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兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

兵頭新児のレッドデータコンテンツ図鑑④『さすがの猿飛』――サブカル様のためになるお話

2023-07-02 23:48:58 | アニメ・コミック・ゲーム

 さて、『うる星やつら』に引き続き、当時はそのライバル的立ち位置だった作品について。
 実は動画でも本作が言及されており、その補足みたいな意味も含まれますので、どうぞお読みください!

風流間唯人の女災対策的読書・第46回「フィクトセクシャル――オタクは現実の女に興味がないのか」

 

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 さて、正直そんなにメジャーな作品でもない本作ですが、読んだこと、観たことのない方も『アオイホノオ』で言及されていたのを読んだことがあるかも知れません。
 1980年から『月刊サンデー』に連載開始された、乱暴に言えば『うる星』エピゴーネン的漫画。エピゴーネンというのは、あまり誉めた表現ではないですが、少なくとも受け止められ方はそのような感じだったはずですし、また作者の細野不二彦、ぼくもこの人の作品、一時期いろいろと読んでいたのですが、どうも作家性の強い方というよりは、計算で仕上げていくタイプの人ではないかという気がするので、恐らくご当人もそうした意識を持って描いていた作品なのではないでしょうか(何しろ、他にも露骨に『オバQ』、『めぞん一刻』を意識した作品のある作家さんです)。
 さて、そんなこんなで基本設定は、忍者学校を舞台にした美少女とデブ少年とのラブコメ。デブ少年の肉丸は一応、忍術の使い手としては一流なのですが、人間離れしたデブが主人公という辺り、『うる星』の時も言及した、当時の「男性」が像を結びにくくなっていた時代性を象徴しています。
 そんな時代性を持った本作、先にもエピゴーネンと言ったように、『うる星』の二匹目のドジョウを狙って1982年、アニメ化されました。とっとと二匹目をとっ捕まえねばと大慌てだったからかどうか、月刊誌連載であるがためエピソードのストックがなかったところのアニメ化で、たちまちのうちにネタが底を突きます。
 そのため、苦肉の策の「番外編」が連発されることになりました。今もキャラのスピンオフだの学園漫画でもないものを学園漫画化だの、近いパターンはよく見かけますが、当時は「あくまでその漫画連載(アニメ放映)内で番外編をやる」ということがよくありました。中でも多かったのは「舞台を変える」というもの。いきなりキャラクターたちが江戸時代の住人になったり、スペースオペラの主人公になったり。『うる星』でもよくあったパターンで、「日常系」でネタが尽きた時の定番企画でした。中でも本作は本当にそれが多く、三回に一回くらい番外編だったんじゃないかなあ、という感じ(……ウィキペデアを観たら、三分の一以上と書かれていました)。
 この辺りについては懐かしのアニメ(しかしなかなかスポットライトの当たらないものを絶妙にチョイスしている)サイト、「記憶のかさぶた」の「№50 さすがの猿飛」でも言及されているところで、詳しくはそちらをご覧いただきたいところなのですが……この時にパロディの「元ネタ」として選ばれていたのは、一つには当時上映中の話題作、そしてもう一つは往年の名作。『第三の男』とか。

 80年代当時は、オタクのためにアニメが作られ出した時代でした。例えば『超時空要塞マクロス』などはオタク世代が作り手に回った、オタクのオタクによるオタクのためのアニメ第一号と言っていいと思うのですが、まだまだ「おっさん世代の作り手」が多かった。一方では華々しい若者文化でありながら、一方ではおっさんが若者に向けて作っている面があったわけです。そこには時おり、「おい若いの、アニメばかりじゃダメだぞ。おじさんの若い頃にはこんな名画があってだな……」と言わんばかりのパロディが登場し、少々鼻についたものでした。
 そして、もちろんそれはそれで仕方のないことではあるのだけれども、アニメ誌などでは「おっさんの、オタクへの悪意」がさらに凝り固まった形で発露されている……といったことは以前、動画(風流間唯人の女災対策的読書・第37回「オタク差別最終解答」)でもお伝えしたことがありますね。
『うる星』がそうであったように、この頃のアニメは作品自体が「何でもアリの、スタッフが好き勝手に遊べる遊び場」であり、そこがアニメ文化、オタク文化という「新しい若者文化」を形作っていった面も、多いにあったわけですが、そうした世代間ギャップが露わになる場でもあったわけですね。
 さて、それともう一つ。
 本作のオリジナル展開はそのような番外編に限りません。
 ヒロインである魔子ちゃんは基本、肉丸の庇護下にあるのですが、やがて自立した女を目指すようになるのです。その「魔子の自立編」、たまに挟まっては、ヒロインがつまらぬ苦悩を延々し出してうっとおしい、という印象でした(このテーマ、Wikiによると決着を見ず、なし崩し的に終わるようです)。
 乱暴に言えば、オタクの誕生とは「男の子が初めて自分の遊び場を持った」という人類史上、記念すべき事件なのですが、その最初期から実のところ、その遊び場にはおぢさん(この「ぢ」が当時風)と女の子の邪魔が入っていたわけです。
 Wikiなどを見ても、「魔子の自立編」が女性スタッフによるものかどうかは判断がつきかねますが、まさに『水星の魔女』的な、そして『トクサツガガガ』的な、「少女漫画」感が濃厚なんですよね。
 まあ、近年もエロゲなどでいかにも女性ライターがプロデュースしたんだなあというような歪な作品のお手伝いをさせていただくことがあり、もうちょっと自分たちが男の子向けを作ってるって自覚を持ってくださってもいいんでは……と思うこともしばしばですが、どうもあの人たち、端っから「男の子向け」をテンで理解しておらず、しかし自分は男性的な志向を持っていると、どうもあどけなく信じているようなんですよね。

 さて、ではその最終回は……?
 当然、原作アニメと異なるオリジナル展開であり、主人公たちの通う忍ノ者高校が悪の巨大組織と戦うという話。日本政府は忍ノ者高校の生徒たちに出動命令を下し、宇宙戦艦大和(だいわ)で決死の特攻作戦を敢行! 何でお気楽ラブコメが急にこんな話になるのかわかりませんが、ともかく決戦前夜のキャラクターたちが死を覚悟し、また恋人が運命を共にしたいと闘いに同行しようとする様が丁寧に描かれます。
 しかし「愛する者を守って死ね」との命令に対し、主人公たちは「愛する者は隣にいるじゃないか」とはたと気づく。
 主人公たちは愛する者と共に戦線から離脱。悪の組織の総統はモテないがために女の子に怨嗟の念を抱くメカの天才少年で、そのため日本を滅ぼそうとしていたというオチがつきます(先の「記憶のかさぶた」では「受験に失敗し続けた浪人生、アニメと特撮が大好きなオタクで、外見のせいでを女にふられた」という設定が語られていますが、これは記憶違いと思しい)。
 女に怨嗟の念を吐くことに加え、兵器としてペギラやゴジラを繰り出す、メカフェチで人間よりもメカに愛着を持つ、また防衛軍側にも嘲笑される幼稚で子供っぽい敵として描かれ、「オタク」といった言葉はさすがに出てこないものの、明らかにそれを意識したキャラクター造型がなされています。
 日本は焼け野原になりましたが、忍法でリセット、破壊される前の日本が復元され、平和な光景のまま、終劇。
 何というか、サブカル君の薄っぺらな平和思想と醜いオタクへのへの憎悪がありありと現れた最終回ですねw
 この辺、ギャグ作品とは言えあまりにも破天荒ですが、この種のオタクを悪役に仕立て上げてドヤる、というのは当時、たまに見たパターンです。翻って例えば時期の近い『スケバン刑事Ⅱ 少女鉄仮面伝説』(1985)では(バックに日本を牛耳るジジイがいるとは言え)天才少年が高校生たちをオルグし、「十代の若者のみによる革命」を企みます。
 当時は丁度、学生運動が挫折し、オタクは政治を「ダサい」こととして上の世代をからかっていましたが、同時に校内暴力の吹き荒れた時期でもありました。つまり「正義」が失われたがため、若者たちの中で「DQN」はただ暴れ回り、「オタク」はおとなしくいじけていた。上の世代はそれぞれに自らの願望を仮託し、前者は反体制的スーパーヒロインであるスケバン刑事やその敵役(悪とは言え義を持った存在)に、後者は『猿飛』のラスボス(否定されるべき、ただ惨めな悪)に仕立て上げられたのです。
 最終回の脚本は本作のシリーズ構成を務めた首藤剛志。『ミンキーモモ』などの傑作で知られ、80年代的ニヒリズムというか、物語の定番を常に外す作家であり、ぼくも尊敬する作家さんの一人ではあるのですが……『モモ』や、他にも『ようこそようこ』など少女を主人公にしたアニメでは保たれているさわやかさが、ことマニア向けアニメになると受け手への憎悪へと取って代わってしまったわけです。
 受け手もまた、そうした憎悪を上の世代に植えつけられ、自らの周囲の、「俺よりも格が下(だと本人が信じる)オタク」へと向けた。
 男性というものが像を結びにくい時代、肉丸という戯画的に描かれた少年が美少女とラブコメを演じる本作は、外部に皮肉にもそうした「負の連鎖」を生み出し、エンディングを迎えたのです。

 さて、しかしさらにもう一つ、本作は期せずしてだと思いますが、先に述べたようにヒロインの「自立」をテーマにしつつ、それが「愛する者は隣にいる」という結論を導き、結果、主人公たちに「敵からの逃亡」という結論を導き出させました。
 ここには「女性の社会進出」「男女共同参画」が戦いを忌避させるのだとの、ある種の平和論が成立しています。『ガンダム』とかイキって女をいっぱい出してるけど、女が銃後にいないんだから、逃げちゃえばいいじゃん、という80年代的考えです。
 しかし、そうなると敵と戦う者がいなくなる。そこをごまかすために作り手はオタクに悪役を演じさせ、焼け野原もギャグでごまかして一瞬で「復興」させた。
 これはまさに、悪に挑むフリをしながら弱い者イジメしかできず、もちろん国を守ることもできない当時の左派の思想的終焉をも、描いてしまったように思えます。
 というわけで、何というか、終わり。


風流間唯人の女災対策的読書・第46回「フィクトセクシャル――オタクは現実の女に興味がないのか」

2023-06-24 20:30:51 | アニメ・コミック・ゲーム

 

風流間唯人の女災対策的読書・第46回「フィクトセクシャル――オタクは現実の女に興味がないのか」

 第四十六回目です。

 初音ミクの配偶者――を自称する近藤顕彦氏。
 氏は「一般社団法人フィクトセクシュアル協会」なる組織を立ち上げたのですが、それは果たして、オタクに益するものなのでしょうか……?
 今まで幾度となく繰り返してきた「サブカル」に、「LGBT運動」に絡んだ危険性が、そこに潜んでいるのではないでしょうか……?
 サブカルがオタクへと攻撃を氏かけ続けてきた歴史については以下を。

風流間唯人の女災対策的読書・第37回「オタク差別最終解答」


風流間唯人の女災対策的読書・第24回「オタクVSサブカル最終解答」

「フィクトセクシャル」についての以前の記事は以下を!

風流間唯人の女災対策的読書・第33回「腐女子vsLGBT 勝った方が人類最大の敵になる!?」
 


兵頭新児のレッドデータコンテンツ図鑑②『キカイダー』シリーズ 長坂秀佳――ホモソーシャルの作家

2023-05-14 19:11:39 | アニメ・コミック・ゲーム

 

 まずはちょっとお報せを。
『WiLL online』様でジャニーズ関連(Colabo関連でもある)記事が掲載されています。
 掲載後一日で早くもランキング一位!!
 より以上の応援をよろしくお願いいたします。

 

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 さて、シン企画第二弾は『キカイダー』です。
 少し前、You Tubeの配信で『人造人間キカイダー』をやっていたので、ちょっと語っておきたかったんですね。
 細かい設定などは折に触れ最低限説明するに留めますが、最初に言っておくと本作は1972年に放送開始した特撮ヒーロー番組。ロボットのキカイダー・ジローが悪と戦う物語です。
 久し振りの視聴だったのですが、今回、「やたら女が出てくるなあ」との感想を持ちました。本作は夜八時からの放映であったため、お父さん向けの要素を多くしたのではと思われます。
 この時期のこの種の番組、普通であればジジイの博士が敵に狙われるというのが定番の展開です。ジジイが古典的物語の「お姫さま」の立ち位置にいるわけですが、これは丁度博士の頭脳、科学こそが地球の命運を左右するという高度経済成長期的世界観の反映だったと言え、そんなところからも特撮ヒーローものは男の世界だと言えるわけです(バリアントとして、今回語るように博士の秘密を託された男の子が「お姫さま」というパターンもあるわけですが……)。
 しかし本作ではやたらと若い美貌の女性科学者、或いは自然保護活動家が狙われることとなります(悪の組織ダークはやたら自然保護活動家を狙います。まさに公害などが悪の代表として認識されていた時代だったわけです)。
 またそもそも、作品テーマ自体が「世界の平和を守る」ことと共に「父親捜し」というパーソナルなものであるのも、本作の特徴です。キカイダーを作った光明寺博士が記憶喪失でさまよっており、それを博士の子供であるミツ子、マサルの姉弟と共に探すことがジローの目的であり、毎回のエンディングナレーションにも謳われていました。
 ミツ子は博士譲りのメカニックとしての腕の主で、ジローを助けると共に、一人の男性として愛してもいる。いつも泣いているような表情の幸薄そうな美女がミニスカートで常に苦難に耐える、そしてジローに助けられるがジロー自身は(ロボットと人間という「身分」の違いも理由ですが、同時に)悪の怪人と戦う使命を優先させ、これまた常に苦悩の表情で彼女につれなくする。
 女は男をケアし、求愛するが男は使命(≒仕事)に夢中というのはこの頃(高度経済成長期)のドラマによく見られたもので、男女ジェンダーを考えた時、ある意味健全なあり方だなあとも思います。
 さて、この『キカイダー』、当初は『仮面ライダー』のメインライターを務めていた伊上勝がやはりメインで書いていました。それは『ライダー』の同工異曲でやや平板……というのがマニアの間で囁かれる通説で、それも間違いではないのですが、見ているとそれなりに「大人向け」の作劇がされていることがわかります。
 ただ、途中参加し、後半のメインを務めた長坂秀佳という脚本家の仕事があまりにも印象深く、それで「後半は神だが前半は今一」との世評を形作っているのでしょう。
 そう、前回「ホモソーシャルの作家」と評した脚本家です。

 その、ハカイダーを中心に据えた後半戦が名作であることは論を待ちませんが、ここで語りたいのは作風のホモソーシャリティ。いえ、「ホモソーシャル」というフェミ用語は「悪いこと」として価値づけられており、あまり使いたくないのですが、「友情」とも「父子愛」とも呼びがたい微妙な関係が長坂作品では描かれることになるので、ここでは敢えてこの言葉を使うことにします。
 ハカイダー・サブローの出現と共に、ジローは光明寺博士を殺した犯人として疑われることになります。官憲にも追われるとあって、ミツ子、マサルの心中も穏やかではありません。ミツ子はとにもかくにもジローへの愛でその無実を妄信し続けますが、マサルはついにジローは犯人だと信じるようになります。
 敵は博士の偽死体まで用意しており、またそもそもジローは不完全な良心回路の弱点を突かれ、実際に博士を襲ってしまっており、疑うのが自然という状況。ただ妄信するミツ子よりも、葛藤に葛藤を重ね、父の敵ジローを破壊しようと決意するマサルの方がむしろ複雑な心境であったことでしょう。何しろマサルは小学校高学年くらいの年齢で、ジローは頼もしいアニキ代わりでした。
 ジローは赤いギターにジージャンジーパンといった、明らかに当時の反体制的な若者のファッションを意識したスタイル。即ち「(流行の文化の最先端をいく)格好いいアニキ」といった存在だったのです。ぼくは時々サブカルをホモっぽいと罵りますが、それは逆に言えばこの当時はそうした「格好いい、憧れの青年文化」というものがリアルに存在していた(サブカル君は今もそうだと勘違いしている)からこそなわけですね。
 さて、そのマサルの下へと現れたのがサブロー。正体は敵であるハカイダーなのですが、それを隠し、「自分はジローが壊れたことを察知して、身代わりとしてマサルたちを守るために現れたのだ」と語り、マサルの歓心を買います。ハカイダー自身は卑劣な手を嫌うキャラなのですが、何故だかマサルには嘘をついてまで近づこうとするのです。
 ただ、マサルの主観で考えれば、ジローが頼りにならない時に現れたサブローは頼もしい存在として映ったはずです。それがまた、ジローとは少し違った不良っぽい格好よさを持ったタイプであり、それが妙に自分には優しくしてくれる。池田憲章(という、最近物故した特撮評論家)の文章では、サブローの頭部には光明寺博士の頭脳が埋め込まれており、意識などは直接反映されていないはずですが、どこかでその影響があったのではないか……といった指摘もなされています。
 自分の潔白を証明しようとマサルに訴えるジローの前にサブローが現れ「マサル君には手出しさせん」と啖呵を切るシーンもあり、まさにこれはマサルという少年を中央に据えた三角関係。今なら間違いなくミツ子を巡っての争いになるでしょうが、別に性的、BL的な意味ではなく「憧れるような格好いいお兄さんに優しくされる」という男の子の欲求を、本作は見事に満たすもので(あり、それは同時に先に述べたようなミツ子の「妄信」ではなくいたいけに「葛藤」を重ねたマサルへのご褒美といった側面も)あったように思います。
 さて、そんな葛藤の末、マサルはゲストの少年に「君、本当はジローが好きなんだろ」と見抜かれ、またジローにも「君に疑われてまで生きていたくない」と、生死を委ねられ(「自分が信じられないなら、サブローを呼んで俺を破壊してくれ」)最終的にジローを信じるように。
 それ以降もハカイダーとの勝負、光明寺博士の復活、ダークとの決戦といくつも波乱がありますが、最終回はジローが(マサルというより)ミツ子の下を去るという、どちらかと言えば男女のドラマが中心。
 とはいえ、「女を捨てても使命に身を委ねるのが男」という男のドラマを、長坂は最後まで描いてみせたわけです(ジローが去っていく時、ミツ子たちには何も言わず、光明寺博士とまるで父子のような会話を交わすのも象徴的です)。

 ――さて、一人旅立ったジローですが、半月くらいで帰ってきます
 そう、次週からは『キカイダー01』が始まり、助っ人としてすぐに再登場するんですね。
 ただ、さすがにあくまで主役はキカイダー01・イチローにバトンタッチしているので、ジローについて書くことは多くありません。
 それでも、敵に狙われる少年アキラが逃亡生活に疲れた、悪の組織の手の届かない世界に連れて行ってくれとジローに泣きつくシーンは印象的です(16話「恐怖!ミイラ男のニトロ爆弾」)。先に助っ人と書いたものの、ジローがそれを超えるような比重で同作に登場していた証拠と言えましょう(もっともこの話、脚本は長坂ではありません)。
 イチローは体育会系的で悩むことのないキャラ。だから上のシーンもナイーブなジローに甘えた方が気持ちをわかってくれると、アキラなりの計算もあったのかも知れません。実際に役者さんもジローが寺山修司か何かの劇団にいた文芸畑の人なのに対し、イチローは殺陣師の息子さんで、言わば藤岡弘型です。ともあれ戦隊などと違い、ピンでも充分活躍できるヒーローがタッグを組む、しかもそれが兄弟というのは他に例がなく、男の子の心を掴むに充分。
 他にも本作の初期設定ではホモソーシャリティを象徴するような作劇が考えられていました。そもそもアキラが敵に狙われるのは、最終兵器の設計図を身体に隠し持っているから。そんな彼を狙う悪の組織と彼を守護するイチローとのバトル。ここまでなら普通なのですがそこに謎の美女が絡み、イチローとの対立が描かれます。
 この謎の美女、リエコは隙あらばイチローからアキラを奪取しようとする第三勢力。或いは敵のスパイかと思いきや、実はアキラは前作の悪の組織ダークの首領の遺児であり、だからこそ最終兵器の秘密を託されており、そのダークの養育係であったリエコは(ダーク壊滅後でもあり)純粋なアキラへの愛情から、彼を保護しようとしていたことがわかります。
 対立時にはイチローへと「人間の子供は人間が育てるべきだと思います」とアキラの養育権を主張し、これは要するに「子供をどちらが引き取るかの両親の争い」、男の子を巡っての成人男性と成人女性の争いなのですが、同時に男の子と共に戦場に身を置こうとする男性(≒息子を厳しく鍛えようとする父親)と、庇護しようとする母性の対立とも言える。
 この時期は『仮面ライダー』でも『ウルトラマン』でも怪獣や悪の組織を信じない「教育ママ」と子供、ヒーローの対立という図式がしばしば描かれました。この怪獣や悪の組織は女性が認めたがらない戦いの世界(男社会)をこそ象徴し、ヒーローは男の子を母親の引力圏からさらって、そこへと連れて行ってくれる王子様だったとも言えましょう。
 何しろ核家族化が進む一方、お父さんは会社に時間を取られ、子供を世話するのは専らお母さんの役目。母親の情熱と時間の多くは子供への教育へと注がれた時代で、それこそそうした過剰な母性を持つ母親を揶揄し、「ママゴン」と怪獣呼ばわりすることも当時、流行っていたのです。
 このリエコは企画書では「次第にイチローを愛し始める」とあり、愛憎劇も予定されていたのでしょうが、途中で大幅な路線変更があり、あえなく「実はロボットだった」として爆死する運命を迎えます(まさに人間側を象徴するキャラがロボットだったとオチをつけたのですから、長坂も結構路線変更に対してヤケになっていたというか、あまり快く思ってはいなかったのでしょう)。

 それ以降はむしろファンの間では評価の高いロボット同士の人間ドラマが描かれ、もちろんぼくも評価するに吝かではないのですが、女性ロボットビジンダーの比重が高くなるなど、今回のテーマからは外れていくこととなります。
 これは随分前にツイッターでも書いたのですが、同作の後期では80年代の戦隊を作り上げた曽田博久がデビューしてもいます。曽田の評価は不当に低く思え、いつか採り挙げたいという思いもあるのですが、このもう一人の特撮界の帝王のデビュー作は人魚姫ロボットという女怪人の話(28話「狂った町 恐怖の人魚姫大逆襲」)。この話で悪の組織は人間社会の価値観を逆転させるという作戦を敢行し、大人と子供の対立、おまわりさんが横暴になるといった描写がなされます。要は曽田がものすごい左寄りの人であり、価値観の転換というのをやりたくて仕方がなかったのでしょう。
 ここでは同時に「ロボットは善と悪が、美と醜が逆に感じられる」という今まで聞いたこともない設定が唐突に登場し、「じゃあ01は主観では悪のために戦っていたのか!?」とのこちらも疑問もスルーして、ハカイダーが人魚姫ロボットに恋をしてしまいます。醜悪なロボットがハカイダーには美女に見えるということなのですが、もう一つ特筆すべきは人魚姫ロボットがヒーロー側をも手玉に取ること。彼女の催眠攻撃でイチローも惑わされ、アキラの首を絞めてしまいます。さすがに性的なニュアンスは(イチロー側には)ないのですが、完全無欠のヒーローであるイチローが子供を襲うのは衝撃的で(良心回路が麻痺した時のジローの振る舞いに似せたのかも知れませんが)、これは人魚姫ロボットからイチローへの、「私といっしょになりたいならば、その子供は邪魔よね?」とのメッセージであるわけです。
 ともあれ、本作では正義と悪の逆転を書いた後、そのいずれをも女が掻き回すという図式が成立しているのです。だからこそハカイダーもいかに弱体化したとはいえ、ヒーロー打倒という彼なりの「悪の正義」に忠実だったはずが、「愛する人魚姫のために」戦うようになってしまったわけです。

 ともあれ、この時期は(視聴率対策でしょうか)やたらとお色気描写が多くなった時期でもあります。人魚姫ロボットもイチローを惑わす時は美女(……???)の人間体となりますし。
 他にも『エクソシスト』か何かをモチーフにした「女子学生の血液でロボを作る」話も登場します(21話「吸血の館 美人女子寮の恐怖!!」)人間の血でロボットができるのかと問われても、実際に劇中でできてるんだから仕方がありません。
 冒頭ではハカイダーたちが夜の街で女性を襲っては合格だ不合格だと言っており、また女子学生たちを救おうと女子寮に潜り込んだ主人公たちに文句をつけるお堅い(いかにもオールドミスの)寮長も、敵に捕まり血を吸われてロボットを誕生させてしまう様がコミカルに描かれます。
 つまりこれ、言葉としては当然出てこないけど、「ロボット誕生には処女の血でなくてはならない」「寮長でもオッケーでした」というお父さんにだけわかるギャグなのですな。
 ともあれ、そうした話を消化しつつ、本作後期には先にも述べたビジンダーが登場します。彼女もまた随分といやらしい設定を配したお色気要員であると共に(ご存じない方は調べてみてください)、何しろ志穂美悦子ですから、男勝りのアクションを披露します。
 ぼくもヒロインとしては彼女が一番好きなのですが、同時に彼女は言わばミツ子という「守られ、耐えるヒロイン」に始まった『キカイダー』が「ジェンダーフリー化」してしまったことを象徴するキャラでもありました。もちろんお色気描写含め、ビジンダーもまた「男社会の紅一点」であり、作品の「男の世界」度は今からでは想像もできないほどに高いのですが。
 ともあれ、「男の世界」としての『キカイダー』は、そうした「女性の社会進出」に伴い縮小していったのです。先の「人魚姫ロボット」はその転換期に登場し、そんな作品世界の変質を哀れんで、嘲って、皮肉って、予言してみせたのだと言えます。


『シン・仮面ライダー』ネタバレなし/あり感想

2023-04-08 20:05:56 | アニメ・コミック・ゲーム

 

※今回、カネを取ります。一応、それほど大したものではないのですが最後にネタバレがあるので、そこを有料noteにしています。逆に言うと結論を無料部分で書いているので、ご覧になった方はそっちで充分かも知れません。いずれにせよ半年もすれば全部無料にしようと思っているので、意地でもカネを出したくない方は、その頃また見に来てください。
 では、そゆことで――。※

 庵野秀明って、『ライダー』にあんまり思い入れないのかなあ……というのが鑑賞後の率直な感想です。
 去年、『シン・ウルトラマン』についても比較的批判的な評を書きましたが、それでも映画を観終えた後は「わ~い、ウルトラマンカッケー」という満足感はありました。
 しかし今年は……「あれ、俺何観に来たんだっけ、『デビルマン』? 『キャシャーン』?」といった感じ。
 そう、本作はまさに劇場版『キャシャーン』的でした――あ、いや、ぼく、観てないんですけどね、『キャシャーン』。

・『シン劇場版キャシャーン』

 劇場版『キャシャーン』と言えば『デビルマン』ほどではなくとも、燦然と輝く糞映画としておなじみです。何しろキャシャーン、マスクを被らないんですね。要はオリジナルに何ら愛のない監督が、「漫画じゃないんだから」とマスクをオミットしたわけです。この種のリメイクもの、実写版って実のところホンのちょっと前までは映画制作者から、「ん? これ俺のマスターベーションツールに使っていいの?」程度に思われていた存在だったのです。
 本作もまた、(いくら何でもそのはずはないのに)そのように感じられました。一番顕著なのは、ライダーが変身ポーズを取らないこと。普通に考えたら、まずそこをどうするか(変身を今の時代にあわせどのように演出するか)を考えるんじゃないでしょうかね。
「今回の主役は旧1号であり、そもそもオリジナルでも変身ポーズを取らなかった」との反論も考えられますが、それなら旧1号が新1号になって戦うべきだっただろうし、せめて2号は変身ポーズを取るべきでしょう。
 また、いちいちマスクオフ、マスクオンを繰り返していたのがしつこく、閉口させられました。
 確かに石森章太郎が描いた漫画版『ライダー』では「醜い傷を隠すため」にマスクを被るという描写が明確にされていますが、テレビ版では判然としません。明示はされていませんが、マスクを被るのではなくあのマスクに「変身」するという解釈がされてるんじゃないでしょうか。
 そもそも、『仮面ライダー』の「オリジナル」と言った時、何を指すのかという問題もあります。というのは、ぼくとしてはテレビ版の最初の『仮面ライダー』こそがそれだと考えますが、石森章太郎版の漫画こそがそれだ、というのも考えとしてはあり得る。一応扱いとしては「原作」となっていますし。
 しかしこれ、一般的に「原作」といった時にイメージされるような、既にある漫画作品の映像化というのとは違い、メディアミックスとして同時進行していったものなのですね。
 そのどちらがオリジナルかとなると思いは人それぞれでしょうが、やはり一般的にはテレビ版こそがそれでしょうし、逆に庵野が石森版の大ファンで敢えてそちらを重視したのであればそれはそれでいいのですが、ぼくはそうではなく、(まあ、感覚的なものですが)半可通が「原作」の名を冠する石森版をオリジナルとしてリスペクトして見せたような、そんな印象を持ちました。
 それはところどころでテレビ版、漫画版、果ては『ライスピ』での名台詞を引っ張ってきている点にも窺われ、ちょっととっちらかったと言うか、ひとまず全方位に媚びて見せたような、そんな印象を受けました。
 オリジナル音楽の使用もそうで、ことにエンディングは「おじさんとかおばさんの名前、いっぱい出さなきゃいけないから、取り敢えず何か曲かけときました」という声が聞こえてくるかのよう。
 総じてあまり繊細さを感じなかったのですね。

 今回、ライダーと怪人(じゃねーな、オーグ?)のバトルを観ていて、『ジャスピオン』の最終決戦を思い出しました。敵の幹部マッドギャランとジャスピオンの一騎打ちという大変に盛り上がるシーンなのですが、そこでマッドギャランは「俺たちの野望を……!!」と饒舌にしゃべるのに、ジャスピオンは終始無言なのです。
 この時点でもう、作り手がジャスピオン側に興味を失っていることがわかります。そして丁度、今回の初期の戦闘シーンもそうした感じでした。まあ、問題は怪人側は実に饒舌にしゃべるものの、その内容が「薄っぺらな悪者っぽいもの」でしかなかったことですが……。
 そう、今回の本郷猛、冒頭ではめそめそ「人を傷つけるのが辛い、戦うのが怖い」とか言っているのですが、それも形ばかりで、ほとんど主人公としての内面が描かれません。一体全体どういうわけかラスボスを倒した後で、急に過去話が入るんですが、それでは取ってつけたとしか……。
 その意味で、今回はどうも主役がぱっとしません。2号もそうで戦場に現れた時の顔が妙にぽーっとしていて、何か笑っちゃいました。
 ことに2号はイケメンである必要はないのですが、1号共々、声が通らないのは致命的だったかと。何しろ本作は『シン・シルバー仮面』と呼びたいくらいに暗いシーンが多く、正直何やってるのかわかりませんでしたから。

・『シン・セーラームーン』

 オタク史の、(自明すぎるほどに自明なことなのですが、ぼく以外に言及する者がいないので、今となっては忘れられている)一面をご説明してから、今回のまとめにしましょう。
 80年代の後半、オタク文化は市場性を獲得し始めました。
 オタク少年たちが漫画などで表現していた「戦闘美少女」が、例えば「オリジナルビデオアニメ」などといったマニア向けのメディアでアニメ化されました。『イクサー1』とか『ドリームハンター麗夢』とか、今で言う萌え系の美少女が剣を手に悪と戦うアニメですね。
 これは「女の時代」にあって自分自身を男性という形で表現できなかった男の子たちが描き出した、自らの理想の姿と言えました。
 しかし、90年代となるやそれは『セーラームーン』といった形で換骨奪胎され、「何か、女性の始めた表現」みたいな文脈で称揚され始めました。
 しかしめげずに男の子たちは例えばですが恋愛ゲームなどで、優れた表現を更に拡げていきました。シミュレーション、ないしアドベンチャーなどの美少女恋愛ゲームはプレイヤー主観で美少女がこちらに語りかけてくる、それを多くはプレイヤーの代替者である主人公のモノローグがテキストとして表示されるといった形(つまりは一人称の小説的なスタイル)を取ることで、否が応でも男の子の「主体」というものを書き出す表現となりました。
 オタク文化は男の子にも情緒があり、感受性があるのだという大いなる宣言としてこの世に現れ、シンジ君の心性を描く『エヴァ』はその代表とも言えました。
 が――。
『シン』シリーズはそれを否定し、「男とはココロというものを持たぬ、ただの女性様に使役されるロボットであります」との宣言として、この世に立ち現れました。
 ホモソーシャルで、そもそもドラマ性の希薄な『シン・ゴジラ』はまたちょっと別ですが、『シン・エヴァ』も『シン・ウルトラ』も、そして『シン・仮面ライダー』もそうした価値観を透徹して、この世に登場してきました。
 そう、それらは全て、『シン・セーラームーン』だったのです。
 いえ……以前使った比喩で言えば、『シン・トリプルファイター』だったと言うべきでしょうか
 ――と、以上、結論だけ書きましたが、もう少し詳しく説明するとなると、少々のネタバレが必要になってきます。
 以下はネタバレしつつ、少々詳しく見ていきますので、興味のある方は下をクリックしてください。

『シン・トリプルファイター』


『シン・ウルトラマン』ネタバレなし感想

2022-06-19 19:59:09 | アニメ・コミック・ゲーム

 

「あ、わたくし、悪の組織ブラック団の幹部を務めさせていただいております、山田と申します」
「あ、これはこれはご丁寧に。わたし、ダジャレンジャーの隊長をやらせていただいておりますダジャレッドです」


 ――以上、三十年ほど前の『サンデー』で読んだ漫画『ダジャレンジャー』についてうろ覚えの記憶で再現させていただきました。
悪の組織が丁寧に名刺を出してきて、また正義の戦隊も背広で中年太りのおっさんが務めている。必殺技のバズーカもおっさんが五人で抱えて発射。
 まあ、そういう大変に面白い漫画です。
 後書きかなんかで作者の「この漫画でニヤリと来た方、お手紙ください」といったコメントが書かれていたのですが、どうも代原と思しく、恐らくこれ以降、この漫画家さんの作が掲載されることはなかったと思います。
 一読してのぼくの感想は、「うわ、まだやっちゃってるよ、この人」といったもの。
 80年代は大手漫画雑誌で、オタクな漫画家がオタクの読者に届くよう、密かに暗号のようにオタクネタを紛れ込ませていました。ところが上の漫画はもう、オタクネタもかなり広範囲に渡って浸透していた頃。後書きでのメッセージ含め、「ものすごい時代遅れだなあ」というのが読後感でした。

 さて、ぼくが『シン・ウルトラマン』の予告で「メフィラスの名刺」を見た時、真っ先に思い出したのが上の漫画です。
 ツイッターでも「どうにも80年代のセンスだ」と書きましたが、同時に「特撮愛のないヤツがドヤ顔でやりそう」感もあります。
 ぼくの好きな特撮同人作家さんが、

樋口さん庵野さん辺りが手がけるウルトラマンだともう見る前に「スプーン掲げて変身する中途半端なパロディとかドヤ顔でやりだしたらどうしよう」みたいな余計な心配する必要なくていいよな。そういう心配しちゃうんだよ我々ウルトラファンは。


 と言っていたのですが、「いや、そのまさかをやっちゃったんじゃ……」というのがぼくの感想でした。
「禍威獣」とかやっちゃうセンスもそんな感じ。居酒屋のシーンも、実相寺っぽいって感じでもないし。割り勘とかまさか、あそこで笑わせようとか、してないよなあ……?

 ――いや、結論から書くと本作、よくできてたし鑑賞後の満足度は大変に高いものでした。基本、「よかった!」と思っているので、こういう構成は批判を読みたい人からも感動を共有したい人からも誉められなさそうですが……まあ、以降は「基本よかったけど、それでも感じた不満」について述べていこうかと思います。
 ちなみに、ネタバレ部分は基本、固有名詞をぼかすことで対処しています。
 また、今回「女災」とは基本、関係ありませんが、「狙われない女」の項だけはちょっと、その辺にかすっています。
 以降、そういうことでよろしくお願いします。

 あ、それと『Daily WiLL Online』様で海外でのLGBT教育事情についての記事も書いております。
 こちらもよろしく。

・『シン・ウルトラマン』は怪獣の世界ではない


 満足感は大変に大きい本作ですが、一言で言うと本作、『ウルトラマン』マイナス「怪獣」といった感じです。
 まず冒頭では禍特対(このネーミングもなあ……)設立前史のような感じで、『ウルトラQ』の怪獣が地球を(否、日本を)襲ったことが語られます(何でゴーガだけあんな名前になったんだろう?)。
 映画上のリアルタイムで登場する怪獣が立て続けに四足獣というのも、何だか『Q』の世界観を引き継いでいるようでわくわくさせられます。公式設定でどうなっているかは知りませんが、『マン』の世界観は『Q』と同一線上にあり、怪獣事件の頻発が科特隊設立のきっかけとなった――というファンの中で語られることの多い設定を、今回採用した形です。『マン』のアイツが脚本段階では『Q』のアイツの再登場として書かれていたという裏事情も拾っていますし。
 レッドキングやゴモラなどの定番怪獣が出ないのは寂しいものの、近年、格闘のさせづらい四足獣は忌避される傾向にあるので、それを出してくれたのは嬉しい。
 しかし「怪獣が自然由来じゃない」って線は止めてくれよ……と思っていたら、見事にそれ。
 この辺から微妙な違和感が頭をもたげ、そしてその違和感はだんだんと大きなものになっていくことになります。
 ダメ押しは○○○○が、「何か、ヘンなメカ」として登場したこと。
 これ、仮にロボット怪獣でもいいから怪獣として出していれば、一応は「怪獣もの」としての体裁を取れるのに、何でこうなったのか。怪獣にしちゃいかん理由はないはずで、本当に理解に苦しみます。

・日本は狙われている、今……


 本作の本番(本当に映画としての本番)は今回、びんぼっちゃまクン的な新解釈のなされたアイツが出てきてからです。
 地球に「外星人」が介入することで起こる悲劇が本作のテーマであり、移民やコロナ問題に通ずる今日日的なテーマが選ばれているわけなのですが、そうなるともうこれ、『マン』じゃなくて『セブン』ですよね。
『マン』は本来、「怪獣の世界」でした。毎回変わった怪獣が登場することこそがメインのコンテンツであり、ウルトラマンは事態を収束させるための「最強の怪獣」でした。
 しかし『セブン』はまず、恒星間の侵略戦争に巻き込まれた地球を舞台にした、宇宙とメカがテーマとなった作品、怪獣はオマケと言ってしまうと極端ですが、その重要度は低くなっていたことは事実です。
 この恒星間戦争という着想自体、アイツの言ってたことといっしょだし、まさにアイツがずっと人間体でいたことが象徴するように、本作は『セブン』寄りだったと言えます。
 まあ、好意的に解釈するならば『Q』から『セブン』までを一気に消化した、「シン・ウルトラ第一期」とも呼ぶべき映画だった、とも言えるのですが……。
 棘だか何だかで、「もし『シン・ウルトラマン』が3クールのテレビシリーズだったら」みたいな大喜利をやっていましたが、むしろ制作者こそそういう感じで本作を作っていたのでしょう。恐らく初期クールの感じを冒頭の四足獣戦で象徴させており、それはいいのだけれど、結局、お話としては「対外星人」となってしまった。これは30分のアンソロジーシリーズである原作を映画でやってしまったがための、止むナシの処置という面もありましょうが。

・小ネタへの愛をこめて


 他にも細かいことを言えばまず最初にウルトラマンが出てきた時、体色は銀一色。次に赤いラインの入った状態で出てくる。ところがエネルギーが足りなくなるとグリーンになる。
 何だそりゃという感じですが、特に意味はありません。
 じゃあ、普通にカラータイマーをつけてもよかったんじゃないかなあ。
(ただ、昭和二期に雑誌記事でウルトラの星の平民の体色はグリーンだったという記事が載ったことがあるらしく、その辺を拾ってきたのでしょうが)
 最初に出た時の顔はAタイプと思しく、ウルトラマン自体のスタイルの変遷によほど深い意味があるのかと思いきや、別にそんなことはなかったぜ。
 後、一番わからないのはウルトラマン、終始無言なんですね。
 あの「シュワ」という声を一回も発さなかった。
 この映画、BGMは言うに及ばず、SEなどがあちこちで今風のガジェットに転用されています。
 細かくネタを拾ってくれるのは嬉しいのですが、例えば流星マーク通信機の呼び出し音を着信音(だっけ、うろ覚えですが)に転用するなど「今風に再解釈しましたよ~」と言いたげで、例の名刺ほどではなくとも、少々鼻につく気もしました。
 そこを、ある意味では一番肝心とも思えるウルトラマンの声を出さなかったことに理由がないはずがありませんが、それがわかりません。こここそオリジナルを尊重して、中曽根雅夫氏の声を使うべきではなかったでしょうか。
 そこまで丁寧に作られているくせにあの手のひらの変身シークエンスはただ、奇をてらっただけという感じで今一。
 後、正直CGもよくできてるけどスペシウムのシーンは今一で、きぐるみで表現してもよかったんじゃないかなあと。

・狙われない女


 ただ、例の名刺のアイツ以降はお話としてはよくできていたと思うし、いずれにせよこれら要素が全て、「ウルトラマンが地球人を好きになる」というテーマへと集約していくところは感動です。
 プロットもあの最終回へと収束させるため、帰納的に考えられたのでしょう。
 ○○○○が悪(否、人類を裁く超越者)なんてのはもう、三十年遅れのネタなんですが、これは恐らく「○○○○が○○○○を操る」とのウルトラ第一期書籍の誤記を拾ってきたものでしょう。
 しかし同時に思ったのは、あまりに神永が無感情で、今一話に没頭しにくい。元の『ウルトラマン』はそもそもドラマ性(情感に訴える部分)は希薄な上、むしろ「科特隊そのもの」が主役と言え、一つの人格を形成していたため、観ていて感情移入ができたのですが、先にも述べた「テレビシリーズ的なことを映画でやった」ことの弊害として、その辺りがあったように思います。
 当初はあった神永と浅見のキスシーンがカットされたとも伝えられていますが、何にせよ浅見が神永を平手打ちするシーンなど、「そもそも、(裏切られたと感じる前提としての)そこまで信頼関係を築くほどの描写なかったんじゃ?」との印象を持ちました。
 お話としてはウルトラマンの神永、或いは地球人全体への好意こそがテーマと言うべきであり、その辺りは少々、描かれ方が雑という感じなんですね。
 本作、アフターフェミ作品だけあって、浅見が神永に突っかかり、もう一人「何か、イバってるおばさん」が(いなくていいのに)存在しているという、「アフターフェミ世界のルール」に則った構造を有しています。そこは見ていて正直、あまりいい気持ちはしませんでした。
 しかし全体で見ればこれは要するにウルトラマンが神永という人間を好きになる話であって、浅見は考えようによっては当て馬と言えなくもなく、そうした一流の「バディもの」に女を形だけ、ルールに則って出してみました、という辺りに痛快さを感じなくもありませんでした。

 ――とまあ、ごく簡単な感想を……と思っていましたが、それなりの文字数になりました。ぼくが指摘した「拾ってきた云々」にニヤリと来た方、コメントください