絞ってわけのわからん怪人が頻出しているぞ。でもこういう「あるある」は『ガガガ』では描かれていないぞ!

■ひみつ情報
 もう、去年は本作についてずっと語り続けでした。それは、本作が「ブスコンテンツ」というフェミーの主力兵器であったから。まあ、興味のある方は以下をお読みください。


フェミナチガガガ
フェミナチガガガ(その2)
フェミナチガガガ(その3)
ショウジョマンガガ
ショウジョマンガガ(その2)


10.非モテ再生装置
登場:最終回「よい子の友達 ジョサイダー万才!」

 最終回に出て来たメカなので、「怪人」ではないが、ここで紹介。
 ストーリーは以下のような感じだぞ。

◆最終回誌上ダイジェスト「よい子の友達 ジョサイダー万才!」

 ジョサイダー兄弟の製造者・巧妙寺博士がフェミーに誘拐された。博士はフェミーの存続のため、非モテ再生装置を作らされたのだ。
 博士を人質にジョサイダー、ジョサイダー01の兄弟に迫るフェミー。チンポ騎士に改造された非モテがジョサイダー兄弟に襲いかかる!
 ところがジョサイダーたちに倒され、再生された非モテはその性別を変え、ブスとして生まれ変わってくる仕様であった。「ジェンダーはセックスに先行するから、不思議ではない」などと意味不明のことをほざく首領・ビッグフェミー。フェミーとは、非モテとブスとを自ら生み出し、戦力として投入することで等しく犠牲にする恐怖の組織であったのだ。
 しかし博士は非モテ再生装置に爆弾をセットしていた。百人の非モテ(含むブス)を倒した時、爆弾が起動、フェミー本部基地は大爆発と共に消滅するのだった――。
 平和は来た。
 巧妙寺博士はちびっ子たちに作品テーマめいたことを語る。
「今年(2019年)は「非モテ」の一年であると共に「ブス(コンテンツ)」の一年であった。非モテもブスも、いずれもフェミーの戦力とされるために改造された犠牲者たちであった。非モテが再生するとブスになったのも、そのためだ」
 ぼくたちはこれからフェミーが復活したりしないような、平和な世界を作っていかなければならないのだ!

(おわり)