兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

フェミナチガガガ(その3)

2019-06-29 09:59:48 | アニメ・コミック・ゲーム


 え~と、すんません。
 本作のメインテーマである「母との葛藤」について、今回まとめるつもりでおりました。
 というのも前回記事を書いた時点では単行本の15巻までしか読んでおらず、この巻は母との最終対決直前で終わっており、最新刊である16巻を読んでから、次の記事に手をつけよう……というのがその時の計画でした。
 が!
 いざ読んでみると、16巻では(仲村さんの帰省にかこつけ、つきあった)吉田さん、北代さんたちとの旅の様子が延々延々描かれ、最後のページで母と対面したところで終了。これでは何も書きようがありません。いえ、15巻でも旅の前準備が延々延々続き、仲村さんたち、修学旅行に倣って「旅のしおり」なんかを作ったりするエピソードが描かれていたんですけどね。
 さてどうしよう……と思ったのですが、まずは前回の訂正を。当ブログ、読書メモを元に書いているのですが、最新刊を読むついでにもう一度単行本をチェックして、いくつか間違いを見つけました。
●怪異! フェミ女」の小ネタ部分で書いた、ホラーの話について。「作ったものから内面を推し量ることはできないんだから、子供への愛情の籠もった手料理は無意味」といった主張がなされていると説明しましたが、再読して主張をなるべく忠実に説明するならば、「手料理を作れない家庭には事情があるんだから、ごちゃごちゃ言うな」といった感じのものでした。「手料理は無意味」と言うよりは「手料理ができないだけで、親の内面まで推し量るな」といった感じでしょうか。いずれにせよ、ホラーの話とあまり噛みあっているとは思えませんが(北代さんの母も手料理が作れず、人にいろいろ言われてきたとあるが、これも幻聴松じゃないのかなあ)。
 三分間クッキングの話は11巻としましたが、10巻の間違いでした。また、話の流れも三分間クッキングを特撮番組の省略に準えたわけではなく、「手間をかければいいものではない」という一般論の例として両者を並置させ、そこから「手料理をしなくてもいいんだ」という話に持っていくという感じでした。これは「手料理信者」である仲村さんのお母さんへのカウンターといった感じで描かれています。
 後、北代さんのオタバレ話を2巻と書きましたが、この人、そもそも2巻ではまだ出てきません。4巻の間違いでした。
 さて、以下からいよいよ本編です。ネタバレなどガンガンしますし、またここまででおわかりかと思いますが、本作について決して肯定的なレビューではありません。ファンの方はお読みになりませんよう。

 ●助けて! 2人のオタ友!! 母ちゃんが鬼になる

 さて、そんなわけで本作のメインテーマともいうべき、母親との葛藤について、どうにも語りづらいのですが、まずは現時点で語れることを語っていくことにしましょう。ドラマ版を観ていてぼくが一番引っかかったのは、やはりそこでしたから。
 第一に、あまりにも母親に対してキツい言葉を放っておいて、そのまま終わるという投げっぱなしな展開はいかがなものか。第二に、観ていくと本作はもっぱら、仲村さんのオタク趣味を理解してくれない母親との葛藤がドラマの中核に据えられている。「オタクの不遇感」が「女性の母親との葛藤」にすり替わっている、男性側のルサンチマンを、女性側に奪われたように感じる、といった感想を持ったわけです。
 しかし、では、漫画版はどのようなものか。実のところ母親との葛藤話、全体から見れば比率としては低いです。ドラマ版は僅か全7話ですから、そうした中核のエピソードが目立ってしまうことになったわけです。特撮番組に例えれば「新必殺技の出る話」「新キャラの出る話」など(こういうのは「イベント回」と呼ばれたりもしますが)ばかりが映像化されてしまったという感じですね。しかし原作では母親の出番はそこまで多くない。折に触れちらちらとそうした話題が出てくるという感じです。
 6巻では「母からの電話は聞き流せばいい」というだけの内容で、それを特撮風(……ではないなあ、何か漫画的大袈裟な演出で)「これが母からの電話攻撃をかわす奥義なり!」みたいなことを言っているのですが、何かよくわかりません。『野原ひろし昼メシの流儀』で回転寿司の皿を三枚並べ、それぞれに醤油とガリとワサビを入れて「これぞ回転寿司究極陣形なり!」みたいなネタをやっていましたが、何かそれを思い出しました。
 ただ、これに並行し、仲村さんへのサプライズバースデーパーティーという泣かせの展開と共に、母親とのよい思い出を回想するというシーンも入ります。
 先にまとめめいた話になりますが、ドラマ版は母と決裂してぶった切ったように終わっており、まるで母との破局をいいこととして描いているようにすら見える。ひるがえって、漫画版では決裂前も以降もそれなりに仲村さんの逡巡が丁寧に描かれており、(特撮ネタ漫画としてどうかという根本的疑問を置くならば)そんなに悪くないと感じました。言い換えるならば家族の解体を正義とするフェミニズム色はそれほど感じない。つまり、ことこの点についてはドラマ版こそが悪である、との評価になりそうなのです。
 このサプライズパーティー、以前に出た『ラブキュート』ファンのカラオケ店店員も出席。「ぼくも親が転勤ばかりしていて親に怨みを持ったりもしたけれども、親なりに埋めあわせをしてくれていたことも思い出す」などと吐露するのは、なかなかいい案配であると思いました。ドラマでは(そりゃ、限られた話数なんだからしょうがないとも言えますが)やはり仲村さんがギスギスしすぎてるんですよね。
 さて、この6巻以降、折に触れ母との「最終決戦」が近いことが暗示されるのですが(当然、『獣将王』の最終決戦とパラレルに描かれます)、とうとう12巻のラスト、ドラマ版にもあった、母親が部屋に忍び込む、オタバレしてしまう展開が描かれます……って、単行本六冊分も引っ張ったのかよ! この漫画、とにかく単発物としては(前回説明したように)微妙なエピソードが多く、連続物としてはそれらエピソードのせいで異常に展開が遅いんですね。
 しかしこの決裂話、想像以上にギャグめいた演出がなされ、それによってショックが和らげられています。ドラマ版はそこを一本調子に演出していたので、かなりキツかったのですが。もっともこの漫画、何かというとギャグ演出をするのですが、普段は悪いけど滑っていると思います。今回はそこが、極めてシリアスな話に挟まるがため、いいバランスになっている気がしました。
 続く13巻で、お母さんは「好きならば、みんなの前で言える? このフィギュア、衆人環視で返してと言えるなら返してやる」などと言って仲村さんを試します。ここは「好きと(世間に対して)いえない隠れオタ」の本質を描くための演出なのですが、ただ単純にこの母親、えげつない。言い換えるなら、やはり敵としての機能を背負わされた記号のような存在すぎる。
 もっとも、先にも書いたように、漫画版の仲村親子はそこまでぎすぎすしているわけではありません。仲村さん自身、「親子じゃない」と言い渡した直後も「お母ちゃん」と呼びかけていて、ちょっと微笑ましかったんですが、その後も(共に過ごす予定だったお正月なのに)「お母ちゃん」が今頃一人でいるのかとふと思い至るシーンがあります。
 一方、ドラマにもあった「私もお兄ちゃんもお母ちゃんのことが嫌いだ」との言葉をぶつけるシーン、後々、「母も世間を引きあいに自分を脅したが、自分も兄という他人を引きあいに出したのはよくなかった、獣将王も力をあわせて戦うけれども、ここは一人で戦うべきだった」といった結論に持っていく。この辺りも、観ていて不快だったシーンが内省がなされていて、見事です。
 このお正月、仲村さんは北代さん、吉田さんと共に過ごすのですが、そろそろいい歳だ、結婚適齢期だといった話題が出てきます。親子連れを見て、子供といっしょに特撮を楽しむことにすれば、この趣味を続けていられるかも、とふと母との和解にも希望を見出す仲村さん。しかしそこに「それはあなたの母親があなたにやったことと同じだ」と吉田さんに冷や水を浴びせられるというシーンもよく考えられています。
 ただ、話としては「タテマエよりも自分のやりたいことを」という結論に落ち着き、最終的には結婚を否定しそうな気配ではあります。
 そりゃ、「自分のやりたいことを」はオタクにとっての理想ではあるものの、しかし本作をここまで見てきた以上、残念ながら全肯定はできません。
 だって、強者だけは「やりたいことをやっていても結婚できる」のですから。
 だから、作者は結婚できるでしょう。物語上、仲村さんが結婚するオチに行くかどうかは疑わしいですが、モテているわけだから結婚したければできるはずです。しかし、仲村さんに自分を重ねているオタク女子の読者の多くは、結婚できない可能性が高い。そして、そうした人たちの多くは、「結婚したくない」わけではないはず。
 しかし、そんな女性たちに、本作は(そしてフェミがかったコンテンツの多くは)現状を肯定し、危機感から目を逸らさせ、結婚できなくさせる機能を果たしているのです。
「30になったら嫁の貰い手がない」というのが母の言い分で、ドラマ版では仲村さんが「今時古い」と返していたはずなのですが、漫画では(母と別れた後で近いことを言うシーンはあるのですが)明確な反論がない。仲村さんは「NHKの改悪」によって「フェミニズムの闘士」的に描かれてしまっているという印象が、多少なりともするのです。
 前回説明した小野田君(仲村さんに憧れている後輩)を見てもわかるように、「仲村さんは天然に男を振る」。これは女性向け娯楽にとって定番の「パンチラシーン」です。しかし、では、仲村さんは彼氏が欲しいのかは描かれません。そこを、描きたくないのです。この辺(自ら動きたくはないが、男は勝手に寄ってきて欲しい)は女性ジェンダーに紐づけられた、女性の業のようなものであり、それ自体を批判する気は、毛頭ありません。しかしそうした業を冷静に描く内省が、女性向けメディアには決定的に欠落している。それが、前々回に書いたこの種のコンテンツでの、男性オタクの描かれ方(山田君という『ダンガンロンパ』のキャラ)との差異となっているのです。
 さて、ちょっと話としてはずれるのですが、この辺りについて次項でちょっとだけ説明してみたいと思います。

 ●三人のオタク女 仲村吉田北代大集合!!

 上に仲村さんへのサプライズバースデーパーティーについて書きました。これは実のところ、4巻で描かれたカラオケパーティーの続編的なニュアンスがありました。このカラオケ回はドラマ版でも確か一番人気のあったエピソードで、北代さんと親しくなった記念に(?)、一堂に会してみなでカラオケで盛り上がるというもので、それまでのギスギスした展開を吹き飛ばす爽快な名エピソードといえます。サプライズパーティーで親との葛藤について吐露するカラオケ店員はこの時に初登場し、任侠さんと仲よくなる人物。当初、カラオケに誘われた任侠さんが女の中に男一人、入っていきづらいと尻込みしていたのですが、いざカラオケに参加するや『ラブキュート』オタの店員と出会い、仲よくなるという展開が用意されていたのです。キャラへの愛情を感じますし、ドラマでさらなるアレンジがなされて、いい具合に膨らまされていた。この辺は基本、いいと思います(ただ、この時に言ってた「カラオケの映像では作品の最終回が使われることが多く、ネタバレになる」ってのは嘘だよなあ)。
 しかし――これ以降、9巻の駄作上映会など、基本、仲村、吉田、北代のオタク三人組(ないし、そこに北代さんの子分格のミヤビを加えた四人)でつるむ話が異常に多くなります。これ、何というか『濃爆オタク先生』で教室という舞台がいつの間にやら姿を消し、三人組でつるんでばかりになったようで、いささかどうなんだという感じです(どういうツッコミだ)。
 駄作上映会についてはまた後に語るとして、この三人組がクローズアップされる点については、Amazonでも「特撮と関係ないのでは」といった評も見られました。そこでは「レギュラー4人にそもそも特撮見てる女が半分の2人しかいない。」とあり、まあ、ぼくはミヤビさんはセミレギュラー扱いでいいのではと思うのですが、考えようによっては任侠さんやダミアン(仲村さんの特撮友だちである小学生男子)の出番が後退し、北代さんたちと女子会ばかりやるようになったと言えなくもありません(奇しくも、Amazonのレビューでは小野田君の出番が後半になるほど少なくなり寂しい、といった感想が見られました)。
 つまりこの辺りから、本作は「喪女の女子会漫画」の様相を呈してきた。ぼくがずっとしてきた、本作は少女漫画であり、女性社会のこもごもを描いている漫画で、特撮とは関係がない、との評がまたしても顔をもたげてくるのです。
 一方、しかし上に「喪女」と書いたように、この辺りから仲村さんのキャラが「できるOL」から「喪女」的になっていくのです。そしてそんな「女子会」、見ていて楽しげではあります。うろ覚えでおせち料理を作るとか、上にも書いた仲村さんの帰省に便乗した「旅のしおりを作ろう」回なども盛り上がります。まあ、特撮に関係ないとも言えますが、いい歳をした大人がそんなバカな遊びをすること自体、何とはなしに男のオタクがやりそうなことだとの印象も持ちます。
 そして――しかし、さらにもう一方で、だからこそ、やはりこの漫画は『フェミナチガガガ』だな、と思ったりもします。
 上のエピソードを見ていて、ぼくは『1日外出録ハンチョウ』を思い出しました*1。一言で言えば、中年男が寄り集まって遊ぶ様子の描かれた漫画なのですが、見ていて大変楽しげな一方、どこかペーソスのようなものも感じさせる。しかしそれは当たり前です。『ハンチョウ』のキャラクターたち、みな家庭を持たない、人生の敗残者だったり日陰者だったりするのですから。
 仲村さんたちの女子会も、ペーソスをどことなく感じさせるものなのですが、今まで仲村さんと『ダンガンロンパ』の山田君を対置させてきたように、このペーソスめいた感覚に、作者が、そして読者がどこまで自覚的なのか……というのがぼくの疑問なのです。
 何しろ仲村さんは「無自覚に男を振る」プレイには熱心でも、じゃあ、どんな男が好きなのか、好きでないのかについては(イケメンが好きなわけじゃない、イケメンが好きなわけじゃないと言い訳を続けるばかりで)全く向きあっていないのですから。
「母との対決」というメインイベントの後、ちょっとだけ結婚について悩んだりもするのですが、少なくとも現時点でそれは深く省察されるわけではない。また、初期回でちらっとだけかつて彼氏がいたことに言及されているのですが、それ以降、そうした話は(男を振ります、というネタを除くと)なし。
 男性の描くオタクネタは(仮にキャラクターがモテモテという非現実的な設定にせよ)自分の非モテ性に基本、自覚的ですが、女性の描くモノは基本、そうではない。
 もちろん、次巻以降でそうした大テーマにがっぷり四つに組む可能性も、ないではないのですが……。

*1『カイジ』のスピンオフで地下帝国の大槻班長を主役にした、「中年男の休日」を描く漫画。もっとも『孤独のグルメ』的な話も多く、毎回友だちとつるんでいるわけではありません。

 ●クズを見た

 わかりにくいかも知れませんが、これ、「鳥を見た」のもじりです。
 さて、実のところしばらく前に、岡田斗司夫が本作を誉めていたことがありました。岡田氏が評価していたのは、オタク仲間でも先輩格の吉田さん。岡田氏は彼女のことを「特撮をクズであるが故に愛する」というキャラであると評し、オタク文化のそうした部分を描いたのは初であるとまで絶賛していました。
 6巻において、彼女は『南十字軍サザンクラウザー』という特撮作品について、実に楽し気に悪口というか、辛辣な批評をします。「西洋風世界観がだんだんと破綻してきた」「愛馬が出てこなくなった」といった点が突っ込みどころです。これは明らかに特撮時代劇として作られた『変身忍者嵐』がモチーフになっていて、同作に途中から西洋妖怪風の怪人が登場し、時代劇的な世界観が破綻したことが元ネタになっていますし、「愛馬がいなくなった」というのも嵐の愛馬・ハヤブサオーが初期に姿を消してしまうことが元になっています。また劇中では母親とのドラマが展開されるらしく、これまた『嵐』に原形を見ることができます。
 ここまでマニアックな小ネタは実のところこれが初で、確かに心を掴まれますし、またこれ以降、マニアックなネタが増えていくことになります。
 例えば、7巻からは『惑星O』という作品が登場します。これは『猿の軍団』が元ネタですが(『ここは惑星0番地』との関連が気になるところですが、どうもそちらは意識されていないっぽい)、再放送されていたのを、吉田さんに勧められてハマる仲村、しかし打ち切りで終わっていたことを知って愕然、というもの(ただし本作、これらいくつかの例外を除くと、固有の「元ネタ」を想定することを、頑なに拒んでいます。『獣将王』にしても「漠然と戦隊」です。正直、そこがあるある漫画としては大きくマイナスになっている気がします)。
 また、同じく7巻には『ゴジラ』をモデルにした『ダゴン』という劇場怪獣作品も登場。この辺りから古典的特撮にも目配りが始まっており、作者の勉強家たるところが窺い知れます。これはだんだん子供向けになり、最終作『ダゴンくん』は『ブースカ』的コメディに(とはいえ、直接的には恐らく『ウルトラファイト』辺りがイメージされていると思しい)。ファンの悪評紛々だが、吉田さんはこれがファーストインプレッションで、好んでいる。ここも「クズを愛する」という価値観が出ています。もっともここで語られるのは、「ダメリメイクも(それをきっかけに旧作にも)新たなファンを獲得するのだから、またよし」という、間違ってもないが何だか微妙な主張なのですが。
 先にも書いたように、9巻では三人組が「駄作上映会」を開催します。これが「女子会ネタ」の嚆矢とも言うべきモノで、また駄作ホラー映画あるあるがふんだんに書かれ、楽しめるモノになっていました(ただ、本作の「特撮あるある」は頷けないことが多いのですが、この「ホラーあるある」だけはホラーなど観ないぼくすら頷けるのはいかがなものかという感じなのですが)。
 ともあれ、今までぼくは、『トクサツガガガ』を「NHKがフェミのテキストとして送り込んできた悪のコンテンツ」といった解釈をしてきました。
 しかしこの「クズを愛する」というのは、言ってみれば「昭和オタクしぐさ」とでも称するべきもの。実のところ、サブカル、リベラル連中が岡田氏を攻撃するのは、この「昭和オタクしぐさ」を破壊する目的があったからというところが大です。つまり、『トクサツガガガ』が今の時代に「昭和オタクしぐさ」を復活させるという機能を有しているとするならば、正義のコンテンツとの評価が可能になるわけですね。
 まあ、とは言っても正直、それは厳しいかな……というのがぼくの想像ですが。
 ちょっとこの「昭和オタクしぐさ」の根底にあるのが何かを、軽く押さえておきましょう。
 第一に、「昭和オタクしぐさ」は、言ってみれば「ツッコミスキル」とでも言い換え得る。「オタク文化とは、受け手の突っ込み、批評眼が育ててきた」というのが岡田氏の主張なのですが、「オタク文化」を自軍の「兵器」として取り込みたい人々はクリエイターやそのコンテンツを権威化、権力化することに熱心で、そうした「ツッコミ」を好みません。
 第二に、特撮含め、オタク文化はその黎明期、子供文化でした。必ずしもクオリティが低かったわけでもないのですが、まあ、ダメなものも多くあった。そんな稚拙さをわかりつつ、オタクはそれらコンテンツを愛した。駄菓子を駄菓子として、愛したわけです*2。しかしオタク文化の非・権威的な部分は削ぎ落とさねばならないと考える人たちは、やはりこうした「クズのよさ」を称揚するといった部分を好みません。
 第三に、オタク文化黎明期の80年代、アニメ、特撮などの子供の観る「てれびまんが」を青年期になってもまだ観続けることは、ある種のカウンターでした。お洒落になりつつあった日本の青年文化、そしてぼくたちの目の上でたんこぶのごとく膨れ上がっているサブカルなどに与するまいというある種の「覚悟」が、ぼくたちをオタク文化に留まらせたということはある程度、言える。これは同じく岡田氏が、「上の世代が体制へのカウンターとして不良物のドラマなど(これは想像するに、アメリカン・ニューシネマなどをも指しているのしょう)を好んでいた様が、どうにもウザかった。そこでそれへの更なるカウンターとして、敢えて(高校生などいい年齢になってまで)子供番組を見ていたのだ」と表現していました。即ち、「昭和オタクしぐさ」とは目下オタク文化を自軍に取り込んでしまった人たちへの、抵抗そのものであったわけなのです。
 さらに言うと、これを全く逆転させて語ることも可能なのですが。つまり、世間的にバカにされているものを愛好している自分たちのルサンチマンを、愛の対象にぶつけるという構図ですね。「いや、わかってんのよ、下らないって。わかって、敢えて観てんのよ」というのがまた、「昭和オタクしぐさ」でもありました。
 これらの第二、第三の視点を、恐らく本作の作者は世代的に共有していないだろうし、仮に共有していたとして、今の時代にそれを語ることはあまりにもニッチすぎる。つまり、吉田さんの「可愛いが故にいじめてしまう」特撮愛には共感するけれども、背負ったものはちょっと違うのではないかなあ……というのがぼくの感想なのです。

*2 この辺りの感覚を知るには、『怪獣王』の唐沢なをき氏と岩佐陽一氏の対談が参考になります。ここでは70年代変身ブームの頃の質の低い特撮作品に対する罵詈雑言がこれでもかと並べ立てられ、しかし彼らの罵倒がヒートアップすればするほど、彼らの特撮愛が感じられるという、名対談になっています。

 ●特オタの母は太陽のように

 さて、最後に「母との葛藤」について述べなければなりません。
 先に書いた13巻での決裂以降、(ドラマ版で得た印象とは裏腹に)仲村さんは折に触れて母のことを気に病み、母にメールを送るも、先方は「好きにしろ」と冷たい。しかしともあれ、帰省を決意。15巻の巻末では『獣将王』の最終回間際のエピソードをお母さんもまた観ていることが暗示されます。
 16巻の最後、仲村さんは母親と対決するのですが、そこで出て来る言葉が、「あんたはもう母じゃない、母でないなら、何と呼べばいい?」というもの。そこでばっさりと終わります。
 しかし……恐らくですがこれは、いつもの思わせぶりな演出で、仲村さんの本心ではないと思われます。でなきゃ、帰省を決意するはずもないし、母と会う間際、「母に冷たく拒絶される悪夢」を見てうなされるといったエピソードもあるのですから。
 それと、今さらですがお断りしておきます。
 ぼく自身は「母との決裂」が作品として絶対にまかりならぬと考えているわけでは、全くありません。ただ、それでも「娯楽作」としては母との和解をオチに持ってくるべきだと思います。決裂で終わるのは、「それよりとんがった、アングラ作品」がやるべきことでしょう。
 その意味であのドラマ版はNHKでやるべきではなかったし、NHKが「NHKでやるべきでないものをやる、悪の放送局」であることの証明に、なってしまっているわけですが。

 さて、ともあれこれ以降の展開がわからない以上、書くこともないのですが、それでは収まりが悪い。ちょっとここで捏造展開をやってみましょう。
「もう母ではない、何と呼べばいい?」。お母さんに対して激昂する仲村だが、母が手にしている人形を見てアゼンとする。
 それは『プリンシスター』。『ラブキュート』以前に放映されていた女児向け変身ヒロインアニメだ。
 母は語る。「私も歩み寄ろうと思って、『獣将王』を見てみた。正直、好きにはなれなかったけど、おかげであんたの子供の頃を思い出した。それで、あんたがしまっていたこのお人形を持ってきたのよ」。
 今まで完全に封印していた記憶を、仲村さんは思い出す。
 幼い頃、私はお母さんとよく『プリシス』ごっこをしていた。しかし意地悪な同級生にいじめられ、「仲村に、ピンクの可愛いプリシスは似合わない」と言われた。その時から自分はピンクを好きな心を封印してしまった。「押しつけられたからピンクアレルギー」だったのではない。「ピンクを否定されて、特撮に逃げた」のだ。
 女の子の友だちから仲間外れにされて、そこから、兄とヒーローごっこをやるようになり、今度は自分が母を仲間外れにした。
『プリンシスター』は「戦うお姫さま」。「お姫さま」という『ラブキュート』では採用されなかったモチーフがこの作品のキモだった。そう、自分は「お前など男の子にモテない」と同級生にいじめられて、「お姫さま」を好きな心を封印して特撮に「逃げた」のだ。
 そこでさらに思い至る。何故自分がことさらに「イケメン目当てで特撮を観ているわけじゃない」と繰り返していたのか。「モテない」と言われたその呪いの言葉が私を縛っていた。
「逃げる」ことは悪くない。「逃げた」先にあったのが特撮だからといって、特撮が間違っているわけではない。
 でも、今のままでは変身ヒロインにも変身ヒーローにも申し訳ない。
 特撮の「ロボ」や「怪獣」が好きであるのと同時に、私は「イケメン」だって好きだ。そして、ピンクの変身ヒロインだって好きだ。そんな自分を、受け容れよう。
 最後は北代さんたちアイドルオタとも、「任侠さん」とも心からの交友を持つ。
 あなたたちは、私の半身だった、私は「変身ヒロインオタ」でもあり「ドルオタ」でもあった。それを心のどこかで拒否していたが、あなたたちがそれを気づかせてくれた。
 最後は「私たちの特撮道はこれからだ!」とジャンプしてエンド

 ――とまー、そんなオチに着地する可能性は、大変に低いでしょうが。
 母親が『獣将王』を見ていると思しきシーンから、一応の和解は描かれるのでしょうが、なおざりじゃなく、それなりに納得のできる着地をさせてくれることを望みます。そしてそれはまた、仲村さん自身の「ピンクとの和解」にもなるのでは、ないでしょうか。

※補遺※
 NHKと言えば『なつぞら』。
 作品としての出来はいいのでしょうが、「ああ、また女性が輝くためにオタクがダシですか」とため息が出る作品です。これ、キャラ商品でチップスが出てますよね。
 もう一つ。本当に偶然なのですが、『腐女子、うっかりゲイに告(コク)る』みたいの、最終回だけ観ちゃいました。何でもこれ、原作漫画は『彼女が好きなものはホモであって僕ではない』というタイトルで、作為的な改題に眩暈が止まりません。で、高校生くらいの男の子がオッサン相手に性関係を持っているという、伊藤文学もニッコリの仕様。
 最終シーンで主人公が大学の登校初日でゲイだとカムアウトすると暗示してのクロージング(そして、回想シーンとしてちらっと入るのですが、ヒロインの腐女子が全校集会みたいので私は腐女子ですとカムアウトするシーン)も嘔吐必至のキモさ。
 で、この番組の直後に番宣が入ったのですが、それがまた、「女が陸上で大活躍、これからはこのジャンルにも女性が進出する!」というもの。
 もう、NHKには一切のコンテンツ制作から手を引いて欲しいですね。

フェミナチガガガ(その2)

2019-06-22 16:49:32 | アニメ・コミック・ゲーム


 こんばんは、先日、特撮オタク仲間と飲んでいて『トクサツガガガ』の話になり、「女性の特撮ファンは我々以上に大変ですよねえ」などと言われ、軟弱にも適当に調子をあわせてしまった兵頭新児です。
(『トクサツガガガ』的イントロ)
 いや、だらしないとお思いかもしれませんが、別段そこまで深いつきあいのあるわけでもない相手です。まるで仲村さんが職場では特撮オタクである自分を必死になって隠しているように、こちらとしては自説を隠すしかないのです。仲村さんが自分が隠れオタであることを正当化するため、ヒーローが周囲の安全のために自分の正体を隠していることを引きあいに出していましたが、その時の仲村さんの気持ちがわかったことでした、マル。
 終わってしまいました。
 もう少し続けましょう。
 前回記事では、ドラマ版の『トクサツガガガ』について述べました。そこでは「原作はさほどムカつかなかった記憶があるので、NHKがフェミのテキストとして改悪しちゃったんじゃないか」とでもいったまとめ方をしておきました。まあ、原作については記憶が曖昧なまま批判しても……という気持ちが手伝ったせいもありますが。
 しかし、仮にですが、ドラマ版が原作に忠実だったとしたら、それはそれでNHKへの冤罪になってしまいます。そんなわけで原作を通読しようと思い立ちました。
 もう一つ、前回記事に添える画像を探していて、原作漫画の表紙の画像を見た時、「随分と険しい顔のヒロインだなあ」という印象を持ちました。今回掲げた、この絵ですね。美人を描けないのか、美人を敢えて外しているのか、或いは「ヒーローっぽい、勇ましい顔」を描こうとしてこうなっているのか。裏腹に、ドラマ版ではどうしても美人の女優さんが主演することにならざるを得ません。前回のトップ画像と今回の画像を並べると、やはりそこは一目瞭然ですよね。そうした「計算外の、何とはなしにそうなった」部分で作品のムードに違いが出ている可能性もあるよなと。
 そんなことも念頭に置きながら再読を始めたのですが……すんません、やっぱりムカつきましたw
 まあ、そういう次第なので、ファンの方は以降、お読みになりませんよう。
 また、ネタバレもガンガンしていきますので、そちらの方もご了承ください。

 ●ウソマツ作戦第一号

 ――というわけで、今回は見出しタイトルあり。それも特撮作品サブタイトルのもじりというありがち企画。しかし考えると『ガガガ』はここまで特撮リスペクトしておきながら、サブタイトルだけは普通なんですよね(まあ、特撮サブタイトルったって70年代東映風、円谷風、戦隊風とそれぞれ全然違いますしね)。
 それはともかくとして、まずは本作の基本ラインをご紹介しましょう。
 上に、表紙の仲村さんの表情が険しい、と書きました。しかしその第1巻の表紙をめくってみるとこの仲村さん、冒頭から美人……というか柔らかな表情で登場して、同僚たちと会話を交わします。「仲村さん、今日こそ飲み会行きましょうよ」「ごめ~ん」「デートかしら」。
 あ~あ、って感じですねw
 もちろん、「デートどころではない、実は特オタで、番組を観たくて早く帰宅しているのであった」とひっくり返すための演出ではあります。
 しかしその後も弁当を作るのが上手くて同僚から「女子力高い」と羨望の目で見られるとか、そんなハナシの連続。しかし本人はどこ吹く風で「なんで君たちの話は着地点が常に女子力なの!?」
 また、小野田君という後輩の男の子に憧れられている描写も鉄板で入ります。仲村さんの言葉に一喜一憂する小野田君だが、仲村さんは特撮のことを考えているだけ、という。
 あ~あ、って感じですねw
 ドラマ版で目立っていたチャラ男も登場しますが、比率的に逆という感じで、こちらの方が目立っています。
 他にも「任侠さん」(前回、「おもちゃ屋」と書きましたが、「お菓子屋」だそうです)やネパール料理店のネパール人など、仲村さん、やたらと男性を怒鳴りつけたり、しばいたりします
 実のところ、後々オタク友だちとつるむことが増えてからは「喪女」的な描写も入るのですが、とにもかくにも初期には男女問わず、誰もに愛される仲村さん、という描写が多く、いかにも嘘松です。

 同僚たちにカラオケに誘われ、一般の歌を全く知らない仲村さんが進退極まり、特撮ソングを歌う、といったストーリーも描かれます。「子供の頃見てた」から知っているのだと言い訳しつつ、あまりテンション高く歌わないように注意、英語の部分が変に上手く歌えるのも不自然なので濁し気味に……あ~面倒くさい! それなら歌わなきゃいいじゃん!!
 ぼくがあまりにこうしたことに無頓着だから、ことさらに違和を感じるのかも知れませんが、こういうの、「オタクあるある」なんですかね。確かに、「一般人に対してはまずはジブリアニメの話題で攻めろ」的なネタは、ぼくが前回言及したような「オタクネタ」の漫画などでもよくあるのですが、仲村さんの話はやたら細かいだけで「あるある」という気にさせてくれないんですよね(それを言えばそもそも、この作品に出て来る「特撮あるある」はあんまり頷けないものが多いんですが)。
 とにかく自意識がひたすらに肥大化しているこの仲村さん、あんまり彼女になって欲しいとか友だちになりたいとか、思えない。逆に言えば萌え漫画に出て来るオタク女子キャラは、そうしたテンパり具合に愛嬌があるから可愛いのですが、それはやはりそうした自意識、虚栄心に対する冷静な視点が担保されているからでしょう。つまり「オタクあるある」にしても、自意識の中にずっぽりハマり込んでいる(これは女性の描く漫画の特徴であり、魅力にもなり得るのですが)がため、見ていて退いてしまうわけですね。
 ただし、前回書いたドラマ版の、残業をやらされ愚痴を垂れる話、原作ではさほどおかしな話ではありませんでした。台風のため電車が止まり、帰宅困難に。そこで同僚と歩きながら、「早く帰りたい理由は人それぞれ」と語る話で、一応納得のいくものになっています。

 ●あっ! ゴジラも戦隊も私ごとになった!!

 さて、しかし同僚のOLが、イケメンが新人時代に出ていたからと特撮番組に興味を持つ話もあります(この下りは、ドラマでもありました)。その同僚に、仲村さんは実に熱心に「布教」しようとします。ところがそんな「イケメン好きな異民族」は「変身して以降のシーンは飛ばした」と邪気なく言い、がっくり来る仲村さん、それでも布教をあきらめません。
 しかし、何でそうまで熱心なのか、ぼくにはさっぱりわかりません。この「布教」自体、オタク用語としては一般的ですが(つっても女性がもっぱら使っている気がしますが)、正直、ぼくにはピンと来ない概念です。
 巻を重ねると、吉田さんという女性が登場します。彼女は年上で、言わば仲村さんの先輩特オタとも呼ぶべき存在なのですが、この同僚を仲間に引き入れるのに、いちいち吉田さんの指示を仰ぎ(職場は全然違うのに!)二人で「○○さんは眼鏡男子萌えだから眼鏡男子の出て来る作品を……」など実に熱心に計画しあいます。しかし、何でそこまで情熱を注ぐんでしょう。まあ、「男女ジェンダーの違い」と「ぼく個人の性格」が重なり、ことさらに違和を感じるのでしょうが……。
 本作は性質上、「劇中劇」が大量に登場します。一番目立っているのが「戦隊シリーズ」を元ネタにした『獣将王』*1。上の友だち作りのエピソードが延々、『獣将王』と並行して描かれるのです。
 この『トクサツガガガ』を「どんな作品か」について一言で説明せよと言われたら、「私ごとのこもごもを特撮作品に準える話」とでもいうことになるでしょうか。例えば(以下は、記憶で書くので実際の作品とは違うかもしれませんが、あくまで「例えば」ということでご理解ください)、同僚に「特撮なんて興味がない」と言われてがっかりした仲村さん、というシーンに続いて、獣将王が一匹狼の戦士に共闘を呼びかけるシーンが描かれ、「心を込めて訴えれば、相手も心を開いてくれるはずだ」と語らせるなど。
 そう、人間関係のこもごもがテーマのため、獣将王はひたすら仲間同士の人間関係にばかり思い悩んでいます。たまには「正義のために」とか「平和を守る」とか言ってください。いえ、近年の作と考えればこんなものでしょうが。
 そして初期巻以降、このパターンが確立、定着してしまいます。
 しかし、どうもこの方法論(日常と特撮作品のワンシーン、ないしは特撮の制作現場でのエピソードを対照させる)、しばしばうまく行っていません。
 例えば6巻にあったのは「会社の同僚みんなでバーベキューを計画するが、買い物の分担ができておらず、野菜や酒が足りないと揉める、しかし特撮作品も常にトラブルに見舞われつつ現実に対応して完成させるものだと思い直し、何か、バーベキューを楽しむ」という話。
 何だそりゃ。
 7巻でも「縁日の迷子をよかれと思い肩車して父との約束の場所を捜す。しかしそれは子供の視点を奪うことで、かえって子供は迷ってしまった」というエピソードに、「巨大ロボなどを見上げる演出で、複数人の場合、同じ対象物を設定するとかえって不自然なので適当にそれぞれが視線をずらす」という特撮演出の蘊蓄が絡めて語られます。つまり一人はロボの頭部を、一人は全身を、一人は腕を見ているといった想定をして撮影した方がリアルだという話ですね。しかしこれは「子供視点で見ろ」という今回のテーマと全く噛みあってません。
 敢えて擁護すればこれ、週刊連載であり、お話を作るのも大変なんでしょうが、だったら素直に続き物にした方がいい気がします。
 それと、これは本当に余談ですが、本作ではキャラクターが自己主張する時、妙なパフォーマンスをする、という決めパターンがあります。と書いてもよくわからないでしょうが、例えば(以下は、記憶で書くので実際の作品とは違うかもしれませんが、あくまで「例えば」ということでご理解ください)、同僚に特撮のDVDをいろいろと貸してあげたのに迷惑がられ、がっかりした仲村さん、ファミレスで吉田さんに愚痴っていると、吉田さんはいきなり大量のメニューを注文し出す。慌てて止めると、「そういうことよ。いきなり観賞しきれない量のコンテンツを押しつけられても困るでしょ?」と説く。何か、このパターンがやたら多くて、奇妙です。もう、このパターンだけ独立させて漫画にしちゃった方がいいんではと思うくらい。『価値観の実演押し売りをする吉田さん』とか。あ、お断りしますとこのタイトル、『からかい上手の高木さん』とかああいうののイメージです。
 あ、アレですかね、『覇悪怒組』の魔天郎のパロディですかね(適当)。

*1 「ジュウショウワン」と呼びます。何で「王」だけ中国語読みなのか。『ジュウショウオー』でいいのでは。明らかに戦隊なのですが、正式タイトルは『獅風怒闘獣将王』。『獅風戦隊ジュウショウジャー』でいいじゃん。

 ●怪異! フェミ女

 本エントリのタイトル(「フェミナチガガガ」)、言うまでもなく本作に対する「特撮について語ってなどいない、フェミニズムについて語る作品だ」といった揶揄を意図したものなのですが、では仲村さんはフェミニストなのでしょうか? 或いは、作者は? ぼくがフライングで「フェミ」と呼びつけているだけの可能性はないか? そこを本項では検討してみたいと思います。

 前回に言及した、「女性の特撮愛好」を「ランドセルの色の選択」に準えて語るエピソード、原作の1巻にもありました。例のマクドで特撮フィギュアを欲しがる小さな女の子のお話ですね。
 ここで、仲村さんは黒いランドセルの欲しい子だったとのエピソードが語られます(ドラマでもこれがあったかどうかは失念)。これはどう見てもジェンダーフリーの影響があるように思えるのですが、どういうわけか冒頭でまずラベンダー色のランドセルを背負っている子供が出てきて、同僚が「今の子は選択肢があっていいよね」と言うのに対し、仲村さんは疑問を呈するというシーンがあり、今一意図が読めません。
 しかし、いずれにせよいつも言うように「女の子が黒を選ぶと叩かれる」との「一般論」とは裏腹に「女の子の黒を選ぶと大仰に称揚される」、そして「男の子が赤を選ぶのはよいことと口先では言われるが、実際には叩かれる」というのが世の実情。実のところ女性にだけ選択肢が用意されているという現実を、こうした作劇は全く見ないままになされているわけです。
 そして5巻では、さらに奇矯な主張がなされます。「任侠さん」の店の常連である勝気な少女(未就学児童)が出てくるのですが、その子にピンクの服を見せびらかされた仲村さんは、彼女を泣かせてしまいます!! 何だそりゃ!? 一応、仲直りする、謝るという展開ではあるんですが、何なんだ、この女。
 仲村さんは、自らをピンクアレルギーと称しています。何でも「ピンクは好きだが、ピンクを押しつける世間が許せぬ」のだそうです。何だそりゃ!?
 言うまでもないことですが、「ピンク」とは女性性の象徴そのものであり、ここには仲村さんの、女性性に対する実に面倒くさいアンビヴァレントな感情が如実に表れています。前回申し上げたように、本作では仲村さんのお母さんが「女性性」を押しつける世間の象徴として登場します。母親の押しつけてくる可愛らしい服が嫌で仕方がない仲村さん、といった描写が、繰り返し繰り返しなされます。しかし、「ピンクは好きだけど、押しつけられたくない」のであれば「単に、自分でピンクの服を買って着ればいい」はずではないでしょうか。ぶっちゃけ、「押しつけられる」のが嫌だというのは嘘で、「好きだということを見抜かれるのが嫌」というのが本当のところでしょう*2。そこに横たわっているのは専ら、仲村さん(というか作者)自身の「自分とピンク(=女性性)について逡巡し続ける自意識」ではないでしょうか。
 いささか余談ですが、こうして書いていくと、「モモレンジャー」をふと、想起しますよね。「ピンク」という女性性を武器にしたからこそ、特撮番組という男社会の中で輝くことのできた、女児にも大いに支持されたキャラクターのことを。『獣将王』にもヒロインはいますが、イメージカラーはイエロー。もっとも、これは単純に獣将王が三人組のチームだから、ということもあるかもしれません。また、1988年の『超獣戦隊ライブマン』で「紅一点」が「ブルードルフィン」という青の戦士となった辺りから、「戦隊のヒロインはピンク」というお約束も揺らぎ出しました。作者はその後の世代で、あまりモモレンジャーには思い入れもないということもありましょう。

*2 今回は詳述する暇がありませんが、「黒いランドセルを選ぶと文句を言われる」「人にピンクを押しつけられる」という女性たちの物言い、実は「痴漢冤罪」と構造が全く同じで、かなりの比率で「彼女ら自身の内面の声の外在化」であるように思います。
「痴漢」が往々にして不在であることが想像されるように、「彼女の黒いランドセルに文句をつけた人」も「ピンクを押しつけた人」も非実在である割合がかなり高い、と思われるのです。


 さらにさらに余談ですが、もう一つ。本作には『ラブキュート』という『プリキュア』をイメージした女児向けの少女物アニメも登場します。12巻ではドラマ版でもクライマックスとなっていた母親との対決シーンが描かれるのですが、ここで母親に気持ちを理解してもらえなかった仲村さんはふと、『ラブキュート』に思い至るのです。『プリキュア』同様にいくつもシリーズが作られている『ラブキュート』、初代作は濃い目のカラーリングだったのが、今はピンクが多用されている。これは『プリキュア』初代作では黒と白という少女物らしからぬイメージカラーが使われていたのが、すぐに原色を多用するようになったという事情が元ネタになっています。それを想起して仲村さんは「どうしてみんなの努力がうまく行かなかいのだ?」と自問するのです!!「みんな」って、誰だよ、「みんな」って!?
 つまり、自分の(フェミニンなものよりも特撮ヒーローが好きだという)気持ちが母親に通じなかったことを、「白黒のプリキュアが女児に受け容れられなかったこと」と等価の現象として、仲村さんは引きあいに出しているのです。
 確かに、初代の『プリキュア』は変身シーンもメタリックに輝くというおよそ女の子向けらしからぬもの(これも次回作以降はひらひらのフリルをまとう、流れるような髪がセットされる、唇にルージュが引かれるといったガーリッシュな変身シーンに取って代わられます)で、アクションも『セーラームーン』と打って変わって肉弾戦でした。即ち、初期『プリキュア』は明らかにフェミニズム的意識を持って制作され、しかしそれは女児に受け容れられず、路線変更した。それを、仲村さんは忸怩たる思いで想起していたのです*3
 長くなってしまいましたが、ともあれ仲村さんはまさに初代『プリキュア』同様、フェミニズム的価値観を内面化しているのです。

*3 ただ、この辺のこと、ぼくは折に触れ言及していましたが、ぼく以外にこういうことを言っている人って初めて見た気がします。或いは結構言われてることなんですかね?


 さて、長くなりましたが5巻のエピソードに戻りましょう。「ピンクを押しつけてくる世間への怨嗟」はただちに「特撮好きと言うと、イケメン俳優が好きなんだろうと決めつけてくる世間への怨嗟」へと直結していき、「じゃあカピパラ好きはカピパラと結婚したいと思っているのか」、などとわけのわからない逆切れへとつながっていきます。カピパラと結婚式を挙げている男の絵が描かれ、脇に小さく「そういう人もいるかもしれないけど」などと書き添える、「ダイバーシティへの配慮」もなかなかに味わい深い名シーンです。しかし、カピパラ好き(のほとんど)はカピパラに性欲を覚えていないのに対し、イケメン好きは性欲由来なのだから、そんな細かい「言い訳」をされても、とこちらからは思えてしまいます。
 これはまた、仲村さんの「オタ友」である北代さんのエピソードでも描かれる「言い訳」です。
 前回も書いたように、「ブスで愛想の悪い、ドルオタ北代さん」というこのキャラそのものが、ぼくの目からは詐術に見えます。つまり、作者は「イケメン好き」という要素を自分から分離して脇役に担当させることで、自分のアイデンティティを守っているわけですね。また一方、この北代さんの不愛想さは当初「敵」として登場してくるという作劇上の理由もある一方、やはり「イケメン好き」という心理をガードする役割をも、果たしています。萌えアニメに出てくる腐女子キャラはイケメンを見るやキャーキャーはしゃぎ、そこが可愛いのですが、作者としてはそうしたキャラは、(北代さんの子分という形でまあ、そういうキャラも出て来るのですが)描きたくない。
「可愛くなりたくない(=ピンクを着ることで、自らの女性性を直視したくない)」というのが、作者の中にある一貫した心理というわけですね。
 2巻では、以前いた会社でオタバレして、大変な目に遭ったという、北代さんの過去が描かれます。とはいっても、会社の連中は「気にしないよ」「(君の推しである)その子と俺と、どっちがイケメン?」などかなり鷹揚に接しているのですが(だって、言っては悪いけどブスにそんなことを言ってくる男の子ってすごくいい子ですよね)、北代さんは一人で苦しんでいます。いえ、もっとも、「この子アイドルに夢中で、三十過ぎて独身で」とか言われるといった、それなりに同情できるシーンもあるんですが。で、北代さんの言うことには、アイドルを彼氏や旦那にしたいわけではないのに、「訂正しても訂正してもわかってはもらえない」。
 何というか、笑ってしまいました。
 ぶっちゃけ、アイドルを彼氏や旦那にしたい(というような、大それた)願望を、彼女は持っていないでしょう。しかしアイドルのことを、イケメンだから好き、男性だから好きなのは自明で、正直そこにどれほどの差があるのかとしか、こちらからは思えない。単純に彼女は「そんな自分の欲求を直視したくない」だけなのです。もっとも、彼女のオタバレは期せずしてのもの(自らカムアウトしたわけではない)で、そこは気の毒ですが、何というか、その自意識って何、としか言いようがありません。
 腐女子は「私は受けではなく責めに感情移入しているのだ」と聞かれてもいないのにムキになって強調し、男性向けの美少女物のエロを描く女流作家さんは「私は美少女キャラのようになりたいのではなく責めとして美少女キャラに萌えているのだ」と聞かれてもいないのにムキになって強調する傾向にありますが、北代さんのモノローグを見た後ではどうでしょう、果たしてそれを素直に受け取る気になれるでしょうか。
 NHKでLGBTの特集をやった際、「友人にLGBTであると告白されたら、『LGBTについて勉強するよ』と返事せねばならない」といった主張がなされていたそうです。いえ、これはネットで騒がれたのを見聞しただけなので、或いはニュアンスとしては違ったのかもしれませんが、ただ、これはLGBT界隈の傲慢さを、よく表していると思います。確かに「お前ホモかよ。俺、そのケないからセクハラすんなよな」などと言うのはよくないでしょう(フェミニストがそうしたことを日常茶飯事で繰り返しているということは、ひとまず置くとして……)。しかし悪いけど他人様のセクシュアリティに対して、別にこちらは興味もないし、いちいちおベンキョして差し上げる義理はありません。
 それと同様に、北代さんのことを「理解」して差し上げる義理は、周囲にはないのです。
 何しろ14巻では、チャラ男が北代さんに嫌われているのではと涙ぐむシーンが出てきたりします。初期編における仲村さんの描写もそうでしたが、本作を読んでいると、「どんだけ周囲が自分をチヤホヤしてくれるのが当たり前と思ってんの、あんたら?」という疑問が幾度も口を吐いて出てきます。
 てか、北代さんがこんなことを言うのであれば、何故、仲村さんは「訂正しても訂正しても周りの連中は『リュウソウジャー』と『ゴレンジャー』の区別がつかない」と嘆かないのでしょうか?
 やはり、それは本作が『トクサツガガガ』などではなく『フェミナチガガガ』だったからだ、以外の理由を、ぼくは思いつくことができません。
 即ち、『リュウソウジャー』と『ゴレンジャー』の区別がつかないのは「当たり前」だけれども、ドルオタ女子の微妙な心理は忖度して差し上げてご理解申し上げなければならない、というのが作者の道徳律なのです。

 後は小ネタめいてきますが、細々としたものをちょっと。
 9巻ではホラー映画が扱われます。ホラー映画の作者は変人だとの偏見に憤り、何を言うかと思えば仲村さん、「親が手料理を作るべきという風潮はけしからん」と言い出します。
 え? 何の関係があるの?
 北代さんも「作ったものからその作者の人格を推し量るなど失礼」と説くのですが、それと手料理と何の関係が? わかりません。作ったものから内面を推し量るのはできないんだから、「子供への愛情の籠もった手料理は無意味」ということらしいです。
 また、11巻では三分間クッキングでまともに料理法を見せないことを、特撮番組の省略法に準え(例に出されるのが、ロケ地の都合上、瞬間的にキャラクターが長距離を移動していることがあるとか、投げたものが常識ばなれした遠くまで届いてしまうとかそういうことであり、省略でも何でもない気がするんですが)いきなり「子供のための手料理の手を抜いてもいい」という結論に行く。何だそりゃ!?
 他にも5巻では電車の中で仲村さんが席を譲っただけの年寄りに「(仲よさげだが実は)旦那をブッ殺してやろうと思うことなど日常だ」などと語られたり、どうにも妙な描写が思い出したように入るのが本作。ちな、これは「特撮番組は子供を暴力的にする」との説に対して、「ストレスを解消することでむしろ温和にしている」との結論を導く話です。
 以上は正直、意図が読めなかったり話の大筋とは関係なかったりもするのですが、油断していると家庭や男性への憎悪がちらちらと覗け、背筋が寒くなる思いです。
 8巻では吉田さんがカメラの勉強をしていて大変、それを家族に「好きでやってるんだから文句を言うな」と言われへこんだというエピソードに特撮スタッフ(と、高校球児)の「好きでやっているけど大変」な場面が並行して描写されます。
 な~んだ、そりゃ!?
「カメラの勉強が大変」でヒーローの勇気に倣って頑張った、ならわかるけど、「家族に嫌味を言われた」って……。
 12巻では同僚のリア充女子が結婚、出産するというお話。寿退社なのですが、何故か彼女はおむずがり。どういうことなのか、どうにも理解できません。身重なので気遣われるが、それが重圧だってこと? いきなり会社を辞められることに会社の連中が迷惑がってるのが不快ってこと? なら事前に知らせればいいんじゃないの? とにかくこの女、周囲に迷惑がられるのが嫌だと言っているだけです。
 もっとも、北代さんはその周囲、お偉いさんに賛意を示すんですが。
 話としてはヒーローショーのアテンド(ヒーローのスーツアクターは視界などが極めて悪いため、サポート役のお姉さんがつくのが通例です)にかこつけ、「支えあって生きよう」みたいなことを言って終わり。この女が、まさに身重を押して無理をしているのに対し、「支えあおう」と言っているのならわかるのですが、頼むのでそうしたことにヒーローをダシにしないでくれとしか。

 仲村さんは――そして作者は、ことさらにフェミニズムを学んだことはないかもしれません。しかしそのメンタリティは極めてフェミニズムに親和的であるとしか、言いようがありません。本作の根っこにあるのは仲村さんというヒロインの、自らの女性性に対する屈折。仮に、作者がフェミ知識ゼロだとしても、そうした人々は容易にフェミニストたちの用意した「女性は社会進出すべき」「晩婚化は世の中の流れ」といった罠に乗っかってしまうわけです。見ていくと確かに、NHKによる「改悪」と思しき箇所もちらほらあるものの、やはり原作からして十二分に、そうした要素があるとしか思えないんですね。
 ――以上、気づけばいつも以上の文字数を消費してしまいました。メインともいえる「母との葛藤」についてまだ語っていないのですが、次回、それをじっくりと見てから最終結論を出すことにしましょう。

フェミナチガガガ

2019-06-01 00:57:40 | アニメ・コミック・ゲーム


 本作については今までも時々、口に出すことがあったかと思います。
 もちろん、あまりいい評価をしてはいませんでした。
 記憶で書きますが、当ブログでの本作について語る時の論調は、「オタク女子」ものコンテンツのワンオブゼムとして、という感じだったでしょうか。
 十年ほど前まで、オタクコンテンツにおいてはラノベなどを中心にオタクそのものを主人公にした作品、オタク業界をネタにした作品が隆盛を誇っていました。恐らく元祖と呼べるのは『らき☆すた』でしょうか(『げんしけん』は何か違うんだよなあ)。
 正直、それらにぼくはそこまでの評価を与えていませんが(これは先行して『こみっくパーティ』という大傑作が存在していたせいもありましょうが)、『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』についてはかなり高い評価を与えていました。オタクのルサンチマンに切り込んだ形で描写していたところを、評価していたのです*1
『俺妹』も『らき☆すた』も、そして『私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!』も、主人公は少女とされていました。その「萌えキャラ」に読者の男の子たちが自己投影するというのが(他の多くの萌え作品同様)この種の作品の構造といえました。
 しかし近年、その流れは途絶えてしまった。
 目下、『わたモテ』といえば『私がモテてどうすんだ』だし、『うまるちゃん』、『オタクに恋は難しい』など、「オタクネタ」のコンテンツは専ら女性向けのものに限られるようになってしまいました。これは『電車男』以降、ちょっとだけオタクがポップなものになるや『801ちゃん』が出てきたことと「完全に一致」している、忸怩たる思いだ、そんなふうに言ってきたかと思います。
 ――さて、そんな流れの果てに登場したのが本作。
 実のところディープな特オタ、ぼくが注目しているような人までもが本作を絶賛しているのですが、正直ぼくはあまり感心しない。単行本を数年前、四、五巻辺りまで読んだのですが、本作からは作者の「特オタである自分」が好きで好きでたまらないという感情はひしひしと伝わってくるものの、特撮への愛はあんまり感じることが、少なくともぼくにはできなかったからです。
 母親との確執、ドルオタ女子との確執のエピソードは、そんな中では読ませるものになっていましたが、それは皮肉にも話題が特撮から離れていたからこそという面があったように思います。

*1 そして、そうした作品に対して半狂乱で怒りをぶつけていたのが「自分をオタクだと思い込んでいる一般リベ」であることは、「俺の妹がこんなに可愛いわけがない」などで採り挙げました。

 ……そんなことをつらつら考えている折に、NHKでのドラマ化の報。もうNHKで、しかも実写化というだけで嫌な予感しかせず、観ることもなかったのですが、先日の一挙全話放送でついつい重い腰を上げてしまいました。宮内洋のサプライズゲストが気になっていたという理由もありますが。
 そういうわけでドラマを観た感想に加え、数年前に読んだ原作のおぼろげな記憶を動員し、少し語ってみることにしましょう。
 まずは、どうにも観ていて目に留まるのが会社のチャラ男。原作にも出てきていたのでしょうが、あまり印象にない。それがドラマ版ではやたらと前面に出ているのです(或いは、忘れているだけで原作でも目立っていたキャラなのかもしれませんが……)。まあ、男が見て楽しいものではありませんが、こうした描写は平成ライダーでも目にします。専ら女性に向けて作られている地上波ドラマでは、恐らくこういうのが必ず入るお約束になっているのでしょう。
 当ブログをお読みの方には説明の用もありませんよね。要するにこれ、『ワカコ酒』です。「特撮ヒーローに夢中なワタシ、男なんか目じゃない、しかし男はうるさく言い寄ってくるのよねー、ぷしゅー」。
 つまりこれは由美かおるの入浴シーンの女向け版であり、これをさらに「こじらせる」とフェミニズムという名の性犯罪冤罪となる。もう、詳しく述べるまでもなく、みなさんおわかりのことでしょう。

 さらに言えば上に書いたドルオタ女子の話、これもそうした女性向けならではの仕掛けがふんだんに施されています。まずはこのドルオタ女子(北代さん)は当初、大変に陰湿で不愛想なキャラとして登場してきます。そして、そこで主人公(仲村さん)はどうやら北代さんに「オープンオタ」であると思い込まれているらしきことがわかる。
 オープンオタって言葉もあまり聞きませんが、要するに隠れオタと相対する概念。北代さんも仲村さんも両者ともに隠れオタであるにもかかわらず、北代さんは誤解して仲村さんを敵視してくる。隠れオタにとってオープンオタは腹立たしい存在なのだから……いえ、本当にそういう「オタクあるある」があるのかどうかぼくにはわかりませんが、そして本作でもそれほどその辺りの心理が説明されるわけではありませんが、観ていくとそういうことなのだとしか解釈しようがありません。
 ちな、原作ではここで「オープンオタな仲村さん」を仲村さん本人がイメージするシーンが入ります。会社の同僚に「特撮グッズ買っちゃった」などと明るく話している自分自身の像。何というか、敢えて言えばぼくがこの作品(原作)を読んでいて唯一「萌え」を感じた、キャラクターを可愛らしいと思えるシーンでした。
 すなわち、「理想像」としての「オープンオタク」というものがあり、仲村さん自身もそれではないのだけれども、そういう存在と思い込まれて「嫉妬」されている。北代さんはぶっちゃけ不愛想な上にブスとして描かれ、しかし同じ隠れオタといえ、まだしも堂々としている仲村さんの方が格は上である。そうした構造が設定されているわけです。
 何しろ、(まあ、お約束としかいいようがないことですが)仲村さんは会社ではチャラ男が象徴するように男女共に慕われる、「イけている」存在。「リア充」と「オタク」という選択肢を二つ用意された上で、敢えてオタクを選び、「飲み会ウザい」と困っている(まさにチャラ男に対する反応と同じですね)存在なのです。
 観ていて、どうにも受け容れにくい描写がありました。会社である人物がミスをして、仕事が増える。「みんなで残業して頑張ろうぜ」と音頭を取るのが例のチャラ男。ところがこのチャラ男は「同調圧力をみなに強いる悪」として描かれるのです。「こいつが余計なことを言わなければ、とっとと帰れたのに」と。
 しかし、いかに自分の責任ではないとはいえ、みんなでことに当たるのは当たり前なんじゃないのかなあ。「好きな番組をリアタイで観たい、しかしそんなオタク的価値観はみんなにはわかってはもらえない」という葛藤が、ここでは語られるし、まあ気持ちはわかるのですが。
 これ、仮にですが仲村さんが「会社ではぼっち」として描かれていれば、心情としては同意できるんですよね。それをなまじ「できるOL」のように描くから観ていて納得しがたくなる。とたんに話が嘘松になってしまうわけです
 そう、本作は「特撮愛」を語る作品などでは決してなく、「オタクとしての肩身の狭さ」へと仮託することで、「女性の虚栄心を巡る諸相」を描く作品であったと言うことができるのです。
 そもそも「オープンオタク」という用語自体がそうですが、他にも本作では「ドルオタ向けグッズには(アニメグッズなどと違い)一見してアイドルグッズとはわからないものがある、それは独自のロゴマークのあしらわれたものであり、これを持っていれば周囲にはドルオタとはバレずに、ファン同士でだけわかりあえるサインとしての役割を果たしてくれる」といった描写があり(すんません、専門用語があったはずですが、忘れました)、それ自体は面白いのですが、女性独特の文化だよなあ、と思わずにはおれません。
 この北代さん編、そうはいっても不愛想な北代さんが次第に心を開いていく過程など、観ていて楽しめる部分も大いにあったのですが、意地悪な見方をしてしまえば「ブス」「不愛想」「(モテないが故に)イケメンに夢中」というネガティビティをドルオタ女子へと「押しつけた」構造になっているんですね。
 事実、本作にはスーツを着たヒーローが縦横無尽に登場するのですが、「変身前」のキャラの露出は驚くほど少ないのです。仲村さんが男性に恋をした……と思わせておいて、その男性はヒーロー役者にそっくりであったがため気になっていただけ、ちょっとお芝居をしてもらったらバイバイ、といったエピソードもありました。普通に考えれば好きな声優さんにそっくりの女性がいたら、彼女になって欲しいですよねえ。
 つまり、作者の中に「イケメン好きだと思われたくない」との過度の恐れがあり、それがまた作品を嘘松にしている、とぼくには思われるのです。
 ちな、「十年前のオタクネタコンテンツ」では、「拙者は萌えアニメのヒロインに萌えているのではござらん! この萌えアニメを、萌え目当てではなくSF作品として視聴している変わり者なのでござるよ!」と主張するような、まさに「予め、仲村さんを、風刺した」キャラが溢れていたのですが*2

*2 厳密にいえば上のキャラは『ダンガンロンパ』の山田君で、作品自体がオタクネタというわけではありませんが、ともあれそうしたキャラが当時は大勢いたということは、「今までの「オタク論」は過去のものと化す? 『ダンガンロンパ』の先進性に学べ!」参照。


 ――ここまでお読みいただいていかがお感じでしょう。
 リベラル君がもし本稿を読んでいたら、発狂寸前かもしれませんね。
「特撮を男のものであるというマッチョで偏見に満ちた意見を持つ、老害オタクが何か言っているぞ!!」と、こちらの一言も言っていないことを文面に見て取り、内心ではチンポ騎士として振る舞えることに随喜の涙を迸らせながら、加野瀬未友に倣ってデマを流し*3、叩いてやれと思っているところかもしれません。
 例えばですが上の「仲村さん、変身前のイケメンに関心を示さない問題」について、口角泡を飛ばして主張したい方がいらっしゃるかもしれません。「それはつまり、仲村さんが(そして絶対的に作者が)そうしたものに関心がないからだ、お前のような老害オタクがオタク女子への偏見でモノを見ているのだ!!」。
 はいはい、そう興奮なさらないでください(幻聴へのツッコミです)。
 いや、そりゃ、そうかもしれません。
 事実、仲村さんが特オタとバレそうになったら「言い訳として」、主演のイケメンのファンだと「ウソをつく」シーンもあります。
 しかし、(作者がどんな方なのかは存じ上げませんし、ドラマの登場人物の設定に文句をつけても仕方がないものの)実際の特撮オタク女子について考えれば、それはやはり一般的な傾向とは呼べないのではないでしょうか。
 しかしその設定が受け容れられ、ドラマ化までしてしまう辺りに、やはりぼくは女性の虚栄心を感じないわけにはいかないのです。

*3 当ブログの愛読者の方はもう周知でしょうが、「オタク女子を政治利用しようとする一般リベ」によってそういうことが行われたことがあったのです。詳しくは「『ガンダム』ファンの女子は少ない気がすると言っただけで政治的論争に組み込まれちゃった件」、「「ホモソーシャル」というヘンな概念にしがみつく人たち (兵頭新児)」など。リベラルというのが、ただ「デマで政敵を貶める」ためだけにこの世に存在している人たちであるということが、これでわかりますね。

 北代さんに比べれば重要度はぐっと減るのですが、本作には「任侠さん」というキャラが登場します。オタク陣営では唯一の男性。あだ名の通り強面なのだけれども、実は特オタ。それどころか萌えオタでもある……いえ、「魔女っ子アニメ」のファン、という言い方をすべきでしょうか。『ラブキュート』という『プリキュア』みたいなアニメのファンなのです。子供の頃から同作を熱心に見ており、母親は「犯罪者になるんじゃないか」と心配していた(というシビアな話が、過去のこととして、かなりあっさりと描かれる)。
 おわかりでしょうか。
 ぼくには、オタク女子の苦悩というものは実感できません。腐女子には腐女子なりの苦悩があるでしょう。しかし、この「任侠さん」の登場は明らかにしてしまっているのです。
 やはり、オタクとしての苦悩は、男の方がキツいに決まってるよな、ということを。
 そうじゃないとおっしゃるのであれば、では、アニメを観たくらいで犯罪者予備軍扱いを受けたオタク女子というのは、どれだけいらっしゃるのでしょうか?
 しかし、にもかかわらず、この任侠さんは、言うまでもなくこの種の話にありがちなように、そしてまたおもちゃ屋さんという設定が象徴的なように、描かれ方としては仲村さんに対する援助者という役割であり、(上のようなエピソードが挟まれるにもかかわらず)さほど内面が描かれることはありません。彼のオタク性も肯定的に描かれてはいるものの、作品全体を見るとあくまで「特撮女子」のオマケという感じ。
 一昔……というか、三十年くらい前の少女漫画には時々、「化け物のようなオカマ」が登場していました。作品からはそうした「オカマ」を「女性」として認めているのだぞと著者のダイバーシティへの認識の深さを誇り、押しつけてくるオーラが濃厚に漂っていますが、しかしその「オカマ」の化け物のようなヴィジュアルは著者の「しかしヒロイン(ないし、実際の女性)よりは格下」との無意識下のヒエラルキーを見る者に直感的に伝えてきます。そう、それはまさにヤクザみたいなツラの「クセに」美少女アニメが好きな「任侠さん」のご先祖様です。
 もう一つ言うと劇中に登場する『ラブキュート』のイラスト、本当に慣れない絵師さんが無理に描いたであろうあんまりな出来で、何というか、本作のスタッフたちの「萌え? 知るかそんなモン!!」という力強い叫びが聞こえてくるようです。

 さて、本作を最も特徴づけているのは、仲村さんの母親の存在でしょう。最終二話はこの母親との対立がメインで描かれます。
 仲村さんは子供の頃から筋金入りの特オタで、ヒーローのおもちゃを欲しがっていたが、お母さんは可愛いものが好きで、『ラブキュート』など「女の子らしい」おもちゃを買わせようとしていた。そしてある時とうとう、お母さんは彼女の大事にしていた『テレビキッズ』(『テレビマガジン』のような子供向けテレビ情報誌)を焼いてしまう。それ以降、仲村さんは特撮好きな心を封印してしまった。
 高校卒業と同時に特撮熱が再燃、想像するに大学で一人暮らしを始めたのでしょう、今に至るまで特撮グッズで埋まった自室へと、お母さんを入れないようにしていたのですが、そこを合鍵で部屋に潜入、今だ彼女が特オタであることを知ってしまう……というのがクライマックスの展開です(そもそもそんな母親に合鍵なんか持たすなよ!!)。
 それを知り、仲村さんはお母さんへと「縁を切る!!」と激昂。その時、「お兄ちゃんも私もお母さんのことが嫌いだった」と言ってしまったがため、お母さんはお兄さんのところへも「今まで無理をさせていてすまなかった、これからは正月も無理に帰郷しなくていい」といった旨のメールを送ってくるのですが、それを知った仲村さんは「同情を買おうとするいつもの手だ」などと言うのです(「同情」だったか、正確な言い回しは失念しましたが)。
 もちろん、母親をよく知る仲村さんの見立てなのだから、正しいのかもしれません。口先で謝罪しつつ、自分が被害者の側に立とうとするテクニックは確かに、女性の得意とするところです。しかし――そうしたテクニックのことを、学術用語で「女災」というのですが、それにしても、その「女災」理論の提唱者たるぼくの目から見ても――仲村さんはキツいなあ、と思います。もちろん大事な本を焼く、勝手に部屋に入るといった一線を越えた行動をしているのは、常にお母さんの方とは言え(一体に、女性向けの作品ではこうした「女災」を鋭く認識し、しかし専ら自分に降りかかる厄災として描く傾向があるような気がします。即ち、彼女らは男性が鈍感であることとは対照的にこの世に「女災」というものがあることを敏感に察知しつつ、それが「女性ジェンダー」にヒモ付いたものであることについては、理解が及んでいない……ぼくにはそう思われるのです)。
 しかし、果たしてこの母親の描かれ方は適切なのでしょうか。
 このお母さん、「あなたはいつまでも、周囲のオタ友が結婚して、一人になってもオタク活動を続ける気なのか」などと言います。ですが、女性はまだしも、そうしたことを続けられることが許された側でしょう。ただ、理解のある旦那を見つけるか、或いは一人で稼いでいけばいいだけの話なのですから。お母さんの言葉、特オタなんぞやっていたら出会いもなく、結婚してよりは自由になるカネもなくなる、男性に向けられたものでなければ説得力がないのです。
 本作ではひたすらに「特撮女子」が理解されえない存在として描かれます。
 イメージソング(なのか? OPテーマじゃないようだし)はゴールデンボンバー。「この世でたとえ一人になろうとも」「思いを秘めて生きてきた」といった歌詞が並び、本作のテーマを実に見事に歌い上げています*4
 そして、その「特撮オタクを理解しない世間」を象徴するのが、母親というわけなのですね。
 本作の本質は、何でしょうか。
 冒頭で挙げた『俺妹』のように「オタク男子の不遇感に寄り添い、共感してくれるオタク女子の話」でしょうか。或いはそのようにとれる人もいるのかもしれません。それはそれで、幸福なことでしょう
 しかし今まで見てきたように、少なくとも本作が描いているのは徹底的に女社会の話(友人関係であり、母子関係)。少女漫画というのは――これは、少女漫画ヒョーロンなどを読んでの受け売りですが――とにもかくにも母親との葛藤をテーマにしてきたといいます。本作もその意味で、頭のてっぺんから足の爪先まで、「少女漫画」なのですね。
 まあ、それ自体は悪いことではありません(困ったことに、大変残念なことに、本作の掲載誌は少女漫画誌ではないのですが……)。しかし、本書を読んで感じるのは、母親に「社会」を体現させ、その前でただひたすらでんぐり返って「おもちゃ買って」と泣きじゃくっている小さな女の子の姿です。
 象徴的なシーンがあります。
 マクドで小さな女の子が特撮ヒーローのグッズを欲しがり、母親に『ラブキュート』を押しつけられるのを見て、仲村さんは幼い頃の自分の姿を見て取り、そして、大変ご丁寧なことに、彼女が「黒いランドセル」を背負っている姿を夢想するのです。「男も女も関係ない、自分の好きな色を選べばいい」というわけですね。
 あ~あ、という感じです。
 しかし……ぼくとしては大変に言いにくいことなのですが、果たして本作でメインテーマとなっている「特撮オタクである女子の、被差別性」というのは「本物」なのでしょうか。
「女の子が仮面ライダーを好きになったっていいじゃないか」的な話題、togetterでも思い出したように繰り返し繰り返し語られます。しかしこの種の「ジェンダーフリー」論って「女性の男性化」のみが専らいいことのように語られ(男性性が好ましいという価値観と、しかし男性そのものは悪であるとの価値観が前提され)、裏腹に男性の女性化はより以上に困難で、蔑視される対象であるにもかかわらず、軽く口先でだけ称揚するのみというトリプルスタンダードそのもの。
 本作もまた、それが前提されています。だからこそ先にも描いたように、ぼくには本作が、「オタク男子」を押し退けて、「オタク女子」ばかりが自分語りをしている作品のように思えるのです。
 それはまさに、フェミニズムが「被差別者」たらんとしてひたすらに「女性差別」の捏造を続けているのと同様に。
 例えば、作者が個人的にこのような「特撮女子」としての「差別」を受けた経験があるのかもしれない。母親は、或いは非常にキツい人だったのかもしれない。しかしいずれにせよ「それが普遍的だから、特撮女子全般が被差別者だから」本作は受け容れられたのでしょうか。むしろ、「被差別者になりたいというニーズを満たす」コンテンツだから受け容れられたのではないでしょうか。それは女性向けのポルノに男性向け以上にレイプがあふれていることと「完全に一致」しています。
 え~と、今さら遅いかもしれませんが、まさに上に「ポルノ」と書いたように、本作が女性向けとして発表されていれば、ぼくは文句を言う気は全くありません。しかし先に述べたように本作は少女漫画誌やレディースコミック誌に連載されている作品ではありませんでした。いえ、それでもNHKによってドラマ化されなければ、文句をつけてはいなかったはずです(事実、数年前に読んだ時に、文句をつけることはしませんでした)。
 冒頭で書いたように、ぼくは原作漫画については数年前、四巻辺りまでを読んだだけです。そこでは母親はとある一話に登場しているだけで、ここまでの修羅場を演じるものではありませんでした。これももちろん、ぼくが見ていない先の話でドラマ同様の展開が描かれている可能性は十二分にありますが、ともあれこのドラマ版によってぼくの中の本作に対する印象は大きく変わってしまったのです。
 このドラマ版は、「NHKが、手頃な原作を見つけ出して来て、恣意的な脚色を施してフェミ布教のパンフレットに仕立て上げた」ものに、ぼくには見えてしまいました。
 仲村さんは「女の幸せは結婚だ」と主張するお母さんに「今は30になって独身なのも普通だ」と反論します。ここも、フェミニズムのテキストを見るかのようであると同時に、女性の虚栄心(恋愛や結婚に興味がないわけではないのに、それへの欲望をまさに北代さんの時と同様に外部化している様)が如実に現れています。
 女性作家が「何か、思ったことを描いた漫画」と、NHKの悪魔合体。
 それが本作だったのではないでしょうか。

*4 正直、80年代の特撮冬の時代を生きたオタクは比喩でもなんでもなく「この世で一人になろうとも」という思いを持っていました。しかし、平成ライダーが既に二十作を迎えた現代において、この言葉はリアリティがあるのでしょうか。こんな年寄りの愚痴みたいなことは言いたくないのですが、本当なんだからしょうがありません。

 まとめましょう。
 漫画とは、「脳内に浮かんでいる曖昧模糊とした何かを紙の上に再現する表現」です。
 否、当初は「大人が、子供に(或いは大人に)描いてあげる表現」であり、ある種の抑制があったはずですが、社会というものとのしがらみを持たない女の子たちが、まずそれを始めたのです。一時期のフェミニストはやたらと少女漫画を称揚し、またサブカル文化人もそれに続きました。少女漫画とはまさに、女性の内面というものをそのまま外部世界へと持ち出してきた、「暗黒大陸の発見」にも等しい表現だったからです。
 そして、女の子たちに比べれば「自由」というものを与えられていなかった男の子たちも、80年代になると彼女らに倣うだけの豊かさを享受できるようになり、「脳内に浮かんでいる曖昧模糊とした何かを紙の上に再現」し始めました。それは「ロリコン漫画」と呼ばれ、「萌え」を産みだしたのです。
 オタク文化は「常に第三者であり続けた男性が、ようやっと自分自身について語り出した初の表現」でした。
 だからこそ、ラノベなどでオタクネタが流行しました。
 しかし、オタクの上の世代の連中であるサブカルは、オタク(男子)への深い深い憎悪を秘め、そうした「オタクネタ」を快く思いませんでした。
 いえ、これは純粋に市場性の問題だろうと言いたい人がいるかもしれません。しかしそうしたサブカル的な感性は、市場を握る送り手側にも色濃く影響を与え、オタクの自己表現を阻んできたのです。
 そうこうするうち、そうしたオタクネタは女子に取られてしまいました。
 千載一遇のチャンスを、ぼくたちは、またしても、サブカル君に阻まれ、女子に取られてしまったのです。
 あ、ちなみに宮内洋の出演シーンですが、十秒ほどでしたわ