兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

私の居場所はどこにあるの?

2012-04-24 01:34:42 | アニメ・コミック・ゲーム

 しかし、あの頃のおじさんたちの「少女漫画」への欲情ぶりは何だったのだろうか、と思います。
 あの頃、というのは80年代後半から90年代の初期にかけて。いわゆるサブカルチャーが時代を映す鏡のように語られ、とは言え、オタク文化を語れる連中が文化人になるにはまだ時が熟しておらず、サブカル論壇みたいな連中が仕方なく(すみません、仕方なかったわけではないですね)少女漫画を持ち上げておりました。二十四年組だの竹宮恵子だの萩尾望都だの紡木たくだの。いえ、ぼくはそれらの作家さんの漫画は読んだことがないのですが、こうして名前を書き連ねるだけで何だか懐かしくなってきます。何しろ『ナディア』の頃の庵野秀明監督もインタビューに答え、「少女漫画はアニメを超えている」などと言っていたのです。その後、ご本人が『エヴァ』で少女漫画を凌駕してしまうのは大変な皮肉ですが。
 ですが、90年代も半ばになると宮台真司センセイが颯爽と登場。文化人センセイはブルセラ女子高生、援交女子高生へと欲情の対象を変えるのでした。
 そりゃまあ、女房と畳は新しい方がいいですからのう、げっへっへ


 本書はそんな、宮台と碇のWシンジが世を席巻していた98年に出版されました。そう、『紅一点論』と同じ年です。
『紅一点論』については、今まで三つのエントリを費やして詳述してきました。が、それを敢えて一言でまとめれば
「古い!」と言うことに尽きると思います。
『私の居場所はどこにあるの?』についてもこれからいくつかのエントリを費やして詳述していくことになるかと思います。が、それを敢えて一言でまとめれば
「古い!」と言うことに尽きることになりそうです。
 その一部は前回のエントリでも引用しましたね。本書には


 しかし、ひょっとしたら愛の幻想は、男が女を支配するための、最大の装置なのかもしれない。


 といったまさに時代錯誤なフレーズが並んでいるのですから、びっくりです。てか、そういう考えの人たちに少子化対策を任せている国政の方もびっくりです。
 時代錯誤、と言えばフェミニストのお家芸、家庭解体論も忘れてはいません。
 子供じみて親としての役割の果たせない母親、裏腹にしっかり者の娘(息子)といったキャラクターの登場する漫画(80年代後半辺り、確かに流行った時期があるんだ、この種の話が)を称揚し、


 彼女たちは世間の母親役という役割に拘泥せずに、正直に生きているだけなのだ。


 とエビス顔。あんまり正直に生きられては子供の方が正常な子供時代を送れなくなり、迷惑するのではないか、と思うのですが、そうした反論に対してはアリエスを持ち出して


「子供時代」などというものの存在は、たかだかここ二、三百年ぐらいのことにすぎない


 などと一刀両断です。
 典型的な「歴史がないからチャラにしてもいいんだ」論、「つくられた系」ですね(この種の論法への批判は「友達がいないということ
を参照してください)。
 そしてついに師匠は


 ここで、われわれは思い出す。すぐれた家族小説というものは、真にすぐれた少年少女小説とされてきたものは、すべて、いわゆる「欠損家庭」を舞台にしていたのではなかったか。


 などと言い出します。そんなことを言われたって、物語の主人公が何らかの「欠如」を抱えているのは当たり前の話です。そもそもウラジミール・ブロップによればあらゆる物語はまずその発端に「欠如」を抱えることから始まり、主人公はその「欠如」を「回復」させることを動機に冒険を始め云々……なんてムツカシイことは、ぼくなんかよりも師匠の方がよく知っているはずなのですが(知らなかったらすみません)。そこを「欠損家族の肯定」が物語のテーマであるように書くなんて、『ヤマト』の第一話を見て「放射能汚染は素晴らしい」と言ってんのといっしょです。
(ここで師匠は『トムソーヤ』とか『若草物語』とかいった古典的なお話を持ち出してくるけれども、そもそもそんな昔のお話で欠損家族が一般的なこととして描かれるのは当たり前でしょう。例えば『若草』ではお父さんが南北戦争に従軍して「欠損」しているわけなのですから)


 少女マンガは期せずして、「家族」を再定義してしまった。

 

 家族は定義し直されなくてはならない。


 と繰り返すに至っては、「あんまり漫画を真に受けない方がいいと思いますよ」とご忠告差し上げたくなってきます。一説によればオタクはメディアリテラシーの達人であり、現実と虚構の海を巧みに泳ぐ術に長けているそうですが、世間知らずのインテリさんは現実と虚構とを混同してしまいがちなようです。


 ともあれこうした作品を読んでいると、「変形家族」を選びとる勇気のようなものが湧いてくる。


 そうですかw
 ぼくは町田ひらく先生の漫画を読んでいると、「幼女とのセックス」を選びとる
勇気のようなものが湧いてくるのですがw


『ベルばら』について書かれている部分は全然わかりません。
 オスカルさんの初恋の相手は貴族のフェルゼンさんなのだそうですが、運命の恋人(実際に性関係を持つ)アンドレさんは身分が低かったそうです。オスカルさんはフェルゼンさんのためには女装をするのだけれども、アンドレさんの前ではついぞ一度も女装をしなかったそうです。
 これをもって、師匠は


「だるまおとし理論」(男は男だというだけで上げ底されているから、学歴など外的条件が自分と同じ相手を選ぶとけっして対等になれない。対等になろうと思ったら自分より外的条件の悪い男を選ぶこと)を実証するようで興味深い。


 とおっしゃっています。
 意味わかります? オスカルが「男装」することで身分の高い男の恋人になれた、というのであれば、或いは身分の低いオスカルと関わるためには「女装」の要があったというのであれば「だるまおとし理論」も成り立つと思うのですが、見る限り『ベルばら』は「だるまおとし理論」とは逆を行っています。
 てかそもそも「だるまおとし理論」自体が意味不明です。本当に「男は男だというだけで上げ底されている」のであれば、女性は「自分より外的条件の良い男を選」ばなければ、釣りあわないはずです。例えば、テストで80点を取った男子は(師匠の理論によれば)女子より「上げ底」されているのだから、80点の女子より実際には頭が悪いはずでしょう。
女ぎらい』でも上野師匠が「東電OL殺人事件」の被害者のOLについて、「相手の男を値踏みしていたのだ」との珍説を支持していましたが、どうにもフェミニストというのは往々にして、こうした「ジャンケンで負けたので意地になってグーはパーよりも強いんだと主張する」レベルの、幼稚園児のようなロジックを平然と並べてくるので愕然となります。


 さて、時代錯誤と言えば「女性の社会進出」についての筆致もそうです――と、こう書いただけで賢明なみなさまには想像がつくでしょうが、要は「差別されている」女が職場で頑張ります的な漫画を紹介してご満悦、といったことですね。
 むろんそうした漫画が出てくること自体は別に悪いことではないのですが、均等法が通った時期であるとか、時代を考えれば必然でもあります。そうした時代の趨勢に漫画が影響を受けることは当たり前と言えば当たり前であり、それを師匠がことさら大袈裟に称揚していると言うだけの話なのですね。
 要するに藤本師匠の「少女漫画評」というのは乱暴にまとめれば、少女漫画の中でおねーちゃんのえっちなハダカが描かれれば「女性の性の解放」と喜び、おねーちゃんが企業社会で「男並に」バリバリ働くとまた「女性の社会進出」と喜ぶ、といったものです。
 考えてみれば斎藤師匠の「アニメ評」というのは乱暴にまとめれば、アニメの中でおねーちゃんのえっちなハダカが描かれれば「女性差別」と怒り狂い、おねーちゃんが「男並に」バリバリ働くとまた「男の性役割をなぞっているだけ」と怒り狂う、といったものでした。
 まあ、斎藤師匠より藤本師匠の方が生きてて楽しそうだということは言えるけれども、斎藤師匠の方はまずアニメを「否定すべき悪しき文化」と見ていた、翻えって藤本師匠の方はまず少女漫画を「称揚すべき素晴らしい文化」と見ている、という前提があり、両者ともフェミニズムを「何があろうとも絶対疑ってはならぬ真理」としていることを考えると、二人の本質は、大して変わらない気もします*。つまり、「結論ありき」であるという。
 何しろ、藤本師匠もヒロインが仕事よりも男を選ぶオチのつく漫画には、やはり怒り狂ってみせるのですから。
 かと思いきや、この時期に多かった、男性誌におけるキャリア志向のOLが「男に負けたくない」と叫ぶタイプの漫画にも師匠はお冠で、


 それはあまりにもステレオタイプ化された、旧態依然としたイメージではないのか。


 と批判します。それはフェミニストたちがあまりにもステレオタイプ化された、旧態依然とした主張を続けてきたことの「成果」だと思うのですが。
 師匠はそうした気に入らない漫画作品に対しては、


 編集者の側に、どうせ女の子はまともに仕事をする気なんかないのだからこのぐらいのイメージでお茶を濁しておこう、という侮りの気持ちがあるからではないだろうか。


 と断じます。優れた漫画は漫画家の手柄、悪しき漫画の責は編集者に取らせる、というのが師匠のスタンスのようです。
 ぼくは『紅一点論』をまるっきり『レディース・コミックの女性学』と同じ論理展開であると批判しましたが、藤本師匠もまた、ここで全く同じ手口を使っています。
 フェミニズム自体が「
何か、男が悪い」というグローバルセオリー(何でも説明できてしまう万能理論)で全てを片付けてしまう単なる陰謀論に過ぎない以上、「同じ手口」はいかなる場合にも、いつまでも通用してしまうのですね。
 しかしこんなバカ女が平然と仕事を続けている限り、「女はダメだ」と言われ続けると思います……あ、いえ、今どきそんな発言をしたものはセクハラで
死刑ですか。
 さて、フェミニストによる少女漫画の「政治利用」となるとどうしてもBLを外すわけにはいきません。が、それについては長くなってしまいますので、次回の講釈で……。


*これはまた、わかばっち師匠的なポルノをラディカルに否定する層もポルノを擁護してみせる層も共にフェミニストであることを連想させます。



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紅一点論(その2)

2012-04-17 21:24:59 | アニメ・コミック・ゲーム

 さて、早いもので当ブログも誕生してからもう三年目です。
 記事数もこれで何と60を数えました。
 いい加減、見にくくなっていたのでちょっとブログデザインを変えました。それほど大した変更でもないのですが、「カテゴリー」を少し細分化してみました。
 左袖の「カテゴリー」欄にあるタグ、或いは各記事の最後に書かれたタグ(「レビュー」、「アニメ・コミック・ゲーム」、「ホモソーシャル」とか書かれている部分)をクリックしていただければ関連記事をまとめて読むことができるようにしてみたわけです。
 まだ構築中なので完全ではないのですが、今週中くらいにやっておきますので、興味のあるタグがありましたら、クリックしてみてください。


 さて、しつこく『紅一点論』についてです。
 前回、ぼくは本書を論じていて、何度か藤本由香里師匠の名前を挙げました。

 その部分を少し引用すると、


 そう、本書についてはオタク側からも「確かにアニメについての分析には荒さが残るが、そこに家父長制の罠を見て取ろうとした視点は正しい」的な擁護がなされているはずです(藤本由香里師匠辺り、そういうことを言ってるでしょう、知らんけど)。


 しかしぼくのそうした「予言」は本になる予定がないのですが、藤本由香里師匠のような、オタクの中でフェミニズム寄りの人々はきっと既に自著の中で以下のようなことを言っていると思います。


 といった感じです。

「知らんけど」「きっと」と、いずれも憶測を元にして言いがかりをつけているのだから非道いものですが、まあご本人もこんなところは見てないでしょうから、問題なしとしておきましょう。
 ぼくがここでわざわざ藤本師匠の名前を持ち出したのは、彼女がオタク系フェミニストであり、彼女は(少なくとも)『セラムン』以降の魔法少女たち、即ち「戦闘美少女()」たちのことは肯定的に評価しているはずなのではないか、と考えてのことです。
 しかし、ならばぼくが「藤本師匠が『紅一点論』を書いていれば、オタク文化を肯定するマシなものになっていたのに」という感想を抱いているのかというと、話はそう単純でもありません。
「それならばそれで、オタク的には正しくとも、フェミニズム的には矛盾を来してしまう、しかしそれでも彼女は平然と
ダブルスタンダードを押し通しそうだ、その点ではまだしも斉藤師匠の方がマシだ」という話なわけです。
『紅一点論』出版当時の状況を見てみると案の定、藤本師匠が書評を書いていました。
 1998年8月23日付の『信濃毎日新聞』の書評コーナーに掲載されたものです*1。
 ちょっと眺めてみることにしましょう。


 笑ってしまうほど明快な分析が並ぶ。


 そのどちらも(引用者註・女児向けのものも男児向けのものも、アニメのヒロインは)結局は、おじさんの目から見た理想の女性像にすぎないことを、鮮やかに喝破する。


 あまりに的確すぎて力が抜けてしまう。


 ありゃりゃ、盲目的な大絶賛ですね。
 こうして見ると、或いは藤本師匠は『セーラームーン』の原作者が女性だということも、ご存じないのかも知れません*2。
 なるほど、藤本師匠はアニメのことなどよく知らず、斉藤師匠の尻馬に乗っかってオタク文化をバッシングするオタクの敵なのだな。
 そう思いながら読み進めていくと、彼女は斉藤師匠が魔法少女にとっての変身は「化粧、パワーアップではなくメイクアップのこと」と評したのに


 その通り!


 と大はしゃぎした上で、


 男の子にとって勝利とは、文字通り力で相手を圧倒すること。しかし女の子にとっての勝利とは、自分の魅力で相手を引きつけ、相手の心の扉を開かせることなのだ。


 とヒートアップしていきます。
 おわかりでしょうか。
「その通り!」とびっくりマークまでつけて頷いておいて、その後に続く言葉が斎藤師匠の主張とまるっきり食い違っています。
 斉藤師匠が魔法少女を「男に媚びるために化粧しているのだ」とネガティブに捉えているのを、藤本師匠は(恐らく)意図的に誤読して、自説に引き寄せ、ポジティブに解釈しているのです。何故メイクアップが相手の心の扉を開かせることなのかはよくわかりませんが*3。
 女の性的価値を「男に与えられた屈辱的なもの」ではなく「自律的な、男を操る肯定的なもの」とするのは、彼女のかねてからの主張のようです。それを、書評に見せかけてさりげなく紛れ込ませているわけです。
 しかしそれは、魔法少女たちを「恋愛ボケの色ボケ」と涙目で罵っていた斎藤師匠とは、真っ向から対立する考えなのではないでしょうか。
 藤本師匠は「お義理で、心ならずも意に反して本書を誉めた」のでしょうか。

 いや……まあ……ワタシも強引に懇願され、本意ではない書評をやったことがありますし、あんまり師匠を悪く言えた義理ではないのですが……。
 いえ、ですが上にも挙げた筆致を見る限り、藤本師匠も「お義理で、心ならずも誉めた」とはとても思えません。やはり斎藤師匠の(男社会を攻撃する)筆致に快哉を叫んだことは、ウソではないのでしょう。想像ですが、「何か、男を叩いているから、ということで共感してしまい、そこまで考えが及んでいない」のではないでしょうか。
 こうした
互いの立場を超えて結ばれる女性同士の美しい連帯を、ムツカシイ言葉で「レズビアン共同体」と呼びます。
 男同士の連帯はむろん、その全てが「ホモソーシャル」という悪しき唾棄すべきものであります。
 そしてまたBLはむろん、全てそうした「悪しき男たちの関係性」を「批評」する目的で描かれた、極めて高度なコンテンツであります。
 東浩紀センセイというエラい学者の言っていたことなのだから、絶対に間違いありません


 ――だがちょっと待って欲しい。「女性の性的価値」、即ちエロとは女にとって「男を操る肯定的なもの」であるというのは、ごく普通の女性にとってはわかりきった常識だろう。とは言え、フェミニストもそれくらいのことはわかるまでになったのだから、大変な進歩なのではないだろうか?


 むろん、その通りです。


 ――ならば、それを理解した藤本師匠は我々の味方なのではないだろうか? 事実、彼女は児ポ法反対運動の旗手ではないか。


 まあ、その通りなのですが。
 しかしそれで感心していてはいけません。「女の色気」をポジティブに解釈してしまったが最後、フェミニズムは元々根拠のなかったものとして瓦解してしまうはずです。
「ポルノは女性差別」などといったロジックが成り立たなくなるのは自明ですが、上にあるように藤本師匠はポルノを認める立場なのだからそこは一応、不問でいいかと思います。
 しかし師匠の処女作である少女漫画評論『私の居場所はどこにあるの?』を読んでみると、その第一節のタイトルは「恋愛という罠」。そこには


 しかし、ひょっとしたら愛の幻想は、男が女を支配するための、最大の装置なのかもしれない。


 などという大仰な(それこそ、田嶋陽子センセイが言うような)フレーズが並んでいます。恋愛を否定するフェミニストが「女の性的価値」だけ認めるというのもおかしな話です。それとも性的価値という武器をもって、男を一方的に搾取し尽くすというのが彼女のビジョンなのでしょうか(もうとっくにそんな社会、実現していると思いますけれどもね)。
 結局、上野千鶴子師匠が「表現の自由」という理念に基づいて児ポ法に反対してみせつつ、舌の根も乾かぬうちに「買春はレイプの一種」などと絶叫するのと同じ矛盾に、彼女もまた陥っているのではないかと、ぼくには思えてならないのです。
 そんなダブルスタンダードに気づかず、男性たちをダブルバインド(相矛盾する二種類のメッセージで相手を混乱させること)的状況下に置いてきたのが90年代型フェミニストでした。ぼくがこうした人々に嫌悪を感じ、斉藤師匠などの古いタイプのフェミニストをまだしもましと考えるのは、その知的不誠実さが許せないからです。


*1『岩手日報』、『北國新聞』、『中國新聞』にも同じ記事が掲載されているはずですが、そっちは未確認です。
*2ただし、アニメの『セラムン』は原作者の稚拙な作をアニメスタッフが(おじさん、ではなく若い男の子だったのですが)ちゃんとした見れるものに仕上げたという側面も強かったようです。いえ、こんなこと、彼女はきっとぼくよりよっぽどよくご存じだと思うのですが。
*3セーラームーンが敵を「赦し」、「癒す」戦士であったことを説明しようとしたのだとは思います。他人様の著作のレビューのフリをして自己主張を紛れ込ませようとしたがため、このような不自然な書き方になってしまっているわけです。まあ、文字数の少ない記事なので、説明不足になってしまった面もありましょうが。


 今回、藤本師匠の言動を追っていて、ぼくはシェリル・ノームを連想しました。
 彼女はアニメ『マクロスF』のセカンドヒロインで、劇中ではファーストヒロインのランカ・リーと、主人公の早乙女アルトを巡って恋の鞘当てを繰り広げます。
 ランカは純真無垢で無邪気で愛らしいアイドル歌手。その歌も衣装も恐らく、処女性が重視された80年代アイドルが強く意識されています。
 シェリルはそれと全てにおいて対照的なプロフェッショナルな、歌一筋に生きるトップシンガーです。性格的にも高慢で毒舌家だが、実はその内面に寂しさ、繊細さを抱えているという王道の設定。注目すべきはそのステージ衣装も歌も大変にエロいことです。彼女は女性の支持を多く集めていたようで、化粧品のPRキャラクターとして使われたことがあり、これはアニメキャラとしては極めて異例なことでした(後、電車とかで異様にOLさんとかがシェリルの本持ってるの見るんだよなあ)。
 しかし考えるとこうしたダブルヒロイン制、それも可愛らしいヒロインと、キャリア志向のスーパーウーマンといった二本立てはここ三十年近く、定番化しているように思います。
 何せ『マクロス』のファーストシリーズが放映されたのがまさに三十年前、本書の出る十六年前の1982年。実はこの作品で既にダブルヒロイン制が敷かれ、小悪魔的な無邪気さを持つアイドル歌手リン・ミンメイ、普段はクールだが実は女性らしさを隠しているキャリアウーマン早瀬未沙という、まるっきり『マクロスF』を先取りした構造を持っていたことに愕然となります。いえ、というかむろん、『F』がファーストシリーズを踏襲しつつ、今風にリファインしているのですが(そしてこのファーストシリーズの二年後にはスーパー戦隊シリーズでも女性隊員二人体制が確立します)。
 が――上にシェリルが女性に受けたと紹介しましたが、この『マクロスF』を仮に女児に見せれば、女児が好むのは明らかに可愛らしいランカの方でしょう。そう、プリキュアもセーラームーンも女児の父親に向けて作られたわけでは
絶対になく、女児の受けを狙って作られたことからも理解できるように、女児は可愛らしい女の子のキャラクターを好むに決まっているのですから。
 ここまで来ると、もうおわかりになったのではないでしょうか。女性がランカ的な処女性を持ったキャラクターを恐ろしいほどに憎悪することも、みなさん経験的にご存じでしょう。しかしそれも「持てる者」への嫉妬であり、そうしたお局的女性が何かの加減でこうした処女的キャラにシンパサイズして、肩入れする場面もまた、往々にして目撃するところです。
 そう考えると、


 ランカ:男性向け
 シェリル:女性向け


 といった認識はあまり正確ではなく、厳密に言えば


 ランカ:女児、男性向け
 シェリル:ブス、ババア向け


 と考えるのが正しいかと思います。
 こうなると、斎藤師匠の情念も藤本師匠の考えも何となく仄見えてきたのではないでしょうか。
 ランカのような可愛らしい、処女性を持ったキャラクターは憎くてたまらない。しかし男性に対して常に優位に立っている(かのように、一見思える)シェリルであれば、自分の虚栄心を揺らがされることがなく、安心して自己投影ができる。
 が、しかし、シェリルも当然いざとなると弱さを見せるわけであり(シェリル贔屓の女性だってそこがいいわけでしょう)、そう考えるとシェリルとランカにそう大きな違いがあるとも思えません。ランカちゃんの「もう、アルト君なんか大っ嫌いなんだから!」といった可愛い嫉妬も(いや、そんなセリフはなかったと思いますが)シェリルの「アルトのクセに生意気よ!!」といった毒舌も、その本質はいっしょであることを、オタクは恐ろしく鋭い造語によって暴いてしまいました――そう、いずれも「ツンデレ」なのです。
 斎藤師匠のアニメ美少女に対する攻撃は嫉妬心による「ツン」的反応であり――そしてまた藤本師匠はアニメ美少女の中にシェリルのような「言い訳の施された」キャラクターを見出して、「デレ」ているのである、と*4。
 そう、「紅一点」論が通用するのは、今から三十年以上前という、遙かな昔の世界だけで、既に世の中は「紅二点」制へと移行していました。
 そしてその「紅二点」制は男性に向けたものでも女児に向けたものでもなく、専らブスとババアに向けてのものでした。フェミニズムのダブルバインドによって「可愛らしいお嫁さん」と「カッコいいキャリアウーマン」とに引き裂かれた女性自身の自己が、苦肉の策として生み出したもの、と考えてもいいかも知れません。
「紅二点」制自体はそれはそれで、別に否定するほどのことではありません。シェリルというキャラクターは大変に魅力的ですし、男の子側も「美少女キャラがもう一人増えた、わーい」と喜んでおけばいいのです。だが中には、ランカが憎いあまり、「ランカスレ」を荒らす輩もいるわけです。それはマナーとして感心できることではなく、こちらとしてはランカファンもシェリルファンも仲よくしろよ、と言いたいところです。
 斎藤師匠の著作は結局、「ランカの悪口を言うシェリル厨の言動」と考えると、ものすごくわかりやすいものになるのではないでしょうか。それは単にあなた自身が、「自らの中の女性性に対しての愛憎」によって独り相撲を取っているだけであって、公共性のある「正義」などでは全くないんだよ、と言わざるを、ここは得ません。
『紅一点論』のあとがきの最後にはこう書かれています。


 たくさんの男性と少しの女性でできた世界に鉄槌を!


 ぼくも、大いに賛成です。
 女性のマジョリティのメンタリティを全く反映していない、極めて偏向した思想を抱く少しの女性と、その女性たちのいびつな思想を鵜呑みにするあまりにもたくさんの男性でできた世界に、今こそぼくたちはランカちゃんの「愛の歌」を歌うことで鉄槌を下そうではありませんか。


 みんな抱きしめて! 銀河の果てまで!!


*4これはあくまで比喩的表現です。藤本師匠が果たしてシェリルが好きかどうかは、ぼくは知りません。上に書いた通り、女性は何かの加減でランカちゃんのファンにも、なり得るのですから。


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