ラジオの投書などで「中学生の頃、エロ本を学校に持って行ったら先生に見つかってしまい云々」といったエピソードが、時折、話題になったりすることがありますよね。
そんなエピソードでごくたまに、その先生が女性でありエロ本に過剰に反応された、というパターンってないでしょうか? 先生は「こんなものを見て何が楽しいんですか!?」と激昂しつつ、自分たちの持ってきたエロ本を広げてクラスの一同に見せる。自分は、恥ずべき欲望を公衆の面前で晒し者にされ、針のムシロであった――というような話。
思うのですが、そんなことをする女性教師って、フェミニストなんじゃないでしょうか?
エロ本を過剰に憎み、糾弾するフェミニスト先生。
そして、その立ち振る舞いからは、エロ本を憎むと同時に、多感な思春期の少年が抱えている恥ずべき欲望を「晒しage」ることに、どこか屈折した、歪んだ愉悦が感じられる――実証はしようのない話ですが――ぼくには何だか、そんな風に思えるのです。
ポルノのジャンルとして、「露出プレイ」というのがあるように、「男子生徒の持ってきたエロ本の露出」というのも、一種の、フェミニストにとってのポルノなのではないか、と。
さて、本書の発刊イベントとして紀伊國屋書店で上野千鶴子センセイと北原みのりさんとのトークライブが開かれ、ぼくも見学に行ったのですが、大して面白いものではなかった――ということは、前回にも書きました。
が、イベントの最後の方で北原さんは上野センセイに「フェミニズムは女性を幸福にしたのか?」といった主旨の質問をして、センセイは少しはぐらかし気味に「世の中が悪いんだから、(仮にフェミニズム以降も女性が不幸であったとしても)仕方がない」的な返しをしていました。
いえ、これはあくまでぼくの記憶に依っているので、正確さには欠けるかも知れませんが。
フェミニズムが、多くの男性と女性を不幸に巻き込んだ思想であることは言うまでもないのですが、北原さんの面白いところはフェミニズムにどっぷりと浸かりながら、どこかでそんな自分たちに疑問を感じているように見えるところです。彼女の著作、『オンナ泣き』においても、女性センターかどこかでぶつぶつと独り言を呟いている、ちょっとアブなげなフェミニスト然とした中年女性を見かけ、しかしそれをフェミニズム界隈ではよく見かけるタイプだと述懐する箇所があり、ちょっとギョッとなります*1。
*1 てか、インターネットラジオ「婆星」を聞いてみると、まさしく北原みのりさんこそが「夢脳ララァ」であるという気が、してしまうのですが。
さて、ようやく本題です。
「ミソジニー」とはとても思えない話題を次々と俎上に上げ、次々とそれらを「ミソジニー」だと言い立てる本書ですが、そのうち二章が、「東電OL殺人事件」について割かれています。エリートOLが夜は売春を行っており、その売春行為の果てに殺されてしまったという事件です。
もちろん、この事件の被害者女性の内面に何があったのか、それは誰にもうかがい知れません。しかし、この被害者女性は偉かった父の後を継ぐように「男社会」で働いていたそうで、単純に「男性化を求められた女性が、最後に自分の女の部分を発揮したい、男性にモテたいと思って暴走してしまった」というのが、普通の理解ではないでしょうか。
それは丁度、フェミニストの陰謀により就職させられ、婚期を逃したアラフォー女性たちが目下こぞって婚活に励んでいる構図と、全く同じように。
また、この被害者女性は売春時に派手な格好をして、しかしその体型は拒食症を患い、退いてしまうほど病的に痩せていたそうです。
不謹慎ではありますが、どうしてもある種の女性たちを、想像させるケースです*2。
*2『まんが極道』の第一巻「枕営業」では全く実力がないくせに枕営業で仕事を得ていた女流漫画家が、中年になって仕事を失ってからも「私の漫画見てください、いいことしてあげるから」と呟きながら派手な格好で街を徘徊する、というエピソードが描かれます。
しかし上野センセイはそれを
均等法以後の女は、個人としての達成と女としての達成、このふたつを両方とも充足しなければ、けっして一人前とは見なされないのだ。
などと言い立てます。
それ、「私たちが均等法を通したことが悪かったです」と言ってるのと同様だと思うんですが。
それとも、「働く以上、女が化粧をするなどといった煩わしい女性的性役割を放棄しても男は文句を言うな」と言いたいのでしょうか。しかし読み進めると、センセイは「男は男性化した女性は例外的に認める、それは女性への蔑視、女性差別構造を温存するための戦略だ(大意)」などと吐き捨てるように書いていますし、それも違うようです。
えぇと……だったら、やっぱり女性は専業主婦として家庭に収まればいいんじゃないでしょうか? ここまで専業願望が高まっていることですし。
それもダメ? あ、そう。
ことほどさようにセンセイの――いえ、フェミニストの主張は支離滅裂なのですが、彼女の中では言わずもがなの真理として「とにかく、男が悪い」という大前提があって、矛盾には全く気づいていないのでしょう。
読み進めていくと、「女として振る舞いたい」という女性の欲求を、上野センセイは――いえ、フェミニストは全く認めていないことがわかります。女性は本当は「可愛い」と言われたくなどないのに、男たちが陰謀を企んで女性を洗脳して、女らしくすることを強制しているのです。
ということは――そうか……そういうことだったのか……女の子たちが可愛らしく着飾ることが目玉の『プリキュア』こそ、ょぅι゛ょたちを男性支配社会に組み込もうとする、男たちの陰謀だったんだよ!!
な、なんだって(ry
マジでこれ、まだしも「宇宙人の陰謀」とした方が、説得力があるんじゃないでしょうか。
更にこの事件では、被害者女性は異様に安い対価で、身体を売っていたそうです(その原因は判然としません。女子高生の援助交際の最盛期とあって、年配のご婦人だと相場がその程度だったのかも知れません)。
しかしそのことがどうしても我慢ならない上野センセイは、当時の週刊誌の一読者である女性の「これは男の値段だ。相手の男を値踏みしていたのだ」との珍説に「炯眼だ」と飛びつきます。そうだという根拠はありませんし、仮にそうだとしても自分に安値をつけることは相対的に相手の男性の価値を高く見積もっていることにしかならないと思うのですが、センセイはそんな矛盾にすら気づく様子がありません。「娼婦は『これだけの金を出さねばあなたはワタシを自由にはできないのだよ』と男に言っているのだ(大意)」などとおっしゃっていますが、じゃあ、安売りすることは自己を貶めていることに、どうしたってなりますよね。
センセイは「誰もが前提としている一般論」を否定しようとして論理の飛躍に飛躍を積み重ねた挙げ句、一回りして「誰もが前提としている一般論」へと舞い戻ってきたのにそれに気づかず、新天地を見つけたおつもりでいらっしゃるのです。
もう一つ、センセイの筆致から溢れているのが、当時、男性論者たちがこの被害者のOLを一種、聖者のように崇め奉っていたこと(「娼婦になることは堕落ではあるものの、この堕ちっぷりは逆説的な聖性を持っている」的なロジック)へのお腹立ちです。センセイはこれらの論者にたいして、「自分の欲望を女性に転嫁しているのだ」と憤ります。
しかしそんな先生の義憤とは裏腹に、多くの女性たちが当時、この被害者のOLにシンパシーを感じていたそうです。とある女流作家はこの事件をモデルに書いた小説で、女性に「男性に構われたい、可愛いと言って欲しい」とのモノローグを吐かせています。が、そんな小説をセンセイが苦々しげに評しているのは実に象徴的です。
女は、男にモテる(自分以外の)女が大嫌いなものですが、上野センセイはその抑え難い憎悪を、「しかし悪いのは全て男だ」というリクツでもって、男へとぶつけているわけですね。その意味で「ミソジニー」という言葉もまた、実に象徴的と言わねばなりません。本当のミソジニストはセンセイを含め、女性の側なのですから。
結果、センセイのリクツはどうしても、「女は男を求めてなどいないのだ」といった珍妙なものにならざるを得ないわけです。
この命題(引用者註・男が女の肉体性に惹かれる)から、中村(引用者註・中村うさぎ)の言うように、女がミニスカをはいて「自分の欲望を刺激するのはけしからん」とか、ブスは「自分の欲望を刺激しないからおもしろくない」というさまざまなヴァージョンが生まれる。いずれも男の一人芝居(ひとりよがり、とはよくも名づけたものだ)なのに、その責任を男は女に転嫁しようとする。セクハラ男が「誘ったのはあいつなんだ」と主張するように。
といった涙目の筆致からも、それは容易に読み取れます。
一般に、女性は自分に性的価値があることを証明するために権謀術数を巡らして、男性に行動させます。さりげなくハンカチを落として男性に拾わせる百年以上前の女性たちの振る舞いも、今の女性が「草食系男子」にたいして憤るのも、だからこそのことです。
そしてここまで来れば、実はセンセイの言動もそれらと全く同じであることも、おわかりになったのではないでしょうか。
フェミニストたちの病的な言動を、ぼくは長い間、「男ぎらい」だと勘違いしていました。
しかし、それはそうではないのですね。
彼女らは「男ぎらい」であると自己演出することで、何とか「男に求められる」疑似体験をしようと涙ぐましい努力を続けている人たちであった、ということを、本書ほどわかりやすく説明してくれたものはありません*3。そうか、そうだったのか、やっぱり。
ぼくは著作で男性にたいして素直になれない現代女性を「ツンデレ」であると表現しました。
それが病的な域に達している(フェミニストなどの)女性を「ヤンデレ」であるとも評しました。
また、「女性のセクシュアリティの本質は、男性を悪者にすることそのもの」とも書きました。
ここに至れば、その考えの正しさは、おわかりいただけるのではないでしょうか。
男を悪者にして、「晒しage」ることで、「男が女(自分)を求めているのだ、女(自分)は男など好きではないのだ」と主張する。それは丁度、冒頭で書いた女性教師のように。
そうすることで最低限の、自分のプライドは死守することができる。
その意味で本書は――いえ、フェミニズムという思想は、「私を求める男」という幻想を女性たちに与える、「最後のポルノ」であると言うことができます。
*3 本書にもありますが、フェミニストの本って大体、自分が男性から媚びを売られ、しかしそれを格好よく拒絶した体験のようなものが書かれていますよね。自分が本を出せるエラいセンセイだからこそ、男も気を遣って声をかけてきたということには、気づくご様子もなく。
本章を、センセイはこんなふうにまとめています。
そして「承認を与える者」の背理は、「承認を求める者」に深く依存せざるをえないということにある。ミソジニーとは、その背理を知り抜いた男の、女に対する憎悪の代名詞でなくてなんだろうか。
最初のセンテンスは、「人」という字が互いに互いを支えあう二人を示しているように(笑)、男と女は互いに支えあっているのだ、というむしろいい話に読めます(むろん、「依存」にはネガティブさもあるとは言え)。男が女を求め、女が男を求めることを自然であると考えれば、むしろ自明のことでしょう。
ですがそれに続くセンテンスが、どういうわけか最初のセンテンスと論理的に繋がっていません。もし繋げようとするならば、「女が男を求めることは男たちの周到で悪辣な陰謀である」という(フェミニスト以外には全く理解のできない)前提を導入する他に、手がありません。
というか、要はこれは「男にモテたいと思う女の弱みにつけ込みやがって」と、ポロリと本音を漏らしている部分なのですね。
実は上野センセイは自分の幸福が結局は「男に依る」ものだと知り抜いていて、しかし、それが自分には生涯手に入らないものであることも、わかっていらっしゃるわけです。
だからセンセイは――いえ、フェミニストたちは男と女のかかわりのネガティビティのみを丹念にすくい出し、それこそが男性性の本質であるかのように言い立てるのです。
一生口にできないとわかった以上、ブドウは全部すっぱいことにしておいた方が気が休まりますから。
おわびと訂正
★前回、本書が紀伊國屋書店のサイト(と、無料配布している冊子)で書かれた文章をまとめたものであり、本書が出たとたん、「リンク先の上野センセイの文章、読めなくなってしまいました」と書きましたが、一部とは今でもつながっています。おわびして、訂正いたします。
http://www.kinokuniya.co.jp/02f/d05/scripta/nippon/nippon-1.html
★本文中でフェミニズムを「最後のポルノ」と表現しましたが、実際には後に出現したBLというメディアが、本来ならフェミニズムが取り込んでいたであろう層を顧客としてかっさらって繁栄を誇っている、そのためにフェミニズムは終焉を迎えた、という事実が判明いたしました。おわびして、訂正いたします。