兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

アイとフェミニストは共存できるか

2018-10-21 01:37:13 | 時評
 どうも、前回『新潮45』について補足記事を書くようなことを言っていましたが、ダラダラしている間に、世論の耳目はすっかりキズナアイ騒動にシフト。すんませんがやる気をすっかり削がれてしまいました。
 さて、そのキズナアイ騒動ですが、まあ、いつもと変わらぬフェミ様の通常運転ではあり、それに対して正義の怒りを燃やす表現の自由クラスタのみなさんの振る舞いも変わり映えせずなのですが、ただ、ネタが大きかったせいで、ことは予想外の拡大を見せております。
 発端は太田啓子弁護士という方で、一言で言えばNHKの番組で、キズナアイが言わばインタビュアー役として登場したことが受け身な女性ジェンダーの再生産であり、お気に召さなかったご様子でした。が、途中から、当ブログでも何度も扱った千田有紀師匠*1が参戦。太田師匠の後を引き取るように「表現の自由クラスタ」のターゲットとなり、さらには某BL作家が師匠を批判したり、某BL社会学者が師匠の側に回ったりと、事態は混迷の一途をたどっているわけであります。
 ともあれ、児童レイプを守るためにがっちり手と手を握りあっていた自分を腐女子だと思い込んでいる一般フェミがオタサーの姫になれた者、なれなかった者に分断された姿に、男社会による女の分断は恐ろしいなあ、と思い知った次第です。
 また、千田師匠が批判者に対し、「私を誰だと思っているのか」とツイートして、それが傲慢であるとバズったのですが、これは「オタクの敵扱いされているが、私だってオタク、BL好きなのに心外だ」という意味あいでなされたもので、文脈をやや無視して叩かれているのはいささか可哀想です。もちろん、「誰がお前なんか知るかボケ」という結論に変わりはないものの、フェミニスト腐女子が萌えキャラに文句をつけてくるなんてこと、今に始まったことじゃないんだから、そこ(オタク界の内部にこそ獅子身中の虫が潜んでいること)を鑑みない純朴な叩きは、問題を理解していない証拠です。
 事実、目下ツイッター界隈でフェミを全否定している連中の何割かは、今まで「フェミニストは仲間だ!!」と絶叫し、ぼくが事実を指摘すると酸鼻を極めた罵倒を繰り返してきた連中です。どうなってるんだと問いたいところですが、彼らは「我こそは純真無垢で善意の、純粋な被害者なり」と思い込み、自分の垂れ流してきたデマや罵詈雑言に対する内省などは、ゼロであらせられるのでしょう。くるくると手のひらを返す彼らの冷酷残忍さを見ていると、フェミニストが気の毒にもなってきます。
 そんなわけで、ぼくもあんまり事態に対してがっぷりと四つに組む気力もないのですが、まあ、ごく簡単に、ここに負け惜しみを記しておこうと思った次第です。

*1 当ブログの千田師匠の記事は以下を参照。

夏休み千田有紀祭り(第一幕:メンリブ博士のメンズリブ教室)

夏休み千田有紀祭り(第二幕:ゲンロンデンパ さよなら絶望学問)
夏休み千田有紀祭り(第三幕:スーパーゲンロンデンパ2 希望の学説と絶望の方向性)

夏休み千田有紀祭り(第四幕:ダメおやじの人生相談)

ただ、まあ、いかなる場合も、いずれにせよネットの「叩いていいとなった相手を数の論理でボコりまくる」傾向は好きになれません。みなさんもこっそり楽しんでくださいね。

 ――さて、ここしばらく、ぼくの物言いには上のような、フェミニストに同情的なものが増えています。
 怪訝に思う方もいらっしゃるでしょうか。
 本ブログの愛読者の方にはご理解いただけていると思いたいところですが、念のためにちょっとだけ詳しく申し上げましょう。
 以前、とある自称漫画評論家の方が、萌え系のレズエロ漫画をdisっていたことがありました。何しろ本当に大昔のことなので、記事も手元にありませんし、かなり記憶も曖昧になってしまっているのですが、本当に、フェミニズム丸出しの「レズ漫画は女性を蔑視している(大意)」という、ただそれだけのものでした。ぼくは大層に驚きました。この御仁はずっとエロ漫画の専門家を自称していたのですから。
 言うまでもなくこの方、ゴリゴリの左派でフェミニズムの信奉者。しかし同時にエロ業界に深く関わっている人でもありました。もう、焼き鳥屋を本職にしている愛鳥家みたいな、わけのわからないハナシですが、お察しの通り、こういう御仁は大変に多い。
 この方はオタクというよりは世代的には「エロ劇画」「三流劇画」の人です。といっても、それらがどんなものかが、今となってはわかりにくいかもしれません。『漫画エロジェニカ』とか、何かそんなんです。あまりピンと来ない方は上のフレーズで画像検索してみていただきたいのですが、まあ、いわゆる「萌え」とは一億光年ほど離れた、エロを感じるにはかなり厳しい絵が画面に並ぶことになるかと思います。70年代辺りに一時代を築いたこれら表現ですが、80年代より「萌え」系の美少女漫画――劇画的な絵とあまりに異なるため、当時は「ロリコン漫画」と俗称されていました――に取って代わられ、一時期は全滅したかに見えたモノが……実は近年というか、ここ十年くらい、廉価版エロゲなど、こうした絵が多くなってきています。正直、ユーザー層が見えてこないんですが、五、六十のオッサンがエロゲやってるんでしょうかね。
 さて、その「エロ劇画」ですが、左派運動と非常に縁の深いものでした。ウィキペディアの「エロ劇画誌」の項を見てみると、「三流劇画ムーブメント」という小見出しが作られ、

これは、当時の三大エロ劇画誌と言われた『漫画大快楽』『劇画アリス』『漫画エロジェニカ』の編集者(亀和田武、高取英ら)によって打ち上げられたもので、言わば学生運動のような革命思想をマンガ雑誌の世界に持ち込んだもので「劇画全共闘」とも呼ばれた。


 などと書かれています。エロ漫画界は左派的な勢力が支配的だったわけですね。全共闘嫌いの大塚英志氏がことあるごとに毒を吐いていたのも今は昔です。
 しかし萌え的な美少女系エロ漫画はそうした「エロ劇画」の影響があるとは言い難く、全く別な場所、つまりアニメなどを源流に発生してきた表現としか言いようがありません。
 両者の違いを端的に説明することは難しいのですが、「萌え」系漫画は二次元に描かれた美少女そのものにある種の欲望を抱くものであるのに対し、「三流劇画」はあくまで「女体」を「想起」させるきっかけとしてのツールとして絵を利用していると言えるのではないでしょうか。「官能小説」を読む時、文字そのものに欲情しているわけではなく、その文字によって想起されるイメージに欲情しているのに、これは近いでしょう。そのため、こうした漫画ではキャラクターに「百恵ちゃん」的な芸能人の名前をつけることが普遍的だったように思います(これはまあ、乏しい知識で書いているので、話半分に聞いていただきたいですが)。
 ともあれ、これは「サブカル」とは分断されたところに「オタク文化」が発生したことの、一例なのです。
 しかし、他のサブカルもそうであるように、彼らはコンテンツとしては衰退しているものの、イデオロギーとしてはオタクへの一定の影響力を保持し続けている。ぼくはよくオタク左派を「自分をオタクだと思い込んでいる一般リベ」とからかいますが、それは上のような流れを踏まえてのものであるわけです。
 ともあれ、フェミニズムにずっぽりハマった漫画評論家の先生が萌え系のレズエロ漫画を差別的であると言い募った。ならばオタクは悪だ、エロ漫画は女性差別表現なのだから(レズエロ漫画が女性差別なら、当然レズじゃないエロ漫画も女性差別でしょう)弾圧せよ、いや弾圧はしないまでも肯定すべき表現ではない、となるはず。
 しかし言うまでもなく、上の方はずっと表現規制反対運動にかかわっていらっしゃいます。当たり前のことです。「表現の自由クラスタ」はフェミニストのお友だちなのですから。うぐいすリボンなどといった組織が上野千鶴子師匠とデートして、彼女に「ポルノは否定しない」とリップサービスさせたこと、そして当時、師匠の出した本にはそうした主旨の文章と共にポルノはおろか、売買春を全否定する文章が載っていたという混乱ぶりを見せていたことも、何度も繰り返し指摘していますね*2
 彼らは一体、どうやってその矛盾に辻褄をあわせているのでしょう。まあ、何とはなしに見当はつくのですが、それについては後で述べるとして、先に急ぎましょう。
 フェミニストはとにもかくにも「ジェンダー規範を消せ、ジェンダー意識を革新せよ」と唱え続けます。そしてこれはまあ、左派の「革命は正義」といった理念と合致します。
 彼らの中のオタクに敵対的な者は「オタクのジェンダー規範は旧態依然としているからけしからぬ」と絶叫し、オタクに親和的な者は「オタクのジェンダー規範は革新的だからけしかる」と絶叫します。これはリクツの上ではどちらもそれぞれもっともですが(一例をあげれば、エロゲのハーレム構造などは旧態依然としており、男の娘は革新的でしょう)、しかしこちらとしては、けしからぬだのけしかるだのといった価値判断は置けばいいのに、という感想しか、湧いてきません。上の誉められたりケナされたりしている表現はいずれも単にぼくたちの「欲望」の発露であり、それを彼ら彼女らからイデオロギーによる評価をされる筋合いでは、ないのです。その意味で、上の両者は結局は同じ穴の狢です。一方が仮に口先でオタク文化を誉めていても、上のように「自分たちのイデオロギーに適うから」評価しているだけに過ぎません。そんな人たちと、ぼくたちは歩を共にしていいのかとなると、疑問を覚えないわけにはいかないのです。
 ともあれ、そんなこんなで彼らはまずフェミニズム的世界観を絶対の正義であると信じて、オタク文化について好き勝手なことを言い続けてきました。ところが今回、自分をオタクだと思い込んでいる一般リベはまた一歩、フェミニストから距離を取ったことになります。上に書いた漫画評論家の先生も言うまでもなく千田師匠バッシングに乗っかっていて、唖然とさせられました。
 彼ら上層部の近年までの戦略は「まなざし村」、「ツイフェミ」、「リベラル/ラディカルフェミニスト」といった非実在概念を捏造することによる、フェミの延命措置というものでした。が、今回の事件に象徴されるようにここしばらく、彼らは「フェミ」を主語に批判をするようになってきた。これは、上層部にとっては鉄砲玉の暴走であり、頭を抱えているのでは、というのがぼくの考えだったのですが、ここへきてその上層部までがフェミを全否定するようになってきた。
 日を追って彼ら全体がそうした延命措置をあきらめつつあるわけです。今回も千田師匠たちを「似非フェミ」「自称フェミ」と呼びつける連中は絶えずいたものの、上のようなタームはあまり聞かれなかったように思います。
 つまり、「自分をオタクだと思い込んでいる一般リベ」のフェミ擁護はもう、後退を余儀なくされている感があるわけです。しかし、ならば彼らは改心したのかとなると、そこまで信用することはしにくい。
 彼らの「転向」の理由は、一つにはオタクの味方を演じるフェミ(というかネオリブ)の存在があるからこそでしょう。もちろん彼女らは「表現の自由を守る」というリップサービスをするだけなのですが(もちろん、それは本当に口先だけなのですが*3)、それを彼らが受け容れているということは、結局彼らのフェミ批判も、それ以上のものではない、ということです。
 そうした彼らの欺瞞を見る限り、状況がよい方向に向かっているとはとても思えないわけですね。

*2 京都地下鉄の萌えキャラにクレームをつけたのはフェミ…じゃなくて“まなざし村”!?
*3 秋だ! 一番ネオリブ祭り


 さて、最後にでは、彼らは自分たちの矛盾にどう辻褄あわせをしているかについて、書いてておきましょう。
 もちろん彼らの口から納得のいく理屈を聞くことは不可能でしょうが、しかし想像することはできます。
 即ち、彼ら彼女らは、「自分もオタクだけど問題視している」といった自意識を持っているのではないでしょうか。このフレーズは少し前、ツイッター界隈でフェミニズムに親和的で萌えキャラに批判的な意見を持つ層が放った言葉です。「自分もオタクだが、オタク的表現には問題がある」というわけですね。早速togetterで批判的にまとめられたりしましたが、恐らくは「自分をオタクだと思い込んでいる一般リベ」もまた、同じような考えを抱いていると想像できます。
 これは、オタクという存在が常に内外から否定されて続ける種類のものであること(「オタク」を主語に世間へとカウンターを繰り出しているのは、実は「自分をオタクだと思い込んでいる一般リベ」だけです。オタクの集まる掲示板などにいってもオタクそのものが常に否定的に捉えられていることはみなさん、ご存知でしょう)、サブカル君が自分のことをそのオタクの兄貴分だと信じて疑っていないことを考えあわせれば、順当な推測なのではと思われます。
 随分前に、青識亜論師匠と議論をした時、彼は上野千鶴子師匠をかばって、こんなことを言い出しました*4

上野女史の場合、フェミニストの本家本元のジュディス・バトラーがそうだったように、ポルノは差別的な言説も含んでいるが、それでも政府当局による規制は「ムリだしムダ」というお立場じゃないでしょうかね。

バトラーなどは、ポルノの自由を認めた上で、ポルノを構成する表徴を転倒させ、反差別の力にしてしまおうという豪毅なロジックを使いましたが、上野女史もこうした流れを汲むのではないかと勝手に思っています。



 そう、彼はジュディス・バトラー師匠が「ポルノの構造を変えよう」と主張していることを、肯定的に紹介しているのです。
「変えようとしている」ってアンタ、それを規制っていうんじゃないでしょうかw
 上野師匠は「ポルノは女性差別だから否定する、しかしエロティカはそうではない性表現であり、女性も楽しむことができる」とか言っていたので、彼女も同じ考えだとの青識師匠の想像は恐らく、正しいことでしょう。つってもそもそも、そのエロティカがどんなものかが全然見えてこないのがすごいですが。
 エロは全てBLにするとか?
 やっぱり規制じゃん。或いはフェミ様の規制はキレイな規制なんですかね。
 ちなみに千田師匠も『女性学/男性学』において、バトラーを引用して丸きり同じ主張をしております*5
 そう、青識師匠は千田師匠の同志だったのです。
 彼ら彼女らは共に「性の革命」を是とする「表現規制派」でした。
 もし彼らが「無理強いはしない、我々は人々が『セクシュアリティの正しい在り方』に目覚めるまで善導していこうとしている存在だ」と言うのなら、やっぱり千田師匠の同志でしょう。彼女だって具体的に反対運動などをやっているわけではないのですから(ただし、*5で引用した記事を見れば、恐らく千田師匠は国がかりの規制も視野に入れている人ではありますが)。
 フェミニストと自分をオタクだと思い込んでいる一般リベは、仲よしの表現規制派でした。
 彼らはフェミの中の、「闇の大首領」に逆らった者への定期的な見せしめを続けながら、今日もフェミとデートを続けています。それはDV夫と依存妻のような、ジェンダー規範に則った、とても美しい男女の愛の営みのあり方であるなあ、と思わず思ってしまったのでした。マル。

*4 強敵! ストロッセン現る! -フェミニズムを批判するフェミニストについて-
*5 夏休み千田有紀祭り(第二幕:ゲンロンデンパ さよなら絶望学問)


『新潮45』「そんなにおかしいか杉田水脈論文」を読む

2018-10-06 01:19:59 | セクシャルマイノリティ


 何とまあ、本稿をアップする間もなく、『新潮45』が休刊だそうです。
 いよいよフェミニズムやLGBT活動家が民主主義の敵でしかないことが明らかになりつつあります。
 まあ、残念だし腹立たしい話ですが、愚痴っていても仕方ありません。ともあれ、先に進みましょう。
 当ブログでは以前も杉田水脈氏の記事(『新潮45』8月号)を採り挙げましたが、今月(10月)号では世間のバッシングに対する反論特集とでも言うべきものが組まれ、複数の執筆者による記事を掲載。これが火に油を注ぐ格好になってしまいました
 何しろこの土曜日、神保町まで出て今号を探してみたのですが、大型書店では初日で完売とのお話。近所の町の本屋でも同じく完売という状況で、前回と同じく図書館で読み、本稿もその時のメモを手がかりにしたためることになってしまいました。
 というわけなので、以前の記事を読んでいない方はそちらから読んでいただくことを、強く推奨します。また、本稿では以前の記事を以降は「前回」と呼ぶことにします。
 さて――リベラル様側がネット上で行っている「反論」についてはまだほとんど目を通しておらず、後々突っ込みを入れてみようと思っているのですが――肝心の今月号の特集、大変残念ですが、やはり大騒ぎするようなものとはとても思えませんでした。もっとも、杉田氏の当初の論文ですらあれだけ怒り狂った人々であれば、ただ「反論された」という事実を持ってなおのこと半狂乱になること自体は、想定の範囲内ではあるよなあ――とも思えるのですが、まあ、それは置いて、まず特集全体を概観してみましょう。

 まずは藤岡信勝氏の記事。特集冒頭に掲載された、今回の騒動を俯瞰したような内容で、ぼくの前回のものとほぼ、同じ内容と言ってしまっていいかと思います。
 ただ、ここでは竹内久美子師匠の杉田氏批判への反論もなされています。以下はあくまで藤岡氏の記事のみを読んでの解説ですが、竹内師匠の主張は「ホモに生産性がないなら、そもそも子供にホモのDNAが引き継がれず、とっくに絶滅しているはずだが、そうはなっていない。これはホモの母方が子だくさんの傾向にあるからで、ホモは絶滅しない、ご心配なく(大意)」という何だかわけのわからないもの。
そういうことは言ってないから」以外の感想が思いつきません。そもそもホモが遺伝要素が強いのか(先天的なのか後天的なのか)すらぼくには判断しかねますが、仮にそうだとしてもホモ自身は生産性がないという結論には変わりがないし、「ホモの母方が子だくさん」というのがいかにも胡散臭い話です。何か根拠あるんでしょうかね。
 それに、更に言うならば「ホモが絶滅していない」理由は単純に、ひと昔前までは「国民皆婚社会」でホモも女性と結婚していたから、DNAが残されたというのが実情でしょう。この理屈ではやはり、ホモにも生産性を担っていただくため、国民皆婚社会(ただし男女に限る)を復活させるべき、となってしまいます。
 また、藤岡氏は「生産性」という言葉が差別的であるとの主張に対して、マルクスやマルクス主義フェミニストの上野千鶴子師匠も「生殖」を「生産」と表現していた、と反論しています。もし杉田氏をレイシストとして糾弾しなければならないのであれば、同様にマルクスも上野師匠も糾弾されなければならない、というわけです(ただ、批判者側は単に「生産性」の文脈を曲解して言いがかりをつけていただけなので、これもツッコミ所はそこじゃない、という気はします)。
 もう一つ、アメリカの連邦最高裁が同性婚を禁じる州法を違憲とする判決を下したそうなのですが、LGBTはこれを称賛するどころか批判している。藤岡氏によれば、これは「異性愛者の結びつきを保護することは同性愛者を排除することだ」との主旨によるものらしいのですが(正直、説明不足でここのつながりはよくわからないのですが)、こうなると異性愛やそれにまつわる制度そのものを何でも否定してしまえる。結局、彼ら彼女らの目的は、婚姻制度の否定というものだと藤岡氏は批判します。フェミニズムが婚姻制度に否定的なのは当ブログでも幾度も指摘してきた通りで、LGBTはやはりそれに強い影響を受けているわけです。

 本特集には「ゲイ当事者」として松浦大悟氏も寄稿しています。
 こうした場合に揉めている両勢力が「当事者様のお声」を恭しく拝聴するスタイル、ぼくは好きになれまぜん。表現の自由クラスタが「女性様のお声」と称してフェミニスト様のお言葉を拝聴するとか、被爆者差別と騒がれた『ウルトラセブン』第12話の擁護論を載せた『朝日新聞』が(作品に肯定的なことを言ってくれる)被爆者の声を聞きに行くとか。そういうのって何だか、母親を自称する二人の女性が小さな子供の手を左右から引っ張っているみたいで嫌らしいと感じてしまうのですが、まあ、だからといって「当事者は発言するな」とも言えません。
 それと実はこの松浦、ツイッター上でぼくをブロックしているクソ野郎なのですが(最近、このトピック関連でツイッターを見て回っていて気づいたのですが、ぼく自身はこの人とやりあった記憶が丸っきりありません)、少なくともここで展開された主張は冷静なものであり、頷ける点が多いと感じました。
 彼も杉田氏を全面擁護というわけではなく、自治体が実施している同性パートナーシップ証明書にはほとんど予算がかかっていないと反論。ただし、復興庁がやろうとしている「LGBTツーリズム」などは好ましくないと批判しています。
「LGBT差別解消法案」の野党案にはLGBTについてサベツ的なモノは観念すらも除去するとの記述があるそうで、彼はこれに対してまさに人々の内面にまで行政が口を出すことになり、賛成できないと指摘します。これでは『サザエさん』も問題になると。これはまさに正論であり、逆に言うならば「人の内面を改造すること」を主目的とするフェミニストが杉田氏を批判せずにおかないのは当たり前、としか言いようがありません。
 もっともこの松浦氏、一方では国際レズビアン・ゲイ協会がNAMBLAを斬り捨てたことを批判しています。NAMBLAというのは北米少年愛者協会という、大人と子供のセックスの合法化を目的とする集団で、こんな連中を仲間にしちゃいけないのは当たり前としか言いようがありません。やっぱ松浦、クソだな!

「かずと」という人は尾辻かな子議員について採り挙げています。尾辻師匠が杉田氏の記事を曲解したことがバッシングのきっかけであったらしく、かずと氏は同性愛者としてかつては尾辻師匠に心酔していたが、今回の件には賛成できないとして、師匠が杉田氏にツイッターで論破されている(質問に答えようとしない)ことを指摘しています。

 あなたはLGBTに税金を投入する必要がないことが分かっているからです。LGBTの中でも本当に支援が必要なのはTの中の一部の方だけと分かっている。


 そう、このTこそが、言わばLGBTの稼ぎ頭であったのです。
『月刊マガジン』など『進撃』が売れてるので採算が取れるのであって、他の漫画など全然人気がなく、『進撃』が終わればいっぺんでつぶれる……言わばTこそが『進撃』であるとの指摘です。こうなると前回ご紹介した杉田氏の「LGBTの中のTだけは支援が考えられる」という指摘が、いよいよ重要な意味を持って来ますね。
 また、尾辻師匠は「LGBT政策情報センター」の代表理事をお務めだそうで、こうなるとやはり、LGBTは結構な利権のタネであることがわかります。
 後は潮匡人氏の「ニュースウォッチ9」の報道への批判が目を引くでしょうか。何しろこの番組では、杉田氏を植松聖に準えて糾弾するというすさまじさだったと言います。もし「休刊」にするべきメディアがあるとしたら、どっちかといえばこっちじゃないでしょうかね。

 ――さて、いよいよ本丸、最後に取っておいたメインディッシュです。
 ネットでも悪評紛々の小川榮太郎氏。
 氏の記事のタイトルは「政治は「生きづらさ」という主観を救えない」。リード文は「LGBTの問題など、国家や政治が反応すべき主題ではない。/文学的な、つまりは個人的、人生的な主題なのだ。」というもの。
 実のところ、ここでもう、評価は出たようなものです。これは杉田氏の主張の中でもぼくが評価した箇所、つまり前回記事で述べた箇所を極めて的確にまとめていると言えます。ここで「小川は正義、終わり!」でもいいくらいだ……と言いたいところなのですが、ただ、ちょっと表現に棘がありすぎる気はしますし、記事本文を見ると、いよいよその感を強くします。
 例えば、彼は「性的なことは公にはつまびらかにするな」と主張するのですが、それはいささかお堅いでしょう。そういうのをつまびらかにすることが必要な局面もあるでしょうし、その上で「しかし政治の問題じゃないよな」と批判することこそが、正しい手続きであるべきです。小川氏の主張はいささか乱暴に表現すれば「LGBTはモノを言うな!」とまとめてしまうことができ、それでは杉田氏をバッシングした連中と同じレベルにまで堕ちてしまいます。
 見ていくと彼は「性的嗜好」をLGBTと称すること、その上でそれを前提とした議論をすること自体を否定するとまで言っています。彼は「階級闘争」というロジック自体を否定しており、「知らんけどLGBTもマルクスの手先に決まっているから否定する(大意)」と主張します。
 いや、まあ、結論としては間違っていないけど、でもその言い方はどうなんだ、という感じです。
「異性愛から同性愛に、人生のある時期で変わる者もいる。だからこそLGBTなどというカテゴライズ自体が人性への冒涜である(大意)」との主張もあり、まあ、言いたいことはわからないでもないけどちょっと舌足らず、という感です(ちなみに「人性」はママ。「人のセクシュアリティ」の意でしょうか)。
 小川氏はご存じないかもしれませんが、近年(って、LGBT自体が近年の造語ですが)、LGBTの後ろにいろんなアルファベットがつく傾向にあることは、前回の記事でも指摘しました。そこにはLGBTが「弱者の王」として不動の地位を誇り、そこにいろんな人たちが「仲間にして」と群がっている切ない光景があまりにも生々しく映し出されていました。小川氏は恐らく、それと同様に「LGBTを特権化すること自体がけしからぬ(そしてまた、逆にLGBTのケツに無限にアルファベットをつなげることをよしとするなら、それこそキリがない)」との、杉田氏もしていた指摘をしようとしているのではないか、と思います。
 後は性別と性的指向を混同したりと乱暴さも目立ち、正直、「炎上した事件を丸く収めるために出してきた記事」としてはちょっと、消防車が町に火を放っている感はある
 しかし、それも含めて、敢えて言えば小川氏の記事は「普通の日本人」の感覚をうまい具合にすくい取っていると思うのです。
 リベ様は保守派が「普通の日本人」と口にすると、鬼の首を取ったように発狂します。正直、その時の彼ら彼女らの心情、ないし言い分はよくわかりません。想像ですが、「お前たちが普通の日本人などであるものか」「普通の者たちこそが、マイノリティを虐げているのだ」といった心情が、そこには働いているのではないかと思います。
 しかし、(この二つが既に矛盾した両立しないものであることはまあ、置くとしても)彼らはことに近年、「日本の右傾化」に心を痛めていらっしゃるのですから、前者は論理的矛盾がありますし、また後者は字面だけを見れば正論ですが、しかしトランプ現象などを見ても、そこには「捨て置かれ続けて来た中間層に対する冷酷さ」が隠れています。
 本件に限らず、LGBT関連の騒動ではLGBT当事者、或いはその理解者を自称するリベ様の、「無知蒙昧な大衆」に対する傲慢不遜な「啓蒙」という側面が常々、必ず、絶対、つきまといます。「性的嗜好」と「性的指向」は違うの何のという物言いはその好例ですね。
 小川氏の敢えて無知をさらけ出すスタイルは、敢えていえばLGBTが「トリビア棒」でこちらに殴りかかってくることへのカウンターになっているとも言えましょう。いえ、すみません、ちょっとさすがに無理矢理な擁護ですが。
 しかし、前回LGBTの「イキり」ぶりを「『仮面ライダー』の怪人の名前を並べてドヤってるみたい」と形容しましたが、本当に(悪い意味で)オタク的なんですね、あの人たちのトリビア。それは「LGBTのケツのアルファベット」問題同様、「普通の日本人」には「キリねーじゃん、そんなの」という感想以外の何物も呼び起こしません。
 前回も書いたようにLGBTはある種の暗黒大陸でした。その暗黒大陸を担保に彼ら彼女らは一般ピープルを畏怖させ、そしてまた自分たちだけが暗黒大陸の住民との通訳ができるのだと主張することで、利を得ようとしました。彼ら彼女らは「トリビア棒」をまるで至高の価値を持つかのように振り回します。しかし、特撮オタクが振り回していた「幻の名作」が次々とDVD化されることで「意外にしょぼい」とバレてきたのと全く同じに(評論家などが持ち上げてきた「幻の名作」がソフト化され、いざ観てみると鬼のようにつまらない、というのは一時期の特撮オタクあるあるでした)、暗黒大陸はもはや、価値を持ってはいません。そもそもあくまでマイノリティである以上、数は期待できませんし(だからLGBTは自分たちが隠れたるマジョリティであるかのように自己演出し続けてきました)、今となっては「Xトイレを作れ」といった「キリねーじゃん、そんなの」どころか「勘弁してくれ、俺はパンを買うカネもねーんだ」な要求ばかり。
 その意味で、小川氏がホモの芸術家の名前を挙げて、ホモの才能を称揚するのは賛成できません。それこそ前回に指摘した「ホモには才能のあるものが多い(から、生産性があるのだ)」という主張と全く同じだからです。
 つまり小川氏の今回の「無知」ぶりに価値があるとすれば、それはまさに「トリビア棒」に対する「キリねーじゃん」との「普通の日本人」の声を放って見せた点にあると言えるのです。
 それはみなさんもネットで見聞したであろう、今回一番の突っ込みどころとなった例の箇所についても同じことが言えます。
 そう、SMAGについてです。
 これ、「スマッグ」っていうんでしょうかね、どうでもいいけど。
 要するにサドマゾとアナルマニア、そして痴漢の略だそうです。
「SMAGの人権を守れ、バカにする者はレイシストだ!!」というわけです。これ、ぼくの「スカトロマニアの人権を守れ!」というネタとほぼ同じですよね。そう言ってみせることで、LGBTを「相対化」してみせるという作戦です。ネット上の反応をちらちら見る限り、LGBTやリベ様がこの箇所に狂ったような怒りを炸裂させておりましたが、それは大変に示唆的です。
 もっとも、そうは言っても、ここは非常にまずい部分でもあります。何しろ小川氏は「痴漢症候群の者が女を触る権利を認めよ」という言い方をしているのですから。
「犯罪を幇助しやがって」と言われたら、それは反論がしにくい。
「フェミニストだって少年愛者が小学生の子供とセックスすることを肯定しているではないか」との反論も想定し得ますが、そうした指摘する者は恫喝に遭い、事実は隠蔽されているのが現状です。
 いえ、更に言うなら、小川氏は彼らに「痴漢症候群」との名前を与えて、「彼らは自分の意志ではどうにもならず、女性のおしりを触ってしまう者である」と規定しています。確かに痴漢症候群(という言葉もないことでしょうが、仮にそれがあるとして)の者が自分の意志ではどうにもならない衝動を抱えているとしたら、それは糾弾ではなく治療の対象です。その意味で犯罪者には違いがないけれど、ニュアンスは異なってくる。
 ただ、一方それをLGBTに準えるのは、差別……ではありませんが(仮にLGBT側が差別だと言い募ったとしたら、彼ら彼女らが病者を差別している、という理屈になりましょう)、いずれにせよ「自己の衝動を抑えきれないような病者を持ち出すのは比喩として成り立っていない」との反論は考え得る。
 ここは(敢えてギャグに持っていき)国家が痴漢プレイイメクラを経営し、彼らに無償で提供せよ、とでも言うべきであったでしょう。まあ、それだって「ホモも男を世話しろとまでは言っていないぞ」との反論も成り立ち得ますが、突っ込みどころは少なくなる。
 或いは、ペドファイルをLGBTに加えLGBTPにしたがっている人たちのロジックを借用する方法もあったことでしょう。「痴漢症候群を差別するのはまかりならぬ、(実際に)痴漢(行為を犯した者)と痴漢症候群患者は別、前者はモレスター(加害者)、後者は清浄で清廉なるセクシャルマイノリティなり」と。
 或いはまた、それこそぼくの持ちネタのように「スカトロマニア」を持ち出してもいいかもしれません。事実、これを持ち出されたリベ様は狂ったように発狂します(強調表現)。自分たちは清廉で清浄なセクシャルマイノリティの理解者のふりをしているのに、汚らしい変質者の話を持ち出すとはけしからぬ、と。
 小川氏の言は雑に過ぎましたが、LGBTのケツにに痴漢症候群の「G」なり、ペドファイルの「P」なり、スカトロマニアの「S」なりをくっつけると、台なしになるということを示して見せようとはした。そのことの意味を、ぼくたちはもう少し考えなければならないのですね。

 ……はい、というわけで考えてみました。
 ぼくがいつも言う通り、LGBTは「名誉女性」です。
 まあ、Lは違いますが(この一番目立たないLが一番頭にあるの、何故なんでしょうね)GBTは「女性ジェンダーを持つが、しかし女性と認められない、二級女性」です。GBが果たして女性ジェンダーの主と言っていいのかはわかりかねますが、実際のところフェミニズムにおける彼らの扱いは「二級女性」とでもいったものです。彼女らが彼らを清浄で清廉なるセクシャルマイノリティであると規定しているのは、彼らが女性に性被害を与えないからであり、男性や児童への被害はどうでもいいのですね。逆に女性に害を与え得る「G」や「P」や「S」がLGBTの仲間入りをすることは未来永劫、ないのです。
 そしてこれはまた、頭でっかちなインテリのコンプレックスをいたく刺激します。彼らのGBTへの崇拝ぶりは病的というしかない域ですが、これは逆に言うならばエロゲに登場する男性主人公が基本、草食系なのと同じ、実のところ男性には(ましてやインテリ層やオタク層には)「女性に加害すること」への極度な罪悪感、畏れがそもそも非常に根深く存在している、ということなのです。
 小川氏は「性の問題はそもそも後ろめたいものだ」と指摘していますが、LGBTは「後ろめたい兵器」としてフェミニズムに運用されていたのです。更に言えばその意味でLGBTは「(女性に性的加害を行わないので)後ろめたくない」ものであると彼女ら、及びリベラル男性たちには認識されているわけなのです。
 LGBTの望みは、「普通の人とは違う後ろめたさを何とかしたい」というものでしたが、それは小川氏の言うように政治で解消できるものではない。しかしそこをヘテロセクシャル男性の「後ろめたさ」を突いて攻撃する兵器として、フェミニズムに利用されてしまったのです。つまり、フェミニズムのLGBTの兵器利用は、そもそもLGBTの心情を最初っから、残忍極まる形で踏みにじっているものだったのですね。
 ぼくが(市井の一人ひとりに対してはともかく、運動家としての)LGBTに対して、そして彼ら彼女らに同調的な人たちを全く評価できないと考えるわけは、もうおわかりでしょう。
 小川氏の主張はそこを突く、極めて可能性に満ちたものでしたが、その端々がいささか軽率ではあった。
 とはいえ、彼の主張は「公私を分けよ」との一点に集約され、そこは頷ける。

 ――といった辺りがまあ、ぼくの本特集に対する評価になりましょうか。
 いずれにせよ気に入らない雑誌を休刊に追い込むというリベ様のやり口は肯定できませんが、こうして見るとむしろこうまで強硬手段に出ざるをえないほど、『新潮45』の特集は彼ら彼女らにとってヤバいものであったのです。
 実は本特集への反論に対しても多少、触れておくつもりでしたが、ここまでで結構な文字数になりました。
 あまり時間もないのですが、できれば次回、それについて扱ってみたいと思います。