兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

【反フェミはこれ一本でおk!】風流間唯人の女災対策的読書・第13回「モモレンジャー問題」【ゆっくり解説】

2020-09-26 20:44:38 | 動画のお報せ

【反フェミはこれ一本でおk!】風流間唯人の女災対策的読書・第13回「モモレンジャー問題」【ゆっくり解説】



さて、菅内閣の布陣が発表されましたが、女性閣僚が少なくて、モモレンジャーみたいでけしからんそうです。
 この種の話題には前提として「ジェンダーフリー」という価値観が横たわっていますが、それはそんなにも、素晴らしいものなのか。
 モモレンジャー問題について、考えてみましょう。

 正直、youtuberとして収入を得る、などは夢のまた夢の状況ですが、YOUTUBEの方は登録していただく、高評価ボタンを押していただく、コメントをつけていただくことで再生数が上がるようです。
 どうぞよろしくお願いいたします。

バックラッシュ! なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?(その2)(再)

2020-09-20 14:41:07 | 弱者男性


 ※この記事は、およそ16分で読めます※

 ここしばらく、続けて「SAVE JAMES」問題を扱っています。
 そんなこんなで、動画は見ていただけたかと思いますが……。

【反フェミはこれ一本でおk!】風流間唯人の女災対策的読書・第12回「フェミニストの母親が、息子のペニスを切除…!?」【ゆっくり解説】


 今回は――というか、これからしばらくは、前回に続いて「ジョン・マネー問題」の復習の意味で、かつてのニコブロの記事を再掲したいと思います。
 タイトルに(その2)とありますが、(その1)は本件と関連性が薄いため略しました。
 また、基本的にはかつての文章をそのまま持ってきていますが、前説など不要と思われる部分はカットしています。
 また、初出では「バイアス」を「ヴァイアス」表記に(格好いいと思って)していたのですが、それは不適切っぽいので直していますし、件のマネーの実験の被害者のフルネームはブレンダ・ライマーなのですが、「ライマー」をブレンダの改名後の名前だと思い込んで書いていたので(実際の改名後の名前はデービッド)その辺は訂正しています。
 ともあれもう十年以上前から、フェミニストは不誠実な振る舞いを繰り返していたと、ご理解いただければ幸いです。
 では、そういうことで……。

*     *     *



 というわけで今回は『バックラッシュ!』における小山エミ師匠の論文「「ブレンダと呼ばれた少年」をめぐるバックラッシュ言説の迷走」を中心に見て参りましょう(ただし、小山師匠のおっしゃってくださった彼女のブログに当たることは、今回はできませんでしたので、また次回に回すことにします)。
 また、結果的に小山師匠に対して批判的な内容になってしまっていますが、ご意見があれば、おっしゃっていただければ幸いです。

 さて、ここでの論点はマネーとフェミニズムの関係である、と言えます。
 ぼくは前回記事で、

 度々書くことなので繰り返しませんが、この時期のフェミニズムが危機に陥ったのは、一つには彼女らが大いに論拠にしていたジョン・マネーの「双子の症例」が捏造だと判明したからです。それによって、「ジェンダーアイデンティティ」が生後数年後に決定されるのだ、との仮説は崩れ去ってしまったのです。

 それにマネーの研究が捏造だとバレた時、フェミニストたちがまるで地震から逃げ出した時の東浩紀師匠並の俊敏さでマネーを否定していたのですから、やっぱり彼女らの事大主義は否定できないように思います(本書に収められた小山エミ師匠の文章もまた、そうしたものです)。


 と書きました。
 ここでモンダイとなるのは、マネーの学説のウソを暴いたノンフィクション、『ブレンダと呼ばれた少年』。
 かつて、事故によりペニスを失ってしまったブレンダ少年が、マネーの主張に従って女の子として育てられたことがありました。これを論拠に、「ぼくは男だ/わたしは女だ」というコアジェンダーアイデンティティ(性自認)は先天的なものではなく、後天的なものなのだ、と言われてきたのです(ちなみにこれは「双子の症例」と呼ばれます。一卵性双生児として生まれたブレンダ少年の弟の方は普通に男の子として育ったことが、余計に後天説の確からしさを裏付けている、とされたのです)。
 しかしそれは失敗に終わり、ブレンダ少年は誰に言われることもなく男としてのアイデンティティを獲得していたことが、このノンフィクションによって暴かれてしまったのです。つまり、コアジェンダーアイデンティティはやはり後天的なものではなく先天的なものだ、との可能性が高まったわけです。
 この『ブレンダ――』は出版後、『女災』よりも早く絶版になってしまったのですが、保守派たちの手により復刻されました。その時に、「解説」や「帯」などに政治的な(フェミ叩き的な)色彩をまとって登場してきたことが、フェミニストたちの逆鱗に触れたわけです。
 今回モンダイにする小山師匠の論文も、多くはこの復刻版における、八木秀次氏の「解説」への反論に割かれています。
 果たしてそうした小山師匠(や、他のフェミニストたち)の言に分があるかどうか、これから少し、詳しく見ていきましょう。

 八木氏は「解説」で多くのフェミニスト、そして彼女らの主張していたジェンダーフリーを批判しました。まとめサイト風に言えば

 【悲報】マネーの自作自演が判明
 フェミニスト論拠を失って涙目wwwwwwwwwwwww


 といった感じでしょうか。
 しかし小山師匠が言うには、

 しかし、こうした八木の批判は、大沢や船橋の主張を強引にすり替えて、マネーの理論に引きよせるというごまかしによって成り立っている。

 しかしすでに見てきたとおり、マネーの「双子の症例」に依拠した主張は、上野も大沢もいっさいしていない。


 とのことです。
 こうした「バックラッシュ派」の批判に対する小山師匠(や、他のフェミニストたち)の再反論は、まとめてしまえば

 フェミニズムはマネーを参照してなどいない。
 何となれば、マネーの主張は「コアジェンダーアイデンティティ(性自認)が後天的に決定される」というものであった。
 それは、我々の推進する(そして「バックラッシュ派」の批判する)ジェンダーフリーとは基本的に無関係である。

 といったものかと、ぼくには思われます。
 八木氏が批判した船橋邦子、大沢真理両師匠の発言はそれぞれ、

 今日では、生物的性別であるセックスが社会的性別であるジェンダーを決めるのではなく、社会的性別・ジェンダーが生物的性別・セックスを規定するのだと、女性学では言われています

 セックスが基礎でジェンダーがあるのではなくて、ジェンダーがまずあって、それがあいまいなセックスにまで二分法で規定的な力を与えている


 というものでした。
 しかしこれは小山師匠に言わせると、

 大沢・船橋が「ジェンダーがセックスを規定する」というとき、それはすなわち文化が言語をとおして、自然に存在する多様な性を「男/女」という二項に分節化(区分け、意味付け)しているということであり、「氏か育ちか」という古典的な議論における「育ち」が万能であるという説を主張しているわけではない。


 とのことです。
 何のことかわからない?
 実はぼくもよくわかりません。
 よくはわかりませんが、小山師匠のしているのはどうも、バトラーなどが比較的近年に唱え出した「ジェンダーはセックスに先行するよ」論に則った主張のように思われます。事実、この種の議論において、フェミニストは「マネーは古い、我々はもっと先を行っている」と言う傾向にあります。まとめサイト風に言えば

 【おまいら速報】ネトウヨが情弱と判明wwwwwwwwwwwww
 おわコンのマネーはフェミに相手にされずwwwwwwwwwwwww


 とでも言ったところでしょうか。
 さて、どちらが正しいのでしょう。
 まず、船橋、大沢両師匠についてですが、小山師匠の再反論はいかなるものなのでしょうか。
 彼女が論拠にしているとおぼしきバトラーの説はいささかエキセントリックで、保守派の「バカじゃねーの!?」といった批判を浴びてきました。が、実はこれについても本書の上野師匠インタビューにおいて説明がなされていて、

「セックスは、つねにすでにジェンダーだった」という、バトラーの発言をシンプルに、まとめると、(中略)言い換えれば、セックスの差違というものは、ジェンダーという表象を通じてでなければ認知されないということです。


 ということのようです。
 わかったようなわからないような理論ですが、コアジェンダーアイデンティティが先天的なものである以上、結局はジェンダーは先天的である、ただし彼女らが頻繁に持ち上げるインターセックス、トランスジェンダーといった「心と体の性が不一致」な人もいる、という程度のことでしかないように思います(とは言え、ぼくもバトラーについては知らないので、あくまで上野師匠の言葉だけで判断しています。以上の認識が全く違うというのであればご指摘ください)。
 フェミニスト側は「バックラッシュ派はコアジェンダーアイデンティティとジェンダーとを混同している」との批判をする人もおり、本書でもそうした論調が度々現れます。
 小山師匠は千田有紀師匠の

 わたしたちの身体であるセックスは、まるでコートラックにコートを掛けるように、ジェンダーを身に纏っていくのではないということである。(中略)むしろジェンダーを社会的・文化的に作られた差違と規定することによって、身体的差違が遡及的に「起源」として構築されていくことになる。


 との言葉を引用するのですが、ジェンダーとセックスのどっちを先に持ってこようが、いずれにせよ両者が不可分であることに違いはないでしょう。後半の文章は、言い換えれば

 わたしたちの心であるジェンダーは、まるでコートラックにコートを掛けるように、セックスを心に纏っていくのである。


 と言っているのといっしょなのですから。
 だからコアジェンダーアイデンティティが先天的であるとの、現時点での「正解」を前提する以上、こうした物言いは性同一性障害者など限られた人にしか、大きな意味を持ち得ないように思います(そしてまた保守派も、「オカマは逮捕せよ」とか言ったりはしないでしょう)。

 いきなりちゃぶ台をひっくり返すような言い方になり、恐縮ではありますが、実はぼくはマネーが正しいとされている頃から、「でも、関係ないじゃん」と思っていました。
 マネーの「性自認(コアジェンダーアイデンティティ)は後天」という学説が正しいとされていた頃、フェミニストたちはこれをもって「つまりジェンダーは完全に虚構、男らしさ/女らしさはフィクションなのだ」と主張していました。
 ぼくは、「でも、関係ないじゃん」と思っていました。
 マネーの説が正しいと仮定しても、それはジェンダーが「人間の発明品」である、という以上のことではありません。それは丁度、「衣服」が発明であるのと同様に。世の中には「だから衣服は邪悪なモノなのだ」として裸で生活することが望ましいとする人々もいますが、それは少数派で、普通の人は衣服が必要だからこそ発明されたことを知り、それを脱ぎ捨てようとはしないわけです。
 つまり、マネーの学説が正しい/間違っているという「事実」と、人はジェンダーに縛られるべきではないとの「意見」は元々始めから、全く別だったと言うことですね。フェミニストたちはマネーの学説が自分たちの「意見」を補強するものだと思っていて、一時期、論拠にしていたが、それが過ちだとわかり、それを打ち捨てながらも「意見」は保持している、というだけの話です。
 実はぼくは『ブレンダと呼ばれた少年』を読むまで、マネーを何とはなしにイデオロギー的なバイアスなどない「フラットな学者」だと思い込んでいました。そこを、フェミニストに「利用」されてしまった「善意の第三者」であると。まあ、悪の組織に娘を誘拐されて心ならずも協力してしまった哀れな「博士」みたいなモノだろうなと。
 実際にはむしろ彼はフェミニズムに心から染まり、偏向した思想から偏向した実験を行い、作戦が失敗するや大首領に処刑されてしまった哀れな「怪人」だったのですが。

 さて、我らが上野千鶴子師匠についてはどうでしょうか。
 八木氏が言うには、上野師匠は『ブレンダ――』の刊行後にもマネーを肯定した著作を出し、ダイアモンド氏(マネー氏のウソを暴いた学者)の顰蹙を買った、とのことです。

 これについてはマネーのうそを暴いた前出のミルトン・ダイアモンドが日本のメディアのインタビューに答えて「彼女(上野氏)は、全く学問的ではない。それがウソであることを明示した私の論文を知らないでいる。私は、その論文を一九九七年に書いた。その本(『差違の政治学』)を二〇〇二年に出したなら、五年間もの違いがある。全く、何の言い訳も成り立たない」「上野千鶴子氏は、自分の主義主張を喧伝するために、利用できることは何でも利用しようとしている。正直ではない」と痛烈に批判しているほどである。


 しかしこれに対して小山師匠は「まったく不当である」と怒ります。

 なぜなら、「差違の政治学」という論文で上野は、「双子の症例」に言及すらしておらず、マネーの「新生児の性自認は任意に変更可能」という理論に何ら依拠していないからだ。この論文において、上野はマネーの研究のまったく別の部分――性同一性障害についてのもの――を紹介しているにすぎない。


 このダイアモンド氏インタビューには後日談があります。小山師匠はご本人と連絡を取りあい、彼がインタビュアーに、上野師匠について知らないのをいいことに半ば誘導尋問的にコメントをさせられていたのだ、ということをつきとめました。ダイアモンド氏は上のインタビューを不服として、再掲載を不許可とし、またジェンダーフリーの考え方にも同意を示したと言います。

 【メシウマ速報】ネトウヨが頼みのダイアモンド氏にもふられてワロタwwwwwwwwwwwww

 といった感じでしょうか(ただし、そもそもジェンダーフリーという言葉は、アメリカではほとんど――全く、ではないことは小山師匠が明らかにしているのですが――使われてない言葉なんじゃないのか、という疑問は残りますが)。
 さて、それでは『差違の政治学』を紐解いてみましょう。
 確かに、上野師匠は「双子の症例」について言及はしていません。しかし見ていくと、

 その中でセックスとジェンダーのずれを問題化したのは、ジョン・マネーとパトリシア・タッカーの『性の署名』[Money&Tucker 1975=1979]である。ジョンズ・ホプキンズ大学の性診療の外来をうけもっていたふたりは、半陰陽や性転換希望者などの患者を相手にして、ジェンダーがセックスから独立していることをつきとめた。

「性自認」は二歳までの言語獲得期に形成される。ホルモンと同じく、この臨界期を過ぎるとその後は変化しない。

 マネーとタッカーの業績は、セックスとジェンダーのずれを指摘したにとどまらない。もっと重要なことに、かれらの仕事は、セックスがジェンダーを決定するという生物学的還元説を否定した。


 ………………どう見ても思いっきり、マネーを肯定してますよね
(ちなみにこうした上野師匠の発言は、八木氏もちゃんと引用しています)
 小山師匠は

 しかしすでに見てきたとおり、マネーの「双子の症例」に依拠した主張は、上野も大沢もいっさいしていない。


 と言いますが、それはちょっと通らないのではないでしょうか。
 掛谷英紀氏は『学問とは何か』の中でこの部分に触れ、タッカーはジャーナリストであって外来を受け持ったりはしていない、というツッコミと共に、上野師匠の態度について

 2002年の時点で*この記載が学会を代表する著者による著書に含まれていることは、その学会自体が抱える問題を示唆しているといえるでしょう。


 と痛烈に批判しています(本書についてはmisandry2氏にご教示いただきました。多謝!)。
 ダイアモンド氏が一度は引っ込めた「全く、何の言い訳も成り立たない」「上野千鶴子氏は、正直ではない」との批判も、正鵠を得たものであるように思えます。
 小山師匠はダイアモンド氏と面識があるのですから、今からでも訂正を伝えるべきなのではないでしょうか。

*ただし、この「差違の政治学」という論文自体は、95年に発表されたもので、その上で2002年に上野師匠の単著に収録されたものなのです。
 つまり、マネーの過ちが知られていない時期に書かれたものとは言え、訂正の機会はあったはずなのです。が、実際、細々と結構な加筆をしている割に、マネーの件については訂正がなされていません。該当論文以外については全部読むことはできませんでしたが、脚注やあとがきなどを見ても間違いが訂正されている様子はありません。ダイアモンドが当初言った通り、不誠実で言い訳のできない仕事ぶりです。


 他にも(小山師匠は言及していないのですが)八木氏の「解説」を見ると、女性学・ジェンダー研究会の編著である『女性学教育/学習ハンドブック ジェンダーフリーな社会をめざして〔新版〕』がマネーを無批判に評価していること、またフェミニズムの中でも大変に重要な著作とされているケイト・ミレットの『性の政治学』の中でもやはり、マネーの著作が肯定的に引用されていることなどが指摘されています。
 ちなみにぼくは前者だけチェックしました。見ると(これまた現代では既に否定されている)マーガレット・ミードの説が肯定的に紹介され、また「ジェンダー」という概念そのものを

 セックスは,自然が生み出したものだが,ジェンダーは,人間の社会や文化によって構成された性であり,文化や社会において,また歴史の展開に対応して変化する。


 と、小山師匠が「古い認識であり、最早フェミニストたちが取っていない立場」とする考えを表明しています。ちなみに刊行は1999年。既にマネーのウソが判明している時期です。
 そして驚くべきことに、本論の最後の方では、小山師匠自身が「一昔前のフェミニストたちも同じような誤解をしていた」などとぬけぬけと書いていています。
 むろん、いち早く誤解に気づき、まともにマネーを批判していたというのであればそれは立派です。が、実際には単に「逃げ出した」、更には上野師匠すらもが「逃げ遅れた」というのが実態に近いでしょう。

 おまいら保守より一歩早く気づいて追及の手を逃れるために逃げたったwwwwww

 って感じです。

 小山師匠は(というかフェミニスト全体の傾向ですが)

 八木の「解説」は、ただただライマーの生と死を嬉々として「フェミニズムバッシング」「ジェンダーフリーバッシング」に政治利用するだけのものだ。


 と憤ります(ライマーとはブレンダ少年の姓です)。
 本件は、ブレンダ少年改めライマー青年の数奇な運命、そして結局は彼が自殺してしまったことも手伝い、大変にショッキングでした。小山師匠の激しい表現は「フェミニスト学者が罪もない子供を自殺に追い込んだ!!」とのバックラッシュ派の批判への意趣返しの部分もあります。
 確かに、見ていると本件の周りではフェミニストが、保守派が、「ネトウヨ必死」「ブサヨの手先のフェミ涙目」と見ていていささか辟易とさせられる罵倒合戦を繰り返しています。
 とは言え、悲劇を繰り返さないために議論を深めていくことを一概に「政治利用」と言ってしまっては話が先に進みません。必要なのは誠意を持って事実を読み解くことでしょう。
 しかし果たして、ライマー氏の彼の生と死を嬉々として政治利用したのはどちらなのか。
『デスノート』のエルが、「探偵は仮に推理を間違えてもその時は『ごめんなさい』でいいんです」といった主旨のことを言っていたかと思います。
 学者もまた、「ごめんなさい」でいい、とぼくは思います。
 しかし本件において、果たして「ごめんなさい」ができていないツンデレちゃんがどちらなのか――答えはもう、出たのではないでしょうか。

*     *     *


 ――以上です。
 ただし、上野師匠の著作である『差異の政治学』の件については、小山エミ師匠自身から反論がありました。
 正直、強弁の類では……という気がするのですが、即座に反論できるものではなく、この点については「態度保留」ということにしておきます。
 この件については次回、詳しく述べますので、そちらも併せてごらんください。


「双子の症例」始末記

2020-09-12 19:40:52 | フェミニズム

※この記事は、およそ12分で読めます※

 皆さん、先週うpした動画はご覧いただけたでしょうか。
 今回はその動画の取りこぼしネタ。
 よって、未見の方は上の動画をご覧いただくことを強く推奨します。

【反フェミはこれ一本でおk!】風流間唯人の女災対策的読書・第12回「フェミニストの母親が、息子のペニスを切除…!?」【ゆっくり解説】


・大丈夫か、この著者

 さて、動画ではジョン・マネー本人よりも、マネーが水に落ちたとたん、彼を容赦なく棒で殴打するフェミニストたちの振る舞いの方が不快だ、と述べました。
 フェミニストたちは明らかにある一時期まで、マネーをカリスマとして崇めていたのに、権威が失墜するや、手のひらを盛大に返す。彼女らには自らの言動に責任を負うという概念が、端から欠落しており、彼女らのドリンクバーには自分たちの吐いたツバが常にフルチャージされています
 マネー本人だって立派なフェミニストだったわけで、彼女らの業界は使えなくなった者はすぐに処刑するという、組織としては一番やっちゃいけない体質を本来より持っている、特撮番組の悪の組織のような存在だ、ということがこれでおわかりになるかと思います。
 そう考えると、何だか同情したくもなってきますね。
 動画中では藤本由香里師匠、千田有紀師匠のご意見をご紹介しました。
 藤本師匠は著書『私の居場所はどこにあるの?』において、持論がマネーに準拠している旨を述べた注釈を、文庫にする段階でばっさりカットしてしまった、文庫が出る頃には既にマネーの説が力を失っていたからであろうが、あまりに不誠実だ、といった指摘です。
 もっともこの指摘は以前からしていたのですが、今回文庫版を読み返していて、別の章における注釈で、一応の補完がなされていることに気づきました*1
 男の方がジェンダーアイデンティティや性指向が不安定である、と述べた文章の注釈としてジョン・マネーの著作、『性の署名』の名を挙げている……ところまではハードカバー版も同じなのですが、文庫版ではそれに加え、『ブレンダと呼ばれた少年』の名を挙げ、マネーの説が批判にさらされていることも記し、以下のように続けています。

なお、二〇〇五年に出た同書の扶桑社版に付加された八木秀次による解説――この双子の症例は逆に、「男らしさ・女らしさ」は生得的なものであることの証拠とする説――は、『週刊金曜日』二〇〇六年九月二二日号掲載のコラピントへのインタビューで、著者自身により「自分の意図とは違う」と否定されている。
(283p)


 込み入った経緯があるので、説明が必要でしょう。
 まず、この『ブレンダ――』は最初に無名舎という会社から出ていたのですが、すぐに絶版になっています。
 で、ゼロ年代のジェンダーフリーに対する保守派の反撃(フェミニストたちが「バックラッシュ」と呼ぶ一連の流れです)の一環として、本書の再販がなされた。それが上に書かれている扶桑社版であり、保守の論者である八木氏がそれに解説を書いた。
 上の文章はその解説が、本書の意図を歪めたものだ、との主張なのです。
 しかしそうした経緯は置くとして、まず、著者であるコラピント自身が自著を、双子の症例を「男らしさ・女らしさ」は生得的なものであることの証拠であると主張したものではない、と言っているというのは本当でしょうか。
 この双子の症例だけで全てがわかるわけではないでしょうが、少なくとも本件によって、「性自認(=自分は男だ/女だという、根幹のアイデンティティ)」が後天的である、という説が極めて大きく揺らいだことは、認めざるを得ないはずです。
 ともあれ件の『週刊金曜日』のインタビュー記事に当たってみましょう。
 見ると記事は小山エミ師匠によるもの(爆笑)。
 この方、「オカマは女湯に入る権利があるのだ」と力説し、ぼくに批判されたとたん、本当に数分後に「そんなことは言っていない」などと頑迷に言い出した方です。全て、ツイッター上の記録として残っているのに……*2
 ともあれ師匠の記事、「悲劇の意味をすり替えたジェンダー叩き勢力」を見てみると、確かにコラピントは

 かれらがわたしの本の趣旨(原文ママ)や意義を歪めて自らの政治的アジェンダを推し進めようとしているのにはうんざりしています。
(23p)


 と語っています。
 ちなみに「かれら」というのは上にも名前の挙がった八木氏を含めた、保守寄りの人々、彼ら彼女らの用語で言うところの「バックラッシュ勢力」ということになります。
 しかし、見る限り「本の主旨や意義を歪め」ることで「自らの政治的アジェンダを推し進めようとしている」のはフェミニストではないでしょうか。
 もっとも、コラピントは日本語が読めないため、八木氏の「解説」をそのまま読んではいません。小山師匠や、コラピント自身の友人から説明があったというので、その時に「主旨や意義を歪め」た解説をされたのかもしれません。
 事実、小山師匠はこのインタビューにおいても八木氏を「南京大虐殺や慰安婦を否定する人物だ」と説明し、コラピントはそれに対し、

 それは本当に困ったことです。はっきり言って、もし予めそのようなおかしな出版社であると分かっていれば、日本版を出してはいなかったでしょう。
(23p)


 おいおい、こっちもインチキがバレたヤツじゃんw
 加えて、扶桑社がおかしな出版社扱いです。
『SPA!』とか、この人らの関係者もお世話になってそうですが。
 驚くなかれ、コラピントは続けて、以下のようなことまで言っています。


出版エージェントに連絡して、その出版社から版権を引き上げられないか調べてもらっているところです。
(23p)


 他にもコラピントは「本書を出したせいで(本国でも)保守派の集まりに呼ばれて怖かった」などと述べており、いずれにせよこのインタビュー記事自体、「ネトウヨムカつく」と言いあっているだけのもの。まあ、結論を言えばコラピントもリベラルであり、そのために小山師匠と馬があった、いうことなのでしょう。
 しかし彼ら彼女らが、いかに保守派に憎しみを抱こうと、本に書かれた内容の示唆するものに、変わりはありません。
 そもそもこの扶桑社版、本文はおそらく無名舎版と変わりないはずだし(そこを勝手に改稿し、それをコラピントが知らされないというのも考えにくい話です)、解説だってまあ、出版前に予め読んでいそうなもの。日本語が読めないにせよ、説明は受けるはずで、上にある友人による解説というのはおそらくその時のものではないでしょうか。
 コラピントもどうしても不満があるのであれば、その時にその旨を言えたはずなのです。
 上の「版権を引き上げる」というのが仮に実現していたら、悪質な忠言で、しかも解説の内容を確認しておくとの義務を怠ったという自分側の落ち度を省みず、しかも大手出版社相手の契約を翻すことになるわけで、結構な問題になっていた気もします。
 このインタビュー記事の中に、八木氏の解説が本書の主旨のどこを捻じ曲げただのといった具体的な指摘は、ありません。当然、コラピントが「双子の症例は「男らしさ・女らしさ」は生得的なものであることの証拠にはならない」などと主張する箇所も、ありません
 見ればマネーの理論が破綻した下りについての解説すらなく(そもそもマネーという名前自体が一切出てこない!)、ここまでバイアスに満ちた記事を書かれるといっそ、清々しくすらあります。

*1「ちゃんと言及していたのを見落とした兵頭が悪い!」とのご批判もありましょうが(それはその通りですが)、そもそも最初にマネーについて言及した注釈をばっさりカットし、マネーと関連性の低い話題についての注釈で、こっそり言い訳めいた補足をすること自体、藤本師匠が逃げ腰になっていることの表れではないかと、ぼくには感じられます。
*2 驚いたことに師匠、その経緯をまとめられても「兵頭は自分の失態を自分でまとめている」と笑っていました。どうも全て、天然の振る舞いのようなのですが、当然、そうした人の著述にどれだけ信頼がおけるかは、お察しです。
「オカマ」は女湯には入れるのか?
「オカマ」は女湯には入れるのか?Ⅱ


・性自認と性役割の違い

 このインタビューを持ち出し、反ジェンフリ派が間違っていると証明できたかのように言うこと自体、卑劣な詐術というしかありませんが、何、種明かしをしてしまえば他愛のないことです。
 藤本師匠はマネーの失敗を「「男らしさ・女らしさ」は生得的なものであることの証拠」とはならないのだ、としているのですが、これは文章としては非常に、正しい(もちろん厳密には、師匠はコラピントがそう言っているのだと書いているのだから、いずれにせよそこは嘘なのですが)。
 というのもマネーの失敗は「性自認」が後天的であることを否定はしたけれど、「男らしさ・女らしさ」というもっと大きな枠組みが後天的に学習されることもある、ということを全否定するものではないからです。
 当たり前です。「俺」という一人称を使うのは「男らしい」けれども、アメリカ人が「俺」と言わないのは、その言葉が生後学習されるものだからです。
 しかし逆に言うのであれば、(肉体が)男として生まれた以上、その時点で性自認も、あらゆる「男らしさ」も揺るぎなく備わっている……そんなことを考える人間は、どれくらいいるのでしょう。いや、保守派はそう考えているに決まっているのだ、というのがフェミニストたちの信仰なのでしょうが、今時そんな人物は例外的なのではないでしょうか。そもそも「男らしさ・女らしさ」という概念はそんなふうに言えるほどに、既に現代においては明瞭なものでは(誰かさんたちのおかげで)なくなっています*3
 しかし、性自認は生得的と思しいし、何でもかんでもジェンダー規範を悪しきものと否定するのは無理がある。それが「ジェンダーフリー」への批判だったはずです。
 この「バックラッシュ」の盛んだった時期、フェミニストたちは保守派の「ジェンダーフリー」批判への再反論を意図した『バックラッシュ』という、そのまんまなタイトルの本を出しました*4
 その帯には「男女平等でどこが悪い!」と大書されていましたが、保守派は「男女平等はけしからん」などとは言っていなかったはず。ただ、「ジェンダーフリー」と「男女平等」は違うと言っていただけでしょう。
 こうした論理のすり替えにより、ともかく「保守派ガーーーー!!!」と繰り返すというのがこの当時のフェミニストの戦略であり、上のインタビュー記事だったのです。
 もっとも、この「男らしさ・女らしさ」、ムツカしい言葉に言い換えるならば「性役割」とすべきでしょうか、それと「性自認」とを混同した議論は、保守派の論者にも時折見られたものです。
 ただ、だからといって姑息な詐術で自分たちのしてきた主張を過小評価し、論敵が間違ったことを言っているかのように見せるというやり方が正当化されるわけではないことは、言うまでもありません。

*3 このインタビュー記事の小見出しには「「男らしさ」「女らしさ」の復活をもくろむ八木秀次をはじめとする右派勢力。」とあり、笑ってしまいます。彼女らにとっては男らしさ、女らしさは絶対悪であることは当然として、「もう、殲滅したはずのもの」みたいですね。
*4 実は『週刊金曜日』のインタビュー記事にも、小山師匠の「くわしくは『バックラッシュ』に書いた云々」の記述があります。
 これについてもぼくは随分前に書いているので、そちらをご参照ください。
バックラッシュ! なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?(その2)
及びこれに続く三つの記事


・ジェンダーフリーと男女平等の違い

 こうしたやり方は千田有紀師匠も全く同じで、彼女は『女性学/男性学』の中で再三デービット(ブレンダの、男性として生きることを決意した後の、改名後の名前)のインタビューを引用し、彼が「男女平等に同意しているぞ」とそれらしい箇所を引用してはガッツポーズを取っています。
 いや、だから「男女平等」と「ジェンダーフリー」は関係ないんだってば。
 確かにデービットは「女性として生きた期間があったことで、女性の苦労がわかった」といった主旨のことを語ってはいます。しかし、そりゃ、こういう立場になったらいろんな連中からうるさくされ、「俺は男女平等に反対の立場を取っているわけではない」くらいのことは言わざるを得ないでしょう。
 経緯が少々ややこしいですが、デービットは当初はブルースと命名され、女の子となってからはブレンダと呼ばれていました。
 このデービットという名前自体、本人が元のブルースという名を「オタクっぽい」ということで嫌い、「腰の座った男らしさ」を感じさせる響きを持つということで、聖書の英雄ダビデから取ったものなのです。「オタクっぽい」という表現の正確なニュアンスを掴むのは難しいですが、やはり彼はマッチョな男らしさを好んでいたのです。
 千田師匠は『ブレンダ――』について、

(ただしこの本自体は、原題が『自然が彼を作ったように』というものであり、生物学的決定論を支持するために書かれています。しかしわたしには、作者の意図を越えて、いかに「自然」を押しつけることが、暴力的であるのかというメッセージを読み取りました)
(101p)


 などと評しています。
 あれあれ、結論部分(フェミは悪くない、ジェンダーフリーは正しい)は変わらないのに、藤本師匠とは本書の評価が正反対ですね。結局、この時期は何が何でも自分たちを正当化するために、みなさんアタフタと結論ありきの詭弁を弄していた……というのが正しい評価ではないでしょうか。
 本の評価そのものは、千田師匠のものが正しいように思われますが、それ以前の問題として、師匠は作者の意図を越えたことを読み取っちゃってるんですから、これはもう「無敵」としか。問題はフェミニストはそのほぼ全員が、ほぼ全ての場合に相手の意図を越えたメッセージを読み取り続けていることなのですが……。

・おなじみ、ポストモダン忍術

 千田師匠のもう一つの言い分は、「マネーのロジックは既に古びたものだ」というもの。これについても以前、採り挙げたので、詳しくはそちらをご覧いただきたいのですが*5、要はバトラーなどの言う「ジェンダーはセックスに先行する」というロジック。
 実は小山エミ師匠の議論も結局はここに収束していくものであり(千田師匠がバトラーを解説している文章を引用していたりします)、言わば「近年のフェミの持ちネタはこっちであり、マネーは既にオワコン」ということなのですが、何度読んでもよく理解できないもの。
 ここではよく「ネコがネコなのは、たまたまであり、ネコという呼び名と生物としてのネコには何ら関係がない(だって英語ではキャットなのだし)」といった比喩が使われますが、そんなこと言ったって、肉を食うとかにゃあと泣くといった「ネコらしさ」は不変なのだから、詭弁と呼ぶにもお粗末な物言いです(英語圏ではネコの鳴き声は【meow】と表現しますが、まさに言語表記に先行する、「ネコの鳴き声」という根源的なものは、世界で不変なのです)。ポストモダン関連の連中の主張って、全てこのレベルで、どこまでマジメなのかなあ、という感じなんですよね。
 ともあれ、ポストモダンとジェンダー論がここで邂逅するというのも、何というか、ユダヤ陰謀論者が「ユダヤのバックには宇宙人がいるのだ」と言い出す様を見るようで、なかなか趣深いのではないでしょうか。

*5 夏休み千田有紀祭り(第三幕:スーパーゲンロンデンパ2 希望の学説と絶望の方向性)


【反フェミはこれ一本でおk!】風流間唯人の女災対策的読書・第12回「フェミニストの母親が、息子のペニスを切除…!?」【ゆっくり解説】

2020-09-05 19:54:47 | セクシャルマイノリティ
【反フェミはこれ一本でおk!】風流間唯人の女災対策的読書・第12回「フェミニストの母親が、息子のペニスを切除…!?」【ゆっくり解説】



「風流間唯人の女災対策的読書」、今回はやや時事ネタ性の強いもの。
 海外で大変に恐ろしい事態が進行しています。
 そしてマスコミが頬かむりをしていること、日本と同様のようです。
 できればご覧いただいて、署名にもご協力いただけると嬉しく思います。

 正直、youtuberとして収入を得る、などは夢のまた夢の状況ですが、YOUTUBEの方は登録していただく、高評価ボタンを押していただく、コメントをつけていただくことで再生数が上がるようです。
 どうぞよろしくお願いいたします。