兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

『STAND BY ME ドラえもん2』――ドラえもんレイプ!フェミの手先と化したサブカル先輩

2021-01-31 19:28:37 | 弱者男性


※この記事は、およそ8分で読めます※

 この映画については、ネットでもあちこちで言われております。とにかく監督の山崎貴という人物の評判が悪く、『ドラえもん』に興味のない方でも、どこかで見聞されたんじゃないでしょうか。
 もっとも、ぼくも観には行ったのですが、期待値が低かったせいか特段の感想はありませんでした。が、youtuberたちが本作についていろいろと感想を述べているのを見て回り、またちょっと違った感想も沸いてきたのです。
 今回はそうした「世評」そのものを俎上に乗せて、今までも述べてきた「『ドラえもん』にまつわる危機」について語ってみたいと思います。
 さて、そうしたyoutuberたちの意見、基本は悪評だったのですが、代表はやはり宇多丸師匠ということになりましょうか*1
 驚くほどに歯に衣着せぬ、基本的には同意できる評で、なるほどと唸らされた箇所がいくつもありました。宇多丸師匠は「大人ののび太が死ぬほどだらしない」という点について盛んに、舌鋒極めて罵っているのですが、何しろのび太、結婚式の開始数分前になって臆病風に吹かれ、タイムマシンで現代(のび太が小学生の時代)にまでやってきてしまうという迷惑ぶり。しずかちゃんはのび太を信じて待ちぼうけを続け、「仮定の未来」ですが数年(半年?)経っても戻らないのび太を待ち続ける姿まで描かれています。
 つまり、この『STAND BY MEドラえもん2』(以降、「ドラ泣き」と呼称)ののび太の描かれ方があまりにも不快である点に宇多丸師匠は怒っているのであり、それついてはぼくも完全に同意します。
 ただ、結婚式間際のマリッジブルーというのは比較的よくある展開で、それを妙にリアルなCGで延々延々と引っ張るから悪いので、漫画の短編でやればどってことなかったとの感もあります。
 本作ではまず最初にのび太がおばあちゃんに会いに行き、おばあちゃんは「(立派な小学生に成長した姿を見て)欲が出た、あんたのお嫁さんも一目見たいね」と口にします。
 これは当然、漫画の名エピソード「おばあちゃんの思い出」に忠実な展開なのですが、映画ではここからのび太がおばあちゃんに結婚式を見せるため、奮戦するストーリーになるわけです。しかし原作における「お嫁さんを見たい」は最後の最後、オチのギャグにつなげるためのものであり、言わばおばあちゃんの軽口をのび太が真に受けた、的なことである、それを延々と広げて長編にするのはどうか、というのが宇多丸師匠の評で、これは大変に卓見です。
 同様にマリッジブルーもギャグとして描くのであれば……というところをこの山崎監督というのはバランスを考えず、胸やけするような長編エピソードに広げてしまったんですね。
 のび太の失態のせいで式を台なしにされながら、それを全て笑って受け容れるしずかちゃんは見ていて気の毒で、そこを糾弾する宇多丸師匠の言には、全く反論はありません(しかし、そもそも女性客を当て込んでいたろうに、女性はこれ、どう思ったんでしょうね)。

*1 宇多丸 映画評『STAND BY ME ドラえもん2』【救い難い、駄作中の駄作】


 が、問題は宇多丸師匠がどうやら、フェミニズムをプリインストールされているらしい御仁である点(そうじゃなきゃ、今時の映画なんて正気で観てられないでしょうしなあ)。
 師匠はのび太の人生の好転が「しずかちゃんとの結婚」に象徴されているのが、(原作の時点で)ご不満だったとのことです。

 特にぼくは個人的には、のび太の成長のゴールとしてヒロインというか、一番可愛くていい子とされているしずかちゃんとの結婚というのをあまりに確定的なゴールとしておくのは、あまり感じがよくない話だなということを、子供の頃から思っていて、
(中略)
 しずかちゃんとの結婚というゴールが重要視、絶対視されるようになっていく、シリーズを重ねていくあまり、だんだんそれに従ってしずかちゃんというキャラクターもどんどんどんどん現実離れしたいい子、現実離れした聖女となっていくという、これがいかにも昔の少年漫画の限界だなと以前から思っていたので、2014年に改めてこのお話を語り直す際に、意識的なアップデートを加えていないのは何だかなあ、というふうに思ったりもしたわけです。


 あ~あ、という感じですね。
 ちな、2014年というのは前作について語っているからですが(本作は『2』とある通り、かつて作られた「ドラ泣き」の続編です)、しかし「アップデートしろ」とは言いも言ったりです。
 そんなの「『ウルトラマン』は怪獣という“他者”を排除する物語でけしからんから、怪獣と“共生”する話としてアップデートせよ」と言っているようなものだし、事実、それが「現実のもの」となりつつあることは、ぼくより皆さんの方がよくご存じかと思います(師匠はのび太がケンカで、つまり暴力でしずかちゃんを守ろうとするシークエンスもアップデートせよと言っており、こうなると「さようならドラえもん」も改変待ったなしです)。
 もう、宇多丸師匠はフェミや稲田豊史師匠と共に『ドラえもん』の焚書運動でも始めるべきでしょう。
 或いは、ディズニーキャラで一生マスターベーションして、もう日本のオタクコンテンツには金輪際触れないでください、としか。そう、ディズニーは(観たことはないのですが、ちらちらと目に入るところで言わせていただければ)、近年、ポリコレに配慮して「自立したお姫さま」みたいな映画ばかり作っておいでの模様。そうしたものに洗脳された人間にとって、『ドラえもん』はさぞかし古い作品に見えていることでしょう。
 そもそも『ドラえもん』は70年代の開始と共に始まった作品(超厳密には69年だったはず)。しかし十年近く、今一ぱっとしない作品でした。ネットでよく言われる旧作アニメも、やはり人気を得られずに早期終了しています。
 何故か。
 全てを、先取りしていたからです。
 だから80年の声を聞くや再アニメ化し、メガヒット作品となったのです(これも厳密には79年に始まっているのですが)。
 80年と言えばラブコメ全盛の時代で、『うる星』もこの頃です。
 ぼくは『ドラえもん』について、幾度も「のび太の人生を好転させることを目的とした、あくまでのび太を主役とした作品、一種の私小説」といった表現をしてきました。
 が、(例えば同じ藤子Fの少々年長者向けの作品である『21エモン』などと比べても)考えればのび太が将来、どんな職業に就くかなどは劇中でほとんど描かれたことがない。「幸福な将来」はほぼ、「しずかちゃんとの結婚」に集約され、象徴されていると言っていいのです。つまり、『ドラえもん』とは一種のラブコメと言っていいのですね(『うる星』だって毎回毎回ラブコメ要素があったわけじゃなく、実は両者にそれほどの違いはありません)。
 しかし、それも当たり前のことです。
 この当時、何故ラブコメ全盛だったかと言うと、社会が豊かになり、学生運動もオワコン化し、男の子の目標が失われて好きな女の子と結婚することくらいしか目指せるものがなくなったから、なのです。だからのび太は何もしようとしない怠け者、言わばシンジ君を先取りしすぎた存在なのです。そんな大きな時代の潮流の責を、のび太個人に負わされても困るのです(これは一時期のオタク批判が「卒業しろ」という超低能なものであったことと全くパラレルであることも、ここまでくればおわかりでしょう)。
 しかしそこまで時代を先取りしていた『ドラえもん』ですが、時代はさらに先に(間違った方向へと)進み、本作に対して「結婚を美化するとはけしからん」などと意味のわからんインネンをつけるまでになってしまいました。
 もう一つは、「ジャイ子問題」(というものが、宇多丸師匠によればあるのだそう)です。本作に直接の登場はないのですが、式場の「ベルカンボード」(って、何?)にジャイ子が描いたと思しきイラストが飾られており、宇多丸師匠の批判(厳密には投書に書かれていたのですが)は「言わば捨てた女にそんなことをさせるのはどうなんだ」というもの。
 しかし、これは繰り返す通り明らかな誤読から成り立っています。少なくとも原作において、ジャイ子が漫画家を目指す少女として再登場した時点で、のび太への感情は描かれていない。つまり、歴史が既に変わったと見るべきで、こんなところにまで文句をつけるのは、ちょっとナイーブすぎるように思いました。
 また、これは『1』を評した回*2で語られたことなのですが、ここで師匠は何としたこと、「ジャイ子こそのび太が目指すべき存在だ」とか、「のび太はジャイ子と結婚すべき」とか全くもって理解することのできない、わけのわからんうわ言を口走っておいででした。師匠によれば「ブスと結婚するのは嫌だ」と考えることが、そもそもまかりならんそうです。
 じゃあ、お前がジャイ子と結婚しろ。
 本当に杉田師匠にも負けぬジャイ子萌えぶりです*3
 実はこれらの評、宇多丸師匠のみならず複数のyoutuberから聞かれ、さすがに愕然としました。もちろんそうした評そのものが師匠の評に影響を受けた可能性が高いとは思うのですが、それだってこうしたフェミニズム的な結婚や恋愛否定、男性性否定の思想がここまで「一般化」されていればこその話であり、本当の本当に『ドラえもん』が「アップデート」されてしまう未来も、そんなに遠い話ではないのかもしれません。

*2 【酷評】宇多丸「心底下品だ。」 STAND BY ME ドラえもん
*3 杉田師匠の「ジャイ子萌え」については「ドラえもん論 すぎたの新強弁」を。


 ――さて、ここまでで宇多丸師匠は稲田豊史師匠に近いスタンスを持った方だと、おわかりいただけたのではないでしょうか。
 ということで次回は、師匠の「のび太叩き」をご覧いただきましょう。

「漫画『BEASTARS』から読み取る、女性に内在するフェミニズム的性向」を読む(その6)

2021-01-24 19:37:30 | 弱者男性


※この記事は、およそ9分で読めます※

 ――ご無沙汰しておりました、『BEASTARS』評の時間です。
 正確には匿名用アカウント氏の本作品評への感想であり、まずは本ブログ前回前々回前々々回前々々々回前々々々々回、及び匿名氏のnoteを読んでいただくことを推奨します。
 さらに、そもそもの『BEASTARS』も読んでいただくのがベストなのですが、ぼく自身、単行本の最新刊、つまり二十一巻を読んだところです。
 実はこれを書いている途中、最終巻の二十二巻が出たのですが、今回はそれを読まずしての中間報告になります。

・兵頭、二十一巻まで読んだってよ

 さて、決戦前夜までのまとめをしておきましょう。
 上に「決戦」と書いたように本作、完全にバトル漫画と化しているのですが、ようやくハルもちょっとずつ出番が増えています。
 19巻では例のメロンに「私を食べていい」宣言をするエピソードが入ります(ルイの「俺たちがお前の住みやすいいい世の中にしてやる」というセリフはそれを聞いての発言です)。ハルは「草食動物は食べられてなんぼ、それが私の草食道」などと宣い、こうなるとやはり「肉食」を正当化するしかなくなり、正直何を考えているのかよくわかりません。
 そのくせ20巻ではクリスマスが近づいている(この世界では「レクスマス」)、今年こそレゴシとの関係を進展させよう、などと考えており、もうメチャクチャ。男を複数使い分けることが、作者の中で「当たり前のしかるべきこと」として認識されているのかもしれません。
 それより笑っちゃったのが、ハルがレゴシに身体を許そうという覚悟の下(これもいかにも急ですが)レゴシの下宿を訪れる話。それでも踏ん切りのつかないレゴシに「やらせもしないクセにエラそうに言うな」的な啖呵を切り、レゴシに「男女が逆転してるよ」と言われます。何というか、女性にとっては痛快な描写なんだろうなあと、こちらとしては半目でページをめくるばかりでございます。
 その後、ふと気づくとレゴシのベッドがハルの血で汚れている。
 パニクるレゴシだが、その血はトマトジュースでしたあぁ!!!(大爆笑)
 いくら何でも匂いでわかるでしょうに(もちろん、「あまりにショックでそう考える暇もなかった、などと言わせてはいるんですが)。
 ここでまた、レゴシが「ぼくはいつも君に甘えていたんだね」とかキモポエムを吟ずるシーンに入ります。いや、明らかにハル(を筆頭とする牝キャラ)ばかりがレゴシに甘えていると思いますが。
 メロンの回想で「学校では草食と肉食がもめると決まって肉食が悪いとされた」、レゴシとメロンが対決していると警官が(肉食である以上、こっちが加害者に決まっているのだと)レゴシを捕まえようとするなど、「我が意を得たり」と言いたくなる描写もいくらもあるんですけどねえ。
 とにかくこのムカつく女、絵的にも全く、驚くほど魅力がありません。
 他の、例えばジェノなどは女性性を感じさせ、それなりに萌えなくもないだけに、比較すると一層、「みすぼらしい」という感想以外が湧かないキャラで、確か初期の巻でヒロイン(ハルとジェノと後誰か)がランジェリーでポーズを決めている扉絵があったのですが、申し訳ないけど笑ってしまいました。ジェノはケモナーなら喜びそうですけど、ハルで喜ぶ人っているんですかね。
 作者がどう思っているのか疑問なのですが、フリートークなどで書かれるところを見ると、作者のイメージするハルは「外見はロリータだが、鋭いことをズバズバ言う」という町田ひらく的キャラ*1。或いはハルを萌えキャラと思って描いているのでは……とも思える節があるのです。
 ……などと書いていくとみなさん、ぼくが腹を立てて舌鋒極めてハルを罵っているとお考えかもしれませんが、むしろ今まで言うことを控えていたくらい、ハルの魅力のなさはむしろ見ていて気の毒ですらあるのです。
 ――では、今になってどうしてハルのデザインをdisり出したかと言いますと……。

*1 町田ひらくは「幼女がオッサンとセックスしつつ、何かずっとエラそーにのたまって精神的優位に立っている」という漫画で女性に好評価を得、メジャーになった御仁です。
「負の性欲」というワードが定着した今となっては、その「負のポルノ性」は本作と同様であること、おわかりいただけましょう。
 またこれは、以前ご紹介した動画における「ちびのミイ」評とも相通じていることも、ここまでくればおわかりになるのではないでしょうか。ミイは魅力的なキャラではあるものの、(スナフキンにおいてすら描かれた)内面、裏面のないチートキャラ。女性は彼女の毒舌や攻撃性に快哉を叫ぶのだろうけれども、そこにばかり目を向けるのはどうか……というのが動画においてなされた指摘でした。


 何とこの終盤になって、またも牝ウサギの新キャラが登場するのです。
 18巻において、ルイと共に裏市へ赴いたレゴシが、ルイの裏市時代(食肉として捕らわれていた時代)の旧友たちと会うという話になるのですが、その一人が牝ウサギのキュー。
 何つーか……このキューが、ぼくの時々言う、「女ボス」キャラ。女性向けの漫画に出て来る、「半目でタバコ吸いながら男の悪口を言っては拍手喝采される、女性グループのボスをやってる女」的なキャラなのです。
 それがまたものすごいデザインで、どのような意図で描かれているのか(例えばアニメ化した時、実写化した時、どのような感じになるのか)今一わからないのですが、見た目が「口の周りに泥棒髭がボーボーで、胸毛もボーボー、ギャランドゥ(へそ毛)もボーボー、ボーボーの陰毛がパンツからはみ出している」といったデザイン。恐らく白黒のブチで、黒い毛だけを描写したがため、そのように見えるのでしょうが、作者も結果的にそのように見えることを意識せずして描いているはずがなく、何というか……。
 さらに、口調も男言葉そのまま(ご丁寧にタバコも吹かす)で、女と明言されない限り、とても女には思えないのだけど、これを見てレゴシは「可愛い」と言うのです!
 ここへ来てこれでは、一体作者は何を考えているのか……実写系の女性向けコンテンツでは驚くような不美人が平然とヒロインをやって、女性ファンが「可愛い」と声援を送ったりしていますが*2、これもそれなんでしょうか?
 このキュー、ゴウヒン(裏社会を住処とする屈強なパンダ)が好きなのですが、彼に出す手紙に青とピンクのどちらの切手を選ぶかという選択を迫られ、即座に青を選びます。つまり、この人も(『ガガガ』の仲村さん同様)ピンクという「女性性」に対し、ナイーブな屈折を抱えているのです。こんな強くたくましい女性でも乙女な部分があって可愛いですね(白目)。
 もう一つ、まあ、当ブログ的にはどうでもいいことですが、ここでこのキューは「イマジナリーキメラ」とやらいう超能力(?)を発言させます。想念の力(?)で肉食獣と化すのです。レゴシもまた、見よう見真似でそれを習得し(?)、ウサギとオオカミの雑種のような姿に。
 いや、もう、動物が立って歩いているだけで充分飛躍があるんだから、いきなり異能バトルになるのは勘弁してくださいよ。

*2 先の動画で「グリッタ嬢」について述べました。が、このキューやハルもグリッタ嬢も「ブスコンテンツ」とは言えましょうが、微妙に温度差はある気がします。グリッタ嬢は明らかな「私より下」に憐憫と共に「可愛い」との声をかけるためのキャラですが、キューやハルは普通にいい女として描いているように思います。
 もっとも、いずれも「ブスがモテる」ことを楽しむキャラという意味で、大きな枠では同じとは言えます。


・兵頭、またオチを捏造するってよ

 一方、ルイは17巻において婚約者との初夜に失敗した後、何だかんだでシシ組に戻っています(戻んなよ! 殺されたヤツの立場どうなるんだよ!)。で、「肉食獣の雄に囲まれている方が草食獣の雌といるより落ち着く」などと言うのです。
 いえ、初夜に失敗したこととそれとに因果関係はないようなのですが、流れで見ると、まるでルイが女よりも男に目覚めていたというか、何かBLに見えちゃうんですね。
 で、20巻においてルイと(義理の)父親との別れが描かれます。ルイが家に帰ると、父親がいきなり事故に遭って死にそうと知らされるという超展開。スマホとかある世界観なんですけどね。
 今際の際の父親は「今、お前との関係を脳内計算機で計算している。ピピ、error」みたいなことを言うんですが……何なんでしょう。おそらくは昔の漫画で敵の博士が「しゅ……主人公の正義のパワーはコンピュータでは測定不能です!」みたいなことを言う、ああいうのをやりたかったんだろうな、と思われます。即ち、感情というものを解さない理屈屋が感情というものの力を目の当たりにしてパニクる、冷静な父が息子を愛していたことに気づき戸惑っている、というシーンなのでしょうが、何か唐突過ぎて不自然です。
 あ、いや、ここは特に本筋に関わってくるところではないのですが、レゴシがメロンを迂闊に逃がしてしまうシークエンスしかり、どうも本作、ここへ来て作品としての綻びが目立ち始めたように思います。
 とにかく父の死と共に、ルイは彼の会社を引き継ぎ、21巻では(クライマックスであるレゴシとメロンの裏市でのバトルに並行して)ルイの就任挨拶がテレビで行われるのです。この折にルイは「肉食獣は肉食をすべき」と演説し、大騒ぎになる……というところで21巻は終わっています。
 しかし先のハルの件も含め、普通に考えれば、ここから導き出されるのは「草食獣は肉食獣に守ってもらう代わりに、その肉体を食物として捧げるべき」との、『ミノタウロスの皿』で語られたような道徳律であるはずです。
 しかし……「草食獣が自らを食べられる側の存在として受け容れる」というのであれば、それは(既に近代的な文明を備えていながら)社会の構成員の生命というものをそれほど重要視しない、異常な社会を現出させることになるわけで、もしそんなオチになるとしたら、かなりグロテスクです。
 が、もしこのまま進むとしたら、オチはどのようなものになるか。
 最終回予測をもう一度、やってみましょう。
 この「肉食」には、それが「性欲」のメタファとして扱われていることからもわかるように、またレゴシの言動を見れば自明であるように、常に「罪悪感」が伴います。
「肉食はとてつもない罪悪感を持って草食を食せ」というオチがもしつくとしたら、これはある意味、女性心理としては理解しやすいものになります。性にまつわる事象は全て「男が自分を求めたから、仕方なく、ないし嫌がっているのを強制的に供物とされる」というものなのだ、というのが女性の論理だからです。
 でもそれならば、既にレゴシの心情としてしつこく描写されている以上、やっぱり既に行われていることの反復、といった感が拭えない。
 それでも予想するならば先のルイとのお話のように、「肉食は草食の肉体の一部を食らい、そしてその埋めあわせに一生、その草食の面倒を見る奴隷と化せ」というオチが一番、穏当な気がします。
 既に書いているように、ルイは「BLの受けキャラ」であり、「女の喜びを受け容れた(食べられる性であることを肯定する)女」ともいうべきキャラだと言えます。
 最終回、その図式が男女関係へも反映される(BLの壁を破る)という展開も、考えられましょう。もっとも、肉食は一度すれば満足できるものではないでしょうから(食べた足がまた生えてこない以上、そう何度も食べるわけにはいかないのですから)、「若いうちの、一瞬の快楽で一生が縛られる」のはいかにも難儀ではありますが、ある意味、今の男女の性役割の忠実な再現とはなっているとも言えます。

 ……というわけで長らく続けて参りました『BEASTARS』評、次回(と言っても、来週には間にあわないでしょうが……)が最終回です。


男子問題の時代?(再)

2021-01-17 19:29:10 | 弱者男性


※この記事は、およそ19分で読めます※

 前回から時期が開きましたが、動画(↓これですね)の補足とも言える記事の再掲企画です。

風流間唯人の女災対策的読書・第15回「これからの男性学たちへ」


 今回は動画中で扱った、多賀太師匠の著作を採り挙げさせていただきます。児童虐待としか思えないような「ジェンダーフリー教育」の実態が書かれている本とのことで引用したのですが、さて、もうちょっと詳しく見ると、いかなる内容のものでしょうか……?
 ――実のところ、『ダンガンロンパ3』というアニメ(ゲームではなく、あくまでそれの派生作品)を元にしているため、今見るとちょっとわかりにくいネタなど多いのですが……。

ゲンロンデンパ3 THE END OF フェミヶ丘学園 未来編

 ――ぼくは怒シンジ(声:緒方恵美)。元・超高校級の不運。
 フェミヶ丘学園の学園長・フェミクマ(声:TARAKO)に拉致され、ミサンドリアイ学園生活を強要された、生き残りの一人だ。
 ぼくたち超高校級の生徒たちをフェミ裁判で殺し続けた黒幕の正体は超高校級のフェミ・羅路府恵美子(らじふえみこ・声:豊口めぐみ)であった。
 羅路府を倒したぼくたちは、フェミヶ丘学園の卒業生で構成される「男性機関」に所属、フェミに崩壊させられた世界の再建に従事していた。そう、我らが男性機関は「絶望」そのものであるフェミに対抗する、「希望」の象徴だ。
 だが……再びフェミクマは姿を現した。ぼくたちは腕にバングルを填められ、またしてもデスゲームに参加させられる羽目に陥った。
 バングルには「NG行動」が設定され、それに反する行動を取った者は殺される。また、ぼくたちの中には「裏切り者」が紛れているため、仮に「NG行動」に反しなくとも、寝ている間に一人ひとり殺されていく。
「裏切り者」を見つけ出さない限り、ぼくたちは死を迎えることになってしまうのだ――。

???「裏切り者の正体は自明だ!」
 そう言うのは男性機関副会長、そして元・超高校級の男性学者だった乙許斐方郎(おとこのみかたろう・声:森川智之)。
乙許斐「男性機関はラディカルフェミニズムの魔の手から人々を守る、人類の希望。しかしそんな中、ジェンダーフリーによる男性解放に反対している者がいる。そいつが裏切り者なのは、考えるまでもないことだ!」
 乙許斐がぼくを睨みつける。彼は反ジェンダーフリー派であるぼくを処刑せよとの、強硬派のトップなのだ。
シンジ「……………」
乙許斐「ジェンダーフリーに反対するということは男性差別を許容するということ。即ち、ラディカルフェミニズムの手先だ!!」
シンジ「それは違うよ!!
乙許斐「どこが違うんだ?」
シンジ「乙許斐さんの意見には、大きく言って二つの間違いがあります。ラディカルフェミニズムという言葉に対する認識と、そしてジェンダーフリーが男性差別を解消する思想だと信じている点」
乙許斐「何だと!?」
シンジ「ラディカルフェミニズムという言葉の誤認については、多くを繰り返す余裕がないけど*1、大ざっぱに言えば、ジェンダーフリーを推進しようとする思想、と言っていいんです。つまりぼくが反ジェンダーフリー派である限り、ラディカルフェミニストであるはずはないし、ジェンダーフリー派はむしろ、ラディフェミとこそ親和性があると言わざるを得ないんですよ!」
乙許斐「見ろ! ジェンダーフリーを否定する怒シンジ、やはりラディフェミの手先だ!」
シンジ「ひ……人の話は聞かないのか、この人……」
 ぼくはふと、手持ちの本を掲げて見せた。
シンジ「じゃあ、この本をテキストに説明しましょう。多賀太教授の著した『男子問題の時代?』です」
???「それは!?」
 横から弾んだ声を上げたのは、元・超高校級のジェンダーフリー論者・寺園田振子(じえんだふりこ・声:中原麻衣)。
振子「多賀太教授と言えば、教育社会学者よ! 間違ったことを言うわけがないわね!」
シンジ「それはどうだろう……例えば多賀は、欧米では学齢期の男児の『男性問題』こそが採り挙げられている、事実女子より男子の方が成績が悪い、と指摘する一方、日本では専ら青年期男子の『男性問題』ばかりが取り沙汰されると不思議がっているんだ」
振子「それのどこに問題があるわけ?」
シンジ「問題というか……要するに第1章におけるこの箇所は、近年の『男性学』を自称する書にお約束の、現代が女尊男卑であるとの世論への反論なんだけど、ここで多賀がしているのは、『それ故、日本の男性優位は揺らいでいないのだ(大意)』という奇妙奇天烈な主張なんだ(20p)」
振子「はぁ?」
シンジ「つまり海外と違い、青年期男子について騒ぐだけで、学童期の男子の問題が浮上していないのは日本が男性優位だから、という実に奇妙な主張。だったら海外は女性優位なのか、と聞きたくなるよね」
振子「そ……それは……」
シンジ「日本で専ら青年期の男子の『男性問題』ばかりが取り沙汰される理由、それは明白だ。要するに『男性問題』など、アカデミズム、ジャーナリズムはまともに相手にしていない。数少ない『男性問題』についての書は、彼らフェミニズムの使徒たちが『フェミニズムに逆らうな』『男性性を捨てよ』と若年男性に迫るだけのものだからだよ。
 それとは異なる実際の弱者男性の声は、表には出ず、ネットで見られるのみだ。多賀が兵頭新児の著作を否定的に採り挙げているけれど(15p)、逆に言えば彼の著作が、弱者男性の声が出版物として世に出た、数少ない例外だからだよ」
振子「そ……それは多賀教授があくまでネットのミソジナスな意見をよしとしないだけよ。それだけで彼を男性の敵だと断言できるの!?」
シンジ「男性の窮状を男性の自己責任である、とする論調を男性の敵であるとするならば、多賀は明らかに男性の敵だよ。
 23p以降では、男性の経済状況が悪化しているのは女のせいではない、男性側の支配の構造に変化があったのだ(大意)としているけれど、そこに『女は男を養わない』傾向への視点はない。この種の男性学者にありがちな(男性の味方という看板を背負ったが故の困難からの)社会のシステムに全てをおっ被せるやり方だよ。
 田中俊之氏の本にもあったけれど*2、第2章の「男はつらい?」の節ではNHKの番組での幸福度調査で男性の方が幸福を感じていないという調査を持ち出し、それに対して『経済的に優位にあるのは男で云々』と延々言い訳が続く。社会的に権力を握っているのだから不幸でもガマンしろ、と言いたいとしか思えないよ。
 第2章以降も多賀は男がつらいのは優位でいようとするのが悪いのだとのロジックを垂れ流し続ける。47pでは男性の自殺者、過労死者の圧倒的な比率を上げながら、これは男性支配社会から女性支配社会に移行したからではないとし、更にはこれを男の方が女より所得が多いことと表裏一体だと言い募る」
乙許斐「いや……ちょっと待て! 52pでは男性の方が女性よりも収入が多くとも、上昇の横ばい具合(上の世代と比較すれば、相対的に女性の方が稼いでいる)と扶養責任を求められる風潮から、不満を持つことは理があるとしているぞ!」
シンジ「でも、その後がよくないですよ。多賀は

 確かに、男性たちが経験するこうした剥奪感自体が、男性の特権意識と表裏一体のものであり、ある種の女性蔑視に基づくものであるともいえよう。
(同ページ)



 とまで言っている。まるで上野千鶴子のした主張のように、彼は男の生命には何の価値もないと言っているようにしか、ぼくには読めない。しかもその男の所得は、妻が管理しているというのに!」
振子「ま……待って。そうは言うけど、多賀教授は同ページでこうも言っているわ。

 しかし、個々の男性たちは、社会的真空のなかでそうした特権意識を勝手に作り上げているわけではない。右に述べたように、彼らの意識は、そうした「特権」の獲得を目指す競争から「降りさせない」ための男同士の相互監視にさらされるなかで形成されている。


 また、そうした空気の醸成に女性も一役買ってる、とも指摘しているの。
 更に76pで女性が上昇婚を望む傾向を、指摘してもいるじゃない」

 女性の場合、結婚した人の割合とその人の雇用上の地位との間に関連は見られなかったが、男性の場合、非正規雇用者で結婚した人の割合(12.1%)は正規雇用者で結婚した人の割合(24.0%)の約半分であり、年収が低いと結婚した割合も低い傾向が見られた。


シンジ「そう、ところどころに、客観的事実に基づいた、論理的な、頷ける指摘が挟み込まれるのが、こうした男性学者たちの著作の特徴だよ。そう考えると、彼ら自身はホンキで男性の味方たろうとしているのかも知れない
 しかし残念なことに、彼らは一方で、フェミニズムの盲信者としてのドグマをどうしても捨てようとしない。だからこそ彼らの主張は、支離滅裂の矛盾に満ちたものとならざるを得ないんだ。
 76pの指摘以降、多賀は『男性社会』がこうした『男性的な価値』に身を染めて成功した『名誉男性』的なキャリアウーマンを味方に引き入れることで男性的な社会を維持しているのだ、と続ける。
 つまりキャリアウーマンは男性的価値観という悪しきものに染められた被害者であり、行く行くは社会を女性的なモノへ変えようという、エコフェミ的な価値観を、彼は持っているんじゃないかと、想像できるんだ*3。男性学者というのは男らしさに非現実的な憎悪を抱く傾向が、大変に強いからね」
 第3章では労働問題について、以下のように述べている。

もっとも、前章でも確認し、本章でも後に示すように、女性は従来から、労働市場において男性よりも圧倒的に不利な立場に置かれており、現在でもその傾向に変わりはない。したがって、こうした女性の状況に目配りせず、男性の雇用状況の悪化だけをことさら取り立てて問題にすることには慎重でなければならない。
(62p)


 ぼくには何十年も前から、女性の雇用悪化だけがことさら取り立てて問題にされ続け、対策が取られている気がするけれど。
 もっとも、評価できることもある。3章の最後には、いまだ男に男らしさが求められている現状で男の子に『男らしさ』より『自分らしさ』だ、と説くことは彼を不利に追い込むことになりかねない、と秀逸な指摘がある(82-83p)」
乙許斐「な……何! 多賀はジェンダーフリーを否定しているのか!?」
シンジ「ここは重要な指摘です。ジェンダーフリーという机上の理念が、教育の現場でどこまで通用するかについて、多賀は疑問を呈しているんですから。ここを捉え損ねると、仕事のない弱者男性にただ、『働かなくてもいいじゃないか』と言い捨てるだけの、田中俊之レベル*4にまで落ちてしまいますよ」
乙許斐「許せぬ! 多賀は男の敵だ!!」
シンジ「心配する必要はありませんね。この問題は掘り下げられることなく、やはり『自分らしさが大切』みたいなことを言って、ささっと逃げるように章が終わっているんですから。自分にとって都合の悪いことは、目立たぬようちょろちょろっと書いて、ささっと逃げる、というのはフェミニズムの教科書のお約束です」
振子「じゃ……じゃあ、多賀教授は男の味方じゃないって、あなたは言うの?」
シンジ「そのことは第4章を見ればわかると思う。ここでは教育現場におけるジェンダー教育の方針について、“ジェンダー保守主義”と“ジェンダー平等主義”、“ジェンダー自由主義”の三つに分類がなされているんだ。
 ぼくが言うまでもなく想像がつくと思うけれども、まずこのジェンダー規範を尊重しようとする“ジェンダー保守主義”については、憲法に認められた男女平等に反すると一刀両断されているんだ(90p)」
乙許斐「当然だろう、ジェンダー保守派はジェンダーフリーを否定するんだからな」
シンジ「ジェンダーフリーが男女平等につながるというロジックには賛成できないし、多賀がマネーなどに言及することもなく、ジェンダーは社会的に作られたのだとの前提で論を進めていることも問題だと思うけれど、それはひとまず置きましょう。
 ここでは更に“異質平等論”という概念が提出されることになる。それはつまり、ジェンダー保守派の『男女の性差、性役割を認めた上での平等』、異質だが平等性が保たれているのだ、との論のこと。しかしそれはすぐに、『組織的意思決定権や経済力を得られるのは職業労働を通してなのだから、そちらに立つ男性の方が権力を持っているのだ(大意)』との反論で切って捨てられる(93p)。あくまで男女は全く同じでなければならない、女性は労働市場に身を投じなければならないとの、ドグマを主張し続けるんだ。
 職場ですらよほど偉くなければ我を通せない一介の労働者よりも、『一家の主』である主婦の方が『組織的意思決定権』も『経済力』も持っていると思うけれどもね」
振子「ちょっと待って。多賀教授は“ジェンダー保守主義”以外に、“ジェンダー平等主義”、“ジェンダー自由主義”という概念を持ち出しているって言ってたけど……それはどういうものなの?」
シンジ「ここからの多賀の議論は、実に奇妙なものになっていくんだ。まず、“ジェンダー平等主義”と“ジェンダー保守主義”の間には『男は仕事、女は家庭』といった性別役割分業の是非について、ある種の親和性が発生する、と説く。何故なら、上にある“異質平等論”、即ち双方異なりながらも対等である、との論法が可能であるからだ、ってね。しかしそこに、“ジェンダー自由主義”を導入すれば、保守主義の主張はあっさりと退けられてしまう」

なぜなら、「男は仕事、女は家庭」という規範は、それが対等な分業であろうが不平等な分業であろうが、性別によって個人の選択を規制しているという点ですでに問題だからである。
(101p)


乙許斐「なるほど、“ジェンダー自由主義”こそが正義というわけだな」
シンジ「残念ながら、話はもう少し複雑なんだ。多賀は“ジェンダー自由主義”は“自由”であるが故に伝統的ジェンダーロールを選択する自由をも認めねばならない、そこにジレンマがある、とするんだ」
乙許斐「……???」
振子「それは当たり前よね。例えばだけれど、女の子に自由にランドセルの色を選ばせたら、みな赤い色を選んだ……なんてことになったら、ジェンダーフリーに反して、大問題だもの!」
乙許斐「あ……そ、そうそう、そうだ! 確かにそんなのは憂慮すべき事態だ!!」
シンジ「ふたりとも全く、多賀そっくりですね……。

 しかし、自由を別の方向に求めたとたんに、ジェンダー自由主義の視点は、意外にもジェンダー保守主義を支える立場へと姿を変えることになる。
(105p)


 多賀はこんな悔しげな声を漏らし(本当に女性ジェンダーが女性に強制された不当なものであれば、そんなことになるはずがないと思うのだけれども)、そしてやむなしと言わんばかりに、ここでワイルドーカードを切ることになる」
乙許斐「ワイルドカード、だと……?」
シンジ「そう、“見えないカリキュラム”によって、今まで子供のジェンダー観は操作されていたのだ、と言い出すんです」
乙許斐「その“見えないカリキュラム”というのは?」
シンジ「国語科で採り上げられる作者や歴史で採り上げられる人物に圧倒的に男性が多いとかいう、言ったってしょうがない問題についてです。他はおなじみの女子だけが家庭科を習うことがどうの、名簿の男女別がどうのという話。もっともそれらも現在は相当に“改善”されているはずですけどね。
 ぼくには“ジェンダー平等主義”だの“ジェンダー自由主義”だのは言葉の遊びにしか見えないけど、問題なのはそうした言葉の遊びがただひたすら、“ジェンダー保守主義”とやらを切り捨てるためになされていること。ためにする議論としか、言いようがないことだよ。
 こうした彼らの“見えないカリキュラム”という見えないものに対する敵愾心が、ジェンダーフリー教育という莫大な血税を必要とする“見えるカリキュラム”を生んだんだ。そんな空理空論を続けた挙げ句、第5章ではついに学校でのジェンダーフリー授業の様子が描かれる。しかしここで、(先にも多少、言及のあった)机上論と現場との齟齬がいよいよ明らかになっていくんだ。
 具体的にはまさにさっき、振子さんが言ったことと同じだよ。ここでは『ぼくたちがこんなにジェンフリ教育をガンバってるのに、生徒たちは相変わらず男は黒、女は赤を選ぶ』と苦渋に満ちた記述が続く。
 読んでいて、あまりに馬鹿らしくも気の毒で、苦笑を漏らしてしまう箇所だ。もっとも、こんな偏向した教師の珍奇な試みにつきあわされる子供のことを考えた時、笑っていていいのかは疑問だけれどもね」
乙許斐「それのどこが悪い! 男性差別解消のためにはやむないコストだ!」
シンジ「以下のような記述を見ても、そう思うんですか?

 児童を社会化される存在としてとらえる立場に立てば、多くの児童は、小学生の時点ですでにある程度の「伝統的ジェンダー規範」を身につけており、それに沿った好みを形成していると考えられる。たとえば、先の三年生のあるクラスでは、黒いランドセルを使っている男子が、黒を買った理由として「赤より黒が好き」と答えていた。したがって、たとえ学校環境が完全にジェンダーに中立的であったとしても、児童たちが「伝統的ジェンダー規範」に沿って形成されている好みに従って「自分らしい」選択を行えば、それは結果的に「性別にとらわれた」選択と変わりがなくなってしまう。
 もちろん、L小学校では、こうした結果を「個性尊重」として放置しているわけではない。そうした「自分らしい」選択の背後にひそむ「性別へのとらわれ」に気づかせ、より「自分らしい」選択ができるよう児童に働きかけている。
(125p)



 こんな狂ったジェンダーフリーを、乙許斐さんは肯定するんですか?
 きっと彼らは男の子が赤いランドセルを選ぶまで、山小屋で『自己批判しろ!』と絶叫を続けた人々同様、糾弾会を続けるんでしょうね」
乙許斐「……………」
シンジ「一応、補足しておけば、読み進めると、男の子が黒いランドセルを選んだ選択を『本当の好みなのかジェンダー規範に則ったものか証明のしようがない』と一応、悩む素振りは見せている。さすがに、赤いランドセルを選べと無理強いまではできないしね。もっとも、フェミニズムによれば『セックスよりもジェンダーが先行する』はずなのに、その『ジェンダーに先行する、真の好み』というものがあるのだ、という多賀の前提が、ぼくには全く理解できないのだけれど」
振子「そ……それのどこが悪いって言うの!? ジェンダーフリー社会を現出させるためには、耐えねばならない痛みよ!!」
シンジ「男の子が黒いランドセルを選ぶことすらも延々と問題視する社会が、そんなにも理想的なものなの? そんな世界では男の子がヒーローに憧れることも、オタクが萌えアニメにはまることも、全てジェンダー規範に則った悪しき行動として、糾弾されることになるだろうね。それが、男性解放なの?」
乙許斐「……………」
シンジ「もう一つ、補足しておこう。第6章では男女共学について延々と語られる。その中の「弱者支援としての別学」という節では、男性性に欠ける、いわゆる落ち零れの生徒たちへの指導が紹介されているんだ。彼らは一般的には女性的とされる職のスキルを学んでいる存在なのだけれども、そんな彼らに対し、『男なんだからしっかりしろ』といった男性性をくすぐる、男としてのプライドを尊重する指導が行われることもあるという」
乙許斐「許せん! 男性に対し、『男らしくしろ!』と言うなど、許し難い男性差別だ!!」
シンジ「多賀はこれについて、『現場でのやむない処置だ』と留保つきで肯定しているんだ。何だか、売買春を全否定していた者が障害者のためのソープという存在を知り、とたんにそこだけ賞賛してみせるような気持ち悪さ、卑しさを感じるけれども、同時にここは、多賀が一応の現実的なバランス感覚を持っていることの現れであるとも思う。
 教育現場では、彼らの妄念と現実とが、日夜火花を散らしているのだろうと思うと、ゾッとする話だけれどもね……」
乙許斐「……つまり、どういうことだ!?」
シンジ「ジェンダーフリーという机上の論理を現場で押しつけようとして、彼らは自縄自縛に陥っている、っていうことです。多賀が『多くの児童は、小学生の時点ですでにある程度の「伝統的ジェンダー規範」を身につけており』と言い立てているのが象徴的で、普通に考えれば未就学児童の段階から男の子は仮面ライダーなどのヒーローを、女の子はプリキュアなどのヒロインに憧れるのは自明であって*5、彼らのヴァーチャルなロジックをそこに押しつけるのは、洗脳以外の何物でもないんですよ!」
乙許斐「バカな……そんなバカなことがあるものか!!」
振子「まぁまぁ、まずは方郎が落ち着いてよ」
 ――振子が、何十本ものペットボトルを持って来て、一同に勧めた。
乙許斐「すまない」
 乙許斐は何気なくその中の一本を手に取り――。
乙許斐「―――――ッッ!?」
 ――乙許斐、死亡。
シンジ「こ……これは……!?」
振子「あらら~? 赤い午後の紅茶もあったのに、緑のお~いお茶なんか選んじゃったのね……」
シンジ「そんなカップ麺みたいな言い方しなくても……そうか、乙許斐さんのNG行動は『ジェンダー規範に則った色を選ぶ』だったんだ!!」
???「ひゃ~~~っはっはっはっはっはっはっはっは!!」
シンジ「フェミクマ!?」
フェミクマ「おわかりになったようですなあ、怒君? 今まで出落ちキャラとして死んでいったキャラたちもみな、ジェンダー規範に則った行動を取ってしまったがため、NGに抵触してしまったのです」
シンジ「何て卑劣な!!」
フェミクマ「ひゃっほう!!」

 フェミクマは一人、はしゃいでいる。
 フェミニズムと言う名の単なる洗脳により全世界を壊滅させ、まだなお飽きたらずに男性機関すらをも崩壊させんとして。
 ぼくたちは……「希望編」での力技な逆転劇に希望を託すしかなかった……。

*1 詳しくは「重ねて、ラディカル/リベラルフェミニスト問題について」を参照。
*2 「男がつらいよ
*3 以前、えりちかさんが本書を紹介して、

管理職を目指す上昇志向の女性を「名誉男性」呼ばわりしているくだりを読んだときは一驚しました。


とおっしゃっていたのですが、それはこの部分を指すようです。
*4 「男が働かない、いいじゃないか!
*5 この種の話題に差しかかると、オタクでリベラル寄りの御仁が、嬉しげに「戦隊シリーズの影響で近年は」みたいなこと言い出すのですが、(何故そんなことを言いたいのか、さっぱりわからないんですが)、あまり意味がありません。
 単に学校では赤との対象で黒、ないし青が男の色と認識され、戦隊では赤やその他が男の色と認識されているというだけのことです。
 その意味で男の子たちが黒を選ぶ時も、赤を選ぶ時も、そこに付随する「男性性」という属性をもって選んでいるのだとすら言えましょう(これは女の子も同様です)。
 だから仮に学校のランドセルなどに赤、ピンクの二色しかなかったとしたら、男女で赤/ピンクときれいに別れることでしょう。


風流間唯人の女災対策的読書・第16回『ムーミン谷の彗星』・第17回『ムーミン谷の夏まつり』

2021-01-09 19:26:41 | アニメ・コミック・ゲーム

 さて、『Daily WiLL Online』様で新たな記事を書かせていただいております。
被災地でレイプ多発⁉NHKはフェミニストの手先か」。
 どうぞご覧ください!
 
 それと、動画のお報せ。
 今回は北欧のおとぎの国から、『ムーミン』のお話をお届けします!
 それも豪華二本立て!
 ムーミンの豆知識をばっちり学んで、友だちに差をつけようぜ!

風流間唯人の女災対策的読書・第16回『ムーミン谷の彗星』


風流間唯人の女災対策的読書・第17回『ムーミン谷の夏まつり』

2020年・女災を読み解くキーワード10!

2021-01-03 17:48:01 | 女災対策について


※この記事は、およそ13分で読めます※


 みなさま、早いもので本年も年を越してから三日が過ぎ去ってしまいました。
 今年も362日を残すのみです。
 年賀状の準備はお早めに。
 というわけで、毎回年末か年始に行っている一年の総まとめです。
 2020年の初め(2月15日)に動画「風流間唯人の女災対策的読書」の第4回において、以下のように述べました。


実は、ツイッターのフェミ批判界隈が去年辺りから「表現の自由クラスタ」の手から離れ、「非モテ論壇」化したという印象を、ぼくは持っている。


 今年はこのことを象徴する出来事が、あちこちで起こった一年だったのではないでしょうか。
 というわけでまあ、ワード1と2はその辺のことを念頭において、お読みください。


・ワード1「ペドファイル」


 ぼくが一貫してペドファイルについて、否、ペドファイルを持ち上げてはしゃぐ左派について批判的なのはご存じかと思います。
 2018年も白饅頭の著作がペドファイルが薄っぺらに擁護していることについて、批判しました*1
 しかし本年、青識亜論は実に熱心にペドファイル擁護を続け、底の浅さを露呈させました(言っては悪いけど、この人は政治的な立ち回りは得意でも、論理的に考える能力は低いとしか言いようがない。長文を書くようになってあっという間に馬脚を顕したように思います)。
 それが以下の記事ですが――。


『ペドファイル利権を作ろう!』(愛称・ペドつく)
ペドっ子大作戦――青識亜論「論点整理:少女型ラブドール規制論」を読む
ペドっ子大作戦――青識亜論「論点整理:少女型ラブドール規制論」を読む(その2)

 彼ら自身に自覚があるかどうかは判然としませんが、彼らの物言いは「清浄かつ神聖かつ無辜のマイノリティ」をでっち上げ、それによる利権を立ち上げようという動機に強く根差しているようにしか、ぼくには見えない。
 また、彼らがペドをそんなにも迷いなく「キヨラカな弱者」にしてしまえる感受性も、奇妙としか言いようのないものなのですが、これは左派独特の「外部のものを崇拝する心性」の最悪の形での表れなのではないか……というのがぼくの分析です。
 即ち、近年の「表現の自由クラスタ」の「ペド擁護」の理由は、彼らが「オタク」だけを主語にしていては「持ちネタ」として弱いと考え始めているのでは、言い換えるならば「彼らがオタクから離反しつつある」ないし「オタクが彼らから離反しつつある」傾向の表れではないか、とぼくには思えるのです。
 これはまた、「異性愛」を否定したくて否定したくてならないフェミニズムが乗っかりたがる論法であることも、見逃せません。
フェミがホモの味方をするのはそういう理由からです。 柴田英里師匠が「異性愛じゃないから」という理由で熱いペド擁護を展開している様は、以下を参照。

春一番 日本一の認知の歪み祭り! 「小児性愛」という病――それは愛ではない(その2)

 もっとも、ペドもまた男が幼女が好きであれば「異性愛」だと思うのですが、まあ、そういうリクツを超越しているのが、フェミのすごさです。

*1 矛盾社会序説――表現の自由クラスタの、矛盾だらけの著作がネットを縛る

・ワード2「これからのフェミニズムを考える」


 正確には『シン・これからの「フェミニズム」を考える白熱討論会』みたいですが、まあ、どうでもいいし。何か討論会があったみたいですが、ぼくは足を運んだわけではありません(或いはネットイベントだったのかもしれませんが、それすら知りません)。
 ぼくにとって本件は単純に「坂爪真吾師匠と青識がつるんだ」ということ以上の意味を持ちません。
 坂爪師匠の本については夏に、しつこくしつこく採り挙げました。

「許せない」がやめられない坂爪真吾
「許せない」がやめられない坂爪真吾(その2)
「許せない」がやめられない坂爪真吾(その3)
「許せない」がやめられない坂爪真吾(最終回)
風流間唯人の女災対策的読書・第10回『「許せない」がやめられない』

風流間唯人の女災対策的読書・第11回『「許せない」がやめられない』(その2)


 動画を二本、文章記事を四本という大盤振る舞いで、ちょっと自分の著作をダシにされただけで過剰反応では……との感想を持った方もいたかもしれません。
 しかしこれはそれなりに大きな出来事だったと、ぼくは考えます。
 この数年のツイッター上におけるアンチフェミの流れ、表現の自由クラスタが騒いでいるだけであれば、「何か、オタクが騒いでいる」というだけで済んでいました。
 ひるがえって本件においては一応、一般的な業界で名のある人が、表現の自由クラスタに同調し始めた。即ち、「ツイフェミ」をスケープゴートにした「フェミ」延命に乗り出したわけです。
 まあ、坂爪師匠がそこまで有名人かはわかりません。アカデミズムの人ではなし、文筆家としてもプロではないでしょう(正直、本書の低質さは、語り降ろしをゴーストが無理にまとめたのではないか、と思っているのですが)。
 しかし一般的な業界で名のある人がこの流れを共有し始めたことは、それなりに重要です。原田実師匠、斎藤環師匠など、それなりに責任も名もある人が、この「ツイフェミ批判」に乗っかる傾向が、いよいよ顕著になってきました。
 繰り返すようにこれは「左派が仲間の中の後ろ盾のない弱い者を、スケープゴートとして殺す」卑劣極まりない行為であり、坂爪師匠の著書を見ればわかるように、必死になって殺している「ツイフェミ」と「本来のフェミ」がどう違うのか、どこをどう引っくり返してみても、わからない。書けば書くほど欺瞞が露わになる。
 そんな愚かな振る舞いを、責任のある者がし出したことが、ぼくとしては驚きでした。
 もう、彼らは進退窮まり、正常な判断力もなくなっているのでしょう。
 ――さて、しかし、では、何故「表現の自由クラスタ」はこうも急速に「オワコン化」したのでしょう?
 以下、ワード3、4、5、6ではその理由となるトピックスについて、見ていきましょう。

・ワード3「セカンドレイプの町」

 みなさんご存じでしょう。草津町の町長のレイプ疑惑にフェミが噛みついた件です。
 これ、一番重要なのは問題とされる町長に対して、被害者を自称する新井祥子町議が当初、(性暴力があったとされるその後も)好意を抱いていると述べていたことだと思うのですが*2。つまり新井町議は町長の自分への感情が変わったことを受けて、過去の経験を「性被害」だったのだ、実は嫌だったのだと後づけしたように思われるのです。
 これはまさにぼくがずっと言ってきた、「女災」そのものです。「女はウソを吐く」発言が叩かれたことは、左派がいかに「女のウソ」を「兵器利用」してきたかを表しています。
 白饅頭、本件について記事を書いていましたが*3、それは上のような論点をまるッとスルーした、相変わらずバランス感覚に優れたおりこうさんな文章で、別に間違っちゃいないが薄っぺらな批判に留まったもの。いえ、左派メディアでそれを書くだけでも勇気の要ることであり、むしろ評価してあげるべきなのかもしれませんが、それは同時に左派がいかにダメかを如実に示してもいます。

*2 令和電子瓦版  2019年12月3日茶番劇? 新井祥子元議員「町長室で気持ちが通じた時には本当に嬉しかった」
*3 草津を「セカンドレイプの町」と断定…冷静さを失うリベラルへの疑問

・ワード4「お母さん食堂」

 はい、これもまたホットなワードですね。
 実はぼく、モデルになっているのが香取慎吾だということすら知らずにいたのですが(与謝野晶子みたいな女だなー、とは思っていたのですが)、そう考えるとむしろ、この企画の担当者はフェミにセンシティブなヤツ、フェミに誉めてもらえるだろうと思ってやったことかも、という気もします。
 考えれば家事のアウトソーシングを旨とするフェミにとって、コンビニほど好ましいシステムは他にない。
 しかしそれにすらも、フェミは噛みついてくる存在だということが、本件では明らかになったのです。
 ――この3と4の二件は、「アンチフェミ」を自称する「表現の自由クラスタ」の刃が、全く敵を斬るだけの性能を有していなかったことを露わにしました。
 彼らのロジックではフェミの本質的な悪辣さを、全く批判できないことを明らかにしたのです。
 もっとも、2020年に起こったのは、そうした「人口に膾炙した」ケースばかりではなく……。

・ワード5「災害時の性暴力」

 2020年3月、NHKにおいて極めて重大なデマが流されました。
 以下がそれです(もっとも、こちらもちょっとしたミスをしてしまっているので、訂正を加えさせていただきました)。

物語の海、揺れる島(再) ――NHKのデマ放送の元ネタが、デタラメ極まる件
エンタのフェミ様!(再)――NHKのデマ放送の元ネタが、デタラメ極まる件

 国営放送が血税でこんなデマを垂れ流すなど、重大事だと思うのですが、どこからも批判の声は聞こえてきません。
「女性はウソを吐く」が望ましい発言かどうかはわかりませんが、「フェミはウソを吐く」はまごうことなき真実だと、本件からも明らかになりましょう。
 そして――。

・ワード6「SAVE JAMES」

 これです。
 ぼく的に本年、一番デカい事件です。
 また、以下にあるように『Daily WiLL online』においても記事を書かせていただくことができ、それは大変よかったのですが……。

9歳の少年を去勢⁉行き過ぎたLGBTはここまで来ている
風流間唯人の女災対策的読書・第12回「フェミニストの母親が、息子のペニスを切除…!?」
「双子の症例」始末記

 いわゆるアンチフェミの中でも、左派的なスタンスに与しない人たちは、大いにこれについて反応してくださったのですが、「表現の自由クラスタ」の中でこれに言及してくれた人はいません。
 これはご当地のテキサスでも、左派メディアが本件について沈黙を守っていることと、「完全に一致」しています。
 繰り返しますが左派の刃では、フェミに切り傷一つ、つけることはできないのです。
 そんな彼らの無力さの象徴として、今年目立ったフェミニストを二名、ワード7と8で挙げてみましょう。

・ワード7「石川優実」

 はい、目下の日本において、一番有名なフェミニストはこの方かもしれませんね。
 もちろん、動画などにおいてもこの方についてはネタにさせていただいています。

風流間唯人の女災対策的読書・第3回『#KuToo 靴から考える本気のフェミニズム』


 しかしここでは、彼女がいまだ「ツイフェミ」と呼ばれていることに注目したいと思います。
 坂爪師匠の項でも述べたように、左派は煙たいフェミを「ツイフェミ」と呼びつけることで、長年、「真のフェミ」は他にいるのだとのデマを流し続けてきました。
 それは単純に、自分のご贔屓のフェミを延命するための詐術でしかないのですが、その「真のフェミ」、即ちアカデミズムや出版界にいるフェミは実に貪欲に石川師匠を取り込もうとしています。フェミニズム雑誌『エトセトラ』では石川師匠が責任編集を務めた号が出版されました。見ていくと専ら「行動する女たちの会」など古株のフェミたちの「戦歴」に石川師匠が感服しているという、まあ、老人ホームの慰問みたいな内容。
 ここまできてまだ石川師匠をツイフェミと呼び続けるのは、欺瞞としか言いようがないのです。

・ワード8「小島慶子」

 はい、この人、何かやたらと今年は目立ちましたね。
 この二人を並べてみると、近年言われ出した、「フェミニズムとは若い頃は女子力でいい思いをしていた者たちの、年を取ってからのファビョり」という分析が真実味を帯びてくるのではないでしょうか。
 ここで重要なのは、フェミニズムとは「ブスコンテンツ」の一種だということ。
 まずは「女性ジェンダー」から得られる快楽という、女性にのみ与えられた、とんでもなく有利でとんでもなく莫大な特権を、彼女らが手放す気は一切、ない。
 しかし「女性の社会進出」という彼女ら自身の行った愚行により、多くの女性たちはそうした「女性ジェンダー」を味わうことが困難となり、結果、それを歪んだ形で疑似的に享受するコンテンツ、即ち「ブスコンテンツ」が世を席巻することとなった――といったことはここしばらく、よく言っていたかと思います。
 というわけで以下は、「ブスコンテンツ」について採り挙げましょう。

・ワード9「ジャイ子萌え」

 ――結局、左派は絶対にオタクコンテンツを守ったりはしません。
 ぼくは時々、それを実証する書籍を採り挙げています。2020年は『ドラえもん論』という本についてご紹介しました。

ドラえもん論 すぎたの強弁
ドラえもん論 すぎたの新強弁
ドラえもん論 すぎたの強弁2020

 左派は基本、自分たちのイデオロギーにこと寄せるためにコンテンツを捻じ曲げることしかしない。
『ドラえもん』も『セーラームーン』もそうやって破壊されてきた。
 詳しくは上を参照していただきたいところですが、ワードとして「ジャイ子萌え」としたのは、やはりこれが『ドラえもん』を到底理解しているとは思えない、PCにこと寄せた言説であると同時に、「ブスコンテンツ」への親和性を示すものだからです。
 ブスをことさらに持ち上げる行為そのものに、女性ジェンダーへの屈折がないとは言い難く、やはり健全とは言えない。
 ぼくは2019年の暮れ(12月22日)に動画「風流間唯人の女災対策的読書」の第2回において、以下のように述べました。

目下のところ、フェミニストが増えているかどうかは何とも言えないけれども(いわゆる「ツイフェミ」も急増しているのか、ツイッターで可視化されただけか……)、女性が社会進出したことで相対的に弱体化した男性への不満は、いよいよ募るばかりのはず。それが、「負の性欲」の発露を促した……。フェミニズムは女性たちの血を吸い、自分たちの仲間にする吸血鬼だったんだよ。


「フェミニストが増えてるか否か」という疑問に、答えを出すことは難しいのですが、フェミニズムが女性を不幸にし、自分たちの仲間にするという性質をもっていることは間違いがありません。「ブスコンテンツ」の隆盛はそうした不幸な女性が増えたことの証拠でしょう。
 2019年はそんな「ブスコンテンツ」である『トクサツガガガ』についてしつこく分析を繰り返しましたが、2020年の代表といえば――。

・ワード10『BEASTARS』

 はい、これですね。 何しろ二十巻以上の長期連載を、そもそも匿名用アカウント氏のnoteをフォーマットに論じ直したという企画なので、目下のところだけでこんだけあります。

漫画『BEASTARS』から読み取る、女性に内在するフェミニズム的性向
「漫画『BEASTARS』から読み取る、女性に内在するフェミニズム的性向」を読む(その1)
「漫画『BEASTARS』から読み取る、女性に内在するフェミニズム的性向」を読む(その2)
「漫画『BEASTARS』から読み取る、女性に内在するフェミニズム的性向」を読む(その3)
「漫画『BEASTARS』から読み取る、女性に内在するフェミニズム的性向」を読む(その4)
「漫画『BEASTARS』から読み取る、女性に内在するフェミニズム的性向」を読む(その5)

 もう、リンクを貼るだけでひと仕事という感じです。 本作については、恐らく作者も計算して、フェミニズム的イデオロギーを込めたものではありません。ただ女性が自分の感性をあどけなく露呈させ、節度なく描いた漫画、という評がふさわしいかと思います。
 例えばそれが単純に「美人になって男の子からモテモテになりたい」との願望を何の屈折もなく垂れ流した漫画だとしたら、まあ、つまらんし読む気もしないけど、本作を読んだ時のような不快感は受けないはず。
 しかし本作については作者のある種の「ブス性」、これは本人がブスか否かということとはかかわりなく、「女性ジェンダーのこじらせ」とでもいった意味あいの言葉ですが、そうしたものがあまり作者本人に内省されないままストレートに提出され、それがコマから濃厚に立ち現れている……といった感が非常にするのです。
 ――以上、簡単にと思っていたのに結構書き込んでしまい、もうヘトヘトです。
 しばらくは正月休みにしてダラダラ行きたいところですが、まあ、そんなわけで今年もよろしく。