兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

2012年女災10大ニュース

2013-01-18 23:57:55 | 時評

 以下はニコニコチャンネルのブロマガ、兵頭新児の女災対策的随想において既にアップされた記事です。 

 今更ですが、去年の年末にアップした、2012年を振り返る内容のものです。 

 目下、兵頭新児は活動の軸足をそっちに移そうかと考えているのですが、或いはアカウントを持っていてそちらを見られない方もいらっしゃるかもと思い、こちらにもアップしてみることにしました。

 こちらを完全に廃墟にしてしまうのも何だか寂しいので。

  文章自体は変わらないので、一度お読みになった方は、再読される必要はありません。

  ところでよく無名でコメントつけてくださっていた方。

  ご覧になっていますか?

  よろしければ新ブログにもいらっしゃってください。

 

 

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 新年、明けましておめでとうございます。
 いよいよ2012年の始まりです。
 これよりの一週間がみな様にとってよい年でありますように、お祈り申し上げます。
 ――わかりにくいので書いておきますが、以上は歌丸師匠が毎年やる新年恒例のボケのパロディであります。ちなみに去年も同じギャグをやっているのですが、ブログも移転したことですし、いけしゃあしゃあと使い回すことにした次第です。

 

 さて、というわけで恒例の「今年の女災10大ニュース」を発表しようかと思います。
 といっても新聞などで騒がれた大きな事件などは一切、扱われません。
 あくまでぼくの視点から、ぼくの感覚に基づいて選んだニュースなので、トピックスとしては抽象的なものばかりになりますが、そこはご容赦ください。
 それでは早速、10位から発表して参りましょう。

 

【第10位】『女災社会』絶版
 はい、記念すべき最初のニュースはこれです。
 拙著『
ぼくたちの女災社会』は著者も与り知らぬまま、そのほとんどが裁断されておりました。
 ただ、出版して三年足らずでの絶版はかなり例外的だろうと意気消沈していたのですが、出版不況の昨今、意外にあることみたいです。まあ、だからといってそれが慰めになるわけではないのですが。
 ところが本書、どういうわけか尼で見ると絶版になってから妙にプレミアがついているんですよね。レビューも増えたりしましたし。もうちょっと、出た時に騒がれたかったものです。

 

【第9位】ブログ開設
 これも私ごとですね。
 ただ、困った方もいらっしゃいますが、ブログのコメントが増えたことは嬉しい限りです。

 

【第8位】斎藤美奈子師匠の粗雑な著書、教科書に
 これについては、既に旧ブログ、またtogetterでかなりしつこく書きました。
 ここで見えてきたのはフェミニストたちの挙動のいい加減さ。
 例えば斎藤師匠は本書において基本的にアニメを、男児向けのものも女児向けのもの(そう、例えば『セーラームーン』)もケシカランものとして否定しています。が、本書について大絶賛のレビューを書いた藤本由香里師匠は、言うまでもなくオタク系フェミニストで『セーラームーン』についても大絶賛。
 むろん、「浮き世の義理で仕方なく内輪誉めしている」という側面もありましょうが、彼女らのデタラメぶりを見ていると、「何も考えず、何となしに手グセで文章を書いている」だけにも思えてきます。

 

【第7位】『ダメおやじ』ブーム
 本年度の『ダメおやじ』ブームにはすごいものがありました(ただしマイブーム)。
 何しろランプの魔神に聞いたらダメおやじやそのヒロイン、ゆき子のことを当ててくるくらいですから。
 本作についても今年の初めに
旧ブログで書きました。高度経済成長期に描かれた「父性の喪失」の物語が、ゼロ年代になっていよいよ実感をもって胸に迫ってくるようになった、「弱者男性」が容赦なく叩かれ続ける現実をまるで予言していたかのような作品である、というようなことをお話ししたかと思います。
 昭和時代のダメおやじが叩かれたのも、ゼロ年代の「弱者男性」が叩かれているのも、それはぼくたちが「弱者だから」でも「強者だから」でもありません。
「強者でなくてはならないのに弱者だから」なのです。

 

【第6位】ド○ター差別ブーム
 本年度のドク○ー差別ブームにはすごいものがありました(ただしマイブーム)。
 彼についても、既に
旧ブログで書きました(こればっか)。
 要するに女性専用車両に乗り込み、大暴れしてフェミニストに男叩きの口実を与えている御仁ですね。
 が、大変に不勉強な話ですが、記事を書いた時点でぼくは、彼らがyoutube、ニコ動にアップしている動画を見てはいなかったのです。
 動画を見て、何といいますか『キックオフ』の衆人環視での音読を強制されたかのようないたたまれなさに身悶えしてしまいました。
 彼らの「痛さ」の本質は、一体どこにあるのでしょう?
 かつての市民運動の方法論がいまだもって通じるのだ、と信じている点。
 かつてのウーマンリブのロジックを男性が唱えても通じるのだ、と信じている点。
 その意味で彼らって70年代的学生運動の痛さと90年代的クィアムーブメント()の痛さがハーフ&ハーフでお楽しみいただける存在なんですよね。
 事実、彼らや在特会の方法論って、左派の運動家の流れのようですし、彼らのスタンスは(そもそもあまりモノを考えるタイプの方々ではないのですが、敢えて言えば、素朴な意味での)ジェンダーフリー論者的な位置に立っているようです。
 彼らのおかげで恐らく、男性の解放は四十年ほどの遅れを強いられることになりましょうが、まあ他人様のなさることですので、やめろとも言えません。困ったことです。

 

【第5位】リベラルとフェミニストの分裂
 Twitter界隈では、リベラルを自称する人々とフェミニストたちとの内輪揉めが、殊に今年辺りから目立ってきたように思います。
 例えばですが、『
週刊金曜日』では『ひとはみな、ハダカになる。』という本の回収・絶版を求める運動が起こったことが報じられました。
 これはバクシーシ山下という悪名高いAV監督の著作で、既に絶版になっていたのですが、今年再販の話が持ち上がり、それで以前にも騒がれていた問題が蒸し返された――というのが経緯ではないかと思います。
 ぼくもネタになるかと思い、読みました。古書を尼で取り寄せて。
 すっげーツマンネ。
 内容はどうということもないAV監督の忙し日記。
 そもそもぼくはものすごく本を読むスピードが遅く、文庫一冊に一ヶ月くらい平気でかけたりするのですが、本書に関してはあまりの内容の薄っぺらさに一時間半ほどで読破してしまいました。
 毒にも薬にもならないような本ではありますが、問題はこれが「よりみちパン!セ」という中高生を対象にしたシリーズとして出版されたことです。
 内容的にすごいエロがあるというわけでもないのですが、こんなモノを中高生向けとして出すというのは論外ですし、文句をつけてくるヤツがいるのは当然です。
 が、その文句をつけたのがアンチポルノ派のフェミニズム団体であり、それを「表現の自由」の侵害であるとしてリベラルと小競りあいが起こったわけです。実際、復刊された気配もないのでフェミニストが勝ったのでしょうか?
 いずれにせよ、「リベラル」というのは要するに「俺の自由を守る人」以上のものではないのですからリベラル同士の利害など、常にバッティングしあうわけです。これからいよいよそうした内戦は拡大し、周囲に被害を及ぼすようになるのではないでしょうか。

 

【第4位】ダイアモンド博士が親ジェンフリ派というウソがバレる
【第3位】フェミニストがマネーを参照していないというウソがバレる
 はい、4位と3位は同時にご紹介しましょう。
 もうこの一、二ヶ月この話題ばかりで皆さん、飽きていらっしゃるかと思います。
 詳しくご存じない方は、今までの記事をご覧になって下さい。
 が、小山エミ師匠と議論を重ねた『世界日報』の山本彰氏から面白い記事をご教示いただいたので、ここでは補足説明的にそれをご紹介することにしましょう。
 日本性教育協会というところの発行している『現代性教育月報』という月報があるのですが、これの2006年1月号にダイアモンド博士が寄稿をしているのです。
 ダイアモンド博士は

 この報告(引用者註・マネーの双子の症 例)により、人は性心理的にジェンダー・レスの状態で生まれ、ジェンダーに特徴的だと思われるものはもっぱら養育によるものだというフェミニストの主張が生まれたのです。そしてフェミニストは、女性として扱われた男性が女性としてうまく適応できたのであれば、教育・就労・家庭内の関係性をはじめとする、あらゆる事柄について男女が平等に扱われるよう、子どもの教育のしかたを変え、女性に与えられている機会を改善していくべきだと主張しています。

 と、明らかにフェミニストが「双子の症例」を根拠にジェンダーレスを推進しようとしたのだとの見方をしています。
 もっともこの後、博士は

 しかし、だからといって、私が日本の伝統主義者の主張こそが正しく、フェミニストの主張はまったく間違っていると考えているかといえば、そうではありません。

 と続け、男/女性ジェンダーを身 につけたい女/男性や同性愛者を尊重すべきだ、との考え方を示しています。全体的には、博士の主張は中立というか、一般論を述べるに留めている、という印象です。勘繰ることが許されるなら、日本の詳しい状況もわからないことだしという思惑も、イデオロギー闘争に巻き込まれても面倒だしというホンネも透けて見えそうです。
 それを、編集部が前書きを挿入することで何とか自分たち寄りの記事としての体裁を取り繕った、という印象です(事実、ダイアモンド博士の文章の前には博士が男女共同参画の理念に賛同しているのだ、と強弁する『朝日新聞』の記事の転載が挿入されるという、かなり作為的な記事構成になっています)。
 いずれにせよフェミニストたちの不誠実さを物語る上で、極めて重要な資料と言えましょう。

 

【第2位】ラディフェミ/リベフェミ論のウソがバレる
 これについてはずっと書かねばと思いつつ、書けずにおりました。
 一時期ネット上では「リベラルフェミニストはオタクの味方である、ラディカルフェミニストこそ悪者なのだ」との論調が盛んでした。しかしこれは進歩派系の文化人が何とかしてフェミニズムを延命させようと企てて垂れ流した、一種の作為的な情報操作のように思われます(ぼくがそのウソを指摘したから……というわけではないのでしょうが、最近はあまり言われなくなりました)。
 ネットで見る限り、ラディフェミというのは「ポルノなどに文句をつけるうるさいやつら」という意味であり、それに対してリベフェミは「表現の自由を重んじる人たち」という文脈で使われています。 つまり、児ポ法などと絡んで「ラディフェミは敵、しかしリベフェミは味方」といった区分けがなされていたわけですね。
 が、『フェミニズム事典』などで両者を調べてみると、それはどうも当たっていないのです。
「ラディカル・フェミニズム」というのは男性性、女性性といったジェンダーそのものを性差別の原因である、と見なすフェミニズムだということです。つまり法的手段で均等法のような法律を作っただけでは不足で、ジェンダーフリーによってしか性差別を解消し得ない、というのが彼女らの考えです。
 もちろん、ドウォーキンやマッキノンがラディフェミの論客であるというのも事実である以上、「ポルノを否定するのがラディフェミ」という言い方も完全な間違いとは言い切れないのですが、上の定義を見る限り、『
バックラッシュ!』などでさんざん顔を出した上野千鶴子師匠など、今の日本で主流となっているフェミニストたちは間違いなくラディフェミです。
 一方、「リベラル・フェミニズム」というのは単に古典的な自由主義に影響を受けて出て来たフェミニズムという、(ちょっと乱暴ですが敢えて言えば)「古いフェミニズム」というような意味あいしかないようです。
 ネット上で「ラディフェミは敵、しかしリベフェミは味方」などと言っている人たちの何割かは明らかに左派で、上野師匠などと親和的です。が、明らかに彼らのラディフェミ、リベフェミの用法は間違っている。大体、「リベフェミ」の「リベ」は「表現の自由」とは直接関係がないのですから。
 これが「何かの間違いがいつの間にか広まった」のか、「意図的にウソを流している」のか断言はできません。しかしウィキペディアを見れば藤本由香里師匠が「リベフェミ」とされており、かなり意図的なものを感じざるを得ません(彼女も言うまでもなく、ラディフェミでしょう)。
 想像ですが、彼らは何とか自分たちの身内を延命させるために「ラディ/リベフェミ」の言葉を敢えて誤用して「過激な、悪しきフェミニスト/話のわかる、よいフェミニスト」というイメージを広めようと、はっきり言えば
オタクを「騙す」ために、風説を流したのではないでしょうか。

 

【第1位】『まど☆マギ』、女の時代にトドメを刺す
 やはり1位はこれじゃないでしょうか。
 いや、アニメ自体は去年にオンエアしたものなのですが、まあ、今年は劇場版が公開されたということで。
(以下、ネタバレを含みますので、未見の方は読まれませんよう)
 本作については、魔女っ子板『エヴァ』との評があちこちでなされていると思います。
 が、重要なのは本作が「女の子の、ビルディングスロマン」を否定した点にあります。
『エヴァ』はフェミニストのせいで男性性を否定された主人公が、かつてのヒーローの

 

「特訓」→「新必殺技を会得」→「敵に勝つ」

 

 というコースを奪われ、

 

「特訓」→「何か、挫折」→「敵から逃亡」

 

 という新パターンを生み出したアニメでした。
 いや、こうしたビルディングスロマンが否定されたのは不況とかいろいろあるわけで、全部がフェミのせいではないと思いますが。
『まど☆マギ』もまた「戦って敵を倒す」という明らかに『セラムン』以降の「戦闘美少女」の系譜に属した作品でした。
 が、従来こうした戦闘美少女物で描かれた

 

「愛を得る」→「愛故に新アイテム獲得」→「敵を倒す」

 

 というコースが『まど☆マギ』では否定され、

 

「愛を得られない」→「何か、挫折」→「悪者化」

 

 という新パターンが生み出されたのです。
 言ってみれば、『まど☆マギ』は「男の子が守れなかった正義を、女の子が守れるわけねーじゃん」と身も蓋もないことを言ったのです。事実、主人公であるまどかの母親は「夫に主夫業をやってもらい、自分は会社で働くバリキャリ」と設定され、まどかの担任の先生は「授業中いつも自分を振った男性の悪口を言う」というキャラクターです。
「魔法少女はいずれ魔女になる」という作品上の設定と併せて考えると、これはかなり意味深です。
 ただ、本作が作品として優れているのは、まどかが宇宙の因果をも変えて悲劇を食い止める、という形でハッピーエンドに持っていったことです。言わばまどかちゃんは女神様のような存在になり、今まで犠牲を強いられてきた魔法少女を救ったのですね。
 ここには作り手の母性信仰的な心性が明確に見て取れます(監督の新房氏は『さよなら絶望先生』をアニメ化した時も、オープニング映像において聖母の如き可符香の中で胎児のように眠る絶望先生、というイメージを描いています)。
 それに沿って先ほどの言葉を訂正するならば、「男の子が戦いによって守れなかった正義は、女の子が母性によって守れるかも知れない」という解答を出したのが『まど☆マギ』と言えます。
 そうした母性信仰的心理に対しては、気にくわない面もあるのですが、ひとまずここでは置きましょう。
 重要なのはまどかちゃんが聖母の如き母性愛で、全地球の因果を変えたという点です。ここではジャンヌ・ダルクや卑弥呼が「利用され、犠牲となっていった魔法少女」として描かれますが、果たして、「歴史上、犠牲となった魔法少女」は彼女らだけだったのでしょうか。
 ひょっとするとまどかちゃんのお母さん、担任の早乙女先生も犠牲となった魔法少女だったのでは?
 となれば女性性を否定し、女性がひたすら男性性を身につけることをよしとしてきた魔女の正体は、一体何だったのでしょうか……?
 そして最終回(つまり、まどかちゃんが女神様と化して以降の世界)でもほむらたち魔法少女は戦いを続けていました。それは、女性が女性性を取り戻したからといって、世の中に悲劇の種は尽きないことを示しています。
 では、その「悲劇の種」とは一体?
 来年に公開されるという新劇場版では、その辺りの謎が、解明されることになるのではないでしょうか……?

 

 

 

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バックラッシュ! なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?(始末記)+(仁義なき戦い編)

2013-01-10 21:31:22 | レビュー

 みな様こんばんは、期せずして岡田斗司夫、GACKTを倒した男となった兵頭新児です。まあ、一般的な視点からすれば「ブログ炎上」という現象に巻き込まれただけなのですが……。
 さて、以下はニコニコチャンネルのブロマガ、兵頭新児の女災対策的随想
において既にアップされた記事です。目下、兵頭新児は活動の軸足をそっちに移そうかと考えているのですが、或いはアカウントを持っていてそちらを見られない方もいらっしゃるかもと思い、こちらにもアップしてみることにしました。
 こちらを完全に廃墟にしてしまうのも何だか寂しいので。
 たらたらしてたら「時差」が埋まらないので、今回は『バックラッシュ!』の(始末記)と(仁義なき戦い編)をまとめてアップします。
 文章自体は変わらないので、一度お読みになった方は、再読される必要はありません。


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●バックラッシュ! なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?(始末記)


 しつこいようですが、この本についてです。
 前回の件については、小山エミ師匠とツイッター上で長い長い議論になってしまいました。
 それら議論は以下のリンクで読むことができます。

ジョン・マネーの「双子の症例」の否定は、フェミニズム理論の否定にもつながるか?
上野千鶴子師匠は「双子の症例」を否定したか?

 一つ目は小山師匠のお友だちがまとめてくださったものです。
 小山師匠のお友だちは、

 

「ボク、全然知識が無いから詳しく説明してよ!」
「英語は読めないふぇぇぇぇぇん(><)」
「上野千鶴子は欺瞞が多いので、上野千鶴子が紹介するマネーの業績全部が欺瞞?」
「嘆き」


 などと下品な見出しをつけることで相手を貶めるのみならず、

「マネーのトランスセクシュアル研究はジェンダーフリー教育などで利用すべきか?」

 など、どう考えても議論と関係ない見出しをつけてもいます。
 フェミニストへの信頼感が、いや増しますね。
 二つ目はその後のやりとりをぼくがまとめたものです。
 ぼくの方も下品な見出しをつけてバランスを取ろうとしたのですが、情けないことにやり方がわかりませんでした
 結局、議論としてはぼくの方が(ちょっと本業が忙しくて……)放り出してしまった形になり、悔いの残るものになりましたが、それだけではあんまり中途半端なので、ここでちょっとまとめめいたことでも書いておこうかと思います。

 さて、小山師匠とぼくとの論点は、「マネーの『双子の症例』は前世紀末に否定された。それ以降、果たして上野千鶴子師匠はそれを正しいものとして引用し続けたか、否か」という点についてでした。
 前回のブログ記事で、ぼくは上野師匠の著作『
差異の政治学』を調べ、「上野千鶴子師匠はそれを正しいものとして引用し続けた」と結論しました。
 ところが、小山師匠の意見では、「それは違う」という。
 両者の争点をでき得る限り価値中立的にまとめるなら、

 

 兵頭:確かに上野師匠の著作に「双子の症例」についての言及はない。しかし「マネーがジェンダーアイデンティティは後天的に決定されることを実証した(大意)」と言っているではないか。これは「双子の症例」を論拠にしている証拠だ。
 小山:いや、違う。マネーは「双子の症例」とはまた別な、性同一性障害者の臨床例などからそのようなケースを見出した。上野本で述べられているのはそれらの例についてだ。

 

 といったことになるでしょうか。
 確かに、上野師匠の本はやや曖昧な記述ではあるものの、確かにそのように読めなくはありません。「双子の症例」が否定されたことについても明示されてはいないものの、それを指し示したらしき記述もあります。また、『バックラッシュ!』におけるインタビューも、小山師匠の解釈の妥当性を揺らがせるものではありません。

 

 ただ、とは言え、ぼくには疑問が残りました。
 結局、「性同一性障害者の症例」を一般的なものとして敷延できるのか。前回にも書いた通り、「性同一性障害者のジェンダーは男脳/女脳という先天的な要因に左右されている」と考えた方がいいのではないか、と思えるのです。
 しかし小山師匠は(やや、言葉としては曖昧に思えましたが)取り敢えず、性同一性障害者の症例を敷延することに問題はない、という立場のようです。
 正直、疑問ではあるものの、ぼくもその辺りについてどう考えるのが妥当なのか判断し兼ねます。
 この辺り、ちゃんと調べてみようとも思ったのですが、なかなか時間も取りにくいので一応、ペンディングにしておこうかと思います。

 

 一方、「とは言え、前世紀まではフェミニストが『双子の症例』を大いに論拠にしていた」こと、「上野師匠は置くとしても今世紀に至ってもいまだそれを続けているフェミニストだっている」こと、この二点は動かしがたい事実であるように思います。
(この二点については、残念ながらお答えをいただけませんでしたが……
 以上のような理由から、上野師匠の例を除き、やはりぼくは前回の記事について訂正の必要を覚えないのですが、いかがでしょうか。


●バックラッシュ! なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?(仁義なき戦い編)


 皆様、もういい加減飽きていらっしゃるでしょうが、この本についてです。
 今回、大変驚くべき事実が判明しました。
 ミルトン・ダイヤモンド博士が「ジェンダーフリー」に賛成していないということが、はっきりと実証されたのです。
「何をバカな」とおっしゃる?
 それではじっくり見ていきましょう。

 

 詳しくは前回、前々回、前々々回の記事を見ていただきたいのですが、本書において、またご自身のブログにおいて、小山エミ師匠はミルトン・ダイヤモンド博士と連絡を取り、彼はジェンダーフリー賛成派だ、との言質を得たとの報告をなさっています。
 事実、ダイヤモンド博士は一時期、ジョン・マネーのジェンダー論のウソを暴いた人物として、日本の保守派の反フェミニズム論に担ぎ出されていましたが、この辺りをきっかけに保守派も彼の名を出すことがなくなっていったように思います(と言うか、保守派のジェンダーフリー批判、フェミニズム批判自体が目立たなくなった感があります。ぼくが無知なだけで今もさかんになされているのかも知れませんが)。

 

 さて、実はその時のメールは、小山師匠ご自身がブログで紹介なさっています。
 正確には、保守派記者の山本彰氏がダイヤモンド博士にラブコールのメールを出し、博士が「ごめんなさい」メールを返した。
 その「ごめんなさい」メールを小山師匠が(博士の許可を得て)公表した、という経緯です。
 何しろ英文ですし、ぼくもその全文を細かく当たったわけではありません。
 しかし小山師匠自身がそのメールの解説をブログに上げていらっしゃいます(http://macska.org/article/111)(
http://macska.org/article/112)ので、それを見ていくことにしましょう。

 

 まずは最初のエントリです。
 なるほど、文面を見れば確かにダイヤモンド博士は

 

 

基本的に、わたしはジェンダーフリーの考えを支持している。

 

 とおっしゃっている。小山師匠が文章を捏造していない限り、英文でも

 

 

Basically I do support gender-free ideas.

 

 と書かれています。
 何が「ダイヤモンドはジェンダーフリー派じゃない」だ!!
 はっきりとジェンフリ派だと明言しているじゃないか!!

【メシウマ速報】兵頭新児、中一レベルの英語も読めずwwwwwwwwwww

 

 いやいや、そうでしょうか。
 前にも書いたようにそもそも「ジェンフリ」自体が向こうで浸透した言葉とは言い難い。
 一体、このgender-freeという言葉を、ダイヤモンド博士はどう捉えているのでしょうか?
 先に進みましょう。
 ダイヤモンド博士はこうおっしゃいます。

 

 

あなたに話した通り、わたしは人々はみんな可能な限り自分の望む通りに学び成長する広い機会を持つべきだと思っているよ。わたしはたしかに男性と女性は生物学的にやや違っていると思うけれど、どの個人がどういった教育や機会を活用できるかなんて誰にも分からないのだから、全ての人が同等の機会を与えられ、対等に扱われるべきだと信じている。それぞれの男性なり女性が個人として自分にふさわしい居場所を見つけられるチャンスを与えられるべきだ。

 

 これをして、小山師匠は

 

 

ここを読めばどう転んでもダイアモンド氏が保守派が望んでいたような「反ジェンダーフリー」「反フェミニズム」の立場を支持する論者でないのは明々白々だ。

 

 と勝ち鬨を上げられるのですが……果たして博士が支持した考え方を、一般的に見て「ジェンダーフリー」と呼べるでしょうか?
 いや、仮にここでダイヤモンド博士が定義づけたものを「ジェンダーフリー」とするならば、これに反対する保守派ってどれだけいるんでしょう?
 つまりここでダイヤモンド博士を「ジェンダーフリー支持者」とすると、日本の保守派のかなり大部分までが、やはり「ジェンダーフリー支持者」であるというフェミニストには絶対認めがたい事態に、どうしたってなってしまうわけですw
 ぼくは先日、前回記事の(ニコブロの方の)コメント欄でまさにこのダイヤモンド博士の「ジェンダーフリー支持発言」について、

 

 

結局「ジェンダーフリー」の定義が千変万化しちゃってることと、「男女平等」という程度の意味あいだと強弁されちゃうと、言い返せなくなっちゃうことですね。

 

 と危惧しました。
 それがまんまと的中してしまっているように、ぼくには思われます。
(ただし後に述べるような理由で、山本氏が反対している男子生徒、女子生徒の呼称を「さん」で統一する問題について、ダイヤモンド博士は「いいじゃん」と肯定しているなど、当然両者のスタンスに違いは見られます)

 

 二つ目のエントリでは、小山師匠は「差異の政治学」が発表されたのが1997年であるから、上野師匠が「双子の症例」の失敗を知らなくても仕方ない、と居直っていますが、当ブログでも指摘した通り、2002年に出た単行本では訂正の機会があるのだから、これも無意味な言いがかりです(もっとも小山師匠が繰り返す通り、2002年版では「極めて消極的な訂正」と思しき記述が加筆されてはいます)。

 

 以下、山本氏へのツッコミが延々と続きます。
 その中には単純なミスの指摘など、恐らく正しいのだろうと思われる部分も多々あるのですが、まあそこはいいでしょう(ただしメールの中でダイヤモンド博士は「かつてアメリカでは台風に男性名がつけられていた」と言ってるんだけど……これ、「女性名」の間違いじゃないのか?)。
 見ていくと、小山師匠の文章は非常に不誠実に感じられます。
 例えば山本氏は、日本におけるジェンダーフリー教育の一例として、お役所主導で「ひな祭り」や「男児に男性的な名前」をつけることなどに異議を唱えるパンフレットを配っていたことを批判します。これに対して小山師匠は「押しつけ」ではなく「問題提起」だからいいじゃんと開き直り、ダイヤモンド博士の

 

 

男の子の祝日と女の子の祝日を対等に祝うことは、わたしから見れば害のない慣習だと思う。しかし、女の子の中には兜やその他男の子の祝日に関係したプレゼントを欲しがる人もいるだろうから、それは認めるべきだ。男の子が人形を欲しがった場合も、同じように認められるべきだ。

 

 とのコメントを「自分たちと同じスタンスである」と牽強付会します。
 山本氏含め、保守派の人に幼い娘さんがいるとして、『プリキュア』を見せていないとは、ぼくには思われないのですが。
(言っておきますが、面倒なので元のパンフなんて確認していませんよ。小山師匠の自己申告を読んでそれでもなお、小山師匠の言い分は極めて欺瞞があると、判断せざるを得ないのです)。

 

 エントリの後半では、ダイヤモンド博士が答えを濁している、との記述が多くなります。むしろ山本氏は後半でこそ、日本のヌエックや内閣府など行政側の組織がマネーの後天説に基づいたジェンダー観を持っていることについてなど、重要な質問を行っているのですが。
 ここはどうも、一度上野師匠を批判したことをフェミニストに騒がれて懲りたのか、日本の国まで敵に回したくないのか、(或いはまた単に長文メールに「三行で頼む」な気分になっていたのか)いささいかダイヤモンド博士側も不誠実な対応のように思います。
 小山師匠が訳した一文が象徴的で、ダイヤモンド博士は

 

 

ここ米国でも日本でもフェミニストたちが双子の症例をどのように利用しているのかわたしには全く検討も付かないよ。

 

 と答えています。何だかやっぱり、イデオロギー闘争に巻き込まれてイヤになっている、という感じが、しないでもありません。

 

 小山師匠の言う「ダイヤモンド博士の、親ジェンダーフリー発言」、いかが感じられたでしょうか。
 極めて象徴的なことですが、(上の画像にはありませんが)『バックラッシュ!』の帯には「男女平等で何が悪い!」と大書されていました。
 繰り返しになりますが、保守派もほとんどは「男女平等は悪だ」などとは言わないことでしょう。ただ、「ジェンダーフリー」と「男女平等」は違うぞ、と言っているだけです。
 しかしその両者を混同し、「こいつらは男女平等に異を唱えるレイシストだ!!」と叫ぶことで、一体どれだけの発言を沈黙させることができるのか……こうしてアメリカの大科学者の対応を見るに、フェミニストたちがいかなる手法で自分たちの主張を通してきたかが今回、仄見えているのではないでしょうか?

 

 

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バックラッシュ! なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?(その2)

2013-01-02 16:16:07 | レビュー

 

 早いもので始まったばかりと思っていた2013年も残すところ後、僅か364日のみとなりました。皆様、年越しの用意はお済みでしょうか?(以下略)

 さて、以下はニコニコチャンネルのブロマガ、兵頭新児の女災対策的随想において既にアップされた記事です。目下、兵頭新児は活動の軸足をそっちに移そうかと考えているのですが、或いはアカウントを持っていてそちらを見られない方もいらっしゃるかもと思い、こちらにもアップしてみることにしました。

 こちらを完全に廃墟にしてしまうのも何だか寂しいので。

 文章自体は変わらないので、一度お読みになった方は、再読される必要はありません。

 ところでよく無名でコメントつけてくださっていた方。

 ご覧になっていますか?

 よろしければ新ブログにもいらっしゃってください。

 


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 前回は想像以上の反応があり、驚くと共に嬉しく思っています。
 昨今のフェミ界隈とオタ界隈は「フェミニストたちの弱者男性バッシング」や「表現規制問題」などで妙に小競りあいを繰り返しており、「両者は共闘可能か」といった問題意識が高まりつつあるのかも知れません。
 また、前回記事については、小山エミ師匠からもコメントをいただきました。
 小山師匠は『バックラッシュ!』にも寄稿なさったフェミニストで、自分の記事も読んで欲しい、また上野師匠インタビューは確かに不適切な部分があるとして自分もブログにおいて批判したのでそれも読んで欲しい、といったことをおっしゃってくださったのです。
 というわけで今回は『バックラッシュ!』における小山エミ師匠の論文「「ブレンダと呼ばれた少年」をめぐるバックラッシュ言説の迷走」を中心に見て参りましょう(ただし、小山師匠のおっしゃってくださった彼女のブログに当たることは、今回はできませんでしたので、また次回に回すことにします)。
 また、結果的に小山師匠に対して批判的な内容になってしまっていますが、ご意見があれば、おっしゃっていただければ幸いです。

 

 さて、ここでの論点はマネーとフェミニズムの関係である、と言えます。
 ぼくは前回記事で、

 

 


 度々書くことなので繰り返しませんが、この時期のフェミニズムが危機に陥ったのは、一つには彼女らが大いに論拠にしていたジョン・マネーの「双子の症例」が捏造だと判明したからです。それによって、「ジェンダーアイデンティティ」が生後数年後に決定されるのだ、との仮説は崩れ去ってしまったのです。


 それにマネーの研究が捏造だとバレた時、フェミニストたちがまるで地震から逃げ出した時の東浩紀師匠並の俊敏さでマネーを否定していたのですから、やっぱり彼女らの事大主義は否定できないように思います(本書に収められた小山エミ師匠の文章もまた、そうしたものです)。

 


 と書きました。
 ここでモンダイとなるのは、マネーの学説のウソを暴いたノンフィクション、『ブレンダと呼ばれた少年』。
 かつて、事故によりペニスを失ってしまったブレンダ少年が、マネーの主張に従って女の子として育てられたことがありました。これを論拠に、「ぼくは男だ/わたしは女だ」というコアジェンダーアイデンティティ(性自認)は先天的なものではなく、後天的なものなのだ、と言われてきたのです(ちなみにこれは「双子の症例」と呼ばれます。一卵性双生児として生まれたブレンダ少年の弟の方は普通に男の子として育ったことが、余計に後天説の確からしさを裏付けている、とされたのです)。
 しかしそれは失敗に終わり、ブレンダ少年は誰に言われることもなく男としてのアイデンティティを獲得していたことが、このノンフィクションによって暴かれてしまったのです。つまり、コアジェンダーアイデンティティはやはり後天的なものではなく先天的なものだ、との可能性が高まったわけです。
 この『ブレンダ――』は出版後、『
女災』よりも早く絶版になってしまったのですが、保守派たちの手により復刻されました。その時に、「解説」や「帯」などに政治的な(フェミ叩き的な)色彩をまとって登場してきたことが、フェミニストたちの逆鱗に触れたわけです。
 今回モンダイにする小山師匠の論文も、多くはこの復刻版における、八木秀次氏の「解説」への反論に割かれています。
 果たしてそうした小山師匠(や、他のフェミニストたち)の言に分があるかどうか、これから少し、詳しく見ていきましょう。

 

 八木氏は「解説」で多くのフェミニスト、そして彼女らの主張していたジェンダーフリーを批判しました。まとめサイト風に言えば


 

 【悲報】マネーの自作自演が判明
 フェミニスト論拠を失って涙目wwwwwwwwwwwww


 といった感じでしょうか。
 しかし小山師匠が言うには、

 

 


 しかし、こうした八木の批判は、大沢や船橋の主張を強引にすり替えて、マネーの理論に引きよせるというごまかしによって成り立っている。

 

 

 


 しかしすでに見てきたとおり、マネーの「双子の症例」に依拠した主張は、上野も大沢もいっさいしていない。

 


 とのことです。
 こうした「バックラッシュ派」の批判に対する小山師匠(や、他のフェミニストたち)の再反論は、まとめてしまえば

 


 フェミニズムはマネーを参照してなどいない。
 何となれば、マネーの主張は「コアジェンダーアイデンティティ(性自認)が後天的に決定される」というものであった。
 それは、我々の推進する(そして「バックラッシュ派」の批判する)ジェンダーフリーとは基本的に無関係である。

 


 といったものかと、ぼくには思われます。
 八木氏が批判した船橋邦子、大沢真理両師匠の発言はそれぞれ、


 

 

 今日では、生物的性別であるセックスが社会的性別であるジェンダーを決めるのではなく、社会的性別・ジェンダーが生物的性別・セックスを規定するのだと、女性学では言われています

 

 

 


 セックスが基礎でジェンダーがあるのではなくて、ジェンダーがまずあって、それがあいまいなセックスにまで二分法で規定的な力を与えている

 


 というものでした。
 しかしこれは小山師匠に言わせると、

 

 


 大沢・船橋が「ジェンダーがセックスを規定する」というとき、それはすなわち文化が言語をとおして、自然に存在する多様な性を「男/女」という二項に分節化(区分け、意味付け)しているということであり、「氏か育ちか」という古典的な議論における「育ち」が万能であるという説を主張しているわけではない。

 


 とのことです。
 何のことかわからない?
 実はぼくもよくわかりません。
 よくはわかりませんが、小山師匠のしているのはどうも、バトラーなどが比較的近年に唱え出した「ジェンダーはセックスに先行するよ」論に則った主張のように思われます。事実、この種の議論において、フェミニストは「マネーは古い、我々はもっと先を行っている」と言う傾向にあります。まとめサイト風に言えば

 


【おまいら速報】ネトウヨが情弱と判明wwwwwwwwwwwww
おわコンのマネーはフェミに相手にされずwwwwwwwwwwwww


 

 とでも言ったところでしょうか。
 さて、どちらが正しいのでしょう。
 まず、船橋、大沢両師匠についてですが、小山師匠の再反論はいかなるものなのでしょうか。
 彼女が論拠にしているとおぼしきバトラーの説はいささかエキセントリックで、保守派の「バカじゃねーの!?」といった批判を浴びてきました。が、実はこれについても本書の上野師匠インタビューにおいて説明がなされていて、

 

 


「セックスは、つねにすでにジェンダーだった」という、バトラーの発言をシンプルに、まとめると、(中略)言い換えれば、セックスの差違というものは、ジェンダーという表象を通じてでなければ認知されないということです。

 


 ということのようです。
 わかったようなわからないような理論ですが、コアジェンダーアイデンティティが先天的なものである以上、結局はジェンダーは先天的である、ただし彼女らが頻繁に持ち上げるインターセックス、トランスジェンダーといった「心と体の性が不一致」な人もいる、という程度のことでしかないように思います(とは言え、ぼくもバトラーについては知らないので、あくまで上野師匠の言葉だけで判断しています。以上の認識が全く違うというのであればご指摘ください)。
 フェミニスト側は「バックラッシュ派はコアジェンダーアイデンティティとジェンダーとを混同している」との批判をする人もおり、本書でもそうした論調が度々現れます。
 小山師匠は千田有紀師匠の

 

 


 わたしたちの身体であるセックスは、まるでコートラックにコートを掛けるように、ジェンダーを身に纏っていくのではないということである。(中略)むしろジェンダーを社会的・文化的に作られた差違と規定することによって、身体的差違が遡及的に「起源」として構築されていくことになる。

 


 との言葉を引用するのですが、ジェンダーとセックスのどっちを先に持ってこようが、いずれにせよ両者が不可分であることに違いはないでしょう。後半の文章は、言い換えれば

 


 わたしたちの心であるジェンダーは、まるでコートラックにコートを掛けるように、セックスを心に纏っていくのである。

 


 と言っているのといっしょなのですから。
 だからコアジェンダーアイデンティティが先天的であるとの、現時点での「正解」を前提する以上、こうした物言いは性同一性障害者など限られた人にしか、大きな意味を持ち得ないように思います(そしてまた保守派も、「オカマは逮捕せよ」とか言ったりはしないでしょう)。

 


 いきなりちゃぶ台をひっくり返すような言い方になり、恐縮ではありますが、実はぼくはマネーが正しいとされている頃から、「でも、関係ないじゃん」と思っていました。
 マネーの「性自認(コアジェンダーアイデンティティ)は後天」という学説が正しいとされていた頃、フェミニストたちはこれをもって「つまりジェンダーは完全に虚構、男らしさ/女らしさはフィクションなのだ」と主張していました。
 ぼくは、「でも、関係ないじゃん」と思っていました。
 マネーの説が正しいと仮定しても、それはジェンダーが「人間の発明品」である、という以上のことではありません。それは丁度、「衣服」が発明であるのと同様に。世の中には「だから衣服は邪悪なモノなのだ」として裸で生活することが望ましいとする人々もいますが、それは少数派で、普通の人は衣服が必要だからこそ発明されたことを知り、それを脱ぎ捨てようとはしないわけです。
 つまり、マネーの学説が正しい/間違っているという「事実」と、人はジェンダーに縛られるべきではないとの「意見」は元々始めから、全く別だったと言うことですね。フェミニストたちはマネーの学説が自分たちの「意見」を補強するものだと思っていて、一時期、論拠にしていたが、それが過ちだとわかり、それを打ち捨てながらも「意見」は保持している、というだけの話です。
 実はぼくは『ブレンダと呼ばれた少年』を読むまで、マネーを何とはなしにイデオロギー的なヴァイアスなどない「フラットな学者」だと思い込んでいました。そこを、フェミニストに「利用」されてしまった「善意の第三者」であると。まあ、
悪の組織に娘を誘拐されて心ならずも協力してしまった哀れな「博士」みたいなモノだろうなと。
 実際にはむしろ彼はフェミニズムに心から染まり、偏向した思想から偏向した実験を行い、作戦が失敗するや大首領に処刑されてしまった哀れな「怪人」だったのですが。

 

 さて、我らが上野千鶴子師匠についてはどうでしょうか。
 八木氏が言うには、上野師匠は『ブレンダ――』の刊行後にもマネーを肯定した著作を出し、ダイアモンド氏(マネー氏のウソを暴いた学者)の顰蹙を買った、とのことです。


 

 

 これについてはマネーのうそを暴いた前出のミルトン・ダイアモンドが日本のメディアのインタビューに答えて「彼女(上野氏)は、全く学問的ではない。それがウソであることを明示した私の論文を知らないでいる。私は、その論文を一九九七年に書いた。その本(『差違の政治学』)を二〇〇二年に出したなら、五年間もの違いがある。全く、何の言い訳も成り立たない」「上野千鶴子氏は、自分の主義主張を喧伝するために、利用できることは何でも利用しようとしている。正直ではない」と痛烈に批判しているほどである。

 


 しかしこれに対して小山師匠は「まったく不当である」と怒ります。

 

 


 なぜなら、「差違の政治学」という論文で上野は、「双子の症例」に言及すらしておらず、マネーの「新生児の性自認は任意に変更可能」という理論に何ら依拠していないからだ。この論文において、上野はマネーの研究のまったく別の部分――性同一性障害についてのもの――を紹介しているにすぎない。

 


 このダイアモンド氏インタビューには後日談があります。小山師匠はご本人と連絡を取りあい、彼がインタビュアーに、上野師匠について知らないのをいいことに半ば誘導尋問的にコメントをさせられていたのだ、ということをつきとめました。ダイアモンド氏は上のインタビューを不服として、再掲載を不許可とし、またジェンダーフリーの考え方にも同意を示したと言います。

 


 【メシウマ速報】ネトウヨが頼みのダイアモンド氏にもふられてワロタwwwwwwwwwwwww

 


 といった感じでしょうか(ただし、そもそもジェンダーフリーという言葉は、アメリカではほとんど――全く、ではないことは小山師匠が明らかにしているのですが――使われてない言葉なんじゃないのか、という疑問は残りますが)。
 さて、それでは『
差違の政治学』を紐解いてみましょう。
 確かに、上野師匠は「双子の症例」について言及はしていません。しかし見ていくと、

 

 


 その中でセックスとジェンダーのずれを問題化したのは、ジョン・マネーとパトリシア・タッカーの『性の署名』[Money&Tucker 1975=1979]である。ジョンズ・ホプキンズ大学の性診療の外来をうけもっていたふたりは、半陰陽や性転換希望者などの患者を相手にして、ジェンダーがセックスから独立していることをつきとめた。

 

 

 


「性自認」は二歳までの言語獲得期に形成される。ホルモンと同じく、この臨界期を過ぎるとその後は変化しない。

 

 

 


 マネーとタッカーの業績は、セックスとジェンダーのずれを指摘したにとどまらない。もっと重要なことに、かれらの仕事は、セックスがジェンダーを決定するという生物学的還元説を否定した。

 


 ………………どう見ても思いっきり、マネーを肯定してますよね。
(ちなみにこうした上野師匠の発言は、八木氏もちゃんと引用しています)
 小山師匠は

 

 


 しかしすでに見てきたとおり、マネーの「双子の症例」に依拠した主張は、上野も大沢もいっさいしていない。

 


 と言いますが、それはちょっと通らないのではないでしょうか。
 掛谷英紀氏は『
学問とは何か』の中でこの部分に触れ、タッカーはジャーナリストであって外来を受け持ったりはしていない、というツッコミと共に、上野師匠の態度について

 

 


 2002年の時点で*この記載が学会を代表する著者による著書に含まれていることは、その学会自体が抱える問題を示唆しているといえるでしょう。

 


 と痛烈に批判しています(本書についてはmisandry2氏にご教示いただきました。多謝!)。
 ダイアモンド氏が一度は引っ込めた「全く、何の言い訳も成り立たない」「上野千鶴子氏は、正直ではない」との批判も、正鵠を得たものであるように思えます。
 小山師匠はダイアモンド氏と面識があるのですから、今からでも訂正を伝えるべきなのではないでしょうか。

 

*ただし、この「差違の政治学」という論文自体は、95年に発表されたもので、その上で2002年に上野師匠の単著に収録されたものなのです。
 つまり、マネーの過ちが知られていない時期に書かれたものとは言え、訂正の機会はあったはずなのです。が、実際、細々と結構な加筆をしている割に、マネーの件については訂正がなされていません。該当論文以外については全部読むことはできませんでしたが、脚注やあとがきなどを見ても間違いが訂正されている様子はありません。ダイアモンドが当初言った通り、不誠実で言い訳のできない仕事ぶりです。

 


 他にも(小山師匠は言及していないのですが)八木氏の「解説」を見ると、女性学・ジェンダー研究会の編著である『女性学教育/学習ハンドブック ジェンダーフリーな社会をめざして〔新版〕』がマネーを無批判に評価していること、またフェミニズムの中でも大変に重要な著作とされているケイト・ミレットの『性の政治学』の中でもやはり、マネーの著作が肯定的に引用されていることなどが指摘されています。
 ちなみにぼくは前者だけチェックしました。見ると(これまた現代では既に否定されている)マーガレット・ミードの説が肯定的に紹介され、また「ジェンダー」という概念そのものを

 

 


 セックスは,自然が生み出したものだが,ジェンダーは,人間の社会や文化によって構成された性であり,文化や社会において,また歴史の展開に対応して変化する。

 


 と、小山師匠が「古い認識であり、最早フェミニストたちが取っていない立場」とする考えを表明しています。ちなみに刊行は1999年。既にマネーのウソが判明している時期です
 そして驚くべきことに、本論の最後の方では、小山師匠自身が「一昔前のフェミニストたちも同じような誤解をしていた」などとぬけぬけと書いていています。
 むろん、いち早く誤解に気づき、まともにマネーを批判していたというのであればそれは立派です。が、実際には単に「逃げ出した」、更には上野師匠すらもが「逃げ遅れた」というのが実態に近いでしょう。

 


 おまいら保守より一歩早く気づいて追及の手を逃れるために逃げたったwwwwww

 


 って感じです。

 

 小山師匠は(というかフェミニスト全体の傾向ですが)

 

 


 八木の「解説」は、ただただライマーの生と死を嬉々として「フェミニズムバッシング」「ジェンダーフリーバッシング」に政治利用するだけのものだ。

 


 と憤ります(ライマーとはブレンダ少年の成人後の名前です)。
 本件は、ブレンダ少年改めライマー青年の数奇な運命、そして結局は彼が自殺してしまったことも手伝い、大変にショッキングでした。小山師匠の激しい表現は「フェミニスト学者が罪もない子供を自殺に追い込んだ!!」とのバックラッシュ派の批判への意趣返しの部分もあります。
 確かに、見ていると本件の周りではフェミニストが、保守派が、「ネトウヨ必死」「ブサヨの手先のフェミ涙目」と見ていていささか辟易とさせられる罵倒合戦を繰り返しています。
 とは言え、悲劇を繰り返さないために議論を深めていくことを一概に「政治利用」と言ってしまっては話が先に進みません。必要なのは誠意を持って事実を読み解くことでしょう。
 しかし果たして、ライマー氏の彼の生と死を嬉々として政治利用したのはどちらなのか。
『デスノート』のエルが、「探偵は仮に推理を間違えてもその時は『ごめんなさい』でいいんです」といった主旨のことを言っていたかと思います。
 学者もまた、
「ごめんなさい」でいい、とぼくは思います。
 しかし本件において、果たして「ごめんなさい」ができていないツンデレちゃんがどちらなのか――答えはもう、出たのではないでしょうか。

 


■補遺■

 上野師匠については小山エミ師匠側から異論が上がり、議論になりました。
 その件については次回記事「
バックラッシュ! なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?(始末記)」をご覧ください。

 

 

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