AKB48の旅

AKB48の旅

GQ JAPAN 2013年2月号

2013年01月10日 | AKB
秋元康氏と宇野常寛氏の対談が載ってると聞き及んで、さっそく入手。読んでみてワロタ。

秋元康氏(突然だけど今日から敬称付け)については、可能な範囲で観察して来ていて、それなりに掴めて来てるつもりだったし、一方の宇野氏は、その言動から見て、私とかなり近いスタンスとお見受けしてたんで、その二人が対談するとどうなるかと思ったら・・・あはは、嬉し恥ずかしとでも言うか、別に身贔屓目線でもないだろう、本ブログのままやん。どうやら、的外れの間違ったことは書いて来なかった、そんな自己確認になったかな。

もちろん違いはあるわけで、それは十人十色の当たり前なんだけど、その微妙な違い方が面白いな。宇野さんはマジスか新規ということで、私よりも2年近く先輩ということに。推しメンがR→横山さんという辺りでニュアンスの差が付く感じかも。

秋元氏の「AKBってウイルス性なんだよね」という指摘には、ちょっと違和感。気が付いてみたら、AKBという圧倒的な存在に既にして包囲されていた、そんな感じに近いわけだし、しかも、それに気づくかどうかは人それぞれだろうし。究極のミクロの存在とも言えるウイルスの比喩の真反対のような感じがするんだけど、そこが個々人の受け止め方の違い、あるいは当事者と一ファンの違いみたいなもんなのかも。

やはり秋元氏の「アジアは全部行く」の背景が知りたいな。これがアジアの歴史を踏まえての発言なのか。とりわけ先人が、それこそファーストラビットのごとくアジアへと立ち向かい、そして朽ち果てて行ったこと。朽ち果てて歴史の彼方に埋もれたかに見えて、実は「未来への種」、現在のアジアの礎になったこと。AKBが今、正に、その屍を超えて行こうとしていることに自覚的なのかどうか。

「AKBも本能だけでやってきた」ということで、だからこそAKBは極めて日本的なんだろうと再確認。しかもそれが戦後の平和教育日本、団塊日本じゃない、先祖返りするかのような、戦前の価値観に親和的な存在になってるのが、たぶん無意識としての秋元氏ということなんだろう。

「秋葉原の地下アイドルの、落ちこぼれ集団でも、頑張ったら結果が出せたんだ。だったら優秀で頭のいい人達はもっと結果を出せるはず。そこがAKBのポイント」という表現には、正直危うさを感じた。ここが分水嶺というか、戦後日本が侵した最大の誤りだと思うんで、そこをAKBが覆したかに見える、けれどもそうではないんだよというのを、まくし立てたい誘惑に駆られる。

ちょっとだけAKBから離れてしまうけど、勝手なことを書いてしまおう。戦前から変わらず、日本は50%の秀才と50%の凡才で構成されている国で、実はこんな国は世界のどこにもない。ほとんどの国は1%の天才と99%の馬鹿で構成されている。誇張が過ぎるということであれば、もう少し現実的に、1%の天才と9%の秀才と90%の馬鹿でもいいや。だから世界の常識は、優秀な一握りが、大半の馬鹿を指導と言えば聞こえが良いけど、要するに巧く騙してやりくりするというものだった。

日本は違った。底辺も含めた「現場」にいる凡才達が、一所懸命に働きあるいは遊び、これが下支えとなることで、秀才達が仕切る「お上」が面目を保つことができ、その失態すら糊塗してくれていた。逆に「お上」があれこれ命令するようになると、だいたいはダメダメになる。その典型が現状の日本であり、大日本帝国陸海軍だった。

話をAKBに戻す。だから、AKBのような存在様式が結果を出すというのは、日本的には平常運転なんであって、ならばこそ「優秀な人がもっと結果を出す」にはつながらない。むしろ逆で、「優秀な人」にはそんなことができないのであって、そこを勘違いすると、現状の日本のようなていたらくになってしまう、というか、そんな勘違いが直らないから、日本の地盤沈下は続く。AKBムーブメントは、だから日本の正常化のお手本と言って良いんじゃないか。

あとは宇野さんの「秋元康がひとりしかいないことです。」に対する秋元氏の応答が微妙かな。本ブログ的には、秋元氏は既に手を打ってると見なしてるんだけど、ここは外れなのか、それとも単に結果が出るまでしらを切るつもりということなのか。どっちなのかは楽しみに待つしかないか。

最後は「コラム」部分の宇野さんの記述。「秋元康は「運命」というものを信じてる」と書いてるけど、その「運命」こそがもっとも残酷なんだというのが、私の考えなんだけど、ここは明確に、宇野さんと意見を異にすることになるな。